連載小説
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享楽よ、我が魂を潤したまえ
 彼にとって、それはちょっとした好奇心の積もりだったのだろう。
 見たい。知りたい。聞きたい。感じ取りたい。
 それは人間のみならず、多くの生き物が普遍的に持つ衝動だ。刻々と変化する環境に対してより柔軟に対応することを目的として、遺伝子の奥底からそう定められている。健常な生命活動を営む上では不可欠と言っても差し支えない。失えば自我は老朽化し、精神が摩耗していく。
 例えそれが性的欲求に触発されての行動だったとしても、誰も彼を責められはしないだろう。浅薄な行動を罵り嘲るのは簡単だが、『ならばお前は近付かないのか』と問われれば口を噤むしかないからだ。肯定する者が居たとしても、それは既に結果を知っているからに過ぎない。
 さて――これは夕暮れ時の出来事である。
 暮れなずむオルネスト市の片隅に、緩やかに家路を進む大工の青年があった。どうやら仕事の帰りらしく、手には商売道具である工具箱が抱えられている。今日が給料日とあって表情は満面の喜色だ。久し振りに酒を飲みに行くか、それとも女を買うか。どちらにせよ青年にとって、今日の締め括りは素晴らしいものになりそうだった。
 そんな折である。

「……ぅっ……ぁ……」

 青年はふと奇妙な物音を耳にして、帰宅途中の足を止めた。
「……なんだ?」
 周囲を見回してみる。しかし自分の他に、これといって人影は見当たらない。
 城壁都市として知られるオルネスト市は高々と積み上げられた石壁が日光を遮断してしまうという理由から、外周部に近付く程に民家の類が減っていく。代わりに乱立するのは工場や共同墓地、あるいは『化物の住処』として名高い古屋敷に代表されるような廃屋群ばかりだ。日暮れ前には殆どの住民が仕事を終える為、この時間帯に近辺を訪れる者は驚くほど少ない。
 何故か気になって、若者はじっと立ち尽くして耳を澄ませる。

「……ぅっ……ぁぁ……ん」

 果たしてそれは、女性の声であった。
 発信源は、どうやら青年が立っている石橋の真下であるらしい。青年は何を思ったかにんまりと下卑た笑みを広げると、足早に歩みを再開した。
 前述の理由から、この界隈はちょっとした『悪ふざけ』をするのに絶好のスポットとなっている。その多くは火遊びや建物への落書きといった些細なものばかりだが、人通りの乏しいタイミングを選んで大胆にも屋外で男女の営みにチャレンジしようとする若者も時折いる。青年が聞き留めたのは、まさにそのレアケースなのだろう。

「……んぁ……あんっ……」

「へへっ、ラッキー」
 漏れ聞こえる喘ぎ声に、青年はちろりと唇を舐める。血液の集まった股間が膨張していくのを感じながら、物音で気付かれてしまわぬようにゆっくりと階段を降りた。この先は下水道の支流が通っており、普段は鉄柵に閉ざされて関係者以外は立ち入り禁止となっている。勿論そんなことは百も承知だ。仮に知らなかったとしても、青年はどうにかしてラブシーンを覗き見ようとしただろう事は想像に難くなかったけれど。

「んっ……ふぁ……あぁん……」

 濡れ場を彩る艶やかな喘ぎ声が鮮明なものになっていく。放置されていた空樽の陰にそっと身を潜めながら、青年は下水道の奥へと視線を投げた。
「んあぁ……あはっ……気持ち……いいっ……」
「……うわ、マジかよ……」
 青年は興奮に血走った目で、中の様子を凝視する。
 其処に居たのは、自らの秘部に指を突き入れて自慰にふける女の影だった。薄暗いトンネルのせいで全貌は読み取れないが、闇の奥に佇むシルエットは明らかに女性のものだ。乱雑に脱ぎ散らかされた衣服や下着などのアイテムが、更に青年の劣情を煽っていく。
 眼前で行われる野外オナニーに、青年の目は釘付けとなっていた。
 ――しかし。
「……誰か……居るの?」
(やっべ!)
 不意に聞こえた女性の問いに、青年は慌てて身を縮こまらせた。その場から逃げ出すという選択肢は既に彼の脳裏から消失している。機を逃したというのもあるが、このまま居ない振りを決め込んでいれば女性がショーを再開してくれるのではないかという淡い期待が、行動選択の大部分を占めていた。
「ねぇ……隠れてないで……出てきてよぉ」
 扇情的な声色が青年に投げ掛けられる。
「お願い……自分の指なんかじゃあ、もう満足できないのぉ」
 予想外の言葉が、青年の心臓を激しく波立たせる。汚れたズボンを押し上げる屹立は、既に痛みを催す程にまで充血していた。
(おいおい待て待て……これが噂の『痴女』ってやつか?)
 男の妄想だとばかり思っていた状況が、今まさに現実となって自分を妖しく誘っていた。これ以上ない至極の幸運を引き当てた気分で、青年は両手を握り締める。
 暫く迷いはしたものの――彼は、ついに身を隠す事を止めた。
「さぁ……早くぅ……」
 誘蛾灯に群がる虫のように、青年はふらふらと下水道に近付いていく。内外を仕切る鉄格子はもはや朽ち果てて久しく、体格の良い彼の体でも容易に潜り抜ける事が出来た。
「へ……へへへ」
 壊れた蓄音器のように下卑た笑いを繰り返す男性の首筋に、そっと女の腕が巻かれる。
「へっへっへっ……へ?」
「――いらっしゃい」
 夕日に晒された指先は、半透明の紫色。
「たっぷりと、貴方の『精』を頂戴ねぇ」
 粘液質の奇妙な肌触りに違和感を感じた青年の唇へと、女の舌が素早く忍び込む。
 絶叫する事さえ封じられて、青年の体はゆっくりと女の『体』に包まれていった。



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 コンラッド・アーリアンはオルネスト市で数少ない貴重な魔術師である。
 その事実が、彼にとっては大きなストレスとなっていた。
 魔法と呼ばれる奇跡の技術は、人々の生活に不可欠なファクターとして国家主導のもと厳重に管理されている。たった1人で時に数百の兵士をも薙ぎ払う驚異の秘法は常備軍を保有するよりも遥かに維持費がリーズナブルであるし、積極的な軍縮が叫ばれる昨今においては医療、運輸、防災、工業、農林水産業などの多彩な分野に活躍の場を広げている。それら魔法を操る才能を持った魔術師という人種は、国益に大きく貢献する貴重な人材として等しく安定した将来と高給が約束されていた。
 だが、その期待度に反して魔術師は非常に数が少ない。
 かつては多くの魔術師がこの国には存在してた。魔王の世代交代が行われる以前は戦場の花形といえば『勇者』と『魔術師』の二枚看板であったし、魔術師を志そうとして弟子入りを願う若者達の姿も巷には多く溢れていた。
 しかし、新たにサキュバス族が魔王の座に就いてからは状況が一変した。生命エネルギーであるところの魔力は高ければ高い程それを糧とする魔物に狙われる確率が高まり、また国府が発表した『魔物は人間を魔界に連れ込み殺してしまう』という研究データが人々の不安に拍車を掛ける結果となったのだ。『日常的に魔物から狙われる危険性を孕んだ職業』として魔術師は敬遠されるようになり、次第にその担い手は減少の一途を辿っていった。
 結果、魔術師1人当たりに圧し掛かる業務の過密化によって、研究や私事に費やす時間など殆ど取れなくなってしまった。廃業に踏み切る魔術師が続出、生じた皺寄せが更に別の魔術師に襲い掛かる。この悪循環こそ、コンラッドが毎日のように不満を零す原因なのである。
 その一例が、法律で定められた魔術師の『協力義務』である。
 魔術師は、居住する街の警察機構その他の管理組織が発する出頭要請を原則として断る事が出来ない。魔術師の投入が必須の案件に限られた話ではあるものの、それらは大抵の場合大規模な事件や災害といった緊急事態である。就寝中であったとしても即座に対応しなければならない代わりに、魔術師は莫大な報酬や様々な特権を受け取る事が出来るのだ。
 そしてまさに、今夜がその事例であった。
「……で。こんな夜更けに呼び出しとはどういったご用件でしょうか、ドミニクさん」
 まるで隠そうともしない怒気を形ばかりの丁寧な口調に押し固めて、コンラッドは切り出した。
 酒場『ロッドウェル』。兵隊上がりの厳つい店主ドミニクが切り盛りする、料理の美味で有名な大衆酒場である。同時にこの店は城塞都市の治安維持を司る民警組織、『オルネスト自警団』第3支部としての顔も併せ持っており、今宵のコンラッドは常連客ではなく魔術師として、店内の古びた長椅子に顰め面で腰掛けていた。
 既に時刻は深夜と呼ぶべき頃合いだ。店内の喧騒は過去のものとなり、夜遅くまで酒と料理を楽しんでいた客達は今頃ベッドの中で皆ぐっすりと眠っていることだろう。店内にはコンラッドと店主ドミニクの他、閉店後の片付けをする2人の店員が残っているのみとなっていた。
「悪いなコンラッド、急に呼び出しちまってよ」
「そう思うなら、さっさと内容を話して貰えませんか」
 山賊の頭目と紹介されても万人が納得してしまいそうな強面のドミニクに、対するコンラッドはまるで物怖じした様子が無い。創業10周年を店主と共に過ごしてきた年代物の円卓に指先でリズムを刻みながら、深々と溜息までついてみせる始末だ。
 コンラッド・アーリアン。男性。年齢27歳。
 魔術師の中でも特に武闘派の存在として、その名は広く知られている。
 純白で統一された高級素材のスーツに帽子という特徴的な服装は、魔術師というよりもむしろ大手の商社で将来を嘱望されたエリート幹部のような雰囲気を醸し出している。オールバックで纏められた髪の色は衣服と真逆の黒。貴公子然とした面長の顔には鼻先で引っ掛けるように銀縁の眼鏡が乗せられていた。
「相変わらず傲慢な野郎だな、お前は」
「それが私の性分ですので」
「へっ、言うねぇ。……それじゃあ、早速だが仕事の話をしようか」
 なみなみと麦酒の注がれたジョッキを手に、ドミニクは長椅子に腰を下ろした。
「最近、街外れで魔物被害が多発してるのは知ってるな」
「ええ。被害者は今のところ3人という事でしたね」
「いいや、今日の夕方に1人増えちまったから4人だな。下水道の入り口で気絶してるのが少し前に西街区の下水道入り口で発見された。被害者はいずれも意識不明だが命に別条は無ェ。体中の魔力をごっそり絞り取られて昏睡状態だが、暫く静養すれば回復するだろうって話だ」
「命は残して精だけを奪う。典型的な魔物被害の内容ですね」
 さして興味も無さそうに、コンラッドは相槌を打つ。
「ああ。被害を拡大させない為に、早急に手を打つ必要がある。そこで『魔物狩りのコンラッド』、俺たち自警団はお前さんに白羽の矢を立てたって訳だ」
 一旦そこで言葉を切ると、ドミニクは小麦色の泡立つ液体を喉の奥へと流し込んでいった。
 コンラッドの二つ名『魔物狩り』は、文字通り彼が対魔物戦闘のスペシャリストである事を意味している。その実績と戦闘経験は、ドミニクが知る限り国内で5本の指に入るだろう。
「魔物の種類は判明していますか?」
「今まで皆目見当もつかなかったんだが、4人目で漸くな。被害者の歯に残されていた残留物を解析した結果、ダークスライムの仕業と判明した。普段は魔界に住んでる筈の種族だからな、ハンター共が輸送途中で逃がしちまったか、あるいは飼い主に捨てられたか……。どっちにしろ見過ごす訳にはいかねぇだろ。時間が経てば経つほど、分裂する可能性もあるしな」
「――ほう」
「ったく、これだから俺はハンターが嫌いなんだよ」
 交通路の開拓が容易な平野部に位置し、物流の中継地として機能するこのオルネスト市は、他の都市に比べて捕獲した魔物を連れたハンターや魔物商人の出入りが格段に多い。それはすなわち、脱走事故の危険性と件被害数も飛躍的に高まるということを示していた。ここ最近、これらの魔物取り扱い業者とその買い手市場に対して国家資格の取得義務化と罰則の強化といった対応策も考えられているのだが、在野の反発が思いのほか強く実現は難航しているのだという。どんな業界でも、既得権益を守ろうとする勢力は結束が強いものだ。
「本当は、なるべく魔術師の力を借りる事なく自警団のメンツだけで片付けたかったんだがな。剣も弓も碌に効果が無いスライム種とあっちゃあ、今回は流石にお手上げだ」
 心優しい悪人面の店主が剣呑な表情で歯を噛み締める。子供なら間違いなく泣き出しそうな光景を無感情に眺めつつ、コンラッドは暫く虚空を見詰めていた。
「……そうですか、ダークスライムですか」
 ぽつりと呟きを洩らした、次の瞬間。
 不機嫌の一色に染められていたコンラッドの面相が、突如ぐにゃりと喜悦の形に歪む。
 それは即ち、平素から嫌味ばかりで瑣末な依頼など見向きもしないこの男の心中に、好奇心という名の火種が放り込まれたという証であった。
 元は兵士として幾多の修羅場を潜ってきたドミニクでさえも――否、だからこそと言うべきか。凄腕の魔術師からまろび出た感情の片鱗に、渋面を浮かべずにはいられない。
「素晴らしい。実に素晴らしい! ははは、久し振りに血が滾ります!」
「……念の為に言っておくが、殺すなよ。連中だって生きる為にやってんだ」
 額を抑えながら吠えるように哄笑する魔術師とは対照的に、ぐっと声のトーンを抑えたドミニクが不安そうに忠告する。
「解っていますよ。生け捕りでなければ意味がありませんからねぇ」
 満足げに頷くコンラッドは、まるで恋人を想うかのように感極まった微笑みを浮かべていた。
「久し振りに充実した仕事が出来そうです。承りましょう」
「おう、悪いな。報酬は討伐が完了し次第、指定口座に振り込ませて貰うぜ」
「了解しました」
 もう此処に用は無いとでも言わんばかりの素早さで、コンラッドは席を立つ。すぐにでも現場に向かおうとする彼の後ろ姿に、ドミニクが声を張り上げた。
「さっきも言ったが、被害者が見付かったのは西街区の下水道入り口だ。自警団員が夜通しで残存魔力の探知に当たってるから、詳しい位置関係はそこで聞くと良い」
「ご苦労な事です。では、行って参ります」
 陶然とした笑みを湛えたまま、コンラッドは出口の扉に手を掛ける。
「……おい」
「何でしょう?」
「気を付けてな」
「――誰に対して言ってるんですか?」
 去り際に投げ掛けられたドミニクの気遣いを、しかしコンラッドは余裕たっぷりに受け流したのだった。



 
10/02/06 20:46更新 / クビキ
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■作者メッセージ
 お読み頂き、有り難う御座いました。
 第3作目『肉欲に溺れたスライム娘』の第一章をお届けします。
 今回は少し長めの話になるようなので、連載小説という形を取らせて頂きました。
 題名からお解り頂けるかと思いますが、今回はエロを重視したストーリーになっています。
 序盤という事でエロに相当する部分は終始ライトな内容に終わりましたが、次回以降は徐々にハードな描写も織り交ぜていきたいと思います。
 お気付きの点やご感想、ご要望など御座いましたら、感想欄にて遠慮なくお知らせください。

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