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3話

【悪意の影に沈みゆく】



 コンコンッ
 そのとき、俺の部屋の扉がノックされる。
 ヴァーチャーが露骨に舌打ちする。外から教団関係者の声が響く。
「ゲーテ殿。そろそろお時間でございます」
「集会は明け方からではないのか?」
 目の前のヴァーチャーに警戒を向けながら声を放つ。
「ええ、その予定でしたが、聞かれていませんでしょうか? 時刻が変更になったのですが」
 そっとソニアの方を見る。予定等は完璧に把握している筈のソニアは、首を振った。
「聞いていません」
「聞いていないぞ。何かの間違いではないか?」
「そう言われましても、迎えに行けと言われただけの私には……」
 困った風に答えられる。それももっともだ。覚えがある限り、この声の主は只の伝令役なのだから。
「悪いが、今立て込んでいる。準備が出来次第、向かうと伝えてくれ」
「はい、判りました。   
 そう返事されたが、気配は扉から立ち去る事はなかった。俺が不審に思い、声を掛ける。
「何をしている。早く立ち去れ」
「!? え、ええ……はい、只今」
 途端に扉の傍から気配が遠ざかる。一瞬扉に耳を当てている様子が目に浮かんだ。まぁ、人の様子をコソコソと伺う仕事をしている連中だ。つい、癖が出てしまったのだろう。そんな風に自分を納得させた。
 だがそんな俺をヴァーチャーは責める訳でもなく、怒る訳でもなく、只淡々と見詰めていたのだった。
「……ゲーテ」
「なんだ」
「俺達は親友やんな」
「……そういえなくもないな」
「親友を   信じろ」
 ヒュオンッ
 そう告げると奴は瞬間転移の術で此処から姿を消した。あれは古今東西、簡単に扱える術じゃない筈だ。それをあれほど簡単に、詠唱もなく使える者など、世界に数えるほどしかいないだろう。



―――――



「……さて。集会に向かうぞ、ソニア」
 今の出来事は全てなかった事にして、俺は部屋を立ち去ろうとする。
 だがいつも黙ってか嫌味を言ってかして付いて来る筈のソニアが動かない。
 俺は溜息を吐く。理由は判っていながらも問う。
「どうした」
   マスターは、お父様を信じてくれないのですか……?」
 ぎょっとした。土くれで出来ている筈のこの女の目に、光るものが映っていたのだった。俺は思わず目を逸らしてしまう。
「俺達は密偵だ。騙しあいの世界と殺し合いの世界が混ざり合ったような世界。今更のこのこと現われた奴に一方的にああ言われて、素直に信じられるほど甘い世界では無い」
「マスターは、甘えているじゃないですか」
「! ……なんだと?」
「マスターが教団と縁を切りたがらないのは、単純に後ろ盾を失うのが怖いからです。
 外の世界に出るのが怖いからです。
 誰かに命を狙われるのが怖いからです。
 戦って勝ち取るのが怖いからです。
 正義を持つのが怖いからです。
 自分で決めるのが、“人形”から“人間”になるのが怖いからです。
 そして、お父様の言葉を信じないのは、マスターが怖がって出来ない事を、お父様が簡単にやってのけたからです。なんでもマスターより簡単にやってのけてきたお父様が気に入らないからです。マスターは、教団という揺り籠から出られないでいる、赤ん坊にも劣る甘ったれですっ。赤ん坊ですら、何れ揺り籠から出る事を考えるのにっ。もし違うと反論なされるのであれば、以上の事全てに対する反論を押し並べて下さいっ。


 このへたれマスターッ!


 遠くから悔しそうな表情を浮かべてそう捲くし立てるソニア。俺はそんな土くれの発した言葉に、放心してしまうのだった。
 そして思考回路が復旧した途端、今度は熱を帯びてきてしまい……。
   ッ! なら、貴様は奴の下に戻ればいいッ。一生俺に付き纏うな。いいなッ」
「マスター……ッ」
 バタンッ
 部屋の扉を乱雑に閉めて、廊下を怒れる足取りで進む。



―――――



 一時の怒りに身を委ねて、怒鳴ってしまった。俺とした事が……なんて浅はかで無能な事をしてしまったのだろう。

 紛れも無い、ソニアは   事実を言っていたのに

 ずっと、妬ましかった。
 奴は俺よりも秀でていた。
 一歩前を進んでいた、というのならまだ良い。奴を目指して頑張ろうと思えた筈だ。
 だが、奴は確実に俺よりも“数十歩”は前を歩いていた。
 ……目指すのすら、おこがましいと思えた。

 俺達は親友だった筈だ。俺はそう思った。奴が人間を語り、俺は人間を知った時から。
 そしてその時得たものが友愛の心だと知った時から。
 彼奴等以外の、他の誰にも向けなかった心の中の温かさに気付けた時から。 
 なのに、奴は俺よりもずっと前を歩いていた。
 ずっと……ずっと前に。
 なんなんだ? この距離は。
 なんなんだ? 奴の才能は。


    結論を言うと虚しかったのだ。奴との差が。


 俺が教団に残っていたのこそ、間違いなく奴への当て付けだし、奴への反抗に他ならない。
 そしてソニアが言った、俺が赤ん坊にも劣る甘ったれである点も反論の余地がないだろう。
 だが、それならば……


 ガタガタンッ
 俺は、今いた部屋から激しい物音が聞こえたのにも気付かず、そうやって沈鬱に耽っているのだった。



―――――



 やがて俺の目の前に広がったのは予想外の……いや、予想以上に深刻な事態、だった。

   マス……ター……」

 ソニアが十字架に縛り付けられている。
 俺はつい先程別れを告げたばかりの彼女が、何故集会所として用いられる聖堂に掲げられる歪な十字架に身を窶しているのか判らなかった。
 その周辺では邪神教徒共の黒いローブと仮面がうようよと蠢いている。十字架の正面に立っていたのは、邪神教の教祖である、邪神教皇その人であった。その皺に塗れた顔と大きな疣が作る影は、最早そのものが人間であるかさえも疑われる境地。
 老い耄れは俺が到着し、ソニアの姿に目を丸くしているのを確認すると、しわがれた声を絞り出す。
   遅かったな、ゲーテ」
「……教皇様、これは如何な事で?」
 俺が多少なりとも混乱していると、ソニアの奴が何時にもなく必死に呼び掛けて来る。
「マスター! 来てはなりませんっ。此奴等は   っ!」
 途端に響く、生々しい殴打音。
 十字架に掛けられたソニアの頭にメイスを打ち下ろしたのはその周りで蠢く教徒の一人だった。
「黙れ、土くれっ! 今、教皇様は大事なお話をなされておるのだ! 邪魔をするなら今度こそルーンを砕くぞっ」
「……マス、タ……」
 ソニアのか細い声。俺はやっとの事で平静を装う。内心動揺している自分に驚きもしたが、そんな事よりもソニアが一体どういう身の上で十字架に掛けられているのか探りを入れる必要があるし、これ以上……奴等がソニアに触れるのは癪に障る。
 冷静にならざるを得なかった。
「何、このゴーレムは取引の為のものだ」
「取引? 何の、でございましょう。それでしたら所有主の私に一言申してくだされば」
 自分の口で言うだけで吐き気がする。一言申されても、ソニアを貴様等のようなイカ臭い連中に触れさせて堪るものか。
 内心そう呟きながら奴等に跪く。此処に集まった連中は、皆教団の運営に関わる司祭である。露骨に歯向かう訳には行かない。
 さて、である。余りいい予感などしていない俺に、教皇様は口を開く。
「無論、所有主の御主に対して持ちかける取引の、だ」
「どのような取引でしょうか?」
 自分でも驚く程あっさりと覚悟を決める。これでソニアが本気で助かるとは思っていないが、これ程自分がどうなってもいいと思えたのは、ヴァーチャーと初めてつるんだあの任務の時以来である。だが今のこの覚悟と言うものはとても自然な感触のままに決める事が出来た印象を持てた。
「ゲーテよ、御主には失望したぞ」
「藪から棒に、なんでありましょうか」
「惚けるでない。裏切り者を匿ったであろう」
 どうやら俺の部屋にヴァーチャーが来た事はばれていたようだ。奴にしては軽薄過ぎる。矢張り偽物だったのか。
 言い訳を考えている俺を、教皇は鼻で笑う。
「……まぁ、よい。   右を見よ」
(右?)
 促されて、右を向く。

    ドスッ

 その瞬間影のようなものが懐に潜り込み、俺の腹を一撃した。
 全く無意識だった為、腹に力を入れてダメージを軽減させる事もなく、俺は全身の力が抜けるのを感じた。
 教皇の嘲笑が耳に入る。
「ふん。役立たずめ」
 俺は影に体を被せ、引き摺られていく。

 ……なんという稚拙な視線誘導に掛かったものだろうか。
 此処まで来て、まだ甘えが自分の中にあったのだ。
 自分は無事だと。成るようになるのだと。
 それが何時も付いて回った、彼奴と俺との決定的な差……だったのかもしれない。

 不意の一撃に俺の目の前は霞み、頭の中は痺れたような振る舞いを見せていた。グロッキー状態からふと目覚めればもう俺もソニアと同じように十字架に掛けられてしまっているのだった。
 そんな俺の目の前に教皇が歩み寄る。
「御主はヴァーチャーを教団に引き止めておく役を任された、只の人形なのだ。その任も果たせぬとは、魔吼王の息子が聞いて呆れる。……いや、どうせ御主の存在がヴァーチャーを誘き寄せるエサにはなろうがな」
「く……体が……っ」
 そのまま気絶はせずに意識だけは舞い戻る。咄嗟に体を引いたのが天と地を分けたらしい。
 だが体が思うように動かない。調子よく薬を嗅がされたらしい。指先を震わせる程度にしか体が言う事を聞かなくなってしまっていた。
「当初の目的とは違うが、まずは御主の体で検証しておいてやろう」
 老い耄れがそう口を開き、顎で指示をすると、教徒がローブに包んで何かを持ってくる。俺が回らぬ首を必死に擡げて、ローブを取り浚われて行くそれを確認する。
 それは鮮やかな赤を讃え、血に濡れて艶を出す、何かしらの   肉塊だった。
「マスターに……何をするつもり……っ!?」
 隣でソニアが、激しく取り乱す。冷静を絵に描いたようなゴーレムの筈の彼女がどうして此処まで取り乱しているのか、俺は動揺しながらもどうしてか温かい気持ちになった。
 それは、ヴァーチャーと話して新しいことを知った時のような…… 
「ゲーテ、それがなんだか判るか?」
 教皇が問う。俺は痺れが喉まで達し、息をするので精一杯だった。
 返って来ない答えにやがて痺れを切らし、教皇は答えを告げる。
「それは   妖精の肉だ」
 妖精の肉。あの小さく宙を飛び回る鬱陶しい奴等か。あんなのから肉を削ぎ落とすとなれば、さぞ大変な事だろうな。
 まぁ、それは冗談として、これは比喩表現だろう。現実的に考えて、妖精から取れる肉が此れだけ纏まっている訳がない。
「まぁ、正体については誰も知らん。本当に妖精のものなのか……。はたまた此処とは別の世界の神の肉なのかとも言われている。何れにせよ、これを食したものは皆一様に年を取らなくなるそうだ。   形は様々ではあるが、な」
「マスター……を、離しなさい……!」
 ソニアの額の前に光が集まりだす。ソニアお得意の光の術だ。
 だがそれに気付いた教徒の一人が、ローブをはためかせて腕を突き出す。その光は、腕から伸びる闇の触手に絡められて消えた。
 教皇はソニアの抵抗を横目で見届けながら、行動を次の段階に移す。
「何故このような事になっているのかは粗方ヴァーチャーから聞いているのだろう?    では時間も迫ってきた頃だ。さっさとやれ」
「イエス、マイロード」
 歪な肉の塊を持った教徒が、その塊をそのまま俺の口に宛がう。
 俺は必死に口を閉じてその得体の知れないモノを拒み続けるが、ふと教皇がソニアの方を向いて頷いたのだった。
「それを食わねば、其処に居るゴーレムのルーンはズタズタにされる事になるぞ?」
 カシャリ
 横目でソニアの方を見ると、ギブスを取り攫われて露出した首のルーンに切っ先が宛がわれている。ゴーレムの性格や記憶といった情報は、全てあのルーンに関わっている。だからこそ保護しなければならない部位であり、それが傷付けられれば取り返しがつかない。
 おまけに、だ。ソニアの場合、ヴァーチャーのオーバーテクノロジーで本来肩元にあるルーンが面積の小さい首に移行され、その分刻まれたルーンが緻密になっている。僅かな傷でも、ソニアはソニアたる要素を消し去ってしまうかもしれない。
 そんな事、想像、したくなかった。
「マスター! 私の事など気になさらずに……。此奴等を!」
 ソニアの張り上げた声など、本当に初めて聞いた。
 ……ああ、これはなんだろう。本当に自分が満たされていくのが判る。不思議な気分がした。
 そんな時に過ぎるのは、他でも無い、長年俺の心に刻まれてきた、あの場面だった。



―――――



   自分の命の価値を決めるのは腹黒い豚共じゃあない。況してや、自分で決めるものでもないんや』
   じゃあ、なんだというのだ?』
   簡単に教えるのは、面白くない』
   は?』
   自分で考えてみ? 気付く事が、人間への第一歩やで?』



―――――



 ヴァーチャー。どうやら貴様は正しかったようだ。
 いつもいつも俺の前を歩いていて、それで正論を吐きやがるなんて、何処まで行っても癪に障る奴だが……
 そうか、俺の前を歩いていたのは、一足先に俺の進む方向を見ていてくれていたからなんだな。
 そして、自分は導き手を演じた。貴様自身が望む道を捨ててまで、だ。

『自分の命の価値を決めるのは腹黒い豚共じゃあない。況してや、自分で決めるものでもないんや』

 そうだ。やっと答えが判った。
 そうだ、そうなのだ。俺の命はそう安くない。
 邪神教にくれてやるほど安くはないし、自分勝手に取引できるほど軽くない。
 自分の命の価値を決めるもの。それは他ならぬ   自分という存在を、愛してくれる人。

 ソニアは俺を愛してくれた。
 だから今まで共に歩み、支えあってきたのだ。
 今の自分があるのは、ソニアのお蔭だ。
 そして今、ソニアが脅かされていると感じた時、俺は今までにない怒りで我を忘れてしまっても居た。
 “価値”とはそういうものなのだ。
 だからこそ、何の後腐れもなく受け入れられる。
 ……この、自らに課せられた試練とかいうものを。


 俺は宛がわれた肉塊を、自分の口の中に誘う。

 ……最早、躊躇はなかった   


「! マスターッ! 待ってっ!」
 ソニアの絶叫。貴様を裏切る事は辛い気もしたが、理解して欲しい。俺はこの腹黒い豚共の策謀に貶められるべくいることを。
 それが他でもない、こんな傲慢な“人間”を土くれでありながらも愛してくれた貴様の
    ソニアの、為に。


 口の中に苦ったらしい血の感触が広がる。歯を突き立てるが異様な弾力に逆に吐き気を催す。仕方が無い、奥歯で小さく噛み千切りながら破片を飲み込んでいく。
 やがて口の中の血の残滓を舌で掬ったところで、塞がれていた俺の口には栓がなくなる。
 だがその途端息が荒くなっていき、意識が急激に遠のいていった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
「……全て飲み込んだようだな。それでこそ、ヴァーチャーと一緒にさせた甲斐もあったか。大人しく教団に忠義を誓っていれば幸せだったものを、悪戯に自我など目覚めよって。所詮、出来損ないの人形が人間染みた遊びなどしたところで、人間にはなれんというのに」
「マスター。   そんな」
 苦しい。体の内側から、虫が湧き上がる感触。そしてそれは俺の脳みそを蝕み、遠慮なく弄繰り回す。その瞬間の吐き気と言えば凄まじいものだったが、胃の中の肉は根を張ったように喉から出てこない。
「えほっ、えほっ……くっ……おえ……っ」
「ゲーテよ、儂に感謝せよ。御主“が”辛いのは最初だけだ。体に適合すれば、御主は不老の力を手に入れられるぞ」
「適合しなければ……どうなる……!?」
「何、その時は死ぬだけだ」
「……」
 俺はその言葉に、僅かながら救いを見てしまいそうになったのだった……。



―――――



 バァンッ
   ゲーテ! ソニア!」
 その時、勢い良く集会場の扉が開かれた。
 其処に立っていたのは、先程とは見違えるほどにボロボロになったヴァーチャーの姿だった。
 だが、異様に息を荒げるヴァーチャーの登場にほくそ笑むのは教皇と使徒達だった。 
「遅かったではないか、ヴァーチャー。ほれ、儂に良く顔を見せてくれ」
「黙れ、老い耄れ。お迎えを早くしたいのか?」
 落ち着いて言い放たれたかに見えた言葉だが、これ程ヴァーチャーが殺気を口から漏らす事は嘗てなかった。教皇は余裕を浮かべる。
「全く、口の利き方を知らん小僧が。自らの置かれた状況が判っておるか? 御主は儂の罠に態々引っ掛かりに来たのだぞ」
「だから? そんな小細工で俺を思い通りに出来ると思ってんのか?」
「自信過剰だな。直ぐにでも人質は取り返せるといわんばかりだ」
「それは直ぐに判るんだよ   駄法(だぼ)が」
 キュイィッ
 ヴァーチャーの瞳がダークブラウンから鮮血の紅に染まる。本気で魔法を打ち出す、奴独特のお決まりの演出だ。周囲にラップ音のようなものが響く。
<ザァヤナクゥよ。密告者達の王よ。舌の乾きを咎めと為すなら、飢えを血の滴らん肉で癒せ>
 聞いた事のない詠唱。恐らく、奴が世界を回って見付け出した古代の魔術……若しくは、彼奴の事だから自分で編み出したものなのかもしれない。
 ヴァーチャーは腕を突き出す。その手の先に複雑に入り組んだ紋章陣が浮かび上がり、其処から触手のような、異形が槍のように突き出してくる。
 だが……


   無駄だ」
 徐に使徒が四人、教皇の前に立ち塞がり、杖を掲げる。
 すると俺達と教皇達を囲む結界が生まれ出でた。
 触手は結界に触れると、幻であったことを露呈するかのように空気に消えるのだった。それを見たヴァーチャーが酷く狼狽する。
「! それは」
「ヴァーチャーよ、残念だったな。御主が集めていた魔道具は、今では有難く使わせてもらっておる。特に御主の部屋に置いていた『聖ケルニールの十字架』はとても優秀な結界の媒体だった。御主が全幅の信頼を置いていただけはある」
 ヴァーチャーは一瞬凄まじい形相で教皇を睨む。
「残飯に集るハエめ。ま、処理しておかなかった方も悪いか……」
 後悔の表情を見せたと思ったら、諦めたようにそう呟くヴァーチャー。恐らく、此処でその道具の力を熟知している一番の人物だろう。腕を力なく下ろすと、その瞳の色も黒くくすむのだった。
「その様子やと、聖遺物の力を打ち消す『聖人殺しの証』も取られているやろうな。オーケー、癪に障るが、要求はなんや? 俺が此処に来ると判っていたのなら、何かしら交渉の余地はあるんやろ?」
 ヴァーチャーが何を考えてそう口に出したのか。それは簡単な事だった。
 教皇の目的は俺達を“魔物”にすることである。それが成功しようが失敗しようが、俺達二人が生きていた方が色々と都合もいいことだろう。……成功すれば、まるまる教団の利益になりうる。だが俺達にとってそれはどう転んでも災いにしかならない。魔物になってしまえば、それは……死ぬならまだましだ。自我を失って、一生教団の犬として扱き使われる人生を迎えるかもしれない。奴にその恐怖はあるのだろうか?

 ヴァーチャーの足は、嘗てない程震えていた。それはそうだ。

 奴は   人間に憧れていたから。


 ヒュッ。
   ?」
 教皇の横に控える使徒が、何かの小さな粒をヴァーチャーに投げ付ける。結界を通り抜けたそれを、ヴァーチャーはしっかりと受け取り、掌を開いてまじまじと見詰めた。
 俺は肉の塊を食わされたが、ヴァーチャーに渡されたのは   何かの種、だった。
「飲め」
「……これは   
「飲め、と言っている」
「待て、此れはなんや?」
「黙って飲めと言っているのが、聞こえんか?」
 ソニアのルーンに刃が向けられる。
 見間違いだろうか   ソニアの目から、ぽたんと、雫が落ちた。
「お父様、ごめんなさい……」
「ソニア……」
 苦しみも治まり、俺はソニアの方に首が回せるようになっていた。その時、ソニアは懺悔を始めるかのように俯いていた。
「……ソニア、大丈夫や。お前等の事は、な〜んでも判ってるっ」
 迫りくる言い知れぬ抑圧と絶望に、情けなくガチガチと震えている癖に、そう快活に笑ってみせる。
 だがそれにソニアは、また一つ目から雫を零した。
「ソニアが、マスターを早く教団から離していれば……!」
「だから判ってるって。……俺の試みは成功したんやな。俺はその事が嬉しいよ」
「お父様、でも」
「……芽生えは、豊かさを産む。ソニア、その芽生え、大切にしろ」
 ソニアは何粒も何粒も雫を零し始める。確かに、体をブルブル震わせて怯えている癖に、俺達の事を気遣って、強がっている奴の姿は、本当に、見るに耐えかねた。
「くっ   ヴァーチャーッ!!」
 残り少ない体力で、喉から声を絞り上げる。奴は俺の存在に初めて気付いたという風なふりをして、この期に及んでおどけて見せていたのだった   それは、稚拙な気の紛らわし方だった   
「早く飲めと言っておるのだっ。このゴーレムのルーンをズタズタにして、上から惨めな売女になるように書き換えてやろうか?」
 教皇が建物に響くほどの声で脅しをかけると、ヴァーチャーは体をビクリと震わせ、半ば自棄になりながら叫ぶ。
「っ! 判った! の、飲めばっ……。


    飲めばいいんやろうッッ!!


 ヴァーチャーは掌に包まれていた黒い種に目を降ろし、一瞬躊躇を見せてから、意を決したように口の中に放り込む。


    ゴクッ





――――――――――





「そ、それからどうなったのでするかっ?」
 暗闇の回廊を歩きながら、少女は只一人熱心に続きを尋ねてくる。
「私は見ての通り、命を失う事はなかった。寧ろ、人間のままで長い寿命と強大な魔力を手に入れる羽目になった。それが、幸いといえたのかどうかは微妙だが」
「……ヴァーチャー殿、は?」
   皮肉だった」
 俺はまずはその一言に万感の意を込める。
「平凡な人間でありたいと願った奴の方こそが、才能のある奴の方こそが……化け物になってしまう事なんて、無かったのに」
 何処までも、お前は理不尽な才能の持ち主だ   


 俺は昔話を一区切り話し終え、丁度目の前にあった扉に手を掛ける。両開きの重厚な扉の中央には紋章陣が描かれている。随分と懐かしい封印だ。嘗て俺が施したものなのだが、今はそっと触れただけで先客の存在が感じ取れる。
 俺は封印を自らの手の中に吸い込み、扉を押し開く。すっかりと寂れてしまったこの場所は、俺と奴との因縁の始まりとも言うべき場所だ。俺が力を手に入れ、奴が化け物に変わった場所……

    邪神教本部、集会所跡。

 広く人を収納できるこの空間、奥では穢れた十字架が朽ち果てている。長い年月を経て抜けてしまった天井からは満天の星空が切り取られ、自慢げに掲げられていた。

 ……それを、ぼんやりと見上げる人物が、一人。

   綺麗やな、ゲーテ」

 奴は、俺達の到着に全く動じる気配もなく、空を見上げたままだった。
「ああ」
「こんな星空は、嘗て見た事があったかな」
 奴が見上げる星空は、何の変哲も無い。空一面に燦然と輝く光の粒。それが美しいグラデーションを描いていた。
「さぁ、な」
「偶には立ち止まって、空を見上げてみるなんて事も大切やよな。お互い、長生きしてきた訳やし。……でも、変やな。そんな余裕、今まで無かった。長生き、してきた筈なのに」
 暫しの沈黙。だが、この懐かしく忌まわしい場所には、怨嗟の唸り声が渦巻いている。俺の協力者の中には、この瘴気染みた空気に眉を顰める者も居た。
 不意に、奴は擡げた頭を下げて語る。
「最近、なんや」
「?」
「自分の記憶や、行動の意義が、曖昧になっていっているのに気付いたのは」
「……そうか」
 記憶に際してはソニアの事を忘れている件に関して言える事だった。そして奴の言動、行動に関して、益々おかしいと感じた事もあった。いや、元々変わった人種ではあったのだが、それとは違う、異変というものが。
「いや、違うな。元々曖昧やったんや。五〇〇年前、あの時から俺の全ては曖昧で脆いものとなっていた」
「……そうだな」
 だが今はそんな事はどうでもいい事なのだ。それは、奴とも共有できる感覚だったらしい。奴は肩の力を抜き、ふぅと息を吐く。
「そんな事、今はどうでもいいか」
「ああ……」
「……」

    ザァッ

 不気味の風。蛇の舌の様にチロチロと頬を舐め回す。
 奴は一息吐いて見せると、途端に俺達に体を向ける。その瞳は噴出す血の如き赤。それが宵闇の中に浮かんで、俺達を射抜くのだ。
 そして、妙に演技掛かった口調で、両腕で抱擁しようかというほどに手を広げてみせる。
「只! 判っている事は、ひとつ、や」
「ああ」
「俺達、み〜んなが、幸せになる為には……いくつか死体が必要、と言う事だけ」
 悪魔に自身の秘密を明かすかのように人差し指を唇に添える。奴の癖だ。核心や美徳とやらを交えた答えに対するヒントを口走るパターンが多いが、今回ばかりは俺もこう言い返してやる。
「……そうかな」
「ん?」
「必要な死体は、ひとつ、あればいい」
「はっ」と鼻で笑うと、奴はそっぽを向いて見せた。まるで、悪い冗談でも聞いたような態度だった。
 だが、それは間違いのない、少なくとも俺にとっては本気の言葉だった。
 途端に互いに無口になり、また辺りには恨めしい声が聞こえ始める。

    今度は此方から賽を投げよう。

「ヴァーチャー。もう直ぐ貴様を楽にしてやれる」
 もう充分だろう。お互い、長く生き過ぎた。
 もう、時代は疾うに変遷したのだ。
 長い時間は過ぎ去って、風に吹かれた砂が全てを飲み込んだ。
 お互いの過去も、嘗ての居場所も。


 俺の手に燦然と輝く指輪。
 まるで、空に輝く星が一つ零れ落ちたかのような其れを、俺は取り出して奴に見せる。
 奴は其れを見ても何も反応しない。まるで石ころを掲げた俺の行動が理解出来ないと言った風に。
 卑怯な男だ。
 人の命の価値とは、愛してくれる人の為にあると俺に気付かせた野郎が、自分では其れを忘れちまったとは。
 そういえば、あれから人としての寿命が尽きてからも長く生きてきた俺達には、決定的に違った点が一つあった。
「マスター。絶対にお父様を休ませてあげましょう。   安らかに」


 俺の傍にはソニアがいた。

 だが、堕ち果てたお前の傍には   誰も、居なかったのだ。





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【メモ-人物】
“スヴェンとエリス”〈その手に告げる事無かれ〉より

剣帝の異名を抱く元南洋正教会騎士スヴェンと、才能皆無のリザードマンエリス(ロリ)の組み合わせ。ヴァーチャーとは敵として対峙し、命の危機に瀕した所をゲーテ達に助けられた。

今回、二人は敵として不可解な行動が多かったヴァーチャーに真意を問う為、ゲーテの呼び掛けに応じた。



因みに、聖剣の名称はCGI導入後から無かった事にされている。

10/07/15 17:36 Vutur

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