連載小説
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前編

 鏡を見てみると酷い顔が映った、隈に縁取られた目元、青白い顔色、何より酷いのはどろりとした生気のない目。
これは本当に自分の顔なのかと思わず触れて確認する、鏡の中の自分も顔に触れる。
そう言えばこうして鏡を見る事自体がかなり久しぶりだという事を思い出す、正確には鏡を眺める暇すら殆ど無かった。
水戸部拓馬(みとべ たくま)が田舎から上京してからの日々は仕事に塗り潰されていた。
明らかにキャパシティオーバーの激務、サービス残業に次ぐサービス残業、休日出勤に次ぐ休日出勤。
入社した当初はこれが社会の厳しさかと受け止めて必死に働いていたが、流石にこれはおかしいと思って調べてみるとどうやら自分の所属する会社はいわゆる「ブラック」というやつらしい。
しかしながら気付いたところで容易く辞める訳にもいかず早二年、拓馬は限界だった。
近頃は食欲も落ち始めていた、全力疾走をした直後に胃が食べ物を受け付けないように常に疲労感が腹に溜まっているような感覚がして食べる気が起きないのだ。
しかし何も食べない訳にもいかないので仕事の片手間に取る栄養ドリンクやゼリー飲料、カロリーバーなどが最近のもっぱらの主食になっている。
睡眠もあまり取れていない、横になっても疲労感で目が冴えてしまい、寝付けない。
しかし寝ない訳にはいかないので睡眠薬に頼って僅かばかりの仮眠を取っているという状態だ。
「あー……駄目だなぁ……しっかりしないと」
少しでも自分に発破をかけようと鏡に向けて笑みを作って見せるが、口元がひきつっただけだった、愛想笑い以外の笑い方も忘れてしまったようだ。
溜息をつき、鏡から目を離す。
六畳一間の自分の部屋はあまり生活感が無くがらん、としている。
会社で寝泊まりする事が多く、たまの休日も寝てばかりなので本当に寝るだけの場所になってしまっている。
そして今はその貴重なたまの休みだ、最も大半は会社から持ち帰った仕事を整理するのに使ってしまったのでもう夕方だが。
そしていつ会社から呼び出されるか分からないので気は抜けない。
(……体を休める以外の事もしないとなぁ……しかし……しんどい……何もする気が起きないや)
そう考えてベッドにばったりと体を沈める。
眠気はこない、走り回った後のようにぜえぜえと息苦しさを感じる、しかし少しでも体を休めなければならない、次はいつ休日があるかわからないのだ。
いや、今日中にまた呼び出される可能性だって高いのだ、少しでも……。
ヴーッ ヴーッ ヴーッ
一番聞きたくない音が聞こえた、携帯の振動音だ、胃のあたりがぎゅうっと縮む感覚を覚える。しかし出ない訳にはいかない、ここで無視なんてしたら次の日に何を言われるかわかったものではないのだから。
拓馬は携帯を手に取り、耳に当てた。
「はい、もしもし」
「おぅ、拓馬かぁ?」
上司の声を予想していたが、耳に届いたのは聞き覚えのある女性の声だった。一瞬きょとん、としてしまう。
「もしもしぃ?」
「あ……あー……ひょっとして辰っつぁん?」
「おぅ、おーれだよぉ、ひさかしらばってん、元気しとっとぉ?」
強烈な訛りは自分の田舎の方言だ、そしてその声は昔馴染みの女友達「辰(たつ)」の声に違いなかった。
「あー……久しぶりぃ……どんくらいぶりかなぁ」
「ははははっほんにぃなぁ、したっけどげんしたとぉ?元気なかと?」
「いやいやそんな事ないって……大丈夫大丈夫」
「そげんか?」
空元気を出して見せるがやはり声に力が無いせいか相手はいぶかしんでいる様子だ。
「ほんと大丈夫だって、心配しないで、親父とお袋は?元気?」
「あぁ、元気よぉ、しからけん、電話すんの照れ臭がっとぉとよぉ、そいで代わりにおれがしたとよ」
「ははは……何を照れ臭がる事があるんだか」
訛っている辰とは対照的に拓馬は標準語で話す。
これは両親があえて方言ではなく標準語の方が何かと都合がいいであろうと昔からそう教えてきたからだ。
「そげん、ほんに大丈夫?声に力がなかとよ?」
「いや、まぁ……うん……ちょっと、大変でね、やっぱりこっちの仕事は……」
愚痴はこぼすまいと思っていたのだが、つい、言葉を濁した。
「……」
その言葉に何かを感じたのか電話の向こうの辰は黙り込む。
「ちと待っときぃ、今からそっち行くけん」
「……え?へ?今からって」
思わず時計を見る、針は午後五時を指している。自分の実家からここまでは車を飛ばしてもほぼ半日はかかる。
「いやいやいや、今からって着くのいつになると思ってんの、ほんとに心配ないから……」
「(ツー、ツー、ツー)」
慌てて言ったが、既に電話は切れていた。かけ直してももう相手は出なかった。
「……本当に来ないよな?」
拓馬は首を傾げて呟いた。
とりあえずおろおろしていても仕方がないので、拓馬はまたベッドに寝転がって睡眠を取ろうとした。
それからものの一時間も経たないうちにドアのインターホンが鳴った時にはまさかと思った。
(……新聞の勧誘か何かだよな?)
そう思いながらドアを開けた拓馬は本当に顎が外れそうに驚いた、そこに辰が立っていたからだ。
「おぅ」
「……え、えぇ?、うそ、どうやって?っていうか、ええ?辰っつぁん?」
しかしながら驚いたのはその速さにだけでは無い、二年振りに会う幼馴染の変貌ぶりにもまた驚かされた。
拓馬の記憶の中の辰は黒髪の短髪で日に焼けていて体の起伏も殆ど男と変わらない少年のような女性だった。
しかし今目の前に立つ幼馴染は二年でこれほどまでに、というほどに成長していた。というか、色々と育っていた。
少年のようだった顔立ちはその面影を残しながらもぎょっとするほどの美貌に変貌し、背中まで伸びた艶のある黒髪は後ろで結わえられて垂れさがっている。
棒のようだった胴体や手足にはむちむちと女らしい肉がたっぷりと乗っており、特に胸回りは特盛りといった様相で薄い上着をぱつぱつに張り詰めさせている。
唯一日によく焼けた肌の色は当時と同じだ。
事態に頭が追いつかずに唖然としている拓馬を美しく成長した辰は真剣な眼差しでじっと見つめている。
「ちょお動かんときね」
そう言うと拓馬に近付き、頬に触れ、肩、腕、胴体にぽんぽんと触れていく、いい匂いがする。
「ご飯食べとう?ちゃんと」
暫くそうして拓馬の全身に触れた辰は酷く深刻な面持ちでそう聞いてきた、拓馬は目を逸らす。ここに来た当初に比べてかなり体重は落ちている。
「こっち見ぃ」
そう言って辰は両手で拓馬の頬を固定し、自分に顔を向けさせる。そうしてじっと拓馬の顔を見ていた辰は不意に泣きそうに顔を歪めた。
「どげんしてこないに……あほぉ……」
「た、辰っつぁん」
ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ
何かを言おうとした拓馬の言葉を遮るようにして携帯の振動音が鳴り響いた。拓馬は慌てて辰から離れて携帯に出る。
「あ、はい、もしもし……」
「おい、今、いけるか」
前置きも無しに唐突に言われる台詞、上司の声だ。この声が携帯から聞こえたら許された答えは一つしかない。
「はい、大丈夫です」
「すぐに飛んで来い、寄り道するなよ」
それだけを言ってぶつりと携帯は切れた、これで休日の残りは潰れる事が確定になった。
「ごめん、辰っつぁん、折角来てくれた所だけど、これから仕事が……」
「今日、休みやなかと?」
「そうだったんだけどその……」
「おれも行く」
「え?」
「そん会社連れていけ」
「い、いや、行ってどうするの」
「辞めさす」
「えぇ?」









拓馬はぼんやりと車外を流れる風景を眺めていた。風景と言っても時刻は深夜で時折すれ違う車のライト以外はほぼ真っ暗だ。
夜行バスなので今の内に寝ておこうかと思ったがいつもと違う環境なせいか目が冴えてしまう。
あの幼馴染が家を訪れた日から二週間が経過し、拓馬は会社を辞めていた。
言われた時には絶対に無理だと思った。基本的に真面目な拓馬は会社にとって(都合よく)重宝される存在だったので今までも辞めたいと思っても何だかんだ理由を付けられて辞めさせてもらえなかったのだ。時には恫喝めいた事まで言われる始末だった。
そんな会社を辞めさせるといって辰が何をしたかと言うと何の事はない、ただ自分と一緒に会社に行って「この人を辞めさせてあげて下さい」と頭を下げただけだ。
しかしその時見た上司の顔が拓馬は忘れられない。
顔を上げて辰が目を合わせると何か恐ろしい物でも見たかのように見る見る顔色が真っ青になり、震えながら「わかった」とだけ言ったのだ。
それから話は早かった。仕事の引き継ぎや挨拶を早々に済ませるともう会社に顔を見せなくてもいいとまで言われた、まるでもう関わり合いになりたくないと言わんばかりだ。
どう考えても辰の訪問が原因なのだがそれが何故だかわからない。
拓馬は考えを切り上げるとシートを倒して横になる。
わからない事を考えてもしょうがない、寝れなくとも身体を休めていようと考えた。朝には実家に着くはずだ。
職を失った拓馬は辰のすすめで一旦実家に身を移す事になった。
就職してからずっと仕事漬けの日々だったので次の仕事を捜し出す前に少し休暇を挟んだ方がいいだろうという提案だった。
使う間もなかったので所持金には余裕があるし、何より実際心身共に疲労してもいたのでその言葉に甘える事にした。
(……実家、久しぶりだな……すごく懐かしい気がする)
思い出すのは潮風の匂い、目に眩しい緑、ひび割れた道路のアスファルト、辿り着くのに自転車で30分掛るコンビニ……個人でやってる他では聞いた事もないような店名の。
要するに海辺のど田舎だ。
学生時代はそんな地元に嫌気がさしていたのだが、都会に疲れた今となってはそれらの思い出がひどく恋しく感じられる。
そうして昔の思い出に浸っているうちに拓馬はいつしか浅い眠りに落ちて行った。









「ひぃぃ、き、きつい」
拓馬は道路脇の歩道の上で喘いだ。
一歩、アスファルトを踏み締める度に足腰がぎしぎしと悲鳴を上げるようだ。
アパートから持ってきた荷物はそれ程の重量はなく、季節も厳寒の季節からようやく春めいてきた頃だから気温も丁度いい。
少し歩いて地元に帰ったという実感を味わうのも悪くないという考えで停留所から家までは徒歩で行こうなどと考えたのが運のつき。
長年の会社勤めで予想外に鈍っていた身体は早々にスタミナ切れを起こし、重くはない筈のリュックの荷物も鉛のように感じられる始末だ。
いっそ途中でタクシーでも呼び止めようかと思ったがそこは流石のど田舎、古びてひび割れた山中の道路にはタクシーどころか普通の乗用車一つも見掛けない。
(あー、でもやっぱり帰って来たって感じするなぁ)
汗を拭いながら見上げてみると道路をトンネルのように覆う青々とした樹木、風が運んで来るのは潮の匂い。
小学校の頃などはこの坂道を自転車で危険な速度を出して走り抜けたりしたものだった。
その道を今こうして大きくなった自分が汗だくになりながら歩いているのだと思うと何やら感慨深い。
「お〜ぅい」
と、坂の上から間延びした声が届く。
見上げてみると辰が手を振っていた、迎えに来てくれたらしい。
既視感を感じる、その呼び掛け方も手を振る仕草も笑顔もやっぱりあの時と変わらない。
ただし昔はあんなに髪は長くなかったし笑顔もどきっとするほど魅力的じゃなかったしあんなに歩くたんびにぼいんぼいん揺れなかった。
(……ブラ、付けてないんだろうか)
坂道を歩くだけで上下するその部位に目を奪われながら思う。
「ははっ、なんやぁバテてからにぃ、昔よりひょろぅなったとか?」
「あー、都会暮らしは身体が鈍ってなぁ」
「そうやろうなぁ、ま、今日から鍛え直したるけんねぇ?」
「お手柔らかに……」
辰は朗らかに笑うと手を伸ばしてぐい、と手の甲で拓馬の額の汗を拭った。
無造作に触れられて運動で激しくなっていた動悸が一層激しくなる、昔と全然変わらない接し方をしてくるのだがその昔とは違って今の辰は女性的すぎるのだ。
(……いかんいかん、邪な考えに走りそうになる、たっつぁんは昔と変わらないだけだっての……に……?)
「……」
辰はにこにこ笑いながら拓馬の髪をすき、首周りの汗まで手ですりすりと拭っていく、……よく覚えてはいないが、昔はこんな風にスキンシップしただろうか。
それに何だか笑顔の質も違うような……。
「おかえり、たくちゃん」
拭った汗を短いジーンズに擦りつけながら辰は屈託のない笑顔で言う、その表情に先程感じた妖しい感じは微塵も無い。
(……気のせいか、意識しすぎだな俺)
「ただいま、たっつぁん」
二人は昔の呼び方で呼び合った。
辰は嬉しそうに拓馬の手を引いて行く、拓馬は笑いながらそれに引っ張られて歩く。
子供の頃の二人のように。
13/04/05 00:32更新 / 雑兵
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■作者メッセージ
同時進行が平常になりつつある……イカン

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