連載小説
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第二話「悶えたアオオニ」
 歩いて四、五分で砂浜に行ける。
 それが『龍宮亭』の人気の理由の一つだった。そして砂浜以外にも漁船の止まる港や釣り人の集まる人工の岸壁(この岸壁の素材には、魔物対策として数年前に大陸にある『教団』と呼ばれる組織が開発した特殊硬質素材を勝手に拝借して使っていた。どう言うルートで刑部狸がこれを手に入れたのかは未だにわかっていない)と言った場所にも歩いて数分で行けるため、観光客のみならず、地元の漁師や趣味で釣りをしている人達からの受けも良かった。
 遠くの人だけではなく、地元の人とも密接に関わりを持つ。それが繁盛の秘訣である。

「んっ……よっ……」

 そんな垂直に切り立った岸壁の上に、一人のアオオニが立っていた。
 竜宮亭の経理兼受付嬢の桃山花子である。
 今彼女は仕事中に見られるスーツ姿ではなく、虎柄の衣で胸と腰だけを申し訳程度に隠していると言うオニらしい格好をしていた。そして足元に丸々と膨らんだ風呂敷を置き、時間を掛けて丁寧にストレッチをして体を解していた。

「すぅ……はぁ……」

 最後の深呼吸を終え、軽くジャンプする。そして十分体が温まった所で身に着けていた物を脱ぎ、丁寧に畳んで風呂敷と地面の間に挟みこむ。登りかけた朝日が、花子の引き締まった裸体を燦々と照りつける。この開放感は一度味わうと癖になる。

「さて……」

 そんな事を考えつつ、軽く首を回してから花子が呟く。

「行こうかしらね」

 そして躊躇う事無く、真下に広がる海の中に頭から飛び込んでいった。
 水温は零下二度。午前四時の事である。




 仕事前に海で泳ぐ。それが花子の日課だった。
 誰にも邪魔されず、一人で静かに、青い海の中を気の向くままに泳ぎ回る。 この自由な一時が、花子にとっては一番の癒しであった。
 そして時折、早起きなマーメイドやメロウに出くわす事もあった。しかし花子は水中で会話する事が出来ないため、それらサキュバスのジェシーと同じ『亡命組』とは軽く手を振って挨拶するだけに留めている。自分たちの家に来ないかと彼女たちに誘われる事も何度もあったが、仕事に間に合わなくなるので両手で頭の上にバッテンを作って全て断っていた。
 でも、今度休みをもらったら、彼女達の家にお邪魔してみようかしら。
 そんな事を考えながら、花子はまさに水を得た魚の如く、水深百五十メートル地点を優雅に泳ぎ回っていた。




「よう、ハナちゃん! 今日も早いねぇ!」

 十分ぶりに花子が水上に顔を出して水滴を両手で拭っていると、近くを通りかかった漁船に乗っていた若い漁師が声をかけてきた。そしてそのまま漁船は進むのを止め、花子の真横につくようにして停止した。
 これも良くある事で、花子が毎日泳ぎに来ているのは、こうした人や他の魔物娘との他愛ない関わり合いが大好きであるからでもあった。
 そして花子は、この町に住んでいる漁師の名前と顔を全て記憶していた。全員あの旅館のお得意さまであるからだ。

「これは八助様、お久しぶりでございます」
「おいおい、ここは宿じゃねえんだ。そう他人行儀にすんなよ」
「いえいえ。いついかなる時も、お客様に対して礼を欠いてはならない。それが当旅館の鉄則ですから。そして一度でも当旅館にお泊りいただいた方達は皆、私共にとっては変わらずお客様であり続けるのです」
「相変わらずオカタイねえ。でもまあ、そう言う所もまた、ハナちゃんの可愛い所なんだけどねえ」
「ふうん……あなた、私と言う者がありながら浮気をするのですか?」

 他愛のない会話をしていたその時、不意に頭上から不機嫌極まりない声が掛けられる。驚いて上を見上げると、そこには矢張り顔を不機嫌そうにしかめながら腕を組んでこちらを見下ろしていた一人のカラステングがいた。

「いっ! ミヤ!」

 ミヤ。八助の妻だ。

「まったく、私が見ていない間に浮気をするとは、随分と肝が据わっているのですね? それもこともあろうに、龍宮亭の受付さんに手を出すなんて……一度、キツく締め上げた方が良いのかしら?」
「ばっ……! 何言ってんだおめえは! 俺がそんな尻の軽い男だと思ってんのか!?」
「私の事を忘れて他の女の人に現を抜かす時点で、そう思われて当然です! 夫として、いや人として恥を知るべきです!」
「うるせえうるせえ! 可愛い女の子についつい見惚れちまうのはなあ、男のサガなんだよ!」
「格好つけない下さい! 人の気も知らないで!」

 花子そっちのけで口論を始めた八助とミヤだったが、当の花子は慌てふためく様子もなく、「また始まった」と言わんばかりに苦笑して見つめていた。
 結婚してからも可愛い女の子を見るとつい鼻の下を伸ばしてしまう八助と、思い込みが激しくヤキモチ焼きのミヤ。そしてジパングは魔物娘が平然とお天道様の下を歩く国であり、魔物娘はその誰もが美人である。
 その結果がコレである。大通りと言わず茶店と言わず、八助がほんのちょっと視界に映った女性を見て嬉しそうに笑みをこぼすと、すぐにミヤがそれに気づいて「私よりあの子を取るの!?」と切り出してすぐに口論に発展する。
まあ口論と言っても、実際は他愛のない、端から見ればそれこそ「爆発しろ」と言わんばかりの痴話喧嘩であったのだが。それにあれだけ喧嘩をしておいて数分後にはそれが無かったかのようにイチャイチャし始める様を見れば、あの二人が本当は心の底で深く繋がり合っていると言う事は誰の目にも明らかだった。
 ちなみに常連客の二人が龍宮亭に泊まる時も、決まってこうして口喧嘩をした。最初の頃こそ止めに入っていたのだが、泊まりに来る度にああして喧嘩を始めるので、今ではもはや二人が来た際の『恒例行事』として誰も止めに入らなくなった。どっちが先に折れるかで賭け事をしていた女将のジョロウグモには、後で花子直々に『制裁』を加えておいたが。
 解説終わり。視点を二人に切り替える。

「……とにかくなあ、俺はこれだけは譲れねえ! こいつは俺の生き様、俺の信念なんだよ!」

 まだ続いていた。花子は頭が痛くなってきた。
 だが次の瞬間、花子の意識は跡形も無くぶっ飛ぶ事になった。

「なんですか、綺麗事ばっかり並べて! だいたい、その人にはもう想い人がいらっしゃるのですよ!」
「……え?」

 想い人?

「それなのにあなたはそれを横からちょっかいを出して……! 寝取りですか!? 寝取ろうとか考えていたのですか!?」
「別に寝取ろうとか考えてねえよ! 二人の恋路を邪魔するほど野暮じゃねえからな! て言うかいい加減そう言う思考回路やめろよ!」
「え、あ、あの、少し、宜しいですか?」

 不意に聞こえた花子の言葉に、二人が揃ってそちらに顔を向ける。少し怖いと思いつつも、花子が恐る恐る言葉を発する。

「あの、その、私の想い人と言うのは、いったい……?」
「? ハジメの事に決まってんだろ?」
「――!」

 一瞬で花子の顔が真っ赤になる。それに気づく事なくミヤが続ける。

「そうそう。花子さんにはハジメ君がいるんだから、手を出したら駄目なんです。ねえ? 花子さんも、ハジメ君以外の男の人とは付き合いたくないですよね?」
「つっつつつ付き合う!? ハジメ君と、付き合う!?」

 爆発したかのように花子の頭から煙が漏れ始める。心なしか、彼女の周りの海水も蒸発して微かに白い煙を吐き出しているかのように見えた。

「そ、そんな、私が、ハジメ君と、その、付き合う……なんて……」
「……おお、なんか凄いうろたえっぷりだな」
「シマちゃんの言う通りですね……なんて初々しいのかしら……」

 物珍しそうに見つめてくる二人の言葉は、もはや花子の頭の中に入って来なかった。なぜここでシマの名が出てくるのか、それについても考えを巡らす事が出来なかった。彼女は今、妄想の海の中へとダイブしていたのだ。




 夕日に照らされ、黄金色に輝く大海原。
 その砂浜の波打ち際を、二つの人影が連れ添って歩く。
 一人は人間。一人はアオオニ。
 しっかりと腕を絡ませ、抱きつくように肩を寄せあって歩いていく。急がずゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるように、この大切な時間を一分一秒残さず噛み締めるように、ゆっくりと――。

「ハジメ」

 と、人間の青年――ハジメの腕に抱きついていたアオオニが、横に連れ立つハジメの方を向いて言った。恥ずかしいからか、それとも夕日の光のためか。その顔は真っ赤だった。
 だがアオオニの行動は大胆だった。

「泳ごう?」

 そう言うなり腕から体を離し、今度は両手でそれまで抱いていた手を取って海へと引き込んでいく。
 アオオニは胸と腰を隠す虎柄の衣を身につけ、ハジメは紺の着流しを羽織っていた。
 彼は拒まなかった。
 水飛沫を立てながら足首まで浸かる。アオオニはまだ歩みを止めない。

「ほら、早く早く♪」
「ちょ、もう……まったく、ハナってば……」

 青年は困惑し、だが嬉しさを滲ませてハナの為すがままに身を任せる。
 腰まで浸かる。立って進むのが困難になる。

「ハジメは泳げる?」

 そこで一旦停止し、ハジメの方を向いてハナが言った。

「馬鹿にしてる?」

 笑いながらハジメが返す。彼が海育ちなのは承知の上だった。ううんと首を横に振ってハナが答える。

「確認しただけ♪」

 そして再び進み始める。もはや立ち泳ぎとなっていた。

「冷たいね……」
「うん……」

 完全に足が大地から離れる。遠方から押し寄せる波が二人を揺らす。

「……おいで」
「……うん」

 どちらからともなく、二人はその身を抱き寄せ合う。

「……冷たい……」
「……ハジメは……あったかいよ……」

 波にさらわれないように。愛しい人を海に盗られないように。
 二人の体温を分かち合うように。

「あっ」
「あ」

 ふと、至近距離で二人の視線が交錯する。お互い羞恥で顔を真っ赤にし、すぐに顔を背ける。
 体は抱き合ったまま、海の上でゆらゆら揺れている。

「……」

 恐る恐る、二人同時に背けていた顔を元に戻していく。再び視線が重なり合う。
 今度は拒絶しなかった。熱に浮かれた――恋に焦がれた熱い眼差しを交わし合う。
 二人の胸の内から、暖かい物がこみ上げてくる。
 もう躊躇わない。

「ハジメ……」
「ハナ……」

 二人の顔がそっと重なり合う。
 唇の形が崩れ、暖かい――とても暖かい感触がそこから広がっていく。

「んっ……」
「ふぅっ、ん、んん……」

 互いの体をより強く抱きしめ合う。口の中で舌が触れ合う。

「ん、ちゅ、くちゅ、ぴちゅ、くちゅ」
「くちゅくちゅ、ちゅ、ん、あむ、ちゅ」

 もはや二人の世界にはお互いしかいなかった。
 泳ぐことも忘れ、ただ海の底へ沈んでいくに身を任せ、そのまま二人、激しく互いを求め合う。
 海の底は漆黒。見えるのは互いの体。聞こえるのは互いの心音。
 二人融け合って、そのまま愛と欲望の底へと沈んでいく。
 堕ちていく。

「ああ……」

 気持ちいい。
 気持ちいい♪




 とか、なんとか。




「みたいな……みたいな……キャアアアァァァァァッ!」

 カラステングと漁師の目の前で、それまで固まっていた花子が突然歓喜の叫び声を上げる。
 スイッチの入った花子はもう止まらない。

「そのままキスとか続けて、その後は順当に進んで、は、初めて、私の初めてをささげっ……! もう! もうっ! なに破廉恥な事考えてるのよ私ってば! でも、ううん、違うよね。そう考えるのは寧ろ魔物娘としては当たり前の事で、好きな人とキスしたりセッ……性交したりしたくなるのは寧ろ当然の事であって、だから私が考えている事は至極正当な事であって、だから別に厭らしいとか遠慮するとか言う事は考えなくてもいい事であって……駄目! やっぱり駄目! 私そんな目でハジメ君のこと見れない! でもでも、本当はハジメ君とやっぱりそう言う事したいって言う気持ちもあるし、それで、それで、私ああもう、どうしたら良いのかなあっ? こんなんじゃハジメ君と顔合わせられないようっ! 恥ずかしい! 恥ずかしくって死にたくなっちゃう!」

 両手で顔を覆ってブンブンと左右に激しく振り回す。指の間からはみ出していた二本のツノは見るからに真っ赤になっていた。
 今度は夫婦が蚊帳の外に置かれる番だった。喧嘩の熱もすっかり冷め、どこか生暖かい目つきでそんなアオオニの姿を見つめていた。

「……俺達も帰るか」
「そうですね」

 そしてどこか居心地の悪さを感じながら、その漁船がゆっくりと岸に向かって進み始める。その間も、そのアオオニの暴走は止まらなかった。遠くからその様子を見て、三人のメロウがニヤニヤと笑っていた。

「そういえば、空を飛んでいた最中に見かけたのですが」
「どうした?」
「遠くの海から大きな船がこっちに近づいてきてるんですよ。それも見た事もないマークを帆に描いて」
「大陸の船か?」
「でしょうねえ」
「貿易船?」
「貿易船はあんなに殺気立っていませんよ……何か嫌な予感がします」
「おいおい、不吉なこと言うなよ」

 だからそんな八助とミヤの会話も、この時の花子の頭には届いていなかった。




「ねえ、ジェシー」
「ん? どうかしたの?」

 その日の夜。仕事を終え自室で一息ついていた花子は、今日も部屋にやって来た友人であるサキュバスのジェシーにそう話を切り出した。

「あ、あの、その、ちょっと相談があるんだけど」
「あら、珍しいじゃない。ひょっとして、ハジメ君絡みの事かなあ?」

 茶化したつもりだったのだが、本気で顔を真っ赤にして黙りこくる花子を見てジェシーが目に見えて狼狽した。

「え、何? 本当に?」

 黙ったまま小さく頷く。呆気に取られた顔をすぐに好奇心で一杯にして、ジェシーが花子の横に座りなおして言った。

「それで? 彼との事で何が悩みなの?」
「えっと、その、ええっと……」

 もじもじと体を揺らし、せわしなく瞳を泳がせる。が、やがて覚悟を決めたのか、真っ直ぐにジェシーを見つめて花子が言った。

「ハ、ハジメ君と、デート……してみようかな……て」
「……おおう」

 ついに来たか。まるで自分の事のように安堵の微笑みを浮かべるジェシーに、花子が続けて言った。

「そ、それで、その事なんだけど」
「そうかそうか! それでどこに行ったらわからなくて途方に暮れていると! 安心して! 私がいい連れ込み宿……じゃない、デートスポット教えてあげるから!」
「あ、ううん。もうどこ行くかは決めてるの。教えて欲しいのはその後の事で」
「その後?」

 不思議そうに聞き返すジェシーに、花子が意を決して尋ねた。

「その、ね? ……人間ってさ」
「うん。人間がどうしたの?」
「人間って……海底プレイ出来るのかな?」
「……は?」

 ジェシーは意味がわからず呆然としたが、『プレイ』と言う単語から花子が何をしたがっているのかを理解し、そして理解すると同時に今度は唖然とした。

「……海の底で、ハジメ君とシたいの?」

 言葉を返さず、ただ黙って頷く。
 何を考えているんだこの娘は。ジェシーは引き攣った笑いを浮かべた。

「どうしてそんな場所でやりたいって思ったのよ? 普通にそれ専門の宿とかで……」
「ムードが無い」

 ジェシーを見つめ返して花子が即答する。

「……ムード?」
「うん。ムード」
「海の底にはそれがあるって?」
「だって何もない、真っ暗な所なのよ? そんな暗黒の空間で、存在を感じられるのは私達二人だけ。それって、とても素敵だと思わない?」

 キラキラ瞳を輝かせながらジェシーに詰め寄る。

「素敵だと思うよね?」
「え、いや、まあその」
「ね!?」
「……はい」

 そのプレッシャーに気圧され、ジェシーは頷くしか無かった。そしてその肯定の返事を受け、花子が顔を綻ばせる。

「そうよね、そうよね! せっかくの初めてなんだから、味気ない所よりも神秘的な場所でした方がいいに決まってるわよね! ……ふふっ、ジェシーに認めてもらえると、何だか勇気が湧いてきたなあ、うふふっ」
「……相ッ変わらず、乙女なのね」

 そして一人舞い上がる花子を見ながら、ジェシーは一人、苦笑交じりにそう呟くのだった。
12/08/23 18:19更新 / 蒲焼
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■作者メッセージ
「それで、海の底で出来ると思う?」
「無理に決まってんじゃん」

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