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第八幕 太陽と月:後編
 「やぁ〜、絶景かな絶景かな。神州一のお山は伝え聞く以上に大きいですなぁ」

 邪仙との五度目の切り結びから数日後、浅之介は霊峰不二が見える宿場町、そこの一軒の茶屋で団子を食べながら眺めを楽しんでいた。浮世絵では青々とした峰と雪化粧の山頂で知られているが、この季節だと山頂付近に雲が掛かっているだけで茶色い巌のような山肌を浅之介たち宿場の旅人たちに見せつけていた。

 歪んでいるとは言え、世間一般で言うところの風情や風流ぐらいは理解できる。前々から天下一の山を心ゆくまで眺めていたいと思っていた浅之介は、しばし自分に課せられた仕事の重要性も忘れて一時の物見遊山を楽しんでいた。

 「えーっと、今手前がこの辺ということは、あちらさんは……もう結構先になりますか」

 一般人より丈夫とは言え、追い掛ける相手が不眠不休で動ける不死者となれば完全に浅之介に分が悪い。相手の目的地が判明していなければ終わりの見えぬイタチごっこになるところだっただろう。

 「それにしても、那須かぁ。那須……那須ねぇ」

 呟くのは、任務を請けた際に神祇官より伝えられた邪仙の最終目的地。この地名を聞いてまず思い浮かべるのは、御伽噺にもなっている妖狐伝説だろう。時の帝を惑わし政を狂わせようと画策した九本の尾を持った大妖狐、それが追い詰められ封印された場所と伝えられている。当時の暦は西方で言うところの旧魔王時代に相当し、妖怪とはヒトを惑わし化かしそして喰らう天敵種であった。だからこそ、朝廷の妖狐伝説や都の鵺騒ぎ、大江の山の鬼退治など、当時の人間は自分たちより遥かに強い妖怪に立ち向かってでも生存の道を探らねばならなかった。

 修祓師はそうした国難をもたらす怪異を狩り、国体を守護する役目を負っていた。新魔王の台頭で全ての魔物がヒトと友好的になり、仕事はもっぱら朝敵、もしくはそれに準ずる危険思想の持ち主を斬る仕事に変わっていった。種の保存は守られたが、代わりに妖を討つという英雄的行為は出来なくなり、人が人を討つ汚れ仕事が増えた事になる。

 「まあ、その方が手前にとっては好都合なんですけども」

 団子を食べ終わり二杯目の茶に手を付けながら、やはり浅之介はどこ吹く風だった。

 やがて茶も飲み干し、旅の先を急ごうと席を立とうとする。だがそれを抑える者があった。

 「そう急ぐ必要はない。五代目」

 「おやぁ、どちらさんで?」

 すぐ隣にどっかりと腰を落ち着けるのは、大きな籠を背負い全身にお守りや魔除けの人形らしき怪しげな物品で隠さんばかりに身に付けた謎の人物。頭を覆うように唐草模様の頭巾を目深に被り、さらりと流れる白い長髪に女かと思ったが嗄れた声は明らかに男性のそれだった。浅之介は自分の記憶にない相手から声を掛けられた事を訝しみながらも、相手の素性はすぐに思い当たった。

 「この先、おまえが追っている相手は静かだ。こちらが確認した限りでは『増殖』はしていない」

 「あぁ、ご同業でしたか。物見、ご苦労さまです」

 現場の修祓師には任務達成を確実なものとするため、その行動を密かに補佐するサポート役が付けられる。彼らは任務外の修祓師と同じく市井の民や旅の芸人などに扮しながら情報を集め、任務遂行がスムーズになるよう運ぶ役目を持つ。また現場の状況を経過報告として神祇官に伝達したり、素行に問題がある者が担当の場合はその目付役も兼ねている。

 「あ、おばさん。すいませんが、この人の分の団子とお茶お願いします。手前の奢りです」

 「話に聞いていたほどの気狂いとは思えないな」

 「そりゃ、昼日中に天下の往来でバッサリなんてしたら後々面倒ですし。と言うか、何ですその格好? まるでチンドン屋みたいですね」

 「姿については触れるな。こちらとて好きでやっていない」

 やがてすぐに団子を乗せた皿と湯呑が届き、補佐役がそれを口に運ぶ間少し無言の時が流れた。次にその沈黙を破ったのは浅之介の方だった。

 「ちょっと、二つ三つ聞きたい事があるんですけども?」

 「何だ?」

 「いえね、不思議に思ったんですよね。何で神祇官は邪仙の目的地が那須だって分かってるんでしょうか?」

 浅之介とて愚鈍ではない。下手をせずともジパングを揺るがすレベルの怪物、そんな相手に共も付けず単騎で立ち向かえという真意は理解できている。理解した上でこの仕事を請けたのだ、今更そこをとやかく言うつもりはない。

 だが何故、今の今まで動向が掴めなかった敵が今になって発見され、あまつさえその行く先まで分かったのか。これがどうしても不思議だった。

 「タレコミ、とだけ言っておく。邪仙が出現する場所、奴が神宮街道を通ること、それらは全てそのタレコミから得た情報だ」

 「善意の第三者って事かね。まー、信用できる筋なら別に構いませんけども」

 「次の質問はなんだ?」

 「あー……これはそちらに聞いていいのかどうか、判別付かないんですが……」

 「いいから言え。おれは暇じゃない」

 補佐役に催促され、浅之介は思っていた疑問を口にした。

 「あの麗姫ってのは、結局何者なんですか?」

 「千年以上昔、三つの王朝を滅亡に追いやり、霧の大陸を戦火絶えぬ混沌へ導いた張本人。旧魔王時代の東方世界を代表する大妖怪だ」

 「それは知ってるんですよ。手前が聞きたいのは、あの邪仙は魔物のくせにどうして人様に危害を加えられるのか、ってこと」

 新魔王の布く法則は魔物の全てを変えた。性別は全てメスに、姿形は人間に近くなり、そして全ての種族が等しく人間に対し友好的になった。魔界の貴族主義で知られるヴァンパイアも、傲慢で人間など塵芥にしか思っていないドラゴンでさえ、かつてのように天敵とまで恐れられる要因は無くなっている。それはつまり、魔物娘にとって人間とは愛すべき伴侶だからであり、それを傷付け害し悪影響を及ぼすことは本能の域で忌避を覚えるようになっているのだ。だからこそ魔物娘がヒトを殺したなど聞いたことは無いし、天界との抗争を控えた魔王軍を除き、戦争に参加する魔物娘というのも聞いた事がない。

 だがどうしたことか、あの邪仙は違った。行く先々で動く死骸を増やし、それを操るのみならず攻撃的な妖術の数々を浴びせかけてくる。少なくともここ数百年で世界の常識となった、『魔物娘はヒトに危害を加えない』という概念を真っ向から破っているのは明らかだ。

 「魔王の力は絶対だ。旧魔王時代の千年前と、現魔王の今とでは、あの邪仙は必ず変化している。それがどの程度のものかは知らないが」

 「だったら死骸は? キョンシーに傷付けられた死骸は同じキョンシーになるんじゃなかったっけ? どう見ても男も女も腐る一歩手前になってるけどねー」

 「感染源となった魔物が“親”なら、影響を受けて変化した人間は“子”だ。奴は龍に匹敵する魔力を得た変異種、そんな奴が旧魔王時代の姿と力を振るえるということは、“子”もその側面に引き摺られているのかも知れない。ひょっとすれば影響が弱まったり、時間が経過すれば死骸共は理性を取り戻せるのかも知れないが……」

 「その間に見境なく人を襲いまくる、と」

 もちろん、この場合の「襲う」とは言葉通りの意味で相違ないだろう。事の真偽はともかく、実際に邪仙の手に掛かった人間は死に絶え、その屍は生者を喰らう怪物と成り果てる。それにより命を落とした者も太源である邪仙の影響力を受け、やはり魔物化することなく理性を持たない動く屍となるだろう。

 「この国は魔王の居城、王魔界から最も離れた言わば辺境。そこに千年以上を生きた……いや、『死に続けた』ほどのアンデッドともなれば、たかだが数世紀で形成されたおれ達の常識を当て嵌めて考える方が無理だろう。気を付けろ五代目、この事件はおまえが思っている以上に根が深い可能性がある」

 「おや意外。神祇の方は手前が志半ばで倒れてくれればいいと思っているのでは?」

 「上の意向は知らんが、おれとしてはここでおまえに邪仙を倒してもらった方が何かと都合がいい。旧魔王時代の法則で動く古き魔物……魔王の息が掛かった連中に知られれば、西方世界の連中を巻き込んだ大騒動に発展する。そうなれば神州千年の歴史も、幕府百年の安泰も消し飛ぶぞ」

 それだけではない。時を越えて蘇った伝説の屍鬼、肉を喰らい、毒を放ち、全ての生命を冒涜する邪悪の化身……そんなものが周知の存在となれば、決して短くない時間を掛けて築き上げた人魔の信頼関係が一気に瓦解する恐れもある。だからこそ、まだ事件が完全には公になっていない今だからこそ、早期解決により「極東の島国で起きた連続殺人事件」という型に収める必要があるのだ。

 だがどうにも、元締めの神祇官にはその辺りが見えていないらしい。この期に及んで、厄介な身内を共倒れさせようなどと目論んでいるのがその証拠だ。打つ手を誤れば次の一手など無いというのに……。

 「おまえには期待している。餞別だ、持っておけ」

 そう言いながら補佐役は背負い籠の中から掘り出した書物数冊を浅之介に手渡した。以前使者からもらった術の巻物とは違い、今度は普通に綴じた本だった。

 「過去千年で邪仙が起こした、または関与したと思しき出来事を纏めた文書……その写しだ。全てではないが、重要な物を纏めてある」

 「ご丁寧にこりゃどーも。敵を知り己を知らば何とかかんとか、って手前の師匠も言ってました。情報収集って大事だと思うんですよ」

 「それと、一応これも持っておけ。効き目があるかは分からんがな」

 今度は全身にぶら下げた護符や厄除け道具の中からスタンダードなお守り袋を寄越してきた。魔道に疎い浅之介には今いちピンと来ないが、イワシの頭も信心からというのでもらっておく事にした。一般に知られる護符を入れた薄っぺらいそれではなく、何やらゴツゴツした感触を指先に感じる小袋の形をしていた。

 「お守りってのは嘘ですか」

 「そうなる。中身はおれが入れた丸薬がある。おまえが瀕死の傷を負ったり、重度の毒に侵されても動けるように出来る。ただし効果は一度きりだ。使い所を誤るなよ」

 言葉だけならその程度だが、あの毒の王たる邪仙に付けられた傷をも癒す力となれば、第一線で活躍する術師ですらなかなか持たないだろう。そんな物を餞別代わりに提供してくれるとは随分な大盤振る舞いだと感心させられる。

 そうして補佐役は立ち上がり、籠を背負い直しながら身支度を整え席を立った。

 「次は邪仙の骸を収める棺桶でも担いでくる。では『大門』で会おう」

 それだけを言い残し、補佐役は来た時と同じように背負った荷物や身に付けた装飾をガチャガチャと揺らしながら去っていった。彼が座っていた場所を見ると、奢りだと言ったのに律儀に料金が置かれており、次に視線を上げた時にはもうその姿はどこにも見えなかった。

 「お上も一枚岩じゃないってことかな」

 呟く言葉の真意はこれだけの「餞別」をもらったことが証明だ。面倒な身内の厄ネタを処理したいと願う一方で、邪仙を確実に葬りたいとする勢力も存在しているのだろう。そしてあの補佐役は後者の指示を受けて派遣された者というところか。

 人斬りの浅之介にとってそんな思惑は特別気にかけるほどではない。だが、今の彼にはひとつだけ気になっている事があった。

 「それにしても、初めてですよ……この手前に、『斬れない』と思わせた相手は」

 最初から最後まで一切の隙を見せることなく去っていった名も知れぬ男……いつかその首を取れる日を夢見ながら、虫の五代は陰湿な笑みを隠そうともしなかった。

 浅之介の旅は続く。

 霊峰不二を背に、浅之介は東へ東へと歩を進めて行った。事前の根回しもあって、関所でも特に怪しまれる事なく通過することができ、何不自由も支障もなく追跡は続けられていた。

 道の途中で幾つもの宿場町を通り過ぎたが、あの補佐役が言っていたように邪仙の痕跡はどこにも無かった。至って静か、至って平和、西で繰り広げた五度の死闘がまるで嘘のように、旅の終着点に近付けば近付くほど平穏な時間だけが過ぎていった。

 泊まった宿では補佐役から受け取った書物を紐解き、過去の出来事に目を通すのを日課とした。何はともあれ、旅路は順調そのものだった。

 まるで、神祇以外の誰かが意図してお膳立てしてくれたみたいに。

 そして浅之介は最後の関所を越え、その足は遂にジパング最大の街、即ち天下の将軍が座す首都へと辿り着いた。総人口およそ100万という、東方だけでなく全世界を見渡しても稀に見る大都会であり、人々の交流が実に多くの文化を花開かせて来たこの国の文化の発信地である。

 五十五里に及び東西を結びつけた神宮街道はここで終わり。ここより先は神州最大の都市を横切って東北の那須を目指す事になるのだが……。

 「五代目山本浅之介よ」

 神宮街道を抜けてすぐ出迎えがあった。この前の茶屋の男とは違い町人に扮しているが、これも歴とした神祇官の使いだ。事実、こうして声を掛けられるまで浅之介も気付かなかった、それぐらいこの使いは周囲に溶け込んでいた。

 「宿がある。まずはそこへ向かい、旅の疲れを取るのだ。そして今夜、お前には邪仙を討ってもらう」

 「今夜? あれ、邪仙の目的地は下野じゃありませんでしたか」

 「予定が変わった。彼奴は今この街にいる。既にその居場所も我らが掴んでいる」

 「そこまで分かってるんでしたら、手前が行かずとも良いのでは」

 「無論、本来なら街に潜らせた修祓師すべてを総動員し、邪仙を討ち取るのが理想だが……奴の潜伏先は少し厄介なところにある」

 「……」

 これはまた厄介な任務になりそうだと内心で溜息しつつ、とりあえず使いの男は後で斬っておいた。

 





 神州ジパングには最大の色街がある。一晩の夢幻のために多くの男が身銭を切り落としていく嘘と虚飾の街、その名を「葦原」と言った。

 この日、とある見世に一人の上客が登楼した。何処の旗本の三男坊というどこかで触れ込みで廓を訪れたその男は、茶屋で気前よく散財し豪遊した後、お決まりの女遊びという流れとなり訪れたのが一軒の見世。大店という程ではないが見窄らしくもない、この色街においては平均的な見世だった。

 そこで一人の女郎を指名した。相手は格子(遊女の位:太夫の下)で、愛想よし器量よしの出来た女。初めて訪れたにしては目利きが上手だと遣り手婆に持て囃されながら、客は座敷に通されたのだが……。

 「誠に申し訳ございませんが旦那様。ご指名いただいた格子ですが、実は……」

 「良い、皆まで申すな。名高い傾城の華をたった一夜で手折れるとは思うておらん。拙者は所詮、初登楼であるからな」

 遊女一人に二人以上の指名がかち合った場合、女郎はそれぞれの男の部屋を行き来する。だがもし片方が馴染みの常連だった時は一晩中付きっきりになり、片方は女郎に会えないならまだしも、ちゃっかり規定の揚げ代は取られてしまうのだ。

 と言っても、溢れた片方には寂しい夜を過ごせという訳ではない。

 「つきましては、今宵はご指名いただいた格子の新造に旦那様のお付をさせます。ほれ、ご挨拶を」

 「『きちょう』でござんす」

 太夫や格子には妹分の新造が付いており、姐が複数の客を抱えている時はその代理として酌の相手をし同衾する事になっている。

 ごゆるりと、そう言い残し襖を閉め去って行く遣り手。部屋には旗本の三男坊と、女郎の名代で来た新造の二人きりになった。

 「さぁさ、どうぞおくつろぎしておくんなんし。まずは一杯、どうでありんすか」

 「いや、酒は遠慮しておこう」

 「あらぁ、お酒は好かんでありんすか? 珍しいでありんすなぁ、おやまさんは浴びるほどお飲みになるとばっかり……」

 「普段は飲んでいる。だが、今日は少し気分ではない」

 「それはどうしてでありんしょう?」



 「あなたの体から腐った魚みたいな匂いがするからですよ、麗姫さん」

 「あらいやだ、バレてしまいましたわ」



 新造の肌から白粉がボロボロと崩れ落ち、中から青黒い生命を失った地肌が除く。結われていた髪は独りでに解けたと思えば摩訶不思議な神通力によって三つ編みになり、爪の先に猛毒が蓄積される。

 「まさかかの邪仙がこの色街に、しかも新造の娘っ子に化けてるなんてねー。親切なタレコミが無かったら誰も見つけられなかったでしょう」

 「おお、イヤだイヤだ。神祇の方々には遠慮というものが無いのかしら。追い立てられた上に仮の住処まで暴かれるなんて」

 よよよ……とわざとらしく目元を押さえて嘘泣きするその姿は、千両役者の女形でさえ嫉妬するような艶やかさを醸し出していた。霧の大陸で妖婦と言えばこの女、麗姫を除いて他にあらず。それがよりにもよってこの国の首都、そこでも一番人の出入りが激しいこの場所を潜伏先にしていた事に最初は浅之介も驚いた。

 「失礼ついでに一つ。何故ここを選んだので?」

 「ここは夜の街、男と女が結ぶ徒花が絶えず咲いては散る場所。それはつまり、愛欲と快楽を司る西の魔王の力が最も色濃く出る場所ということ。ここにいれば私の放つ毒気は中和され、妖気を感じ取ることは出来なくなるのよ」

 恐らくここだけでなく、麗姫は各地の色街を転々としながら潜伏生活を繰り返していたのだろう。旧世界の秩序に囚われた魔物が身を隠すには、新世界の理が満ちる場所で息を潜めるより他に方法は無い。そこにいるだけで木々を枯らす毒の肉体も、

 「それで……見事に大陸の大妖怪を追い詰めたつもりでしょうけど、今のあなたに私が退治できるのかしら?」

 遊郭に上がる際、武士は必ず刀を店に預けなければならなかった。旗本の三男坊などと身分を偽って入った浅之介もそれは同じで、今の彼はいつも背負っていた大太刀を装備しておらず完全な丸腰だった。

 対する麗姫は魔物の膂力を持ったまま。死体ゆえの硬直の隙を突けばなどと、そんな甘い考えは通用しない。仙術により肉体の硬軟を自在に操る麗姫に掛かれば、本来硬直するはずの体に生前以上のしなやかさを付与することなど容易い。

 「さあ、どうするのかしら? たった一人で邪悪な妖怪の前に立たされた、哀れで可哀想な護国の勇士さまは、この絶体絶命の状況をどうやって切り抜けるのかしら?」

 背後に回った麗姫が胸元に腕を絡めてくる。千年もの昔に生命の鼓動を失った死霊の腕は、冷たく、暗く、そして重く浅之介に絡みついた。このまま麗姫が力を込めれば人体は容易く潰れ、浅之介の頭と尻は鯖折りにされ接触するだろう。元より人間と魔物にはそれだけの差があり、かつて人間だった麗姫もそれは変わらない。

 ふと、麗姫はあることに気が付く。

 「あら、何あなた……もしかして、震えてます?」

 絡め取った男の体が小刻みに震えていることを知り、麗姫の口元が愉悦に歪む。その表情は三つの王朝を滅ぼし、時の支配者を操り民草の命を弄んだ毒婦の笑み……これまでの道中で己の体を好きに切り刻んだ不埒者を手折る瞬間に最大の悦楽を感じていることは明らかだった。

 「やめろ……やめ……」

 「あらいやだ、散々追い回したのはそちらじゃありませんか。そんないけずな事を言わずに、殺したがった女の顔をしっかりご覧なさいな」

 艶かしい仕草で冷たい指先が顎を捉え、半ば強引にその顔を自分の方向に向けさせる。恐怖に固まったその顔を拝もうとして……。

 「あ、ごめ……も、無理かも……」

 「え、ちょ、ちょっと?」

 「うぇ……おおぇ……うげ────っ」

 とんでもない事になった。





 「あースッキリしたー! 茶屋で飲み食いした分が全部出ちゃったよ! あ、すいませーん! お夜食お願いしまーす」

 十分後、何事もなかったかのように浅之介はケロッとした顔で若い衆を掴まえて陽気に茶を飲んでいた。だが大惨事の痕跡はしかと座敷に刻まれており、食事を持って来た者が分かり易く鼻を捻じ曲げていた。

 「実は手前、結構なあがり症でして。生まれてこの方色街なんて初めてで緊張してました」

 「あなたその前に私に何か言うことありません?」

 「え、何です急に? と言うか顔近づけないでもらえます? 顔から伊豆名物みたいな臭いしますよ」

 「くさや? 私の顔面はくさやだと言いたいのですねっ!?」

 ここで起きた大惨事の後始末をしたのは麗姫であり、その間ずっと浅之介は座敷で横になっていた。こちらを振り向かせた時に麗姫が見たのは、真っ青な浅之介の顔。次の瞬間に大きくえずいたかと思うと……そこから先は思い出したくもない。

 「……あなたはここへ何をしに来たんですか?」

 「ここにそちらが居ると聞かされて、金子を渡されこの見世と言われたから来たんですが?」

 「それだけ?」

 「ええ、それだけ」

 「え!」

 「え?」

 「…………」

 「…………」

 気まずい沈黙の中、麗姫はふと考えた。こいつ、ひょっとして思っていた以上の阿呆ではなかろうか……と。

 いやそんな予感は以前からしていた。それこそ初めて会った夜の京、三条河原で相対したあの時からずっと。だが今回のこれで予感は確信に変わった。

 「あなた、阿呆でしょう」

 「人を掴まえて阿呆とは失礼な」

 「はぁ……。もういいです、興が削がれました」

 盛大に深い溜息ひとつ漏らし、麗姫は窓辺に寄り添い縁側に腰を下ろし、またひとつ溜息を吐いた。完全に毒気を抜かれた様子であり、街道で死合った凶猛な面影はどこにも無かった。

 「何が期待に添えなかったのかは知りませんけども……いい機会だ、一度そちらとは腹を割ってお話をしてみたいと思っていた」

 「何を言い出すかと思えば……。いいでしょう、好きに囀ってなさい。どうせ明日の朝日は拝めないのですし」

 興味など消え失せたとばかりに手をひらひらと浅之介に振り、麗姫の視線は窓の外を泳ぐ。どうせ浅之介が何を言ったところで無視し、頃合を計ってから「どうにか」するつもりだった。

 そんな相手の心境など斟酌する事もなく、浅之介も浅之介で勝手に話し始める。

 「身の上話をしましょう。手前は元々、商家の息子でしてね、実家はしがない米屋をやっておりました。一家三人に住み込みの奉公が少々、なかなかに楽しく毎日を……」

 聞かれてもいないことをベラベラと喋り出す浅之介を尻目に、麗姫は静かに窓の外に浮かぶ月を見上げながら酒を飲んでいた。動く死体となって千二百余年、酒など「ふり」だけの習慣で死体故に当然酔えない。ただ漫然と冷たい体が冷たい液体を飲み干す作業、それを隣の男のお喋りが終わるまで続けるつもりだった。

 「ある時、手前の両親が殺されました」

 酒を飲む手がぴたりと止まった。意図せず流した視線がかち合い、少し俯いた浅之介が視界に入る。

 「夜にこっそり忍び込んだ夜盗に寝首を掻かれ、そのままお陀仏でした。幼かった手前はお情けで見逃してもらって、後は奉公人も全員殺られましてございますよ」

 一家惨殺は押し入った盗賊の常識、むしろ見逃してもらえただけ幸運だろう。だが一夜明けてみれば自分以外の家族は死に絶え、天涯孤独の身となった童の心境はどんなものだっただろう。

 それが、麗姫には理解できてしまう。

 「行くあての無い手前を拾い世話してくれたのが、先代の山本浅之介でして。あの人は珍しい拾い物って感じでしたが、手前はあの人の技を習得しようと弟子入りを志願しました。どうしても……成すべきことがありましたので」

 予想は出来る、家族を殺され孤児となった男が縋るものは一つだけだ。即ち、復讐。父と母を殺した相手を見つけ出し仇討ち、実にジパング人好みのシチュエーションだ。

 「雨の日も、風の日も、雪の日も、暑い炎天下でも、ひたすら剣を振り、技を極めることだけに集中した日々だったぁ。コケの一念何とやら、商家生まれのチビッ子が十年も剣を振ればアラ不思議! 四代続いた天地神祇流の免許皆伝達成に、正統継承者の完成でございますってな具合」

 そこから先はもうお決まりの展開だろう。晴れて五代目となった男は師から譲り受けた刀一本で両親の仇を討つ。だがその過程で自らも殺しの黒き輝きに魅了され、やがては誘蛾灯に誘われる虫のように人道を……。

 「だから師匠を殺しました」

 「……は?」

 一瞬訳がわからなかった。酒を飲みながら話半分に聞いていたから、途中でどこか聞き逃したのかと思った。何をどうしたら両親の仇討ちから師匠殺しに繋がるのかまるで理解できない。

 「両親の仇はどうなりましたの?」

 「ああ、それなら押入りから二、三ヶ月でお縄になり全員首を晒されましたね」

 「仇討ちの為に弟子入りしたのではなかったの!?」

 「はて、誰が仇討ちなんて言いましたっけ? 手前は元から、殺しの技を学ぶために剣を取った身でありますれば」

 ああ、そうだった、忘れていた。この男は「そういう奴」だった。理屈じゃない、論など無い、あるのは単純明快なたった一つの行動原理だ。

 殺したい……ただそれだけ。憎悪でも義憤でも哀愁でもなく、様式の一環としてそれを行える異常性の塊、それが五代目山本浅之介という男だ。

 「父と母の首から噴き上がる血が天井を真っ赤に染めるのを見た時、尻の青い童のくせに魔羅を膨れ上がらせた。その時にふと思ったんですなぁ、『自分はひょっとして気狂いではないのか』と。人様の死に様を、しかも二親が殺された瞬間を見て下種な興奮を覚えるなんて、手前はヒトの風上におけぬ外道なのではと……最初は悩んだものです」

 それを確かめる為に殺しの技を学び、十年も世話になった恩師を殺すことで自分の異常性を確かなものと自覚した。そして……かつて童だった男は己の内を理解し、そして受け入れ悦びに変えた。

 「手前は、狂っている。何かに影響されたのでも、誰かに歪められた訳でもなく、手前は元からそういう手合いだっただけのこと。それが『虫の五代』と呼ばれた手前を示す、たった一つの真実です」

 鳥が空を飛び、魚が水を泳ぐように、山本浅之介という存在は誰かを殺さずにはいられない。そうせずには生きられないし、そうしなければ生きている意味がない。それを己だけの力で自覚したからこそ、浅之介は何の迷いも呵責もなく人を斬れるのだ。

 「で、そちらはどうなんです? 麗姫さん」

 不意に話を振られるも、何の事か分からずに首を傾げる。

 「あなたは何の為に生きてるんです?」

 人斬りは放つ言葉すら刃となる。浅之介の問いはまさに麗姫の核心を切り開こうとしていた。

 浅之介は彼なりに腹を割り真実を口にした。それに応えるだけの義理を感じたか、麗姫は縁側からそっと立つと浅之介を涼やかな瞳で見つめ返しながら話し始めた。

 「私が色街を潜伏先に選んだ理由、知ってます?」

 「気配を隠せる、普通の魔物娘になれる、さっきそう言ったじゃありませんか」

 「ええそう。それが一番の理由。でもね、本当は……ここにいると忘れないで済むから。自分が嫌い、憎み、恨んでいることを、忘れずにいられるから」

 生物の原初の感情は恐怖で、最も力を得られるのが憤怒と憎悪と言われている。つまりはその感情こそ、尸解仙たる麗姫を千年もこの世に縛り付けた原動力。

 「何を憎んでおいでで?」

 「……『世界』よ。この大地と、海と、空と、その果ての果ての、三千世界の彼方まで……私は今の世界を憎悪する」

 げに恐ろしきは女の情念。それが嫉妬で済む内なら花だが、一度憎悪に転じたそのエネルギーは男の比ではない。そして、恨み言を口にする時女は嘘を言わない。麗姫は真実、この世界を恨み憎み、その果てに滅びてしまえばいいと本気で思っているのだ。

 だがそれだけのエネルギーを過去千年に渡り、魔王が代替わりしてなお変わらぬどころか肥大化の一途を辿るともなれば、今度は彼女がそれだけの悪意を抱くに至った経緯というものが気になってくる。一体何がこの女を死してなおこの世に留め、そしてその黒い炎を燃え滾らせるのか。だがそれ以上を話す気は麗姫には無かった。

 「さてと……」

 ゆらりと蝋燭の火が揺らめいた次の瞬間、窓際にいたはずの麗姫が浅之介の前に刹那の内に移動する。冷たい手がその頬を撫でる様は、愛玩動物を可愛がる手付きにも見えたが、今この時この場所にあっては愛しい恋人にする仕草に思えてしまう。

 「ねえ、どうせお互い先が長くない身空、今この時は何もかも忘れて楽しみましょうよ。ね?」

 「何で花の葦原に来てまでそちらの相手をしなきゃいけないんですかね」

 羽織を取られて半裸にさせられながらも浅之介は動じない。口では文句を言いながら、するすると服を脱がす慣れた手付きを凝視したまま動くことはない。

 ここは葦原、嘘の街……閨で女がその気なら、据え膳食わぬは男の恥。

 「どうしてこうなったんだか」





 キョンシーの体は腐らない。なので死臭はしない。汗もかかないし排泄もしないから、屍でありながらあらゆる悪臭とは無縁の存在だ。浅之介の言った魚が腐った云々というのはただの嫌味である。

 だが無臭ではない。生きている間に染み付いた臭いではなく、脱色された布のような、真新しい何にも染まっていない素材の臭いがする。死臭や腐臭を取り除き、肉が持つ本来の臭いがするのだ。

 「ん、ン……んくっ、ンン」

 だから接吻をしても気分を害される事はない。

 今二人は布団に包まっている。寒くはない、むしろ夏を過ぎたとは言え未だ夜は少し蒸し暑いと感じるし、この色街は夜こそ熱気が篭る場所だ。なのに枕もどけて頭から布団を被るのは体を温めるためだ。

 「んっ……ふ。フフフ、吃驚しまして? 術を解けばこの通り、体は一瞬で硬直し頭のてっぺんから爪先までカチンコチン。この無様な姿がイヤでイヤで……その為に仙術を学んだほど」

 「で、どうして今それを解いてしまうかな?」

 「殿方の肌で温めてもらうのって、想像するだけで淫靡じゃありませんこと?」

 遊郭ではそういう「遊び方」もあるのだろうか、そんな事に思いを巡らそうとした浅之介の体を麗姫の腕が抱き留めた。冷たく、重く、そして固い腕……それがまるで枷のように全身を縛る。

 「もっと……もっと、私に熱をくださいな。その熱で私を焦がして」

 熱さと冷たさ、相反する二つは互いの均衡を保とうと互いの体温を循環させる。浅之介の熱を受けて麗姫の温度はゆっくりと、しかし確実に生前のそれへと上昇させていった。その様子はまるで、太陽が月を熱するよう。

 そうして布団の中で抱き合うこと三十分、浅之介の体が火照りを覚え始める。それは今まで与えるだけだった温度が、自分を抱く女からも届き始めたということ。

 「はぁぁ……あったかい。抱きしめられただけで、ほら……ご覧なさいまし」

 掛け布団を跳ね除け露わになった肢体が、窓から差し込む月と行灯の光を浴びて浮かび上がる。青黒い肌は闇の中でその光を受けてぼんやりと輪郭が浮かび上がり、やがて目が慣れるとその美しい肉体の全貌が明らかになる。

 「私を手に入れるために七つの国が戦争を起こし、この体に溺れた王三人は国を滅ぼしました。そんな傾城の体を好きにできるあなたは、きっと三国一の果報者」

 この神州で最も多く死体を作ってきた男の目は、“それ”を死体と認識しなかった。動き、言葉を話し、淫靡に誘うその姿は、彼が知る死の事象から最も遠いところにあった。死は静かで、冷たく、重いもの。なのにそれに一番近いどころか、まさにそれそのものであるはずの存在がここまで淫猥であるというギャップ、否さ“矛盾”と言うべきか、相反する二つを抱えた存在特有の儚さを秘めた美しさに、いつしか浅之介の目は釘付けになっていた。

 「さぁ、どうぞ」

 「んー」

 熱と柔らかさを取り戻した女体に指先がそっと触れる。汗などかいていないはずなのに、乳房はしっとりと湿り気を帯び、つんと上を向いた突起に触れると更に熱い体温を指の腹に感じ取った。

 「そう……ン、お上手。ああっ、ふッ……あン! もっと、下も……」

 左手で乳房を愛撫しつつ、右手が腹をなぞりヘソを撫で、女陰に到達する。遠慮も気遣いもなく抉るように指を挿し込むと、熱い肉の壁がそれを迎え入れた。蠢動する動きは奥へ奥へと誘う魔性の壷。女陰の奥からは進入した指を歓迎するようにいやらしい液が溢れ出した。手を伝ってサラサラと流れるそれは、愛液というよりは汗に思えた。

 その指で熱く湿った膣内を掻き回すと、麗姫の体が悦びに打ち震えた。

 「あっ、あ……あ! あ!」

 指先か僅かに肉壁をこする度に、肉体から機能喪失したはずの快楽神経にくすぐられ死肉の姫が嬌声を上げる。それは同時に男の自尊心と支配欲求を刺激し、浅之介の責めも少しずつ苛烈さを増していく。乳房を弄っていた左手も下半身に移し、膣の手前に僅かに見える突起に触れた。その瞬間に麗姫の体が大きく痙攣する。

 「ひぃ、あンッ! ふあぁ……!! フフ、お上手」

 「死体のくせに感じるものですか?」

 「野暮な事は言いっこなしですわ。そういうあなたも、指先で捏ねくり回すだけで満足かしら?」

 麗姫の視線は浅之介の股座、そこで痛々しいほど屹立しているモノに向けられた。全身の血液を流し込み固めたみたいに雄々しく猛々しい、“生”と“性”のシンボル。いくら死体と頭で分かっていても、時の権力者と凶暴な魔物すら手玉に取った魅惑の体を前にして平静でいられる人間などいるはずがなかった。

 そして麗姫の方も同じ。期待と熱の篭った視線を隠しもせず注ぐ表情は、心なしか赤らんで見えた。そして中腰になってはしたなく股を開いて見せるその姿は、大陸史で淫蕩を極め尽くした妖婦そのものだった。

 「さあ、いらして」

 語る言葉は捨て置いて、浅之介は押し倒すことで答えとした。敷布団に背中から倒れた麗姫に覆い被さり、豊満な胸を押し潰すように密着して、迷いなく貫いた。

 「あああっ! きた……き、たぁぁぁ〜〜〜っ!」

 感じたのは熱と、驚く程に柔らかい肉の存在だった。指を入れた時以上の熱と感触が浅之介の魔羅を歓迎し、先端は一気に底に達した。膣から発生した歓喜の震えはさざ波となって全身に広がり、遥か昔に捨てた動物的情動に理性も本能も支配される。生者と死者が交わるという、有り得ないを通り越し禁忌を侵す所業。にも関わらず、浅之介はその禁じられた行為に早くも順応し興奮を覚えていた。

 それはきっと、相手が魔物娘だからではない。生まれながらにして極まった異常者が、命を落とした異形と交わり、異端にして外道の行いに惹かれるのは至極当然の帰結と言えた。

 「これは、癖になりますねぇ。うねり、絡み、捕らえ、食らいついて離さない。宿場の飯盛女とは違……ぉく!?」

 「床入りの最中に他の女の話なんて……ヒドい人」

 お返しです、と言って麗姫は下腹部に力を入れて浅之介を責める。ただ絞めるのではなく、蛇が獲物を飲み込むように、入口から子宮、根元から亀頭にかけて肉の壁がグニグニと魔羅を責め立てた。それだけで浅之介は苦悶にも似た苦しげな表情で快楽を甘受してしまう。

 キョンシーの体から染み出す毒気は万物を殺す。だが今この色街にいる限りにおいて、麗姫の毒は全て媚薬に変じる。そして全身が毒で形作られている麗姫と交わるという事は、媚薬の塊と交尾しているようなものだ。匂いで、味で、音で、肌で、そして目に入る全てが、獣性を果てしない快楽と欲望の底なし沼へと引き込んで離さない。

 挿入して慣らすのは終わり、交わりは互いの肉と肉をぶつけ合う暴力的なものへと変わり始めた。

 「もっと……もっとぉ! 突いて、突いてぇ! もっと私をぉ……メチャクチャにしてぇぇぇっ!」

 ピストンを繰り返す度に性感は高まり、渦巻く熱は次第に天井知らずになっていった。一突きすれば扇情的な喘ぎが蝋燭を揺らし、二突きすれば死してなお豊満な胸が大きく上下する。もはやここにヒトはいない、ただ二匹の獣が互いを貪り喰らうように交わり続けていた。

 快楽を貪る浅之介が麗姫を責めるように見えるが、実際はその逆。麗姫という極上の阿片にも勝る快楽の坩堝に、浅之介が溺れ始めたのだ。その証拠に始めたばかりにはあれだけ饒舌だったのが、今は走り込みしたような必死な息遣いで腰を振り、麗姫の肢体からさらなる甘い快楽を引きずり出そうとしていた。

 「あ、ああああ……んぁ、あああああああ! ふぁァァッ!?」

 組み敷かれた麗姫は抱きかかえられた瞬間、より深く己の内を抉る衝撃に驚きの声を上げる。しかしその驚きもすぐに快楽に染まり、互いに抱き合い激しく接吻を交わしながらの交合はいよいよ絶頂の到来を予感させるものがあった。硬く傘を張った魔羅はあと数回も打てば達するのは確実だった。

 それを予感したのか、唇を離した麗姫が懇願する。

 「あらぁ、イクの? イキますの? イイですのよ、出して……あああっ!! でも、どうかその前にぃ……!」

 脚で浅之介の腰をがっしりとくわえ込んだ麗姫は、彼の手を掴むとその指先を自分のある部分へと触れさせた。

 「どうか、思い切り絞めてください……」

 その、首へ。

 「私を……満たして」

 何故と理由など聞かず、浅之介は腰の動きを止め両手に渾身の力を込めて麗姫の首を絞め上げた。そしてその瞬間、彼女の膣内はこれまでにないほど大きく揺れ動き、首絞めの圧力をそのまま伝えたような動きに浅之介の力も更に込められた。

 「が……、かぁ、ひゅ……ごぼっ!!」

 アンデッドに呼吸は必要無い。死んでいるから。だからこんな事をしたって苦しくも何ともないはずだが、麗姫は宙返る眼球を痙攣させながら必死に空気を吸おうとし、口の端からは泡を吹いていた。だが決して抵抗せず、彼女の手は浅之介を抱き留め彼の背にあった。まるで「もっと」と言っているようで、倒錯と背徳に塗れた光景は他人が見れば卒倒するものだった。

 「がっが、ご……ふぎっ……! あが……」

 「ハァ、ハハッ……ハハハハハ! 最高だ、今のあなた、とても輝いてますねぇ!!」

 ぎりぎりと音を立てて首は変形し、それでも麗姫の顔に苦痛はない。浅之介も浅之介で止める気は毛頭なく、絞めれば絞めるほど快感が高まる事に気を良くし、指の力を一切緩めずもっともっと力を入れていく。

 そして遂に、その力は臨界を越えて……。

 「がっ……ひゃ────!」

 ゴキリ、という歪な音を立てて脛骨が粉砕した瞬間に麗姫は気をやり、最大の締め付けに浅之介もまた同時に果てた。

 麗姫の顔は恍惚の笑みを湛え、とても満たされているようだった。





 あくる日、未だ日が出る少し前、葦原と苦界を結ぶ玄関口である大門に人影があった。その視線は廓の中を静かに見つめ、目当ての人物が出てくるのをじっと待つ。

 やがて東から差し込んだ日が夜の熱を奪われた色街をオレンジに染める頃、一人の人間が見世から姿を現した。

 「やぁ、どーもどーも。お久しぶりです、その節はどういたしまして」

 人斬り権兵衛、虫の五代……山本浅之介だった。

 一人だった。

 「奴はどうした?」

 「それがね、聞いてくださいよ。夜が明けたらあの人の姿どこにも無くてですね、遣り手さんに聞いても『きちょう、なんて新造はうちにはいません』って言うんですよ。なんかもう狐狸に化かされた気分で……」

 「奴を仕留めなかったのか」

 「刀を取られてるのにどうやれと仰られる?」

 「封印術式を……」

 「ああ、これですか? 邪魔だったんで遣り手さんに預けてました」

 懐から出した巻物は当然とばかりに未使用。つまりこの男は敵を目的地より前に倒す好機に恵まれながらそれを棒に振ったことになる。上にバレれば重大な背任行為として追及されることは間違いない。

 しかも、補佐役の鼻は浅之介の体から、彼由来のものではない匂いを感じ取っていた。そしてそれがどんな意味を示すのかも同時に見抜く……。

 「肌を重ねて、情でも湧いたか」

 「まあ確かに、抜かずの三発決めるぐらいにはドハマリしたのは事実ですけども、それだけでこの浅之介の刀が鈍ると本気でお思いで? 手前が斬った者の中には夜鷹や娼妓も居りますれば、余計な心配は無用ですよ。ただ……」

 「ただ、何だ?」

 「情ではなく、興味なら湧きました。不思議と今はどうして彼女がああなったのか、それを知りたく思っています」

 ひょっとすればそれは、天変地異にも匹敵する大異変なのかもしれない。己以外の他人など切って捨てる人形程度の認識の浅之介が、生まれて初めて血肉以外の他者の内側に興味を示したのだ。例えその相手がもう既に命無き者でも。あるいは、命無きモノだからこそだろうか。

 「そちらが以前くれた資料には『事件』しか書いてなかった。どうせ知ってるんでしょ、あの人の『過去』」

 「だとしたら、何だ?」

 「教えてくださいよ。気になって気になってムズムズして、ここに居る全員斬らないと収まりつきそうにないんです」

 そんなことは無理だ。浅之介にその気があるなしではなく、目の前にいる補佐役が「決してそれを許さない」からだ。石を見れば誰でも硬いと認識するように、浅之介の脳は目の前の彼に何をどうしても勝てないと直感ではなく“常識”でそう認識させられていた。

 だから頼んでいる。一応これでも下手に出ているつもりだったし、もし駄目だった時は素直に先を行くつもりでいた。

 「本名、チャン・リーチェン」

 だがそれは取り越し苦労だったようだ。邪魔な棺桶を下ろしその上に腰掛けた補佐役はぽつぽつと、邪仙と呼ばれ続けた女の過去を語り始めた。

 「奴はこの世界の、『被害者』だ」

 真実を。





 遥か昔、後世に霧の大陸と呼ばれる場所が東方世界の文明地とされ平和を謳歌していた時代のこと。当時の国々は小さな属国を従えており、一年に一度王の使者自ら赴き税を取り立てていた。作物や布などの工芸品を始めとした租税の中には労働力も含まれ、毎年何百人もの男女が奴隷として徴用されていた。

 男は普請や土木などに駆り出され、女は女官として宮廷に召し抱えられた。だが実態は完全な王族や官僚の私娼であり、欲望に任せた無計画な情動は後の王位継承に端を発する騒乱の遠因となる。

 そんな欲望渦巻く宮廷にあって一人、国の支配者たる王の寵愛を受けた女官がいた。名を、リーチェン。属国から献上された奴隷の一人だった彼女は美しく、宮廷を歩く誰もが彼女の歩く姿を振り向き見ずにはいられないほど、その美貌は天地に比する者は無しと詩にも詠まれるほどであった。

 しかも、ただ美しかっただけではない。佇まいは物静かで、言動は理知的、いつ如何なる時でも他人を思いやる優しさと、他人からの気遣いを無駄にしない器量を持ち、冷静に物事を見据え的確な言葉でそれを表す彼女を、誰もが褒め称えずにはいなかった。美貌以上にその聡明さに心惹かれた王は彼女を重用し、二人の間に単なる主君と女官以上の信頼関係が築き上がるのにさほど時間は掛からなかった。

 だが、王と彼女の接近を快く思わない勢力も存在していた。復権を握る宰相と、既に王の后だった女の策略により、リーチェンは敢なく命を落としてしまう。最も信頼していた人間を失った王は嘆き悲しみ、国政にも力が入らないほどその精神を病む結果となった。いつしか狂気にすり替わったそれは、名君と称えられるはずの王をある一つの凶行に走らせる。

 王は配下に命じ、不老不死に繋がるありとあらゆる術を東西南北から掻き集めさせた。どんな魔道でも邪法でも良い、最も信頼した彼女が蘇るならと。そして遂に発見した仙化の法によれば、方術的・風水的に正しい手順を踏めば、肉体と魂魄を死という絶対の軛から引き戻す事が可能とあった。さっそく王はそれを執り行い、リーチェンの体は死から蘇り動き始めたのだ。

 試みは失敗した。リーチェンは尸解仙ではなくキョンシーとして復活してしまった。

 復活した死体が生前と同じ状態、言葉を話し意志の疎通を行えるようになるには、呼び戻した魂が完全に体に馴染むまで更なる時間を必要とした。それが叶うまでリーチェンは全身から腐臭を撒き散らし、獣の唸り声を上げて暗室を徘徊するキョンシーとして存在しなければならなかった。そしてその理性が戻るまで待つには、王は既に長い時間を犠牲にしてしまっていたのである。

 リーチェンが理性を取り戻した時、国は滅びた後だった。後継者同士の争いで国土は割れ、大陸は群雄割拠の睨み合いへと突入、大規模な冷戦状態となって久しかった。リーチェンはその内の一国の蔵に封印されていたのである。

 そして、それからが地獄の始まりだった。

 リーチェンはただ封印されていた訳ではない、彼女を所有する新たな王には野望があり、彼女はそれを実現する為の材料として利用された。それは奇しくも、先の王がリーチェンを蘇らせる為に執着した不老不死の法だった。より完全に、より完璧に、不死を実現できればやがては己が世界の覇者になれると信じて新しい王はその秘密をリーチェンの肉体に見出した。そしてそれを形にすべく彼女に地獄と表現するのも生易しい仕打ちを繰り返す。

 魂がどこに宿るのかを知る為に心臓を潰された。意識がどう発生するのかを知る為に頭蓋をこじ開けられ、脳を切り分けられた。骨を割られ、内臓を取り出され、手足を破壊され、胴を切られ、指を分けられ、眼を潰され、肉を煮られ、乳房を焼かれ、子宮を挽かれ、皮を剥がれ、舌を抜かれ、肺を水に沈められ、胃に石を詰められ、酸の樽に入れられ全身を溶かされた。どこまで耐えられるのか、どれだけやれば死から蘇ったその秘密を解明できるのか、その秘密を暴くためだけに、リーチェンはその身に八大地獄の責め苦全てを味あわされ続けた。

 地下で彼女は叫び続けた。痛みに悶えてではない、痛みなど感じない。彼女が恐れ慄いたのは、ここまでの責め苦を受けながら何の痛みも感じなくなった自分自身に対してであった。それだけではない……切断された手足は独りでに接合し、潰された心臓は再生、炉にくべられ炭と成り果てた内臓すら時間を逆戻ししたように復活する。それらが己の体に戻り何事も無かったかのように復元される姿を目の当たりにし、彼女は自分の肉体がヒトではなくなっていることを見せつけられ、その精神も狂気の奈落へと引きずり込まれていった。

 それが十年続いた頃、睨み合っていた国々の均衡が突如崩れた。原因はリーチェンの存在がスパイにより各国の王の知るところとなってしまった事にあった。全ての支配者にとって不老不死とは喉から手が出るほど、それこそ歪な均衡を自分ら破ってでも手に入れたいモノだった。表向きは様々な理由を付けて、実際はリーチェン唯一人の為に戦争が勃発した。

 戦局は早くも泥沼に突っ込んだ。支配者たちは欲望を隠しもせず、疲弊の一途を辿る国力を無視して戦火は大陸全土を舐め尽くし、もはや止める手段など存在しないように思われた。

 リーチェンを「所有」していた国は、世にも悍ましい方法でそれを終結させる。

 適度にストレスを与えられた果実がより甘味を増すように、十年に渡る責め苦はいつしかリーチェンを腐毒という概念そのものへと変えていた。だが不老不死に目が眩んだ王はそれでもなお彼女が敵方に渡る事を拒み、そして……。

 彼女を「潰し」、「搾り」、「漉し取った」モノを……「撒いた」。

 戦場に投入されたリーチェンという“毒”は瞬く間に効果を表した。空気は濁り、水は腐り、木々は枯れ果て、人々はドロドロに溶けた。こうして有史初の大量破壊兵器によって三つの国が同時に滅び、三国があった場所が百年間ヒトの住めない不毛の大地と化すことで戦乱は終わったかに見えた。

 リーチェンは生きていた。否、「存在して」いた。

 皮も、肉も、肝も、脳髄も、全てを液状に磨り潰されバラ撒かれ、大陸を覆う魔性の霧と同化してなお、彼女の意識はそこに在った。肉体という器さえ失い拡散した精神は、唯一つの強靭な意志によって霧散せず魔霧の中に繋ぎ留められていたのである。

 彼女が自身を存在させた、たった一つの意志、それは……。

 「ニ……ク、イ…………ニ、クイ、ニクイ、ニクイ! 憎いィィイ!!!」

 熟成を極めた猛毒は魔霧と結合して更に毒性を高め、それに触れた戦場の骸は彼女の憎悪に呼応するかのように動き出した。やがて死者の群れは一つの行動を取る。リーチェンの憎しみの代弁者となった死者の軍勢は無作為に、無秩序に、無差別に人々を襲った。死骸によって殺された者にも毒は感染し、大陸の一角は瞬く間にキョンシーの巣窟へと姿を変えてしまった。

 その後、死者を完全に葬るため更に七つの国が戦乱に巻き込まれた。その戦乱の陰で再びリーチェンの肉体は復活を遂げ、その後彼女は大陸の表舞台から姿を消した。醜く変わり果てた自らを誰にも見られまいと、秘境にその身を隠したのである。

 しかし、彼女の本当の地獄はこれより始まることを、当の彼女自身知る由もなかった。





 東国は下野の山奥、ここは那須。人里離れたこの地はかつて、朝廷に仇なした化け狐を追い詰め、それを封じた場所。御伽噺に語られるこの場所には今、因縁の二人が雌雄を決しようと相対していた。

 「やっと、来ましたのね」

 「どーも、お待たせしました」

 東……邪方妖仙麗姫、チャン・リーチェン。

 西……護国修祓師、五代目山本浅之介。

 「あなたとの腐れ縁もこれまで、ということかしら。ここは終焉の地……私か、あなたか、生き残るのは二人に一人だけ」

 尸解の仙姫と殺劫の求道者が相対すること、これで七度目。遂に旅路は最終目的地であるこの那須にもつれ込み、もうこれより先など無かった。ここから先はない、つまりここで全ての決着がつくということ。否、つけなければならないのだ。それを理解している二人の間には、緩い挨拶とは裏腹に極限まで張り詰めた空気が満ち、地震も起きていないのに周囲に転がる石や岩がゴロゴロと音を立てて揺れ始める。

 膨れ上がる妖気に当てられ、天変地異の前触れを感じ取ったか空の色さえ変容していく。遠く雷雲の稲光が開戦を待ち焦がれる怪異の唸り声にも聞こえた。

 そして、始まる。

 「お出でなさい。私の可愛い下僕たち」

 合掌の乾いた音が合図となり、もはやこれまでの道中で見慣れた戦法となった死骸の軍勢が地中から次々と出現する。だが今回はその数が桁違いだった。

 「これまた……随分と殺したもんですな」

 「お気に召しまして?」

 十……二十……三十……四十……五十、六十、七十、八十、九十…………ざっと、三百。奇しくもその数は、浅之介が今まで斬って来た数とほぼ同じだった。浅之介が追いつくまでの間に麓の村で増殖したのを配下として操っているのは明らかだ。たった一人を迎撃する為だけにこれほどの数を犠牲にした挙句、その命を弄ぶ……ああ、それは何と言う……。

 「凄い、凄い凄い!! 手前をここまで買ってくれているとは! ハハ、ハハハハ! 男冥利に尽きますなぁ!!」

 それはなんて素晴らしい。

 今までは違った。リーチェンも浅之介も互いが本気ではなかった。浅之介は漫然と死体を斬らねばならず、リーチェンも何かしらの目的があったからこそ今まで幾らでも殺す機会がありながらそれを見送ってきた。互いに互いが手を抜き合っていたからこそ、この腐れ縁はここまで続いたのだ。

 だが今や、リーチェンは本気だ。本気で浅之介を殺そうと死骸兵を差し向けてきている。キョンシーにすらなれなかった死骸は戦術や戦略など関わりなく、一斉に浅之介目掛けて雪崩込んだ。突き出される600の腕が彼の肉をもぎ取ろうと迫る。

 「『辰殺し』!」

 ひと振りから放たれる八つの斬撃が一気に八体の死骸を斬滅する。一刀八斬の技術を応用すれば一度に大量の敵を屠ることも可能。そこに八方を包囲し八間先まで射程に収める浅之介に掛かれば、本能に任せ突っ込んでくる三百人などたかが知れていた。浅之介にとっては向かってくる肉の塊を片端から切り倒すだけの簡単な作業でしかない。あまりにも簡単すぎて、いつもなら半分斬る頃には飽きてしまうぐらいだ。

 だが今の彼は本気だった。一分の緩みなく、一縷の迷いもなく、一瞬の隙もなく、今の浅之介はより素早くより効率よくより迅速に殺すことだけを追求する。それは同じ本気を見せたリーチェンに対する返礼でもあり、その本気になった彼女を切り伏せる事で最高の絶頂を得ようと目論んでもいた。大きく、険しく、難しい相手こそ殺し甲斐があり、今のリーチェンはそうするに足ると判断していた。

 斬る。斬る。斬る。他は何も考えない。己は虫だ。虫は思わない、考えない、悩まない。

 目の前の肉を切り刻む装置と化した浅之介によって、三百もの死者の大群はみるみる間にその数を減らしていった。切り伏せた数がおよそその半分に到達する頃、浅之介は刀を振るっていなかった。

 「ハハハ……!」

 もはや彼の手に握られているのは刀ではなかった。彼の手は風を握る。振れば一迅の風が吹き、不可視の刃が殺意に従い肉塊を自動的に斬って行く。かつて剣聖と呼ばれた二代目が達した領域、その更に向こう側の殺人剣の境地に浅之介は指を掛けつつあった。今なら何でも斬り殺せるという確信が五体に満ち、纏わりつく血糊や脂の量と反比例して太刀筋はより洗練されていった。

 そして、急激な成長を喜ぶのは彼自身だけではなかった。

 「嗚呼、もっと……そう、もっと! もっと殺しなさい」

 自分の尖兵が次々と斬られ己を殺す刃が迫っても、リーチェンは動じない。仙術でふわりと宙に浮き悠然と浅之介の奮闘ぶりを見物しているだけだった。浅之介の邪魔をするでもなく、かと言って死者に加勢するでもなく、むしろ彼が軍勢をかき分け再び自分の前に立つ事を望んでいるようだった。

 そしてその願望は現実になる。斬滅の風を纏った浅之介は群れる死骸を伐採しながら突き進み、遂にその刃はリーチェンの首を捉えた。

 惚れ惚れする頚骨への一斬は容易く首を飛ばし、断面から黒く濁った血がドロリと湧き出す。無論、その程度で死なないことは織り込み済み。ここからが本番だ。

 「やっとこさ、出番ですよっと!!」

 取り出した巻物の封を解き、刀に染み付いたリーチェンの血を擦り付ける。それにより術式は狙うべき標的の存在を確認し、術式の起動準備が完了する。流れ出たリーチェンの血が彼女の意志に背き、その足元に複雑な太極図を描く。

 これより、封神を執り行う。

 「第一の陣」

 「がぁ、ああああっ!!」

 陣から四つの宝剣が出現する。三本は胴を、一本は頭部を貫き、リーチェンが苦悶の絶叫を上げる。千年ぶりに感じる激痛はこの術の効果により、彼女から仙術や再生能力が封じられたからだ。もはや術を解かぬ限り彼女の体が復元することはない。

 これが第一の術、仙人殺しの『誅仙陣』。だがまだ封神は終わらない。

 「第二の陣」

 再生力を失ったことで防御に隙が出来たリーチェンに叩き込まれる第二の術。肉体ではなく魂を直接叩く十種の術からなる混成術式。雷が、炎が、風が、氷が、水が、砂が、鉄が……天絶に始まり落魂に至る超攻撃術式の重ね掛けは、千年かけて磨き鍛えられたリーチェンの魂を削り、彼女を最強の尸解仙から一介のキョンシーへと引きずり落としていく。

 第二の術、魂魄粉砕の『十絶陣』。そしてこれより、封神は最終段階へと入る。

 「八卦は四象に、四象は両儀に、両儀は太極に通じ、ここに天地は太一により統べられる」

 唱える呪文は易経の逆回し、世界に偏在する理を逆に辿り太極という世界の真理を読み解く術。転じてそれは強大な魔が放つ力の波動を発生源である魔そのものに逆流させ、その力を使って外圧をかけ続ける封印術となって発動する。封印するモノが大きければ大きいほど、強ければ強いほどに束縛の力も強くなり、やがてその存在が摩耗し完全に消えてなくなるまで封印が解かれる事はない。

 浅之介の左手に一枚の呪符が現れた。それこそ、神さえ封じる最強の術『万仙陣』を発動させる最後の鍵……リーチェンの額にある物と入れ替えれば、たちどころに彼女の全てが封じられるだろう。肉体も、精神も、魂も、記憶も、感情も、ありとあらゆる動的な情態は喪失し、彼女は物言わぬ死骸に逆戻りする。その状態で頭を切り刻まれれば……。

 「封神……」

 浅之介の手がリーチェンの額から呪符を剥がす。その瞬間に周囲に散乱した血から毒性の物質が解放され、急激に息苦しさを覚える。目が腫れ、動悸が激しくなり、肺が焼けるような痛みに襲われる。だがそれも封印して死体に戻してしまえば消えてなくなる。

 神州を脅かした邪仙、チャン・リーチェン……その終焉が今、完了……。

 「…………」

 「……何故手を止めるのかしら」

 浅之介の手は呪符を貼り付ける僅か手前で停止していた。どんな強力な術も発動しなければただの虚仮威しだ。封神完了せず、最後の最後で浅之介は任務に背いた。

 「何て言うかですねぇ……分かっちゃったんですよ。あなたと殺りあっても楽しくない、その理由が」

 「つい今さっきまでノリノリだったのは、どこのどなた?」

 「それはそれ、これはこれ。今手前はそちらの生殺与奪を握っている、この札を貼って切り刻めば確実に殺せる、そうすれば邪仙という極上の獲物を仕留められる……というのに、いつも感じる殺しの喜びを全く感じられないんですわ、これが」

 「それはどうせ、私が既に死んでいるから……でしょう?」

 「初めはそう思ってたんですけども、どうやら見込み違いだったようで。そもそも……」



 「あなた、最初から討たれるつもりだったんじゃないですか?」



 浅之介の指摘が真実だとしたなら全てに説明がつく。

 何故、大陸にいたはずのリーチェンが海を渡りジパングにやって来たのか。

 何故、彼女の姿が朝廷の膝下である京で発見されたのか。

 何故、彼女の目的地が最初から判明していたのか。

 この事件は最初から不可解な点が多すぎた。これまでの道程を第三者の視点で見れば、明らかにリーチェンの行動は不自然極まりない。まるで最初から浅之介をここまで誘き寄せるのが目的だったとしか思えない行動ばかりしているのだ。

 最初から、リーチェンが己の死滅こそを望んで裏で根回しをしていたのだとすれば……全て納得がいく。

 「あなた、死にたかったんですか? 死にたかったから、わざわざ返り討ちに出来る手前を殺さずここまで案内して、神祇に行き先まで教えて、ここまで高度な封印術が使える魔道書まで用意して……要はあなた、自殺したかったんでしょう? でもキョンシーのあなたは自分じゃどうやっても死ねないから、大妖怪の自分に恐れず立ち向かってくれる誰かを……自分をきっと殺してくれる人が現れるのを待っていた、違います?」

 今まさにこうしている間にも浅之介の体は毒に蝕まれ、鼻の奥から血が染み出し力が抜けていく。それでも彼は真実を聞き出す為に微動だにせず、ただ静かにリーチェンの言葉を待った。

 一瞬か、一刻か、あるいは永遠か……削れゆく意識が限界に達するその直前。

 「ええ、そう……。私は、ただ死にたいだけ」

 真実を口にした。





 秘境に身を隠したリーチェンは霊山の気を浴びながら、ひたすら仙人としての修行を積んだ。キョンシーは道士の道術で編まれた札を貼らなければ動けない、そんな決まりきった常識を破りたいが為に仙術を修得しようとした。

 もう誰とも関わらずに生きていけるように……人々の欲望に穢され、彼らを憎み殺めることの無いように……。

 だが尸解仙となったリーチェンを待っていたのは、仙人の肉を喰らおうと狙う魔物の欲望だった。人の枠を越え神霊に近づいた仙人の肉、その中でも肝を食べれば魔物としての格が上がるという風説が流布したのだ。その結果多くの魔物が押し寄せ、リーチェンは霊山を追われる羽目になった。

 また新しい住処を探そう……その考えは甘かった。

 猛毒の化身たるリーチェンが霊山の加護を抜け俗世を渡り歩くというその意味……それは即ち、大勢の人間が無意味に死ぬということ。行く先々で病毒に冒される無辜の民が続出し、彼女を追って現れた獰猛な魔物が更にその被害を広げるという大惨事にまで発展したのである。

 リーチェンは逃げた。逃げて、逃げて、逃げ続けた。逃亡はリーチェンが新たな霊山を住処とし、そこに魔物除けの結界を張るまで続いた。その道程で出てしまった犠牲者は扇動された魔物による被害とされ、逃げる姿を先陣を切っていると勘違いされたリーチェンはいつしか魔物の首魁と誤解されたまま時間が過ぎていった。

 やがてリーチェンは逃げる事すらやめた。彼女を討伐しようと義の者が現れても、彼女が万物を腐らせる毒の仙人と知れば逃げるように去っていった。

 それでいい、誰も傷つかずに済むのならそれが最良。瘴気の姫となったリーチェンは全ての他者との繋がりを断ち切り、この世の終わりまで一人孤独に耐えながら、ひっそりと、静かに時の中で風化していく覚悟を決めた。

 しかし、転機が訪れた。西の魔王が代替わりした影響により全ての魔物がヒトに近しい姿になるという事件が起きた。これにより人に害を与えるばかりだった魔物は皆須らく人に寄り添える形に変化し、キョンシーの毒は人間と淫靡に睦み合う為に媚薬へと変質した。

 リーチェンの心は躍った。これで自分は誰も傷付けずに済む……死を取り上げられたこの身で永遠の孤独を歩まずに済む……もう誰も憎まずにいられる……。数百年ぶりに胸を満たした希望に突き動かされ、麗しの姫は変化を迎えた新たな世界へと飛び出した。



 世界は彼女に対し、ただただ残酷だった。



 彼女は変わり過ぎた。水に石を入れても砂糖のようには溶けない……それと同じ。硬く、重く、そして強くなり過ぎたが故に、世界の変容から完全に取り残されたリーチェンという存在を構成する毒は不変を保ち続けた。彼女の毒は媚薬などという有益なものに変じることなく、万象を蝕む病毒としての機能を有したまま固定されてしまったのである。

 それは即ち、チャン・リーチェンという存在が未来永劫、誰とも交わることが許されなくなったということ。積み上がる死骸を後にリーチェンは霊山へ戻り、絶望に打ちひしがれながら結界の奥底に閉じこもった。

 だが、世界はまだ彼女に追い討ちをかける。

 胸の内からこみ上げる熱は、「愛しさ」。誰かと話したい……触れ合いたい……交わりたい……この孤独を癒したい。世界法則として定着した『魔物娘はヒトを愛する』という概念は、数百年の孤独に耐えるしか無かったリーチェンを、それこそ毒のように侵し始めた。猛烈に誰かを求めずにいられない衝動は生物にとっての呼吸と同じ、仙人である前にキョンシーという魔物娘となった彼女を本能という毒が蝕む。

 だが本能で感じる愛しさとは別にリーチェンの理性は二つの感情に塗り潰される。

 「屈辱」と「怒り」だ。

 好きで孤独を選んだのではない、好きで孤独を耐えたのではない……そうする以外に道が無かったから、だから孤独の中に身を沈める事を良しとしたのだ。未練もある、後悔もある、だがそこには茨の道を行くことへの覚悟もあった。

 この湧き上がる感情はそれを否定するもの。心を踏み躙り、覚悟を打ち砕かんとするもの。それを理解した時、リーチェンは激しい怒りと深い哀しみ、そしてまたしても絶望に沈んだ。

 世界は己一人を残して変わり果てていく。

 触れたくても触れられない。

 触れることを許されない。

 なのに心は触れろと囁いてくる。

 もう……耐えられない。

 「そうだ……死のう。このまま、消えてなくなりましょう……」

 リーチェンの心は折れた。もはやこの世界に希望は無いと知ってしまったが為に、死に損なった我が身を呪うことにも疲れてしまった。

 完全な死を、完璧な死を、完成された死を……チャン・リーチェンの望みはただそれだけ。尸解仙ゆえに死とは無縁ならば、それでもいい……この世界から跡形も、塵も残さず消える手段を探し出すまで。

 「アハ……フフフ、アハハハッ! ハーハハハハハハッ!!!」

 こんな残酷な世界に、生きていたくはなかった。





 「これでお分かりになったでしょう。私はこの世にいてはいけないモノ……私という毒が存在する限り、私の周りには死が満ちるのです」

 西で会った時、彼女はこう言った……「皆勝手にそうなるだけ」と。彼女には怒りと憎悪に任せた最初を除き、後はただの一度だって人を害する意志を持たなかった。だが彼女が望む望まないに関わらず生者は死者に変わり、忠実な下僕になってしまう。

 それは悲しいこと、許されるはずもないと理解していた。だが最後には自分の願望を貫き通し、彼らの命を踏み台にしてしまった。

 「私を悪というのなら、滅ぼしたいと願う人々は多いはず。例えその殆どが別の何者かの悪行を擦り付けられたものだとしても……。その中の誰かがきっと現れると信じて……今日この時まで無様に生き延びて参りました」

 そしてやっと、リーチェンは出会うことが出来た。己を完膚なきまでに殺してくれるであろう人間、山本浅之介に。そして彼がより確実に己を滅ぼしてくれる事を願って、その手助けもした。彼こそが己が欲してやまなかった救いをもたらしてくれると確信して……。

 今更偽悪ぶるつもりは微塵も無い。己の存在が害悪であることは隠しようもない真実だ。今のリーチェンはただ死にたいだけ。否、死なねばならないと強く願っている。死ぬことに義務感を強烈な覚える希死念慮に支配されここまでやって来た彼女は、もはや眼前にまで迫った己の滅びを今か今かと焦がれる思いで待ち受けている。

 「さあ、迷うことなんてありません。ひと思いに、さあ……さあ……さあ!!」

 もうすぐ、もうすぐだ。この残酷な世界から離れる為の、唯一の救済……それがもうすぐ己を救ってくれる、その予感に胸をときめかせながらリーチェンは促し続けた。

 そして自滅願望の体現者を前に、浅之介は封印の呪符を強く握り締め……。

 「あほらし」

 一言、そう呟いた。その時の目はいつもの飄々とした表情でも、ついさっきまで嬉々として殺していた時のどちらでもなかった。全ての熱が引いて一歩引いた場所から更に遠くを眺めるような視線……その表情は、とてもつまらなさそうだった。

 「初めてですよ。斬る相手に対して興が乗らないってことは多々ありましたが、まさかここまで食指が伸びない手合いというのは……ちょっと、ドン引きかな」

 封印の札が足元の石に乱暴に貼られる。そのまま刀も納めた浅之介は呆然となったままのリーチェンを放置し、踵を返した。そこでようやく我に返った彼女が慌てて呼び止める。

 「ど、どちらへ行かれるのです!?」

 「どこって……帰るんですよ。もうここに居たって意味ないですし」

 「お待ちになって!! まだ、私を殺してくれていません! どうか、どうかお戻りになって!!」

 「嫌だ」

 「なっ!!? 何故です!?」

 「何でって、さっきも言ったじゃないですか。もうあなたを斬る事への興味が失せたんですよ。瑞々しい果実と思って近づいてよーく見てみれば、中は虫食いにやられてスカスカのボロボロとか……うん、正直ないわー」

 極上の獲物と見定めたはずがその実単なる死にたがりだと知って、浅之介は落胆の極みにあった。こんな茶番に付き合わされていた事に呆れを通り越し、頭は至極冷静になる。歪んだ狂人が一周回ってまともになってしまうぐらいには。少なくともリーチェンに対する殺しの情熱が大きかった分、その落差は凄まじいものだった。

 もう、浅之介がリーチェンを殺すことは永遠に無くなった。

 「それでいいの!!? 私の毒気を間近で浴びたあなたは、もう長く生きられませんのよ!!」

 「ああ、そうかも。今こうしている間にも、自分の体が壊れていくのが手に取るように分かりますしね」

 「でしたら……!!」

 「だとしても、手前はあなたを殺さない。あなたを封じ殺せばこの毒が消えて無くなるのだとしても……手前は決して妥協はしません、自殺したければ勝手にどうぞ。わざわざ手前が手助けする義理も謂れも無いんですなぁ、これが。じゃあ、二度と会うこともないでしょうが……お元気で」

 千年の時を待ってようやく現れた最後の希望……それが自分の手を離れ消え去ろうとしている。再び絶望の闇に堕ちる恐怖に身が竦み、涸れ果てたはずの涙がこぼれ落ちる。

 「ま、待って……お願い、戻ってきて……! 行かないで、お願いよぉ……」

 もう生きたくない……辛く悲しい、誰かを傷付け、誰かに傷付けられる生ならば……お願い、いっそ死なせてほしい。それが出来るのはあなただけなのに……どうして……。

 自分を残し去って行くその背中に、リーチェンは極大の孤独に押し潰されそうになりながら……。



 「望み通りにさせてやるのだ」



 那須の山肌にこだまする銃声を聞いた。

 立て続けに発砲された火縄銃の轟音は全部で六つ、それが聞こえた直後に浅之介は口から血を吐き仰向けに倒れた。六つの弾丸は外れることなく彼の腹や胸に直撃し、骨を突き破り内臓に達し、既に毒が全身に回っていた体ではそれを事前に察知し避けることも適わず大きなダメージをまともに受けることになってしまった。

 「いやぁ……まさか、そんな物まで……」

 「貴様にはここで確実に死んでもらわねばならん、悪く思うな」

 現れるのは顔を能面で隠した黒尽くめの集団。見慣れたその姿は神祇官の手の者で、用済みの浅之介もろとも邪仙を葬るために遣わされたのだとすぐに分かった。

 「さて、邪仙麗姫よ。おぬしの話は聞かせてもらった。そこまでして死にたいと渇望するのなら……その願い、我らが叶えてやろう」

 集団のリーダーらしき者が指差すのは、石や岩がごろごろと転がる高原の斜面。その中でも特に大きく、一際異彩を放つ大岩だった。

 「あれなる大岩はかつて九尾の妖狐を封じし要石。あれにおぬしを封じ込めれば、それでおぬしの望みは叶うだろう」

 リーチェンは二重の策を仕組んでいた。もし浅之介がここまで辿り着けなかったとしても、自分を倒す者が現れた時の為に確実に己を封じれる手段を残してあった。それこそが大昔に大妖狐を封じたほどの霊格を持った霊石の存在だ。これに封じられた上で砕かれれば、彼女は二度とこの世に戻ってくることはない。それもまた彼女が切望した滅びの形である。

 大岩に表面に刻まれていく封印の紋様を静かに眺めながら、思い描いた理想の最期とは違うことにも大して頓着せず、その顔はさっきまでの慌てぶりから一転しとても安らいだものだった。

 しかし、一つ心残りがあるならば……。

 「ああ……これが、死ですかぁ…………」

 毒に蝕まれた上に銃弾を撃ち込まれ、浅之介は今まさに絶命する直前だった。今まで自身が斬って来た多くの命と同様に、彼は自分に最も近い概念だった死の中に旅立とうとしていた。

 その顔に死への恐怖は無い。浅之介は自分の望むことを望むままにやって生きてきた。だから今更恐怖だの絶望だのを感じることなどあり得なかった。

 だが、生への執着が無いわけではない。

 「もっと……もっと、生きたかったなぁ……。もっと、殺して……」

 「どうして、あなたは……そこまで生きようとするの?」

 「決まってる……。まだ、まだ…………やりたいこと、楽しい事があるんですから……」

 後悔もある。こんなところで死ぬのか。

 未練もある。まだやりたい事が山のようにある。

 だから浅之介は死を恐れずとも、死を嫌う。まだ終わりたくない、この楽しくも過激な世界を心ゆくまで堪能していたいから。

 だからこそ浅之介は嫌う。この楽しく面白い世界に勝手に見切りをつけ、粛々と滅びを受け入れようとする軟弱者を、その性根を。

 「だから、手前はあなたを認めない……。あなたの死を欲し、滅びを望む心なんて……一寸も理解できないし、したくない。だって、世界は……こんなにも、楽しいんだから。それも楽しまない内に、終わらせるなんて……」

 嗚呼、それは何て馬鹿馬鹿しい。

 「くっ……! ぎぎ……っ!!」

 瀕死の体に渾身の力を込め、懐から一個の包み紙を取り出す。それは彼が補佐役から貰い受けた丸薬……命を落とすような場面で使えと言われたそれを、浅之介は包ごと口に含み飲み込んだ。

 それは何かを煎じて作られた丸薬……などではなかった。

 霧の大陸、華清池と呼ばれる温泉の湧き出る秘境……そこに生える神仙の果実、蟠桃。その種子を封じた物。

 変化は急激だった。

 「ああ……あがっ、ががぁっがああぁああああああっ!!?」

 全身を駆け巡る激痛、激痛、激痛の嵐。銃で撃たれた時以上の苦しみに、瀕死だったはずの体がのたうち回る。あまりの苦しみ様に自決用の毒でも含んだのかと疑いたくなるほど、彼は激しく胸を掻き毟って苦しみの絶叫を上げた。

 「ああああああっ!! ぎががぁあぁああああああああぁぁーーーッ!!! うがあああああああああッ!!! がああああああああ……………………ふぅ」

 叫びは唐突に終わった。転げ回った五体は静かに大地に投げ出され、糸の切れた人形となった浅之介の口から弛緩のため息が漏れる。目は閉じ、口は半開き、首はあらぬ方向に曲がり、誰がどう見てもその命は尽きたのは明白だった。

 一連の急激な変化に不気味な何かを感じ取った神祇官は、部下に命じてその命が完全に尽きたかどうかを確認させる。呼吸のない胸は微動だにせず、その脈が完全に停止したかを確かめようと首筋に手を伸ばし……。

 八つの斬撃がそれを襲った。

 「なぁっ、にぃ……!!?」

 噴き上がる血霧、飛び散る臓物、散華する生命……その中に浮かぶ白刃と、それを握る腕。

 「フハッ────ハッ、ハハハ!」

 全身に斬滅した者の血を浴びながら立ち上がるのは、虫の五代。激痛の叫びから狂喜の哄笑への変貌に、誰もが戸惑いと恐怖の眼差しでその復活を目撃した。何の妖術か摩訶不思議か、六発もの銃弾を受けたはずの体は完全に傷が癒え、のたうち回って折れたはずの首も何事も無かったように胴に座っていた。

 「あぁ……あぁ、あぁ、あぁぁぁぁ〜楽しぃ! 楽しぃぃいい!!」

 「ば、化け物め……! 大人しく死ねばいいものを、この死に損ないが!!」

 「死に損ない、大いに結構。肉を刻み、骨を折り、内臓を抉る……この喜びをまだ味わえるというのなら、手前は幾らでも生き足掻きますよ。満足なんかしない、妥協なんかしない、諦め、怠惰、飽き、絶望……そんなもの、本当に望むものを知っていれば屁でもない。ああ、つまり何が言いたいかっていいますと……」

 白刃が煌き、その切っ先が首だけとなったリーチェンに向けられる。

 「好きな事をする喜びも知らないで死ぬとかぬかしてんじゃねぇぞ、ってこと」

 「っ!」

 「自分がそれをすれば誰かが苦しむ、迷惑になる、困らせる……で? だから? それが自分の好きな事をしちゃいけない理由になるの?」

 それは狂人の理屈。片や人を殺さずにはいられない殺人鬼、片や存在するだけで命を冒涜する魔性……そんな存在が俗世に関わりを持つということは、それだけで害悪だ。

 だが浅之介にそれを省みない。彼は徹底して己の快と悦楽の為だけに動く。他人の都合など知ったことではないし、むしろ自分の楽しみの為に消費されて然るべしとさえ考えている。だが同時に悪意も無く、彼は彼の望む事を望むままに行っているだけなのだ。

 リーチェンにはその生き方が、その正直な在り方が……。

 「ああ……」

 とても眩しく思えた。

 「天地神祇流一刀派継承者、五代目山本浅之介……これより貴様を国体に難をもたらす朝敵として誅伐する!」

 予備の火縄銃が火を噴き、撃ち出された弾丸が今度は眉間に直撃する。ボスッ、という麻袋を叩いたような音の直後に頭は大きく仰け反り、そのまま倒れ……ない。

 「流石は天朝さまに仕える皆さん。いい火薬を使ってますね」

 眉間に開いた穴に指を入れ、頭蓋と脳髄に挟まった弾丸をほじくり出す。穴は恐ろしい勢いで塞がり、浅之介の顔には傷が消えていた。

 「馬鹿な……!? 貴様、なぜ!?」

 動揺を口にしながら暗部の尖兵は次の攻撃を繰り出す。一瞬で背後に肉薄し短刀で首を掻き切る、その瞬間に血が噴き……。

 出ない。

 「いけないなぁ。斬首ってのはもっとこう、スパッっとやるもんですよ」

 首は確かに刃を通し切れたはずだった。だが噴き出るはずの血は傷口に大量に出現したある物によって一瞬にして覆い隠される。

 それは、根。白く細いヒゲのような根がウヨウヨと出現し、破れた布地を縫い合わせるが如く浅之介の体を補修していく。体内に埋め込まれた蟠桃の種が彼の全身に根を張り無限の生命力をその体に供給しているのだ。「苗床」となってくれた肉体を守護し、それが損なわれるような事があればその部分を根で埋めて癒す。頭だろうが、心臓だろうが、全身が切り刻まれようと問題ない。毒に侵され溶解寸前だった肉体は今や、全身を駆け巡る神仙樹の根によって完全に補強が成されていた。

 「いい、これはいい! なんて素敵なんだ!」

 歓喜に声を張り上げる浅之介。しかしその喜びは不死身の体を得られたことに対してではなかった。

 「朝敵!! 素敵な言葉だ。それってつまり、手前を討つ正義の士がやって来るってことですよね? 皆が皆、誰も彼もが手前を殺しにやって来る……そして手前は、それを殺す。イイ、イイじゃないか!! 今までみたいにこそこそと、隠れて殺す必要なんか無い! これからはそっちからわざわざ来てくれるんだ! 何人も、何十人でも!! アハハハハッ、アーハッハッハッハッハッハハハハハハハハッ!!!」

 国難をもたらす害敵とされたからには、朝廷は浅之介を討つ指令を出さなくてはならない。だがこの神州に彼より強い者など存在しない以上、むしろ朝敵認定は彼にとって天啓にも等しい光明でしかなかった。

 だから当然、こうなる。

 「じゃ、殺すから!」

 構えられるは三尺の大太刀。煌く刃が魅せるのは魔を屠る天地神祇流。

 臨戦態勢を取る刺客たち。

 だが……もう遅い。

 「天地神祇流……奥義」

 繰り出されるのは最終奥義。神を祀り魔を祓う本来の技とはどこまでも掛け離れた、ただ徹底的に殺すことだけを突き詰めた殺戮の極致。

 上段に構えられた刃が殺気に揺らめく。極限まで高められ物質界に影響を及ぼす域にまで達した、それに全ての気迫を込めて……放つ。

 「ハァッ!!!」

 振り下ろされた刃はまず、風を起こした。

 大気の層を掻き分けた白刃は空気の流れを引き起こし、刃の通り過ぎた場所は真空となる。圧縮された層と真空の層、本来なら刹那の後には消え去るこの二つが、断続的な収斂を繰り返し波動を刻み始める。やがてそれはさざ波が津波に変わるように大きく、力強く、そして鋭さを増していった。それは“風の刃”。圧縮された空気の刃と、真空の刃、どちらも不可視でありどちらも鋭利。大気圧の急激な格差は万物を切り刻む刀となって具現化し、やがてそれは無数に枝分かれする。

 拡散と収縮、二つの相反する物理現象は直撃した全てを文字通りの粉微塵に変えていく。もはやそれは「切断」ではなく、あらゆる物体を肉眼では捉えられぬ微細な粒子へと変換する「分解」だった。殺し技を極めた浅之介の剣は遂に、この世の理すらも切り刻む神域へと足を踏み入れたのである。

 「『蠱毒厭魅』」

 十、百、千……総数、三万七千五百六十四撃。刺し、喰らい、切り裂く……虫の大群の如き猛攻は激しく、静かに、そして一瞬の内に全てを終わらせた。

 皮も、毛も、肉も、骨、内臓、果ては血という液体に至るまで……一迅の静かな殺戮の嵐が去った後、そこには塵しか残らなかった。刺客はもちろん、封印に使われるはずだった要石もろとも、高原の全ては砂に変わっていた。

 いや、ひとつだけ難を逃れていた。

 「よし……じゃあ、行きましょうか」

 浅之介が手を差し伸べるのは、刺客と纏めて粉微塵にされてから復活したリーチェン。復元したのは肉体だけで、服は塵になった。

 「何故……私を?」

 「別に哀れみとかじゃありませんよ。手前は朝敵、あなたも朝敵、手前とあなたを追ってこれから沢山人がやって来る。手前、殺す数に困らない……つまりはそういう事です」

 どこまでも己のしたい事だけを追い求め、その為だけに利用するという宣言。だがリーチェンはその言葉に揺れ動く。

 「…………あなたは、私の傍に居てくれるのですか? この毒に穢れた私の近くに……離れることなく……ずっと」

 蟠桃の力で不死身になったとは言え、浅之介にはそこまでする義理がない。

 「あなた、ずっとそうしたかったんじゃありませんか?」

 その言葉でリーチェンは心を決めた。

 そうだ、自分はずっと寂しくて……ずっと誰かに、こうして触れてもらいたくて。

 「では、行きましょうか」

 千年ぶりに握られた手は温かく、涙が溢れた。

 瘴気の仙姫はやっと、己の望むことを成すことができたのである。





 その様子をじっと見つめる影があった。浅之介とリーチェンのどちらにも勘付かれず、静かに事の成り行きを見守る誰かが。

 去って行く二人を見送り、やがてその姿が見えなくなった時こう呟く。

 「『四人目』はあいつだな」

 やがてその影も掻き消すように消え去った。





 仙姫は安らぎを手にし、人斬りは更に修羅を行く。綾目五代剣客道中、これにて結びでございます。
16/02/13 20:27更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 無駄に長い文章で読み手を疲れさせた上、時間も浪費させる作者の屑……私です(自虐)

 最強三人の一角、「攻めの浅之介」。おはようって挨拶しながら切断する、エクストリーム通り魔。
 ちゃっかり相方ゲットしたみたいに見えるけど、実際は彼女の近くにいるだけで体がどんどん腐食していく。で、欠損した部分を埋めるように根が生えるから、いい空気吸ってる割に結構ハードモード。一年もすれば人間辞められる。

 今作一の不幸ヒロインことリーチェン。やっと出会えた相方が超事故物件という時点でお察し。だけど「彼は私を必要としてくれるから」って完全にダメ男に引っ掛かる薄幸属性ムーヴ。最後に幸せ手にした感じに書いたけど、実際は開き直っただけで何も解決してないのはナイショだ。

 実は彼女が前話に出た老師の師匠。梁山泊は彼女が「自殺」する為に作った組織。大陸中から集まった武侠の誰かにぶっ殺してもらおうとして、老師はその有望株だった人。
 けど老師は武術を極めることにしか関心が無くて、「ほんまつっかえ」と見切りをつけてジパングに……って流れ。あと百年待てばリンシンにぶっ殺してもらえたのに。
 ま、完全に裏設定になっちゃいましたが。

 なおこの後、西から渡って来た鎧男くんに二人揃ってボッコボコにされた模様。

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