連載小説
[TOP][目次]
第1話 真夜中の女神
美術館を訪れて作品を鑑賞する人というものは、おおむね3つのタイプに分かれる。

1つ目は、本やテレビで見知った有名な作品を間近で見て目を輝かせる人。
2つ目は、初めて見る作品を前に、じっくりと見つめて何かを感じ取ろうとする人。大抵は作品からは何も感じずに、横の説明文を読んで満足する。
3つ目は、作品を一瞬だけ見てただ前を通り過ぎる人。自分の知らない作品に対しての大多数の人の反応がこれである。
彼女がこれまで見てきた人々は、ほとんどが1つ目の種類だった。しかし、彼女は知っている。大方の人の反応は、テレビで見る有名人を前にした興奮と大差はないことを。画面の中の存在だったものを目の前にして、舞い上がっているだけ。どこかの高名な美術史家が語った言葉を鵜呑みにして、理解した気になっているだけ。
本当のことは誰も分かってくれない。
そう、思っていた。


欧州のとある国、中世の趣きを残す建築群で名高い街に、1つの美術館があった。古代から近代までの幅広い分野のコレクションで有名なその美術館の一階には、これもまたよく知られた広間がある。
【ギリシャ・ヘレニズム期の彫刻】
そう銘打たれた広い展示室には、遠く南の国で発掘された白亜の彫像が立ち並ぶ。
男の身体は引き締まった見事な筋肉を持ち、女の身体は優美な曲線を描く。古代の芸術家が到達した、人間の肉体美の極致がそこにあった。

その中にあって、ひときわ目を引く彫像が1体。
展示室の最奥に置かれたその像は、一瞬纏わぬ裸身で静かに立つ。
その肢体は緩やかなカーブを描き、磨き上げられた大理石の肌は絹のよう。
均整の取れた女性らしい身体つきには、美と官能が同居する。
この時代の彫刻には珍しく肩まで下ろした長い髪は硬い石の彫像であることを忘れさせるほど軽やかにカールする。
見る者全てを魅了するその顔は、凛々しい表情の中にもどことなくあどけなさを感じさせる。

この美術館の目玉にして世界的に有名な彫像、古代の美の女神像だった。



深夜の美術館。
とうに玄関は施錠され、見回りの夜間警備員を除いては館内に人の姿はない。
闇に包まれた一階の彫像展示室には、今日も数多の来館者の目を楽しませた大理石の彫刻たちが、静かに立っていた。最も多くの注目を集めた女神像も、変わらぬ美しさで佇む。

夜警が展示室の前を通り過ぎ、2階へと向かう。遠ざかっていく足音。
展示室が再び静寂に包まれたその時、女神像に異変が起こった。
ピシッ、という軽い音と共に、女神像の足元の台座に小さな亀裂が走る。その音をきっかけに、像に変化が始まる。
女神の足元から、まるで大理石の表面が溶けだすように色が変わっていった。白い石の肌がみるみる色づき、血の通った人間の肌に変わってゆく。
脚から腰、腰から胸へと、徐々に肌色が上っていく。心臓が鼓動を始め、呼吸で微かに胸が上下する。
硬い石の髪が薄いブルネットに変わり、風にフワリと舞う。最後に、形のよい瞼がゆっくりと閉じられる。再び目が開いたとき、そこには透き通ったグリーンの瞳があった。
女神の像が、1人の少女に変わっていた。

女神像の少女は、何度かまばたきをした後、目だけを動かして辺りを伺う。それから少しだけ身を乗り出して夜警が戻ってこないことを確認すると、初めて嬉しそうな笑顔を浮かべ、ピョンと台座から飛び降りた。
床に着地すると、猫のように思い切り伸びをする。

「ん〜〜〜!やっと行ってくれたわね!」
元気のよい独り言の後、少女は手を後ろで組んで上機嫌で展示室内を歩き回り始めた。

「こんばんは!いい夜ね?あなたのトーガ、今日もとっても素敵よ!私ね、最近あなたみたいに服も着てみたいなって思ってるの!」

「こんばんは、砲丸投げのお兄さん!相変わらずすごい筋肉ね!もしあなたが動けたら、どんな記録が出るのかしら?」

「こんばんは、今日もいっぱい写真撮られてたわね!まったく、撮影は禁止だって書いてあるのにね?」
楽しそうに次々と石像に話しかける少女。当然のことながら言葉は返ってこない。しかし少女は気にした様子もなく、隣の展示室へと歩いていった。

真夜中の美術館の散歩が、彼女の毎晩の唯一の楽しみだった。
隣にある【フランドル絵画】展示室を、のどかな田園を描いた名画を堪能しながら通り過ぎる。
いつから、石像である自分がこうして動けるようになったのかは、あまり覚えていない。気がついた頃には、夜な夜な展示室を抜け出して歩き回る生きた石像になっていた。

【印象派の画家たち】展示室では、ぐっと絵に近づいて油絵の具がうねって固まった様を観察してみる。
それ以前のことは、はっきりとではないが覚えている。高い台座から、人々を見下ろす私。人々は私を、世界中で有名な彫刻を見上げて、口々に褒め称え、感動に目を輝かせていた。そんな彫刻が夜になったら動き出すと知ったら、あの人たちはどんな顔をするだろう?

【ロマン主義の時代】展示室に入ると、いつもしばらく足を止めて絵画に見入る。
それから、それよりももっと前。私が持っている一番最初の記憶。それはちょうど、この絵の景色によく似ている。
彼女が立っているのは、遠い南の国の海辺の風景を描いた絵。空と溶け合うほどに青い海、太陽に照らされて輝く白亜の大地、白い壁の家々。丘の上にはオリーブが茂る。
この記憶は何だろう?私はこの美術館を出たことがないはずなのに、この絵を見ると色々な感覚が蘇ってくる。風の音、海の匂い、大地の暖かさ…そしてなぜだか、懐かしさがこみ上げる。
最近になって、少しずつその意味が分かってきた気がする。これはきっと、私が生まれる前の記憶。人の手で切り出されて人の形に彫られる前の、まだこの白い大地と一つだった頃の記憶。ただの石に記憶があるなんて不思議だけれど、なぜだかそんな気がする。
一通りの散歩を終えて少女は彫刻の部屋へ戻り、自分の台座に腰を下ろした。片膝を腕で抱えて顔をうずめる。
「帰りたいなあ……」
少女は呟いた。



次の晩も、その次の晩も、女神像の少女は夜の散歩を楽しんだ。しかし、ここ2,3日はどうにも不満が溜まってきていた。というのも、毎晩の夜警の見回りがやたらと念入りだったからだ。極力人に見つからないように動かなければならない彼女からすれば、散歩の邪魔をされて大迷惑だった。
今夜も、日が沈んでしばらくしてから、ようやく夜警がいなくなってくれた。辺りを注意深く伺い、ホッとした表情で台座を降りると、いつものように絵画の展示室に向かう。
【ロマン主義の時代】展示室に入ろうとした時だった。部屋の反対側の入口から、こちらに向かってくる足音が聞こえてきた。

「やばっ……!」
慌てて物陰に隠れる。
そっと顔を出して伺うと、入ってきたのは夜警の男だった。まだ20歳くらいの若い男で、クセのある濃い茶髪が特徴的な軽薄そうな見た目だった。
この男は知っている。最近ここの夜警の仕事に就いた新入りで、見た目とは裏腹に真面目に見回りの仕事に勤しみ、彼女は迷惑していた。

男は妙な動きをしていた。しきりに辺りを警戒しながら、1枚の小さな絵画に近づく。絵の目の前に来ると、ポケットから小型の機械を取り出して額縁に当てる。機械が電子音を発すると、ドライバーを取り出して額縁に手をかけたーー

(あいつ、まさか……!)

すぐにピンときた。絵画泥棒だ。おそらく最初からそのつもりで、ここの夜警として雇われたのだ。

(何よ…!仕事はちゃんとやるヤツだと思ってたのに……ちょっとカッコいいかもって思ってたのに…!)

頭にきていた。見てしまったからには何とかしなくては。その気持ちがはやり、思わず今までなら決してやらなかったことをしてしまった。

人間の前に姿を見せるということを。



「ちょっとアンタ!その絵をどうするつもり⁉︎」

「………!!!?」

ビクリと男の体が跳ねる。振り返ろうとして足がもつれ、そのまま無様に尻もちをついて倒れた。

「……な…な……」

「何してるのよアンタ!その絵がどれだけ貴重なものか分かってるの?アンタみたいな失礼なヤツが独り占めしていいものじゃないのよ⁉︎」

「……え、えっと…どちらさま?…つーか、何で裸…?」

驚きのあまり硬直し、やっとのことで言葉を絞り出す男。一方、裸でいることに微塵の恥じらいも感じない少女は、胸を張って答える。



「あなたのよく知ってる女性よ?」

「………はい?」

「毎日見てるじゃない……っていうか、この顔を知らないとは言わせないわよ!」

「…………」

怪訝な表情で男は少女の顔をじっと見つめる。が、すぐに首を横に振った。

「いや、悪いけど…君みたいな美人の知り合いには覚えがないな。いたら口説いてる」

「……もうっ!」

痺れを切らした少女は、男の手を掴むと強引に立たせ、ぐいぐいと彫刻展示室へ引っ張っていった。



「ほらここ!これで分かるでしょ⁉︎」

自分の台座の前まで男を引っ張ってくると、少女は台座の上で普段と同じポーズをとってみせる。

「ここにこうやって!いつも立ってたでしょう?」

得意げに言う少女に対して、男は首を捻る。

「ここって……確か彫刻が…」

「そう!名前くらいは絶対にどこかで聞いたことあるでしょ⁉︎」

「………『ナクソスのヴィーナス』…?」

「そう‼︎やっと思い出したようね?あの『メディチのヴィーナス』と並び称されるほどの古代彫刻の傑作!あなたの前にいるこの私こそが!有名なナクソスのヴィーナ…」

「いや、そこの説明文に書いてあったから」

「………」

あまりに薄い反応に言葉が出せず、脱力してポーズをとっていた腕をだらりと下ろす少女。

「もしかしてあなた……私のこと知らない?」

「あ…いや、そういえばどこかで聞いたような気もしてきたな…」

「あっきれた!それでも美術館で働いてる人間なの⁉︎」

憤慨して男に詰め寄る少女。

「べ、別に好きでやってる訳じゃ……ってちょっと待て。じゃあ何だ?本来ここに大人しく飾られてるはずの彫刻が実は生きてて、見た目は女神でも中身はお転婆で、カラスみてーにやかましく喋って!それが君だってのか?」

「だからそうだって言ってるじゃない!っていうかカラスって何よ!」

少女のセリフを聞いた男は小馬鹿にしたように笑いながら肩をすくめた。

「…おいおいバカ言うなよ……。つくんならもうちょっとマシな嘘を…」

「嘘じゃないってば!現にここにあったはずの像は無くなってて、代わりに私が動いてるじゃない!」

「それは……まあそうだけど…」

「何ならここ最近のアンタの行動を喋ってあげましょうか⁉︎いい?毎日閉館時間近くになると出勤してきて、まずは館内を一回り。お客さんが帰ったら鍵をかけて……」

まくし立てようとする少女を、男が慌てて手で制した。

「わ〜かった分かった!そういうことにしといてやるよ!…別に俺には、君が人間であろうとなかろうと関係ないしな……。問題は、だ。君が今夜見たことは、全て黙っててもらわなきゃならん。君には関係ないことだろ?絵の一枚や二枚どうなろうと、さ」

「そんな訳ないじゃない!私だってこの美術館の一員よ?大事な作品が盗まれるのを黙って見過ごすわけには…」

「頼むよ…礼は必ずする!君が望むことは何でもするからさ!あの『サロメ』を依頼人に送れば金はたんまり…」

「……え…ちょっと待って、『サロメ』?その絵、確か今修復中よ?」

「……は?」

男が硬直する。すぐにその顔がサッと青ざめると、慌てて踵を返して先ほどの展示室に走っていった。




少女が後を追って展示室に入ると、男は先ほど手をつけていた絵画にかじりついてタイトルを確認していた。説明文には、フランス語でこう書かれている。

『ホロフェルネスの首を持つユーディト』

さらにその絵の隣には、本来絵画が掛かっているはずの空きスペースがあり、絵画の代わりに貼り紙がしてあった。

「『サロメ』
  修復のため公開停止中。来年3月まで。」




「…ウッソだろ……この前見た時は確かに…いや、あの時からしてすでに勘違いしてたのか……?」

ショックのあまり貼り紙の前で呆然としてブツブツ呟く男。想定外の事態に完全に動揺していた。

「…いっそコイツを代わりに送るか…?いや、それだとこっちの計画が……それより向こうに事情を説明して依頼を………あぁクソッ…!警報器の細工に相当苦労したってのに…」

「警報器ってこれのこと?」

「…ッ‼︎」

唐突な少女の声に男が振り向く。いつの間にか少女は壁に取り付けられた警報ボタンーー男が細工をしていた絵画の盗難防止用の装置とは別の、不審者通報用のボタンーーの前に立っていた。

「ちょっ……ま、待てっ!」

男が明らかに動揺しているのを見て、少女はニンマリと笑う。


「教養の無さが仇になったわね!盗もうとした絵を間違えるなんて…。でも泥棒は泥棒。私がこのボタンを押せば、あなた捕まっちゃうのよね?」

「ま、待て…!待ってくれよ!分かった、もうここの絵には何もしないからさ!」

「どうしようかな〜?でもやっぱり泥棒は捕まえないといけないわよね〜?」

「頼む……!頼むから通報は勘弁してくれ…!」

「……じゃあ…私のお願いを聞いてくれる…?」

「…!ああ聞くよ!何でも言ってくれ!」

少女はほくそ笑んだ。実は、先ほど「礼はする」と言われた時から思いついていたことがあるのだ。

「私ね……ふるさとに帰りたいの!連れて行ってちょうだい!」




「……へ?」

困惑する男。少女はぽつぽつと語り出した。

「私ね、この美術館から出たことないのよ。ここに来る前はどこかの貴族のお屋敷にいたらしいけど…その頃の記憶も曖昧。毎日毎日、昼間はたくさんのお客さんに見てもらって、日が沈むと展示室を抜け出して美術品を眺めるの……そうやって何年も、何十年も私は過ごしてきたわ」

「…………」

「ねえ、でもそれって……何だか寂しくならない?生まれてからずっと、ただ人に見られることが私の役目……。このままだと、私いつか本当にただの石像になっちゃう気がするの!自分がどこで生まれたのかも分からないまま……」

「…まあ……俺にはとても想像できない話だけど…つらいんだろうな。言いたいことは分かるよ」

「そうでしょ?…そりゃあここでの暮らしはそれなりに楽しいし、この美術館で作品としてお客さんに見てもらうことが、私の大事な仕事だっていうのは分かってるの。……でも、せめて一度だけ!一度だけでいいから、私は私が生まれた場所を見てみたい…!ここを抜け出して、広い世界を旅して、私の記憶の中に残る故郷をこの目で見てみたいの!一目見ることができたら、その後はまた見られるだけの石像に戻ってもいいから…」

「ちょっ、ちょっと待てよ!『記憶の中の故郷』って、一体いつの話だよ?君の言うことを信じるなら、石に記憶があるってことか?」

男の問いに、少女は首を横に振った。

「それは……私にも分からないの。…そこの絵を見てくれる?」


少女は一枚の絵を指差した。その絵は男が盗もうとしていた絵の二つ隣。少女がいつも立ち止まって眺めていた絵だった。

「私の記憶の中の故郷は、その絵とよく似ているの。空も海も大地の色も、ちょうどその絵のような……。あなた、そこがどこだか分かる?」

男は絵に近づき、顎に手を当てて考える。

「ふ〜む……。この絵だけじゃ何とも言えんが……ギリシャ彫刻っつうくらいだからギリシャの…エーゲ海のどこかじゃないのか?」

「エーゲ海⁉︎それって遠いの?ここからどれくらい?」

「まあ遠いといえば遠いな…。飛行機なら1日。それ以外となると……そうだな…1週間はかかるか」

「1週間……1週間ね…!それくらいなら何とか……ちょっと行ってくるだけよ。大丈夫よね…?」

現実的な数字を聞いて、少女の目が輝き始める。ついに夢が叶うかもしれない。そんな期待が少女の中で膨らんできていた。




「…よし!そうと決まればあなた!連れて行ってくれるわよね?」

「…いやいや待て待て!!」

男が慌てて抗議の声を上げる。

「お前なあ!場所が分かったんなら1人で行きゃあいいだろ!」

「案内が必要なの!私はここから出たことないんだから、外に出て1人で旅なんてできるわけないじゃない。…それに私、日が沈んでる夜の間しか動けないのよ!朝になったら石像に戻っちゃうの!」

「な、何だよそれ……いやそう言われてもだな…君が思ってるほど簡単なことじゃ…」

「あ〜らそう?嫌なら別にいいけど?その場合あなたはギリシャじゃなくてお巡りさんと一緒に刑務所に行ってもらうことになるけど…」

「わーー‼︎ちょっと待て!」

通報ボタンに手を伸ばそうとした少女を、男が慌てて制止する。追いつめられた男は、頭を抱えて逡巡し始める。

「…あぁもうなんでこんな事に……!大体連れてくっつったってどうやって……いやでも通報よりはマシか…?」




しばらくブツブツと呟く男だったが、やがて諦めたように溜め息をつくと、肩をすくめて言った。

「…………分かったよ。連れてってやるさ。お望みの所まで」

「やったぁ‼︎」

飛び上がって喜ぶ少女。
男の前まで歩み寄ると、嬉しそうな笑顔のまま、スッと男に右手を差し出した。

「……何だよ」

「交渉成立ね。これからよろしく、案内人さん?」

上機嫌の少女に対し、男は憮然とした顔で差し出された手を見つめ、握り返そうとして…顔を逸らしてやめた。

「…その前に一つ言っときたいことがある……」

「あら、なぁに?」

しばらく黙った後、男は自分が着ていた上着のジャケットを少女に投げつけて真っ赤な顔で言い放った。

「服を着ろ‼︎」







一度守衛室に戻って荷物を整理した後、2人は再び彫刻の展示室に戻ってきていた。

「これが服なのね〜!思ってたよりずいぶんゴワゴワしてて動きにくいのねぇ…。……ねぇ、なんだか胸のあたりが擦れてちょっと痛いんだけど…」

「うるさい後にしろ」

少女は、宿直室にあった夜警用の安っぽいジャージの上下を着ていた。もちろん下着などはつけていない。男は私服に着替えていたが、他に服もなかったため少女にはサイズの合わないそれを着せるしかなかった。

目の毒だった美しすぎる裸体が隠れて少し落ち着きを取り戻した男だったが、先ほどから初めて着る服やその他諸々に興味津々ではしゃぎ回る少女に少しイラついていた。

「ねぇねぇ!私こういう服の方が似合うと思うんだけど、どこかで手に入らないかしら?っていうか、こういう服ってどのくらいするの?パンよりは高い?」

「…………」

少女が手に持って指差しているのは、男が仕事中の暇つぶしに持ち込んだ週刊誌だった。表紙にはきらびやかな衣装を着た有名な女優が写っている。

「この人も綺麗よね〜。まるで女神みたい…でもちょっと腰が細すぎない?今の人ってこういうのが好みなの?……あ、ひょっとしてあなたの趣味?」

「…だぁから後にしろ‼︎時間がないっつったろ!終電逃したら今日はもう動けねえんだぞ!」

「……は〜い」

好き放題喋る少女を一喝して黙らせる。すぐにこの街を離れなければならない男は、南部の港町行きの列車に乗ることに決めていた。今日の最終列車まで、あと20分。もたもたしている暇はなかった。

「…それで?この台座をどうするって?」

2人がまたこの展示室に戻ってきたのは、少女がそうするよう言ったためだった。どうやら少女がいつも乗っていたこの台座に何かあるらしい。

「…何か硬くて重い物は持ってきてくれた?」

「あぁ…一応守衛室の工具箱からハンマーは持ってきたけど…」

「それでいいわ。あのね……端っこの方でいいから…この台座を壊してほしいの!」



「へ?……いいのかそんなコトして?仮にも…」

「ちょっとここを見てくれる?」

少女は台座上面の一部分を指差した。男がそこに顔を近づける。

「…小さいけど、台座にヒビが入ってるでしょ?」

「……あぁ、言われてみれば…」

「私も最近気がついたんだけどね。…なんとなくだけど、私がこの台座を離れて歩き回れるようになったのって、このキズが原因のような気がするの。彫刻は台座に縛りつけられるものでしょう?……実は私、この美術館の中を今まであちこち歩き回ってきたけど、どうやらこの台座からあまり遠くには離れられないみたいなの。美術館から出られないのは、それも理由」

「……つまり俺がこの台座を壊せば…」

「そう!…端っこを少しでいいの。ヒビじゃなくて石が欠けるくらいに壊してもらえれば、きっと私は自由になれると思う!」

「……本当かよ…」

半信半疑といった様子で手の中のハンマーをもてあそぶ男。

「壊すとなると……さすがに罪悪感がなぁ…」

「何言ってるのよ!絵を盗むのも彫刻を壊すのも一緒よ。泥棒さんにはどうってことないでしょ?」

「…泥棒じゃない。ジャンだ。ジャン=リュック・クローデル。ちゃんと名前がある」



男、ジャンはしかめっ面で名乗った。

「そう。…ならジャン!あなたならできるわよね?」

「ジャン=リュックだ。……あー、ところでお前は?何て名前で呼んだらいいんだ?」

「私?名前?………そうねぇ…」

少女は聞かれたことに意外そうな顔をして、腕を組んで考え始めた。

「考えたこともなかったわね…。皆は『ナクソスのヴィーナス』って呼ぶけど、それは私の名前とは少し違うわよね…。……まあ、好きに呼んでくれていいわよ?あなたが考えてよ」

「俺が?…いきなりそう言われてもなぁ……」

突然命名権を与えられて面食らうジャン。何かヒントになるものはないかと周りを見回したとき、少女の手にある週刊誌の表紙がふと目に入った。

エリーザ・ヴァレ。先ほど少女が「綺麗な人」と評した有名な女優であり、ジャンがこの雑誌をキオスクで買ってきたのは何を隠そう表紙が彼女だったからだった。

「ちょっとそれ貸してくれ」

少女から雑誌を受け取ってじっくりと見比べてみると、少女はこの女優にどことなく似ている気がした。女優の中の一部にギリシャの血が流れているのか、それとも美しさというものにはどこか普遍性を持つものなのか。それは分からなかったが。




「エリーザ……エリーザってのはどうだ?綴りは………こうだ」

Elisa

ジャンはポケットからペンを取り出し、雑誌の余白に書いてみせた。

「人間のフリするんだったら使うこともあるだろうし、覚えとけよ」

「エリーザ………私、エリーザね?」

雑誌とペンを受け取って書かれた文字を見ながら、名前の響きを噛みしめるように繰り返し口にする少女。心なしかその顔には笑みが浮かんでいた。

「…分かった。エリーザね。これからはそう呼んでちょうだい!」

「ああ、気に入ったんならそうさせてもらうよ。……さて」

ジャンはハンマーを持って台座に向き直った。

「時間もないし、迷ってる場合じゃねぇな。…さっさとやっちまうか」

「そうね。やっちゃって!」

少女、改めエリーザがその背中を押す。ジャンは台座に歩み寄り、その正面に立った。

「離れてろよ……せーのっ!」

ハンマーを振り上げ、一気に振り下ろした。







この夜、一体の美術品と一人の男が美術館から消えた。朝になり美術館の職員が発見した時には、人類の宝の一つである古代の女神像はすでに本来あるべき場所になかった。
すぐさま駆けつけた警察によりこの大事件の現場検証が行われたが、犯人として疑わしい人物は誰の目にも明らかだった。

事件当時勤務中だったにも関わらず、その夜のうちに忽然と姿を消した美術館の警備員の男。この男が犯人ないしはその協力者であることはほぼ確実と思われた。
警察は複数人による計画的な犯行と見て捜査を進めることとなった。しかし不可解な点がいくつもあった。大型の彫刻を盗み出すためにはある程度の人数の運び手とトラックなどの輸送手段が必要となるはずだが、そのような集団の目撃情報がないこと。また、台座から像を切り離して運び出したにしては、台座の隅が不自然に欠けている他に目立った破壊痕がなく、まるで最初から無かったかのように綺麗に像だけが消えていること。

これらの謎に捜査関係者は頭を悩ませたが、いずれにせよ真相究明は容疑者であるジャン=リュック・クローデルの逮捕を待ってから、というのが今後の方針となった。すぐにジャンは指名手配となり、その日のうちに全国の警察署に手配書が回ることとなった。




警察の現場検証が一通り終了した後。女神像があった場所は、現場保存のため黄色のテープで立ち入りが制限された区画となっていた。
厳重に張られたテープの内側、主を失った台座の上には、一枚の紙切れが放置されていた。
雑誌から破り取られたらしい名刺ほどの大きさのその紙には、可愛らしい字でこう書かれていた。





美術館の皆さま

遠く南の故郷を恋しがる彼女を哀れに思い、ひとときの里帰りをさせることと致しました。故郷の地までは私が責任を持って無事に彼女を送り届けることをお約束します。どうぞご心配なきよう。

                          ジャン=リュック・クローデル
 
                       本当にごめんなさい。すぐ帰ります。
15/05/03 23:34更新 / 琴白みこと
戻る 次へ

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33