連載小説
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先輩と夏日
 外がじわじわみんみんうるさくても、風通りのために窓を開けてなきゃいけないのが夏の嫌なところ。暑さの原因である日光をシャットアウトしようにもカーテンが風でまくれ上がるし、騒音と熱でしんどい季節への対処法を知りたい。

「ワインを楽しむときはまず最初に匂いを嗅ぐんだが」
「……はぁ」

 そんなうるさい中でも、低く落ち着いた先輩の声はとても聞こえやすい。
 彼女はなにをしているのかと言えば、机に頭を預けて座ってる俺の背中を、ワイシャツをめくってぺたぺた触っている。なにやってんだ。

「ふむ。後輩の汗はしょっぱいな」
「……なにやってんですか」

 怒る気力もない。完全に夏バテだ。

「私の汗も舐めるか?上と下とコースが分かれてるが」
「お冷でお願いします」
「つれない男だな、きみは。せっかく後輩が大好きなおっぱいと触れ合えるチャンスだというのに」
「そういう元気がないんで……」
「冷房に頼りすぎだ、馬鹿め」

 自宅やらスーパーやらで冷房のお世話になりすぎている自覚はある。どうでもいいけどなんでスーパーってあんなに冷房ガンガン効かせてるんだろう。涼しい通り越して寒い。

「しかし、こうして見ると後輩も背中はなかなか男らしいじゃないか。筋肉が足りない気はするが、ムキムキした身体は好みじゃないからこれでいい」
「褒められてるのかな……」
「褒めてるさ。後輩は普段からいい男だよ」
「どうも」

 なんか、後ろの方からぷちぷちって音がする。何の音だ。なにかを外す音みたいな――。

「よいしょ」
「うわ」

 そこまで考えたところで、頭になにかを被せられる。湿っててぴたぴたする。白い。濡れたタオル?にしては生地が薄くて、ていうかこれ濡れてるの汗だ。
 しかも、すごい濃厚な先輩の匂いだ。肉体の一部が条件反射したのを感じる。なんだこれ。息をするだけでむせそうなくらいの先輩の匂いが被せられた布から発されていて、たちまち体中に充満していく。

「おお、いい風。上の方の階だと風が入ってくるだけで涼しく感じるな」
「ちょ、先輩……なんですかこれ」
「何ってワイシャツだよ」

 そうして先輩に後ろから抱きつかれ、同時にすこしばかり強い風が調理準備室の中を通った。先輩は涼しかったかもしれないが、俺はそのワイシャツを被せられてるせいで風が当たらなくてちっとも涼しくない。
 すごいムラムラする。そんな元気ないけど。

「……なんでもいいからこれどけてくださいよ。ていうか暑いですって」
「後輩の背中がひんやりしてるのが悪いんだ。汗というのは気化熱がうんぬんってやつだな」
「そんなん、自分の二の腕でも触っててくださいよ……」

 さすがにうっとおしいので、手で頭に被せられたワイシャツを、

「……ん?んんんん?」
「どうした、後輩」

 ちょっと待て、これ誰のワイシャツだ?
 考える気力もなくてスルーしてたけど、なんで頭にワイシャツを被せられてるんだ?しかも、先輩の汗の匂いがするワイシャツ……?

「そうそう、これは今しがた体験してる知見なんだが」
「え、はい」
「この階にはそうそう誰も来ないとはいえ、扉を開け放ったままの状態で上半身裸になるというのはかなり興奮するな」
「……………………え?」

 なにもかも理解が追いつかなくて、とりあえずむき出しの背中に押し付けられてるひんやりぷにぷにした重みに感覚を集中させることにした。





「百万円あったらトークをしよう」
「……暇だし、いいですけど」

 夕方にもなって、少しずつ気温が下がってくる時間帯。それでも暑いので、氷水をシンクの中に満たしてその中に足を突っ込み、ひんやり涼んでいた。
 今日は暑いので部活なし。この涼み方は顧問の先生に見つかったら反省文書かされるかも、と先輩はさっき笑ってた。

「貯金はダメだぞ。ぱっと百万円渡されて使い切るつもりで話さないとつまらないからな」
「えー」
「堅実なのはいいことだが、遊ぶのだって悪くないさ。いいことも悪いことも、ほどほどにするのが一番いい」

 隣に座っている先輩はそう言って、蹄でこっちの足の甲に氷を押し付けてくる。

「……この足湯的なやつ、絶対健康に悪いですよね」
「それも同じ。健康に良いことも健康に悪いこともしてこそ、人生の充実度が満たされていくものなんだ。ふふ」
「今日は調子いいですね、先輩」
「そうだろう」

 話を戻すが、と言って先輩は肩を寄せてきた。

「後輩は百万円あったらなにがしたい」
「……すごい高いレストランとか料亭とかに行ってみたいですね。バンバン高いもの頼んでみたい」
「はは、それはいいな。降って湧いた金で高級店巡りか。夢のある話だ」
「カニとか寿司とか焼き肉とか、フランス料理もいいですね」
「回らない寿司屋は一度行ってみたいな。目の前で握ってくれるというのがなかなかワクワクする」

 我ながら食い意地張った百万円の使い方だな、と思ったのに先輩からは良い反応を貰えた。

「先輩はどうなんですか」
「よくぞ聞いてくれた。後輩と似たようなものなんだが、私はワインを買い漁りたい」
「……ワインって物によっては相当高いんじゃありません?」
「ボトル一つ百万以上するものもある」
「百万トーク終わりじゃないですか」
「まあ、そこまで貴重なものをわざわざ買わなくてもいい。元よりそういったものは金だけあっても買えないものなんだ」

 まあそうか。そんなに高いってことは売る相手も選ぶだろうし。

「一般に流通してる一本数万程度のものであれば、百万もあればいくらでも買える。そういう大人買いをしてみたい」
「あー。ここからここまで全部買う、って感じのやつですかね」
「それだ。言ってみたいな、このボトルからそっちのやつまで全部くださいって。すごい快感じゃないか」
「いいですね」

 さっきの良い反応、似たようなものだったからか。自分もやってみたい。

「ちょっとした夢なんだよ、大人買い。そうして買い漁ったものを自分のワインセラーに収めて、少しずつ飲んで崩していってみたい」
「先輩だったら百日あれば全部飲み干しそうですね」
「ふふ、私の酒豪っぷりも困ったものだな」

 ちゃぷ、とシンクから足を上げて伸ばす。冷やしすぎてもいけない、というのは実体験から得た知識だ。昼までそうなってたし。

「しかし、これじゃあ二人ともすぐに使い切ってしまうな。後輩は他になにかしてみたいことないか」
「うーん……高級旅館巡りとか」
「巡ってばっかじゃないか」
「いいじゃないですか、お金に余裕ないと出来なさそうなんですから」

 というか、百万って多いようで案外少ないから突き抜けたこともできなくて困る。

「じゃあ、こうしよう。二人で二百万。用途は二人一緒に楽しめるもの限定。どうだ」
「それ、けっこう面白いかもですね。とりあえず高級レストランか高級旅館巡りで」
「……後輩の願望の幅は狭すぎる」

 両方二人一緒に楽しめるのに。つま先で氷を摘んで水面から引き上げて、ぽちゃんと落とす。

「二百万もあれば、二人で海外旅行も楽々だろう。いろいろ楽しめるぞ」
「どこか行ってみたいところあるんですか?」
「そうだな。ヨーロッパの高級ホテルでブルジョワ気分を味わったり、いい船のクルーズで世界を巡ったりなんてどうだ」
「クルーズか。そういうのもアリですね」
「だろう」

 横目で時計を見ると、もう六時だった。まだ日没すらしてないのに。

「……なあ、後輩」
「ん、なんですか」

 さっきまでと少しトーンが変わって声をかけてきたので、先輩の方を見る。

「これは笑わないでくれると助かるんだが」
「……大丈夫です。俺は真面目だって親しい年上の女性から判子を押されてますからね」
「ふふ、その婦人とは気が合いそうだな。……なあ」

 彼女は俺の肩に頭を預けて、上目にこちらを覗いてきた。

「もしも二百万あったら、なかなかいいものができそうじゃないか。……着てみたいんだよ、ウェディングドレス」
「……そうですね」

 今日の夕焼けはやけに赤くて、傾いた日差しに照らされた先輩の顔は真っ赤だった。きっと、俺の顔も。
16/09/30 19:47更新 / 鍵山白煙
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