読切小説
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ふたりのことば
 指を一回鳴らしたらコーヒー、二回鳴らしたらウィスキー。
 彼女が、一回指を鳴らす。
 それでコーヒーを出したら、飲んで苦い顔をされた。
 二回鳴らしたのでウィスキーを出したら、今度は一舐めしただけでひっくりがえってしまった。
 どうやら、ウィスキーどころかコーヒーも飲んだ事が無かったらしい。
 彼女は酒気に酩酊し、カフェインにくらくらしながら、扇状に手をひらひらさせて、そして今度は何かを叩く様な仕草をしてみせた。
 それは何かに抗議しているかのようであったが、少年はこう解釈した。
「六時から九時の方向に扇状に展開し、黒オーク団に追われた敵を狙い撃つ?」
 狙い撃たれたのは少年だった。
「あれぇ? おかしいなぁ……この本にはそういうふうに書いてあるのにな」
 その頁には、無口なオッサンの大活躍が書かれていた。
 少年が彼女に同意を求めたが、彼女は川底から人にぶつけても死なない程度の、それでいて大きな石を探し始めていた。

 一匹……一人のサハギンが少年を見ていた。
 大きな目を眠そうに半眼にして、しかし明確な意志を宿したモノ言いたげそうな瞳を、少年に向けていた。
 喋りかけても返事は無く、あちらからも声は無く。顔を半分水に浸けて、こちらをじーっと見ていた。それが三日程。
 人間は、自分に向けられた何らかの行為に意味を見出せない時、
 逃げる。
 三日経った。
 人という物は、基本的に恐怖を忘れやすく、恐いもの見たさである。
 少年が再びその水辺に現れたのは、そんなタイミングである。
 目を真っ赤に腫らしたサハギンが居た。
 ざぶぁぁぁぁっ!
 水を蹴立てる、らしからぬ猛烈さで、サハギンは上陸した。
 それは、迷子の子供が母親を見つけた時の様なものであった。もっとも彼女の場合、少年が対象であるのだから、兄か何かだろうか。
 だが少年からすれば、真っ赤な目で、爪が剥き出しの水掻きを振り上げて突進してくるその姿は、ホラーSFの寄生繁殖形のエイリアンのようにすら見えた。
 というか、少年にはそうとしか見えなかった。 
「ぎぃやぁぁぁぁ! 食われるカモー!」
 逃げる暇も許されず、懐に飛び込まれた少年は思わず、掌を前に突き出した。
 すると彼女は立ち止まった。
 思えば少年のそれは、ストップ、というジェスチャーであった。

 手招きしたら、すーっと寄って来た。
 逆のモーションをしたら、すーっと後ろに下がった。

 サハギンが、なにやら手をひらひらさせた。
 相互の意思の疎通を図る事を、企図しているのは明らかであった。

 少年は解釈した。
「斉射三連?!」
 ……なにを?

 ……どぎゃめしゃ! どぎゃん! ごいん!
 全力射撃の石が、三つほど飛んで来た。
 フェードアウト。

「なにげに走馬燈が部分公開されてるんだけど、サハギンさん」
 頭に特大のこぶを作りつつも、少年はなんとかその再生を強制終了した。
 走馬燈から復帰した少年であったが、サハギンの話はまだ済んでいなかった。
 まだ先ほどの扱いに御立腹のようだ。
 アルコールとカフェインにまだ酩酊しているのか、彼女は手をひらひら、腰から上をぶんぶん……。
「ちょっと、お前、近う、寄れ、つーか? ツラ、貸せや? しばき倒すど?」
 彼女はぶんぶん首を縦に振っていた。
 どうやら今度こそ、少年の翻訳が正しかったらしい。
 そして彼女はその行動で、その正しさを再確認させた。

 多くの動物で広く発達している肉体言語がある。
 それは、ケル、ナグールである。

「うわあぁっ!? 伝説の黄金の左手だって!? 伝説は本当だった……て、右も来るのか!? マジか? マジだよね! ちょっ、その蹴りのモーション、ドコ狙ってるんだよ!? やめ、やめっ……っ」
 チーン、と何かが鳴った。

 やはりまた、多くの動物で広く発達している肉体言語がある。
 ハグである。

「やり過ぎて反省してるのは良いんだけど、それで抱きしめてくれるのは嬉しいけど、絞まる! 絞まる! 絞まる! しまっ、ぐげぐぅおおおげぇがぁはっ」
 もう一度、チーン、と何かが鳴った。
 ああ、もしかして本望デスカ? 悔いナシですか? そーデスカ。

 サハギンはその大きな眼に、涙を一杯あふれさせて、少年の亡骸を抱き寄せた。
 助けられなかった……
「生きてるよッ!」
 ああ、と相槌を打って、彼女はまた無表情に戻る。
「それに、誰が殺しかけたんだよッ!」
 サハギンは少年の言葉がわからないようであった。
 もしかしたら、フリかもしれないが。

 ああ、神様。
 もしかしたら、人々の言語を麻のように散り散りにしたのは、人々が好き勝手に制限無く願う声を、いちいち聞くのが面倒だったからなのでしょうか? バベルの塔を登って大挙して陳情しにくるであろう人間達の、そんな言葉が分からなかった、という言い訳をする為に、だったのでしょうか? 知らんぷりする為デスカ?
 少なくとも僕の目の前に、そんなフリをする娘が一人居ます。
 神よ、貴方がそのような意図をお持ちでないのなら、彼女を罰してやってください。
 神様は、少年の言葉がわからないフリをした。

 ………パチン。
 一度指を鳴らす。
 すると少年は、水筒からお代わりの紅茶を彼女のカップに注いた。
 最初はコーヒーを出していた少年だが、彼女がその苦みを苦手としている事を理解すると、それは紆余曲折の後に紅茶に改訂された。ミルクが入っていたり、レモンの香りがする時もあったが、それは頓着していない様子で、むしろその日替わりメニューを楽しんでいるようだった。
 彼女は最初、コーヒーでも紅茶でもなく、全く違う意味で指を鳴らしていたのだが、それは少年とのやり取りの中で、紅茶プリーズ、という意味に改訂する事にした。

 やがて少年は、サハギンに言葉を教え始め、それを共有し始める。
 サハギンの言語野に修められた単語と文法は少なく、そんな貴重なそれらも偏りが酷いらしく、日常の意思疎通にはまるで役に立たなかった。
 ジェスチャーによるコミュニケーションは、こちらは少年の妙に偏って老けた趣味もあって、その疎通には混乱をきたす事が暫しばであった。(で、石が飛んでくる)
 それで共通する言語を、二人は決める事にした。
 目に映る全てのものを指差し、やれる事の全てをやり、歌を諳んじながら、それらの名前と意味を印したラベルを一つずつ貼るように、二人は二人で共にする言葉を覚えていった。少年の、人の言葉と文法をベースにしながら、時にサハギン流の解釈と言い回し、必要な単語を作ったりしながら。
 それはまるで、二人で言語を育むように。

 そんな二人は次第に、言語以外のものも共有し、互いにそれらを育んでいった。
 例えば、感情。
 少年の彼女への感情もそうではあるが、それ以上に、彼女の少年への感情は、特に激しく特別なものへと育っていた。
 だがその成長に、言葉が追いついていなかった。
 日に日に大きくなるその誤差が、特に言葉に頼らず肉体言語で感情を発露させて来たサハギンを、焦らし、焦がしていった。表に出される事の少ない激情が、それを表現する術を得られず、その成長とともに、心そのものを燃やし始めていた。
 そして彼女は、少年へと一番伝えたい感情を、それを言い表す言葉を手に入れる前に、ついにはその心を焼き切らせてしまった。

 何か、堪えきれずに至ったかの様な、そんな彼女の思い詰め表情が見えた瞬間、少年は押し倒されていた。
 サハギンは少年に覆い被さると、少年と身体を擦り合わせ始める。そして言葉にならない甘い声を漏らし始めた。
 肩を揺らす程に呼吸を乱して、歓喜の歌をその切な気な吐息で奏で始める。
 彼女が少年に一番伝えたかったもの、それを与えられる喜びに震えながら。
 いつもに無表情だったその表情は、一夜に咲き誇るサボテンの花の様に、瞬く間に鮮やかさを溢れさせた。
 そしてその花から香る蜜の匂いの様な、甘く蕩けそうな唇が言葉を紡ぎだす。
 開口一番こう言った。
「子供は何人欲しい?」
「ナンデそんな言葉だけは知ってるんですカ?! サハギンさん?!」
 男をこういう行為に誘う言葉だけは、豊富で饒舌なサハギンさんであった。
 だが、彼女のその愛しの相手は男ではなく、残念ながらまだ少年であった。
 精通こそ済ませていたが、それが、自分の身体であるのに自分の意志とは関係なく込み上げてくる、そのまだ痛みにしか分類できていないその感触、それに対して畏れのようなものを抱いている様な少年が、そんな彼女を受け入れられる筈も無く。

 サハギンはまた、ひとりぼっちになった。

 ひとりぼっち……。
 それは彼女が、割と早い時期に覚えた言葉だった。
 少年が来るまで、ひとりぼっちだったから。
 それを覚えた時、その言葉は輝かしいものであった。
 それまではひとりぼっちでしかなかった彼女が、わざわざその言葉を使って自分の状態を表現する必要など無かった。言葉で区別する必要も無く、変化無く、ひとりぼっちであり続けるのだから。また自分の状態を知ってもらう相手も居ない、ひとりぼっち。
 だから少年の登場によって、その言葉を使う必要に迫られた時、彼女の歓喜を想像できるだろうか。もう彼女は、ひとりぼっちではない。それを何処かに追いやって、指差す事ができる所に居た。ひとりぼっちとは別に場所に、少年が連れて来てくれた。
 彼女はかつての自分を、その言葉の中に封じ込めてしまった。
 でも、少年は去ってしまった。
 また、ひとりぼっち。
 もう使う宛ての無い単語。
 無用なそれから、封じ込めた言葉の中から、ひとりぽっちはまた現れた。
 そして、ひとりぼっちは、そこに引き戻されてしまった事を思い知らす言葉となった。
 それを自覚した時、彼女は声を上げて泣いた。
 泣き叫ぶ事は、言葉を知らなくともできるから。

 その水辺がサハギンの涙で、海のように潮辛くなりそうなくらいの時が経った頃。
 少年が再び、彼女の居る水辺にやって来た。

 やはり真っ赤に目を腫らしているサハギンは、しかし少年を見ようとはしなかった。
 こんな顔(以前恐怖のどん底に陥れた)を見せたく無かった。
 それに、少年を見ればまた、堪えきれなくなる。
 だけど、少年は応えてくれないだろう。
 彼女は指を二回鳴らした。
 いわゆる自棄酒。
 もっとも、子供の悪戯心からの実験の為にちょっとくすねてくるなら兎も角、子供が父親からこっそり拝借したウイスキーを、そうそう持ち合わせている筈も無く。
 出て来たのは紅茶が二杯。
 水に浮かべたお盆に乗せて、それは浅瀬に体育座りするサハギンの元に運ばれた。その一杯を彼女は取ると、残りの一杯は少年に突き返した。
 少年はその返された一杯を自分で取ると、少しぎこちなく、サハギンに声を掛ける。
「じゃあこれで、仲直りだ、ね…」
 解らない言葉であった。
「ああ、そうか。今までは、喧嘩してもすぐに、何もしなくても仲直りしてたっけか」
 だから、その言葉まだ、二人の語録には無かった。
 水音とともに、少年がサハギンの傍らまでやってくると、同じ浅瀬に少年も腰を下ろした。
「なかなおり……」
 離れていたものが、また隣に来る? また寄り添ってくれる。取り戻したい時、そうしたい時、そう伝えたい時。
「ごめん……、僕が、こわがったりしたばっかりに……」
 ごめん……謝る言葉。謝る相手をやさしく思う言葉。
「仲直り…」
 うん、とサハギンは小さく頷いた。
 推そらく、それはこれから二人の間で、数限りなく交わされるであろう大切なその言葉を、彼女はこの時に覚えた。

 少年への溢れ返らんばかりの感情に、またサハギンの心は堪え切れず、焼き切れそうな想いでだった。
 しかしまた、ひとりぼっちには、なりたく無かった。
 今は、仲直りできた。
 しかし次は、仲直りしに少年が来てくれるか、解らなかった。
 だから、堪え切れなくなったものを言葉として吐き出そうとして、彼女は口でそれを紡ぎだそうとした。
「……あ……う」
 言葉が出ない。
 サハギンはまるで溺れる様な感覚の中、もがく思いだった。
 せめて……
 あの少年と体を重ね、交じり合いたい。全身の感覚を互いにかき回して、一緒くたになって、自分たちを共有したい。蕩けて一緒になりたかった。
 でもそれを、少年は拒絶した。
 サハギンは、ひとりぼっちになった。
 でも、せめて、僅かでも、繋がれる所で触れ合っていたい。互いの意思を感じていられる、薄い皮膚で包まれた、あの心が通っているかの様な生暖かな唇。
 少年の唇と重なり合いたい……。
 だけど、していいのか、解らない。
「それ、たぶん……、きす、て、言うんだと思う」
 少年は彼女が何を求め知りたいのかを理解して、頬を赤らめていた。
 サハギンは身震いした。
 それが正しければ、欲して手に入らなかった言葉の、それは一つだった。そしてそれを教えた少年も、それは願っている。
 いつもは眠そうに半ば瞑っている眼を見開いて、喜びに満ちたつぶらな瞳を少年に向けた。
「キス、して、良い?」
 彼女には自信が無かった。
 少年からの答えを待つ間、今度はいつもより目を細める。
 少年は、サハギンの唇に自分の唇を触れさせた。そして二人は唇の先端を突っつき合うような、きすをした。
 可愛らしいキス。
 キスというにはまだ幼すぎるキス。
 でもそれだけで、二人は蕩けるように幸せになれた。
 心に繋がったそこから、互いの温もりが伝わって、心に溜め込んだ想いを氷解させるようで。その触れ合った所で交流している様な感覚に、少年は思わず心の底から言葉が沸き上がっていた。
「好き、だよ」
 彼女の事が、好き。
 その言葉が少年の口から零れた。
「すき、て? きすの反対?」
 彼女は逆立ちして少年とキスをしようとした。
 違うらしい。
「それって、なに?」
 問われて、少年も困っていた。
 でも、そんな少年の気持ちを、彼女は解る様な気がした。
 サハギンにも、そんな事があった。
 何かを発音しようとするが、言葉が出ない感情があった。
 それを言い表したくて、その言葉が見つからずにいて、苦しくて苦しくて、伝えられない事に堪えきれずに、少年に覆いかぶさってしまった、重なり合い交じり合おうとして、そしてひとりぼっちになってしまった、あの時の感情。
 今でも伝えたい気持ち。しかし、伝えられないでいる気持ち。
 その言い表せないでいた感情に、「好き」と発音するその言葉を添えた。
 すると声の乗らないでいた感情が、その言葉によってすんなりと喉を鳴らした。
「好き……」
 声音が華やぎ彩られ、その喉越しの感覚と、耳で聞き返した自分の声は、今まで塞いでいたものを消し去り、心を潤す。
「ああ、好き!」
 この言葉だ。多分この言葉だ。
「すき、すき…好き、好き、好き、好き、好き……っ!」
 サハギンはその言葉を、何度も何度も言った。唱えるように、口ずさむように、吐露するように、囁くように、呟くように、叫ぶように、寝言のように。
 彼女は今まで堪えてきた、言い表せないでいた少年への気持ちを、全てその言葉に乗せて発露させて、少年へと捧げていた。
 心を灼くような熱さが、何かへと昇華して喉を通っていくのを感じた。
 それから少年とサハギンは、好き、という言葉が表す行為を一通りしようとした。
 もう一度キスをして、優しくハグをして、楽しく話をしたり、手をつないだり、頬をすり寄せたり、ご飯を一緒に食べたり……色々と。
 勢い余って、サハギンはもう一度少年を押し倒そうとしたが、それは違うらしい。だが、もう少ししたら、それも好きの部類に入るらしい。少年はよく解らないらしい。
 サハギンにもよく解らなかった。
 それで、笑い合った。
 これも素敵な、好き、らしい。
 なんとなく、解る様な気がした。
 こうして二人は、二人の為の言葉を育んでいく。


 二人が大人になって、少年は彼となって、彼女にプロポーズした。
「………そう」
 彼女は顔を赤らめて、火照る頬を冷ますように顔を頬の辺りまで水に浸けて、泡混じりに短くそう答えると、ちゃぷん、と小さな音を立てて水面の下に消えてしまった。
 翌日、返事が来た。
 仕留めたクジラで。
 彼女は獲物の大きさで、まだ言葉では言い表せない程の男に対する想いを表現したらしかった。
 少なくとも、拒絶の意志を確実に実行する為、その質量で拒絶する対象その物を圧死させるつもり、という事ではないらしい。
 いつも川の匂いを纏う彼女が、その日は潮の香りを絡ませ、肌を海水に灼かれてまで討ち穫って来た獲物が、そんな事の為である筈は無かった。
 馴れぬ海水に晒された肌を労るように、彼女の肌を舐めたら、まだ潮の味がした。
 彼女が、きゅぅん、と嬉しそうに啼いた。
 そして彼女は言葉を紡ぐ。
「好き、私も貴男が、大好き!」

 言葉から彩りが花開く。
 それは互いの感情に作用して、揺らす。
 心を揺さぶられ、その一つの言葉からまた幾つかの感情が生まれる。
 そして二人は、この時の気持ちを表す言葉を探し始める。
 より深く、互いと交わる為に。


 追伸。
 あのクジラは、
 これ食べて今晩から頑張ってちょうだい。
 と言う意味でもある事をその晩に、彼女ら流の肉体言語でとくとくと説かれた。
「七つの郷を潤す程の海の幸で、僕にどんだけ精を付けろと?」
10/12/15 20:46更新 / 雑食ハイエナ

■作者メッセージ
のっけからパロディというのは……
しかも元ネタがここではたぶん、マイナーすぎる。

元祖というか老舗の無口キャラ、銀河声優伝説の異名をとるあの作品の、沈黙提督ことアイゼナッハ提督。(この人、無口どころか、ほとんど無言だよ……)
あくまで沈黙キャラ繋がりのネタとしてなので、このサハギンさんがオッサンという訳ではありません。
でも、後髪の毛が寝癖のようにひと房だけ、かわいく逆立っているかもしれませんが。

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