連載小説
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第九幕 二人の教皇:前編
 『二人の教皇 〜あるいは流浪の破戒僧と囚われの龍姫のお話〜』










 『今はっきりと分かった。お前は馬鹿だ。今まで多くの愚か者を見てきたが、お前はその中でも図抜けた大馬鹿者だ。

 お前には芯が無い。お前には情熱がない。主義が、思想が、理念が、目標が、希望が……お前には“己”が無い。

 そんなお前が誰かを守り、何かの役に立とうなどと、片腹痛い。空っぽの理想はただの妄想だと弁えろ、お前は何も守れない。

 違うと吠えるのならば見せてみろ。今この場、この瞬間に限って、おれはお前の敵だ。

 さあ、敵を討て。愛する者を守り通せ。それが出来たらその時は……お前を“英雄”と認めよう』



 冒険小説『比翼連理紀行』・英雄の巻、第三章『臥龍の牙』文中より抜粋。










 神州ジパングを遥か上空から見れば細長い島国であることが分かる。大小合わせて200前後、人が住んでいない無人島も合わせれば数千もの島から成り、周辺を海に囲まれた完全な海洋国家だ。長い国土は大陸と海洋の二つから流れる気団により様々な気候の変化がもたらされ、一年を通し美しい四季の風景を見せてくれる。

 そんなジパングの某所。山深いところにある何某とかいう大名が治める領地があった。その領地のとある場所にある田舎の村……特に目立った工芸や特産もなく周囲を山に囲まれた盆地ゆえ冬には外界との接触がほとんど断たれてしまう、そんな深い田舎。そこには少し変わった者が住んでいた。

 「ん、ふあぁ……」

 「うむ、起きたか。そんなだらしのない欠伸をするな。ほら、朝食だ」

 「ん……」

 奥ゆかしいジパング家屋に住まうのは二人の男女。一人は奥の寝室から寝巻き姿のままで、いかにもついさっき起きましたとばかりに大きな欠伸をしながら出てきた少女。囲炉裏の前まで来ても頭は舟を漕いだまま夢現の様子だった。もう一人は男性で、見た目は恐らく三十手前。男でありながら台所で手ずから調理した朝食を、うつらうつらとうたた寝する少女の前に出していく。一汁一菜、見慣れたジパングの朝ご飯がそこにあった。

 「ん、珍しいの。香の物があるな」

 少女の口から飛び出す言葉は、幼さ残る見た目に似合わない老獪さ色濃い言葉遣い。まるで数十年も生きた老人のような年輪を持つ声音だが、同居人の方はそんな彼女との生活に慣れたのか今更何も気にしない。

 「裏の畑で採った野菜を漬けてみた。口に合えばいいのだが」

 「む……ん、うむ。美味じゃ。やたら漬けか?」

 「昔、世話になった名のある寺で製法を教わった。福神漬けという。気に入ってくれたなら幸いだが、漬物ばかりでなくちゃんと腹に溜まるものも食べておけ」

 「むぅ、たまには麦飯ではなく真っ白な炊きたてが欲しいのぅ」

 「無茶を言うな。隣村の人から親切で分けてもらった物だ、文句を言えばバチが当たる。麦の臭いが嫌いなら吸い物でごまかすのだな」

 「お前はわたしの母様か」

 「台所を預かる身という意味でなら、今は私が君の後見人だ。いいからさっさと食べるんだ」

 男に急かされるまま少女は箸を手に食事を進める。程よい柔らかさに炊けた飯を噛み締め、実に芋を使った味噌汁を一口啜りながら、今日も今日とて男の作る美味な朝食を堪能する。多少口うるさい事は否めないが少女はこの男を煙たがるようなことはせず、こうして我が家の台所を任せるという最大限の信頼を示していた。

 「そう言えば……」

 ふと、箸を止めた少女の視線が外を向く。外の光を取り入れる格子窓からは暖かな日が差し込み、ここ最近ずっと雲に隠れていた太陽を久しぶりに拝める。

 「そろそろ雪解けの時期になるかの」

 「もう、か。季節の巡りは早いものだ」

 「歳を取ると時間が進むのが早くてかなわん。ついこの間までセミがうるさいと思っていたのに、あっいう間に雪が降り積もり、そしてもう春になろうとしている」

 「時の流れとはそんなものだ。しかし……そうか、もう春か。ならそろそろ仕込みをしておかないとな」

 食事のペースを上げた男はものの五分で全て平らげ、先に食器を片付けて外出の準備を始めた。物置小屋で何やらごそごそと漁り、雑多な物を出したり仕舞ったりを繰り返し一気に朝が騒々しくなる、

 そんな彼とは対照的に、少女の方はゆっくりとマイペースに食事を楽しんでいた。

 「お前はほんに忙しい奴だの。そこまで急がんでも良かろうものを」

 「癖みたいなものでね、体を動かさないと逆に落ち着かないんだ」

 「さよか。頼むから家だけは壊してくれるな」

 「重々承知している、家主に迷惑は掛けないとも。では、行ってくる」

 大きな葛篭を引っ張り出した男はそれを背負い、杖を片手に土間に降りる。引き戸を開けた先には所々に地肌が見える地面が広がり、待ち焦がれた春の訪れを感じさせる光景があった。

 「ああ、そうだ。言い忘れていたが……『布団に入ったまま』食事をするのはやめておけ、女子にあるまじき怠惰だ」

 そう言い残して男は外に出る。シャクシャクと雪を踏みしめる音が完全に聞こえなくなってから少女は忌々しいとばかりに吐き捨てる。

 「余計なお世話よ」





 春になれば草が芽吹き花が咲く。暖かくなれば冬眠から獣たちが目覚めて活発になり、空きっ腹を埋めようと草を食み狩りを始める。そしてそうした動物を狙って狩人も活動を開始するのだ。

 「こんなものか」

 家から徒歩十数分の距離にある山中で男は幾つかの罠を仕掛けていく。このあたりは獣道が通っており、男はそこを通る野兎を狙った罠を用意していた。欲を言えば熊や猪と言いたいのだが、猟銃を持たない男はそこまで大きく凶暴な獲物を狩る自信が無く、どうせ狩ったところで売る相手もないので潔く諦めるのだった。

 罠は典型的な獣の脚を引っ掛けて身動きを封じるタイプ。一日置いて獲物が掛かっていれば、後はその首を切り血抜きし皮を剥ぎ、内臓を分けて肉を持ち帰ればいい。

 「もう少し暖かくなればキジも欲しいな」

 手にした杖で木々をかき分けて次の設置場所へ向かう男。そこまで険しくはないが、整っていない獣道を歩く姿に疲れは無く、悪路を歩くのはむしろ慣れているというような感じだった。やがて予定の場所全てに罠を仕掛け終え、後は山菜の類が生えていないかを確認しながらの帰宅になるはずだった。

 「おや……」

 「うむ?」

 村に下りる山道で男は珍しく人に会った。自分と同じように狩りに来たのか、手には幾つかの仕掛けを持ち背には猟銃を負っていた。山向こうの住民が冬眠明けの動物を追ってここまで来たのだろう。

 「今日は暖かいですなぁ」

 気さくに話しかける狩人。男もそれにならって軽く会釈し……。



 手にした杖でその頭を打った。



 「ぐぎゃっ!!? な……っ!?」

 何をする、とは言わせず男は懐から出した縄の束を解いて狩人の手首を縛り、近くの木の枝に掛けると全体重を掛けて狩人を吊るし上げた。この間およそ五秒足らず、奉行所の役人も開いた口が塞がらない見事な縄捌きを披露した。

 釣責となればやる事は一つだけ。即ち、拷問だ。

 「何者だ?」

 「な、何の話だ!!? お、俺はただ隣村から……!」

 「こちらに聞かれた事だけを答えろ。貴様が隣村の住民でないことぐらい分かっている」

 それを告げた瞬間、吊るし上げられた狩人の表情が変わる。それは自分の言った事を否定されたからではなく、内側を見透かされた驚き。真実、この者は村の狩人に扮した正体不明の輩であった。

 「貴様の手は狩人の、田畑を耕し糧を得る人間の手ではない。綺麗すぎる。しかも図星ですと言わんばかりの反応、随分と程度の低い素破を雇ったものだな」

 「くっ!!」

 忍であることをまで見破られた素破が口の中の毒袋を噛んで自害を図る。

 その頬を杖の先端が容赦なく打つ。打たれた側の歯が全て折れ、咳き込むと同時に素破の口から大量の血と小石のように砕けた歯がボロボロと飛び出た。関節を的確に狙ったその一撃は見事に顎を外し。ぷらんと垂れ下がった顎からダラダラと血を流しながら呻く素破に男は更に追及を繰り返す。

 「誰が自害を許した? 質問に答えろ! 顎が外れて言葉を話せないか。なら首を縦か横に振るだけの簡単な質問に変えてやる。次に返答を渋れば今度はもう片方を打つ」

 「ふ、ふじゃへ……!!」

 警告は現実となった。振るわれた棒が反対の頬を砕く。

 「ーーーッ!! っ、ッッ!? ーーーー!!!」

 「次はない。是か、否か……いいか、一度しか聞かないぞ」

 血に濡れた杖の先で顎を持ち上げ、男は人殺しの眼光で素破を詰問する。

 「狙いは……私の恩人、ルリだな?」

 果たして返答は、是であった。ルリとは伽藍が世話になっている家の主のことだ。すっかり怠惰が板につき、日々の大半をあの家の中で過ごしている少女にそれこそ何の用があってこんな招かれざる客が足を運ぶのか。

 ここでこの謎の男について少し説明をしておこう。

 男の名は、「伽藍坊風間(がらんぼう ふうけん)」。諸国を行脚し修行を積む僧侶であり、間違っても衆生を相手に暴力を振るう事が許される者ではない。彼がこの盆地を訪れたのが去年の暮れのこと。厳しい寒波と雪に山道を遮られ立ち往生しそうになった所を、件の少女の家を間借りする形でこの村に住み着いたのが始まりだった。ただ居候するだけでは忍びないと日々の暮らしを手伝い始め、水汲みや薪割り、畑の管理や山菜採りなどをしながら家主である少女を助けて生活していた。やがて二ヶ月の間にすっかりここの生活に慣れ親しみ、こうして近くの山道を庭のように歩き回れるぐらいにはこの地の暮らしに溶け込んでいた。

 そんな彼が何故、雇われの忍を痛めつけるのか?

 いや、もっと根本的な部分を質すならば、何故こんな山深い奥地の寒村に忍がやって来るのか?

 「帰って貴様の雇い主に告げろ! 風間がこの地にいる限り我が恩人、ルリ姫の体には指一本たりとも触れさせんとな!!」

 縄が解かれ地に落ちる忍。垂れ下がる顎を押さえつけながら怯えを混じった視線で風見を見上げるが、出会い頭に正体を暴かれた挙句に自害も許さないほど一方的に痛めつけられたせいで、目撃者は生かして帰さないという忍の基本原則すら忘れてすぐさま逃亡を図る。

 雪が多く残った獣道からそれた茂みに飛び込み、枝を掻き分けながら走り去る素破。風間はそれを追うことなくじっと見据え……。

 その背が落とし穴に消える瞬間を見届けた。

 「阿呆が。本当に生かして帰すとでも思ったか」

 叫びはない。枯葉と土でカモフラージュした落とし穴の底には別の山に生えていた竹を切り出して作った槍を刺し、落下は即死を意味する。

 「うむ……この世は諸行無常、驕れる者は久しからず。南無成仏」

 落とし穴の底を覗き死体を確認した後、懐から出した数珠を手に念仏を唱える。後は野となれ山となれ、熊や猪が食べてしまわないように土を被せて埋め立て、そのまま埋葬とした。

 風間は既にこの盆地を取り囲む山々の至る所に、これと同じ、あるいはもっと悪辣な罠を幾つも仕掛けている。それらは全て獣ではなく、先ほどの素破のような招かれざる客を始末する為の迎撃措置。山菜採取がてらに確認したところ、この冬の間に既に六人の不埒者がこの山で自滅していた。皆、この風間が仕組んだことである。彼以外にこの山を無傷で通り抜けられる者はおらず、彼の導き無しにこの村を出入り出来る者もいない。もはやこの地は風間が支配する、彼だけの領域と化していた。

 村を取り囲むように罠を仕掛ける、字面だけを見れば風間は村一つを手中に収めた外道でしかないが……。

 「どうせここには誰も来ない、貴様らを除いてな」

 山奥の隠れ村……この地にはもう誰も住んでいない。

 十年間、ここはルリという少女を除いて誰もいない。

 ほんの二ヶ月前に風間が来る、その日までは……。





 「帰ったぞ」

 摘み取った山菜を籠代わりの笠に入れて持ち帰り、風間はルリの待つ家に帰って来た。このまま休まず次は川に行き、魚を捕えた仕掛けを引き上げなければならない。休む間もないとはこのことだ。

 だがそれを止める声があった。

 「臭い」

 奥の寝室から襖を開けて出てくるのは、鼻を摘みあからさまな不快感を隠そうともしないルリだった。まだ昼過ぎ、日も高いというのにまた惰眠を貪っていたらしい。

 「それが日々の食事を賄う者への言い草か? せっかく今夜は君の好きな川魚を使った料理を振舞ってやろうと思っていたのだが」

 「人を、殺したな? 血の臭いがする」

 「……ああ。仏門にあるまじき行為と非難するかな?」

 「何を今更。肉も食えば魚も食う生臭坊主のくせに。だが、まぁ……うむ、少し意外には思っている。お前は好き好んで殺しをやるような性格には見えんでな」

 「音に聞こえた『人斬り権兵衛』でもあるまいし、人様の命を弄んで悦楽を感じられるほど私は歪んではいないつもりだ。その上で、あえて何故と問われるならば……」

 土間の縁に腰を落ち着け、採ってきた山菜を丁寧に分けながら風間は一言こう言った。

 「君は私の恩人だ。恩人に害を成す輩がいれば、それを懲らしめるのが私なりの恩返しだ」

 風間自身が言うように、彼も好きで殺しているのではない。もし山を侵す者が、ちょっと唆された程度の輩であれば少し痛い目に合わせてから返すだけだ。反面、素破は金を得ている。決して少なくない金を受け取って行動している以上、彼らはその過程で生じる責任も不都合も背負って然るべし……それが風見の言い分だ。それに手加減などすればこちらが危うくなるのだから、やり過ぎということはあるまい。

 「恩人とは大げさな。よりにもよって真冬にここを通りがかったお前を不憫に思い、離れを貸してやっただけであろうに。二、三日もすれば勝手にいなくなると思っていたというのに……お前はいつになれば出て行くのだ!!」

 「私は薄情者でも無ければ臆病者でもない。恩情を感じた相手に義理を通すぐらいの筋は弁えているつもりだ。悩める婦女子を助けるは男児の責務だよ」

 「助ける、か……。お前、己が吐いた言葉の意味を理解しておるか?」

 「無論。私も男児だ、二言はない」

 「お前はほんに、阿呆な奴よな! そんな格好付けはいらんから、早うここから去れ!」

 こともなげに行ってのける風間の背をルリが叩く。べしべしと音がするほど激しく叩かれ、流石の風間も少したじろぐ。

 「こ、こら! 婦女子がそんなはしたない! 男児を『足蹴』にするなどと……!」

 「うるさいわい! 足ではない、わたしの優美なる尾を人ごときの足と同列に扱うなどとは!」

 「正直、私の目に君の御足は野山に這いずる蛇と同じにしか……」

 「言ったな!? 言ってくれたな!! もう許さんからなぁ!!」

 怒りの叫びと共に風間の体を、太く力強い丸太のような、それでいてしなやかな弾力を持つ緑色の物体が締め上げる。表面はびっしりと硬く艶のある鱗に覆われ、寸胴のような太さのそれに締め付けられた風間が必死に許しを乞う。

 「わ、分かった! すまない、蛇と言ったのは失言だった! 謝ろう!」

 「今更遅いんじゃ!! このっ、この!!」

 ルリの腰、本来二本の足が見えるはずの場所からは一本の尾が伸びていた。先程から風間を叩いていたのも、今彼の体を縛っているのも、全て彼女の「足」によるもの。ルリが部屋を動く度に床から摩擦音が響き、二人しかいない部屋は一気に騒々しくなった。

 ルリは、龍である。

 西方世界におけるドラゴンと近しい種族だが、ドラゴンが「ドラクル(悪魔)」と称され恐れられるのに対し、龍は治水を司る水神の化身とされ崇められている。多くは水源や水脈を守護する土着の神として信仰され、彼女らが住まう地には必ずそれを祀る祠や社が建てられている。今ルリが住んでいるこの家も元は彼女の一族を祀る社を改築した物であり、この村では一番大きな土地を有した豪邸である。

 かつてここには村があった。肥沃な大地がもたらす恵みは人々の暮らしを豊かにし、季節の実りが山々を彩っていた。人々は自然の恩恵を受けながら慎ましく生活し、土地の守り神である龍とその一族を敬いながら日々を送っていた。辺鄙な土地ではあるものの、目立った不便さや災いにも見舞われず、平和そのものだった。

 今はもう、誰も住んでいない。村人は少しずつその数を減らし、十年前に遂にルリ一人を残して人口は零になった。皆ここを離れてどこかへ行ってしまった。

 「それにしても、話に聞いていたが……まさか本当にやって来るとはな」

 「だから言ったろうに。何だ、実は信じてなかったか?」

 「君を疑っていたわけではないさ。だが、やはり私には理解できんよ」

 巻き付く尾を丁寧に引き離しながら風間はぼやく。



 「国の主ともあろう者が、龍たる君を討ち取ろうなどとは」



 風間が下した素破は雇われの身。素破を雇う者となれば、それはほぼ必然的に国の主か、あるいはその流れに属する有力者ということになる。つまりは国政に携わる地位に座す者が、水神であり土着の守護者でもあるルリの抹殺という神をも恐れぬ所業を果たそうとしているのだ。

 「誰ぞに恨みを買うような事を?」

 「自慢にならんが、わたしは生まれてこの方この地を出たことは無い。じゃから、恨みを買うような事にとんと覚えがない」

 「神としてこの地に縛られた君なら、然もありなん」

 神々が天界に住まい下界に降りる事が無いように、物質界に肉を持ちながら神としての力を持ったモノは、基本的に信仰を得た地から離れることは無い。それは自身の縄張りを守る自主的なものでもあり、もっと概念的、あるいは一種の霊的な呪縛にも似た力によってその土地に縛りつけられた結果でもある。特にジパングのような神と人の距離が近い文化圏では人と神の双方を結ぶ“契約”はより強固なものとなって具現化する。神は人を律し恵みを与え、人は神を崇め信仰を奉じる、それがこの世界における神と人の関係性だ。

 ルリがこの世に生を受けて二百年、その内の半分である百年を土地神として過ごしてきたが、何故自分を害そうとする者らがいるのかまるで見当がつかなかった。しかもその相手がお上となれば、ますますもってその理由も背景も見当がつかない。

 「私が来る以前はどうしていたのだね?」

 「適当にあしらって追い払っておった。200歳ぽっちの若造じゃが、腐っても龍、人の子に遅れなど取るまいよ」

 「そうは言う割に今の君はそれほど力のある存在には見えないな。勢州で見たウシオニの方が、まだ遥かに強いだろう」

 「むぅ……仕方なかろう。人が消えて早十年。とうに廃れ、荒れたこの地ではもはやわたしの力が十全に振るえなくなりつつある」

 獣は実り豊かな地でこそ活発に生きられる。草一本生えない禿山には鳥さえ棲まぬように、人々が去り信仰を失ったことでルリはその力までをも喪失しつつあった。本来なら雨を降らせ川の流れを操り、湖を移動させることすら可能とするのが龍という存在なのだが、今はもうかつてのような力を殆ど使えなくなるほど弱体化していた。

 「もうそろそろ、手こずり始める頃合かと腹を括っていた所にお前が来た」

 「お役に立てて何よりだ。少しは君の鼻を明かせたかな?」

 「…………お前は、何者だ?」

 「質問の意図が分からないな。私は伽藍坊風間、ただの流れの坊主に過ぎんよ」

 「痴れたことを。その、『ただの坊主』が手練手管に長けた素破を退けられるものかよ」

 「そこはそれ、流れ故にそんじょそこいらの若い衆よりは経験豊富というだけのこと……ということで、今は納得してくれないか」

 共に生活するようになり二ヶ月も経つが、ルリは未だにこの男の全てを知っている訳ではない。聞き上手とでも言うのだろうか、自分から多くは語らず問われても角が立たぬようにはぐらかし、気付けばいつの間にかこちらの事を話してしまっている。多少口うるさい時もあるが共にいる分に不服は無いし、変に畏まられるより気が楽なのは事実なので、それらに対し不快感もない。

 「ともかく、今の私に出来るのは君を守ることだ。相手が誰であれ、如何なる勢力であれ、私に出来るのは君の安息を守り通すことのみ。衆生を救い導くは坊主の本懐だ」

 「……さよか。なら、好きにすればいい」

 だが、ルリは気付いていた。明確な言葉として表現はできないが、それでも胸の奥にしこりのように残る違和感……そしてそれがもたらす不快感。

 「何故、お前はそこまでわたしに肩入れする」

 そして……。

 「言ったはずだ。君は私の恩人、恩人に恩を返すのは人として当然のことだろう」

 その原因が目の前のこの男にあることを。

 風間という男の純粋さに対しルリが思う事は唯一つ……。

 「気持ち悪い」、それだけだ。





 ジパングは天子が座す朝廷を中心とした帝政国家である。政治の実権こそ幕府が握っているが、その幕府の長たる将軍職も元を質せば朝廷により任命されたものであり、所領を有する各国の大名や武家らも天朝という一つの大樹の下に寄り集まることで神州ジパングという一つの国家を形成しているのだ。

 だが政権は幕府が、更に各領地の内政もそれぞれの地を治める諸大名の采配に依るところが大きく、決して一枚岩とは言い難い。隣の藩では名君による治世が為されていても、国境を挟んで一つこちらに跨げば暗君が支配しているなどザラなことだ。

 ルリと風間のいる廃村がある地は、残念ながら後者であった。

 「失敗……! 失敗しただと!」

 城の最奥、この地最大の権力者が座す場所には怒れる男が在った。手に持つ扇子をへし折らんばかりに握り締め、口角から泡を飛ばしながら激昂するその老人は、確かにこの城の主であると同時に、藩の支配を任された当代の国主たる大殿である。その前には全身を地味な茶色の装束で纏った壮年の男性が跪き、ただひたすらに雇い主の怒りが収まるまで怒号に耐え続けていた。

 「分かっているのか……。貴様らが出来る、可能だとのたまったから、わしは大枚叩いて貴様らを雇い入れたのだ! 公儀に目を付けられる危険まで冒してな!! それが蓋を開けてみれば何だっ! 弱りに弱ったトカゲ一匹を仕留めるのに十年も掛けた挙句、どこの馬の骨とも知れぬ輩に遅れを取ったなどと……貴様はわしをコケにしているのかっ!!」

 「いえ、決してそのような……」

 「ええい、言い訳など聞く耳持たん!! 貴様がグズでノロマなせいで、わしの悲願が……うぐ、ごふっ、うぇっほっ! がぁふ!!」

 老城主が大きく咳き込み身を屈める。怒鳴りすぎて喉に絡むものがあったとかではない、一度咳き込み始めたらたっぷり五分は肺の空気を搾り出し続ける。一つ咳をする度に年老いた体は内側から破壊され、喉の奥の気管からにじみ出た血液が袖を赤く染めていった。

 労咳……後の世で言うところの結核に、この老いた国主は身命を蝕まれていた。本来ならこんな場所で座していられるような体調ではない、一日どころか一年中床に縛り付けておかなければならないほどの末期にある。

 だからこそ、老いた支配者は求めずにはいられない。

 「血だ……血だァ! 血をよこせぇい! わしに……龍の肝を食わせろォォォ!!!」

 城主の一族は短命の家系だった。父祖はもちろん、血を引いた親族に至るまで何かしらの疾病を患い若くして命を落とす事が多かった。故にこの藩の主は後継者の選定に際し、能力はもちろんの事ながら丈夫な体を持っていることが重要視され、その甲斐あってかこの老城主は久方振りの長命として父祖の期待に応える結果を出して見せた。

 だが彼の後に続く者はいなかった。後継者として生み育てた息子二人は当然のように病を患った末、孫を残す前に早逝してしまい、一度退いた国主としての地位に返り咲くという結果になった。

 その時、年老いた城主にふとした恐れが芽生える。短命の血族に生まれたこと、運命に抗えなかった父祖、若くして死んだ息子たち……そして、たった一人残され遂には労咳という不治の病に冒された自分。常人以上に死を意識する土壌が出来てしまっていた彼の精神は、ここで一気に死の恐怖に塗り潰されてしまう。そしてその恐怖から逃れる為に彼はある一つの噂に縋り付く……。

 「力ある魔物の血を飲み、肉を喰らい、肝を煎じれば、どんな業病も癒し不老長寿を得られる」……そんな風説の域も出ず、何処で聞いたか出所も怪しい流言飛語に踊らされて、老いた国主は自らの領地を潤し恵みを与えてくれたはずの龍の命を狙い始めた。その為に龍が住む村に重税を課し、村人が夜逃げするのも黙認し、十年の歳月を掛けて信仰を損なった龍が弱体化するのを待ったのだ。もはやその妄念は己の病を治し健康体になるだけでは飽き足らず、耳にしたそれが真実かどうかさえ確認せず、今の彼はただ龍の肉を喰らうことしか頭にない狂気の人と化そうとしていた。

 「もうよいっ!! 下がれ、貴様の顔など見たくもない!! 早う下がれ!!」

 「はっ」

 素破の頭領を下がらせた大殿は懐から紙包みを出し、中に入った粉薬を掻き込むように飲んだ。もう咳止めほどの効果も無い薬だが、半ば気力で保っている彼にとってなくてはならない物だ。こみ上げる咳を苛立ちと共に飲み込んで押さえつけ、やっと城主の咽せ込みは一旦の小休止を迎えた。彼の一日はほとんどこうして消化されていく。

 「殿。殿にお目通りをと……」

 「今わしは誰とも会う気など無い! 帰らせろ!!」

 「しかし、お目通り願っているのは、その……」

 言いよどむ小姓の態度に心当たりがあったか、一転して城主の態度も変わる。

 「すぐ、すぐにお連れしろ! お通しするのだ!」

 程なくして小姓は二人の人間を城主の前に通した。畳で覆われた床を四つの足が踏みしめ、その度にみしみしと音が鳴る。その音が近づくに連れて城主の体に緊張が走った。幕府と朝廷より一国の支配を任された為政者が、たった二人の来訪者に恐れ慄いているのだ。

 やがて二人は畳の上にどっかりと腰を落ち着け、全身に纏った鎧がガチャガチャと盛大に鳴り響いた。そして上座に近い片割れが口を開く。

 「久しいな、沼田の大殿」

 戦国が終わり太平の世となって百余年、今時珍しい当世風の具足に身を包み、どこぞの戦場にでも赴くような出で立ちで顔には矢よけの面頬まで付け、口を開けば地の獄より響く嗄れた声。生まれて一度も戦場に出たことのない城主にとって、目の前の男は鉄と火薬と血の臭いに塗れた地獄の悪鬼にしか見えず、こうして顔を合わせる度にただでさえ残り少ない寿命がゴリゴリと削られる思いだった。

 「これはこれは、伊良殿に百合井殿。遠いところをわざわざ……」

 「挨拶は抜きだ。して……進捗の程はどうなっている?」

 「し、進捗と、申しますと……」

 「空とぼける気か、沼田の!!」

 立ち上がり叫ぶのは、もう一人の片割れ。嗄れ声の片方と違い凛とした女のように澄んだ声が襖を揺らし、その気迫に城主の体がびくりと跳ね上がった。

 「貴殿には朝廷及び幕府を通じ、我らの意向は伝えたはず! 貴殿だけではない、既に各地の諸大名にも同じ下知を出し、皆それぞれが政策に取り組んでいる。にも関わらず、未だ遅々として検地すら済んでいないのは貴殿だけだ!!」

 「ぞ、存じております! 存じておりますが百合井殿、しかし……」

 「言い訳は聞き飽きた! かくなる上は出るところへ出て、その方の怠慢を申し付け……!」

 「その辺りにしておけ。これ以上の発言は国際問題になる」

 嗄れた声の方にそう抑えられ、それまでの剣幕が嘘のように百合井と呼ばれた男は腰を落ち着け一転して静かになった。抑えつえたもう一人、伊良と呼ばれた男は少し間を置いてからゆっくりと言葉を投げかける。

 「今一度、我々の立場を再確認しよう」

 事の発端は、遥か西の大国・レスカティエの使者がジパングを訪れた事に始まる。

 「我々は『陛下』の命を受けてこの地を訪れている。陛下は西方のみならず、霧の大陸及び、我々がジパングと呼称するこの国、ひいては地上全てを遍く魔界化する事を目指しておられる。ここまでは良いな」

 「存じております……」

 この国で陛下と言えば、それは天子を指す。だがそれが西方を含む全世界となれば、単に陛下と言っただけで全く別の存在を指し示すようになる。即ち、全ての魔物を支配する魔王のことだ。西方に位置する王魔界にとって見れば極東のジパングは辺境のド田舎、わざわざ人間の政治に干渉するような真似など本来なら起こりえないはずだった。

 だが全世界の効率のいい魔界化を目指す魔王にとって、古くより人魔共存の土壌が形成されていたこの国は、現存する全てとこれから発生する全ての魔界の理想的なモデルケースとして注目に値するものだった。加えて万物に神が宿るという独自の世界観により、ジパングという土地そのものが聖と魔、そのどちらでもあり、またどちらにも染まりきらない特異性を有し、非常に曖昧かつ微妙な立ち位置にある土地にあることから、この地を先んじて勢力図に取り組むことを魔王は画策していた。

 「陛下はこの地の完全なる魔界化を望まれている。歴史、文化、風土……全てにおいて理想的なこの地を魔界にすれば、東西の両面からこの世界の魔界化が進むことが予想できる。分かるか……この計画の要はジパングが握っている」

 霧の大陸を除く諸外国とは深い関わりを持たなかったジパングだが、今や国内にて生活を営む魔物娘やその伴侶の事を考えれば決して無視できる案件ではなく、指示は受けるが現地で動くのはジパングに一任することを条件にそれを引き受けた。それには鎖国政策という体面上から内政に対する国外からの干渉を避ける狙いもあった。

 交渉の卓を経て計画は実行に移される。全国各地を巡り地理的条件を満たす土地を探し出し、そこを実効的に支配する諸藩の大名に指示し、ジパング各地の山間部でそれは行われるようになった。

 「陛下の発せられる魔力を遍く世界に広げるには、それに沿った土地を開拓し、住処を開発することが最も効率がいい」

 魔王が発する魔力は、ただ漫然と水に垂らした絵の具のように拡散する訳ではない。高きから低きに流れる水のように、一つの流れを形成する。曰く、レイライン。曰く、地脈。大地を流れる巨大な力の大河は得てして地形や環境の変化という形で世界に表出し、その近くに住む生命に影響を与える。

 それは時に千年流れる河であり、万年そびえる霊山であり、生命豊かな樹海、地下深くに通じる洞穴、そして星の体内で蓄えられたマグマでもある。顕著な例になるが、西の大陸を覆う魔霧がまさにそれだ。逆に言えば同じ東に位置しながら霧の大陸に手出ししないのは、あそこは魔霧によって既に土壌が完成しているからだ。

 調査と研究を重ねた結果、ジパングを真の人魔共存の楽園に改良するに当たり、ある一つの「地形」がその計画にうってつけという事が判明した。

 それは……。



 「温泉だ。この国の湯がそれに最も適している」



 古来より火山と地震に苛まれてきたジパングは、それに相対する恩恵のように各地から湯が湧き出た。数百、数千という永い時を経て地下から出現するそれらは、豊富な有用成分と濃厚な魔力を含んでおり、これを利用すればジパングの総魔界化は一気に現実味を帯びたものになると予想された。

 諸藩に下された指令とは、それぞれの領地に湧き出る泉脈の開湯及びその周辺の開拓。湯を掘り当てれば湯治の落とし銭で収益が見込め、藩としても悪い話ではない。開拓の為の予算も幕府を経由して王魔界より支給され、初めは体よく使われる事に難色示した諸大名も今ではそれぞれが計画に協力してくれている。

 「で、ここで話は戻るんだが……」

 「っ……」

 そう、この沼田の地もまたそうした条件に合致した為に幕府より予算を預かり事業への協力を任された一藩だった。だが計画が開始して五年も経つというのに、未だに当該地の検地すら出来ていないのはこの藩だけだった。

 「計画の手順を纏めた指令を下し、金子もやった。立地も未踏の最果てという訳でもなく、領内にタチの悪い疫病が発生したわけでもない。それなのに、作業が全然進んでいないというのは……そういうことか、説明ぐらいはする義務があるだろう」

 「それは、ですな、その……」

 「おまけに貴殿は着工どころか検地すら出来ていないことを、公儀その他には一切報告していないらしいではないですか。その辺りの事情も含めて今日は包み隠さずお話し願いたい」

 二人の圧力に押され言い淀みしどろもどろになる城主。額に滲み出る脂汗は労咳によるものだけではない。

 彼がいつまで経っても計画を実行に移さないのには理由がある。と言っても、その理由自体が不純極まりないものであることは知られていない。

 開拓予定地の山間部は特別険しいわけでもなく、移動が多少手間なことに目を瞑ればそれほど困難な事業というわけでは決してない。

 では何故、彼は行動に移さないのか。

 (言えるはずがない、貰い受けた金子を使って素破を雇っていたなどと……!)

 予算の着服横領、横流しはいつの時代でも厳しく取り沙汰される。それが自分の領地で得られた金銭を使い込む程度ならバレてももみ消せるが、上位機関……この場合は幕府……から拝領した物に手を付けたとなれば、バレればただでは済まされない。下手をすれば改易も免れないだろう。

 だが、だからと言ってはい分かりましたとすぐには実行できない。今城主が躍起になっている龍の生き肝だが、その龍がいる廃村は城と開拓予定地のちょうど真ん中、予定地へ向かうにはその廃村を通らなければならないのだ。仮に通行それ自体が問題なかったとしても、開拓が行われれば一番近いあの村は入殖地として扱われるだろう。そうなればせっかく十年も掛けてあそこの支配者を弱らせたのに、全てが水の泡になってしまう。

 幕府の命令に背けばお取り潰し、だが龍の肝は欲しい、しかしここへきて正体不明の協力者が廃村に現れた……八方手詰まりとはまさにこの事、今やこの老城主は絶体絶命の危機にあった。

 (いや……待てよ……)

 だが彼は為政者。老いても枯れても海千山千の猛者であり、それまでの経験を蓄積した脳はこの窮地を打開する悪辣な策を考えついていた。

 「実は、その事で相談の儀がありましてな……」

 老城主の悪しき思惑が廃村の龍を付け狙う。





 伽藍坊風間は破戒僧である。全ての修行僧に科せられた戒律の幾つかを破っており、肉も食えば酒も嗜む。袈裟を着てお堂で経を読む正統派の仏僧と比べれば、その意味では幾分か不真面目な輩ではあった。これについて本人は、「実際に仏様がそう決められたわけでなし、私が牛になるとどうして分かる」とのこと。戒律を破った者は来世で牛に転生すると説く事への皮肉なのだろう。

 と言って不真面目でズボラというわけでもない。むしろ日々を規則正しく送る努力を惜しまず、日がな一日家から出ずにいるルリに代わり家事炊事洗濯掃除、その他の雑務を進んでこなしている。寺にいた頃に厨を任されていたと言い男でありながら作る料理は美味く、畑で採れる野菜もルリだったらぶつ切りにするところを、丁寧に漬物に仕上げてくれる。少し小言が多いことを除けば、これが女なら引く手数多なのは間違いない優良物件だ。

 悪い奴ではない。どこからどう見ても善人の類だし、そこはルリも信じてはいる。だが……。

 「どうした、箸の動きが鈍いが? ウサギの肉は嫌いだったか」

 「いや……少し、な」

 捕えたウサギを捌いた汁物を食べながら、ルリの視線は目の前のこの男に釘付けになっていた。だがそこに男女の甘ったるい熱の篭った意図は全くなく、むしろ犬の目……食事中でも外敵の存在を感知しようと動く猜疑の視線だった。

 「出来るだけ臭みを除いたつもりだったのだが、やはり男の無骨な手では細やかな調理は苦手のようだ」

 「いや、そんなことはない。充分うまいぞ、うん」

 実際の料理の出来がどれほどのものかは分からないが、十年という月日を独りで過ごしてきたルリにとってウサギ汁はなかなかにご馳走だった。それまでのルリの食生活は基本的に信者が捧げてくれる供え物で賄われていたので、ルリ自身は狩りの仕方はもちろん肉の捌き方さえ満足に知らなかった。と言っても、供物自体も村で採れた作物が中心だったので、肉を食べることがそもそも久しぶりなのだが。

 「気に入ってくれたのなら幸いだ。残りは塩漬けにして蔵に入れておくから、いつでも好きな時に食べてくれて構わない。さてと……」

 先に食べ終わった風間が食器を片付け、自身の持ち物である葛篭の中から藁の束を取り出してそれを編み始めた。彼は一日の終わりになるとこうして草鞋を作るのを日課としているが……今日は少し違うようだった。

 「何を作っておる?」

 「いつも通りの草鞋と縄、あと網を少々。これから入用になるのでね」

 「ほほう、面白い。山中で魚でも釣ろうと言うのか」

 「ハハハ! 確かにおかしいかもな。だが、釣るのは魚じゃない……人間だ」

 そう言って早くも仕上げた荒縄を結び、先端が輪になるように加工する。それは持ち手の縄を引けば輪が小さく締まるという、一見しただけで使用方法と用途が瞭然と分かってしまう一品だった。それを次から次に作成していく風間。慣れた手付きでそれらの作業をこなしていく姿に、ルリは薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。

 「……お前はほんに、器用な奴よな」

 「旅生活が長かったから、色んな技能を身に付けた。今では狩りなどお手の物、時季が合えば薬も作れる。一時期は薬売りの真似事をして諸国を練り歩いたものさ。ああ、このあと少し付き合ってもらえるだろうか。ちょっとよその家から拝借したいものがある」

 あっという間に予定数の縄を仕上げ終えた風間は提灯を片手に外に繰り出し、ルリもその後を追って長い尾を引きずりながらそれに続いた。

 荒れ果てた廃村の道を提灯が照らす。昔は人々が住んでいた民家も今や野草が生い茂り、もはや廃屋か垣根かすら分からない有様になっていた。その中の一軒に踏み入り物置だったところから使われなくなって置き去りにされた農具を引っ張り出す。

 「そんな錆のついた物を拾ってどうするのかの?」

 「錆だらけだからこそ、利用価値があるのさ。っと、すまないが少し持っていてくれ」

 「意外と多いの」

 「きっと、昔は多くの家族が住んでいたのだろう。春に畑を耕し種を撒き、夏に雑草を刈り、秋に実りを収穫する……そういう生活を代々受け継いできていたのだろう」

 移り住むと同時に使えなくなった、あるいは使う必要のなくなった物をここに置いていったのだろう。ここで生活を営んでいた家族が今どこで何をしているのか、この地に縛られたルリには与り知らぬことだった。

 そんな暮らしの名残を掘り出しながら、何か思うところがあったのかふと風間が呟いた。

 「羨ましいことだ。私もこんな暮らしをしてみたいものだ」

 「年がら年中土を弄り、作った作物も殆どを業突く張りな領主に横取りされる……そんな生活のどこが羨ましいのか、わたしには理解に苦しむの」

 「確かにそうかもしれないが、一つ所に留まらず生活してきた私にとって見れば、腰を落ち着けて暮らせるというのは魅力的なものなのだ」

 「そんなものか」

 「そんなものなのだ。だから、君には感謝しているんだ」

 正直な話、なぜ自分が感謝される謂れがあるのかルリにはまるで分からなかった。たった一晩だけ貸すつもりだった宿が二ヶ月も続いたことを言っているのかも知れないが、それだとどうしてこの話の流れでそれが出てくるのかが分からない。

 だからその事について問い返そうとしたのだが……。

 「伏せろっっ!!!」

 突然頭を押さえつけられ、顔面と地面がぶつかり合った。そしてそのまま体を抱き抱えられ、廃屋の中へと転がり込む。

 「な、なにをするっ!?」

 「静かに! ……そこの柱を見ろ」

 「……?」

 提灯が消えて暗黒に落ちた空間に目を凝らすと、廃屋の屋根を支える柱の一本、そこに一本の矢が突き刺さっていた。ちょうど、ルリの頭があった場所を通過する形で。

 続く第二、第三射が無いことを確認した風間が素早く矢を引っこ抜き、それを確認する。

 「毒は……無いか。こんなお粗末なもので君の命を奪えるなどとは流石に思っていないだろうが、君の体に傷が付かなくて幸いだった」

 「賊は何処ぞ!? ええい、成敗してくれる!」

 「もう逃げた。もし気配を感じても追わぬことだ。闇夜は忍の本領、深追いすれば足元を救われるぞ」

 風間の言うとおり、もう既に賊の気配は闇に消えて陰も無く、ルリの感覚を以てしても夜の山野に逃れた敵の存在を追うことは適わなかった。それは単に敵が迅速というだけに留まらず、この地においてもはやルリの持つ感覚能力では外敵の存在を事前に察知することさえ難しいという事を露呈してしまっていた。

 「君に対する分かり易い挑発と、私への警告だ。これと同じ物を十本、百本と射たれたくなければ早々にこの地を離れろと、雄弁に脅しているのさ」

 矢を見ればそれを使っている勢力が自ずと分かる。この矢はこの藩の兵が用いている物だった。

 「面白い……!」

 決して柔らかくはない矢竹を片手の指三本でへし折り、乾いた音が闇の中にこだました。新しく点けた提灯の僅かな光が照らす中でルリが見たのは……喜色を湛えた獰猛な笑みを浮かべる風間の顔だった。怒りでも、哀れみでも、ましてや慈愛でもない……決定的な技と力に裏打ちされた自信を隠しもしない、満面の笑みだった。

 「男児の本懐とは死地にこそ在り! 死線を乗り越え踏破した彼方にこそ誉れ在り!! 嗚呼、士道と云うは死ぬことと見つけたり!!」

 両手を挙げて喜びを露わにする風間、それを見て言葉を失うルリ。それは決してこれから起こることへの恐れではない、いつかこうなるだろうという予想は着いていたから、それは今更驚くことでも何でもない。

 驚きは、風間に対してだった。

 藩とは即ち、国家だ。素破とは国家が雇った仕掛け人であり、兵は文字通り国家の防人だ。それに逆らい弓を引くということは、それは天下国家に対する反逆の罪で問われることを意味する。後ろ盾もない矮小な一人が起こした義侠心だけで喧嘩を売るには過ぎたる相手ということは、子供が見ても理解できる絵図だ。

 なのに風間は笑っている。

 博徒がここぞの張り処に見せる刹那的で京楽の笑みとは違う。まるで、子供が自分に出来ることを見つけた時に見せるようなとても屈託のない気持ちのいい笑顔だった。恐れなどない、あるのは喜びだけとでも言うような爽やかなまでの表情。



 だからこそ、「気持ち悪い」。



 「お前は……何じゃ、何なのだ?」

 恐れはない、彼は自分を守ってくれる者、神州魔性の筆頭たる龍の本能がそう告げている。仮に害する意志があったとて、弱体化した身でもたった一人の人間を手玉に取るぐらいは訳もない。

 だがこの男は、分かっていない。自分が今己の何を決めたのか、それが一体何を意味するのか。常識的かつ冷静に考えて、一人の人間が国家権力を相手に喧嘩をするという行為がどれだけの愚であるかなど分かるはずなのだ。否、分かっていれば決して笑うなどという事が出来るはずがない。

 「誰と今更問うのなら、何度でも答えよう。私は伽藍坊風間……過去も、名も、教えも水に流し、己すらも浮世に漂わせる流れの坊主」

 錆び付いた農具を錫杖代わりに地に打ち付け、ガランガランとその名を称えるように鉄器が打ち鳴らされる。

 なぜそうまでして……そんな愚問は聞けなかった。聞いたところで返ってくる言葉は分かりきっていたし、実際続いた言葉はまさにその予想を外れることはなかった。

 「君は私の恩人だ。恩人を助けるのは人として当然のことだ」





 夜討ち朝駆けは武士の習い。全てが暗闇に隠れる夜は身を隠しながら移動でき、本来休眠を摂るべき夜中に襲撃を受ければ大打撃は必至だ。逆に朝靄が立つ明け方を狙えば休んでいたところへ突然の襲撃となり、それまで眠っていた敵は突然の状況変化に対応できなくなる。奇襲においてはこの二つが基本とされ、戦国の世ではどこの戦場でもこうした奇襲合戦が繰り広げられていた。

 この日、藩主の命を受けて動く兵が三十名、未明に山間部を目指して城を発った。行く先は山間の廃村……龍が住まう地。

 行軍する兵たちの装備は……鎧兜に手には槍、背中に矢筒を背負い、湿気よけの布に包まれた箱の中には鉄砲が十丁隠されていた。太平の世にあるまじき合戦場のような出で立ちに、ここだけ戦国の時代に逆戻りしたような錯覚さえ覚えさせる。だがここは幕府により天下統一が成されて百余年の地、国同士の合戦など起こるはずが無かった。

 あくまで、国同士の争いは……だが。

 この時代、ジパングは完全に一つに纏まっているとは言い難く、かつて戦国の時代に相争った経緯から諸藩それぞれが独自の軍事力を有していた。ジパングという国家の下に統制された国軍というものが存在せず、藩主ごとに私兵を有しそれを幕府が監視しているという仕組みになっていた。だが私兵と言って理由なく勝手に動かせば幕府や朝廷に翻意有りと判断され、後日その事について納得のいく申し開きが出来なかった場合、その藩主は良くて謹慎、悪ければ改易を迫られる。朝廷という絶対存在や、実権を握る幕府というものがあるからこそ諸藩も決して強気には出られないのだ。

 だがそれは、逆に言えば幕府の許しさえあれば兵を動かせるということ。あるいは事前に許可を得ずとも、後で申し開きした時に正当な言い分として通るだけの事由があればそうした処断には迫られない。そうでなければ海沿いの藩はおちおち外来の不審船を取り締まることさえ出来なくなってしまう。

 今回この行軍に参列した兵士はただの兵士ではない。かつて天下分け目の大戦には後に幕府を開く将軍家と共に戦場を駆け抜けた武門の家柄、その下で徹底的な訓練を続けてきた精鋭たちである。戦がなくなった太平の世に鎧兜を着ることなど無いと思っていただけに、今日まで磨き鍛え続けた腕の振るい所を間近にして兵達は勇む心を抑えられなかった。

 霧が立ち込める山野を歩くこと数刻、彼らの足は件の村を囲う山の連なる麓まで辿り着いた。ここから先は川を逆上る形で盆地を目指し、先に潜入し偵察に赴いた忍と合流、報告を聞いてすぐに廃村に雪崩込むという手筈になっている。今回の目的は龍ではなく、その傍らにいる協力者が標的だ。それを仕留めさえすれば弱った龍など後からどうとでもなる。

 三十の兵は山を登る。川をある程度辿った先で森に分け入り、少し木々が避けて開けている場所でそれぞれが武具の確認を行い、刀を鞘から抜き槍の穂先を唸らせ、森の中に彼らの気迫が高まっていく。

 だが……。

 「遅い、いつになれば素破どもは!」

 予定の時刻になるというのに合流するはずの忍達が姿を見せない。早くしなければ日が昇り明るくなってしまう、そうすれば奇襲の意味が無くなってしまう。

 隊を仕切る男が痺れを切らし始め、合流を待たずして突撃の命令を下すかどうかを思案し始め……。



 林の中を血の雨が染め上げた。



 樹上に吊り下げられた肉塊およそ数十、それらの断面から撒き散らされる血と臓物の雨霰に兵士たちは一斉に動揺の叫びを上げた。しかし、取り乱したのはほんの一瞬、心身共に強固に鍛えられた彼らは自分達の体を汚しに掛かる樹上のそれを観察し事の真意を見定めた。

 「これは、よもや……」

 吊るされた肉塊は人の手であり、足であり、胴、指、肩、顎、そして頭だった。その数およそ三人分、奇しくもそれは斥候として廃村に忍び込んだはずの素破と同じ数だった。屠殺場のニワトリの如く切り分けられた頭だが、その顔には見覚えがあるものばかりだった。

 猟奇に満ちた死体を見た彼らの脳裏に過るのは、『人斬り権兵衛』の記憶。もはや存在そのものが災害や疫病の類とまで恐れられた魔性の権化、不死身の怪人がジパング全体に刻み込んだ怨嗟と恐怖の記憶にあてられ誰一人として不用意に口を開くことが出来なかった。

 だから、そこを狙われる。

 樹上に掲げられた死骸の飾り立て……皆の視線は上を向き、必然その足元はそろって死角になる。木々の陰から小石ほどの物体が数個、集団の中に投げ込まれた時には全てが決していた。

 強烈な爆音と共に森の一角は白煙に覆い尽くされた。朝靄に混じって広がる煙幕は一瞬にして三十人の視覚を奪い、閉鎖空間の中で一気に場は混乱状態に陥った。驚くと同時に多くの者が白煙を吸い込んだため辺りでむせ込む声があちこちから響き、それだけがお互いの位置を知らせる役目を果たしていた。

 「落ち着け! ええい、落ち着けぃ! こんなものはただの目くらましだ! じきに視界が晴れる、その時はここを抜け一旦川辺まで後退する!」

 指揮官の男の判断は正しかった。ここは既に敵の領域に落ちた事を瞬時に見抜き、その上で態勢を立て直すための退却を瞬時に判断出来ることは素直に賞賛に値するだろう。

 それがもうとっくに手遅れな事を除けば、だが。

 「あっ、苦し……! なん、だ……これはぁぁぁ!!?」

 「目が、目がぁっ!! うげえぁええっ!!」

 煙を浴び、吸い込んだ者が次々と変調を来たす。ある者は膨れ上がった目元を押さえ、ある者は咳き込むと同時に胃の中身をぶちまけ、またある者は胸元を押さえ口から泡を吹きながら倒れた。それらは全て、煙幕に含まれていた恐ろしい劇物がなせる業だった。

 夾竹桃(キョウチクトウ)、誤って取り込めば眩暈や嘔吐、心臓発作を引き起こし、粘膜と接触すればそこに重篤な炎症作用まで引き起こさせるジパングでも指折りの毒物である。それを煎じ粉にし煙玉の中に仕込ませた物がこの惨状の引き金。つまりこれは単なる目くらましを目的とした煙幕などではなく、最初からここで一網打尽にしてしまおうという相手の意図。だからこそ発生した煙が散り難い森林の中、集団で密集しなおかつ全員の気が他所を向いた一瞬を狙って投げ込まれた。

 これに大打撃を受けたのが藩の兵士達だ。自分達の体を襲った現象から煙に毒が含まれていた事を知り、何を置いてもこの場から離れようと蜘蛛の子を散らす様に逃げ惑い始めた。だが毒が全身に回ったことで鎧は足枷に変わり、ノロノロとした動きはやがて毒煙に追われて呻き声すら飲み込まれて消えた。

 それでも何とか逃げ延びようと必死に地を掴み這い蹲ってでも移動しようとする者数名。しかし、それすらも地獄の獄卒は絡め取る。

 樹上から投げ込まれるのは投げ輪。首吊り自殺者が己の命を吊り下げるのに使うような、絞首の荒縄が十本同時に毒煙の中に垂れ下がり、それら全てが哀れな命を地獄に繋ぎ止める。それは決して吊るす為の物ではなく、毒霧渦巻く異界から逃亡を許さない首輪。結果として自らの首に掛かった縄を外そうと躍起になる内に毒は更に全身を蝕み、一人、また一人とその命を散らしていく。

 「はぁっ!! はぁ……っはあ!!」

 森から抜け出した数はたった五名。僅か五分足らずの間に三十人もいた兵士は姿すら見せない狩猟者に一方的に狩り尽くされ、今や見るも無残な毒に侵された敗走の姿を晒して逃げ惑っていた。

 「水……! 水で、毒を……!!」

 せめて目に入った毒だけでも洗い流そうと、生き残った彼らはもつれる足に鞭打って必死に川辺を目指した。体内に蓄積した毒はそんなことでは取り除けないが、生命維持の危機に晒された彼らにもはやそこまで理性的な判断など出来るはずがなかった。

 だが彼らの手が水を掬うことは無かった。

 揺らぐ足元、傾く視界、持ち上がる内臓の感覚が足場を無くして落下している事実を知らしめるものと理解した時には、既にその術中に嵌められていた。五人同時、一寸の狂いも誤差もなく残党は、事前に掘られた大穴の中へと吸い込まれるように落下したのである。

 落とし穴とは、それ自体が既に完成されたトラップの究極形だ。地面に穴を掘っただけという簡単な仕組みも然ることながら、その上を通り掛かるだけで獲物は勝手に重力に引かれて沈んでいく。底に「殺傷性のあるもの」でも仕込んでおけば、足止めと殺害を兼ねる優秀な罠の出来上がりだ。

 「ぐぎゃああああああああーーーっ!!!?」

 鎌、鍬、鋤、斧、針、釘、包丁……全て人の手入れを離れ錆び付きボロボロになっており、それを刃の部分が上を向くように穴の底に敷き詰められていた。当然、そんなところへ落下すれば人体は串刺しになるより他ない。錆び付いてザラザラになった表面は研がれた新品よりも人体を凶悪に破壊し、更に落下のエネルギーも加わりそれらは容易く甲冑を突き破り兵士を殺傷せしめた。

 だが五人も落下すれば折り重なる部分も増え、当然そこは無傷になる。幸か不幸か、穴に落ちた五人の中のたった一人、他の者の上に乗る形で絶命に至らなかった者がいた。

 「助け……たす、助けて……!」

 毒に全身を染められてなお生き抜こうと必死に手を伸ばす兵。だがもはや甲冑を纏った己の手を動かす力も足りず、井戸の如く掘り下げられた穴から脱することは適わなかった。

 穴に何か入り込む。

 冷たいそれは液体だが水ではない、水はこんな鼻につく臭いを出さない。

 朦朧とする意識がそれが何であるか回答を導き出してしまう。

 「ああ、そんな……嘘だろ、やめてくれ! やめて、やめろやめ────!!」

 もう遅い。

 油に火は点けられた。





 朝焼けの山間に立ち込める煙が二つ。一つは森から僅かに漏れ出した猛毒の煙幕。それは風に流れて消えていった。そしてもう一つは、河原からもうもうと噴き上がる黒煙。それは今まさに穴の中に燃え広がる紅蓮の炎が屍を焼いている事を示すものだった。

 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 その傍らで数珠を片手に合掌するのは一人の坊主。その顔は毒煙を吸わぬようボロ布で覆い隠され、この男こそが並み居る三十人もの兵士を一方的に「狩り」尽くした張本人だと暗に語っていた。

 唱える念仏はこの世の儚さを顕し、死した魂の現世での浮かばれなさを慰め、今度は良き来世に巡り会えると説いて煙と共に天に昇げる。そしてやがて唱える衆生救済の読経は結びを迎える。

 「諸行無常、盛者必衰、ただ春の夜の夢。下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。はぁぁぁっ……! 南無、成ッ仏ッッ!!」

 大きく打つ手は仏道ではなく神道における柏手の動作。同時に地を踏み鳴らす左右の足は、同じく地の神を鎮める浄めの所作、反閇禹歩の祓いとなる四股踏み。そして、大地を揺らすその衝撃を受けて穴は内側に崩れ始め、大地に開いた炎獄の陥穽は猛獣の口の如くそれを閉じた。火葬の後、埋葬……哀れな衆生の葬送はこれにて完了。

 たった一人、たった一人の人間によって三十名の兵士は瞬く間に返り討ちにあった。

 「思い知ったか悪党ども。正道に則らず、仁なく義なく礼もなく、神聖なるこの地を侵そうとするその意志は邪の極み! なればこそ、魔道に落ちたる魂を救うは坊主の本懐! 大恩ある恩人をお守りするは義士の本分! そして、邪悪な魔手より女子を救うは男子の本懐!」

 シャンシャン、錫杖が鳴り響く。それは我が義の道はここに在りと高らかに叫ぶものであり、禽獣の如き害悪となる敵を払いのけようとする威嚇の音でもあった。

 「来るがいい、悪辣の徒よ! 我が名、伽藍坊風間の名においてこの地は何人たりとも侵させはせん! 我が恩人、赤城之命瑠璃姫の命欲しくば我が金剛杵の一撃を免れぬものと知れ!!」

 ここに廃された地の守り神、それを守る者が現れる。

 芯なく、心なく、真もなく……伽藍の間より来たり風来の坊は、ただ誓いを守ることしかできない。他は何も見えない、聞こえない、知らない。

 だがもう後戻りは出来ない。たった一人と一国の戦争は、既に火蓋が切って落とされたのだから。
16/04/11 07:05更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 お久しぶりです(病み上がり)。風邪になると欝になる毒素です。

 最強三人の最後の刺客、「守りの風間」、防戦最強。今回は地味な仕込み回、後編から本気出す……予定。
 今回含め三話続く最強シリーズですが、それぞれのお話は繋がってる感じです。後々この三人がそろい踏みする話も作りたいなー、とか妄想。

 Q:同じ屋根の下二ヶ月も住んでて何もないとかうっそだろ!?(邪推)
 A:僧だよ(大乗)! そんなこと(女犯)したら釈迦に怒られちゃうだろ!(ヤらないとは言っていない)

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