連載小説
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第二話: 進め! 小さなおのぼりさん!?
「揃いも揃って何をやっているのだ! 役立たず共が!」
 街で最も高いビル、その最上階に構えたオフィスで、一人のデーモンが激昂した。
 彼女こそがこの街の影の支配者。魔物マフィアのボス。何人もの部下を率い、街の流通、不動産、政治さえも牛耳る、闇の支配人。
 『火龍軒』から這う様に逃げ帰ってきたアルプであったが、アジトに戻った彼女を待ち受けていたのは、自らの上司からの激しい叱咤だった。
「ご、ごめんなさぁい。でもね、ボス、しようがなかったのよ。あいつら、その、用心棒を雇ってて……」
「用心棒だと!?」
 怒気を増したデーモンの様子に、アルプは筋肉の鎧を萎縮させる。
「貴様……普段はカラテマスターなどと名乗っておきながら、用心棒一人倒せんとは、どうやら本当に私の見込み違いだったようだな……」
「そ、それは違うワ! そいつ、めちゃくちゃに強くて……、そう! 拳法を使うのよ! なんていったかしら、確か大竹拳とか……」
「何!? 大竹拳!?」
 デーモンが、かっと目を見開き立ち上がる。
「……となるとレンシュンマオ老師の手の者か。まったく、忌々しい……!」
 ぶつぶつと独り言のように呟きながら、デーモンはアルプに背を向け、窓からネオンに彩られた夜の街を見下ろす。
 アルプは深い事情はわからなかったが、窓ガラスに映るデーモンの憎らしげな表情から、何か深い因縁のようなものを予感した。
「それで、貴様はどうするつもりだ? まさか、用心棒に敵わないなどという下らない理由で、この私の命令に背くわけではあるまいな?」
 突然向けられた刃物のように鋭い問いに、アルプはぎくりと身を竦ませた。
「え、えぇ、勿論よ。そうね、こちらも強力な助っ人を雇うのがいいわ。私の知り合いに、強力な蟷螂拳の使い手がいるの。彼女に依頼して……」
「そいつは、確実に、厄介なカンフーガールを倒せるのか?」
「そ、それはぁ……」
 具体的な問いに言い淀む。自分が拳を交えたから分かるのだ。あの赤髪の少女は、半端な強さではない。並みの格闘家では、返り討ちは必至だ。
 返す言葉が思いつかない中、沈黙を破ったのは、デーモンの一言だった。
「凶爪を使え」
「は、凶爪!?」
 思いもよらぬ提案に、アルプは素っ頓狂な声を上げた。
「ああ。お前の話を信じるならば、相手は相当な使い手。並みの格闘家では敵うまい」
「いやいや、何言ってるのォ!? 凶爪っていったら、裏世界最強の殺し屋じゃなぁい! しかも常軌を逸した守銭奴! 依頼料だけでいくらかかるか分からないわぁ! そんな価値が、あの寂れた飯屋にあるようにはとても……」
 ドン、とデーモンがデスクに拳を振り下ろし、アルプの言葉を遮る。
 そして、ドスの効いた声で半分脅すように言った。
「貴様はいつから私に意見するようになった? もう一度命令だ。凶爪を呼べ。確実に、あの店を確保する。用心棒は好きにして構わぬが、店主は殺すなよ」
 アルプは、その只ならぬ殺気に黙って頷き、逃げるように退室した。

 ☆

「おはようございます! 店長!」
 地上げ屋襲撃の翌朝。リュウが店の片付けをしていると、外に繋がる扉からリンが元気よく入ってきた。
「あれ? リン、どこか行ってたの?」
「はい! 日課の走り込みに! 何か、お手伝いできることはありますか!?」
「あはは、ありがとう。……でも、店がこれだからね」
「あ……」
 そう、昨日のリンとアルプの格闘戦の影響で、店の床の一部が破壊されてしまっているのだ。勿論、破壊したのはアルプであり、リンのせいではないが。
「……ごめんなさい」
「なんでリンが謝るのさ! リンは、この店を守るために戦ってくれたんじゃないか!」
「で、でも……」
「リンが戦ってくれなかったら、きっとこの店は建物ごと破壊されていたよ。だから、本当に感謝してるんだ!」
 俯いたリンの体から、チリチリと細い煙が立ち上り始める。リュウは最初、何事かと驚いたが、俯いたリンの頬が真っ赤になっているのを見て、照れているのだと気がついた。
「リン、もしかして褒められるのってあんまり慣れてない?」
「な、なにをおっしゃるのですか!?」
 リンは細い尻尾をピンと伸ばして驚くが、すぐに目線を逸らして、口を尖らせる。
「……お師匠は、とても厳しい方ですので」
「そうなんだ? でも、俺たちにとってリンはヒーローなんだ。いや、ヒロインかな? とにかく、それだけは忘れないでくれ」
 リンは、戸惑いつつも一言、「ありがとうございます」とだけ返した。
 そして、リュウにちらりと視線をやり、口元に手を当てはにかむ様に言った。
「店長って、優しい方なんですね」
「え!? いや、別にそんなことないと思うけど……?」
「そんなことはないですよ。昨日、私の頬の火傷を心配してくれたでしょう? すごく、嬉しかったんです」
 頬をほんのり赤らめたリンの真っ直ぐ言葉に、今度はリュウの方が照れてしまう。意味もなく髪をかき上げ、視線を逸らす。
「お二人さん、なにぼーっとしとるんだい! ほら、さっさと仕事だよ!」
 突如威勢のいい声が飛んできて、二人の肩が揃って跳ねる。
 いつのまに現れたのか、割烹着に身を包んだ老婆が腰に手を当てニヤニヤと二人を見ていた。
「お、起きてたのか、婆さん。でも、仕事っても店がこれじゃ……」
「なに言ってんだい! だから、店を修理するんじゃないか! ホラ、サボってないで、あんたは床の穴を塞ぐ板材を買いに行ってきな! お嬢ちゃんと一緒にね!」
 え、とリュウは声を上げて驚いた。
「リンと一緒にって……なんで!? 店に婆さん一人じゃ危険だよ! またあいつらがやってくるかもしれないのに……」
「馬鹿言うんじゃないよ。まさか、老体に鞭打って木材運びの手伝いをさせるつもりかい? それに、奴らなら昨日のコテンパンにやられたばっかりだ。うちが営業できないのも分かってるし、今日は来ないよ」
 老婆は懐から金を取り出し、リュウに手渡す。板材を買うだけにしては、だいぶ、いや、かなりの大金である。
「ほら、これをやるから、さっさと行っといで! ついでに、お嬢ちゃんにこの町を案内してやりな。大事なお客様だからね。どうせ今日は営業できないんだから、一日かけて、ゆっくり案内してやるんだよ? ほら、ぼんやりしてないで行った行った!」
 老婆は、反論の隙も与えぬように二人を店の外に押し出す。
「んじゃ、楽しんでくるんだよ! 日が傾くまでは、帰ってこないように!」
 それだけ言うとドアは勢いよく閉じられ、中から施錠されてしまう。
 店から締め出されたリュウとリンは、唖然とした様子で扉に掛けられた「準備中」の看板を見つめていた。

 ☆

 リュウとリンは、繁華街方面に向けて細い通路を歩いていた。
「追い出されちゃいましたね……。私、何かお婆さんを怒らせるようなこと、してしまったんでしょうか?」
 隣で、少し落ち込んだ様子のリンが小さく溜息を吐く。
「い、いや、そんなことないんじゃないかな!? 婆さん、いつもあんな感じだし! 発破かけてきて、うるさいんだ、これが!」
 リュウは、どぎまぎと言葉を返した。
(こ、これは多分、間違いない……! デートだ、これ……!)
 幸い、リンは全く気が付いていないようだが、これは一般にデートと呼ばれる状況だ。全くお節介この上ないが、これが婆さん流の気の利かせ方なのだろう。
 幼い頃に両親を亡くし、友達も作らずただ祖母と共に生きることに必死だったリュウにとっては、初めてのデート。何をすればいいのか全く分からなかったので、とりあえず繁華街へと向かうことにした。買い出しの時などに、よく街中で仲良く手をつないで歩くカップルを見かけたためだ。
「そうなんですか? なんだか、昨日と印象が違いましたけど」
「う、うん。最近、地上げ屋達のせいですっかり気力が失せてたんだ。リンが来てくれて、安心したんじゃないかな?」
 緊張のあまり、思ったことをそのまま口に出したリュウだが、何やら焦げ臭さを覚えてリンの方に目をやる。彼女は俯き、また頭から煙を上げていた。白い首筋が朱に染まっている。
「ですから……。あまり、変なこと言わないでください……」
「え、いや、俺はあくまで思ったことをそのまま……」
「もう! 店長ったら!」
 リンは、怒ったようにぷいとそっぽを向く。
 訳が分からないリュウは、ただ一言、
(女の子って、難しいなぁ)
 と思ったのだった。

 ☆

「うわぁ〜……。これが『ハンカガイ』、なんですか!?」
 繁華街入り口に到達し、リンが驚きの声を上げる。今日も中央通りは人に溢れており、騒めきが津波となって二人を包み込む。
「こ、こんな沢山の人、初めて見ました! 今日は、お祭りか何かですか?」
「いや、ここはいつもこんな感じだよ。この街の、流通の中心だからね」
「そうなんですか!? でも、出店とかも沢山出てるし、もう私は何が何だか……」
 リンの、若干混乱気味の初々しい様子に可笑しさを覚えるリュウだったが、そんな二人の方に向かって織物を抱えた異国の商人風の一団が押し寄せてきた。
「きゃ!」
「危ない!」
 リュウは、一団に押し流されそうになるリンの手を掴み、自分の胸元に引き寄せる。
 一瞬、人波に押されたリンの体が密着し、その幼さの残る顔が驚くほど近くにくる。
 ドキン、と心臓が跳ねた。
 その鼓動が聞かれたような錯覚を覚え、慌てて身を離す。
「大丈夫だった?」
 動揺を誤魔化そうと、咄嗟に喉から出た言葉。
 リンはそれに対し、いつもの様に俯きながら、小さく「はい」とだけ答えた。
 商人風の一団が通り過ぎ、二人の間にはちょっとした気まずさが流れる。
 リュウは、リンの手を掴んだままであることに気が付いて、慌ててそれを放した。そして、とにかく何か話さなくてはと思い、言葉を探す。
「あ〜、どうだろう。せっかくここまで来たし、色々見て回ろうか?」
 リンがこくんと小さく頷いたので、リュウはほっとして、人混みに向けて歩き出そうとする。
「あの! 店長!」
 くるりと振り返ると、リンが頭から煙を上げながらこちらに手を差し出してきている。
 首筋どころか、差し出された手まで朱に染まっている。
「その、恥ずかしい話なのですが、こういう人混みに慣れてなくて……。その、もし、店長が嫌でなければ……はぐれないように、手を繋いでいてもらってもいいですか?」
 ぎょっとして、その手と顔を見比べるリュウ。俯いているせいで、彼女がいまどんな顔をしているのかは分からないが、その頭からはシュウシュウと音を立てて何本もの煤けた煙が立ち上っている。恐る恐る、差し出された手に触れてみると、その手は調理中のフライパンの柄のように熱くなっていた。普通の人なら不快感を覚える熱さかもしれないが、リュウにはむしろ慣れ親しんだ温度。少しだけだが、心に余裕さえ生まれた。
「そ、そうだね! はぐれたら、大変だし!」
 リュウは、リンの手を軽く引っ張り、彼女が付いてきてくれることを確認してから、人混みへと入っていった。

 ☆

「ふぅ〜、疲れましたぁ〜」
 リンとリュウは一通り繁華街の観光を終え、町の広場のベンチで休んでいた。
 経験したこともない程の人の量、そして物の量。物心ついた時には寺で他の修行者と共に功夫に励んでいたリンにとっては初めてのことが多すぎて、すっかり体力を持って行かれてしまっていた。
「お疲れさま」
 顔を上げると、リュウが優しい笑みと共に肉まんを差し出してくれていた。
「え? え?」
 突然差し出された肉まんに、リンは訳も分からずリュウの顔を見る。
「お腹減ってると思ったんだけど、いらなかった?」
「い、いえ! そんなことはないです! ありがとうございます!」
 リュウが少しだけ申し訳なさそうな顔をしたので、リンは慌てて肉まんを受け取った。
「えっと、いくらでしたか?」
 懐から巾着を取り出すと、リュウが慌てた様子でそれを止める。
「大丈夫だよ。婆さんから、お金は貰ってるから」
 正直、普段の生活でお金を使う習慣のないリンの所持金は、雀の涙程もない状態だったので、リンはこの善意をありがたく受けることにした。
 リュウの顔色を見ながら、恐る恐る肉まんにかぶりつく。すると、口の中に痺れるような辛さが広がってきた。
「あれ、これって麻婆豆腐……」
「そう。麻婆豆腐まん。好物って言ってたでしょ?」
 リンは記憶を掘り起こす。確か、空腹で倒れていたところを拾われて、最初の食事をご馳走になっていた時、そんなことを口走った気もする。リュウは、そんな細かなことまで覚えてくれていたのか。
「あ、ありがとうございます! 大好物です!」
 今更空腹感が湧いて出てきて、一心不乱にそれを飲み込むリン。
「おいしい?」
「はい! とっても! ……でも、私は店長の作ってくれた麻婆豆腐の方が好きかなぁ」
 何の気なしに口に出た言葉だったが、すぐにとても失礼なことを言ったことに気が付き、訂正する。
「あぁ、す、すみません! ご馳走になっている身なのに!」
 だが、むしろリュウは少し気恥しそうに、自分の頬を掻いた。
「いや、いいよ。自分の料理を好きって言ってもらって、嬉しくない料理人なんていないから。それよりさ、その『店長』って呼び方、やめてくれないかな? 別にそんな偉くないし、俺たち歳も近いみたいだし」
 意外な要望であった。リンは、少し戸惑いながら返事を返す。
「で、でも、店長は店長ですし……。厄介になっている間は、立場というものものもありますから……」
「じゃあ、今日みたいに二人になってるときだけ! じゃないと俺も、リンさんとか、お嬢さんって呼ぶよ!」
「わ、分かりました。では、その……リュウ……さん」
「別に、さん付けじゃなくてもいいのに」
「そ、それは、私の方が年下のようですから!」
 リュウは納得してくれたらしく、うんうんと嬉しそうに頷いている。
 一方リンは、一人顔から火が出るような思いだった。リンの生活している大竹寺は山奥の秘境にあり、常人がそう易々と辿り着けるような場所ではない。共に修行を行っている仲間もいるにはいるが、全員、リンよりだいぶ年上だ。
 『店長』と呼んでいた時は、なんだかリュウが自分よりもずっと年上のように感じられていたのだが、名前で呼んだ途端、自分にとって初めての年の近い男の子なのだと意識してしまった。しかも、一緒に出掛けたりして、これではまるで仲の良い友達のようではないか。

 とにかく自分の心の乱れを感じられては不味いと思い、リンは何か新しい話題はないかと周囲を見渡した。
 すると、視線の先に街中に佇むビル群から頭一つ飛び抜けて佇む巨大なビルを見つけた。
「じ、実は私、ビルって初めて見るんですよね! リュウさん、あの大きなビルはなんですか?」
 思い付きで口を出た質問だったが、途端にリュウが言い淀む。
「え? あ……」
 一瞬彼の顔に暗い影が差し、静かに口を開いた。
「あれは、昨日来た地上げ屋……その大本の魔物マフィアのビルだよ」
「あ……」
 リンは、余りにも自分が情けなくなり、逃げ出したい気持ちになった。
 今朝から失敗続きだ。リュウは自分が楽しくなるような話題を振ってくれるのに、自分は今朝から壊された店のこと、敵のビルのこと、話すこと話すこと地雷を踏みっぱなしで、相手の気持ちに無頓着すぎる。
(私って、やっぱりデリカシーないなぁ)
 リンは心の中で小さく溜息を吐く。
 申し訳ない気持ちが大きくなって、だんだんと楽しさが萎えていく。そして、そんな自分に自己嫌悪して、徐々に思考の深みへと嵌っていく。

 その時、優しくて暖かい感触が手を包んだ。
 顔を上げれば、リュウが自分の手を引いてくれている。
「一度、行ってみたかったところがあるんだ。一人で行くのも寂しいから、一緒についてきてくれる?」
 リンは、リュウに導かれるまま歩き出す。
 見晴らしの良い広場を離れると、魔物マフィアのビルはすぐに建物の陰に隠れて、すっかり見えなくなってしまった。
(リュウさんって、やっぱり優しいや)
 繋いだ手に、リュウがぎゅと力を込めてくる。リンはなんだか嬉しくなって、それに応えるように、彼の手を強く握り返した。

 ☆

 リュウは、勢いでリンの手を握り、歩き出してしまったことを酷く後悔していた。
(マズいぞ……。行く当てなんてないのに!)
 ビルについて聞かれたとき、適当に「知らない」とでも答えておけばよかったのだ。余計なことを口に出したせいで空気が気まずくなりかけたので、とにかくその場を離れようとして、適当なことを口走ってしまった。
 しかも、焦りから力が籠ってしまった手を、リンが強く握り返してきている。女心はよく分からないが、これは、結構期待されてしまっているということではあるまいか?
(とにかく、何か見つけないと!)
 首筋を、嫌な汗が流れる。目線だけを忙しなく左右に動かし、通り沿いに何でもいいから面白そうなものがないか探す。
 ふと、視界に酒饅頭の屋台が飛び込んできた。
(これだ!)
 リュウは死中に活とばかりにその屋台に向かっていき、店員に「饅頭二つ」と注文した。
 振り返り、「ここの酒饅頭が、すごく美味しいらしいんだ」と、さも最初からこの屋台を目指していたかのようにリンに語り掛ける。
 そうこうしているうちに二個の酒饅頭が差し出されたので、リンと二人で近くのベンチに座り、片方を彼女に差し出した。
 リンは、「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げてから、またお金を払おうとしたので、それを諫めた。
 二人で同時に、酒饅頭にかぶりつく。
 ……味は、可もなく不可もなく。いわゆる、どこにでもあるごく普通の酒饅頭。なんとも評価のしようがない。
 とにかくリンの様子を見て何か言葉を探そうと、横目で彼女を観察する。
 リンは、饅頭を一口食べたきり、じーっと饅頭を見つめたまま固まっていた。
(ヤバい……。普通過ぎて、反応に困ってるのかも)
 リュウは、出来るだけ爽やかな笑顔をよそおい、「どうかな? 口に合う?」と硬直するリンに声を掛けた。
「ふぇあ?」
 先程までのリンからは想像もできないような、間の抜けた声が返ってきた。リュウは驚きのあまり眉をしかめ、リンの顔を凝視する。彼女の目はトロンと蕩け、口元は緩みに緩んでいる。
「にゅー? どーしたの? りゅーうしゃん♪」
「リ、リン?」
「にへへー♪ うー、りん!」
 足をぱたぱたと前後に動かし、機嫌よさげなリン。ひっく、と小さくしゃっくりをして、手に持った酒饅頭をさらに一口食べた。
「もしかして、酔ってる!?」
「よってないよぉ〜♪」
 リュウは、慌てて彼女の手から酒饅頭を取り上げ、匂いを確認した後、一口食べてみる。
 自分の食べているものと同じ、普通の酒饅頭だ。特別、酒臭いなどという事はない。
「あ〜、りゅうしゃん、なにやってゆの〜」
 突如、リンが肩にしな垂れかかってきた。
「かんせつキヒュ〜♪ あたひも!」
「ちょ、ちょっと、リンッ」
 リンが、リュウの分の酒饅頭にかぶりつこうと顔を寄せてきたので、彼は慌ててそれを上にあげた。
 すると、饅頭に手が届かなかったリンはそのままずるずるとリュウの肩から滑り落ちるようにして、彼の膝の上にころんと横になった。
「えへ〜♪ ひざまくら〜♪」
 リュウの膝の上で楽しそうにもがきながら、(鼠であるにもかかわらず)猫のようにゴロゴロと喉を鳴らすリン。間違いない。彼女は酔っぱらっている。
(でもなんで!? 酒饅頭で酔っぱらうなんて話、聞いたこともないぞ!?)
 そもそも、酒饅頭は麹が材料として使われているだけで、別に酒が入っている訳ではない。蒸す時に香り付けの酒を加えることもあるが、どのみち蒸している間にアルコールは飛んでしまうはずだ。もしかして、リンは極端に酒に弱い体質なのかもしれない。
「りゅうしゃーん、ぎゅー♪」
 リンが、膝の上に横になったまま腹部に抱き着いてくる。
 通行人が、興味深げにちらちらと脇目で観察してくる。顔から火が出るほど恥ずかしい。
「ほら、リン、行くよ!」
 とにかく人目のないところに行こうとするも、リンは既に自力で歩ける状態にない。
 仕方なく、リュウは彼女の体を抱き上げ、所謂お姫様抱っこの状態で逃げるように裏路地へと入っていった。

 ☆

 リンを抱え、よたよたと裏路地をゆくリュウ。
 リンの体は昨日の闘いぶりからは想像も出来ない程に軽かったが、それでも人一人分の重さ。鍛えてもいない限り、そう軽々運べるものではない。
 リュウの目の前に、小さな公園が現れた。都市開発に取り残された空間だろう。ベンチと、水飲み場があるだけの小空間。人影はない。
 幸いとばかりにリュウは水飲み場に駆け寄り、リンを下ろす。リンは虚ろな様子でかくかくと頭を左右に振りながら、リュウの腕にすがるように身を預けてくる。
 この酔い方は危険だ。とにかく、水を飲ませなくてはならない。
「ねぇねぇ、ねぇ〜」
 蛇口に伸ばされたリュウの手を、リンが掴む。その握力は女の子と思えない程に強い。
「ほら、水を飲もう、リン。その手を放して?」
 リュウは、小さな子供を言いなだめる様な口調で語り掛ける。リンは、はにかむような笑みでリュウの胸板に額を擦り付ける。
「りゅうしゃんってぇ、なんでしょんあにやさしいの?」
「ありがとう。水を飲もう?」
「あたひのこと、しゅき〜?」
 リュウは肩をびくりと震わせ、言葉に詰まった。
 呂律は回っていないが、リンは「あたしのこと、好き?」と問うてきている。
 別に嫌いではないが、昨日初めて会った女の子を好きと断言できるほど、彼はスピリチュアルでも、軽薄でもなかった。
 固まる彼の胸の中で、リンはゆっくりと、薄紅色に染まった顔を上げる。
「ちゅ〜」
 つま先立ちになって、まるで子供がふざけてやるみたいに口付けを迫るリン。
「だ、駄目だよリン! 君は今酔ってるんだ!」
 リュウは慌ててその顔を押しのけようとするが、リンにその手を払われてしまう。
「ちゅ〜ってばぁ」
 リュウにもたれかかるリン。二人分の体重によろめいたリュウは、反射的に水飲み場に手を伸ばした。
 二人分の体重が掛かり、音を立てて壊れる蛇口。
 リンの唇が、逃げるリュウの唇に追いつき重なると同時に、蛇口があった場所から激しく水が噴出し、水しぶきが二人を飲み込む。
 リュウは、降り注ぐしぶきの中で、ファーストキスの相手の熱を持った唇が、急速に冷えていくのを感じた。

「え、あ……?」
 リュウの腕の中で、ゆっくりと身を離すリン。
 その目には、正気の光が戻っているが、それ以上に困惑の色が強い。
 降り注ぐ水しぶきがリンの全身を頭から濡らし、炎のような赤髪が白い頬にぺったりと張り付いている。が、彼女はそれどころではない。
「え、あ、いや、私、その、なんで……なんで!?」
 取り乱すリンを落ち着かせようと、リュウがゆっくりと手を伸ばす。が、リンは小さな悲鳴と共にその手を弾いた。
 手と手がぶつかり合い、ぱちん、と小さな音がする。リンは一瞬、はっとしたような顔をしたが、すぐに顔を伏せ、後ずさる。
「ち、違うんですっ、その、その、ごめんなさい!」
 踵を返し、路地の奥へと走り去るリン。リュウは慌てて彼女を追ったが、複雑に入り組んだ路地の中で、すぐに彼女を見失ってしまった。
「おい! リン! どこにいるんだ!」
 この辺りの路地は道ごとの特徴を掴みづらく、慣れてないものはすぐに迷子になってしまう。
 こうなってはもうデートどころではない。
 リュウは呼びかけを続けながら、リンを探して路地の奥へと進んでいった。

 ☆
 ☆
 ☆

 日が落ち、家々の窓に明かりが灯り始めた頃。
 複雑な裏道をさまよいにさまよったリンは、ようやく火龍軒に辿り着いた。空腹で、腹の虫がぐうとなる。
 だが空腹以上に、昼間の失態、デートの放棄、そして好意で差し出されたリュウの手を弾いてしまったことが、彼女の足取りを重くしていた。
 火龍軒の戸口に立ち、なんと言ってドアを開けようか考える。
 しばらく迷った末、「ただいま戻りました」とか細い声で呟きながら、リンはゆっくりと室内を覗き込んだ。
 灯りのない室内は暗く、人の気配もない。まだ夕飯時だというのに、不審に思ったリンは、気を操り指先に蝋燭程の小さな火を起こし、室内を照らした。
 部屋の中は、ひどい惨状だった。
 テーブルや椅子はひっくり返され、花瓶は割られ、活けられていた花が何者かに踏みにじられている。
「まさか……」
 リンは部屋に飛び込み、手の灯りを頼りに建物中を駆け回る。
 二人の気配はどこにもなく、ドアというドアは蹴破られ、家具は破壊され、カーテンは破かれている。
 間違いない。これは、争った跡だ。
 幸いどこにも血の跡はないので、二人が致命的な傷を負わされている可能性は低いように思われた。
 リンは、窓から身を乗り出し、街に聳える巨大なビルを見上げる。
「リュウさん……!」
 リンは、手近にあったボロボロのカーテンを毟り取り、それを羽織って夜の街へと疾走した。

 ☆

「ククク、マヌケな人間どもめ」
 魔物マフィアのビルの最上階に構えたオフィスで、デーモンが愉快そうに笑った。
 リュウは椅子に縛り付けられながらも、そんなデーモンを反抗的に睨みつけた。
 リュウは、リンとはぐれた後、彼女が店に戻っているかもしれないと思い、一度家に戻った。
 すると、ちょうど店が地上げ屋に襲撃されているところだった。リュウと老婆は捕らえられ、彼等のビルまで運ばれのだった。
「オーッホッホ! あのお嬢ちゃんさえいなけりゃ、こんなもんよ! 如何だったかしら? アタシのマッスル制圧術は!?」
 アルプが、笑いながら老婆の縛られた椅子を蹴る。堪らず、リュウは声を上げた。
「やめろ! 婆さんに手を出すな!」
「あ〜ら、随分と威勢のいいボウヤねぇ。そういう子、好きヨォ? アルプにしてあげましょうか?」
 頬をぬるりと這う筋肉質な指の感触に、背筋にぞわぞわと悪寒が走る。
 老婆が「ああ、やめとくれ。孫には手出ししないどくれ」と弱々しく言葉を吐いた。
「ハッ、美しい家族愛だな……!」
 デーモンが、唾を吐く。

 その後ろで、興味無さげに腕を組んで壁に寄りかかる大柄な人物がいた。雑に羽織った黒いボロボロのローブの隙間から、鋭く巨大な爪が見えた。
「あーら、Ms.凶爪? 何か不満そうじゃない? どうしたのかしら?」
 凶爪と呼ばれた人物は、ふんと鼻を鳴らして抑揚のない声で答えた。
「別に。私は約束の報酬さえ貰えれば、それでいい」
 そう言ってふらりと歩き出すと、そのまま部屋を出て行こうとする。
「ちょっと! どこ行くのヨ!」
「例の火鼠が気がかりだ。少し様子を見てくる。折角の契約、取りっぱぐれては堪らんからな。
 ……あと、私はMsではなくMrsだ。二度と間違えるなよ」
 アルプの返事を待たず凶爪は部屋から退出し、勢いよくドアが閉まる。

「まったく、勝手なんだから……。ふふ、でもいいワ。ネェ、ボス? ちょっとこれを見てちょうだい? このオバアサンが持ってた物なんだけど」
「なんだこれは? 手紙?」
 アルプがデーモンに差し出した一枚の紙。リュウはそれに見覚えがあった。
「それは! レンシュンマオ老師からの……!」
 デーモンはリュウの発言を気にも留めず、アルプが差し出した手紙を広げてそこに書かれた文字を目で追う。
「ここ、読んでみて」
「!! これは……!」
「ふふ、どうかしら? だから、あれを、こうすれば……」
「よし、でかしたぞ。早速作戦に移れ」
「んふ、りょうか〜い♪」
 アルプが軽い足取りで部屋を出て行く。部屋にはリュウと老婆、そしてデーモンだけが残された。
「ククク、これで、噂の小娘の抹殺は確実だな」
 デーモンが、満足そうに頷く。
「待て! リンは店のことには無関係だろう! どうこうするのは、俺だけにしろ!」
「勇ましいな、少年よ。私は若さ故の蛮勇というのが嫌いではない。……どうだ、取引をしないか? 私に協力するなら、小娘も、貴様も、そこの婆様も、命は助けてやる」
「取引だと!? お前らのいう事なんか、信じられるか!」
「おいおい、私はデーモンだぞ? 悪魔は契約を破れん」
 デーモンは噛むように笑い、パチンと指を鳴らす。リュウの目の前に、一枚の契約書が出現した。
「悪魔の契約書だ。これにより取り交わされた約束は、たとえ神だろうと破れはしない。
……悪い話ではあるまい? 精力的に協力するなら、それなりの報酬も出す。 火龍軒も返してやろう」
 リュウは、その発言に対して怪訝に眉を寄せた。
「返すって……。そもそもお前達の目的は、あの土地のはずじゃないのか?」
「ククク、そう聞いてくるということは、商談の席に着いてくれるということだな?」
 ニヤニヤと、心を見透かしたように笑うデーモン。リュウは返答に迷い、口をつぐむ。
「沈黙は了承と捉えていいな? そもそも、私はあの土地になんの興味もない。なんの需要もない三等地に、ボロ小屋が乗っただけのクズだ」
「なっ、そんなはず……」
 そんなはずはない。もし本当に土地に興味がないのなら、今までの嫌がらせは何だったのか。立ち退きを要求してではなかったのか。
「当然驚くだろうな。だが商談の席で嘘は吐かん。情報の漏洩を避けるため、部下たちには真の狙いについて話せなかった。貴様に話したところで、どうせ理解しない。私は用心深いのだ」
 デーモンがゆっくりとデスクから立ち上がり、歩み寄ってくる。
「だが、そっちの婆様は心当たりがあるようだな?」
 視線を向ければ、傍らの祖母はがっくりと項垂れ、祈るように「ああ、やめとくれ。孫を、そんな話に巻き込まないどくれ」と呟いている。
「私が知りたいことは、ただ一つ……」
 デーモンの顔が、鼻と鼻が触れ合いそうな距離まで迫ってくる。
「教えてもらおうか。『傾国のレシピ』について……!」
16/10/25 07:41更新 / 万事休ス
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■作者メッセージ
お久しぶりです。万事休スです。
暫く別のところで書く用の小説を書いてたのですが、久しぶりに戻ってきました。
感想ご指摘大歓迎ですので、良ければよろしくお願いいたします。
第三話に続く。

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