読切小説
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愛され系苦労人
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 上に立つ者ならば、常に民の暮らしを把握しておくべきである。
 それが信条の母に連れられて、彼女は幼少の頃より国内の様々な土地を巡ってきた。ときには、辺境とすら呼べるような最果ての村々へも足を運んだ。
 彼と出会ったのは、そうして訪れた、とある漁村での事だった。
 小さな村だった。それほど幅のある訳でもない川の畔にあって、その日に必要なだけの糧を川から得る、素朴な風景の村だ。取り立てて印象的な訳でもない、何処にでもある村。
 だから、その少年も特に印象的な外見の持ち主だった訳ではない。赤銅色の肌に癖の強い黒髪――何処にでもいる少年だった。
 違いといえば、彼が大人たちの手伝いをしていた事だろうか。
 他の子供たちが遊んでいるときにも、彼だけは大人たちの中で仕事をしていた。
 とはいえ、彼の家が、子供の手すら必要とするほど困窮しているようには見えなかった。
 周りの大人たちの顔には笑みが浮かび、彼もまた笑顔だった。それは、つまり彼が、ちゃんと役に立っているという事だ。子供が背伸びをして大人のやる事に手を出しているのではなく、彼の働きが紛れもなく大人たちの助けとなっているのだ。
 勿論、子供に大人と同じ事が出来る訳がない。しかし、よく見ていると、彼は先を予測する事に長けていた。大人が一つの仕事を終えて次に移ろうとするときに、それに必要なものを予め打ち合わせてあったかのように持っていく。
 大人たちの仕事を遅滞なく進ませているのが彼の存在である事に気づいたとき、彼女は戦慄にも似た感覚を覚えた。
 自分と大差ない年頃なのに。自分は、まだ母に手を引かれているのに。
 子供なのだから、まだ出来ない事があるのは当たり前――それを正しく認識している大人たちの中にあって、彼は対等に扱われていた。
 その事を悔しく思う反面、彼女の中には尊敬の感情も芽生えていた。
 凄い、と。この少年が大きくなったら、何処まで優秀な人間になるのだろう、と。
 母の後を継いだ自分の傍らに、彼がいる光景を想像した。
 それは、とても魅力的なものに思えた。
 どんな手段を使っても、彼を自分のものにしたいと思った。
 いま思えば、それは恋と呼ばれる感情だったのかも知れない。
 そう――このときには、もう始まっていたのだ。



 王宮は、黄土色のブロック状の石を組んで造られている。
 それを隙間なく敷き詰めた謁見の間の床を、粒子の細かい砂が薄く覆っていた。
 室内には護衛の兵が数人。入口の左右に一人ずつ。壁際に二人ずつ。正面左右に一人ずつ。その奥の数段高くなった所には、玉座が置かれている。
 玉座の上で脚を組み、肘置きに頬杖をついているのは、まだ年若い女性だった。全身を飾る黄金の装飾品が霞むほどの美貌の持ち主――若くとも先代に引けを取らない風格を持つ女王、スネフェリアだ。
 彼女の見下ろす先には、一人の男が跪いている。癖の強い黒髪に、細身だが引き締まった体格の男だ。表情は見えずとも、その全身からは女王への尊敬と畏れ――そして親愛の念が滲み出ている。
 赤銅色に輝く男の肌を好ましげに視線で撫でながら、スネフェリアは笑んだ。視界の端には、彼女の右腕と言っても過言ではない部下の女性が映っている。
 女性の瞳は絶望に塗り潰され、その面には裏切られたような表情が浮かんでいた。女王の前に跪いているのは彼女が誰より信頼する――そして、それ以上の想いすら抱いている相手なのだ。
 しかしスネフェリアは一顧だにせず、傲然と男へ告げた。
 逆らう事など許さない王の言葉で、妾の夫となれ――と。
 男は大きく身体を震わせ、深々と頭を垂れる。
 女性の瞳から涙が一筋、零れ落ちた。

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 それまでペンを走らせていた書類から顔を上げ、アッシェンドラは小さく息を吐いた。
 窓の外へ視線を向けると、何処までも続く吸いこまれそうな青空が目に入る。ここ数日は晴天が続いた事もあって、今日も暑かった。
 それでも窓からは風が入って来るため、意外と不快さはない。薄絹のような衣はたっぷりと空気を含み、掻いた汗は程なく乾く。
 とはいえ、やはり暑いものは暑かった。手で触れてみると、肌は熱を持っている。
 椅子の座面から垂れ下がる尻尾が動かないのも、それによって体温が上がるのを避けようとする自衛意識の表れだろうか。
 仕事に戻ろうとしたところで聞こえてきた足音に、アッシェンドラの獣毛の生えた耳がピクリと動いた。彼女の耳は、部下ひとり一人の足音をほぼ完璧に聴き分ける。
 特に、この足音の主だけは聞き間違える事はないと、彼女は思っていた。
 やがて、執務室の外で足音が止まる。
「失礼いたします」
「マアトートか。どうした?」
 相手が名乗る前に名前を言い当てて見せると、微苦笑と共に長身の男が入口をくぐって入ってきた。
「そろそろ小休止なさっては如何でしょうか、ご主人様。別室に、飲み物と菓子を用意させましたが」
「そうか……もう少し続ける予定だったんだが」
「本日は、ひときわ暑く感じられます。意識的に水分を補給なさった方がよろしいかと」
「むう……、しかしな……」
 この後も、まだ仕事は詰まっていた。確認する書類や、下から上がってきた要望書にも目を通さなければならない。女王からの諮問に対する、回答書の作成も控えている。何より、それらを効率的にこなすため、書類ごとの分類や整理の作業もある。そして、その後には視察に出なければならないのだ。
「書類の分類、整理は済ませてありますので、ご安心ください。陛下への回答書に関しては、他のアヌビスの方々に協力を求めました。というか、ご主人様が無理をなさっているのではと、あちらから協力の申し出があったのですが」
「そうか。面倒をかけたな」
「いえ。ただ皆様から、たまには酒宴に付き合うようにと伝言も預かっておりますが」
「……私は酒は飲まん。知っているだろう」
「はい。ですから、ご主人様は葡萄の果汁で構わないと」
「それは、つまり私に酔っ払いの後始末をしろという事か」
 苦々しげな表情になって、アッシェンドラは溜息をついた。


 出来るだけ壁を排し、柱で屋根を支える事で風の通りを良くした部屋へ移り、食卓へ着く。
 用意されていたのは何種類もの果物に、ドライフルーツの入ったケーキ。酒杯に注がれているのは、アッシェンドラの好みに合わせて数種の果汁を混ぜ合わせたものだった。
 アッシェンドラは酒杯を取り、軽く喉を潤す。
 相変わらず陽射しは強く、ずっと見ているとジリジリと大地を焼く音が聞こえてくるようだった。
「外で働く者たちは大変だ。農民たちは、今もこの炎天下で鍬を振るっているのだろう」
「はい。それでも、ご主人様のおかげで随分と彼らも助かっているとの事です」
 雨が少なく不作が懸念された一昨年、報告を受けたアッシェンドラは即座に女王へ掛け合い、国中の川から内陸部へ水を引く大工事を執り行ったのだ。更に、水路が届かない所ではノームやウンディーネの助けを借りて水脈を見つけ、幾つもの井戸を掘った。
 それによって収穫は安定し、餓死者を出す事もなかったのだが、アッシェンドラが言ったのはそういう意味ではない。
「私たちは彼らに支えられているのだから、感謝しなければという話だ」
「そうですね」
「収穫期が終わった頃には、また彼らを労う催しでもしなければな」
「昨年も、皆、喜んでいましたね。……まさか陛下が国中を回るとは思いませんでしたが」
 マアトートの言葉に、アッシェンドラは頭痛を堪えるように額へ手を遣った。
 基本的にお祭り好きなスネフェリアは、アッシェンドラの話を聞いてこれ以上ないほど乗り気になり、ならば誰より支えられている王たる身が率先して民に感謝を伝えなくてどうするのかと、予定を調整させて国中の村々へ酒と食べ物を持って出かけて行ったのだ。
 勿論、その予定の調整をさせられたのはアッシェンドラである。しかも、あまり大勢で行っても民を驚かせるという女王の意向で護衛を最小限に抑える事となり、精鋭ばかりを護衛につけた結果、王都の守りが微妙に甘くなるという危うい事にもなった。
 周辺国と友好的な関係を築けているからこそ問題は起こらなかったものの、その間アッシェンドラは頭痛と胃痛に悩まされた。他のアヌビスたちとの間でも、今年は陛下は玉座に縛りつけておこうなどという不穏当な発言が密かに飛び出している。
「おかわりは如何ですか?」
「貰おう」
 差し出した酒杯に飲み物が注がれるのを見ながら、ふとアッシェンドラは思い立つ。
「お前もどうだ?」
「いえ。私ごときがご主人様と席を共にするなど、畏れ多い事にございます」
「……そうか」
「申し訳ございません」
 軽く頭を下げるマアトートから視線を外し、アッシェンドラは薄く息を吐いた。と――
「そんなガッカリしなくてもー」
「――っ!?」
 とつぜん耳元で聞こえた声に、アッシェンドラの身体が跳ねる。
「ファティッカ!? お前、何処から入ってきた!」
「何処でしょう」
 慌てて振り返った先では、頭に猫のような耳を生やした女性が、にへーっと子供のような笑顔で立っていた。次いで、
「あの……、アッシェンドラ様。先程ファティッカ様が訪ねていらしたのですが、少し目を離した間にお姿が……」
「……もう来ている。どうせ、窓からでも入ってきたのだろう。ご苦労だったな」
 おそるおそる入口から顔を覗かせた女官を、アッシェンドラは同情混じりで労った。その傍らで、あっさり侵入経路を言い当てられたファティッカが、つまんない、と頬を膨らませている。
 やがて気を取り直したファティッカは、勝手に食卓の上のケーキに手を伸ばし、
「マーくんも久しぶりだね」
「ご無沙汰しております」
 恭しく頭を下げるマアトートに、ファティッカは苦笑。
「相変わらず固いなぁ、マーくんは。男の人が硬いのなんて――」
「人が休息している横で、何を口走る気だ!」
 何かを言いかけたファティッカの口に、アッシェンドラは容赦なく新たなケーキを詰めこむ。
「さあ食べろ、ゆっくり食べろ、黙って食べろ、そして帰れ」
 後から後から幾つもケーキを詰めこまれ、もがー、とファティッカは苦しそうな声を洩らす。
 しかし、
「もー。顎、外れるかと思ったよ」
「早いな、おい」
 ほぼ丸飲みしたファティッカに、アッシェンドラは呆れたように溜息をついた。酒杯を差し出してやりながら、
「それで、何の用だ?」
「うん。久々に時間が出来たから、あした三人でお昼食べようってネフちゃんが」
 受け取った酒杯の中身を飲みほしながら、ファティッカは答える。
「ネフちゃんとは何だ、部下もいる前で。ちゃんと陛下と呼べ」
「えー、いいじゃん。マーくんなら、もう身内みたいなもんじゃん」
「……そんな訳ないだろう。公私は分けろと何度言わせる気だ」
「かったいなぁ……。マーくんが固いのって、絶対シェンディのとこにいるせいだよね」
 呆れを隠さず半眼になるファティッカに、ほっとけ、と返し、
「明日は遠出をしなければならないから、無理だ。すまないが陛下にも、そう伝えておいてくれ」
「えー、ネフちゃん泣くよー?」
「泣く訳ないだろう、陛下が」
「じゃあ、私が泣くー」
「好きにしろ」
「ひどーい! ねえ酷いよね、マーくん」
 取りつく島もないアッシェンドラの態度に、ファティッカはマアトートを振り返る。
 二人の邪魔にならないように壁際へ下がっていたマアトートは、縋りついてくるファティッカに困ったような表情を浮かべながら、
「調整すれば、昼食の時間くらいは取れますが」
「ほんと? やったね! さすがマーくん、シェンディよりは柔らか頭」
 飛び跳ねて喜ぶファティッカに無邪気な子供を見るような表情を浮かべながら、マアトートはアッシェンドラに視線を向ける。
「出過ぎた真似をいたしましたか?」
「いや、構わん。私だって、時間が取れるならそれに越した事はない」
 アッシェンドラは言葉通り少しだけ嬉しそうな表情を覗かせ、
「では調整を頼む」
「かしこまりました」
 マアトートは一礼し、部屋を出て行った。

          2

 翌日、予定通り午前中の仕事を終えたアッシェンドラは、少し早めに王宮を訪れた。
 ついでに女王に渡す報告書が幾つかあるからと、マアトートも荷物持ちとして彼女に同行を求められている。
 王宮の前には女官が二人、迎えに出てきていた。一人は腰まで黒髪を垂らし、もう一人は長い髪を結い上げている。
 お待ちしておりました、と髪を下ろした方の女官が頭を下げた。僅かに遅れて、もう一人もそれに倣う。
「出迎え、ご苦労。陛下は既に?」
「午前の仕事が少々長引いておりまして、少しだけ遅れるとの事です。アッシェンドラ様には、先にお部屋の方でお待ちいただきたいと」
「そうか。お忙しい方なのだし、仕方がない」
 と――そこでアッシェンドラが、もう一人の女官に目を留めた。
「見ない顔だな」
「は、はい! 本来こちらへ来る者が体調を崩しまして、急遽わたくしが……」
 緊張したように声を上擦らせる娘に、アッシェンドラは表情を弛める。
「そう固くならずともよい。体調を崩した者には、よく養生するよう伝えてくれ」
「かしこまりました!」
 深々と頭を下げる年若い女官に苦笑しながらアッシェンドラは振り返り、
「では、行って来る」
「楽しんでおいでくださいませ」
 差し出された手に、マアトートは報告書の束を載せる。
 こちらへ、と言って先導する女官と共に王宮へと姿を消す主を見送り、踵を返そうとしたところで、マアトートはふと気づいた。
「……貴女は戻らなくてよいのですか?」
 髪を結い上げた若い女官が、何故か、まだその場に残っているのだ。
 顔を上げた女官はマアトートに視線を向け、
「構わぬ。妾がやり残した午前中の仕事とは、つまり、そなたの顔を見る事なのだからな」
「は……?」
 とつぜん変わった女官の口調と態度に、マアトートは戸惑ったような声を洩らす。
「妾の変装も、なかなかのものだろう」
 得意げに言って、女官は結い上げていた髪を下ろし、軽く頭を振る。
 まるで、それを合図としたかのように、女官であった娘から驚くほどの気品と風格が溢れ出した。目の前に立たれれば、ひれ伏さないではいられないほどの絶対的な王の威厳。
「へ――陛下!?」
 慌ててマアトートは、その場に跪く。
「知らぬ事とはいえ、申し訳ございませんでした!」
「良い良い。知られぬように変装したのだし、妾の変装はアッシェンドラの目すら欺くと分かったのだ。いっそ市井の娘に化けて、町へ繰り出すのも一興よ」
 やめてください、とマアトートは心の中で応えた。気苦労でアッシェンドラが倒れてしまう。
「それで、いつまでそうしているつもりなのだ?」
「しかし……」
「こんな所で女官相手にひれ伏していると、後日なんと噂されるか分かったものではないぞ。王宮には噂好きな者も多い……ファティッカあたりが、別れを切り出す女に縋る男の話を広めるやも知れん」
「……かしこまりました」
 確かに、そんな不名誉な話の当事者にされるのは避けたかった。それがアッシェンドラの耳に入ったらなどと、考えるのも恐ろしい。
 おそるおそる立ち上がるマアトートに、スネフェリアは満足げに頷いた。
「こうして見ると、細身なようでいて引き締まっているのだな。確か、元は漁師だったか」
「はい。……よくご存じですね」
「ん、ああ……まあな。よくアッシェンドラが、そなたの事を自慢しているのだ」
「ご主人さまが……ですか?」
 マアトートの知る限り、主は人前で自らの部下を殊更に褒めて見せるような真似はしそうにない。
「当人に、そのつもりはないのだろうがな。指摘してみたところで、事実を述べているだけだと答えるのだろう。だが、妾やファティッカにはお見通しよ」
「陛下やファティッカ様は、ご主人様とは幼少の頃よりの付き合いなのでしたね」
 彼女たちの母親も今の彼女たちのような関係だったのだと、マアトートは聞かされていた。
「正直、アッシェンドラがそなたを引き抜いて来た時は驚いた。漁師を馬鹿にするつもりはないが、仕事の内容はあまりに違う。補佐役としてじっくり育てるのだとしても、時間はかかるだろうと思っていたが……想像以上に優秀な男だったようだ」
「畏れ多いお言葉にございます」
 心底から恐縮して、マアトートは深々と頭を下げる。
 確かに当時は自分も驚いた。なぜ女王の側近ともあろうお方が自分などを、と思ったものだ。
 何かの間違いではないかと思うマアトートを他所に、村は大騒ぎだった。最果ての村から、もっと大きな村へ働きに出る者はいたが、王都へ行く者など初めてだったのだから無理もない。
 そうして訪れた王都は、何もかもが驚きに満ちていた。これまでの常識が全く通じない仕事では幾度も失敗をしたが、アッシェンドラは決して失望を口にはしなかった。厳しくとも優しい主は、お前なら出来ると思った仕事しか与えていないと、マアトートの目を真っ直ぐに見ながら告げた。
 ならば応えて見せようと思えたのが、彼女のおかげなのか自分の才覚なのかはマアトートには分からない。しかし、どちらであったとしても主への感謝は語り尽くせぬほどだった。
 彼女のおかげで自分は頑張る事が出来、故郷の暮らしも随分と良くなっているのだ。
「さて……アッシェンドラご自慢の補佐役の顔も拝んだ事だし、そろそろ行くとしよう。何なら、そなたも同席するか?」
「いえ。久しぶりの三人だけの時間を邪魔するなどという無粋な真似は、致しかねます」
「頭の固い奴よな。男が硬いのは――」
「ファティッカ様の言動が奔放なのは、陛下のご教育の賜物だったのですね」
 言葉を遮られたスネフェリアは一瞬キョトンと目を円くすると、堪え切れずといった様子で噴き出した。
「はっはっはっは! なかなか良い性格をしているな、そなた。気に入ったぞ」
 身体を震わせながら、彼女は指先で目尻の涙を拭う。
「ではな、マアトートよ。また改めて話をしたいものだな」
 そう言って踵を返し、スネフェリアは王宮へと消えて行った。

          3

 運ばれてきた料理は、意外と質素なものだった。
 無論、一般人のそれとは比べるべくもないが、王という立場からすると驚くほどの粗食である。
 幼少の頃より先王たる母に『民に近くあれ』と教育されて来たスネフェリアにとって、それは当然の事だった。生来の気質も手伝って、彼女は必要な場以外で過剰に飾り立てる事を嫌う。
 そんな女王の性格を知っているからという訳でもないが、アッシェンドラもファティッカも出された料理に文句を言うような事はなかった。アッシェンドラは栄養バランス、ファティッカは味と、どちらも食材の豪華さには興味がないのだ。
 特にファティッカは、粗末な食材でもどうにか美味しく食べようという街の人々の工夫を愛しており、暇を見つけては隠れた名店を探したり屋台を食べ歩く事を趣味にしている。その土産話を聞いたスネフェリアが自分もお忍びで街へ出ようと機会を窺うようになり、アッシェンドラの頭痛の種の一つとなっているのだが、それは余談である。
「そういえば、そなたは明日から暫く留守にするのだったな」
「はい。五日ほど」
 葡萄酒の注がれた酒杯を傾けながらスネフェリアが口を開くと、パンを千切りながらアッシェンドラは頷いた。
「そうか……淋しくなるな」
「たかが五日ですよ」
 そう言って小さく笑うアッシェンドラの隣で、魚料理に目を輝かせていたファティッカが勢いよく手を上げる。
「お土産! お土産よろしく!」
「遊びに行くのではないのだぞ? ……まあ、何か見繕ってくるが」
「わーい! 何だかんだ言ってお願い聞いてくれるから、シェンディ好き」
「はいはい……」
 纏わりついてくるファティッカをぞんざいに押し退けるアッシェンドラと、それでもめげないファティッカの様子に、スネフェリアは笑みを深めた。
「ご自慢のマアトートも連れて行くのか?」
「いえ。留守の間、彼には私の代理を任せようと思います。……あと、別に自慢はしていません。ただ事実を告げているだけです」
 細かく訂正してくるアッシェンドラに、ふふん、とスネフェリアは楽しげに鼻を鳴らす。思った通りの反応だった。
「それは残念よな。連れて行って、そなたの仕事の様子を見せつければ、あやつも惚れ直すだろうに」
「何を馬鹿な……。彼とは、そんな浮ついた仲ではありません」
「分からんぞ? 向こうは、そうは思っていないかも知れん」
「……そんな訳がありません。あっても、せいぜい自分を見出し、実入りのいい仕事を与えてくれた事への感謝くらいのものでしょう。そうに決まっています」
 ことさら平静を装おうとしているようなアッシェンドラの態度に、スネフェリアは嘆息する。頑固者め、と口の中でだけ呟いた。
「それでよいのか?」
「いいも何も、それ以外の関係になど……」
 なりようがないとでもいうような頑なな物言いに目を細めながら、そうか、とスネフェリアは呟いた。
 と――そこで不意に、アッシェンドラが眉根を寄せる。
「そういえば、陛下は彼と面識がありましたか? 何故か突然、彼の話になりましたが」
「う……ああ、いや……さっき、ちょっと会ったのだ」
「お一人で外へ出られたのですか?」
「いや、ええと……そなたとは別のアヌビスへの使いを頼んだのだが、渡し忘れたものがあって追いかけたのだ。そこでな」
 突っこまれるとは思っていなかったスネフェリアは、慌てて、ありもしない過去をでっち上げた。
「感心しませんね」
 ふう、とアッシェンドラは深く息を吐く。
「お一人で行動なさった事もですが、容易くそうさせてしまった護衛たちも――」
「私が勝手にやった事なのだから、小言は私に言え」
「……成程。ご自分の行動の責任を部下に負わせまいとする態度は、ご立派です。では遠慮なく――」
「だが待て! 今は久々の三人きりなのだ。ここで説教を始めるのは、あまりに無粋であろう?」
 しまった、と言わんばかりの表情で慌てて言葉を遮るスネフェリアに不満げな表情を見せながらも、一理あると思ったのか、横から伸びてきたファティッカの手に自分の分の料理を取られる前に食べてしまうべきと判断したのか、アッシェンドラは渋々口を噤んだ。
「では、陛下。また後ほど」
 彼女の言葉に、後か……後があるのか……、とスネフェリアはうわ言のように呟く。
「この時間が永遠に続けばいいのにな……」
「何を遠い目で、三人の時間を愛おしんでいるような事を言っているんですか」
「だって――」
「だって、ではありません。小言が嫌なら、言われるような行動を慎めば良いのです」
 ぐうの音も出ないほどに遣りこめられ、スネフェリアはションボリと項垂れた。
 そうして表情を隠しながら、彼女は思う。あくまでアッシェンドラがマアトートとの関係を仕事上のものだと言い張るのなら、もう遠慮する必要はないのかも知れない――と。

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 ほぼ国土を縦断するようにしてアッシェンドラが向かったのは、南東にある葡萄作りで有名な町だった。ここで採れる葡萄は甘みと香りが強く、そこから造られる葡萄酒は王都でも、特に女性たちの間で高い人気を誇っている。
 基本的に酒は飲まないアッシェンドラだが、それは決して飲めない事を意味しない。ごく稀にだが、彼女も寝酒に少量、口にする事もある。
 仕事はつつがなく終了した。葡萄農家も醸造所の職人たちも、女王に献上する葡萄酒を造っている誇りを胸に、高い意識で励んでいた。
 試飲させてもらった、もう暫く熟成させる予定だという葡萄酒の出来を楽しみに、アッシェンドラは満足して帰途についた。
 スネフェリアにはたかが五日などと言ったが、久々の王都は随分と懐かしく感じられた。笑顔で声をかけてきてくれる人々と話していると、ついつい時間を忘れそうになる。
 邸へ戻り、護衛の兵たちに労いの言葉をかけて別れ、アッシェンドラは入口をくぐる。
「いま戻った」
 そう声をかけると、お帰りなさいませ、と女官が迎えに現れた。
 アッシェンドラは、その事に少しだけ意外な思いを抱く。てっきりマアトートが来ると思っていたのだが。
 彼はどうしたのかと訊いてみると、女官は彼女自身も戸惑っているように頬へ手を当て、
「マアトートは王宮へ呼ばれております。アッシェンドラ様が留守の間も、幾度となく陛下からお呼びがかかって……」
「陛下が? ……どういう事だ」
 自問するように言い、アッシェンドラは口元へ手を遣る。
 初めに考えたのは、何か仕事に不備があった可能性だ。マアトートは有能な男とはいえ、アッシェンドラの代わりを務めるのは初めてなのだ。提出した書類に分かりにくいところがあって、その説明を求められたとしてもおかしくはない。
 しかし、女王が幾度も呼びつけたというのは気になった。普段アッシェンドラが提出している書類は、何も女王しか目を通さないものではないのだ。他の役人からも呼ばれているならともかく、彼女からばかり声がかかっているのはおかしい。
 何か個人的な理由でというのも考えたが、それは最も可能性が低かった。以前から話自体は耳に届いていたとはいえ、スネフェリアがマアトートと面識を持ったのは五日前――ほんの偶然からの事なのだ。しかし――
 その偶然の出来事の直後と言ってもいい昼食の席で、しきりに彼女が自分とマアトートの関係を訊いてきた事をアッシェンドラは思い出す。
 何となく落ち着かなかった。胸の奥がザワザワする。不安と言い換えてもいい。
 直接問いただすべきだろうかと思っていると、不意に家の外から声がかけられた。
「失礼いたします。アッシェンドラ様は御在宅でしょうか」
「どうした」
「おお、これはアッシェンドラ様。お帰りなさいませ。お疲れのところ申し訳ございませんが、陛下から重要なお話があるとの事ですので、王宮までご足労願います」
「陛下が? ……分かった」
 丁度いいと思いながら、アッシェンドラは使いの男に頷き返す。仕事の話だとしても少しくらい言葉を交わす事は出来るだろうし、出来なくても後で時間を取ってくれるよう頼むくらいは可能なはずだ。
 荷物だけを置き、アッシェンドラは王宮へと向かった。


 王宮は、黄土色のブロック状の石を組んで造られている。
 それを隙間なく敷き詰めた謁見の間の床を、粒子の細かい砂が薄く覆っていた。
 使いの男に促されてくぐった入口の左右には、武器を手にした護衛の兵が一人ずつ。同様の兵は左右の壁際にも、玉座のある壇の下にも配置されている。
 その何処か物々しい雰囲気に、アッシェンドラは眉をひそめた。何だ、これは。
 正面中央――壇上に置かれた玉座の上で脚を組み頬杖をついているのは、女王スネフェリア。若くとも先代に劣らぬ治世で、臣下にも民にも愛される美貌の王だ。
「来たか」
 彼女は入口に姿を現したアッシェンドラに気づくと、感情を窺わせない平坦な声で呟いた。
 女王の正面には男が一人、跪かされていた。細身ながらも引き締まった体躯。赤銅色の肌。癖の強い黒髪。後ろ姿であっても、見間違える事などない。
 マアトートだ。だが、何故。
 軽く混乱するアッシェンドラだが、王の前で臣下の礼を取るのは当然と、彼女の中の冷静な部分が告げる。
 それでも、この状況はおかしい気がした。武器を手にした兵に囲まれ、女王に見下ろされる中で一人だけ跪かされているなど、まるで罪人だ。
 まさか、マアトートが女王の不興を買うような真似をしたのだろうか。彼に限ってとは思うし、スネフェリアだって、そう簡単に機嫌を損ねるほど短気でも狭量でもないはずだが。
 結局、当人に訊くしかないと判断し、アッシェンドラは歩を進める――が、
「そこで見ておれ」
 目つきを鋭くしたスネフェリアに言われた瞬間、その場に縫い止められたように彼女の動きが止まる。
 逆らう事を許さない王の言葉――アッシェンドラの中に女王への信頼や敬意がある限り、それに抗う術はない。
「どういう事ですか、陛下!? 何故このような――」
「お控えください、アッシェンドラ様」
 動かない身体をなおも震わせるアッシェンドラを、兵が押さえる。
 スネフェリアは彼女を冷たく一瞥すると、マアトートへと視線を移した。
「さて……今日は、そなたに大事な話があってな」
 先程までとは打って変わって慈しむような笑みを浮かべる女王に、アッシェンドラの中で嫌な予感が爆発的に膨れ上がる。最早、スネフェリアが幾度となくマアトートを呼びつけた理由も明白だった。
 彼女が何を言おうとしているのかを半ば確信しながらも、アッシェンドラの身体は王の言葉に縛られ動かせない。やめてくれと叫ぶ事も耳を塞ぐ事も出来ないまま、血が滲むほどキツく唇を噛みしめるのが精一杯だった。
「この五日、そなたとは充分に互いの事を知り合えたと思う。妾は、そなたが気に入った……臣下としてではなく、男としてな」
 マアトートよ、とスネフェリアは一拍置く。
「妾と共に生きよ。そなたのような男が隣にいてくれれば、妾も心強い。妾の夫となれ」
 想像通りの言葉が告げられた瞬間、アッシェンドラの身体が崩れ落ちた。
 いつの間にか王の言葉の縛りはなくなっている。にも関わらず、身体に力が入らなかった。床に落ちる視線を上げる事すら出来ない。このまま絶望と共に、床を突き破って何処までも沈みこんで行ってしまいそうだった。
 何故こんな事に、とアッシェンドラは思う。目を逸らし、気づかない振りをしていたのが悪かったのだろうか。部下として§Aれてきた事への引け目など、無視するべきだったのだろうか。彼を傍へ置くための建前など適当に正当化し、彼の気持ちも無視して、なりふり構わず押し倒しでもすれば上手くいったのだろうか。
 忠実な王の臣下として仕事にかまけるばかりで、その結果、女としての自分に自信が持てなくなった事など、一笑に付されるような下らない言い訳でしかなかったのだろうか。戴くべき王であり親友でもある人物に、実は劣等感を抱いていた汚い自分が当然に受けるべき報いなのだろうか。
 何故こんな仕打ちを、と裏切られたような気持ちになりながらも、視界の端にはマアトートを捉えていた。跪く彼の表情は見えないが、スネフェリアは王の言葉で自らの夫となるよう命じたのだ。仮にそれを別にしても、美貌の賢王の愛を拒む者などいる訳がない。
 アッシェンドラの絶望と諦めを裏づけるように、マアトートは深々と頭を下げた。
 それは女王の愛を受け入れるという意思表示だろうと思った瞬間、アッシェンドラの瞳から未練たらしく涙が零れ落ちた。そして――
「……申し訳ございません」
 告げられた言葉の意味を、アッシェンドラは暫く理解できなかった。

          5

 謁見の間は静寂に包まれていた。
 耳が痛くなるほどの無音の中、張りつめた糸に更に力をかけていくように、スネフェリアの目が細められていく。そこに先程までのような慈愛の感情はない。
 顔を伏せるマアトートの身体は震えていた。全身はじっとりを汗を掻き、顎の先から雫が滴る。
 女王の命令に背いたのだから、どのような罰を与えられても文句は言えない。その事に恐怖を覚えない訳ではないが、身体の震えはそこから来るものではなかった。
 心の底から望まないものでない限り、抗う事は出来ない王の言葉である。女王への尊敬も親愛もある中で、それを拒絶したのだ。精神的な消耗は相当なものだった。
 悔いはない――呼吸を整えながら強く思い、告げられるであろう沙汰へ備えてマアトートは歯を食いしばる。
 スネフェリアは瞑目し、薄く息を吐いた。護衛の兵たちがザワつく。
 彼女は感情を窺わせない瞳でマアトートを睥睨し、ゆっくりと口を開いた。そして――
「よくぞ申した!」
 一転、その表情を笑みへと変えた。これぞ喝采といった声音で、称えるような表情を浮かべている。
 兵たちからも歓声が上がっていた。いつの間にか現れていたファティッカが、カッコイイぞマーくん、と飛び跳ねている。
「妾の告白を容易く受け入れるようであればただではおかんと思っておったが、見事であったぞ、マアトート。それでこそ、妾の見こんだ男よ」
「は……」
 状況を呑みこめず、マアトートは呆けた声を洩らす。
「陛、下……?」
 同様に混乱した声に、ようやく彼は背後のアッシェンドラを振り返った。
 アッシェンドラの頬は涙で濡れ、幼い子供のような表情だった。マアトートに見られている事に気づいてか、慌てて袖で拭う。
「これは一体、何のおつもりですか!? 何故このような真似を!」
 立ち上がり歩を進めるアッシェンドラの表情には、じわじわと怒りが滲んでいった。臣下は王の奴隷ではない。王の気まぐれを全て受け入れる訳ではないと、彼女は言外に語っている。
「うっ……いや、それは……」
 気圧されたようにスネフェリアは表情を引き攣らせ、僅かに身を引く。
「一応、そなたらの事を考えてというか、関係進展のための仲立ちをしようと思ったというか……。そなたを泣かせてしまったのは想定外だったし反省もしているが、このままでは、そなたらは永遠に今のままだとファティッカも――」
「わー!! わー、わー!」
 冷汗を掻きながら、しどろもどろに答える女王の言葉を焦ったように大声で遮るファティッカだったが、
「ほほーう?」
 くるぅり、と妙にゆっくりとアッシェンドラは振り返る。
 こそこそと謁見の間を出て行こうとしていたファティッカは、片脚を上げた不安定な格好のまま動きを止めた。
「全部、貴様の悪ふざけか」
「え……いや私だって、ちゃんとシェンディたちのこと心配して――」
「問答無用!」
「ひい! 狩猟者の目!?」
 大袈裟なほどの恐怖の相を浮かべるファティッカと、軽く据わった目のアッシェンドラは打ち合わせたように同時に地を蹴った。
「いつもは基本的に無害だから悪ふざけも大目に見ていたが、今回ばかりはキツい仕置きが必要だな!」
「嘘つき、いつもお仕置きしてるくせに! ていうか悪ふざけじゃないって言ってるのに、何で私そんなに信用ないのー!?」
 必死の形相で謁見の間を走り回り、兵の身体を盾に使い、玉座に座る女王の上を跳び越える無礼すら働きながら、二人は外へと飛び出していく。
 嵐が去ったような部屋の中で、マアトートは呆然とそれを見送った。対するスネフェリアは怒るでもなく、くっくっ、と楽しそうに笑っている。
「あの……よろしいのでしょうか。何というか、王宮の神聖さとか国を動かす方々の威厳その他もろもろが、その……」
 彼女の反応を不思議に思い、マアトートはおずおずと声をかける。
「構わんさ。あの二人は昔から、あんな感じだからな。妾はそんな事で気分を害する事はないし、あれを受け入れられぬ者など王宮にはおらんよ」
 確かに言葉通り、兵たちも好意的な苦笑を浮かべていた。
「さて……まあ、ああいう厄介な性格の持ち主だが、妾の最愛の友人だ。よろしく頼むぞ?」
「ですが……」
「そなたがアッシェンドラに感謝し、触れる事すら躊躇うほどに崇拝しているのは、この五日でよく分かった。互いの身分の違いに気後れするのも分かる。だが、お前の方から近寄らねば、ずっと今のままだ。それで良いのか?」
「…………」
 見守るような女王の瞳を見返し、マアトートは自問する。本当に、このままでいいのか――
 答えは、すぐに出た。簡単だ。
 そんな彼に、スネフェリアは満足げに頷いて見せた。
「にゃあああ!! やめてやめて、それだけは! 私の心に一生消えない傷が残るからー!」
「おお、捕まったようだな。今までで一番、長く逃げたか」
 悲鳴の聞こえてきた窓の外へ視線を向ける女王の笑顔を眺めながら、マアトートはふと思う。
 アッシェンドラとファティッカが昔からあんな感じだったように、スネフェリアもまた、昔からこうして彼女たちで楽しんでいたのだろう。それは、ともすれば悦楽のための道具としているようにも取れるが、横顔に浮かぶ表情が、そうではない事を証明していた。
 若き女王は、自身が国中へ――全ての民へもたらすべき幸せの縮図の在処を知っているのだ。

          6

 ようやく落ち着き、邸へ帰ったアッシェンドラたちを待っていたのは、またもや静寂だった。それもマアトートが女王の命を拒んで見せたときのような沈黙から来るものではなく、言葉はおろか気配すら発する者がいないという意味の静寂だ。
 誰もいないのかと声をかけてみても、やはり反応はない。
 訝しく思いながら歩を進めるアッシェンドラだったが、ふと戸口の脇の机の上に綺麗に畳まれた紙が置かれているのに気づいた。
 出かける前にこんなものはなかったので、留守の間に届けられたのだろう。表面に書かれた『アッシェンドラへ』という文字は、スネフェリアの筆跡だった。
 手紙など書かなくとも先程まで会っていたのだから直接言えばいいのにと思いながら、アッシェンドラはそれを開く。

『お帰り、アッシェンドラ。
 聡明にして気の利く女王たる妾は、そなたの邸の者たちに一週間の暇を出しておいた。
 その一週間に邸の者たちが受け取るはずだった給金に関しては、もちろん王家で持つ。
 そなたの仕事に関しても他のアヌビスたちに割り振っておく。
 故に、そなたは安心してマアトートと存分に愛を育むがよい』

「そんな訳にいくかー!」
 あまりにぶっ飛んだ文面に、アッシェンドラは思わず声を大きくした。
 何が、聡明にして気の利く女王か。
 アッシェンドラが出先から戻ってきた段階で、女官たちに明日から休みになるという雰囲気はなかった。迎えに来た使いは、そのままアッシェンドラと共に王宮へ向かったので、この手紙は彼が持って来たものではない。
 女王とて全能ではないのだから、あの王宮での茶番が必ず上手くいくという確信はなかったはずだ。となれば、邸の者たちに暇を出す案や手紙の用意は事前にしてあったとしても、それを実行したのは確信を持てた後と見て間違いない。そのための使いの最有力候補は、最後に謁見の間に姿を現したファティッカだ。
 おのれ、あの駄猫――とアッシェンドラは身体を震わせた。
 そんな主の様子には気づかぬまま、マアトートは彼女の背後から手紙を覗きこむ。文面を目で追いながら、
「今日一日で、随分と陛下や王宮の印象が変わりました。何というか、意外と茶目っ気のある方だったのですね」
「……違うのだ」
 酷く疲れた気分で、アッシェンドラは呻いた。
「意外と茶目っ気があるのではなく、茶目っ気の方が本性なのだ、あの方は」
 思考を切り替えるために深く息を吐き、
「さて、陛下はこう仰ってくださっているが、それに甘える訳にもいかん」
「はい。まともな引き継ぎもなく仕事だけを割り振られても、他のアヌビスの方々も戸惑うでしょうし」
「その通りだ。しかも一週間、私たちだけだ。忙しいぞ?」
「お任せください」
 微笑を浮かべ頷くマアトートに、アッシェンドラは満足げな表情を浮かべる。それから少しだけ言い淀みながら目を逸らし、
「それと……な。私はこんなだから、その……すぐには難しいと思うのだ。色々……」
「ご主人様が何を指して『こんな』と仰っているのかは分かりませんが、どのようなご主人様でも、私はお慕い申し上げておりますよ」
 見つめ返す視線と同じ真っ直ぐな言葉に、アッシェンドラは頬が熱を持つのを感じた。
「陛下に言われたのです……このままでいいのか、と」
 マアトートは一旦言葉を切り、
「私は、ずっとご主人様に感謝しておりました。私を見出し、高く評価してくださり、やり甲斐のある仕事と充実した日々を与えてくださいました。しかし、だからでしょうか……自身も誰より忙しく働かれるご主人様の姿に尊敬の念ばかりが強くなり、いつの間にか触れる事すら許されぬ神聖なもののように思っていたのです。元々の身分の違いもあって、自分の想いは押し殺したまま、ただただ使える者であろうとしておりました」
 マアトートの告白に苦笑を浮かべながら、アッシェンドラも口を開く。
「……同じだな。私も幼少の頃、母について行った漁村でお前を見て以来、ずっと気になっていた。だが遠く離れた場所に住む自分たちが再び会う事などないだろうと、諦めようとしていたんだ。それでも想いは強まるばかりで、お前を近くに置きたいがために、勢い余って部下として引き抜いた」
 勿論、彼にそれだけの能力があったのも事実だが。
「ただ、あくまで部下として傍に呼んでしまった以上、お前がどれほど好意的な態度を見せてくれても、それは上司としての私へのものだと思えてしまってな……。何というか、自分に自信がないのだ。私は陛下のように美人ではないからな」
「……あの方を基準にするのが、そもそも間違いだと思うのですが」
 マアトートの控えめな指摘に、アッシェンドラは小さく噴き出した。
「そうだな。そうなのだが、昔から近くにあったせいで自然とそうなってしまったのだ」
 そもそも彼女を美人であるかどうかの比較の基準にしたら、世界中の美人の九割は美人ではなくなってしまう。
「まあ、そんな訳で、弱い私は期待しつつも怖がっていたのだ。お前が私を愛してくれる事を望みながらも、もしそうでなかったら、立ち直れなくなってしまいそうだったからな」
「……では、お互い様でしょうか」
「そうだな。似たもの同士だ」
「なら、相性もいいかも知れませんね」
 そうであればいい、とアッシェンドラは心底から思った。
「歩調を合わせて、ゆっくり歩いて行きましょう。私は、いつでもご主人様の隣にありたいと思います」
「ああ……ずっと隣にいてくれ。……ただな、マアトート。二人だけのときには、ご主人様はよせ」
「は、はい……アッシェンドラ様」
「様、か。まあいい。ゆっくり行こう」
 すぐには変われないのは自分も同じなのだからと思いながら笑み、アッシェンドラはマアトートに歩み寄る。ゆっくりと伸び上がり唇を重ねると、腰に腕が回されるのを感じた。
 おそらく、これが幸せというものなのだろうと思いながら、どちらからともなくキスは深められていった。

          7

 王としての日々の仕事は決して楽なものではないが、時々ぽっかりと何もする事がない時間が出来る。
 日陰になっているテラスで手摺りにもたれ、スネフェリアは、ぼんやりと遠くを眺めていた。
「退屈だな……」
「そだねー」
 応える声は傍ら――手摺りに腰かけて、脚をブラブラさせているファティッカだ。
「まだ四日くらいだっけ」
「一週間は長すぎたかもな……」
 スネフェリアもファティッカも、基本的にアッシェンドラの事が大好きなのだ。出来れば毎日顔を見たいし、話をしたい。
 前に彼女が五日ほど王都を空けたときは、運よく仕事が詰まっていたから、つまらないとも淋しいとも思わずに済んだ。しかし、こうして何もする事がない時間が出来てしまうと、嫌でもそれを意識してしまうのだ。
「今頃、よろしくやっているのだろうか」
「どうだろ。シェンディだからねー……昨日くらいに初めてって感じじゃないかな」
「そうか……、そうなると、休み明けに子供の顔を見るのは無理か……」
「は!? いやいや、無理だから! 一週間で子供作って出産って、ネフちゃんはシェンディを、どんなビックリ生物だと思ってるの!?」
「何!? 駄目なのか?」」
 スネフェリアは勢いよくファティッカを振り返る。
「ネフちゃん、たまに残念っていうかアホいよね」
「失礼な」
 第三者が聞けば目を剥きそうなやり取りも、二人の間では頓着するような事ではなかった。
「という事は、赤子を抱けるのは、まだまだ先か」
「これから何度も、ずっぽりしっぽりした後だねー」
「…………」
「…………」
 愛する男性との濃密な時間という未知なるものへ思いを馳せ、何となく二人は黙りこむ。
「まあ、アッシェンドラが幸せなら、それでいいか」
「そうだね、って言いたいけど……ちょっと羨ましいよね」
「……彼氏欲しいな」
「欲しいね……」
 友達思いが行き過ぎて自分の事を後回しにしてしまいがちな二人は、そうして同時に切ない溜息をついたのだった。
13/06/30 03:02更新 / azure

■作者メッセージ
 一応アヌビスSSなのですが、気づけば美味しいところを全て陛下が持っていっている気がします。でも仕方ありません、陛下ですから。自由人、最強。
 読む人が読めば、古代エジプトに関して調べ始めた最序盤で挫折し、適当にでっち上げた事が丸分かりな話だったと思います。王と王妃の名前しか教えてくれないグーグル先生に痺れを切らし、某知恵袋から名前だけを拾って執筆突入。自分の調べ方が悪いだけという可能性から目を逸らしつつ、未だにスネフェリアだけ何処から出てきた名前なのか分からないという。
 たぶん調べている最中に見かけた単語を、なんちゃって女性名詞っぽく変えたとかそんな感じだと思いますが。
 アッシェンドラの仕事に関しても、あまり真面目に考えていなかったせいで、何だか書類ばっか書いてる印象に……。というかマアトート共々、もう少し双方の秘めた想いとかジレンマ的なものを窺えるような描写をすればよかった。最後に長台詞で誤魔化しても唐突感が……。
 そして最大の反省点は、魔物娘成分の薄さとエロがない事(土下座)。

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