連載小説
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後編
 善行を積め。欲望を重ねよ。

 その街は堕落していた。教団の物差しで表現するなら、そう。堕落こそがこの街の表現に相応しい。けれど、通りを行き交う声は朗らかで、楽しげで。多くは寒村を巡っていた僕にとって、この街はとても「明るく」見えた。数年前に訪れたときよりも、ずっと魔物が多いし、ずっと発展している。この活気は、僕が世界にあり続けてほしいと願うもののひとつだ。

「レグルア」

 天使の青い瞳が、その街を一望する。彼女はやはり表情ひとつ変えずにその営みを見つめていた。けれど、やはりラリエルは変わった天使で、

「良い街ですね」

 主神の使いとして、あり得ない評価をくだした。魔の渦中において、その姿は全く損なわれず清らかで、純白で。だからこそ彼女の言葉に僕は内心で少しだけほっとした。

「うん。楽しげだよね。明るくてさ。ラリエルも見習うといいよ」
「その言葉、そっくりお返しします」
「ぼ、僕は結構楽しくやってるように見えると思うんだけどなあ」
「笑わせますね」
「笑ってないけどね、ラリエル」
「やかましいですよ」

 心なしか、会話も弾む気がする。ラリエルの機嫌も悪くはなさそうだった。ここへ向けて旅立つことを決めてから、怒ることも辛そうにすることも減った。とても良いことだと思う。

「それで、レグルア。この街で媚薬の類を手に入れるとのことでしたが」
「うん。あてはあるし、外れてもここならきっとどこにでも売っているから心配は――」
「レグルアくん!?」

 目的の話をしていると、急に大声をかけられた。振り返ると、このあたりでは珍しいジパングの装いをした魔物が目に入った。刑部狸だ。隣には柔和そうな面立ちに少しばかりの驚愕を浮かべた男性を伴っている。僕にとっては、懐かしいお二人だ。

「こんにちは。お久しぶりです、レグルアです」

 ぺこりと頭を下げると、ラリエルもそれに倣った。

「お久しぶりって……何年も手紙のひとつも寄越さずに! 結婚式にだって呼ぼうと思ってたのに!」
「あはは……ごめんなさい。なかなか旅路が過酷でして。でも、結ばれたんですね。おめでとうございます」

 太い尻尾をぶんと一度振って、刑部狸さんは喜び半分怒り半分といった様子だった。まあまあ、と隣で夫さんがそれを宥めている。

「レグルアくん。あのときは妻共々、本当にお世話になったね。それに、随分と背も伸びた。そろそろ大人といっても良い頃合いだね」
「おかげさまで。貴方は……変わりませんね、あのときから」
「はは。ぼくはまあ、あれになったからねえ」

 魔物と交わればそういうことになる。僕の道連れを配慮して言葉を濁してくれたのだろう。ラリエルはやはり気にした様子はない。

「紹介が遅れました。お二人とも、こちらはラリエル。僕の旅に同行くださっている天使様です。ラリエル、こちらの二人は僕が昔お世話になったご夫婦だよ」

 相互を紹介すると、刑部狸さんは怒りから一転してにんまりと彼女らしい計算高そうな笑顔を浮かべて、一言。

「恋人さん?」
「まさか、畏れ多いですよ」
「こんなことを口走る未熟者なのです、未だに」
「はは。変わらないねえレグルアくんは!」

 刑部狸さんとは違って、心の底からほんわりとした笑顔を浮かべていらっしゃる旦那さんには癒やされる思いがする。

「でも、ふーん。レグルアくんのところに、エンジェルかあ。ま、君みたいな子は報われないと駄目だからね。よかった、よかった」
「いえ。よくありません。レグルアは本当に頑固者で、全く己を省みるということをしません」
「あちゃあ。それは残念」

 頭上の葉っぱをぺしんと叩く刑部狸さんに、ラリエルは全くです、と大きく頷く。僕は彼女の言葉を引き継いで、本題に入った。探していた人がこちらを見つけてくれたのは僥倖だった。

「ラリエルも、全然自分のことを大事にしないから。お互い、欲というものに向き合ってみようという話になりまして」
「欲! レグルアくんの口から!」

 刑部狸さんは高下駄で器用に跳ねてみせた。何故だろう、滅茶苦茶嬉しそうだった。やはり商売人だから、だろうか。

「やっぱりお金!? それとも財宝!? 土地とか狙っちゃう!? 全然手伝うよ!!」

 ぐいぐい迫ってくる刑部狸さん。旦那さんもあはは、と笑いつつ止めない。僕が欲望を燃やすとそんなに良いのだろうか。

「いえ。やはりどうあってもそういった欲は沸いてこないので……無理矢理火をつけてみようと思いまして。その、色欲に」
「ーっ!!!」

 刑部狸さんは何やら感極まったらしく、僕の右手を両手で握ってぶんぶん上下した。

「そっか! そっか!! あのレグルアくんがついに!! うんうん!! そういうことでここに来てくれたんだね。それじゃあ、うん。あげよう、これも、ああこれもいいね!」

 ぱっと手を離すと今度は忙しなく背負った箱を降ろすとなにやらがさごそやり始める。旦那さんはやっぱりそれを止めなかったけれど、

「待ってください、待ってください。僕はいただきに参上したのではなくて、ちゃんと買おうと思って来たんです。落ち着いてください」
「端金だから! 必要な出費! レグルアくんが心変わりする前におしつけてやる……!」
「どうか落ち着いてください。きちんと決めたことですから。聡明な貴女らしくないです。二人、一夜分でこれだけ用意しています」

 実際に貨幣を取り出すと刑部狸さんは冷静になったようで、ぴこぴこと甚だしく跳ねていた耳もぴたりと止まった。贅沢はしていない。僕の調べた限り、相場より少し高めを見積もっている。

「ふーむ。一夜分なら、その半値で十分だね。だけどぼくなら、三日三晩分をおすすめするよ。しっかり思い知るにはそれくらいがいい。特に我慢強そうな君たちなら」

 旦那さんが、元人間としての貴重な意見を投げかけてくれる。刑部狸さんは、確かに確かにと大きく頷いている。三日三晩。随分と長い効果だ。

「ぼくたちなら心配いらないんだけど、君たちなら……うん。食べ物飲み物もあった方がいいかな」
「旦那様、商売人気取りー」
「あっ、ごめんね口を出しちゃって」
「あはは。からかっただけ」

 ちょっとした惚気が微笑ましい。夫婦が幸せそうにしている様は、いつまでも眺めていられる気がする。ただ、そうしてばかりはいられない。今度はラリエルが口を開く。

「食糧はこちらで用意がありますから、心配無用です。三日三晩程度であれば、そうですね。許容範囲です。その薬をいただけますか」

 余裕を持った旅路を心がけているラリエルはやはり旦那さんの提案を呑んだ。僕としても無駄に一日を潰すより意味のある数日を選びたいところだ。

「じゃ、これかな」

 刑部狸さんは透明で少し粘性を感じさせる液体が入った小瓶を二つ、箱から取り出した。

「理性をいきなりぶっ飛ばしちゃうようなのもあるんだけど、これは蝕むって感じだから。要望に添うと思うよ。効きがちょっと遅いから、早めの夕食後くらいに飲むとちょうど良いかもしれないね」

 悪い笑み。「質の悪い」代物であることは容易にうかがい知れた。こういった街での普段使いというよりもむしろ侵略用なのかもしれない。いずれにせよ、それをこそ僕らは今求めている。感情の激流に押し流されるより、じっくり押しつぶされる方が色々とわかりやすいだろう。

「ラリエル。僕は良いと思う」
「そうですね。この商人を信頼しましょう」

 ラリエルは青空のような瞳で刑部狸さんを射貫く。けれど手練れの商人はその程度で動じることはなかった。

「じゃ、成立ということで。お釣りはこちら」

 僕の提示した金額の殆どを受け取って、僅かなお釣りが戻ってくる。色々と勉強させてもらったことだし、悪い買い物ではなかったと思う。代金の受け渡しのあと、小瓶をふたつもらう。僕はそれを収納して、頭を下げた。

「街に来て早々、念願が成就するとは思いませんでした。本当にありがとうございます」

 頭を下げると、刑部狸さんはひらひらと片手を振ってみせた。

「本当はお店にも招待したかったんだけどね」
「けど、うん。ぼくらのことより、まずは君たちの一大事を是非乗り越えてほしいね」

 ご夫婦は気を悪くした風でもなく、僕たちに宿の紹介までしてくれた。また会おうと約束して、僕たちは別れる。ラリエルは彼らの背中をしばらく眺めて、

「親切な方々でしたね」
「うん。本当に」

 親魔物領での二人の一歩はあたたかなものになった。本当に、懐かしい旅の感覚だと思った。










 その晩は、二人で夕食をとった。精のつくものをと頼んだら豪勢な肉料理が出てきてひどく焦った。僕たちを今夜結ばれる恋仲と勘違いした料理人が腕によりをかけてしまったのだ。誤解させてしまったことを丁寧に謝ったのだが、いいからいいからと変な風に流されてしまった。ラリエルは大丈夫かと少し心配したけれど、杞憂に終わった。彼女は器用にナイフとフォークを操って小さくした肉片を口に入れては吟味していた。

「おいしいね」
「はい。特にソースが良いです」
「なんだかそれ、ラリエルらしいなぁ。僕は久しぶりに柔らかいお肉を食べるから嬉しいよ」
「よいことです。とても。貴方にとって」

 ラリエルは満足そうに頷いた。今回の夕食は僕にとって、そしてもちろんラリエルにとってもよいものだった。こんなに贅を尽くしてしまってよいのだろうかと迷う自分もいるけれど、食欲もまた欲だ。喚起されたことは喜ばしい。そう考えても許されるだろう。

「今日が無欲なラリエルの最後の晩餐になるんだ。しっかり味わうといいよ」
「そうですね。しかし、本願はあくまでも貴方が貴方の欲と向き合うことです」
「いや、どっちも大切なことだよ。きっと」
「私のことはどうでもよいのですが……まあ、付き合いますよ」
「うん、ありがとう」

 店内は僕らを含めて男女の組み合わせが多く、皆楽しげに談笑していた。少し浮き足立っているように感じられる。お盛んな彼ら彼女らのことだ、夜のことを既に考えているのかもしれない。平和な風景。とてもよいものだ。この和やかな輪の中に自分もいるというのがなんだか不思議な気分だった。

「しかし、この中でも全く浮きませんね。私は」
「本当にエンジェルなの、ラリエル」
「ドッペルゲンガーだったら、どうします?」
「それはそれで面白そうだね。まあ、僕にドッペルゲンガーが憑くようならこの薬なんてそもそも要らないわけだけど」
「確かに。片恋など、貴方にはほど遠いです」
「まあきっと、堕天してるんだよ君は」
「少なくとも天へは帰れませんね」

 そういうことをさらっと言ってしまうから変なのだ。それでいて姿は全く純白なのが彼女のおかしなところだ。エンジェルと呼ぶには魔に親しみすぎているし、ダークエンジェルと呼ぶには過激なところが全くない。その中途半端な性格は、旅の道連れとしては最高のものだった。

「なんで純白なんだろうね、君は。黒とは言わずとも灰色くらいにはなりそうなのに」
「グレーエンジェルですか。そんなものがいたら面白そうですね。まあ、この姿は貴方の好みのせいでしょう。前にも言っていたではありませんか、私に似合うのは白だと」
「だから堕ちても白? そんなことある?」
「むしろそれしかないと思います。貴方の潜在的欲望のせいですよ、きっと」
「えぇ……」

 僕は思わず溜息を吐いた。

「嫌だなあ」
「何がです。私のどこが不満ですか」
「不満はないよ。でもラリエルだよ。君をそういう目で見るのは不遜っていうか」
「涜神に背徳的興奮を覚える歪んだ性格が今夜明らかになるわけですね」
「今更信仰心について語る気はないけど……でもラリエルのことは尊敬してるんだ。そういう風に穢したくないなあ」
「なったところで私は別に困りませんよ。堕ちても白なら穢れても白でしょう」
「僕が困るよ。普通の性欲に目覚めるといいけど」
「なんです、私に向いたら変質者かなにかのようじゃないですか」

 僕を問い詰めながらも、ラリエルの纏う雰囲気は柔らかだ。こうやって冗談を飛ばし合うのは初めてな気がした。

「ラリエルこそ、薬で目覚めたらたいへんなことになるかもしれないよ」
「私は大丈夫ですよ、ご心配なく」
「その余裕がどこまでもつかな」
「貴方が崩れるまではもたせてみせますよ」

 談笑している間に、皿は空になってしまった。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものだ。気づけばあれだけ賑やかだった店内には空席が少しずつ。僕らの食事もこれで終わりだ。今の僕としての食事も、これが最後になる。そのことに店を出てから気がついた。ラリエルに同じ冗談を放ったはずなのに、自覚が遅れてしまったらしい。街路を行く人の数は少なく、今日の空に月はない。ラリエルはドッペルゲンガー説を思い出して、笑いを噛み殺す。勿論彼女は僕の少し後ろを、いつもと変わらない純白の姿でついてきている。

 本当に充実した一日だった。感慨に浸っていると、頬にひんやりとしたものがあたる。

「うわ……っ」

 驚いて飛び退くと、ラリエルがひらひらと小瓶を振っていた。あれをあてられたらしい。

「何を満足そうにしているのです。今日はこれからでしょう」

 夜風が彼女の髪をさらう。星明かりに照らされて、儚げな金色が揺れる。夜空の神秘より綺麗な双眸が僕を貫く。完成されたその姿に、やはり笑顔はない。氷のようで、少しだけあたたかい。いつものラリエルがそこにいた。

「今日はこれからだけど。今日でおしまいなんだなって思うと、ちょっとね」
「なんです。臆したのですか」
「いや、感慨深いなあって」
「そんなことを思いながら媚薬を飲む人なんていませんよ」

 確かに、なんだか奇天烈だ。本当はもっと盛り上がった気分で、好きな相手を思いながら、どきどきして飲むものなのだろう。こんな風にしんみりしてしまうのはちょっと変だ。

「きっと、今日で変わるんだろうね」
「私はそう願っています」
「僕も、ラリエルがもっとのんびり羽を伸ばせるようになるといいなって思うよ」
「やれやれ。無理はしていないというのに」
「僕もだよ。それでも飲むって決めたんだ」
「……そうですね」

 小瓶と取り出して見つめる。中の薬が、とろりと波立つ。僕を変えるもの。一度口にすれば引き返せないだろうという自覚はあった。恐怖心がないのは、きっと親魔物領の人々のおかげだ。幸せそうな彼らがいるから、この薬は恐ろしくないと分かる。清廉であれ。潔白であれ。魔物を倒す剣であれ。先生達の教えを、悉く反故にしていく自分に苦笑する。

 善行を積め――僕が僕に課した使命も、きっとその中身を変える。ラリエルが口にした、悪しき手本としての僕とは決別しなければならない。そのための薬が掌の中にある。

「宿に帰ろう、ラリエル」
「はい。帰って、部屋についたら――」
「薬を飲む。魔物の方々に、背中を押して貰おう」
「ええ。そうですね。そうしましょう」

 帰路に就く。恐怖はない。ただ、少しだけ淋しいと思った。











「手違い、ですか」
「故意だろうね」
「ええ、確実に」

 確かに二部屋を予約したはずの僕たちは、今一室に押し込められている。寝台も、当然ながらひとつだけ。ごめんなさいね、と謝る亭主は満面の笑みだった。わざわざシーツはどれだけ汚しても大丈夫だから、などと付言までされてしまった。僕たちは寝台の縁に腰掛けて小瓶に目を落としている。

「参ったなあ……見られることまでは考慮に入れてなかったんだけど」
「今更レグルアが無様を晒したところで見捨てたりしませんよ」
「……一応ありがとうと言っておくよ」

 ラリエルはやはり涼しい顔で小瓶を見下ろしている。僕には残念ながら彼女ほどの余裕はなかった。なにせ性欲というものに無関係に生きてきたのだ、何がどうなってしまうやら予測もつかない。

「さあ。飲みますよ。見ているだけでは何も始まりません」

 天使様がきゅぽん、と音を立てて媚薬の小瓶を開栓する。一切の躊躇がなかった。

「……」

 僕も倣って、栓を抜く。

「せーので飲もうか」
「なんですか。意気地がないですね」
「ラリエルのその余裕はなんなの。覚悟しておかないと後悔するよ本当に。一生のことなんだから」
「私は大丈夫なので。まあいいでしょう。公平を期してせーので飲みましょうか」

 ラリエルがここまで泰然自若としていると、僕の方がおかしいのじゃないかという気がしてくる。ラリエルと出会う前。出会ってから。今までの旅を思う。僕の選択は、間違っていないはずだ。ラリエルはもう少しわがままになってもいい。僕も彼女と共に変わってしまっていい。小瓶の中身は、その変化の後押しにきっとなってくれるはずだ。だから、

「じゃあ」
「はい」

 ふたりで、媚薬を口許に宛がい

「せーの!」

 一気に、飲み干す。僅かに粘性のある液体が喉を通り、猛烈に口の中が甘くなった。こんなに甘いものを口にしたのは初めてだ。同じく瓶をあけたラリエルも目を丸くしている。一線は、呆気ないほど簡単に踏み越えられた。とりあえず一仕事終えたことで僕はひどく安心した。ほっと一息つく。

「……何をやり遂げた風な顔をしているのです」

 そんな僕の心中を見透かしたのか、ラリエルが呆れた調子でこちらを詰る。

「いいですか。目的は欲を生むことです。これから。まだこれからですよ」
「あはは、そうだね。でも、うん。あとはもう待つだけだからさ。引き返せないし、気楽になれるよ。だから、さっきのが僕にとっては一線だったんだ」
「なるほど。まあ、そんな余裕も今だけのことでしょうが」
「ラリエルもだよ、きっと」
「私は大丈夫です」

 調子の変わらないラリエルに、そうかなあ、と返す。

「僕はラリエルに大丈夫じゃなくなってほしいけどね」
「それは無理な相談というものです」
「そうかな。たぶんさっきの薬、そんなにぬるいものじゃないと思うよ」
「まあ、なんとかなるでしょう」

 肩をすくめる天使様は確かに余裕がありそうだった。僕も、未だに口の中が甘いこと以外は特段変化を感じられない。急に知らない強烈な感覚に襲われるのも怖いので、このくらいゆったりしていられるのはありがたかった。

「さて。就床にはまだ時間がありますが。どうします?」
「散歩するのは危険そうだし、雑談でもして過ごそうか」
「そうですね。貴方も気を紛らわすことができて楽でしょう。では、ふむ……日中出会ったご夫婦の話でも聞きましょうか。何をやらかしたんです、貴方は」

 時間を潰すには良い題材だった。確かにその時の話はまだラリエルにしていなかったなと思い、僕は記憶を手繰りながらゆっくりと口を開いた。






 善行を積め。欲望を重ねよ。

 話を終える頃には感覚の変化に頭が追いつかなくなり始めていた。媚薬――その効果を僕は勘違いしていたらしい。僕の予想では、とにかくむらむらする、という状態になるはずだった。けれど、今僕を襲っている状態はそれではない。

 ラリエルから目を離せない。それなのに、ラリエルから目を背けたくて仕方がない。

 綺麗だ、といつも思っていた。けれど今日はいつもとは違う。綺麗だと、そう思う度に首から頬にかけてなんだか熱くなる。体中をかきむしりたくて仕方ない変な衝動に駆られる。陽光を溶かしたようなその髪を梳いてみたくなる。そこから少し突き出した小さな耳を突いてみたくなる。桜色の爪をした手を包んでしまいたくなる。よくない。とてもよくないことだった。これは違う。僕が思っていたものと、違う。そして、

「……はぁ、はぁ」

 ラリエルの熱い息遣いが耳を溶かす。彼女もまた、薬の効果に苛まれているらしい。左胸をぎゅっとおさえて、荒く肩を上下させている。ひどく華奢な体を震えさせて、とても辛そうだ。上目遣いに僕を見つめる瞳には薄らと涙がたまっていた。

「おかしい、ですね……症状が、異なりませんか」

 ぎゅっと体を縮めながら問うラリエル。その声色が甘く響いて僕の頭を蕩かす。返事が遅れたのは、そのせいだった。

「確かに。僕のは、媚薬というよりもむしろ……」
「むしろ、なんです。私には、それそのものといった、感じですよ」

 恋の妙薬。そう直裁に言ってしまうのは憚られた。

「ラリエルを見ていると、どきどきするんだ」
「……確かに、視線が面白いことに、なっていますね」

 一瞬、ラリエルが体を大きく震わせた。熱病にでもやられてしまったかのような有様だ。

「ラリエルなんだよ。頭の中がなんだか、全部。心が、みんなラリエルの方を向いて離れない」
「……っ」

 ばんばんとラリエルは自分の頬を打った。奇行だ。でも気持ちは分かる。痛みでも与えないと正気に戻れない。

「私は、貴方の望みを。叶えたくて仕方がありません」

 くらりと頭が揺れた。まるで致命の一撃を受けた気分だった。蒼玉すら霞む青い瞳に囚われる。今なら。今なら何を言っても願いが叶う気がして。僕は唾液を飲み下し、掌を顔に当てて無理矢理視界を遮った。

「ラリエル。よくない。僕たちはなんだかお互いを更に苦しめているような気がする」
「なにを、今更。それが目的でしょう。顔を見せてください」

 言われるがままに防御を解く。やっぱりラリエルは完全で、純白で、綺麗だ。体が吸い込まれてしまいそうな気がする。ラリエル以外の景色が遠のく。頭が朦朧としているのに、感覚は変に鋭敏になっていた。

「今日は、違う願いをきけると、嬉しいですね」

 願い。本能的に浮かんだものを慌てて打ち消す。そんなことより、

「逆に、僕の方から訊きたいな。ラリエル……望みは?」
「……えっ」
「今だったら、ラリエルにもわがままな気持ちがあるんじゃないかな」

 きかせてほしい。それが願いだ。

 目を丸くした天使様がぶんぶんと頭を振った。遅れて頭髪がさらさらと揺れる。耳の頭まで真っ赤だ。可憐だと思う。この世の何よりも繊細に見える。僕がラリエルよりずっと背が高くなってしまったせいだろう。守りたいとも、思ってしまう。

 ラリエルは、顔を伏せた。

「私は、大丈夫です」
「顔を見せてよ。あるでしょう、何かしたいこと、してほしいこと」

 すっかりゆであがったような表情のラリエルが僕を見つめる。無防備だった。あまりにも無防備すぎた。軽く肩を押せば、そのまま押し倒してしまえそうなほど。見ているだけで、僕の中の何かが壊れていくような気がする。実際、壊されているのだろう。

「私は、レグルアの報酬です。貴方に報い、貴方の道をただす者です」
「うん。僕だって善行を積む者だ。だから僕たちは薬を飲んだんだよね」
「……」
「僕の願いは、うん。君の願いだよ。ラリエル」

 それがだめなら、と続ける。

「君が何か願ったなら、僕も何か願おう」

 彼女の目をじっと見据えて宣言する。してしまう。まずいことになったと思う。止まれるのかと理性が問う。勿論止まらなければならない。ラリエルは神聖で無垢だ。僕が穢すようなことがあっては――

「……では、手を」

 沈黙のあと、ぽつりとラリエルが呟いた。

「手を、握ってください」

 手。握手。ラリエルと。勿論そんなこと一度も経験がない。そもそも気安く触れるなんて畏れ多い。そっと差し出された左手は細く、小さい。拒まなければと、咄嗟に思う。その気持ちを、ゆっくりと踏み潰していく。

「うん。喜んで」

 伸ばされた手に右手を重ねる。視界が明滅した。ラリエルの体温は少しひんやりしているのに、熱い。掌から体全体に燃えるような熱が送られてくる。これは、駄目だ。人を駄目にする感覚だ。

 重なった手を少し動かして、ラリエルが五指を絡める。沈黙したまま、目をそらして。その動きが、鼓動をおかしくさせる。僕も倣って、指を絡める。密着している。掌が繋がっている。当たり前のことなのに、感触は暴風めいて頭の中をぐちゃぐちゃにした。

「これは、いけませんね」

 ラリエルが残った右手で自分の顔を覆っていた。先程の僕と同じだ。そう伝えると、ラリエルは小首をかしげた。聞かなかったふりをしたらしい。もう一度指摘すると、渋々顔を隠す手をおろした。

 口許が、ゆるやかな弧を描いていた。隠し切れていない、不器用な表情、初めて見る顔がそこにあった。

「ラリエル……笑ってる」
「――っ」

 握っている手をぶんぶんと振られた。言われたくなかったらしい。

「あはは。綺麗っていうより可愛らしい感じだね、そうしてると」
「なんですか、レグルア。貴方は。さっきから、余裕ぶって……! 本当に、違う薬だったのでは……」
「うん。さっきからふわふわして。なんだか枷が壊されていく気分だよ。ラリエル、本当に可愛いね。あは――」

 高揚感と共に彼女を煽っていると、ぽすんと。胸の中に小さな体が飛び込んできた。結んでいた手が離されて、背中に回る。気持ち良く僕を満たしていた全能感がぽすんと音を立てるように蒸発した。

「な、にして……」
「ふふ……笑顔がやっと壊れましたね。ふふふ……」

 抱きつかれた。

 胸の中で、こちらを見上げてやっぱり下手くそな笑顔を浮かべているラリエル。僕の笑顔はたぶん、それよりひどく歪になってしまっているだろう。愛想を保つ余裕なんてない。あるわけがない。

 僕の体が、ラリエルを包んでいる。ラリエルの腕と翼で、僕が包まれている。ラリエルは完全に混乱しきった瞳をしているのだけれど、口許の笑みはなんだか勝ち誇っているようだった。

「前々から小癪だと思っていたのです、その作り笑顔。ふふ、こんな簡単に壊せるのなら……あは。もっと早くやっておくべきでしたね」
「う、ぁ」
「どうしたんです? 抱き返してくれないんですか? 先程は握り返してくれたのに」

 返事をする余裕すらもなかった。浮いていた自分の腕をぎくしゃくと動かして、彼女の背に回す。細い。ああ、あまりにも華奢で、貧弱で、このまま強く抱きしめれば壊れてしまいそうで。

 もぞ、と。ラリエルが腕の中で身じろぎをする。その小さな感覚だけで全身が意味不明な多幸感に包まれる。なんで、どうして。そう混乱している間に、封をしていた感情が暴れ出す。

「ラリエル。まずい。僕は、このままだと、君を」
「ふふ。いいですね。やっと私に追いついてきましたか。この湿気た朴念仁め。ざまあみろというやつですね」
「ラリエル、聞いて。まずいんだって、僕が」
「わかっていますよ。感じています。貴方を全部。ふふ、つらそうですね、随分。あは、もう逃げなくてもいいんですよ。ばれてますから」

 逃げるどころか、より体を密着させて、ぎゅっと抱きついて。ラリエルの瞳からつうと、涙が零れ堕ちた。へたくそだった笑みの形は、いつの間にか優美な微笑の弧を作って、

「さあ。レグルア。約束の時間です」

 ラリエルは、そっと腕を解いて、僕の胸を押す。簡単に寝台に仰向けになった僕の眼前に、ラリエルの双眸が迫る。さらり、と。彼女の頭髪が僕の頬を撫でた。

「望みは?」

 僕はもう、逃げられない。
21/06/08 19:02更新 / やまいも
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