連載小説
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前編
 善行を積め。

 雪が降り続いている。飛び散った血液が、雪原を赤く穢していた。視界が明滅する。黒と、赤。目を擦ろうにも、腕が上がらない。立ち上がろうにも、足が動かない。寒風が傷口を抉る。呼気は白く、やがて大気に溶けて消える。這うことすらも、できそうにない。

「善行を、積め」

 声は、掠れた。それでも、立ち上がることができた。血の滴が、また大地を穢す。一歩。また一歩。倒れ込むようにして歩く。鉄臭い唾を飲み込んで、前進する。向かい風が体を支えてくれていた。だから、この身ひとつで成し遂げられると、僕は信じていた。

 野盗から村を救ってくれ――立ち寄った村で受け取ったその願いを、僕は叶えた。ねぐらに押し入り、全員を捕縛した。その過程で大怪我をしたのは僕の未熟のあらわれだった。村には必ず戻らねばならない。願いは叶えられたと伝えなければならない。それに、縛った人々をそのままにしておくわけにはいかない。これは急務だ。苦しむ人々に、早く安寧を伝えなければならない。僕の弱さが、不当に救済の時を遅らせていた。

「善行を積め」

 だから、不意に体が軽くなったのは、不甲斐ない僕にそれでも残った底力のためだと傲ってしまった。

 ――光の輪を見た。

 風に靡く白金の頭髪。ふわりとそよぐ純白の上衣。翼をゆっくりとはためかせ、それは降臨した。青い双眸が僕を見下ろし、唇が僅かに開く。

「望みは?」

 透徹した、涼やかな声。頭が真っ白になった。天使様だ。最初にそれを理解して、僕は跪いた。尊いその姿を前に、無礼を働くわけにはいかなかった。状況を、遅れて理解していく。天使様は意味もなく地上に現れない。ここに、この方がいらっしゃるのは、確たる理由あってのことだ。だから最後に、愚かな自分が口にすべきことを、ようやく理解する。望みは、と。天使様は問うた。ゆえに僕は、その問いに答えなければならない。

「野盗を……全て捕縛したと」

 一度咳き込む。雪をまた、血の赤が穢す。天使様の表情が、僅かに変わった。不快なものを見せてしまった。羞恥と悔恨で消え入りそうな思いだった。

「村の人々にお伝え願えますか」

 その美しい瞳を見上げて、なすべきことを託す。天使様の表情が、また変わる。僕にも理解できる。それは、明らかに苦痛の色を示していた。

「わかりました。叶えましょう」

 僅かの間を置いて、天使様は小さく頷いた。僕が抱いた感情は、恥ずべきことに安堵だった。少なくとも、これで村の人々は救われる。天使様の手を煩わせてしまったことを申し訳なく思うべきだったのに、やはり僕は未熟が過ぎる。

「ありがとう、ございます……申し訳、ありません」

 安堵の思いが強まるほどに、体の力が抜けていく。僕はまた、雪の上に倒れ伏した。もう天使様を仰ぎ見ることもできない。折角降臨くださった方に、これでは本当に失礼極まるというのに、もう精神では体を動かせそうになかった。ここで、僕の命は尽きるらしい。もっと長く生きるつもりだった。もっと善行を積むべきだった。けれど、それでも。最後の一歩を託すことができて、僕は幸せだった。まあまあ、満足のいく人生だったと思う。

「――」

 天使様が、何かをぽつりと呟いた。僕の耳は、もうそれを拾うことすらできなかった。幸せな終幕。まるで死に際に天使様が迎えに来てくださったようなものだ。果報者にも程がある。くすりと思わず笑ってしまう。それが、最後だった。全てがゆっくりと黒に沈んで、僕はようやく意識を手放した。






 死に損ないという言葉がある。今の僕にぴったりの表現だろう。薄い毛布。固い寝台。体を走る鈍痛。朧気な視野が天井をとらえる。

「勇者様がお目覚めになったぞ!」

 違う。僕は勇者ではない。体を起こそうとして、そっと肩に掌が置かれる。ゆっくりと焦点が合わさり、青い瞳と視線が交差する。金色の髪に白い翼、柔らかな光輪。清冽と表すべきそのお姿は天使様のものだった。にわかに室内が騒がしくなったが、僕たちに声をかける者はない。遠慮しているのだろう。あるいは、僕たちの会話を、聞きたがっているのかもしれない。天使様が、小さく口を開く。

「願いは、叶えました」
「ありがとうございます。たいへん手数をおかけしました」
「瑣事です。気にすることはありません」

 天使様は小さく頷いて、老いた男性にちらりと視線を送った。彼はびくりと背を伸ばして、それから僕に深々と頭を下げた。

「勇者様、このたびは我が村を救済いただき誠にありがとう存じます」

 深謝だった。心の底から礼を述べているようにも、謝っているようにもきこえた。切に心が痛む。

「こちらこそ、行き倒れた無様を救っていただき本当にありがとうございます。それから、僕ごときは勇者の名に値しません。レグルアと申します、どうかそう呼び捨ててください」

 咳き込む。血は出なかった。驚くべき早さで傷は癒えているようだった。天使様の加護によるものだろうか。あるいは、僕はそれほど長く倒れていたのか。

 老人は僕の体調を心配した後、ご謙遜を、と小さく笑った。謙遜ではなく事実なのだが、彼らはとりあえずは僕の意向を汲んでくださるらしかった。

「では、レグルア様。傷が癒えるまでどうぞ当家でごゆるりとお過ごしください。ご希望があればなんなりと――」
「いえ。これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきません。出立しようと思います」

 起き上がろうとした僕の肩を、また小さな掌が押す。天使様だ。

「レグルア――と呼びますね。貴方はまだ万全ではありません。体は休養を求めています」

 氷雪のような無表情。しかしお言葉はあたたかい。だから僕は首を左右した。黒い前髪が鬱陶しく瞼を擽った。

「いえ。じゅうぶんです。もう一日歩けるほどには快復しているのがわかります。僕は行かなくては」

 強がっているわけではなかった。本当に、体は旅をするには満足のいく程度には癒えているように思われた。それでも天使様の手は僕を寝台に磔にしていた。

「レグルア。心を尽くしたいという願いを汲むこともまた、善行のひとつです。積み上げたいのでしょう、それを」

 一理あるのだろう。それでも、既に救われた村と今まさに助けを求めている村。いずれを救うべきか考えたとき、僕の天秤は容易に傾く。時間は無限ではない。

「天使様の仰るとおりです。レグルア様、どうか」

 頭を下げる好々爺然とした男性に申し訳なさを覚える。折角の厚意を無碍に扱うことは本当に心が痛む。それでも。

「それでも、僕は行かなくてはなりません」

 無理に起き上がろうとした僕を、今度は両手で天使様がおさえつける。寝台に馬乗りになる形だ。また、あの顔をしている。苦痛に歪んだ表情。僕がこの世界から消し去りたいもののひとつだ。

「貴方が勇者でないように。私はヴァルキリーではありません」
「……? 見れば、分かります。天使様、エンジェルでいらっしゃいますよね」

 理解の及ばない発言に、首をかしげる。確かに、凜然としたその姿と僕を諫め導くような発言はヴァルキリーのそれを思わせるけれども、誰がどう見ても彼女はエンジェルだ。見間違える人などいるはずがない。その姿は思春期を迎えた少女のそれに近く見える。僕より少しばかり年上――と考えるには早計か。人間と他種を同じ尺度で測っても仕方がない。

 勇者を育てるヴァルキリーと、慈悲深きエンジェル。対比して、少し思い至ることがあった。

「僕を心配してくださっているのですか」

 彼女の口が一度開き、そして閉じる。何か、僕はこの天使様を激怒させるようなことを口にしてしまったらしい。けれど、

「その通りです。貴方の献身は行き過ぎています。貴方の行いを野放しにしていては、世の悪しき手本になりかねません」

 天使様は結局淡々と僕の問いを肯定した。悪行。それは僕が忌むものだ。僕ごときの背を見る者などいないと思っていたけれど、天使様がそう仰るのならばそうなのだろう。普通に、できる限りのことをしているだけなのだけれど、僕は道を外れてしまっているらしかった。

「見聞が浅いもので、何をどう誤ってしまっているのか皆目わからないのですが……天使様がそう仰るのであれば、ぜひ改めたいと思います」
「ラリエルと、呼び捨ててください。貴方が私を敬う必要はありません、レグルア」

 彼女は至近で僕を見つめる。呼気が甘く心を蕩かすように思われた。

「私は、貴方の道を正すために遣わされたのですから。喜んで矯正に尽力しましょう」

 


 善行を積め。

 天使様――改めラリエルは、療養の間僕に旅の話を求めた。寝台にただ横になっているのは苦痛だったので、彼女の存在はとても助けになった。

「――魔物を助けたこともあります。一度や二度ではありません」
「勇者に相応しくないというのは、そのためですね。そしてレグルア、敬語は不要です。やめてください」

 やや勇気を要した告白も、ラリエルは淡々と流した。禁欲的で特に魔物を厭うこと著しいエンジェルとは思えない反応だった。眉ひとつ動かさず、こくりと頷くだけだった。

「僕の敬語は癖のようなもので……幼い子を相手にする機会もあまりありませんし。そもそも、天使様相手に畏れ多いです」
「では尚更です。私を相手に慣れていきましょう。魔物と親しんでおいて信仰もなにもないでしょう」
「いえ。親しむと言うほど親交を深めたわけではないのですが……」
「敬語」
「こだわりますね……どうしてもでしょうか」
「必要なことです」

 難しい注文だった。ラリエルに言ったことに嘘はない。僕はまだ未熟者で、話をするのは大抵年長者だ。だから、敬って話すことに慣れている――逆に、崩して話すことにはとても不慣れだ。変な照れのようなものを感じる。しかし、どうしてもと言われて断り続けることも難しかった。少し頭を捻って、ぎこちないだろうけれど無理矢理言葉を崩してみる。

「じゃあ、その。よろしく、ラリエル」
「はい。よろしくお願いします、レグルア」
「……ラリエルは、敬語。崩さないの」
「私には必要のないことですから」
「……そうなんだ」

 なんだかずるいのではないかと思ったけれど、失礼なので口にするのは控えた。

「それにしても、レグルアは」

 手慰みなのだろう、掌の上で美しい光の粒を舞わせながらラリエルは問う。

「随分と言葉がしっかりしていますね。年齢に不相応です」
「ま、まさかそれも直せと……?」
「いえ。今のは褒めただけです。その点については良い教育を受けたようですね」
「はい……ああ、いえ。うん、そうだね」

 頷いて、少し過去に思いを馳せる。

「心身ともにしっかりと鍛えてもらったから。ヴァルキリーのお導きがあるかもしれないぞ、なんて言われたっけ」
「残念でしたね。来たのがエンジェルで」
「そんなつもりで言ったんじゃないよ……ラリエル、僕をからかっていますよね」
「敬語」
「ぐ……ごめん」
「いえ。こちらも話の腰を折ってしまいましたね。聞いたところから推測するに……教団国家の良家の出。才能溢れる神童だった、というところでしょうか。貴方の幼少期は」

 ラリエルがゆっくりと拳を作る。掌に浮いていた光の粒がぱっと散って幻想的だった。また手を広げると、それが集まってふわふわと漂い出す。不思議な光景だった。

「神童なんてたいしたものじゃないよ。残念だけど伸びなかったんだ、そこまでは。中途半端になっちゃってね。何もかも」

 ふーむ、とラリエルがひとつ息を吐いた。彼女は何かをずっと考えている様子だった。

「勇者やそれに類するものに劣等感を抱いたりしますか?」
「正直に言うと、多少はね。彼らのように大したことはできないけれど、僕にできることをしようって。そう思って旅に出たんだ」
「両親は、よく引き留めませんでしたね」
「何度も止めろと言われたよ。僕のことを本当に信じてくれていたんだ。でも、先生方に先はないって告げられてからは。うん。最終的に諦めてくれた」

 お前は将来きっと偉大な人間になる。父はいつもそう口にしてくれていた。期待を裏切る息子で本当に申し訳なく思っている。いつでも帰ってきていいと言ってくれた母の心遣いもありがたい。結局、帰郷は一度もできていないけれど。

「最初は悪い魔物を討伐して回ろうと思っていたんだ。侵略の話はよく耳にしていたから。でも」
「でも?」
「比較的規律の緩い街に立ち寄った時なんだけどね。そこはコボルドの飼育が認められていて……その子に助けを求められたんだ。大事に思っている男の子が森で迷子になっちゃったって」

 随分昔の話だ。結局男の子を見つけ出したのはコボルドで、僕は何の役にも立たなかった。それでも、ありがとうございますと頭を下げる彼女の姿は朧気に記憶に残っている。

「コボルドって魔物は例外なんじゃないかって思って。そこからずるずる魔物のことを知って。少なくとも、僕は彼女たちに刃を向けられないなって思ったんだ」
「親魔物領に居着こうとは思わなかったんですか?」
「魔物はね、すごいから。うまく融和している街は、本当にうまくやってるんだ」
「そうかもしれませんね」

 やはり、彼女は魔物について教条的に非難しなかった。かなり変なエンジェルだ。書物や先生たちから受けていた話とは全く違う。魔物のときもそうだったように、僕の知識が誤っていたのだろうか。

「それで? そのうまくいっている街で、貴方もうまくやっていけば良いではないですか」

 話を促すラリエルに、苦笑を返す。

「あはは。僕がいる理由がなかったんだよね。うまく回ってるからさ、ああいう街って」
「……」

 また。ラリエルが苦い顔をした。なんとなくそうなる予感がして笑って軽く流したのだけれど、駄目だったようだ。

「それで、そういうところを避けて旅をして今に至るって感じかな。僕にできる範囲で助けを求めているところって、結構見つけにくいから大変なんだけどね」

 簡単に身の上話を締めくくって、打ち切る。ラリエルはありがとうございました、と口にしてしばらく目を閉じた。不動で沈黙しているとまるでひとつの像みたいだ。美しい魔物は多々見たけれど、天使様にはまた別の神聖さみたいなものを感じる。残念ながら、魔物と親しみすぎた僕にはその輝きは遠いものだけれども。

「――レグルア」
「はい」
「貴方は、実に救いがたい」

 ラリエルは難しい顔をして、しみじみとそんなことを言った。

「あはは。まあ、救われるよりも救いたいかな。だから今回は本当に迷惑をかけたって思ってる。身の丈に合わないことをしてしまったよ。ごめん」
「……そういうところを、矯正せねばなりませんね」
「……えっと?」

 僕の疑問には答えず、天使様は深々と溜息を吐くばかりだった。



 善行を積め。

 結局村には数日逗留した。村の人々は僕の出立をたいそう惜しんだけれど、僕にとって最大の関心事はそれではない。

「本当についてくる気?」
「当然です。貴方の天使なのですから」
「いつまで?」
「貴方次第です」

 旅に道連れができてしまった。てっきりラリエルは何か教示のようなものを僕に与えて天に帰るものだとばかり思っていたので、これは衝撃だった。何度も無理はしなくていいと言ったのだけれども、ラリエルは軽く受け流してしまった。旅は決して楽なものではないと伝えても、そうですかと涼しい声だった。

 実際、ラリエルは全く旅の邪魔にならなかった。僅かにふわりと浮いて僕の数歩後ろを飛んで疲れる様子がないし、食事の際にもどこから摘んだのか黙々と果物を囓ってこちらの食糧に手をつけない。びっくりするほど旅慣れた様子だった。商隊や遍歴職人、巡礼者といった人々とすれ違う時は天使様を連れた少年ということで変に持ち上げられて困ったけれど、その程度だ。道すがら魔物とすれ違うこともあった。昔はよく面白半分にちょっかいをかけてきた彼女たちは、何を勘違いしたのか変に親切になった。天使連れということで空気が悪くなったり、最悪勘違いから敵対するようなことも覚悟していたから、拍子抜けだった。ラリエルはやはり良くも悪くも魔物に対して淡泊な目線を向けていた。

「堕天していると思われているのでしょうか」
「真っ当な天使ではないと思うけどね」
「ふーむ。この通り純白のエンジェルなのですが」

 ラリエル当人も魔物からの待遇に違和感を覚えている様子だったけれど、それを重大に考えることはなかった。僕たちは基本的にあまり魔物には関わらないからだ。

 ラリエルを伴って良かったこともある。僕に助けを求める人が増えたことだ。その多くは僕の力を大きく超えた願いで、お断りしてばかりだったけれど、解決できる案件も幾つか飛び込んできた。自分から困っている人を探していた頃に比べれば、大幅な進歩だった。ただ、恩恵をもたらしてくれたラリエル自身がしばしば依頼を撥ねて困った。それは自力でなんとかしてください、とか、それは僕の力量を超えている、とか。自分の力量や本当に相手のためになるかどうかはよく考えるようにしているけれど、ラリエルの物差しは僕よりも厳密だった。レグルアは甘いですね、と何度言われたかわからないくらいだ。

 そして、

「望みは?」

 ラリエルは、毎晩寝る前に僕へ問う。特にない、というと彼女はそれはなしだと言うので、

「善行を積むことだよ」

 僕は毎晩そう答えている。ラリエルは決まって溜息を吐く。たまに不機嫌になる。ラリエルが上機嫌の日なんて、僕は見たことがないけれど。






 善行を積め。

 ラリエルと旅をして数年が経った。僕の望みとラリエルの溜息もそれだけ積み重なったということになる。彼女の辛抱強さは異常だった。代わり映えしない毎日に愛想を尽かしても良いだろうに、一度も離れようという素振りを見せなかった。何の利益もないのにラリエルは同行してくれる。そのことには、いつも申し訳なさのようなものを感じていた。

 だから今日は早朝から市に出た。単独行動の申し出を、珍しくラリエルはよい心がけですと褒めてくれた。なぜ褒められたのかはよくわからないけれど、僕にはとても都合がよかった。今日はラリエルのために何か贈り物を買おうと決めていたのだ。

「でも、困ったな……」

 何かを贈るとは決めていたが、何を贈るのか僕は全く考えていなかった。宝飾品の数々を眺めてみたけれど、僕には審美眼がない。だいたい、旅をするには余計な荷物は邪魔になる。ラリエルは旅嚢ひとつ持たないから、無駄なものは渡せない。指輪、腕輪、首飾り……つけたいときに身につけて、外したいときは外しておく、ということがラリエルにはたぶんできない。となると、贈るべきは消耗品だろうか。

 いや、ここは逆転の発想だ。革袋も買ってしまえばいい。腰か肩に提げられる小さなものをひとつ。そうと決まればやはり形に残るものを選びたい。となると、当初の美的感覚に欠けるという僕の欠点に舞い戻ってしまうわけで――

「贈り物ですか?」

 僕のような客には慣れているのだろう、商人さんはにこにこと笑顔を浮かべて問いかけてくる。

「はい。感謝の気持ちを込めて、あまり重くないものを贈りたいのですが……」
「ご関係は? 恋人ですか?」
「いえ。うーん。なんと言えばよいのでしょう。旅の仲間、です」
「なるほど……片想いというわけですね!」

 えっ、と思わず声が出た。商人さんは何やら舞い上がっているが、僕は軽く衝撃を受けてしまった。ラリエルに恋をする――想像するとちょっと笑えた。確かに声変わりをしてから一番長い付き合いの異性はラリエルだ。けれど、ラリエルをそういった目で見るのは冒涜的すぎる。そもそも僕はもっと善行を積まねばならない。恋に現を抜かしていてはそれこそ悪い見本になってしまうだろう。

「恋愛感情抜きだと、やはりこういった装飾品の類は重いでしょうか?」

 商人さんがあまりにも自然に誤解するものだから、僕も少し及び腰になってしまった。商人さんは顎に指をあて、うーんと一度唸った。

「そうですね、旅人さん。正直に言っちゃいますと、うちで扱っているようなのを色恋抜きで贈るのは。えー、ちょっと、あれかもしれませんねー」
「そういうものですか……」

 商人さんは篤実な人なのだろう、無理に品物を薦めようとはしなかった。思えば、ラリエルは無欲で慎ましい性格をしている。着飾ることそのものを厭っているかもしれない。食道楽というわけでもないから、高級料亭の類に誘うのも正解とは思えない。そう、無欲。欲のない人に何をすれば喜んで貰えるのか。僕はまた頭を抱えることになった。

「感謝の気持ち、でしたっけ」

 商人さんは、親切な人でもあるらしかった。腕を組んで一度頷き、そして微笑を僕に向けてくれた。

「日頃の感謝ってことなら。本当に軽いものでいいと思いますよ。私のおすすめですと――」






「ラリエル。これ、いつもお世話になっているので、お礼です」

 夕刻、宿に戻った僕は合流したラリエルに焼き菓子を渡した。渡されたラリエルの方は、珍しく目を丸くして僕と贈り物を交互に見ていた。翼が一度、ゆっくりとはためいた。柔らかな風が頬を撫でる。菓子の甘い香りがした。

「レグルア……貴方まさかとは思いますが」

 くしゃ、と音がした。さくさくふんわりとうたわれていた菓子が少し袋の中で潰れたのだろう。彼女の肩が小さく震えていた。

「……このために、休みをとったのですか」

 俯いていて、表情はよくわからない。ただ、率直に喜んでくれているわけではなさそうだ。詰問するような調子に、頷いて答える。

「そうだね。本当に、いつもお世話になっているから。何年も一緒にいるのに、そういえばお礼らしいお礼をしてなかったなって思って」

 はぁ、と聞き慣れた溜息が落ちる。本当は笑顔が見たかった。僕は失敗したのだろう。胸がひどく痛む。作り慣れた柔らかな笑顔を維持するのが少し難しかった。

「私は、貴方が気晴らしを欲したのかと思いましたよ」
「まさか。ありえないよ」

 なんとか笑って肩をすくめる。

「ラリエルだって、そんなの。一度も望んだことがないでしょう?」
「……」

 いつも鋭く僕を説き伏せる反論が、今回はなかった。彼女は一度口を開いたけれど、ゆっくりと閉じてしまった。今回口にしたのは単なる事実だ。彼女が休暇を強制するのはいつだって僕の体に疲労や傷が残っている時だけだ。少し羽を伸ばしたい、なんて言葉を彼女から聞いたことは間違いなく一度もなかった。僕は善行を積むというつとめがあるから差し支えないけれど、彼女の無私の姿勢はかなり異常だった。

「ラリエルは、もっと楽をしていいと思うよ」
「私のことより、貴方です。問題は」

 ぱっと顔を上げたラリエルの双眸は、今日も青く澄んで美しい。蜂蜜よりも何倍も清く透いた前髪がはらりと揺れた。本当に、綺麗な天使だと思う。

「今日は。レグルア。貴方を褒めようと思っていました。記念すべき日になると」

 どうして、という疑問に彼女は答えなかった。

「全て、白紙です」

 ただ僕は、彼女の期待に添えなかったことを悟る。無為な一日だった。ラリエルの掌に収まった菓子袋がそう言っているような気がした。

「本当に、貴方は救いがたい……いえ。そうですね。私が、怠惰だったのかもしれませんね」

 お菓子、ありがとうございます。それが、その日最後に僕がきいたラリエルの言葉だった。聞きたい言葉だったはずなのに、残念ながら全く嬉しくなかった。








 ラリエルがおかしくなった。

 失敗の日、その次の日だ。ラリエルの指示で僕は同じ街に留まっていた。夕暮れ時、彼女に連れて行かれた場所に問題があった。娼館の前だ。さすがの僕も唖然としてしまった。僕――レグルアという人間にとってあまりにも縁遠い場所だ。

「さあ。行ってきなさい」
「嫌だよ」

 苦渋の表情のラリエルに、当然の答えを返す。こんなところに来ても僕が役に立つ場面はない。残念ながら性病の類を癒やすような術を僕は持たない。当然、ラリエルも僕に救済を求めてここを訪れたわけではないだろう。

「ラリエル。仮にもエンジェルでしょう。どうしたの。今日は特段おかしいよ」

 この街は僕が旅程に組み込んだので当然反魔物領と呼ばれてしかるべき場所だ。比較的信仰に篤い人が多く、禁欲の語に反するようなこの建物は本来許されざるものだ。そして、僕の知識が正しければエンジェルもまた禁欲的であることを美徳としていたはずだ。僕は特段自分の欲望を我慢しているわけではないけれど、結果的にとはいえ性欲を持て余していないことは彼女にとっても望ましいことかと思っていた。現に、ラリエルは非常に嫌そうな表情で娼館を睨み付けている。

「行きなさい。学びの時間です」
「断固反対だよ! 僕、そこまでむらむらしているように見える!?」
「見えません。だから行けと言っているのです。少しは理解してきなさい、欲望を」
「意味が分からないよ! 僕はじゅうぶんやりたいようにやらせてもらってるから……っとごめん。語気が強くなっちゃったね」

 大声を出したことで少し通りの人達の目を集めてしまったようだ。この近辺はあまり顔を上げて歩くようなところではない。天使様がいるなら尚更だ。人々は僕らから目をそらすと居心地が悪そうに歩み去った。

「だいたい、欲望を学べっていうのがおかしいよ。ラリエルは天使様でいらっしゃるでしょう。何を言っているのさ。心配されなくても、僕は我慢できる方だよ」
「できるできないではないのです。貴方は無欲過ぎます」
「……えっと。美徳だよね? 教団の教えでは」

 ラリエルは長い沈黙のあと、いよいよ苦しそうに、はい、と頷いた。やっぱり、彼女はひどく傷ついているように見えた。今も自分を傷つけているように思う。とにかくこんなことは止めないといけない。そして、彼女の話を聞かなければならない。旅の仲間として、恩人として、ラリエルを放っておくわけにはいかなかった。

「いいですか。レグルア。無欲であり、清貧であり、善行を積むことをこそ生き甲斐とする。これは紛れもなく美徳です」
「……うん。そうだよね」
「ですが、例外が存在します」
「例外」

 ラリエルは一度頷いた。彼女も確信があって話しているようではなかった。感覚を、なんとか解きほぐしながら語っているような印象を受けた。

「どこまでも純粋に無欲である者です。どこまでも善行を積むことだけをよしとする者です。ここには美徳はありません」
「……えっと」
「自由がないからです。神の教えについて、多少の教養はありますか?」

 なるほど。神学的――そして哲学的な話だった。正義については、くどいくらい教えられた。だから、彼女の言おうとしていることも、聞きかじった覚えくらいはある。

「少し、わかるよ。本当は、こんな風に直裁的に伝えたかったんじゃないってことも、たぶん。待ってくれたんだよね、何年も」
「そうですか。見透かされているようで、少し癪ですね」

 ラリエルは首を振った。そのたびに彼女の髪が揺れるのが、僕は好きだった。美しいものは、よいものだと思う。

「心配してもらわなくても。僕は勇者じゃないから。善行を積めれば、僕自身はどう評価されたっていいんだよ。僕は何かになりたいわけじゃないからさ」
「ずっと昔にも言いましたね。それでは悪しき手本になると」

 ラリエルの瞳が僕を見据える。

「貴方が貴方であり続けること。これは、小さな悲劇です。そして、貴方を目指す者が現れること。これは、大きな悪夢です」
「大げさな気がするけれど……まあ、僕なんかを目指しても仕方はないよね。どうせなら、もっとしっかりしたものを目指して――」
「親魔物領で」

 珍しく、ラリエルが僕の話を打ち切った。

「親魔物領で、貴方は魔物から強く引き留められませんでしたか。教団国家とは比較にならないくらい、切実に」
「……」

 身に覚えが、ありすぎた。切実という言葉ではまだ足りないくらい、僕の旅路は足止めを食らうことが多かった。迷宮に閉じ込められたことさえある。一度として恋愛感情を抱かれたことはなかったけれど、だからこそ異様だった。魔物は好いた相手には一途に、そして必死になる。そうでもない僕のために、彼女たちはひどく心を砕いてくれた。そう、僕のためにだ。多くの魔物にとって、僕の存在は精神衛生上よろしくないものだった。ひどく取り乱して、なんとか保護しようとする方が多かった。

「親魔物領に近づかないのは、必要がないから。だけではありませんね。貴方が有害だからです」
「……有害」

 ラリエルの言葉は僕にとって苦痛を伴うものだった。あの心優しい隣人たちにとって、僕がそうだというのはひどく辛い指摘だった。

「貴方には生を謳歌しようという気が微塵もないのです。貼り付けたようなその笑顔の下には、何もありません。お人好しな彼女たちが、何かひとつくらい与えてあげようと思うのも至極当然のことです」

 思い出す。怪我をしたドラゴンを後に彼女の夫となったのだろう青年と救った時だ。宝物を、何でも良いからひとつ持っていけと強く勧められた。気軽に貰えるような品はひとつもなくて、僕は、あのとき逃げ出した。あまり思い出したくない苦い記憶だ。

「つまり、僕の気持ちが平坦なのを。何とかもうちょっとした方がいいと」
「……ざっくり言ってしまえば、そういうことです」

 はぁ、と溜息を吐くラリエル。

「毎晩望みは? なんて訊いてきたのもつまりはそういうこと?」
「ええ。肩たたきのひとつでも頼んでくれば、私はたいへん喜びました。貴方の回答は常に零点でしたが」

 忌々しい建物に一瞥を送る。

「それで娼館かぁ……」
「なんですか。金銀財宝にも美食にも興味のない貴方です、となれば色でしょう」
「いや。魔物にだって靡かなかったんだよ。それをこんなところでどうしようっていうのさ。性欲を喚起させようっていうなら、アルラウネに蜜でも分けて貰った方が手っ取り早いよ」
「……」

 ラリエルは沈黙した。よく見れば耳まで真っ赤になっている。数年間思い悩んだのだろう。その末の爆発と奇行がこれだったのだろう。怜悧な彼女らしくない。少しだけ、可愛らしいと思った。

「とにかく、離れよう。ラリエルが僕にしてみたいことがやっとわかったんだ。付き合うよ、全然。久しぶりに緩いところにも行ってみたいしね」

 それから、と言葉を続ける。

「ラリエルも道連れだからね。色々言ってくれたけど、無欲すぎるのは君だってそうだ。僕の笑顔と君の鉄面皮、どっちが固いのか勝負しようじゃないか」

 ラリエルはきっと僕を睨んだ。

「私には、必要ありません。だいたい。魔に冒されるでしょう、そんなことをしたら」
「ラリエルだよ。今更だ。大して変わらないって」
「私をフーリーか何かのように……!」

 でも、と僕は心から笑ってみせる。

「翼が黒くなっちゃうのは嫌だな。ラリエルには、うん。純白がよく似合うと思うから」
「はあ……ばかばかしい。付き合いきれませんね」

 軽口に、肩をすくめる彼女。少しだけいつもの調子に戻ってくれたようで嬉しかった。

「まあ、いいでしょう。どうせ今更。多少魔に触れたからどうということもないでしょう」

 娼館の営業を妨げること著しい僕たちふたりは、こうしてその場を後にすることになった。

 旅程は大きく変更となる。親魔物領へ。目的は、色欲のため。
21/06/08 13:46更新 / やまいも
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