連載小説
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第一話: 登場! 腹ペコ中華娘!
 霧の大陸の沿岸部、貿易で栄えるとある都市。繁華街から離れた、寂れた住宅街の一角に、小さな料理店があった。
 明け方、まだ夜霧の残滓が残る頃。店の前を掃除しようと、一人の少年が箒片手に店から出てくる。
「ん? なんだありゃ?」
 薄暗さに霧が重なり良く見えないが、店の前に麻袋のようなものが落ちている。
 だが、近づいてみれば、なんとそれは人であった。
「ええ!? ちょ、ちょっと! 大丈夫かアンタ!?」
 少年が慌てて肩をゆすると、倒れた人物がゆっくりと顔を起こす。女性だ。まだ少女といっていい、幼さの残る顔立ち。結って短く揃えた赤髪と、そこから覗く真ん丸の耳が、彼女が魔物であることを証明していた。
「お、お腹が……」
「腹が!? どうした、痛いのか!?」
 その時、地鳴りのような低い音が大気を震わせた。
「お腹が減って……力が出ない……」
 少女は、そのまま気を失った。
 轟音のような彼女の腹の虫だけが、静かな路地で反響し続けていた。

 ☆

「いやー、ありがとうございます! 言葉通り、生き返りました!!」
「いいんだよ、遠慮しないで! どんどんお食べ!」
「ではお言葉に甘えて! この御恩は忘れません!」
 赤髪の少女は、食堂のテーブルに並べられた大皿の料理を、次々と流し込むように平らげていく。その傍らで、質素な服装の優しそうな老婆が、にこにことほほ笑んでいる。
「まったく、店の前で倒れてた時はどうしたのかと思ったよ」
 厨房から、先ほどの少年が新しい料理を手に現れた。
「もう大丈夫かい?」
「はい、おかげさまで! そしてそれは麻婆豆腐ですね! 大好物です! いただきます!」
 赤髪の少女は少年の手から皿を奪い取る様に受け取ると、それを酒盃でも煽るかのように飲み干していく。
「それにしても、よく食べるなぁ」
 少年が、目を丸くして言い洩らす。
 ぴたり、と少女の食べ物を掻き込む手が止まった。顔を赤くして、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「す、すみません。どうもよくお腹の減る質でして……」
 老婆が、少年の肩をひっぱたいた。
「リュウ! アンタ、女の子になんてこと言うんだい!」
「ご、ごめん。でも、それだけ美味そうに食べてくれると、こっちも作り甲斐があるってもんだよ」
 赤髪の少女が目を丸くして、リュウと呼ばれた少年の顔を見た。
「えっ! この料理、あなたが作っているんですか!? その若さで、素晴らしい腕です! こんなにおいしい料理は食べたことがない! お父様やお母様は、さぞ鼻が高いでしょう!」
 すっ、とリュウの顔に影が差す。
「いや、父さんも母さんもいないよ。二人とも、俺が幼い頃に交通事故で死んじまった。今は俺が店長で、婆さんと二人でこの店を切り盛りしてるんだ」
「え、あ、そ、そうだったんですか……。知らなかったとはいえ、無神経なことを聞いてしまい、すみません」
 赤髪の少女は、自らの失言に言い淀む。少女の食べる手が止まったことで、食堂に気まずい沈黙が訪れる。
「ところでお嬢ちゃん、名前はなんていうんだい?」
 沈黙を破ったのは老婆の一言だった。
 少女は、まさに天の助けとばかりに、問いに答える。
「はい! 申し遅れました、私は大竹寺より参りました、火鼠のリンと申します!」
 少女が掌と拳を合わせて礼をすると、その手首からボウッと小さな炎があがった。
「「大竹寺!!」」
 リュウと老婆が、声を合わせて身を乗り出す。
「ていうことは、まさかレンシュンマオ老師の知り合いかい!? あの、有名な棍使いの!」
「実は近々、老師がうちに来てくれることになってるんだ! あんた、何か聞いてないか!?」
 突然人が変わったようにがっついてくる二人に驚きながら、リンが少し引き気味に言葉を返す。
「は、はい。ということは、やはりこちらの食堂が『火龍軒』で宜しかったですよね? 実は師匠はこちらに向かう直前にぎっくり腰になってしまいまして、私はそのことをお伝えするために伺ったんです」
 その答えを聞くや否や、リュウと老婆は顔を真っ青にして椅子の上に崩れ落ちた。
「そ、そんな……」
「終わりだよ、何もかも……」
 まさに絶望を絵にかいたような様子の二人に戸惑いつつも、リンは言葉を続ける。
「えーと……。師匠から、可能な限りお二人のお手伝いをするようにと言い含められています! 何をするかまでは聞いていませんが、言って頂ければ何でもしますよ! その、料理はできませんが……皿洗いとか、お給士とか!」
 出来る限り明るい言葉で言ったつもりだったが、二人は俯いたまま顔を上げようともしない。その異様な様子に、リンも何か尋常ではない事態であることだけは理解した。
「あ、あのー。いったい何が……」
 その時、勢いよく店のドアが開いた。
「おうおうおう! 昼間っからしみったれてんなァ、この店はヨウ!」
「はっはっはァ! 客の一人もいねぇのに、店って呼んでいいのかね? さっさとたたんじまった方がいいんじゃないのかイィ!?」
 寂れた住宅街に似合わない、派手な格好をした魔物達がずかずかと集団で店に押し入ってくる。種族もゴブリン、オーガ、デビルといった具合で、見るからに堅気ではない。
 リュウが跳ねるように立ち上がり、腰に差したお玉を正眼に構える。
「きやがったな! タチの悪い地上げ屋どもめ!」
「ああん!? なんだテメーそのお玉は! この店は客にお玉を向けるのかァ!?」
「ああ、やめとくれ、リュウ。お前が怪我でもしようもんなら、儂は死んでも死に切れんよ!」
 老婆に制止され、睨みあうリュウとオーガ。
 すると、突然オーガ達の背後から、「お止めなさァイ!」と野太くも艶っぽい声が上がった。悪人面の人垣が割れ、その奥から筋骨隆々とした大男が現れる。大男は手に持った一輪の薔薇を愛でるように指で弄りながら、ゆっくりと前に進み出る。
「ごめんなさいネェ。うちの子達、血の気が多くて。でも、悪気はないのヨォ?」
 大男はその体躯に対してあまりにも小さい椅子に座り込み、優雅な動きで筋肉質な足を組む。
「ただ、お仕事熱心なダ・ケ♥ でも今日はお客としてきたの。お食事中のところ悪いけど、サ、おもてなししてくれないカシラ?」
「貴様らよくもぬけぬけと……! リン、君は早く逃げて……」
 リュウは無関係のリンだけでも逃がそうと振り返るも、既にそこにリンの姿はない。
「それにしてもアナタ達、二人で随分食べるのネェ。もしかして、最後の晩餐のつもりだったのカシラ? なーんてネ、オーホッホッホ!」
 大男の高笑いに合わせるように、ゲラゲラと下品な笑いが上がる。
 大男はその屈強な腕をドンッとテーブルに振り降し、いやらしい笑みを浮かべた。
「さ、早くオーダーをとって? どうせ客は来ないんだから、ゆっくり食事させていただくワ。アンタ達が、この店を明け渡す気になるまでね!」
 大男は、懐から取り出した煙草に火をつけ、にんまりと口角を上げた。
「あのぉ……」
「あぁん!?」
 突然、背後から場違いに控えめな声をかけられ、大男が振り返る。
「あ!」リュウが、驚きの声を上げた。
 そこには、お盆を胸に抱えたリンが、所在なさげに立っていた。彼女はどこから引っ張り出してきたのか、かつての店の制服である赤いチャイナドレスに着替えていた。
「その、お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」
 精一杯の笑みを浮かべるリンを、大男は怪訝そうな目でジロジロと観察し、リュウの方に向き直った。
「何? アナタ達バイト雇ったの? そんな余裕があったなんて、やり方がちょっと甘かったカシラ……」
「あ、あの、お客様? ご注文は……」
「煩いわね! 考え中よ! とりあえず、灰皿持ってきなさい!」
 リンは、突然大声を上げた客(リンからはそう見えた)に驚いて飛び上り、涙目でリュウの方を見る。
「店長ぉ、灰皿は……」
「な、無いよ。うち禁煙だし……」
 予想だにしない事態に混乱し、リュウも馬鹿正直に答えてしまう。
「お客様、当店は禁煙ですので、お煙草の方はお控えに……」
「ええい! 煩いわね! アンタは引っ込んでなさい!」
 状況を理解しないリンの態度に腹を立てた大男は、その丸太のような腕を振り上げ、リンの華奢な体を突き飛ばす。
「キャッ」
 リンは小さく悲鳴を上げて背後によろめく。すると、後ろに控えていた大男の部下たちが、両側から彼女の腕を掴みその動きを封じた。
「お、お客様?」
 理解不能な状況に、リンが混乱の声を上げる。
「そんなに煙草を止めさせたいなら……」
 大男が怒気を纏い、ゆらりと席を立つ。煙草を手に持ち替え、頭上に向けて勢いよく煙を吐く。
「貴様ら、その子に何を!?」
 リュウが止めさせようと踏み出すが、いつの間にか背後に回っていた大男の取り巻きに羽交い締めにされてしまう。
 リンはますます混乱した様子で、四方に目を泳がせている。
「リン! 逃げろ! こいつらは、タチの悪い地上げ屋だ!」
 リュウは何とか拘束から逃れようと、もがきながら叫んだ。
 大男がゆっくりとリンに歩み寄りながら、煙草の火を彼女の顔に向けて差し出していく。
「この店を潰そうとしている、悪人なんだー!!」
 リュウの叫びを聞いて、リンの顔から混乱の色が消える。ハッとした表情で、目前の大男の顔を見上げる。その、いやらしく醜く歪んだ顔を。
「そんなに煙草を止めさせたいなら、あんたのその可愛い顔で火を消しなさぁい」

 愉悦を含む声で紡いだ言葉。大男は、煙草の火を赤髪の少女の頬に押し付けた。そして、確かに煙草の火が消える感触があった。だが次の瞬間、大男の視界は暗転し、次に目に移ったものは椅子やテーブル、そして床の上で踊る部下と少女の足だった。右の頬がひどく痛み、強烈な打撃を貰ったことが分かった。ぴかぴかに磨かれた床に映った自分の顔には、焦げたような火傷の跡があった。
「あ、あ、あ……アタシの美しい顔がァー!?」
 絶叫し、跳ねるように身を起こす。
 周囲を見れば、十人近くいた部下たちが次々と赤髪の少女一人に張り倒されていく。皆、何とか少女を捕まえようと躍起になっているが、素早い身のこなしで俊敏に動き回る少女を捉えきれず、逆に返り討ちにあっていく。
「何やってるの! 相手は一人よ、全員で一気に襲い掛かりなさぁい!」
 大男は、地団太を踏み叫ぶように指示を出す。部下たちは目で合図をし、四方から同時に厄介な少女に飛び掛かった。流石の少女も避けきれなかったのか、全員で押しつぶすことに成功する。
「やったわ!」
 大男が、ピョンピョンと跳ねて喜ぶ。
 が、次の瞬間!
 轟音と共に部下たちが四方に吹き飛んだ。
 少女の四肢は気を纏った炎に包まれ、店内にいるだけで確かな熱気がびりびりと肌に伝わってくる。
 少女は、ゆっくりと顔を上げ、凛とした声を放った。
「なるほど、状況は理解しました。これならすぐにでもお役に立てそうです!」

 ものの一分もかからず悪党共を蹴散らしたリンを見て、リュウは呆然と立ちすくんでいた。
「リン……さん?」
「リンで結構ですよ、店長。他に、私に出来ることはありますか?」
 平然と次の指示を待つリンの姿に、リュウはごくりと息をのんだ。華奢な体つきで、自分よりも背が小さい。この体のどこに、これほどのパワーがあるのか。
「店長?」
 リュウが返事をしないことを不信がったらしいリンが、リュウの方に顔を向け再度問いかける。
 と、その時、彼女の背後に巨大な人影がゆらりと現れた。
「危ない!」
 咄嗟に口に出た言葉に反応し、リンが身を翻す。先程までリンがいた場所に巨大な手刀が振り下ろされ、ピカピカの床が音を立てて砕けた。
「アタシの顔に傷をつけたどころか、カワイイ部下たちまで叩きのめすなんて……」
 大男が、先程までの怒気とは種類の違う、具体的にいうならば殺気を纏い、リンに向き直る。
「もう、許さないんだからァ……!」
 大男が、脇を閉め、体勢を低くして、全身を覆う筋肉の鎧に殺気を練り込んでいく。筋肉が膨張し、一回り、二回りと体格が大きくなると同時に、その背から蝙蝠のような翼が飛び出し、頭からは頭皮を突き破り悪魔の角が顕現した。
「どうかしら……これがアタシのホントの姿……! あまりの美しさに声も出ないんじゃなァい……?」
 その呼びかけに、呆けるようにして大男の変身を見ていたリンがはっと我に返った。
「あ、ご、ごめんなさい! ちょっと驚いてしまって……。私、男性の魔物って初めて見ました! てっきり、魔物は女性だけかと思ってました!」
 決定的な何かが、ブツリと切れる音がした。
「ア、ア、ア……」
「あ?」
「アタシはアルプよォ! ちゃんと魔物! 女の子ぉ〜!!」
 凄まじい威力の剛腕が、リン目がけて振り下ろされる。が、リンはそれを跳ねるようにかわし、驚きの声を上げる。
「え、え〜!? か、重ね重ね、ごめんなさい!」

「へへへ、ああなった姐さんに勝てる奴はいねぇよ……」
 二人の戦いを遠巻きに見ていたリュウの足元で、意識を取り戻したらしいゴブリンが呟く様に言った。
「姐さんは、アルプとして覚醒する前はボディビルの世界チャンピオンにも輝いた人だ。しかもジパングで10年修行したカラテマスターときてる。男として、筋肉、戦い、あらゆる美しさを手にした後、女としての美しさも手に入れるため魔物となった、美の体現者だ……。兄さん、あんた、なかなかの色男だから忠告してやる。さっさと逃げな……。如何にあの拳法女が強くても、姐さんにだけは勝てないぜ……」
 それだけ言って、ゴブリンはまた気を失った。
 リュウは、彼女の言葉を確かに聞いてから、もう一度戦いのフィールドに視線を戻した。
(確かに、リンはさっきから防戦一方。一見不利に見える)
(だがしかし、それは同時にあの筋肉ダルマが攻撃を当てられていないということだ。攻撃が能動的な行動であるのに対し、回避は受動的。ならば、真に有利なのは――)
(というかあの人、アルプだったんだ。……何か、新種の魔物かと思ってた)
 リュウは、今日何度目かの息をのんだ。

「くっ、さっきからちょこまかとォ! これでどォ!?」
 アルプの豪腕が唸る。その巨体からは想像も付かないような速さで繰り出された、鋭い手刀。
 右肩から左腰に向けて、低い体勢から薙ぐように放たれたそれは、使い手の恵まれた体格によって線の攻撃から地面に水平な面の攻撃へと昇華される。
 だがしかし、リンは素早く後ろに跳ねてこれを避ける。大振りな手刀が空振りし、アルプに致命的な隙が生まれる……と思われた。
「後ろに跳ねたわね。でも、そこはまだーー」
 手刀を空振ったアルプは、その勢いを利用し体を捻り、一回転して後ろ回し蹴りへと繋げる。
「ーーアタシの間合い!!」
 驚く程の伸びを見せる足刀。如何に身軽な動きを見せるリンとて、空中で大きく体制を変えることは難しい。避けきれず、足刀を掌で受流す。
「それでも尚直撃を食らわないとは、本当に素早しっこいネズミちゃん! でも、体制さえ崩せれば!」
 一瞬の転身。素早く跳ねて、空中にて自由を欠くリンの上をとる。
「死になサァイ! 打打打打打打打ァーッ破ッ破ッ破ァー!!」
 繰り出される貫手! その切っ先は槍の如く! 打ちつけるは雨の如く! 巨体からは想像もできない素早さで、目にも留まらぬ連撃が、リンに向けて繰り出される!
 打撃の衝撃で、先程砕かれた床から砂煙が巻き上がる。
 アルプは、砂埃でリンの小さな体が見えなくなってからも、執拗に打撃を繰り返し、最後に強烈な貫手を一撃お見舞いし、ようやくその鬼手を止めた。
 そして、ゆっくりと上を向き、高らかに勝利宣言をした。
「オーッホッホッホ! どうかしら、アタシの奥義、マッスルスペシャルは! 床と拳に挟まれて、衝撃の逃げ場はない! さぞ苦しかったでしょうねぇ! 感想を聞きたいとこだけど、残念だわぁ……だって、生きてるわけないもの!」
 そして、残忍な笑みと共にリュウと老婆に振り返る。
「サァ、交渉の続きをしましょうか……。これで店の床はメチャクチャ、しかも事故物件となったわァ。早く明け渡しなさァイ。……さもないと、事故件数がもう一件増えることになるわよォ……」
 恐怖の余り放心し、ゆっくりと後ずさるリュウと老婆。アルプが、二人をじりじりと壁際に追い詰めていく……。
「なるほど、マッスルスペシャル……。スペシャルの名に恥じぬ、凄まじい威力の打撃ですね。受け止めるよりは、回避するのが正解の技だと思います……」
 背後から聞こえた幼さの残る声に、アルプがぎょっとして振り返る。
 砂埃が晴れ、華奢な少女が姿を現す。
「バ、バカな……! 何故生きて……?」
「ですが、これ以上床を壊されるわけにもいきませんから……!」
「リ、リン!」
 リュウが、幽霊でも見たかのような、だがそれでいて希望のこもった声を上げる。
 リンは、闘志に燃える目でアルプを睨み付ける。彼女の立っている床には、傷一つついていない。
「な、何故生きているゥ!? 確かに手ごたえはあった! マッスルスペシャルは、戦車の装甲すらへこませる大技! 受け止めきれるはずが……いや、よしんば受け止めたとして、床まで無傷なはずがない! 貴様ッ、いったいどんなトリックを使ったァ!?」
 アルプは威圧するように吠えるが、額からは脂汗が滝の様に溢れ出し、焦りを隠しきれていない。
 リンは、臆することなくハキハキと答えた。
「簡単なことです。受け止めきれないならば、受流せばいい。柔よく剛を制した、ただそれだけのことです」
「ば、バカな! 受流すと言っても、いったいどこへ!? 床には、傷一つないのに!」
 ここで、アルプは初めて自分の体の異変に気が付いた。暴走していたアドレナリンが疑問符によって沈静化され、身体本来の感覚が戻ってくる。
「ま、まさかアナタ、力を受け流した先は……」
 脳裏に浮かんだ恐怖が、激痛を伴い現実として襲い掛かる。
「ぐ、ぐわあああああぁぁぁぁぁ!!?? イタイ、イタァイ!! 手が、手が!? アタシの、鋼鉄の拳がァ!? まさか、与えたダメージを、そのままアタシの拳に返したというのォ!!??」

《解説せねばなるまい。本来打撃とは、相手に与えた衝撃と同じだけの衝撃を自らも受ける諸刃の技。だからこそ、格闘家はさながら鍛冶職人が剣を鍛えるように自らの拳を鍛え、その反動に耐えうる鉄の器官を作り出す。すなわち、打撃戦とは本質的に肉体の硬度比べ。そういう意味では、全身を鋼鉄の筋肉に覆われたアルプは、まさに最強の格闘家と呼ぶに相応しい存在であった。
 だがしかし、リンの見せた衝撃の反転は、この単純明快な強さの尺度を覆す。相手に与えるはずだった衝撃がそのまま拳に返ってくるという事は、本来自分の拳が受けるはずだった衝撃が単純に二倍になるということ。もし、自らの拳が耐えうる限界ギリギリの力で攻撃を繰り出していたのであれば、のこりの力はそのまま拳の奥に伝わり、その筋組織を破壊する。まさに獅子身中の虫、謀反の徒と化すのだ》

「絶対に、絶対にゆるさないんだかラァ!!」
 ボロボロになり血を噴出する自らの拳を見て、アルプは戦士の狂気に陥る。
 あろうことか、身体の発するあらゆる危険信号を無視し、砕かれた拳を握りしめ、振りかぶり、リンへと猛進してゆく。
「うおぉぉ! くたばれ小娘がァ!!」
 強烈な質量爆弾と化したアルプの肉体。その迫力は、さながら鬼神! たとえ地獄の鬼でさえ、震えあがるような存在感!
 が、繰り出した拳のその先に、憎き火鼠の姿はない。その事実に気が付けど、時すでに遅し。赤髪の悪魔は、既に体の内側、まさに腹筋の目の前で脇を閉め腰を落とし、攻撃の体制に入っているのだ。
(しまった! いや、だがしかし腹筋はアタシの体の中でも特に発達している、まさに黄金の筋肉! 全ての力を集中させ、逆に奴の拳を破壊してやるワァ!)
 アルプは、瞬間全身を脱力させ、その力全てを腹筋へと注ぎ込む。この瞬間の彼女の腹筋硬度はおよそ10! これはダイアモンドに匹敵する固さである!
 そして、その剛筋に繰り出されたリンの掌撃。そのあまりの脆弱さ、圧倒的な硬度の差に、アルプは勝利を確信した――。
「素晴らしい筋肉です。肉体とは、これほどまでに鍛え上げられるものなのですね。私は、この防御を敗れる打撃を知りません。……ですが、極めたが故に、心技体、そのバランスを欠いている」
 突如、かざされた掌が強烈な熱を持ち始める。
 熱は巨大な渦となり、自慢の腹筋を透過し、閉じた衝撃と共にアルプの体内を駆け巡る。
「大竹拳、荒鼠の型!」
 強烈な一撃に視界が赤に染まり、平衡感覚が消滅する。
「勁は無形の円、水面に揺蕩う波紋が如し。この手は滴る水の一滴。
 剛の奥義、勉強させて頂きました」
 最後にアルプの視界に映ったものは、拳と掌を合わせ礼をする赤髪の少女の姿だった。

 ☆

「リン!」
 アルプが地に崩れ落ちたのを見て、リュウがリンに駆け寄り、老婆もそれに続く。
「大丈夫か!? 怪我は!?」
 オロオロとするリュウに対し、リンは柔かな笑みを返した。
「ご心配なく。ただ、店の床を壊してしまいました。なんとお詫びすればいいか……」
「そんなことはいいんだよ! そうだ、顔の方は……大丈夫みたいだ」
 リュウが、リンの頬に手を当て、先程煙草の火を押し当てられた箇所を見る。
 リンは突如取り乱し、顔を真っ赤にしてその手を跳ね除けた。
「ななな、何をするのですか!?」
「え? ごめん、火傷してないかなって思って……」
「わ、私は火鼠ですから、火には耐性があるんです! ご心配なく!」
 大きく咳ばらいをし、意味もなく襟を直すリン。
 そんな彼女に、老婆が満面の笑みで歩み寄ってくる。
「お嬢ちゃん、すごいじゃないか! あの凶悪なゴロツキどもを一人で倒しちまうなんて! さすがレンシュンマオ老師のお弟子さんだ!」
「あ、そのことなのですが、師匠からお二人に手紙を預かっています。どうぞ」
 リンは、懐から手紙を取り出し、老婆に手渡す。
 老婆は手紙を広げ、リュウもそれを覗き見る。
「こりゃ、えらい達筆だね。なになに『火急の用にてそちらに行けなくなったので、代わりに一番弟子をよこす……』一番弟子!? お嬢ちゃん、老師の一番弟子だったのかい!?」
 そりゃ強い訳だ、と老婆は笑いながら手を打つ。リンは、少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「い、いえ、一番弟子といっても、師匠には遠く及びませんし、大したことは……」
「そんなことないよ! 現に、うちの店を守ってくれたじゃないか! そうだ、何かお礼をしないと……」
 その時、ぐぅ〜、とリンの腹の虫が鳴いた。
 リンとリュウの目が合う。リンが顔を真っ赤にして目を伏せる。
「ご飯の続き、しようか?」
 リュウからの、苦笑混じりの問いかけに、リンは恥ずかしそうに「……はい」と返事をした。
16/02/16 20:59更新 / 万事休ス
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第二話に続く

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