読切小説
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ナイトメア・ナイトホークス
 深夜三時のテレビが言っていた。
 日本は夜更かし大国です。
 危機感がありません。

「あ、あのぉ……眠らないんですか?」

 彼はその日も深夜にテレビをつけっぱなして、机に向かっていた。
 気分転換にラジオではなくテレビを付けたのに、いつの間にかに見るのをやめてしまっていた。この日は放送局の設備点検の日なのか、早々に画面は環境映像に変っていたが、彼はそれにも気付かずにいた。誰も見ていないテレビはただスピーカーから、寂し気なシンガーソングライターの歌を彼の耳に送っていた。その歌詞は、隣人にも想いを届けられないもどかしさを詠っているようであったが、彼の脳や心にも届く事はなかったようである。

 そんな音声の中に、可愛いらしい声が、さっきからたまに混じっていた。
「ねぇ、眠りましょうよぉ?」
 そこで初めて、彼はその声に気付いた。
 妙なことを言う、と思った。
 またこのテレビは言うのだろうか。眠る? 眠れ? とんだ自己否定だ。新手の自虐趣味なのか。さすが深夜番組だ、問題ない、のか。
 と、彼は壁の時計を見た。
 二時を過ぎたくらい。
 またあの可愛らしい声が、聞こえて来た。
「眠く、ないんですかぁ?」
 いい加減……。
「眠いよ、でもこれが終わらせないと……」
 思わず声に振り返っていた。スピーカーを通した音にしてはあまりにも生っぽい声だったから、つい……だったのだが。
 本当にそこに声の主がいるとは思わなかった。
 確認しよう。テレビの画面の中にではなく、彼自身のベッドの上にだ。
「きみ、って、だれ?」
 すると彼女は答えた。
「貴男の、妻です」
 今にも泣き出しそうな声で、彼女は確かにそう言った。

「……え? はい?」
 聞き直していた。
 彼は、結婚した覚えなど無かった。
 そもそも、だ。
「そもそも、きみ、なに?」
「貴男の妻ですぅぅ」
「そうじゃなくて」
「貴男の奥さんン」
「いや、それを聞いているんじゃなくて」
「貴男は私の旦那様ぁ!」
「だぁー、聞けぇぇ!」
 きょんとん……ああ、と。
 ようやく彼女は、彼が何を問おうとしているのかに気付いた。
「私はナイトメア、ですよぉ?」
 なにを、いまさら?
 と言わんばかりに言う彼女だが、生憎と彼は人馬に知り合いなどいなかった。シェトランドポニーに、もじもじする女の上半身がのった、酷い言い方をすれば馬女が。そんな酷い言い方を容赦なく連想してしまう程、遠慮の必要がないくらいに面識が無い。
 しかし彼女は、彼と何の縁も所縁も無い筈なのに、何処から入ったのかと問うのが愚問に思えて躊躇う程に、ごくごく普通に、当たり前に、そんな顔をしてそこに居た。
 ベッドの上で器用に脚を折って、正座するように鎮座していた。
 挙げ句彼女は、自分は彼の妻だと言う。
 寝ぼけているのかと眼を擦っても、頬を抓っても、彼女は彼の視界から消え無い。
「悪夢だ……」
 まさにナイトメア。
 ポン、と手を打った。
「あ、夢か、これ……」
 彼は、夢オチにしようとした。
 でも残念ながら、机の上に突っ伏しても眠れなかった。
 彼女がとっても嬉しそうに寄って来て、彼の寝顔をまじまじと観察し始める。興奮して行く鼻息が、彼の頬に当たる。
「眠れるかーっ! きしょいわー!」
「ふぅえぇぇぇぇぇ?!」
 残念ながら、一分程度狸寝入りしたくらいでは、その悪夢は消えてはくれなかった。

「……あの、まだ眠らないんですか?」
「眠らないなぁ」
 言って彼は、振り返らずにちらりと、後ろのベッドを見た。
 ナイトメアは、まだそこにいた。
 ベッドの上で、もじもじと身じろぎしてシーツを、かさかさ、しゅっしゅ、と鳴らしていた。
「夢の中でいいことしましょうよぉ」
「いいことねぇ」
 彼は机の上から目を離さなかった。
 卓上のそれは、焼成すれば銀になる粘土だ。ざらっとした白が、灼けば蕩けるように真珠の様な白乳色の艶を帯びて銀色になる。それは解っているんだ、と、彼は何かを探すように、自分の胸ぐらを軽く掴んで掻き毟っていた。
 確かに作りたい気持ちはあるのに、そのカタチが見えて来なかった。
 幾ら照らしても、カタチが浮かび上がって来なかった。
 彼は悩んでいた。
 ナイトメアはそれが解るから、暫く静かにする。
 そしてそっと、蹄の音を立てないようにフローリングの床に降りると、台所の方へと歩いて行って、お湯を沸かし始めた。
 そうするうちにも彼は、終いには粘土ではなく、頭を捏ねだした。

 時計の短針が、三時を指した。
 ナイトメアは、また声を掛け始める。
「今日は大事な、大事な日なんですけどぉ」
 未だ彼は頭を捏ねていた。
「大事な、大事な、だぁーいじ、なっ! 本当に、ほんと、ほんと、ホント、ほンッとにぃぃっ!」
 さっきナイトメアがお湯を沸かせて入れたお茶が、机の上で飲まれる事無く湯気を出し切って冷えていた。
 自分の頭を捏ねるのに飽きた頃に、彼はようやく最低限の言葉を返して来た。
「……そうだっけ?」
「そうですよ、今日は結婚記念日、私と貴男の、大事な大事な一周年」
「妄想は自分の頭の中だけで」

 ぴしぃっ。

 ナイトメアの表情が、凍てついた。
 そして、すぐに雪解けをして、土砂崩れる。
「ふぅえぇぇぇ……そんなぁ……ひどぉいよぉ、私たちにとって、夢の中の事でも現実と変わらないのにぃ……そんなぁ、そんなぁぁ」
 手をぶんぶん、尻尾をぱたぱたと振りながら、泣きじゃくる。
「そんな、そんなぁ、はじめてのよるもぉ……あんなにあつく……あいし、あったのにぃ……けっこん、した、ときも、ウエディングドレスのまま私をベッドに放り込んでぇ、それを引き裂いて毟って私を裸にして、ああもぉこのケダモノがぁ、あーんなぁことや、こーんなことぉしてぇ、それからぁ、それからぁ……」
 次第に馬のような息づかいになっていくナイトメアを、彼は本当にそこに馬がいるのだと自分に言い聞かせていた。自分の部屋に馬がいるのもどうかと思うが、妄想に息を荒げていく馬女がいるよりは、馬の方がマシだ。
「お腹の子供もいるのに」
「えええっ?!」
 万が一である。万が一、と彼は思い出そうとした。男には往々にして身に覚えの無いことが起きるのである。意識が飛べば何をしでかすかわからない。それは否定すべき事項だが、悲しむべきかな、事実として固着するには彼は余りにも、いや男は、男の矜持と妄想で弁護するなら人は、だらしが無い物である。とにかくだ、えーっと……。
「想像妊娠だったけど」
「くぅおらぁ?!」
 彼が般若より恐ろしい形相になると、「ふぅえぇぇ…」とまた彼女は泣き出した。

 涙を拭くその手の薬指に、銀の指輪が通されていた。
 それが結婚指輪のつもりであるの事は解った。
 ナイトメアは泣きながら薬指を撫でて、その指輪の感触を確かめていた。その中に込められた想いを確かめているようだった。
 そう、あの指輪には想いが込められている。
 拙い指輪だった。
 それは彼の作品だった。
 彼は部屋の片隅に設置した、銀粘土用の電気炉を見た。
 大事な人に贈るつもりで、技術も無いのに一生懸命に作ったものだ。あの時の気持ちは忘れない。
 ただただ気持ちを伝えたくて、それをカタチにしたくて、そして格好を付けたくて、彼は銀粘土を焼く電気炉を貯金を叩いてまで買っていた。
 気持ちを外に出してカタチにする、そんな初めての切っ掛けを作ってくれたのが、彼女のしている指輪だった。
 今となっては不細工で、露店でもまるで売り物にならないそれだが、それはとても大事な作品で、それを彼女はタンポポの様な笑顔で受け取ってくれた。
 なんでこの馬女がしている?
 しかし不思議な事に、その時の大事な人というものが思い出せなかった。
 そしてその作品も無くしてしまった。彼はそう思っていた。
 よくよく思い出してみると、その指輪を無くしてしまった日は、妙な日だった。
 丁度一年前の今日で、翌日朝起きると、部屋がとんでもなく散らかっていた。引き千切られて細かくされた上等そうな白い布切れが、ベッドを中心に部屋中に散乱していた。
 そしてその時の自分はと言うと、呑んでもいないのに二日酔いのように頭痛に苛まれ、全てを吐き出してしまったような倦怠感で体が重かった。更にそんな体を重くしていたのが、ぐっしょり汗を吸ったパジャマだった。
 理解はできないが部屋の惨状は放置できず、焼き切れてしまったように脳細胞が深く考えたがらずのろのろと部屋を片付けて、それを無かった事にした、までの記憶だけはある。
 思い出す。布切れの中から、花飾りだったものを見つけて、何故か幸福感を感じていた。 
 今思えば、その花飾りはブーケかなにかで、あの上等そうな千切れた布切れは、元はウエディングドレスだったような気がする、ような……。
 そうしてその晩、自分はナニをした?
 それ引き千切って。白い肌を露にされた彼女はとても綺麗で、その白い肌を桃色にして、自分はそれを抱き締めて、思いの丈を爆ぜさせて、激しく、あつく……ナイトメアを。
 そして今、自分の目の前でナイトメアは泣きじゃくっていた。
 彼は土下座した。
「すみません、俺ケダモノでした」
 彼はようやく思い出したようであった。

 ナイトメアは上機嫌であった。
 お花畑のような表情を浮かべ、そこを根城にする雲雀のような鼻歌をきざんでいた。
 彼女からすれば、記憶喪失の夫が回復したようなものである。嬉しくないはずも無く。
 冷めたお茶は入れ直され、湯のみから熱い湯気を燻らせていた。
 ただ、当の夫はと言うと、そんな熱いものを飲み下さなくとも、すっかり顔を真っ赤にしていた。
 夢だと思っていた事が、突然頭の中から転げ落ちて、現実化してしまったような気分だった。特にあーんなことや、こーんなことを思い出した日には、顔から火も出る。

 夢だと思っていたが故に、素直に手加減無しに晒していた気持ちである。
 そしてその結果という訳でもあるのだが、ナイトメアが彼のベッドに腹を晒して横たわってこんな事を言って来る。
「あのぉ……いつものように激しく、私をむちゃくちゃにして、ほしいな……」
 そしてその言葉が実行された時の妄想を、脳内絶賛先行ロードショーし始める。可愛い顔に鼻血を垂らし、「結婚記念日なんだからぁ、その無茶苦茶度を三割増にしてぇ、なんなら三倍ぃ…」と熱い物欲しげな眼差しを向けられれば、自業自得とは言え、彼は頭の一ダースほども抱えたくもなる。
 そんな彼女の鼻血を吹いてやりながら、彼は言った。
「できれば、食事会とかで、今日は勘弁」
「もちろん、腕によりをかけた御馳走も用意してたのよぉ、貴男の頭の中にぃ」
 そう言って、ナイトメアは彼の頭を掴んで、ぶんぶんと揺さぶってみせる。
 それで腕を振るった料理が現実世界に零れて来る訳じゃああるまいに。
「貴男が眠ってくださればいいのよ」
「今ので、さっきより目が覚めたよ」
 結局、食事する為に二人は外に出た。

「ふうえぇぇぇぇぇ………」
 寒さで白くなった息を、まるで蒸気機関車みたいに盛大に吐きながら感嘆の声をあげて、ナイトメアは夜空を見上げていた。
 雪雲の切れ間から、明るい星の幾つかが零れるように瞬いていた。
「ああ、冬の夜空は一等星が多いからな」
 こんな街中でも、随分と華やかに見える。
 時間が時間なのでもう随分と西に傾いてしまったが。
 全天で一番明るい恒星の、おおいぬのシリウス。リゲルとベテルギウスのオリオンコンビ。アルデバランからおうしの背中を辿っていくと、プレアデスの七姉妹が未だお喋りを楽しんでいる。プロキオン、カペラ、カストルとポルックス……。古から多くの人に愛され、名を与えられた星たちよ。
「ナイトメアつて言うのに、夜空を珍しがるんだな。意外だ」
「私、昼の世界しか知らないんですよ」
 ナイトメアは言った。
「夜は私、人の夢の中でしょ、でも人の夢の中は昼なんですよ、いつも。暗く見えても、何処かに太陽がある。そうやって人は、自分の夢を照らしている」
 ナイトメアが、彼をじっと見ていた。
「……へぇ、そう、なんだ」
 彼の返事がどことなくぎこちない。
 何かから背けるようにする彼に、ナイトメアは笑いかける。
「貴男の太陽はとてもに明るいの。私はそれに惹かれて来たのよ。
 だから貴男は、大丈夫」
 彼が背けた先に回り込んで、微笑みかける。
 彼が顔を背ける度に回り込んで、励ます様に、耳をピコピコと振っていた。
 少なくとも彼には、そう見えた。
「俺の何が、大丈夫だって?」
 彼がそう訊ねても、ナイトメアは黙ったまま、ただじっと彼を見ていた。
 干したてのタオルのような、ふんわりとした笑みを浮かべて。
 まるで疑う事を知らない様子で、彼を見詰めていた。
「お前、良い奥さんになるよ」
 自然とそんな言葉が漏れ出た。
 その言葉に、彼女の鼻の穴が広がった。 
 腕に嬉しそうにしがみついて、頭を擦り付けた。
「おくさん〜、おっくさぁん〜、あたしぃは、いいおくさん〜ン」
 妙に陽気な歌を詠いだす。
 ぱかぽこと蹄が軽やかに音を立てる。
 夫の腕にしがみつきながらスキップするナイトメアに、重心を振り回されながらも、彼は不愉快ではなかった。
 黙って信じてくれる人がいるってのは、なんて心強いんだろうか。
 彼は彼女に振り回される 腕を引っぱられる感触が心地良かった。

 自動運転のリニアモーターカーが、走行軌道のリアクションプレートに降り積もる雪を溶かす為に、今夜は終夜運転のようで。まるで十分間隔の時報のように、それは音も無く頭上を過った。しゃらしゃらという音を、帚星の音を夢想させるような音を鳴らしていた。

 エドワード・ホッパーのナイトホークスのような世界。
 二人だけの世界を歩く様だった。

 交差点を渡りながら見上げた空に彼は言った。
「綺麗だ、まるで星が続いているようだ」
 ゆっくりと上って行く坂道。丘陵地帯のすり鉢の底から持ち上がる様に上って行く道。
 そこは坂道に交わる交差点で、その坂道が上って行く先を指差していた。
 街灯りから星空へと、それは続いていた。
 純色のLED信号機から始まり。青白い蛍光灯、オレンジ色のナトリュウム灯、所々に灯る白熱灯。ちりばめられる、カーテン越しに鮮やかになった温もりのある窓明かり。
 この町は丘陵に広がっていて、だからこんな静かな真夜中に、町の底から坂道沿いに上って行く丘を見ると、まるで空と続いている様にも見えた。
「ここに上って行けば、星になれるかもしれないな」
 彼は歩き出した。

 静かだった。
 空気が鳴る様な、ごぉぉぉ……という音ばかりが聞こえる。
 たまに来る自動車のタイヤの音がそれを引き裂いてゆくが、すぐにまたその音ばかりが聞こえるだけになる。
 ナイトメアが独り言つ。
「みんな、夢を見ないんですね……」
 誰かの夢に潜り込む。それがナイトメアの魔物としての力。
 しかし今はもう深夜だというのに、静かな夜なのに、潜り込めそうな夢が見当たらなかった。
 あるけれど、空っぽだった。
 誰もいないのだ。
 自分の夢を信じられなくなって、出て行ってしまっているようだった。
 だから夢の世界に戻りたがらない。信じられなくなった夢の残骸なんて、見たくもないのだ。
 だから自分の夢の世界から抜け出して、徘徊している。
 あるいは、眠るのを怖がって、街を彷徨っている。
 眠気と倦怠感を弄びながら食事をする光に満ちた二十四時間営業のファミレス。
 客も店員も見当たらないコンビニは、照らすべき人も居ないのに煌々と明るい。
 人の姿も確認しようともしない義務感だけで明かり、まるで愛想笑いの様な眩しさ。 
 そんな明かりに疲れたように、ファストフードの明かりを落としたシックな店内で、一人の男が少しぬるくなったコーヒーの紙コップを片手に、雑誌に目を落としていた。忘れているのか、それとも外のそんな明かりを見るのが嫌なのか、男は誌面から目を離そうとはせず、サンドイッチが忘れ去れられたようにずっと、二口齧ったままで置かれていた。
 また昼の様な人気に溢れればシックとも言えるその店内も、その賑やかさを失えばただ薄暗いだけに過ぎない。所々に見える派手な色使いが、力を失って行くものの残滓のようにも見えて疲労感すらも感じさせた。
 薄暗いファストフードの店内で、ただ明るいだけのファミレスで、それを受け入れる為にコンビニは空元気のようにやたらと明るい。
 そして、ある者は宛ても無い様子で道を歩いている。
 気がつくとナイトメアは、どこに行くかも判らずに彼について坂道を上っていた。
 瞬きが天へと延びて、星天へと繋がっているかのような坂道を。
 彼は本当に、星の世界に行きたいのだろうか。
「ほんとに、この先は良い所なんですか?」
 まるで星の空へと続く様な坂道。
 そして星が舞い降りた様な灯火の街。しかし。
 彼は歩く先を訊ねられて、暫し考えた。そして躊躇ってこう答えた。
「わからない」
 彼は頭を振った。
「でも、急き立てられる」
 道を挟んで並んだマンションやアパートがいつもより、こっちに迫り出して来ているような気がする。もうすっかり窓明かりも消されたそれが、認知できないうちに、そっと迫って寄せて圧し潰そうとしている様な気がする。
 それに急かされて、彼の脚が早くなる。
「待って!」
 ナイトメアは、置いて行かれそうになる。

 ナイトメアは、彼を追いかけていた。
 自分の白い肌が、黒くくすんで行く。
 彼女を照らしている彼の夢の中の太陽が離れて行く。
 そして、影が、歩いていた。
 自分の夢を残骸だと諦めた人たちが、そうだと思い込んでしまった人たちが、夢から抜け出して人影となって歩いていた。
 ナイトメアには見えた。
 彼もそうだ。

 早足に追いかけた。
 遠ざかるそれ、遮られていく陰るそれ。 
「だめ、よ……」
 ナイトメアは駆け出した。
 雪で何度か蹄をすべらせて、彼に駆け寄った。
「その人は私のぉ……なの。私の大事……な………、なの! だから連……な、で……!」
 まるで誰とも分からない誰かに手を引かれる様に足早に坂を上っていく彼を追いかける。
 その声が太陽からは離れる様に、夜の闇に呑み込まれた。
 それでもナイトメアはその闇から彼へと手を伸ばした。
「大丈夫、貴男は大丈夫だから」
 彼はそこで、再び自分が彼女の事を忘れている事に気付いた。
 背中に押し付けられた額が、ぐりぐりと動くのを感じて、彼女が頭を振っているのが解った。必死に何かを否定するかの様にそうしながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。
「大丈夫、大丈夫だから」
 どこかへ言ってしまおうとする彼を引き止めようと、袖を掴んだ小さな指には指輪があった。
 可愛らしい、けれど、それを台無しにする様な本当に不細工な銀の指輪が、彼の外套を手繰り寄せる手に嵌っていた。
「こんな不格好な指輪だ」
 彼はそれを、遠くへと投げ捨てていた。

 指輪も、そしてナイトメアも消えて、彼は一人だけになって、何にもかもを忘れてしまった様になってしまって、ぼんやり自分がどうしてここに居るのかさえ忘れてしまった様になってしまって、また彼は前へ前へと進んだ。
 白い息で、目の前が見えなくなる位にがむしゃらに、何もかも忘れて坂道を上った。
 自分の吐く息の音と、足音と、空気が鳴る様な、ごぉぉぉ……という夜によく聞こえる音ばかりが聞こえる。
 たまに来る自動車のタイヤの音がそれを引き裂いてゆくが、またすぐにその音ばかりが聞こえるだけになる。

 坂を上り切った。

「ああ」

 声を上げて真っ白い息を吐いた。

「ああ……」

 しかし星は相変わらずで、こんな所よりもっと高い所に輝いていた。
 坂道は、前にも後ろにも、もう下るしか無い。
 ただそれだけだった。
 息を、また吐いた。
「ああ、やっぱり、何も無いや」

 その頭の上を、無人運転の新交通リニアがまた、音も無く流れて行った。
 星空は、もっと遠い。

 気がつくと、彼は一人だった。
 本当に、彼以外、何も無かった。

 自分が何でこんな所に立っているのか、彼には分からなかった。
 なんでこんな夜の道を歩いているのか、なんで家を出たのかも、覚えていなかった。

 彼はまた、前へと歩き始めた。後ろに戻る事など怖くて出来なかった。例えこの先が下り坂で天に届かないのだと分かっていても、その落ちた先に何があるのかも分かっていないくても、彼は前へと進んだ。

 地上の闇へと沈み込んで行くような、
 その感じる筈の無い感触に身震いした。
 優しくて柔らかくて、いつも温かい。
 こんな筈ではないんだ、こんな……。
 何かの断片に触れて、それを思い出そうと必至にもがいた。
 でも、地の底へと沈んでいきながら星空へと伸ばした手は、冷たいままだった。

「ああ……」
 彼は道の先を見て嘆息した。

 彼の目の前には星の海がある。
 きらびやかな、無数の輝きが、静かに静かに、確かに輝いている場所がある。

 真っ黒な丘の向こうに、県庁所在地の街の明かりがある。
 何百万もの人の暮らしを支える、こんな深夜でも輝き続ける瞬きが。
 そのすぐ上の東の空には、遅くに上って来た夏の天の川……銀河の中核部分の、星が集まるきらびやかな大きな渦の中心がある。

 彼の道は緩やかに曲がっていてどこかに続いている。たけど、だから、もしかしたら、あの、地上と空の区別なく広がる、静かな、しかし輝きの集まる星の海に行けるのかもしれない。この道はまた何処かで真っすぐになって、そこへ続いているのかもしれない。
 自分の欲しい物がそこにあるのかもしれない。
 あの数えきれない輝きの中に、あの輝きの、あの太陽の一つになれるかもしれない。

 彼は目を伏せる様に俯いた。

 でも、それでどうする。

 どうなるのだ。

 わからない。

 何で自分は、こんな所に居たんだろう。

 真っ白な息を吐いた。

「帰ろう……」

 何処に帰るのかさえ、分からなくなっていた。
 だけれど、来た道を戻れば、多分、帰れるのだろう。
 そう思って彼はとぼとぼと、来た道へと彼は踵を返して、下って来た坂をまた上り始めた。
 上り切ってまた下った。
 涙が出そうだった。

 それはまるで流星が堕ちた様だった。
 小さな丘のてっぺんの、ほんの僅かに手前に、ジュースの自販機があった。真っ暗な空と丘の境目で、ただ、ぽつんと輝いていた。

「ふぇ?」
 小さな声が聞こえた。
 その僅かに照らされた所に依るようにして、ナイトメアが待っていた。
 特大の錆びたゼンマイみたいな音がして、そして盛大に落ちる音。また声がする。
「すみまぁせ〜ん、とぉってぇー」
 ナイトメアがその取り出し口から、買ったジュースの缶をなかなか引っ張り出せないでいた。
「不器用だ、な」
「ケンタウロス種には不親切なんですよぉ、こういう低い所の取り出し口はぁ」
 取り出した物を彼女に手渡そうとして、彼女は頭を振った。
「これは貴男に」
 見ればそれは、彼の好きな缶コーヒーの銘柄だった。
 彼女はそれから自分の飲む分を買って、また取り出すのに苦労して涙目になっている。
 また彼が代わりに取り出すと、それは微炭酸のブドウジュースだった。
「冷たいので良いのか? なんなら代わり買うけど」
「いいんですよ」
 今度はプルトップに手こずっている。
 探し物に汚れた指の代わりに、彼はそれを開けて手渡した。
 少し、ハンカチで彼女の手を拭って良いのか躊躇った。
 指には、あの指輪が戻っていた。
 二人は暫く黙ってジュースを飲んでいた。
「また、私の事、忘れてましたね……」
 ナイトメアがぽつんと言った。
 本当はしなだれかかりたいのか、ナイトメアの上半身が彼の方へと傾いていた。
 でも憚って触れられないのが分かった。
 座りこんだ彼女は見上げて答えを待っていた。
 彼は答えられない。
「私の事が邪魔なんですか?」
「そんな、つもりは……」
 でも、置いて行ってしまった。
 忘れてしまった。
 それでも彼は、言い訳を試みようとした。
 しかしナイトメアの声がそれを遮った。
「そぉなのろ、ねー!」
「ちょっと待て、今何飲んでるの?!」

 ナイトメアの呂律が、とんでも無く怪しくなっていた。
 飲んでるも何も、さっき彼が手渡したジュースの筈だ。
「そう、そぉ、そぉなぁ、の、これはお酒、果実酒、ブドウジュースなんかじゃない、ぜぇったい、ない! ないったら、らい! ほら、ほりゃ、ほられらら? よっぱらぃらぞぉー、うぃーっ」
 彼女はそれでも明らかに、何故か酔っぱらった。
 ブドウジュースで?
 この際、微炭酸は余り関係がなさそうだから考えから省くが、ブドウ果汁と微炭酸とどちらが酔えるのだろうか、などと考えさせられると怪しくなる。それくらい不可思議に、何故か彼女はそれで酔っぱらっていた。
 杯のように空になったアルミ缶を掲げ、志村某のような声を上げて、コロパカポコカラコロリン、と、もう馬の蹄の音には聞こえない何かの楽器のような音を立て、楽器にしてもそれは子供がただ音を鳴らすように騒々しく、平たく言えば千鳥足に、その体はしなやかにうねうねと、首から上はオマケのようにそのうねりに振り回されて、さらに声やら顔やら何やらをへべれけにしてゆく。
 すっかりデキあがる、というか完成する。
「ふぁおらぁぁっ、はらぁらへったろぉぉ、ここあけろぉぁ、つまがかえったろぉ!」
 妻は腹が減っているらしい、そして彼の頭の中を自分の家と勘違いしているらしい。
 ぐわしぃ、と彼の頭を掴み、それを思いっ切り揺さぶる。
「ちゃかぽこちゃかぽこ、おと、ならしやがれぇー」
 もう無茶苦茶だ。
 ふらほれひれ……。
 ナイトメアは顔をしゃくって彼を見た。
「なぁに、ぅぃ、しょぼくれてる、げぼくぅ!」
「下僕?!」
「おまえらんかぁ、げぇーぼ、くっ、でじゅうぶん、らぁ!」
 彼の胸ぐら引っ掴んで、揺らし始め……ようとして、揺らしきれず反動で自分がシェイクされ、というかしながら、それも構わずと気付いていないのか、彼女は彼を感情のまま揺らしまくっていると思いながら揺れまくりながら、まくしたてた。
「たにん、のぉ、ひょうか、ぅを気にしてびくびくトぉ、しやがってぇ、こぉんのぉぅ、ぇ、くっ、オスぶた、ぐぅわ……ソンなにぃ、よーとんじょーのオヤジが、気になるくぅあー? かまぁ、ほられたいかぁーあん? あたしぃのぉ、いとしぃーだんな、ぅわー、ソンな、いやしい、ブタやろー、わたしぃはー、ブタにこいした、あほなぁー、オンナ、よー、どーせぇウマオンナよぉー、バカのぉ、シカぬき、おー……おえー」
 空気酒にというよりは、自分の無秩序で激しい挙動に酔っぱらった彼女は、胃から込み上げて来たものに噎せ返った。
 頬を膨らました彼女の背中を、彼はさすった。
 ………ごっくん。
 喉の閉塞が解けると、再び彼女は呂律を空転させ始める。
「おまえは、てんさぁぃい、っなのらぁ!」
 ナイトメアは彼の背中を調子良く乱打した。
「本当はぁ、すごいんらぞぉ、おまぁぇはっ、と……この指輪つくってくれたんらぞぉ、うぃ」
 今となっては不細工に見えるその指輪を それを通した薬指の二つ隣の人差し指で、彼を指差す。
「だからおまえは、あらしぃのぉー夫うわぁ、てんさぁぃい、っなのらぁ!」
「ああもう! 本当に天才だな俺!」
「くぅ、聞ぃけぇぇ!」
「なんだよ!」
 彼は吠えた。
「俺は天才なんかじゃない! ああもう、散々さ! 天才ってのは、誰もを黙らす凄い奴なんじゃないのか!? 何でもできる奴じゃあ無いのか!? 想い通りに……っ」
「違うのよ! それは違う!」
「こんな指輪……っ!」
 彼は、自分の気持ちであるそれをそう吐き棄てた。 
「君にはもっと、もっと……」
 もっと、もっと、もっと、何だろうか。もっと、どんな、凄い物を、綺麗な物を、いや、何なんだろうか。気持ちはあるのに、あると思っているのに、空虚だ。
 彼はそんな自分に、絶望しかかる。
 ナイトメアは、耳が音を立てるくらいに頭を振った。
「この指輪、とても嬉しかったのよ。貴男は"こんな"と言うけれど、そんな言い草誰に教わったのよ? 私はこれを貰って三百六十五日、毎日が嬉しいのよ。貴男の私への気持ちがカタチになって、私の指から離れずに居てくれる。
 それだけでも凄い事なのよ?
 誰かに愛しさを伝えられるカタチを作れるって言うのは、とっても、とぉっても、凄い事なのよ」
 そう言ってナイトメアは、冷えて歩き疲れてしまっていた夫の体を、ぎゅっぅ、と抱き締める。
「だからもう、こんな夜は彷徨わないで。
 本当に好きな人をほっとかないで。
 私を忘れてしまわないで」
 蚊が啼くような小さな声が、小さく小さくなっていく。
 大丈夫、大丈夫、だから、と。
 そして彼女は、着ている物をはだけた。
「……見て」
 彼は思わず何かを叫ぼうとしたが、その言葉は呑み込まれる。
 ナイトメアの、白い肌が露になる。

 夜の闇に、真っ昼間が落っこちて来た。

 真っ白に輝く彼女の肌が、眩しいくらいだった。
 その眩しさが、その光の外の夜の闇をより漆黒に塗りつぶして行く。
 口から零れる息と、毛穴から微かに漏れている水蒸気が薄い雲となって、彼女の白い輝きに照らされてきらきらと光りながら、周囲に広がって行った。
 さっきまでその光に寄って居た自販機まで真白に照らして、何もかもを照らすように。
 本当に夜を昼に、静かに変えていく様であった。
 目が覚める様な思いがする。
 まるで太陽のようだった。
 本当に彼にはそれが眩しかった。
 しかし彼女は頭を横に振る。
「私は月よ、貴男の太陽に照らされて白く輝くの」
 その言葉と口から零れる息は、まるで銀細工のようだった。

 寒さからか羞恥からか、彼女は両腕て胸を抱いていた。しかし、その右腕をほどき、彼を手招きする。いや、自分を招くようにしてみせる。
「私はあなたの夢、そのもの。
 それが貴男の太陽に照らされて、こんなにも白く輝いているのよ。
 まるで月のように、銀のように…………」
 その彼女の指輪を見た。
 彼は言った。
「拙い、指輪だぞ」
「綺麗なカタチを作りたいだけ?」
 言ってナイトメアは頭を振った。
「違うわよね」
 彼女の言う通りだ。
 だが頭を振って彼はこうも言った。
「でもこれは違うと思うんだ。もっと……。いや別の……? なにか……」
「気持ちは伝わるわ。それ以外、何が欲しいの?」
「私のカラダ?」言ってくすくす笑う。「あげたじゃない?」
 まるで夢の中の彼女のような言い草だった。
「なら、私を思い出して」
 ナイトメアの肩がプルプルと震えていた。
 彼は知っている。それは彼女が泣くのを我慢している時の、震える振動数だ。
 しかし彼女はタンポポの様な笑顔を絶やさず
「ねぇ、また私の為に何か作ってくださいよ。そうすれば、思い出してくれますぉ」
 愛想笑い?
 必至に笑おうとする。
「そうすればまた、貴男は作れる。気持ちを思い出す」
 そしてまた言う。
「大丈夫。貴男は大丈夫だから」
 再びその言葉。
「大丈夫……だから……ふぇ」
「ふえ?」
「……ふぇ、ぇ」
 不意に彼女は、鼻をひくひくさせる。

「くちゅん」

 かわいいくしゃみだった。
 くちゃみと称しても良い。
 いつもより鼻息を荒くしたら、寒風を大きく吸い込んだからなのか、脱ぎ捨てた上着の糸くずでも吸い込んだのか、彼女はくしゃみをした。
 彼女の動作がそこで凍てついた。
 多分、自分がまっぱである事を再確認した。
 彼も我に返った。
「……まぁ兎に角、まずはシャツ着ような」
 できれば上着も、何もかも。
 これじゃあ、草薙某だ。
 事態を察した彼だが、でももう手遅れだった。
 やがて、処理が追いついたのか、数呼吸遅れのパニくった声が上がる。
「あれぅわ? ……あわぁ? …ぁァ? ァぁ? ぁァれ? れ? れぇぇぇ?
 …………あわわわわわわわわわ、あわ、あわあわぁぁ?!」
 酔いが醒めた、らしい。

「夢を、忘れないで……私を……忘れなきゃーだいじょーぶ、よぉー。ほんとうに、大丈夫だからぁー……ついでに言えばぁー、私はぁ、さみちーのぉぉ」
 ナイトメアは、彼の胸に頭から突っ込んでいた。その頭をぐりぐりと押し付けていた。
 そしてその歌の様な呪詛の様な呟きをエンドレスで、もう十分程続けている。
「そういやお前、夢の中では強気だったよなぁ」
 やっぱり彼女は、彼の胸に頭を突っ込み、グリグリグリグリしていた。
「でもって、現実世界では超弱気で」
 それでも、グリグリグリグリと。
「ねぇ、俺の奥さん?」
 夢の中では強気で、言いたい事をズバズバと言うナイトメア。しかしそんな彼女とは最近、会っていなかった様な気がする。
 そして、現実世界では臆病なナイトメア。
 言いたい事を言えず、こんなふうに人の胸で頭をぐりぐりと。
「俺の心をぐりぐり、えぐり出すつもりデスカ?」
 ……ぐり。
「それで貴男の心が、取り出せるなら」
 彼女は言った。
「そうしたら、私が貴男の中の太陽を引きずり出してあげる。そしたら、こんな世界を掃き照らして、こんな夜終わらせてあげるのに」
 太陽に照らされて白く輝いた月はそう言った。
「貴男の心を貴男自身に見せられるのに。貴男の心の中にある、夢を見せてあげれるのに」
 そこで彼女は言葉を詰まらせた。
 詰まらせながら、彼女は大丈夫と言い続けた。
「だから貴男は大丈夫。本当に大丈夫だから。今だって貴男の夢の中の太陽はとっても明るいの。貴男の心が取り出せるのなら、貴男に見せてあげたい。ほら、これが貴男の太陽よ。こんなにも包み込むように温かい、だから貴男は自分を信じて。貴男の心が取り出せたなら、直接見せる事ができれば、臆病な私でもそう言えるのに、信じていても自分の言う事に自信の持てない私でも、そう言えるのに。お願いできるのに。お願いだから……私の言葉を信じて、て」
 ナイトメアは何度でも言った。
「大丈夫、だから」
 本当に大丈夫なのかは、彼女にも解らない。
 それは彼女がそう思うだけ。
 でも、
 ただ彼女は、これだけを言いたかったのだ。
「大丈夫よぉ…」
 彼の心の中の太陽を知っている人なんて、彼女しか多分いないのだから。
 だから彼女は、聞いてくれなければ何度でも。聞いても解っていなくければ何度でも。伝わるまで何度でも。妄想で小心者の震えを忘れ、酔っぱらって大言壮語を吐き、なんとか彼に伝えたかった。
 彼は今度は、解ってくれただろうか。
 解らない。けれど彼から、頭を優しく撫でられる。
 その掌から伝わるのは、夜の冷たさに冷まされたものではなくて、彼の心の中の太陽の温もり。
 本当に優しく。
 気持ちだけは、届いたのかもしれない。
 そう知るとナイトメアは、顔中から塩水を噴き出していた。
 ぶみぃーっ。
 彼は、セーターで鼻を擤まれる。
「……………」
 鼻垂れ跡一つと、二つの涙の跡。
 あ、それとよだれも……。
 でもそれで気を済ませたのか仕舞い込んだのか、彼女はすっかり笑顔になって、たんぽぽの様になった顔を彼に向けていた。
 彼はもう一度、堪らなくなってその頭を撫でた。そのまま頬を撫でる。
「頑張りやがって……」
「私は貴男の妻です、いい奥さんなんですぅ、これくらいは、頑張りますよぉ」

 でも、まだ、自分たちの歩いてきた夜は続いていた。
 彼は言った。
「なぁ、歌を聞きに行かないか?」

 コンビニで三人分の飯らしきものを買ってから、彼は坂道を上り始める。
 今度は二人で。
 暫くして夜空は雪雲に覆われて星は見えなくなる。その代わりに、今度は白い雪がそれに代わり、きらきらと街灯の明かりに瞬きながら舞い降りて来た。
 まるで、地上に星を降らせるが如く。
 自動運転のリニアモーターカーが、しゃらしゃらと音を立てて相変わらず除雪運転をしている。
 そんな帚星の軌道の下で、ギターを鳴らす奴がいた。
 高架を傘に雪を避けて、一人白い息を吐きながら、雪を降らす空に向かって一人のギタリストが詠っていた。
「…………ッ」
 吠える様に詠い切ると、ギタリストは自分の歌の観客が居る事に気付く。
「よぉ、久しぶりだな」
 ナイトメアを連れた彼だった。
「遠くからも聞こえていたぞ、ギタリスト。近所迷惑な奴だ」
「だから、資料館南なんつー、その近所が見当たらない、誰もいない駅の近くで詠ってんだよ」
 開発が遅れて、この辺りにはめぼしい建物が無かった。それで駅名も、数百メートルも離れた県営資料館、そのの南、という中途半端なものになった。
「人が居ないのに詠うのか?」
「空が近いから、な」
 ここは、リニア線が通る所で一番高い、空に近い所だった。
「天使にでも聞かせるつもりなのか?」
「今日はそうかもな、本当に天使みたいな雪が降りやがる」
「居るかどうかも解らないのに」
「だから、なんだよ」
 言って弦を、二、三本爪弾く。
「俺は詠いたいから詠ってんだ」
 こいつは、このギタリストは、今夜は空を仰いで詠っているが、地面に向かって詠っている時もある。
「俺が詠いたい歌を、聞いてくれる奴を探してるんだよ」
 普段から人の格好をした奴に、なかなかこのギタリストの歌を聞こうと思う奴は少ないらしく、彼は人外に自らの歌の理解者を求めたらしい。
「なんだ、聞きに来てくれたのか?」
「ムードのあるところで飯食おうと思ってな」
「朝飯か?」
「色々とあってな」
 そう言って彼はコンビニの袋を差しだして、見慣れない人に自分の背中に隠れた彼女を彼は見やる。
「ケンタ……いや、ナイトメアかぁ」
 ギタリストは彼の背後に隠れる彼女を、少しだけ気を使う素振りを見せながら覗き込む。
「カノジョか?」
「まぁ、そんなところかな」
 ギタリストは差し出された袋の中から、三本あった缶コーヒーの一本を取ると、囃し立てるように口笛を鳴らした。
「妻ですぅ……」
 カノジョなどという非公式な関係じゃあありません。と、ナイトメアは我が身の地位の保証と確認を求めた。生憎と口元を覆うマフラーと、顔を半分押し当てている彼のセーターの袖の厚みで、その声はすっかりと消え入ってしまって本人以外には聞こえる事は無かったのだが。
「ああ、良いなぁ、これ」
 ギタリストはナイトメアの指輪を見て言った。
「良い指輪だ。俺にはこういうのはとんと解らんが、気持ちが入ってる。それだけは解る。
 ああ、本当に良いな」
「お前なんかに分かるのかよ」
「ああ、わかるぜ。お前が俺の歌を分かるくらいには分かってるさ」
「そんなものなのか」
「そんなもンだろ。良いもの作るじゃないかよ。お前の銀細工つまんねーもんなぁ」
 その言葉に彼は苦笑した。「最近のは、な」
 ささやかな反論にギタリストは笑い返して言った。
「有名になった奴でも、二十歳になる前の自分の作品見て泣くって言うぜ。
 拙くて、恥ずかしいからなんかじゃねぇよ。
 凄く気持ちが籠っているってな。
 なんでだろうな、
 自分だけで良かった世界が、知らず知らずに周りの人間に削ぎ落とされちまうのかねー。
 分かんねー所は、数字とか常識とかで置き換えようとする。感性っつー、絶対値の問題だって言うのによ、分かりやすい平均値に置き換えようとしちまうんだ。
 有名になれる奴は、そんなものにビクともしないからなんだろうけどな。そう思っちまうんだが、それでも、幾ら強くて才能のある奴だっても、そんな気持ちの何処かを、欠けた事も忘れちまう所もあるんだろうなぁ……それを思い出すんだろうなぁ……」
 ギタリストはまるで自分に言い聞かせるようだった。
「忘れちゃあ、なんねぇんだよ、これは……」
 何かを思い出そうとする様に、その指がギターの腹を軽く叩いて、弦を何度もつま弾いていた。
 今なら、彼にはこの友人のギタリストが言っている事が分かる、ような気がする。空に向かって詠う気持ちが彼にも分かる気がした。
 分かっていたが、忘れていたものを取り返して、それを確かめた気分だった。
 吹っ切れる様にポンとギタリストはギターケースを叩いた。
 そして彼に言った。
「なんか、元気そうじゃないか」
「元気なかったか?」
「ああ、なかった」
 そう言われて彼は、ナイトメアに振り返る。
「まぁ、こいつのおかげかな」
「抜かれたか?」
「おい?!」
「抜きたかったですぅ…」
「黙れ」
 茶化されて彼は笑われる。
「ところで歌は、もう終わりか?」
「ああ、そうだな。こう寒いと……それにもう、いい時間だぜ」
 耳を澄ませば、新聞配達のスーパーカブのエンジン音が遠くで聞こえていた。リニアの駅のシャッターが開く音もする。
「もう、そんな時間だったか」
 彼の傍らのナイトメアが、ぷるるっ、と震えた。
「寒いか?」
「……ええ、少し」
 彼女はきゅっと、彼の腕にしがみついた。その温もりに埋もれるように、腕の内側と胸の間の隙間に顔を埋めた。
 ギタリストがやや厭らしい口笛を吹いた。
「熱いねぇ」
 彼はまた冷やかされる。
「あれ、そういやこれ薬指だな」
「ああ、そのつもりなんだ」
「おめでとう」
 そう簡単に祝辞を述べて、笑うギタリストはケースを肩に担いだ。
「大切にしろよな。彼女はお前の夢そのものなんだよ。幾ら夢を持っていても、どんなに才能を持っていても、そいつを花開かせる奴が居なければ、立ち枯れるしかないからな、彼女がそれなんだよ、お前にとっては」
 そう言って肩を落とす。
「俺はそれを、そんな彼女をずっと探してるんだけどなぁ」
 落とした肩からギターケースがずり落ちそうになるのを直した。
「じゃあ俺、そろそろ帰るわ」
 そしてまた笑って、手をひらひらと振りながら、シャッターの開いた駅の方に歩いていった。
 ふと、
 その後ろ姿を伺う様にする透明な羽をもった少女が、その後ろに付いてくのが見えたが、それは深夜の眠気眼の錯覚だったのかもしれないが。

 ナイトメアは不機嫌だった。
「つもり、じゃありません。もう妻ですぅ、奥さんですぅ……私は、そう私は、貴男の……」
 そんな彼女の頭に手を置いていた。
「ずるいですぅ…頭を撫でたくらいで、私が機嫌を直すと思っているんですかぁ?」
 機嫌は直らなかったけれど、彼女はとても嬉しそうだった。
 本当に、タンポポの様な笑顔を散らして、まるで自分等よりも真昼の様な彼女だった。

 二人は微かに藍色が滲んで来る夜の下を、家に向かって歩いていた。

「本当におまえは、俺の奥さんなんだよなぁ」
 斜め後ろから、ついて歩いていたナイトメアが追いつくのを待って、彼はその肩を抱き寄せた。
「私はあなたの良い奥さんですよぉ」
 すると彼女は、彼の腕に頭を擦り付けた。
「今日はそんないい奥さんが待ち望んだ、結婚記念日ですよぉ?」
 嬉しそうに耳が揺れていた。
「愛する奥さんにプレゼントぉ!」
 それは、まるで彼の気持ちを汲んでいるかのようであった。
 彼は何か、作りたかった。
 この気持ちを、彼女への想いを形にしたかった。作って形にして、もう二度と忘れない様にしたかった。それを贈りたかった。一度は忘れてしまった愛する人に、
 そんな気持ちで一杯だった。溢れそうになる気持ちは、その器を探していた。
 彼は、ちょうど彼女が背にした空を上ってくる、細面の月を見た。
 その暁月を指して言う。
「あの月がいいかな」
「銀細工の?」
「本物は無理だな」
「素敵ですね……」
 ナイトメアは後ろの月に振り返った。
 ああ本当に素敵だ。あの月は誰のものでもあるけれど、彼がプレゼントするあの細面の月は、彼女だけのものなのだから。
 そして、そんな月に寄り添う一つの明るい星を見た。
「あの星も、一緒に頂けませんか?」
 何気ない一言だった。
 そのシリウスよりも光り輝く黄金のその星を彼に見立てて、寄り添って欲しい、あるいは月が、その星に寄り添いたかった、そんな想いからの言葉だったのかもしれない。
 彼は言った。
「ああ、もう明けの明星、か」
 ぷるっ……ナイトメアがまた震えた。
「では、もうすぐ夜明けですね」
 言って彼女から、顔を寄せた。
 そして言い立てた。
「私がついている。絶対についているから。だから、だから……」
 ナイトメアはプルプルと首を横に振った。
「だから……」
 耳もぷるぷると音を立てて。
「忘れないでくださいね、私の事」
 それを聞いて、彼は何かを予感したのか一瞬言葉を詰まらせたが、言わなくてはならなかった。
「忘れない」
 その言葉にナイトメアはまた、タンポポの様な笑顔を向ける。
 そして、それを捧げるように、唇を触れ合わす。
 二人の温もりが、冷たくなった互いの唇を暖めた。
 らしくない。そう思いつつも、だけど彼は、彼女に求められるのを心地良く感じて、眼を閉じた。それだけで彼女の温もりが、唇の淡い皮膚を通して血管に流れ込むようだった。それを感じていた。
 些か強引に、少し貪欲に、らしくもなく、相手に自分を刻み付ける様に。そして名残惜しそうにナイトメアは彼の唇を貪っていた。
 そして彼女は、彼に言った。
「今晩は、これで我慢しておきますわ」

 そして影が生まれる。
 朝日が昇って闇を追い払い、あらゆるの物が影を伸ばしていく。
 世界が、一変して行く。

 彼の彼女を抱きしめようとする腕が、空を切った。何も掴めない。
 瞼を見開くと、ただ、きらきらと白い吐く息は一つだけ。
 もう一つの、ナイトメアの白い息は見当たらなかった。それを吐く小さな口も、真っ白い肌の  前髪で隠した、しかしこちらをずっと見る瞳を探す。しかしどこにもそれはなく、誰も見てくれていなかった。
 彼は、残念そうに肩を竦めた。
「ああ、そうか、もう……朝か」
 誰もいないその向こう、朝日に伸びた自分の影を見る。
 そして竦めたその肩を落とす。

 夢が覚めたのだと、理解した。
 あれは、ナイトメアだったのか。
「だとしたら、とんだ悪夢だ」
 ああ、今なら作れる。
 降りて来た。
 誰もが、そしてどんなものでも、作る前には傑作を確信し、出来上がって駄作である事を確定させる。だが、今は違う、自分は違う。絶対に、作ってみせる。彼女に似合う月と金星の銀細工を。誰の為でもなく、彼女の為だけに作ってみせれる。誰がなんと言おうと、彼女さえ喜んでもらえれば良い、ただそれだけを思ったそれを、作ってみせる。彼はそれを贈りたいから、その気持ちだけでそれは素晴らしいものとなりうる筈なのに。
 でも、それを贈るべき彼女が見当たらない。
 それを教えてくれた彼女が居ない。

 彼は知っている。臆病なナイトメア。
 それでも俺の前に出てくれて励ましてくれた。彼女を忘れかけていた阿呆な夫を心配して、本当は夢の外から出るのが怖いくせに、それを忘れて奮い立つ為に、妄想してみたり、想像かっ飛ばしたり、鼻息を荒くして、鼻血を垂らして、よく泣いて鼻擤んで、ぷるぷる震えて、酔っぱらってみたり、管巻いてみたり、脱いでみたり、俺を信じてくれて、撫でれば喜んでくれて、俺にこんなタンポポの様な笑顔を向けてくれて……。
 タンポポの笑顔、だったか。そうだったか。スミレのようだったか。
 彼はまた、夢のように忘れようとしているのか。現実に戻ったから。
 せめて、重ねた筈の唇に彼女の温もりを探すが、しかしそこは、もう冷たい。もう彼女は、そこには見当たらない。

 彼女の残り香を探す彼を、現実に引き戻そうとする様にケータイが着信に揺れていた。続く着メロのけたたましさが、余韻すらも打ち消すようだった。
 彼は頭を振ろうとして、それを止めた。
「……はい。なんだ、おまえか」
 ケータイの向こうは、あの空に向かって詠っていたギタリストだった。相手も確認せずに、彼は出ていた。
「迂闊だぞ。それになんか苛ついているな?」
「そうか? それで、どうしたんだよ?」
「やっぱり少し苛ついてるな。
 今度いつ聞きに来れる?
 今度ちゃんとしたハウスでライブするからよ、折角だから、ちゃんと聞きに来いよ。
 ああ? ちゃんと聞きに行くもんか、だと?
 来いっつーの。
 お前らに聞かせたいんだよ。ちゃんとした俺の歌をな。
 ちゃんと彼女、連れて来れるか?」
 彼はそこで、彼の声が聞こえなくなった様な気がした。
 電話の向こうは確かに「彼女」と言った。
 彼が言葉を詰まらせていると、ギタリストは自分の言葉足らずだと思ってこう言った。
「ほれ、お前のカノジョ、ナイトメアだっけか、ケンタウロスのちっこいのみたいなの。さっきの夜明け前、一緒に来てくれただろう。あんときは悪かったな、歌聴かせられなくて」

 夢ではなかったんだ。
 あるいはこれが、夢なのか。

 彼は期せずとも、ケータイに気を取られて歩きながらオブジェに顔をぶつけていた。その痛覚が、少なくとも今は、自分が夢の住民でない事を彼に証明していた。
「おーい、大丈夫かぁ? 今なんか、スゲー音したぞぉ?」
「いや、大丈夫……カノジョだって?」
「何寝ぼけてんだよ。それとも寝ぼけてんのか?」
「大丈夫だって。それで、カノジョが、なんだって?」

「その彼女を連れて、もちっと早い時間に来てくれや。
 今度ちゃんと、俺の歌を聴いた欲しいと思ってな。お前らの為に詠うよ。誰の為にでも無く、お前らの為に。才能ねーけど、その為に作詞もしてやらぁ」
「いいのか?」
「歌ってのは、そうだろうよ?」

「祝いたいから」

 彼だってそうだ。
 あの夜に、それを忘れていた彼を、思い出させてくれた彼女。
 自分の愛しいナイトメアの顔を思い出す。
「ああ、今度一緒に聴かせてもらうよ」
 今度こそ、彼は夢から覚めていた。


 家の冷えきった玄関戸に、冬の朝日を浴びて白く輝く息が当たっていた。
 彼は外套のポケットから冷えきった鍵を取り出す。
 玄関に入ると脱いだ靴を下駄箱に放り込む暇も惜しく、フローリングの廊下へと上がる。
 作業場にしている自分の部屋に戻ってそこで外套を脱ぎ、壁にかけるのももどかしくそれをベッドの上に、二人になった今は手狭になって使わなくなって物置になっている元ベッドであったそこに放り投げる。
 綺麗に整えられた作業机の上は、薄く埃が被っていた。
 道具箱から彫刻用の鏨を一本、手にとり、久しぶりに体温が灯る感触を確かめていた。
 それをそっとしまって。

 そして再び廊下に出ると、そっと隣の部屋のノブに触れた。
 少し開けた扉の隙間から、イグサにも似た乾いた草の匂いが廊下へと漏れ出る。
 カーテンで遮った薄暗い部屋の中、干し草を山にしてシーツを被せたベッドの上を見た。
 時計の針の音が聞こえた。
 ナイトメアが眠っていた。

 あの晩は、誰の夢の夜だったのだろうか……。

 彼は安堵の溜め息をこぼして、そのまま扉を閉めようとした。
 しかしカーテンから漏れる朝日にくすぐられていた彼女は、すぐにその彼の気配を感じると、そちらに耳を振って、身じろぎする。
「ふぅえ? ……あなた」
 ナイトメアは微睡みから醒める。
 少し返事を躊躇って、
「おはよう」そう言って彼は頭を振った。「ただいま」
 その言葉を聞いてナイトメアは、何処か安心した様に笑った。
「こわい、夢見ちゃった」
 彼女は言った。
「あなたが、私の事忘れちゃって、ほんとうに、ほんとぉに、私の事、を……」
 ナイトメアは涙を流し始めていた。
「私、不安でしょうがなかった。一緒になった事も、私を好きになってくれた事も、あなたはそんな自分も忘れてしまってて、一人で行ってしまって、でも私の事、思い出してくれたけど……でもでも、それでも、あなたは優しいから、そんなフリしているだけなんじゃないかって、とても、とても不安でぇぇ……」
 彼女はあの薬指に通した銀の指輪をしきりに撫でて、その手を伸ばして彼を確かめようとした。
「本当に、私を覚えてますよね? ほんとうに?」
「ああ、大丈夫。ちゃんと覚えているよ」
 彼は抱擁する彼女の背中やら肩やらを叩いて、そんな自分の気持ちを伝える。その肉感に、彼女は泣き始めた。
「今日は結婚記念日で、でも俺はそのプレゼントを忘れていた、という事も覚えてる」
 それでも、プレゼントするよ、と彼は言った。今日中どころか、今月中にできるかも解らなかったけれど。
「誰でもない、君の為に、な」
「銀で作った月と金星……?」
「ああ、忘れていない」
 そして彼は言った。
「だから、大丈夫だ。君はあの晩、頑張ってくれたから。そうして何度も大丈夫と言ってくれたから、俺はもう大丈夫だから」

 大丈夫、という言葉だけでなんとかなれば、誰も苦労はしない。大丈夫と言われて何でも叶うのなら、誰も夜を彷徨う事も無い。
 愛おしいナイトメアと、そんな彼女への想いを伝える事が叶ったその手の指輪を見た。
 でも彼女と一緒なら、たぶん、俺は大丈夫だ。
「ありがとな」
 あの時、昨晩、あの夜が明けるその間際まで、彼女が彼に言い続けていたその言葉に、彼は返事をした。
 それを聞いたナイトメアは、嬉しそうに尻尾がぱたぱたと藁とシーツを叩いていた。
 彼はそんな彼女の顔を見る。
 本当に最近は、彼女の顔をこうしてちゃんと見ていなかったような気がする。
「忙しかったから、しょうがないですよぉ」
 でも、と、声音はその先を綴ろうとしたが、彼女はそれを震えて呑み込んだ。
 彼女を、夢の中に招き入れていなかった様な気がする。
「ごめんな」
「あなたも、悪い夢でも見てたのね」
 あの晩は……、
 そうだったのかもしれない。
 あるいは、彼女にそれを見せていたのか。
 昨晩の事は、彼女の夢の中の事だったんだろうか。それとも、彼女かあるいは彼の悪い夢か何かが、溶け出していたのだろうか。いや、それにしたって……。
 ただナイトメアは、タンポポのような笑みを浮かべていた。
「じゃあ、二度寝しましょう? 今から一緒に眠れば、きっと良い夢が見れますよぉ」

 そして再び彼の唇に、彼女の温もりが灯る。
 二人は口づけを交わして、抱き合いながら眠りについた。
24/03/07 05:20更新 / 雑食ハイエナ

■作者メッセージ
 ナイトメアはふぇと言わなきゃ駄目な教の者です。

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