連載小説
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調和
時刻は日付が変わり少し過ぎた頃。
照明の落とされたその部屋には、布団の上に一人の男が寝転がり薄いブランケットに包まっていた。一見眠っているように見受けられるが時折身体をモゾモゾと動かし、どうにも寝付けない様子である。八月も過ぎたとはいえまだまだ蒸し暑く、陽が落ちても気温が下がらずに熱帯夜となる日も多いがその部屋にはクーラーも扇風機も完備されているので蒸し暑い夜が彼の眠れない原因というわけではなかった。
突如、懸命に眠りに就こうとしていた彼が耳を自らの手で思いきり叩きつける。そのまま彼は目を見開いてしばらくした後、ついには眠ることを諦め灯りを付けて上体を起こしてしまった。心底恨めしそうな眼差しで周囲を見渡し一つため息をつくと、立ち上がって部屋から出ていってしまう。

照明をつけたことにより彼の部屋の内装が露になる。部屋の中心に敷かれた布団、たくさんの本が並べられた本棚、服が収納されているであろう箪笥等が目につくがその中でも勉強机に置かれた教科書やプリントなどが入った青っぽいスクールバッグ、そして壁に据え付けられたハンガーラックに上着等と一緒に吊り下げられている胸ポケットに小さな紋章の刺繍が縫い付けられた半袖のカッターシャツと夏用の薄い生地のスラックスが、先程までこの部屋で横たわっていた彼が高校生であろうことを示している。

そしてその部屋でもう一つ目につくもの。
勉強机に置かれた虫除けスプレー、カーテンレールに掛けられた防虫グッズ。そして枕元には電源式の蚊取り線香と虫刺され用のかゆみ止め。

そう。この部屋の主、菊田ユウが寝付けない原因はずばり『蚊の羽音』であった。


◇◇◇


夏期休暇も終わり二学期が始まると、文化祭に体育祭など健全な高校生としては浮き足立たずにはいられない行事が目白押しである。皆が学生の本分である勉学のことなど忘れて夏休み中から続けているであろう模擬店やステージでの出し物の準備に没頭する中、その裏では必要とはいえやはりどうしても地味と言わざるを得ない作業をしなければならない者もいるのだった。


「じゃあ、ここにあるコレ、全部よろしく。先生は自分のクラスの様子見ないといけないから、すぐに教室戻るけど、まぁ今日中にソレ全部やらなきゃいけないわけじゃないから焦らずやってよ」


「……うっす」


「でもサボっちゃダメだからね。じゃっ」


そう言い残しその教師は部屋から出ていった。教師が『コレ』と『ソレ』としか言い表さなかったソレは、山積みの折り目がついたA4の大きさの紙。そこには文化祭でのステージ公演のスケジュールやその紹介、校内でオープンしている模擬店や文集の販売頒布、文化系の部活の作品展示等を行っている教室の位置が細かく記された校内地図が掲載されている。要は文化祭のパンフレットである。
この学校は約四十人のクラスが七つ、それが三学年ある。単純計算で全校生徒八四〇人分に加え教職員の分と予備、そして事前に他の学校や公共施設に頒布する分とこの学校の文化祭最終日の三日目が土曜日と重なり保護者や近隣の住民などが多数訪れることが予想されている来校者分を考えるとここに置いてある紙束、いや紙山は全部パンフレットにすると一五〇〇部くらいはあるだろうか。もっとあるかもしれない。
量はたしかにそこそこ多いがそれは問題ではない。教師が先程『今日中にソレ全部やらなきゃいけないわけじゃない』と言ったように文化祭まではまだ多少時間はある。かといってウカウカしているような時間が残されているわけでもないのだが、いざとなればユウも所属する生徒会執行部と本来この仕事をするはずである文化祭実行委員会、立場上イヤでも手伝わなければならないであろう可哀想な教職員達、そして必要であれば集められる美しきボランティア精神溢れる高潔な生徒達の人海戦術により意地でもこの仕事は完遂されるだろう。


「……これ、全部私達でやるんですか」


「……全部やらなくてもいいって先生言ってたでしょ。できるだけやろ」


「二人だけでどーせいっちゅうんですか。生徒会の圧倒的権力で暇な生徒集めてきてくださいよ」


「アニメの観過ぎかライトノベルの読みすぎだ。この学校の生徒会にそんな権力はないの知ってるだろ」


「ジョークですよジョーク……はぁ」


問題は今日、この作業のため教室に集まったのがユウを含めて二人しかいないということであった。

艶のある黒髪を赤いビー玉のような飾りがついたアクセサリで左右の側頭部に束ねた可愛らしい髪形を上下に揺らしてぶーぶーと文句を言う彼女の名は鹿島チカ。ユウの一つ年下の後輩であり、彼と同じく生徒会執行部に所属している。

今日この二人がこの空き教室に集められたのは見ての通りパンフレットの作成のためである。もっとも来る前は二人とは聞かされていなかったのだが。


「……ブンジツの連中はどこいったんですか。一緒にやる予定だったんでしょう」


チカが見るからに不機嫌ですよと表明しているかのように口を尖らせて言う。
ブンジツ、文化祭実行委員会の略称である。今年の文化祭をどのように進めるかを決めるために毎年各クラスから代表者を集めて構成される機関であるが、年中学校の様々な仕事を請け負う生徒会としては様々な申請書や借用書飛び交うその議論の動向を把握しないわけにはいかず、春頃から度々開催される会議に生徒会執行部からユウとチカの二人が状況把握兼生徒会や教職員とのパイプ役として派遣されているのであった。一応二つは別の機関であるが、二人は会議のたびに顔を合わせて気心も知れていった実行委員達の仕事を手伝ったりすることもあり、夏休みに入ってからは特に忙しくなっていく実行委員達のどうしても手の回らない雑務を手伝うのが常になっていて二人は自分達が生徒会か実行委員会かどちらの組織に所属しているのかわからなくなるような有様であった。
今日も実行委員の広報係にパンフレットの作成を手伝ってくれ、重ねてホチキスで綴じるだけだからと頼まれたので引き受けた二人だったがその広報係の姿はこの場にはない。ユウはここへ来る途中、忙しなく玄関の方向へ駆けていく広報係の面々とすれ違ったのでなんとなくの事情はその時に聞いていたのだった。


「来る途中にすれ違ったから少し話したんだけど、なんか色々トラブルが重なってどうしても今日は遅くなるらしいから二人で少しでも進めといてって。トラブルについては詳しく聞けなかったけど、『鹿島さんにゴメンって言っといて』とは言われた」


実行委員は各クラスから一人が立候補し集う組織であるがイベントの運営の経験など一年生であれば当然初めての者が大半であり、多少は慣れた三年生であってもトラブルが重なればてんてこ舞いとなってしまうことだろう。そしてこういった行事においてトラブルは付き物であるとユウは理解していた。


「……はぁ、切り替えよ。どう取り掛かります?これ?」


チカが諦めたようにため息をつき、目の前の紙の山を眺める。
問題点は指摘するがどうしようもないことにはさほど文句を言わず、現状でやるべきことをどうやるか切り替えられる性格と思考を持っている彼女は文化祭でのステージの出し物の順番、模擬店の出店位置、予算の不足など様々な問題で議論が行き詰まった時、それを押し進めるのに大いに活躍してくれた。
口はあまりよくないので誤解されることもあるが実行委員から頼まれた事を「ホントはこれアンタ達の仕事なのよ、どうしても手が回らないなら手伝うけどこれが当たり前になっちゃダメだからね、わかってんの」と言いつつユウと共に請け負ってきちんとやり遂げる辺り、根は優しい性格なのでチカと親しい者ほど彼女への人望は厚い。
ユウもそんな彼女に信頼を置く人物の一人である。


「とりあえず見本一個作ろうか」


「そうですね……えーとこれが表紙でこれが一枚目……あ、上下逆か、これ」


他の頁より少し厚い表紙の紙についた折り目の上に一頁目と二頁目、最後の頁とそのひとつ前の頁が印刷された紙を乗せ、同じ形式で印刷されている別の頁が印刷された紙をその上にどんどん乗せていく。そして最後の紙を乗せて位置を揃え、真ん中の折り目の部分を二ヶ所、ホチキスでばちんと綴じて見事パンフレットが一部完成した。
折り目は実行委員達が付けたのか、ところどころ雑な物もあるがこの程度なら問題はないだろう。本当に製本できない物があるなら弾けばいい話だ。


「と、こんなもんかな」


「うん、頁の抜けも間違いもないです。並んでる順番に重ねて綴じればいいみたいですね」


「さて、これを二人でどうやるかなぁ」


「広報の子達がいれば流れ作業でできるんですけど……センパイ、ひたすら紙重ねるのとひたすらパチパチするの、どっちが楽だと思います?」


「うーん……パチパチかな?座ってるだけでいいし」


「じゃあ、重ねるのはセンパイに任せて私今からパチパチマシーンになりまーす、ぱちぱち」


そう言ってホチキスを蟹のように構えて椅子に座るチカに思わず苦笑いしてしまう。
彼女はこういう性格である。後輩でありながら不必要な遠慮を一切しないその振る舞いは悪く言ってしまえば生意気であるがどうにも憎めない愛嬌があり、こういった作業を二人で分担することになった場合ユウはいつも彼女に楽と思える方の作業を彼女に譲ってしまうのだった。


「マシーンになるのはいいけどちゃんとできてるかどうか最終チェックはしてくれよ」


「えぇー、センパイが重ねるの間違えなきゃいいんじゃないですか」


「それは気を付けるが、印刷ミスとかしてるページもあるかもしれないだろ。オレも注意はするけど最後に見るのは鹿島なんだから」


「……もしかしてパチパチマシーンよりペラペラマシーンの方が楽?センパイ、転属願出していいですか」


「いいだろ、アットホームな職場でパチパチするだけの簡単なお仕事だぞ。はい、第一弾」


ユウは彼女の目の前に製本間近の紙束を置き、再びその束を作りに山の方へ向かう。
折り目のついた紙を淡々と重ねていく彼の背後から「むぅう」という愛らしい唸り声が聞こえて来るがそれを最後に彼女は声を発さなくなり、その教室には紙の擦れる音と男子生徒の足音、ホチキスで紙を綴じる音がしばらくの間淡々と響く。作業は順調に進んでいるかのように思われた。


「センパイ、また抜けてますよ。ここ十分で三回目です」


「うあ、マジか……すまん」


開始から数十分たった頃、チカが紙束片手に呆れた声を出す。
やる前はぶつくさ言っていた彼女もいざやるとなったらきちんとミスがないかのチェックをして製本も丁寧に行って見本よりも綺麗な物を仕上げるなど集中して作業に没頭していた。
問題はユウの方だ。彼も最初の三十分ほどはページ抜けや向きの間違いがないよう気を付けて尚且つチカの手を止めさせないよう迅速に作業をしていた。しかし今の彼は先程彼女が言ったように十分間で三回もミスを犯すほど集中力が途切れてしまっていたのだった。
その理由は明確である。


「……センパイ、大丈夫ですか?なんかボーッとしてません?」


「いや……その……ちょっと、寝不足で。急に眠気が来て」


「はぁー、もーしっかりしてくださいよ。夜更かししてゲームでもやってたんですか」


「ゲームではないんだけど……」


ユウの寝不足の原因はもちろん『蚊』である。一度音が聞こえて存在を認識してしまうと色々な音がその甲高い羽音に聞こえてしまい眠ることに集中できず、やっと落ち着いて意識が落ちかけた頃に再び耳元を襲うその音に昨晩はずいぶん悩まされ、結局ちゃんと眠れたのは空が白み始めた時間だった。もちろん首筋や手首などあちこち刺されたのは言うまでもない。
ここのところ毎日そんな状態なので彼も色々と虫除け対策を講じるのだが努力もむなしく、部屋の灯りを落とし床に就くとまた例の音に悩まされるのであった。


「蚊がいるんだよ、部屋に。寝る時に耳元に来るからなかなか眠れないんだ。蚊取り線香なんかも焚いてるんだけど……どうも効果が薄いんだよ」


「……へぇ、大変ですねぇ」


こんな理由で簡単な作業も滞らせてしまうほどの寝不足に陥ってしまったことにチカは案外殊勝な様子を見せた。
てっきり小言のひとつふたつくらいは投げつけられるだろうと覚悟していたユウは少し面食らう。彼女もあの羽音に悩まされているのだろうか。


「ホント大変だよ。ここ一ヶ月くらいずっといるのに姿は見えなくてさ。血を吸うのも吸われた箇所が痒くなるのも百歩譲って許せるけど、あの羽音だけはどうにかしてほしい」


「まぁ、人間も完全に足音無くすのはできませんからね。しゃーないでしょ」


「……え、なにお前、蚊サイドの人間なの?」


「……どうにもならないことを恨んでもしょうがないってことですよ。それよりポジティブに考えましょう」


チカが何かを思い付いたようにニヤリと笑う。長い付き合いではないがこういう時の彼女は大抵しょうもないことを考えていることをユウは経験で知っていた。


「……というと?」


「血を吸う蚊ってみんなメスらしいですよ。一ヶ月前からセンパイの部屋に一緒に住んでる女の子だと思えば……ほらひと夏のあばんちゅーるに」


「ならねーよ。せめて人型にしてくれ」


「ま、そうですよね。っとセンパイ、作業続行できそうです?なんなら分担代わりましょうか?」


チカが顔を覗きこむ。こういう気遣いはやはりソツがないと感心したユウは遠慮なく彼女の言葉に甘えることにした。


「代わってくれるなら、そうさせてもらおうかな」


「では、センパイに二代目パチパチマシーンの座を進呈します。ちゃーん、ちゃーか、ちゃーんちゃーん、ちゃかちゃか、ちゃんちゃんちゃーん」


「承ります」


力の抜けるファンファーレと共にユウの手にホチキスが手渡され、チカは紙束を作る作業に移る。
頁の抜けやミスがないかをパラパラと確認して綴じる作業をしながら教室を動き回り手際よく紙束を量産していくチカをぼんやりと眺めていると、脳裏についこの前終わりを告げた夏季休暇中の出来事が浮かび上がってきた。

夏休みも行われる実行委員会の会議に二人も当然招集はかかるので結果として夏期休暇中は彼女と会って話す機会が増えた。
彼女の内面を知らないの者の多くがそう思うように、それまでチカのことを少し無愛想で口の悪い子だと思っていたユウはこの一月程で彼女への印象がずいぶん変わっていた。以前の会議でも的確な発言で存在感を見せることはあったので悪い印象を持っていたわけではなかったのだが茹だるような暑さの中、校門前で鉢合わせて一緒に下駄箱まで向かったり、会議の休憩時間に自販機で間違えて買ったという紙パックのジュースを貰ったり、その帰り道にコンビニでジュースの二倍程の値段の棒アイスをねだられ美味しそうにそれを頬張る彼女の横顔を眺めたりしているうちに、同じ役割を任されているだけのぶっきらぼうな後輩の一人ではなく、少し我が儘で優しい一面もある表情豊かでしっかり者の鹿島チカという一人の女性に彼の認識は塗り替えられていったのだった。
そんなことを繰り返し、二人はプライベートで会うことはなくとも学校に用事がある時はどこかで待ち合わせをして向かい、帰りはカフェやコンビニで他愛もない会話に華を咲かせる間柄となった。会うたびに今まで見せなかった一面を見せるチカに自分がだんだんと惹かれつつあることにユウが気がつくのも時間の問題ではあったが、彼女との関係に色恋沙汰の気配はほとんど感じず、また彼もつかず離れずの今の距離感が心地よいと思っていた。

でも、もし、何かの拍子で彼女との仲が進展するようなことがあったなら、その時は──。



ばつん。



ユウは自分の身体の中からそんな音が聞こえた気がした。そう感じた直後、左手に鋭い激痛が走り思わず椅子を蹴飛ばし立ち上がる。
寝不足の頭で考え事しながら作業をして手元が疎かになっていた彼は、ちょうど挟まる位置にあった自分の薬指ごとホチキスで綴じてしまっていたのである。


「っっっっッッッてぇ!!」


「!?どうしたんですか!?」


反射的にあげてしまった大声にチカがすかさず反応して近寄ってきた。その間にも指先から血は溢れ、パンフレットになるはずだった物を点々と赤く染めている。


「ちょっと、考え事してたらさ、この通り、いたたたた、よし、針とれた」


「センパ……せ、せんぱい、だめです、血が」


「大丈夫、多少深いけどあんまり大きい傷じゃないから……ごめん、絆創膏かティッシュとか持ってる?」


「ち、ち……血……が……」


「もうこのパンフレットはダメだな……鹿島?どうした?」


様子がおかしい。
チカは眼を見開き、その視線は赤い液体が滴るユウの指先に釘付けになってしまっている。もしかして血を見るのがダメなタイプかと思ったが顔色が悪くなっている様子はない。

チカは指に赤色の滴を作るユウの手を優しく握って自らの眼前に掲げた。その顔は蒼白というよりもむしろ紅潮しており呼吸も徐々に荒くなってきている。


「あ……は、ぁ……ち、だ……せんぱいの、血……」


「お、おい、大丈夫か」


この約一月、それまで知らなかった彼女の様々な表情を見てきたが、あまりにもいつもと様子が違うチカに自分が怪我をしていることも忘れて憂慮の言葉をかけるユウだが、その台詞が彼女に届いている様子はない。

突然の後輩の変貌に痛みも忘れ唖然としているユウの指先で小さな赤いドームを作っていた液体が表面張力をを失って、重力に従い流れ出し始める。


「ぁ、も、もったいない」


「へ?」


目の前の女性が何を言ったかユウが理解するよりも前に、チカがその暗赤色の液体が流れ出る指先を口に含んだ。


「あむっ、んっ……ん……」


「う、お、おい、なにして、ぅ、あ……!」


ユウの制止の言葉は最後まで紡がれることはなかった。
柔らかな唇と口内で指先を甘く噛む固い質感、そして彼の指を味わうようにまとわりつく生温かいぬるぬるとした感触が指、手の平、腕を経由して全身に立っているのもやっとだと思うほどの快感を与える。そこにもはや痛みはなく、普段は飄々とした振る舞いの彼女が瞳を潤ませ頬を赤らめながら、いつかアイスクリームを奢った時のように美味しそうに自分の指先を舐めしゃぶる倒錯的な光景にまともな言葉を発することも抵抗することもできずにただ急激に上がっていく体温と心拍数を感じながら、腰が抜けそうになるほどの未知の刺激に翻弄され身を震わせることしか彼にはできなかった。


「んむ……じゅ、る……む……」


「や、やめ……すう、なって……お、ぃ、あ……」


「ちゅ、む……んく……はむ……」


「く……ぁ……う、はぁ、は、ぅ……」


全身の力が抜けていく、抜けていった力が全て目の前で薄く微笑む彼女に吸われている。
そんな錯覚を覚えたユウは立っていることも維持出来ずに元々座っていた椅子に腰を落としてしまう。彼がそんな状態になってもチカは指から口を離さず、座っている彼の腕の位置に合わせて腰を屈め、ついには跪く体勢になった。
朦朧とする意識を働かせ、チカを見下ろすとちょうど上目遣いに彼を見上げる彼女の視線とかち合う。
眼は口ほどに物を言うという。彼の指に吸いつく水音と喉を鳴らす音しか発さない彼女のその潤んだ眼差しからは隠しようもない熱を帯びた嗜虐的な視線が放たれてその先にある彼を射抜いた。


「ん……む……んぅ……」


「は、ぁ……う、くぅ……」


「む……ちゅ、む……ぷは、はぁ、はぁ、おいし……だめだよ、こんなの……」


「う、ぁ……く、っはぁ、はぁ、は、お、お前、なにやって……」


ようやくチカの唇が別れを惜しむようにちゅぱ、と音をたてユウの指から離れる。彼女の口の中ですっかりふやかされた指先に痛みは既になく、残るのは湯船に浸かりながら眠ってしまった時のような甘い痺れと熱と浮遊感、そしてべっとりと付いた唾液が外気に晒され徐々に冷えていく感覚だけだった。


「はぁ、はぁ……ふぅ、血、止まりましたか?センパイ」


「へ……?」


チカから目線を外し湿る指先を見ると先程まで滴り落ちるほど流れていた血は一切なく二ヶ所の小さな傷痕が紅い点を残すだけだった。
再び彼女を見ると先程までの異常な光景が別人か自分の幻覚だったのではないかと思うほど、いつも通りの表情でユウを眺めている。


「止まってる……と思う、たぶん。痛みもない」


「なら良かったです。絆創膏ありますけど貼っときます?」


「いや、お前、さっきの一体なん」


そこまで言いかけたところでユウの耳がある音を捕らえた。ここ最近、彼を悩ませる甲高い音がどこからか聞こえた気がして耳を澄ますもグラウンドから聞こえる生徒達の声、近くの道路を通る車の音、どこかで鳴いている蝉の声、近くの教室で練習している吹奏楽部の金管楽器の音、少し早鐘を打つ自分の鼓動など普段は気にも留めないような音の奔流をはっきりと認識してしまい、聞こえている気がする目的の音の位置を掴むことができない。


「センパイ?」


チカの声がはっきりと耳に届き、周囲の環境音に向かっていた意識が彼女に向けられる。ユウはそこで彼女との会話の最中だったことを思い出す。


「大丈夫ですか?ボーッとしてますけど貧血とかじゃないですよね」


「あ、いや、すまん、大丈夫。なんか蚊がいた気がしたんだけど気のせいだったみたいだ。えーと、なんの話だっけ」


「だから絆創膏ですって。持ってるんですけど要ります?ていうかもう貼っちゃいますね」


チカは一方的にそう言うと再びユウの手を取り、どこから取り出したのかピンク地に黒いハートマークの模様が付いたかわいらしい絆創膏のガーゼ部分を患部に押し当て、手際良く粘着部分の紙を剥がして指先に巻き付けた。
彼女の手が傷口周辺を撫でる度に生じる、くすぐったいような心地よさに彼は思わず小さく身動ぎしてしまう。
ほんの少し前にそれまで見たこともないような興奮した表情で異様な行動を取っていた彼女に対する疑念は既に無く、自分の不注意にも関わらず作業の手を止めて甲斐甲斐しく傷の手当てをしてくれる後輩の優しさに彼は感謝するばかりなのであった。


「よし、おわり」


「ありがと……でもこれ、派手すぎない?」


「えー、かわいいじゃないですか。文句言うなら返してください」


「返されても困るだろ……さ、じゃあ続きしようか。手止めさせてすまん」


「いいんですよ、どうせ二人じゃ終わらないし」


チカのその言葉を最後に、その教室には再び紙の擦れる音と女子生徒の足音、ホチキスで紙を綴じる音が淡々と響く。二人は時々他愛もない会話を交わしながら、夕暮れが迫り無事にトラブルを解決したらしい広報係の面々が戻ってくるまでその作業を続けたのだった。

21/10/10 17:38更新 / マルタンヤンマ
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■作者メッセージ
実体験です(蚊のせいで眠れなくなる描写)
あと、突っ込まれそうなんでここに書いておきますがタイトルはスペルミスではありません

えっちなのは次からです

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