読切小説
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人生の対価

 おおかたの伝説がそうであるように、「知恵者エランの物語」もまた異説と矛盾に満ちている。
 しかし彼とその妻の運命を大きく変えた契機が「盾の大公」にまつわる物語であることは、どんな皮肉屋の吟遊詩人であれ異論を挟む余地がない。

 まだエランが知恵者とだけ呼ばれていた時代のことである。
 彼の故郷は盾の大公なる君主によって統治されていた。
 かの大公は神々より賜ったと称する大盾の加護を受け、いかなる剣や毒、病や呪い、老いすらも退け、永年の経験によってよく領地を治めていたという。
 ある時を境にして、この大公が狂を発した。
 賊を討つと称して村を焼き払い、民に重税を課して己のみが財貨を蓄え酒色を貪り、忠言を耳に入れるものを廃して甘言を重用した。
 季節を無視して働き手に労役を課し、臣下の妻や初潮さえ来ぬ幼子を後宮に入れるに至って領民は義兵を起こしたが、大公の持つ盾の加護によって傷一つ負わせることができぬままに、酒宴の余興となるばかりであった。
 そこでエランは一計を案じた。
 妻ユマの兄ヤサカを妹と偽って後宮に潜ませ、彼がサイクロプスから受け取ったという名剣をもって大盾を一刀のもとに断ち割らせたのだ。
 いままで退けてきた諸々の災いを一身に受けて大公はその生涯を終え、エランとユマは連れ添って国を出奔した。
 そこから彼らの波乱万丈の物語が始まるのである。

……というのが「知恵者エランと盾の大公の物語」の大筋である。
 一幕の立役者たるユマの兄についてはヤサカという名が伝わっているのみで、その来歴はおろか行く末も明らかでなく、この後に長く続くエランとユマの物語に一言半句も顔を出さない。
 そのためか実在が疑われたことも二度や三度ではなく、話を端折りたがる吟遊詩人は剣士の役をエラン自身に割り振ることにためらいがない。

 だが物語の沈黙にもそれなりの理由がある。
 実のところ、この剣士が物語に出来ぬほど陳腐で安易な恋の最中にあったことを知るものは、本当に少ない。

***

 澄み切った音が石造りの工房に響く。
 音律の体を成していないのは、焼けた鉄が求める最善の間隔が耳触りのいい律動から少しズレたところにあるからだ。

 刑が執行される日を知らない死罪人はこのような気分だろうか。
 己の掘った墓穴の深さを思い知り、刀鍛冶のステラは手にしたハンマーを握り直した。
 完成させた仕事に不安はない。
 いかな神々の加護とはいえ、その神々の武具を鍛えてきた自分たちサイクロプスの業をもってすれば断ち割るのは容易いはずだ。
 となれば不安は使い手の技量か?それも否だ。
 用いるに足ると思えばこそ、秘伝の限りを尽くしたのだから。
 剣士が死んだとは思っていない。
 その程度の人間ならそもそも自分の住処までやってはこれない。

 音が濁り始めた。

 報酬がきちんと払われるか否か。ステラの心中にある不安とは、身も蓋もなく表現すればこのようなことになる。
 本来であれば先払いで要求すべきそれを後回しにした理由は二つ。
 一つは依頼主があまりに必死であったこと。もう一つは、ひとえにステラ自身の恐怖であった。
 そう、恐ろしいのだ。
 報酬を踏み倒されることではない。
 報酬をあの剣士に踏み倒されることが、何よりも恐ろしい。
 臆することなく、この単眼を見据えた剣士が。
 無邪気に角に触れたがった青年が、青い肌の、火傷と刀傷だらけの手を取って喜んだ男が。
 目的を達成した途端に、苦笑あるいは怒りを浮かべて己と相対する……そんな想像が、どうしても止められないのだった。

 わだかまりに任せて振り下ろしたハンマーは、焼けた鉄に悲鳴をあげさせる結果となった。
 手に帰ってくるのは錬鉄の手応えではなく、地金から伝わってくる断末魔の声。
 中程からへし折れてしまった鉄を炉にくべ直し、この日に何度目かになる深いため息をつく。
 代々受け継がれたイグニスの炎は、己の致命的ともいえる失策を一瞬で消し去り、また元の地金を作り直す。

 迷ってはならない。迷いがあるならば槌を持ってはならない。
 なぜなら刀鍛冶に迷いを断つことはできないからだ。迷いを断ち切らせることこそが刀鍛冶の本領であるのだから。

 母親から受け継いだ最初の教えを、無言のうちに唱え直す。

 引き上げた地金が鏡のような光沢を放っていたのは一瞬のこと。
 己の異相を目の当たりにするには、十分すぎる時間だった。
 他に類を見ない単眼。どんな生き物にも似ていない肌の色。ふれあう事を拒むがごとく生えた角。
 どう見ても美しさからはかけ離れている。
 少なくとも、人が好ましく思うものではないだろう。 
 まして相手は服を替えて髪を梳くだけで女を偽れるほどの美貌だ。
 挙句の果てがこの仏頂面である。笑わぬものに惚れるものがいるだろうか?

 幼い頃、父と母が睦み合っていたところを覗いてしまったことがある。
 母はまるで別人かと思うほど蕩けた笑みを向けていた。
 母が愛されているのはそのような笑顔を見せているからではない。
 父に愛されているから、そのように笑っていられるのだ。
 幼心にそう確信できるだけの一幕であった。ステラが同族と比べてもなお色恋沙汰に臆病であるのは、それが原因ではないかと真剣に思っている。

 地金を鍛え直すことは諦めた。今の自分は迷いと揺らぎそのものだ。
 いかにハンマーを振るってもそれが剣の傷となるだろう。
 で、あるならば。
 多少の手違いや心の迷いならば飲み込んでしまうような作業がいい。
 鍛冶仕事よりも少ない鉄と小さな火を用い、時と秤にさえ気をつければ大概を飲み込んでしまう工程……料理などはうってつけだ。
 山羊の肉を切り分け、脂身と乳脂を鍋で煮溶かして玉葱と小麦粉を炒め、骨の煮出し汁と乳で伸ばす。何とも言えない甘い匂いが漂ってくれば、あとは機械的な作業が待つのみだ。
 そこに生まれる心の余裕、思考の隙間から漏れ出てくるのは、やはり依頼主のことである。

***

 すり減って使い物にならない刃物に、無理矢理火を入れて研ぎ直した間に合わせの剣。それがヤサカと名乗った剣士の第一印象であった。
 いや、もっと正直に言ってしまおう。
 ステラは“それ”が言葉を発するまで、眼前に立つものを人間だと理解できなかった。
 供回りもなく、山を登るための装備といえば毛皮の手袋と鋲を打った靴に、北国の秋でも厳しそうな薄手の毛皮のマントだけ。
 他の何者も振り切ってしまえとばかりにあらゆる情を宿さぬ顔は、霜の降りた鉄よりもなお冷たくこう告げたのだ。
「神々の加護を切り捨てる剣を打ってくれ」と。
 人影がステラの返事を聞くことはなかった。返事をする前に、その場に崩れ落ちたのだ。

 結論を先に言えば、第一印象は間違いであった。剣を志す者が最初に持たされる模擬剣そのままに、良く言えば王道、悪く言えば凡庸。
 だがそれを極限まで突き詰めたが故に、およそ余人が考えもしなかったところまで到る剣。
 最も凡庸なままに高みへと到るそのために、最も合理的で最も巨大にならざるを得なかった金字塔。
 それがヤサカという剣士の“剣のかたち”であった。
 ステラの見立てが正しければ、七割八割がすでに完成を見ている。
 実のところ刀匠としてはそそられぬ素材と言ってよかった。
 この形をした剣士が完成を見たとき、その手にあるのは何でもかまわない。
 数打ちの安物であれ木の枝であれ、「その手にあった」という事実だけで至高の武器として後世に語り継がれることになるだろう。
 サイクロプスの武器が欲しいというだけの理由ならば門前払いにしてやろうと、半ば拗ねながら思っていた。
 満天の星空に似た髪が単眼に眩しく写っていたというのも、理由の一つではあったけれども。

 剣士の要求は単純だった。
 かの大公が持つ“黄金の大盾”の加護を盾もろともに断ち割る、そのためだけの剣を一振り。
 後に栄誉をたたえられる必要も二度振るう暇もない。ただ一刀をもって神々の祝福を退ける剣を鍛えてくれるだろうか、と。
 俄然興味が湧いた。神々の加護に勝る武器を、という依頼ゆえにではない。
 神々の武具も神殺しの凶器も、およそ地上において鍛えられるのは自分たちサイクロプスをおいて他にはない。

 ステラはこのとき、見てみたいと思ったのだった。
 金字塔が使い古した剃刀と思えるほどの覚悟の源を。
 そう思わせる執念の正体を。
 そして何より、この剣士が己の剣を手にして十全な戦ばたらきをする、その姿を。
 正体のわからない寒気が背筋を駆け上り、それについて考えるよりも早く、求める報酬が口を突いて出ていた。

 たとえ何であれ、己の裁量において支払えるものを支払うという、その約定をもって剣を贈る。こちらが報酬を受け取るのはその後。
 報酬に命を求められるかもしれないという残酷な問いにも、青年はいっそ無感動なほどに頷いた。

 それでよいのなら、喜んで。

 己一人で済むことでよかった。そう安堵した表情を思い返せば、自分がどうしようもなく浅ましいことを目論んでいるような気分になる。
 憂鬱は際限なく深まり、はねのける要素は何一つない。
 一番の憂鬱事は、ひょっとしたら何もかもが目論見通りに上手くいくのではないかと考えている自分自身だ。
 楽観と悲観に引き裂かれて、ステラの魂は虚空をさまよっていた。
 そしてそれを現世に引き戻したのは、馬も供回りも連れない徒歩の足音。
 静かなのに、万里を越えて万象に染み通る、穏やかな声。

「ごめんください。ステラ殿はご在宅か」

 親友と妹の結婚式を見届けるというそのためだけに、神々の加護すら断ち割る剣を求めた、おひとよしの声だった。

***

 先に湯を勧めたのには三つの理由がある。すなわち誠心と打算と私心だ。
 ドワーフたちも単独行を戒めるこの山嶺に訪れるまでの疲れをねぎらう誠心。
 報酬の支払いに際して退路を少しでも絶っておく打算。
 そして、知らぬ間についていた白粉の匂いを取りたい私心。

 果たして一つ目と三つ目に関して、ステラの目論見は達成された。
 最初に来たときよりも幾分濃く見えた疲労はすっかり取り払われ、由来のわからない白粉の匂いは綺麗さっぱり消えていた。
 安堵の反面、どうにも落ち着かない。隠し事というのはここまで心に重いものだったろうか。

 ヤサカの顔には笑みさえ浮かんでいて、表情は腑抜けたのかと思うほど柔らかい。己の腕一つで世の中を渡ろうという稼業の顔には見えなかった。
 身に纏っているのは旅装ではなく、ドワーフの村長が押しつけてきた毛織りのバスローブ。
 ステラが着るには大きすぎる代物だがそれもそのはず。ドワーフの長から贈られた、男性用に仕立てられた代物である。
 有無を言わさぬ勢いに半ば飲み込まれ、使うあてもなく使い回すには思い切りも足りぬ。
 結果として衣装箪笥の中に押し込まれていた服がやっと日の目を見たことになる……未練もたまにはよい仕事をする。
 合わせ目から覗く肌が、艶めいて見えることを除けば。

 ヤサカといえば、初めて来るわけでもないのに、物珍しげに鍛冶以外の何者も表さない部屋の中で視線をあちらこちらに向けている。
 疑念が視線に出てしまっていたのだろう、こちらに気づくと恥じらうように剣士は笑った。

「最初に来たときはそれどころでは無かったもので……」
「……楽しく、ないのに」

「いえ。楽しいですよ。貴女を見ているようで、とても楽しい」

 本音で言っていることがわかるから、目を伏せるほかなかった。
 ワインでも出しておけば黙ったろうか。

***

 よく発酵させた白パン、昨夜に潰した山羊の肉をたっぷり使ったシチュー。
 湯で戻した干し葡萄と干しイチジクに暖炉であぶったチーズをからめ、蜂蜜まで垂らした熱々のデザート。
 ろくに精白もしない岩麦で焼いた平焼きのパンと、材木と区別のつかないほどの燻製肉が常の食事からは考えられないほどに豪勢な献立だ。
 少し気合いを入れすぎたかとも思うが、目を輝かせて喜んでいる姿が見られたので帳尻は合っているものとする。
 客人が遠慮がちだったのは最初の二口までで、あとは鍛錬に見合った見事な食べっぷりだった。
 しかもそれぞれの料理ひとつひとつの食材を丁寧に味わってくれるのだから、作り手としてはこれ以上の喜びもない。
 いっそこのまま一夜の宴を開いて有耶無耶にすることも考えないではなかったし、報酬を受け取るのは作り手の義務である、という母親の教えが無ければ、その考えを実行に移していただろう。

 そして、そのときは唐突に来た。おおかたの重大事がそうであるように。

「報酬の話ですが、何をどれだけお支払いすれば良いのでしょう」

 今のステラが死罪人であるとするならば、刑の執行を告げる獄卒は、まさにこの言葉である。
 覚悟を決めるために目を伏せていた時間は、果たして蝋燭に火がつくまでの時間よりも短かった。
 そして最後に残された矜持をもって、首の落とされるその瞬間まで目を開ける罪人がそうするように。
 ひとつしかない目で、ただひとつを見るための目で、剣士の顔を見据えて問いに答えた。

「あなたの、お金も、命もいらない。
 人から、奪え、とも、言わない。欲しいのは……」

 そこで息が詰まる。
 命をつなぐはずの鼓動が、自分を殺そうと全身を強打する。

「継いだ業を、次の世に残すこと。
 だから、あなたの、血と種を……ください」

 悔いと恐怖で血の気が引いていく。
 脳裏にあらゆる断りと罵倒の言葉が去来した。
 面食らったヤサカの顔が否定の表情に変わることを覚悟する。
 手の痛みが、布を巻き込んで皮を破るほどに強く握りしめた故だと、しばらく気づくことができなかった。

「それでよろしいんですか?」

 拍子抜けした声と、何か罠を疑うような顔つきのせいで、ステラの胸中に灯った感情がある。自分でも驚くほかない。
 胸中にわだかまっていた悔いと不安と恐怖をまとめて吹き飛ばすほどに強く、そして大きな。
 それは、怒りだった。

「いいの?本気?」
「ええ」
「何故」
「剣を鍛えてくれたときから、……その、好ましいな、と」

「ふざけないで」

 立ちあがっていたことに気が付けたのは食卓と食器が揺れた音のおかげだ。

「抱けるの」

 自ら服をはだける。羞恥はどこかへ消えてしまっていた。
 鍛冶仕事に欠かせないサラシも一緒に落とす。
 どこかで冷えている頭が、自分も風呂に入っておくべきだったかと悔やみ、そして冷笑をあびせる。

「こんな青い肌」

 歩を進める。
 内心のわだかまりがそのまま言葉になってあふれ出る。止めようもない。
 涙で視界がにじんで、ヤサカがどんな顔をしているのかわからない。

「一つ目。火傷だらけの手……っ!?」

 畳みかけようとした言葉は、しかし最後まで続くことは無かった。
 まさに今告げた手を、いとおしげに握られてしまって継げる二の句など、この世のどこにあるだろう?

「あなたが世界で一番綺麗です、ステラ殿」

ヤサカの目に写る自分の顔が、なぜか在りし日の母親に重なって見えた。

***

 剣士が服を脱ごうとするのを、ステラは上半身だけでいいと押しとどめた。

 脇腹には槌矛で抉られた肉の痕、よほどの根気が無ければ数えきるのも難しいほどに肌に刻みつけられた大小の刀傷に矢傷。
 命も危ういほどに深く胸と腹を貫いた二つの槍傷。
 煮詰めた蜂蜜の色をした肌に抽象画めいた跡を残す無数の傷が、柔和な笑みにも、端正といっていい四肢にも影を落としていない。
 異様な強さの持ち主にたまに見られる、強くなるために得てしまった歪みというものがないのだ。
 痛みを覚えるという機能が魂から欠落しているか、さもなくば自らが得た傷を、痛みを、失策を噛み砕いて飲み干せる度量があるのか。

 後者だろう、と思う。後者であって欲しいと期待する。そうでもなければ、花嫁を奪われようとする花婿のために剣を求めることはないだろうから。
 改めて自分がとんでもない暴利を貪ろうとしているのではないか、と言う疑念が消えない。
 己の技にそれだけの価値がないとは思わない。そもそも剣と子種を引き替えにするのだから、極論すれば相手に気を遣う必要すら無い。
 つまるところ、ステラはヤサカのことを理解したいと思っていたのだ。それだけの話だった。

 ヤサカは視線を所在なげに彷徨わせていた。湯上がりに部屋のほうぼうを眺めていた時とは違う。
 そこら中に興味があるのではなく、視線が一カ所に集まるのを避けるための動き。
 こちらに目を向けようとして、畏れるように視線を逸らし、それでもステラ自身を欲してどうしようもなく動く目線。

 知らずのうちに口元が緩み、耳と頭を強打していた心臓の鼓動がいくぶん穏やかになる。
 見られる、ということがこれほどまでに快いものだとは、今の今まで考えたことがなかった。

 心は軽く、体はさらに軽い。寝台の上に腰掛けるヤサカの近くに身を寄せることを、考えもせぬ間に実行できるほどに。

 ヤサカは奇妙な振る舞いを見せていた。
 背筋や肩は強張り、目はあらぬところを向いている。
 顔に浮かんでいるのは、まごう事なき緊張と恐怖。

「恥ずかしながら、私にはそういう経験が……」
「私も初めて。なんとかする」

 剣士の胸元に伸ばす手は、すでに震えていなかった。

「動かないで」

 肌の境目が融けた。もちろん錯覚である。
 スライムでもなければそのようなことが起こり得るはずもない。
 もっともふさわしい武具を見出すために用いられるサイクロプスの五感が、その持ち主すら知らぬうちに総動員された
 ヤサカの肌触り筋の盛り上がり、骨の太さや内臓の感触までもを通り越して、ヤサカという人間の全を伝えてくる。

 故郷の光と風と水と土と、そして人。
 最初に握った剣の感触。師から受け取った無数の教え。途方もない鍛錬。
 幾多の戦いで受けた傷と痛み、それすら上回る鍛錬。
 背に傷を受けることすら厭わずに守り通した矜持。
 友の笑みと涙、妹の怒りと笑み。
 ふたりの愛に対する祝福。領主の発狂、苦役。無力への嘆き。
 それらに勝るとも劣らぬほどの幻像がひとつ。
 意識すらできぬほどに。強く深く刻みつけられた、槌を振るうステラの姿。

「ぁ……ぅ……あ、あ……」

 鉄も溶かせるのではないかと思うほどに顔が熱い。
“死刑宣告”を待っていたときとは違い、その先にあるのはまごうことなき期待の念であったけれども。
 指先で筋肉をなぞり、手のひらと皮膚を重ねるたびに湧き上がる幸福を、いったい何に例えればよいのだろう?

「……その。そうやって触られると恥ずかしいのですが」
「あなたは私の報酬。品定めする権利と義務がある」

 答えるたびに言葉が腑に落ちていく。心が明確になっていく。
 病みつきとはこのことか。
 指でなぞるたびに掌に収めるたびに、貪欲に次を求めてしまう。
 剣士が放つどこかしらに笑みを含んだ息が、こちらに向ける潤んだ視線が、心の中に潜んでいた何かを呼び起こしていく。

 傷痕すらいとおしい。見るだけではとても足りない。指を這わせるだけでも不十分。幸か不幸か、彼自身の匂いは石鹸の香りに塗りつぶされていた。
 五感の全てに収めなければ、この饑えはとても満たされるものではない。
 だから、そう。肌に舌を這わせるのは、ステラにとっては全く自然な成り行きであったのだ。

「ひゃうっ!?」

 この声には聞き覚えがあった。背筋にいきなり雪を入れられたときの自分の声に瓜二つ。驚く声の何と甘いことか。
 切り傷を縫い止めるように甘く噛む。矢傷そのものを吸い出すように唇を使う。凹んだ皮膚をなぞるように舌を沿わせる。
 その都度耳に届く声に耐えられない。魂が揺さぶられて、中身がぐちゃぐちゃになってしまう。
 自分の手指は胸板をなぞり腕を支えるのに忙しい。それを防ぐ手立ては一つしか思いつかなかった。

 口で塞ぐ。肌とは違う、まとわりつくような熱。チーズと果物の甘み。
 これは自分がこしらえたデザートの残り香。
 その奥にある、甘みとも旨みともつかない不思議な味。唾液なのだろうか舌なのだろうか。だが根本を探ろうとする試みは成功しなかった。
 動かした舌が、ヤサカの舌に絡め取られ、脳天ごと蕩けさせられた挙句……腰に何か、また別種の熱を感じてしまった。

 そこから先は思考すら割り込めない。気がついたときにはヤサカに産まれたままの姿をさらさせてしまっていた。
 どこを見ている、ということはない。サイクロプスの単眼がもたらす視野にとって、注目や注視とはそれほど意味のある言葉ではないのだ。
 ひどく浮いている。人生で初めて見た男性自身の印象がそれだった。
 顔に浮かぶ羞恥と期待が入り混じった笑みにも、傷だらけになって積み上げてきた鍛錬にも、関係がない。
 ただ目の前の雌に押し込もうとそそり立つ雄の姿があるのみだ。

 触れてしまっては駄目だと、最後に残った恐怖が言う。
 もう後戻りのできないところに一歩を踏み出してしまい、そして戻ることはない。
 それも自分だけではない。目の前にいる愛しい人も巻き添えにして、希代の剣士の一生すら台無しにするだろう。
 だからどうした、と心の中の飢餓が言う。おまけに理性も報酬を求めろと後押ししてくる。

 そうしてまた、思考が消える。

 熱。体のどこにも似ていない感触、脳髄を直に揺さぶられるような脈動。毛織りのシーツに雨だれのような音、口を濡らした涎と気づくのに数秒。
 胸の奥に、今触れているものと同じ形の空白ができる。そ
 れを埋めようと下腹から熱がせり上がって、脳天まで一気に貫いた。
 震えが止まらない。視界に入るのはヤサカの姿だけ。ろくに力も入らないのに、手足はこれまでにないほど思うままに動く。
 見た目の堅さよりもずっと繊細な器官ということがわかる。皮膚の張り、骨でも肉でもないものの反応、脈動の間隔。
 先端からにじみ出る、おそらくは自分の股ぐらを重くしているのと同じ種類の体液が出す匂い。
 どう扱えばどういう反応を返すのか。どのような快楽がヤサカの身を走るのか。
 それらの全てが、火と鉄を扱うようにステラの掌中にあった。

「……っ、ふっ、きゅ……」

 体液が広がっていく粘っこい音に、生まれたての獣がむずがるような声が絡みつく。ヤサカの手が己の口を塞いでもなお漏れ出る喘ぎ声。
 それが何とも、ステラには不服であった。

「聞かせて」
「……え……?でも、その、あまり良い物では……」

「それを決めるのは私。……お願い」

 息を呑む気配がした。ヤサカの目は潤み、顔に浮かんでいる朱は先ほどまでとは少しばかり違う羞恥。そして少しばかりの怒りと自棄。
 返事は、半ば吐き捨てるようにさえ聞こえた。

「……狡いですよ、ステラ殿。
 男がそんな風に言われて断れるとでもお思いですか」

「いい心がけ。素直に報酬を渡しなさい」

「子種だけで済むことでは……うァっ!?」

 二度目の反論は、幹の部分を強く握ることで封じる。
 敷布に染みを作るまでに体液を溢れさせ、痛々しいほどに震えるそれは、縁が盛り上がるまで中身を注いだ椀に似ていた。ほんのわずかな刺激で、

あるいは刺激らしい刺激がなくとも、ただ在るだけで取り返しのつかない事態を引き起こす。

「射精……もうすぐ射精する……?」

 その取り返しのつかない事態というやつに心当たりがあった。
 最初に突き抜けた快楽と共に、魂の奥底から引きずり出された幾ばくかの知識の中にあったものだ。
 男性の快楽の頂点、子種と呼ばれるものの正体。

「……ぁっ、うぅ……」
「ちゃんと答えて」

「はい、もうすぐ射精します……」
「ありがとう。でも少しだけ待って」

 股間の屹立から手を離し、シーツにしがみついていたヤサカの手を離させる。
 傷だらけの上半身を引き起こしたとき、そうするのが当然とも言いたげに、剣士がステラの背中に手を回してきた。
 おそらくは男性にとっての恥を晒し、いいように弄ばれても、先ほどまで見せていた優しさに何の陰りもない。

「……その、ヤサカ!動けない……」
「あ!すみません、つい……」

 離れようとする腕を、同じような抱擁で留める。この温もりと別れてはいけないと、強く想う。

「動かないで。そのままで、いて……」

 ベッドがかすかに軋みを上げる。雄と雌が生み出す熱の芯を触れあわせ、そのままゆっくり降ろしていく。
 残酷なほど長い時間が過ぎたように思えて、その実は一瞬。
 押し広げられ、あるかなしかもわからない抵抗が、それでも痛みを伴って破られる。
 剣のために誂えられた至上の鞘のようにひとつに収まる。
 涙が流れるのは痛みではなく歓喜のため……悲しいばかりで涙を流すわけではないのだと、ステラはこのとき初めて悟った。

 だがその歓喜は、もっと大きな喜悦に塗りつぶされることになる。
 ヤサカがうめき声を上げながら、ついに男が耐えられる限界を超えてしまったのだ。

 溺れた。

 脈を打ちながら、未知の熱が体内に溢れかえる。唾をすすっていたときに感じた味わいを何十倍にも濃くしたものが、脳裏に閃く。
 この感触を知らないままに、今までどうやって生きてきたのか不思議になるほどの。
 そしてまた恐怖がやってきた。
 この夜が明ければまた、離れなければならないという恐怖。
 これほどの歓喜を、快楽を知った。
 それを無しにして、これから先どうやって生きていけばいいのだろう?

 息が止まり、また思考が止まる。
 その原因は、先ほどとは逆にヤサカのほうから触れてきた唇。
 たどたどしく、容赦もなく、舌を舐り歯をなぞり、唾液を啜っていく。視界をぼやけさせる涙の原因が、もはや何なのかわからない。

「大丈夫です。私でよければ、ずっと居ます」

 それを問いただす暇は与えられなかった。知っていたのか単なる興味か、それとも剣士の本能という奴か。
 サイクロプス最大の急所のひとつである角を、ヤサカが舐り上げ、あろうことか口に含んでしまったのだ。
 脳裏にしびれが走る。下腹からも頭からも、ただひたすらヤサカのことだけがせり上がって、それが虚となって体を支配する。
 その形を求めろと、身も心もその形に変わっていく。
 いつの間にか抱擁は解けて、腕の代わりに手指同士が絡む。全身をくまなく浸す快楽の中にあってもなお、かすかに走る痛み。

 多大な水気を伴った音はさらに大きくなる。もはやどちらが主導権を握っているのかなど、どうでもよくなるほどの快楽。
 お互いの名を呼ぶだけで気をやるなど、この世の誰が信じるだろう。

 最後の射精、あるいは絶頂をステラは覚えていない。ただ、薄れ行く意識の中で夜明けの光を見たような気がした。

***

 母親が見立てた頑丈にすぎるベッドにも、いささか大きすぎるテーブルにも、それ相応の意味はあるのだとわかった。
 一人で用いるための物ではなく、夫を迎えて、家族と共に過ごすためには必要な備えなのだ。
 ただ、対面に座っている男が伴侶になるというのは、やはり都合の良すぎる夢であるのだけれど。

「ステラ殿……ひとつ、お願いがあるのですが」
「何?」

 鍛冶師としては恥ずべきことだった。
 結局二人して日が高くなるまで眠っていたのだから。
 そうでもしなければ、下腹が膨れるほどに注ぎ込んだ狂乱からの回復は見込めはしなかったのだけれど。
 だがそれは、今ひとつのものと比べればさしたる問題ではなかった。

 もう別れなければならないはずの剣士の顔があまりに眩しくて、その温もりからいよいよ離れられなくなっていた。

 日が差し込まぬわけでもないのに、ハニービーの蜜蝋でつくった蝋燭にイグニスの弱火を灯しているのは、最後の抵抗と言えたのかもしれない。
 テーブルに並んでいるのは昨夜の名残……ではなく、いつも食べている粗末な代物だった。
 それでも一つ一つを噛みしめるように味わうヤサカの顔に、ステラは紛れもない幸福を感じ……それゆえに、胸の奥がどうしようもなく痛かった。

「……貴女さえ、よろしければ……ですが……。
 私を、ここに住まわせてはもらえませんか」
「なんで?」

 唐突のあまりに理性のみが働く。
 そうしなければならない合理的な理由が、ステラには思いつかなかった。

「貴女は私の妹に人生をくださった。
 だから、ご、ご迷惑にならなければ、ですが……あなたに、ご恩返しをしたいと……。それに、その……あなた方が、一度で、ええと……子供を、授かるとも限らないと、ドワーフたちが言っていたようですし……」

 だんだん声は小さくなっていく。
 最後のほうは蚊の羽音と比べられかねないほどだ。
 そこでヤサカは意を決したように首を振り、まっすぐステラを見据えて言葉を切った。

「いえ、言い訳は無しにしましょう。ステラ殿。愛しています。
 だからどうか……私と結婚してください」
「ばか」

「え……」
「ばか。ヤサカのばか。
 何で私なんかのために、そんな風に、台無しにできるの。
 こんな山奥で、もう剣士として栄達の道もないのに……」

 かすかにヤサカが瞑目して、安心させるように微笑みを返す。

「妹も親友も救えた。希代の名剣も振るえた。
 私の剣がここで果てたとしても、それはそれで天命というものでしょう」
「食事だって、いつも今食べてるみたいなのしか出せないよ?
 昨夜みたいなのはたまにしか……」
「質素な食事には慣れていますし、たまにあんなご馳走が食べられるのに何の文句があるでしょうか」

「私、わたし……本当は、いやらしくて、けだものみたいになって、今だって、本当は、ヤサカを押し倒したいって思ってるよ……?」
「男冥利に尽きます」

「じゃ、じゃあ、本気で……」
「はい。どうか私と、結婚してください」

***

「知恵者エランの物語」からずっと後世に編纂された「千恋賛歌」に「ステラの娘」と名乗るサイクロプスの八人姉妹について記述がある。
 これがヤサカとステラの娘であるのかどうかは、定かではない。

 物語の沈黙にはそれなりの理由がある。
 ときに男女の行く末が明らかでないのは、彼らが幸福である故だ。
12/05/05 01:19更新 / 青井

■作者メッセージ
大変ご無沙汰しておりました。青井です。
物凄い難産でした。毎度のことながら後半の息切れは仕様です。

神話とか読むと1エピソードしか活躍しないキャラクターそこそこ多いよね、というお話でした。
感想などいただけると嬉しく思います。

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