連載小説
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オープニング
 私−−篠原夕美が産まれたのは、■■年ほど前。
 専業主婦のお母さんと、会社員のお父さん。
 妊娠適齢期もそろそろ終わりだって言うころに生まれた一人娘だから、随分と喜んでくれたっけ。

 凄く裕福って訳でも生活も苦しいってわけでもない、ごくごく普通の家庭で育って。
 小学校、中学校は公立で。
 勉強が少しだけ得意だったから高校からはちょっと背伸びをした私立に通った。
 中学校はブレザーだったから、伝統的なセーラー服がちょっぴり恥ずかしかったのを覚えてる。

 私の趣味は、星を見ることだった。
 小学生の頃、お父さんが小さな望遠鏡を買ってきて、二人で月を見たのが切欠だった。
 普段見られない満月のクレーターがくっきりと見えて、「うさぎさんが居る」なんて、恥ずかしいことを口走ったのは、なんともいえない思い出だけど、それから星を見るようになった。
 中学校、高校では天文部に入って。毎週のように星を見て過ごした。
 お父さんからは「ちょっと女の子っぽくないなあ」って笑われたけど。それでも、楽しかったのだ。


 そんな、小さな幸せな日々を、過ごしていた。


 −−その時が、来るまでは。


「よろしく、おね、がいしま、す」


 対面に座る、彼に頭を下げる。
 咽喉から出るのは、引っかかったようなかすれた声。
 冷たい手が、黒のナイトをたどたどしく掴んでNf3に置く。


 私がゾンビになって蘇ってから、既に6ヶ月の時が過ぎていた。



 ……その間に知ったことは。お父さんも、お母さんも。死んでいるという事実だった。





−−−−−−


「あう……うう……」
「目が、覚めたかしら」

 どこか優しさと邪悪さを感じさせる声で、夕美は目を覚ました。
 消毒用エタノールの刺激臭と、死の匂いががする部屋だった。
 蛍光灯が、じりじりと冷たい光を彼女に投げかけている。
 全身が重くて、動かない。首を動かそうとしたら、ただぎしりと関節の鳴る音だけが虚しく部屋に響いた。

「あ、あ……」
「まだ、慣れてないんだから無理したら駄目よ」

 ここは、どこ?咽喉から出掛かった疑問はただの掠れたうめき声になった。
 動けないことの負担もあって、彼女の総身を恐怖が支配する。

 自分は、一体どうなってしまったのだろうか。
 そもそも、この声の主は、誰なのだろうか。
 混乱しながらも、夕美は記憶を辿る。


 あの日、たしか。
 旅行に行くために、飛行機に、乗って。
 そして……。


「蘇ったばかりだし、まだ、動かせないと思うから。そのまま聞いて頂戴」


「−−あ、う……」

 蘇った。
 
 蘇った?


 答え合わせは、直ぐに行われた。



「篠原夕美さん−−貴女は、一度死んで。蘇ったの。アンデッドの魔物−−ゾンビになって」

 そう、なのだろう。
 だから、こんな、声しか出ないのだろう。

 だけど、気になるのは其処じゃない。
 夕美は、必死に目だけを動かした。
 白い髪の、美しい女性と、目が合った。

「蘇ったのは、貴女だけよ」

「あ、あ、あ……ああああああああああああああああああああああっ!!」


 言葉にならない絶叫が、部屋の中に響いた。




−−−−−−−



「これは?」
「あうう」

 昼下がりの病室、真っ赤な林檎を持ち上げる高校生−−結城雅人に、夕美はそう答えた。
 りんご、とくちびるは動いたが、漏れたのは言葉にならない母音のみ。
 雅人のため息が、部屋の中に響く。

「まだ、ダメかあ」
「あう……」

 彼女が蘇ってから一週間の時がたっていた。
 その間にたくさんの事を知る事になった。
 この世界には、魔物が居ること。
 元々別の世界から侵略してきた彼女達は、人を魔物へと変化させようとしていること。
 そんな、おかしなファンタジーのような事実を、何度も聞かされた。

 否定することは、出来なかった。
 自分という、変えようのない事実が其処にあったからだ。

「でも、もう喋れてもいい頃なんだよな」

 今やっているのは、簡単なリハビリテーション。
 魔物化したとはいえ、一度死んだ肉体は様々な機能が低下している。
 身体能力しかり、思考能力然り。
 喋れないのも、その一つだ。
 故に、こうしてアルバイトの青年を相手に練習をする。

「あうう……」

 喋れない寂しさに、夕美は小さく頭を下げる。
 通常、ゾンビが喋れるようになるまで時間はあまりかからないのだそうだ。
 別世界の魔物たちは、みな男を誘惑して精を得る。
 その手段として言語を使うのはほぼ必須の技能だからだそうだ。

「まあ、個人差もあるから、気にすんな。−−あのさ、しばらく時間もあるし、練習切りあげて遊ばないか?」
「あう?」

 落ち込む彼女の肩を叩き、雅人はバッグの中を探る。
 中から出てきたのは、携帯できるチェス板であった。
 100円ショップでよく売られている品である。

「実は、打つ相手居なくてさ。ルール教えるから」
「……うう?」
 
 白黒の盤面に、駒を並べながら雅人は笑う。
 仕事の最中はどこか不機嫌な彼が見せる、純粋な笑み。
 それは、彼女がはじめてみる表情だった。

「まずは、ポーンの動かし方から……」

 きっと、彼はこのゲームが好きなのだろう。
 そんなことを、彼女はぼんやりと考えていた。


−−−−−−



「うう……」

 数時間後、病院内の図書室は夕暮れの光に包まれていた。
 差し込む西日の光に目を細めながら、夕美は本棚の間を歩き回る。

「あう」

 目的は、とある本。
 まだ文字を読めるほどには回復していないため、あてずっぽうの捜索だが、時間はたっぷりとある。
 一冊づつ取り出しては、表紙を見て、本棚に戻す。

 彼女が探しているもの、それは、チェスの教本である。
 さっきまでの数時間の間、雅人に何度も敗北したのが、彼女がここに来た理由だった。
 無論、駒の動かし方を覚えるだけで勝てるゲームでないことは理解している。
 そして、何度も打ったことで雅人がチェスの強者であることもなんとなく分かる。
 きっと付け焼刃では敵わないことも。

「あうう?」

 それでも、一矢くらいは報いたい。
 いや、そもそも勝負にならなければ、チェスの意味がない。
 チェスは、二人でやるゲームなのだ。

 頭の中には、手の打ち方をなんども解説する雅人の姿が浮かんでいた。
 解説半分で打つ彼も楽しそうだったけれど、形だけでも対等に打てたほうが、きっと楽しいだろう。

「あうう」

 しばらくの間彼女は図書室を歩き回り−−日が落ち、深夜になるころ、彼女の手に一冊の本が握られていた。
 それは、チェスの駒が表紙に描かれた本であった。
 著者の欄に書かれている名は、ソフィリア、そしてマクシミリアン。
 彼女は知る由もなかったが『近代棋士の母』、そして『盤上の棋鬼』と呼ばれる人物であった。


 本の題は−−『盤上の戦争』


 それが、夕美と雅人の人生を変えた瞬間であった。
16/07/15 01:19更新 / くらげ
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