読切小説
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郵便屋さんとイエティ
 寒さから体を守る為に覆った、幾重もの毛皮の上着のせいで多少動き辛くはあったものの、なんとか俺は今日も一仕事を終えた。
 空っぽになったカバンを肩から提げ、雪山に囲まれた不便な立地のこの町に足を踏み入れる。

 もう雪山は越えているというのに、まだ雪はしつこく視界からなくならず、相も変わらず足元に絨毯として広がり続け、俺が歩を進めるたびにザックザックと小気味の良い音を鳴らしていく。……が、さすがに聞き飽きてしまったのが本音である。

 もちろん気温はとても低い。息を吐けば例に漏れず全て寒々しい白い吐息に変わるし、肌を晒そうものなら、ナイフで切り裂かれるかのような寒さに襲われる。そしてこちらに関しては俺に関係はないが、土地は痩せてはいないものの、住人たちにとっては作物を育てるのにも、こんな気温じゃ気苦労が絶えない事だろう。

 だがそんな不便な、雪山に囲まれたこの町を、俺は実のところ気に入っていた。みんな暖かそうな毛皮の上着を身にまとっているが、見た目だけじゃなく心も実際に暖かい人ばかりだ。初めて俺が山の向こうからこの町にやって来た時も、無愛想な俺を優しく迎えてくれた。

 加えて、立ち並ぶログハウスの屋根の縁からぶら下がる氷柱が、夕方には窓から漏れる明かりに照らされキラキラと一斉に輝く光景、住人が身支度を始めた事を主張する、煙突から立ち込める煙、全てが俺の心を和ませるものだった。

 給与は十分貰っているから、というのがこの仕事を続けている主な理由だが、最近では俺が家を構えているふもとの町より、こっちの町に居る時間の方が長くなっているのが不思議で仕方がない。


 そして今日も俺は仕事を終え、周囲ほとんどを山に囲まれた不便なこの町で身体を休めていた。


 ……朝、目を覚ました俺は、いつも泊まっている宿屋の主人に挨拶をし、振舞ってくれたおいしいシチューを有難く頂いてから町を出た。もちろん、仕事の目的である郵便物をカバンに仕舞いながら。

 いつも通り順調に事が進む。一番大変な山越えも、今回は天気も快晴で、難なく済んだ。朝早くに出発したとは言え、山を隔てた先にある大きな町に到着したのはまだ正午を越えた頃だった。
 強いて問題を挙げるとするなら、山を通過している時に時折感じる視線を今日も感じた事になるが、気のせいだと俺は信じたい。あの山はただでさえ危険で、昔はよく死者も出たらしいので、気味が悪いったらありゃしない。

「家に帰って、くつろげる時間が増えるな」

 仕事柄、一人になる機会が多い俺は、癖になってしまった独り言をつい呟く。そう、俺には家がある。それも、妻が待つ暖かい家庭だ。
 いつも仕事で長い間家を空けてしまうが、いつも妻は俺を優しく出迎えてくれる。……ただ、一人にさせる時間が多いせいか、最近あまりいい顔をしてくれないのも事実だ。それが、最近の俺の気がかりになってもいる。

 俺はひとまず郵便物を配送し終えたあと、家へと向かった。妻の顔がまた見られる事と、いつも通り、仕事で得た金をまた貯蓄へ加える事を想像すると、つい顔が綻んでしまうのも無理はないだろう。
 今はまだ小さな家だが、苦労して貯めてきたお金でそろそろ大きな家を買えるのだ。前々から家や俺に関して不満を言っていた妻に、俺が新しく立派な家を買ってあげたらどんな顔をするだろうか……今から楽しみで仕方がない。


 そんな他愛もない、しかしそう遠くない将来に起こるであろう出来事を想像しながら家へ到着し、扉を開けた俺は、“順調に進んだ”と評したこの日を、“人生で最悪の日”という評価に改めなければならなくなったのだった。


「……なんなんだこれは」


 つい、口から言葉がこぼれる。これはいつもの癖で言った独り言とはまた違う類の言葉だ。まず、扉を開けて目に飛び込んできた光景は、“何も無い部屋”だったからだ。
 文字通り、床と壁と天井しかない、ただの部屋。だが、入る家を間違えた訳でもない。この家は紛れも無い、俺と妻の家である。

 ひとまず家へ一歩足を踏み入れた。色が抜け落ちて、薄い灰色になった木造の床が、俺の体重を受けてギシッという聞きなれた床の軋む音を鳴らす。腰を下ろして休むのに使っていたソファも、食器が並べられていた棚も、妻と並んで寝たベッドも無い。
 まるで狐につままれたかの様な気持ちのまま、辺りを眺めほうけていた俺はふと我に返り、この事態がなんなのかを突き止めるべく、まず近所の住民へと話を聞きにいった。

「あ、あら、アレクセイさん戻っていたのね。お仕事お疲れ様」

 隣の家の戸を叩くと、すぐにそこに住んでいた夫婦が顔を出してくれた。だが、長い付き合いだと言うのになぜかどぎまぎした様な、よそよそしさが含まれた様子なのが気にかかる。挨拶も程ほどに、俺がさっき見た事を素直に話し、妻の姿が見当たらない事も話すと、夫婦は互いに顔を見合わせて気まずそうに顔を歪ませた。

「それが、その……ちょっと話すには気が引けるんだけど……」

 そう言って、目を逸らしながら気まずそうに奥さんは話を聞かせてくれた。だが、その話を聞き終える頃には、俺は妻の安否を心配して眉を八の字にしていた顔から一変させ、生気を失い口を半開きにした顔になっていたに違いなかった。

 要約すると奥さんが見たのは、夜遅くに家具を売り払う俺の妻の姿と、売り払い終えた後“俺ではない”別の男と一緒に腕を組みながらどこかへと去っていく妻の姿だったのだ。


 それが何を意味するのか、今更説明するまでもないだろう。長年の付き合いでもある、真面目な奥さんが嘘をつく理由もないし、俺の家の有様もその話が本当だと辻褄が合う。もはや疑う余地など、猫の額ほどにも、ひと欠片ほども、俺に残されてはいなかった。


 あまりに衝撃的な出来事に、俺は茫然自失となり、わざわざ事の顛末を話してくれた奥さんにろくに感謝も出来ないまま、奥さんから哀れみの視線を送られつつ何もなくなってしまった家へと、帰宅を果たした。

 ドサッ、という音を立てながら俺は床にへたり込む。慣れ親しんだ我が家も、今では疎ましくすら思える。
 貯金を収めていた、泥棒に盗られない様に買ってきた鍵付きの箱も見当たらない。当然、というべきか、妻が持っていったのだろう。泥棒への対策として買ったのに、皮肉すぎて笑えない。苦労して買ったとはいえ、そう広くはないこの家だけが、今では俺の全てとなっていた。


 一体……いつから、妻は俺を見限って別の男と浮気をして、そのまま全てを持って逃げるつもりだったのか。

 そんな疑問が延々と脳内で繰り返される。……答えてくれる相手を探しているかの様に。

 そのまま俺は一体どれくらいの時間を過ごしたんだろう。かなりの時間が過ぎたようにも感じるし、瞬きする程度の時間しか過ぎていない気もする。
 色んな事を考えていると、ふと、窓から差し込む夕陽に顔を照らされ、その眩しさに思わず手で光を遮り片目を瞑ってしまった。

 いつの間にかもうこんな時間になっていた事に驚き、まだ腹の中で渦巻いているどす黒い雲のような絶望感と共に、俺は立ち上がる。


 ここまではっきりと浮気をされ、夜逃げまでされたのだ。怒りを通り越し、もはや悲しみしか感じられない。今から妻を探そうとも思わなかった。……確か、向かいのブロックに住んでいる人が、届けて欲しい郵便物があると言っていたはずだ。
 今、喪失感と悲しみによってメチャメチャに打ちのめされた俺に出来る事は、仕事で全てを忘れる事くらいしかなかったのである。
 俺は最悪のコンディションのまま、今日通った道を、まるで生前が忘れられない亡霊のような、フラフラとした足取りで戻っていった。





――……ビュオーッ
 先程から耳に届くのは、荒々しく吹き荒れる吹雪の音ばかりだ。俺とした事が、天気を読み違えてしまい、こんな酷い吹雪に文字通り襲われながら登山するはめになっていた。
 フードを目一杯深く被り、顔が露出する範囲を最低限にする。それでも目の付近は、存分に冷気に晒されて赤くなっていた。

 あまりに強い吹雪のせいと、深く積もった雪が足を飲み込むせいで、元々険しかった山道は、山を越えようとする者から容赦なく力を奪っていく。
 俺は隙あらば弱音を吐きそうになる唇をかみ締め、もう一度カバンの位置を直してから、この吹雪の音と、積もった雪に足を突っ込む音以外何も聞こえない世界でまたせっせと歩き始めた。


 だが、そんな単調な事を繰り返していたせいか、ふと、自分が住んでいる町の事が脳裏を掠める。そこにあるのは、慣れ親しんだ町の光景と、我が家、そして、妻の顔……。


 そんな疑念が命取りになるとは夢にも思っていなかった。次の瞬間、右足が予想以上に深く雪へ食い込んでいたのか、右足を雪にとられてしまい、思わず俺は右側の方へとこけてしまったのだ。
 ハッとした時には既に遅かった。ちょうど、俺が差し掛かった道は細くなり、右側がちょっとした崖になっている山道だったのだ。当然、こんな場所に柵などという代物はない。

 俺の体は宙を舞った。ちょうどこんな場所で、天気を読み間違え、下らない疑念に気をとられ、いつもなら絶対招かない事態を招いてしまい、全てが憎く、腹立たしかった。

 だがそんな俺の想いとは裏腹に、倒れこんだ際に崩れた、地面に積もっていた雪の欠片のいくつかと共に俺は落下していく。下から見上げる光景を見た次の瞬間、俺の体を鈍い衝撃と、痛みが襲った。


「ぐ……うぅ……」

 呻き声をあげて、なんとか顔にかかった雪を払いのける。切り立った高い崖ではないにせよ、数メートルの崖から落ちた為、激痛に襲われる。
 脇腹に鈍い痛みと鋭い痛みが交互に現れ、立って歩く事が出来ない。それでもそんな俺を嘲笑うかのように吹雪は止まず、相変わらずヒューヒューとふぶき続け、むしろ一層強まっているかのようだった。

「これは少しマズいな……このままここで冷やされると……さすがに」

 自嘲気味に一人ごちて、両手で近くの雪を掴む。そのまま体を起こそうとするが、やはり痛みに襲われて立てず、キャンバスの様な雪の上へ無様に身を投げた。
 視界は空を映しており、絶えまなく白い粒のような雪が消えては現れ消えては現れを繰り返している。もはや打開策を思いつかない。

 諦めの念を浮かべたせいか、一気に体が冷たくなっていくのを感じた。徐々に瞼が閉じていき、吹雪の音も小さくなっていく。
 マズいとは頭で理解しているが、心のどこかでもはやどうする事も出来ないと受け入れている節もあり、更には、出発する前にあんな出来事が起こったせいなのか、この世に未練などない、という自滅的な思想すら自分の中で巣食い始めていた事にここで始めて気がつく。そのまま、急速に意識が遠のいていった。

そして――――






――――……意識が戻る。
 常に耳を満たしていた吹雪の音が消え失せ、雪の上に横たわっていたせいで背後側から伝わっていた命を奪う冷たさも綺麗さっぱりなくなっていた。
 見ると、ここは洞窟だった。顔を動かして自分が横たわっている場所を確認すると、山のふもとで広がる森に住む、ヘラジカの皮から作られた豪快なカーペットが自分の下に敷かれていた。

 そしてすぐ横には焚火があった。束の間忘れていた暖かさが一気に伝わり、体中に広がる。どうやら自分はほとんど誰も通らないあの山道で、奇跡的に誰かから助けられたらしい。だが焚火はまだしも、毛皮のカーペットが敷かれているのは、まるでここに住んでいるかのようで違和感を覚えたが、この際そんな事どうでもよかった。上体を起こして、無意識に手を脇腹へのばしてやっと気付く。

「痛みが……引いてる」

 痛みが引いているとは言ったが、いくばくかの鈍痛は残っている。しかし、先程までは立ち上がる事はおろか、呼吸さえ困難な痛みに襲われていたのに、今では上体を起こしてゆっくりと移動出来るくらいに回復していたのが驚きだったのだ。
 特に痛んでいた左腕を巻き込む形で脇腹から肩にかけて斜めに包帯……いや、青いマフラーが巻き付けられている。恐らく包帯がなくて、とっさに誰かが巻いてくれたのだろう。

 至れり尽くせりの展開にむしろ困惑すら感じていると、洞窟の入り口の方から足音が聞こえてきた。洞窟の中だが、外から吹雪の音が少しだけここにも届いている。それに混じり、誰かの足音……恐らく、俺を助けてくれた人物がここに向かっているのだろう。

 そして角から姿を現したのは、山に入ってから飽きるほど見てきた、白い雪よりも真っ白な毛を随所に纏った、褐色の肌の少女だった。

「あ……あ、君……は?」


「あーっ! 目を覚ましたんだねーっ!」


 てっきり俺と同じように、厚い防寒具で身を包んだ誰かがひょっこり現れるかと思っていた為、完全に不意をつかれた俺は、不格好に口を開けながら精一杯の質問を口に出していた。が、俺がそう言い切ったかどうかすら怪しいほど素早く、その少女は俺を視界に入れた途端にっこりと笑顔を浮かべ、手に持っていた果物を放り投げながら駆け寄って来ていた。

「ううっ!?」

 そして彼女はあろうことかその豊満かつ露出度の高い ―そこに疑問を抱く時間はなかった― 体で勢いよく抱きついてきた。
 ひとまず腰をおろして休んでいた為、上体を起こしていた俺の顔には彼女の胸が押しつけられ、後頭部にはしっかりと手を回されている。

「いやぁ〜 偶然ボクがあそこを通っていなかったらどうなってたと思うの? 大変なことになってたよ? 気を失ってたし……ホント心配したよ〜」

 彼女の声音と今の行動から、どうやら悪い人ではない事がたやすく分かった。それでいてとても自分を心配してくれていて、助けてくれたのも彼女だったという事も。
 色んな不可解な点があるが、とりあえずこちらも礼は弁えているつもりだ。感謝の気持ちで胸が一杯になる。

「ぐ……ぐ……ひとまず、離してくれないか……?」


「え? あ、うん。わかった……」


 俺が一言訴えると、ひょい、と彼女は素直に離れてくれた。だが、相変わらず元気な笑顔を浮かべてこっちをニコニコしながら見つめている。

「とりあえず……君が俺を助けてくれたんだな? 俺はアレクセイ。よかったら、恩人である君の名前も教えてくれるか?」


 俺の名前を聞くと、彼女は笑顔を引っ込めてから小さく口を開け、そらんじるようにブツブツと口を動かした。そしてまたニッコリと笑顔を浮かべてから再度元気よく声を発した。

「アレクセイ……アレクセイ……! ボクはココっていうの!」


 なんとも元気で優しい子なんだな、と伝わる表情だ。思わずこっちも警戒心を解き、破顔一笑してしまう、そんな雰囲気の子だった。
 ……だが、ここでやっと、彼女に存在する“いくつかの”問題点が、浮き彫りになってきた。

「ええと、ココっていうのか。君のおかげで助かったよ、本当にありがとう。……でも、君、その格好は……」

 俺が言おうとしているのは、他でもない。彼女の格好……いや、格好というのもおこがましい程、あまりに服が少ない。驚くべき事に、彼女は手足を覆う獣のような白い毛皮と同じ毛で覆われた水着しか身に着けていないのだ。……この、極寒の雪山において、である。

 草木すらも生きていくのが困難なこの雪山において、彼女のこの服装が ―そして彼女の手足が― 何を意味するのか。
 ……わざわざ瀕死の所を助けてくれたのと、彼女の反応を見るに、俺に危害を加える気は全くないと判断はしていいのだろう。



「この格好? ボク、体温がとっても高いから、こんな雪山でもへっちゃらなんだよ」

 白いふわふわの毛皮に覆われた両手を腰にあて、えっへんと胸を張るココ。まさか、魔物がこの雪山に棲んでいるとは、全く気が付かなかった。……毛皮が白いせいで、遠目からじゃ見つけられなかっただけかもしれないが。

「そうなのか……そりゃ、俺からしたら羨ましいよ」

 その服装の薄さをもう一度眺めながら、半ば呆れ気味に俺は呟いた。

「それにしても、あんなに痛みがあったのに、もうここまで回復してるなんて驚きだ」

 落下した後に激痛を発していたわき腹などをさすりながら、つい不思議に思っていた事を口走る。どれくらい気絶していたかは分からないが、恐らく経っていても半日程度だろう。ココに医療の心得があるようには見えないし、疑問が残る。
 その時、ココが見るものも笑顔にさせるようなニコニコ顔のまま、俺の疑問を解決してくれた。

「それはね、ふもとで取れる薬草の効果と、ボクがここにアレクセイを連れてきて寝かせてる間、ついさっきまでずっと抱きついて暖めていたからだよ。ボクら、イエティのハグはどんな寒い所に居たってすぐにポカポカになれる力が含まれてるんだ。……でも、痛みは引いてるだろうけど、まだ動いちゃだめだからね?」

 そう言って苦笑するココ。まさか、焚き火が横にあるとは言え、随分体の芯からぽかぽかすると思ったら、彼女が抱きついて人肌で暖めてくれていたとは。想像以上の献身ぶりに、少し面食らってしまう。

「そこまでしていてくれたのか? いや本当、頭が上がらないよ……」

 素直に俺は彼女へ感謝の言葉を贈る。正直な話、一瞬とは言え雪の上に身を投げて、そのまま生を手放してしまった自分自身を恥じざるを得ない優しさだった。神様は自暴自棄になった俺に、最後のチャンスを与えてくれたのだろうか。……だが、実際に助けてくれたのは彼女、ココだ。神様ではなくココへいずれ何かしらの形で恩を返さねば。

 しかし俺の言葉を聞いたココは、笑顔から一転して申し訳なさそうな、ややへりくだった表情になって慌てて口を開いた。

「とんでもない! だって、目の前で息も絶え絶えになっている人がいるんだもん、当然だよ。それに、アレクセイの事は前から好きだったし……あっ」

 最後の一言に、お互い“はっ”と言いたげな表情になって、視線を合わせる。今の発言だと、前々から俺の事を知っているような口ぶりだ。だが当然ながら、俺がココと知り合ったのはついさっきの事だ。

「ココ、俺の事を知ってるのか……?」

「あ、あ、ええと、その……えへへ」

 訝しげに尋ねる俺に、口を滑らした事で動揺しているのか、曖昧模糊とした口調で目を泳がせながらココは苦笑する。
 そして、そのまま少しの間、彼女が何か言う事を期待して黙っていたら、観念したのかココはおずおずと先ほどの発言について説明し始めた。

「じ、実は、アレクセイってよくこの山を通るでしょ? ボクはほら、この山に住んでいるから……かなり前からアレクセイの事は知っていたの。 よく遠い所から、名前すら知らなかったけど、毎日と言っていいほど頑張って山を通ってるアレクセイを眺めて、頑張れ!って応援してたんだよ…………ご、ごめんなさい!」

 説明の途中、俺に隠れてそんな事をしていたという事実に、気恥ずかしさを感じたのか、少し頬を赤く染めながら謝ってしまったココ。そんな彼女の様子に思わず俺は小さく笑ってしまっていたと共に、今まで山を越えている際に時折感じていた謎の視線の原因も理解して、納得がいっていた。
 まさか、彼女がよく俺を見守っていてくれていたお陰で命が助かったとは。

「そんな、謝る事なんかない。お陰で俺は命を救われたんだ、こっちこそ感謝してもし足りない。わざわざ本当にありがとう、ココ」

 すると、ココは申し訳なさそうな表情を崩し、その、笑顔を浮かべるために作られたのではないかと思ってしまうほど可愛らしく、明るい相貌で笑みを浮かべた。

「い、いやぁ……そんなに感謝されると、さすがに照れるなぁ……えへへ」

 今度は別の種類の気恥ずかしさを感じている為に、ココは引き続き赤く染まっている頬を照れくさそうにかいている。
 だがふと、ココは今まで気になっていたのだろうか、とある疑問を投げかけてきた。

「でも、アレクセイって、ほとんど毎日と言っていいほどこの山を通ってるけど、なんでなの?」

「ああ、仕事だよ」

 俺はちらりと横に置かれているかばんを一瞥する。

「知っているだろうけど、この近くに山に囲まれた不便な立地の町があるだろう? そこに住む若い住人達はそんな立地を嫌って、山を越え、麓にある別の町に移り住んだんだ。だから、麓の町と山に囲まれた町は密接に関係している。でも山が険しく、危険だから、誰も郵便物なんか運んでくれない……そこで、俺の出番って訳さ」

「なるほど……二つの町専属の郵便屋さんみたいな感じなんだねっ アレクセイって凄い!」

 すると、ココはそのまま俺に近寄って来たかと思うと、上半身を起こして座ったままである俺の前から腰を下ろし、優しく抱きついてきた。
 ココのもちもちとした褐色の肌と、たわわに実ったその胸が惜しげもなく俺の体と密着すると同時に、女性特有の甘い香りが空気に乗って伝わり、俺の鼻腔をくすぐる。
 もちろん、普通ならこんなタイミングで誰かが誰かにハグする事はないだろうが、ココの性格や、ココが魔物である事から考えるに、恐らく彼女なりの好意の表現なのだろうと俺は考えた。……そうじゃないと、さすがに俺が照れくさくて冷静でいられなくなるから、というのも一因だ。

「ハハ、魔物っていうのは、よく抱きついてきたりするのかな」

「ん〜 他の子は知らないけど、ボクらイエティはほとんどの子がハグ大好きなんだ! ボクも簡単に好意を伝えられるから、ハグは大好きなの。ほら、ぎゅ〜」


 先ほどココが言った通り、ハグをされてから瞬く間に体の芯から暖かくなっていくのを感じる。単純に人肌で暖められているだけではないのは、確かだ。その暖かさは、ただの温度の変化というだけで済ます事が出来ない力を持っている。ココに抱きつかれていると、孤独感やストレスといった負の感情がことごとく打ち消され、逆に、暖かさと共に不思議と安心感すらも心の奥底から湧き上がってくるのだ。
 それはとても心地良く、筆舌に尽くしがたい“暖かさ”を持っていた。

「……でも、仕事だからって言っても、これから山を越える時にはしっかり気をつけてね。ボク、アレクセイが道から落ちたのを見て、本当に不安になったんだから。それに、崖の下で気を失ったアレクセイを見た時も。もし、ボクが気づいていなかったらって思うと胸がこう、苦しくなってくるの。……だから、気をつけてね」

 俺に前から抱きついて、ココの顔は俺の肩辺りにある。なのでココの顔は見れないが、彼女の声だけで彼女の表情はたやすく脳裏に想像出来る。そして、先ほどより少し増したココの抱きつく強さからは、彼女がどれだけ俺の事を心配したかも、ひしひしと伝わってきた。
 今俺の胸中に広がっている“暖かさ”は、恐らく、イエティが持っているという、ハグする事によって生まれる暖かさとはまた違った種類のものだろう。

 しかし、ここで俺は自分でも予想外の行動を取ってしまっていた。


「……アレクセイ?」

 ふと、ココが不思議そうな声をあげる。それもそのはず、俺の両目から流れ落ちた涙が、俺に抱きついているココの腕に落ちたからだ。

 すぐにココが抱きつくのをやめ、心配そうな面持ちで俺の顔を覗き込む。

「どうしたの? どこか痛いの?」

 ココの優しさが、更に涙を誘ってしまう。
 自分でも驚いているが、理由もわからないまま、涙が両目から止まらないのだ。不安そうにしているココに、何か言葉をかけてやりたいが、その肝心の言葉が喉につまって出てこない。それにまだ会って間もないこんな女の子相手に醜態を晒しているというのに、自分を御しきれないのも、自分で自分が不可解だった。

 そんな俺を静かに見つめていたココは、静かに、もう一度俺に抱きついてきた。俺は、出そうになった声を押し殺しながら、また静かに涙を流していた。



 ……まるで俺の気持ちを察してくれた様に、ココは何も言わず、俺が泣き止むまでただ黙ってそばに寄り添ってくれていた。俺の方が ―見た目からして恐らく― 年上だというのに、まったくもって恥ずかしい限りである。
 俺が落ち着いたのを感じ取ったココは、ゆっくりと口を開いた。

「大丈夫? アレクセイ」

「ああ……お陰様でな」

 自嘲気味につぶやく。すると、ココは少し距離を置いて、その可愛らしい顔で俺の顔を覗き込む。

「何か辛い事でもあったの?」

 その一言で、俺は否応なく、妻の事をまぶたの裏に思い描く事になった。たちの悪い頭痛に苛まれているような不快な感覚が湧き起こり、気分が悪くなる。
 それでも、俺が涙を流した理由が気になるココは、俺の答えを静かに待っていた。

「……会ったばかりの君に、こんな事を話すのもどうかと思うが……」

 俺は、ずいぶんと精神が参っていて愚痴を聞いてもらう相手を欲していたのか、それとも彼女に心を許してしまっていたのか……どちらかはわからないが、なんとも下らない、町で起こった出来事をぽつりぽつりとココへ話してしまっていた。

 酒に溺れた酔っ払いの方がまだマシな話が出来るだろうに、ココは俺が語る話を、輝く大きな瞳で俺を見つめながら真面目に聞いてくれていた。

「……そして、家を空けている俺に愛想を尽かしたんだろうな……見事に俺は妻に逃げられ、半ば自暴自棄になりながら仕事で嫌な事を忘れようとしたら、君に助けられたって訳だ」

 全てを語り終えた時、ココは何も言わなかった。一瞬、焚き火が鳴らすパチパチという爆ぜる音を除き、洞窟内に静寂が訪れる。
 だが、それは突然立ち上がり、怒りの声をあげるココによって間もなく打ち破られる事になった。

「なんて酷いヤツなの、その女! ヒドイ! アレクセイが可哀想!!」

 話を聞いて憤慨した様子のココが、抑えきれない怒りをあらわにしながら、両手に握りこぶしを作って俺を見下ろしている。

「だって、アレクセイはこんなに頑張ってるのに……それに奥さんなのに、アレクセイの気持ちも考えてあげないなんて……ううん、人格とか、それ以前の問題だよ、その人!」


 まるで俺の身になって考えているように、怒り、共に悲しんでくれている。それだけで、俺は十分嬉しかった。

「こんな下らない愚痴に付き合ってくれるだけで、俺は満足だよ。それに、ココのお陰でもう全部忘れられる」

 俺がそう言ったのを聞いて、それでも怒りが冷めやらないのか、一瞬「そんな……」と呟いたココだったが、俺の意思を尊重してくれたのか、その続きは言い出さなかった。

「それに、もう自分の命を粗末に扱ったりはしない。……俺には、この郵便を待っている人たちが居るしな……」

 言いながら、俺は、俺の横に置かれた郵便物が入ったカバンを手に取り、中身を確認する。

「ん……?」

 だが、俺の言葉は途中でさえぎられてしまう。それもそのはず、カバンの中に違和感を覚えたからだ。

「どうしたの?」

 俺の様子を怪訝そうに見つめるココ。俺は構うことなく、カバンに手を突っ込み、中身を確認し始める。

「なんて事だ……」

 確認し終わった俺の口からこぼれ出たのは、落胆の声だった。バサッとひざの上にカバンを落とし、片手を額に当てる。先ほどカバンを見て覚えた違和感の正体は、カバンに詰めた郵便物の量の少なさだったのだ。
 そして確認した所、案の定郵便物が七通も出発前より減っていた。

「どうやら、崖から落ちた時にカバンから郵便物が落ちてしまったらしい。……町の皆に申し訳が立たないな、こりゃ……」

 恐らく、崖から落ちた際に手紙を落としたんだろう。あの吹雪だ、今更戻って探しても見つかるはずがない。差出人には俺がなんとか謝るしかないだろう。“仕方ない”と、次に俺が呟こうとした時……。

「手紙を七通落としたんだね!? ボクが探してくるよ!」

 思わず「えっ」という声が自分の口から飛び出す。顔を見上げた時には、決意を固めた表情のココが“任せて!”とでも言いたげなまま、早速身を翻して洞窟の入り口の方へと駆け出してしまっていた。

「ちょ、ちょっと待てココ! 外は吹雪だし、手紙は雪に埋もれてもう見つかる訳がない!」

 俺は痛むわき腹を気にする事なく、声を張り上げた。しかし、ココは振り返る事もなく「大丈夫、吹雪はもう止んでるから!」とだけ言い残し、遂には後姿が見えなくなってしまったのである。
 明るい性格の子だと思っていたが、どうやら単純かつ、底抜けに明るい性格の様だ。一体、どれほど楽観的になればそこまでポジティブに行動が出来るのだろう。

 俺はそのまま洞窟で待っている事は出来ず、横に置かれた防寒具に身を包んで、急いでココの後を追った。


 安静にしていればそれほど痛みは感じなかったものの、さすがに立ち上がって歩けば、体の節々が悲鳴をあげ始める。ズキズキとした痛みが随所で現れては消えを繰り返していた。

 だが、幸いな事に、ココの言うとおり吹雪は止んでおり、風もそこまで強くは吹いていなかった。夕方に町を出発し、どれくらい気を失っていたのか、細かい時間は分からないが、既に太陽は没しており、空に垂れ込む雲の合間からは、雲の上で広がる漆黒のカーテンがちらりと顔を見せている。俺はバッグに詰めていた松明に火を灯す。

 辺りを見渡すと、この辺り一帯の地形には見覚えがあった。どうやら、俺がいつも通る山道から少し外れた場所らしい。ここから、俺が足を踏み外した道までそう遠くはない。これなら、なんとか痛みを堪えれば、後を追えそうだった。


 積もった雪と戦いながら道を行く事にはもう手馴れたものだ。洞窟から出て、道沿いを進む俺は怪我を負っていながら、ものの数分程度で例の場所へと着いた。
 しかしこの調子なら途中でココに追いつけるものとばかり思っていたが、意外にもココの方が進む速度は速かったらしく、先に到着した彼女は、既に崖下で手紙の捜索に励んでいた。

「ココー! 手紙なんかもう見つかる訳がない、気持ちは有難いが、もう夜だ、危険すぎる。諦めて洞窟に帰ろうー!」

 俺は道からやや身を乗り出し、出来る限り大きな声で、下の雪原でせっせと雪を掻き分け手紙を探すココに声をかけた。その厚意はとても有難いのだが、誰がどう見ても彼女の試みは無謀だ。そもそもこんな時間にこの山をうろつくだなんて、とても危険である。……俺はすこし前にそれをしようとしていたので、偉そうに人の事は言えないのだが。

 しかしココは、魔物特有の力なのか、人間では到底出来ないような速度で雪を両手で掻き分け、手紙を探し続けている。とは言っても、あの腕力をもってしても、既に半日も経ったこの雪原に埋没した手紙を探し当てるのは至難の業に違いない。早く彼女を諦めさせ、洞窟に帰らなければならない。


「ココー 頼む、諦めてくれないか……」


 そう、言いかけた時だった。突然、ココが腰を屈めながら捜索している途中、ピタッと動きを止めたかと思うと、素早い動きで立ち上がり、何かを頭上高く掲げていた。その、明るい笑顔と共に。

「見つけたよー! アレクセイ!」

 その手に持っていた物は、雪で少し湿っているものの俺が運ぼうとしていた、白い便箋に包まれた郵便物に違いなかった。

 ……それが、彼女との付き合いの始まりである。








 ……あれから、俺とココは一通の手紙を持って洞窟に帰り、共に一晩を過ごした。俺の役に立てた、と喜ぶココを労っていたものの、一方で俺は驚きを隠しきれなかった。まさか手紙が一通とは言え、あの崖下に広がる雪の中から見つけられるだなんて。彼女の行動力に、重ね重ね助けられている俺が居る。
 彼女との出会いは運命なのではないか、という他愛もない考えが浮かぶ程だ。

 朝になり、例に漏れずしっかりと俺に抱きついて、俺を暖めてくれていたココを苦笑しながら起こし、身支度を整える。そして快晴の天気の内に山を降りようと、ココに礼を言ってから出発しようとした俺に、ココはとある“約束”をしたのだった。

 そう、それは“残りの六通の手紙も全部見つけ出す”という、彼女らしい、とんでもない約束だ。

 だが実際、彼女は俺の目の前で不可能と思われた一通を見つけている。それに、彼女は命の恩人でもある。そんなココが、とても愛らしい顔で、俺に頼んでいるのだ。断る事なんて到底出来ず、俺はそれを受け入れたのだった。

 更には、もう遠くから俺を眺めるだけ、なんて事はやめたのか、俺が山を通る度にココは顔を出し ―と同時に抱きつきもし― 共に山を越える間、いろんな世間話をするようになった。
 時折、時間があれば彼女の洞窟で休憩も取る。

 ……そして、今俺は、ココとの“約束”を果たすため、俺がココと出会った……崖下の雪原にて、ココと一緒に手紙を捜索していた。


「ふぅ、そっちはどうだ?」

 俺は額に浮かんだ汗を手で拭いながら、片手に持っていたスコップを近くの雪に刺した。今更ながら、彼女に負けて約束を受けた自分が少し恨めしくなってくる。天気がいい日には必ず、彼女からこうして手紙を探そうとせがまれるのだ。

「ん〜 ちょっと見つからないなぁ〜」

 言いながら、相変わらずの腕力でせっせと雪を掻き分けるココ。大の大人がスコップを使っているというのに、ココは平気そうに俺の二倍近い速度で雪を掘り返している。しかも、その顔を見る限りあまり疲れたような色は伺えないのが空恐ろしい。


「今日は、もうダメみたいだな。さ、洞窟に帰ろうか」

 俺は少し洞窟で休憩を取ってから、町に出発しようと考えた。が、ココはそういうつもりじゃなかったらしい。

「ん〜 ちょっと待ってぇ……ここにありそうな、予感がするんだけどなぁ……」


 やれやれ、とため息をつく。最初の一通が見つかったのは、奇跡に近い出来事だったのだ。一通見つかっただけで、次も見つかると思ってしまうのが、やはりまだまだココが精神的に子供だという証拠なのだろう。
 俺はどう言えば、ココを傷つけず諦めさせられるのかを思案しながら、雪に刺したスコップの持ち手の部分に両手と共にあごを乗せ、ココを眺めていた。

 その時だった。

「あっ!」

 ココが大きな声をあげる。思わず俺も何事かと、反射的にスコップへ寄りかかっている体勢だった身を正し、ココを注視する。

「どうした?」

 俺が声をかけると、ゆっくりとココは振り返った。……いつしか見た笑顔と共に、茶色い封筒を手にしながら。

「ま、まさか!?」

 驚きのあまり、目を見開かせて俺は声を上擦らせる。その、まさかだった。

「アレクセイ〜! もう一通見つけたよ、褒めて〜!」

 一方のココは、俺をよそに大喜びといった様子で、今にも小躍りを始めるんじゃないかというくらい満面の笑みをその顔にたたえ、予想した通り、次の瞬間にはこちらへ駆け寄ってきて思いっきり俺に飛び込んで抱きついてきたのだった。

 バフッという音と共に、顔を俺のお腹辺りに埋めるココ。彼女の胸の感触が、その大きさのせいで防寒具の上からでもたやすく伝わる程だ。

「お、オホン。本当に、よくやったぞ、ココ」

 不意打ちに次いでのこの柔らかい感触は、さすがに少し恥ずかしくて、咄嗟に出てきた言葉はなんとも急ごしらえで作られたような、ぎくしゃくとした感じを伴っていた。
 だがココはそんな事に気づきもせず、相変わらず何かを期待した面持ちで、こちらを上目遣いで見つめながら抱きついたままだ。
 ……彼女が何を欲しているか、分かってしまった自分が憎い。

 ココが持っていた封筒を受け取り、代わりにココのふわふわとした白い髪をぽんぽんと優しく撫でてあげた。

「〜♪」

 すると、目を細めて、まるで小動物を連想させるような可愛い顔でココはそれを受け入れてくれた。
 そんなココを見て、胸が少し高鳴ってしまっている俺が居た。


「ま、まぁ何にせよ驚いたな。正直、もう二度と見つけられないと思っていたし……」

 腰に手を回して、相変わらず嬉しそうに俺に抱きついているココから目をそらし、別に何もやましい事はしていないのに視線を泳がせている俺は、照れくささをごまかす為に頬をぽりぽりとかいた。

「えへへ〜 凄いでしょ? ボクが本気を出せばこれくらい簡単だよっ それに、アレクセイは諦めが早いんだよ〜 ボクがついてるし、もっとボクを信頼して欲しいなぁ」

 ココは無邪気な笑顔で俺を下から見上げながら、心地良さげに鈴を転がした様な声で言う。その様子がなんとも可愛らしく、つい俺は笑ってしまった。
 そして俺は、抱きついているココに対してハグを返してあげる。

「あっ……」

 するとココは意外そうな声を発した。浮かべていた笑顔もなりを潜め、代わりに目を開いて何かの余韻に浸っているような、心情を伺う事が出来ない無表情に近い顔へと変わる。

「ん? どうかした?」

 気になって声をかけると、ココは首を横に振った。

「ううん、違うの。初めてボクの事をハグしてくれたから、嬉しくって」

 言って、ココはまたもや目を細めて、その細い身をもっと深く俺に預けてくれた。
 そう言えば、俺がハグを返したのはこれが初めてだった事に気付き、いつも明るく積極的に好意を示してくれていたココに、なんだか申し訳ない気持ちを覚えつつ、俺はココと同じように抱擁をしばらく返し続けていた。



 ――――それからというもの、ココに対する気持ちや考え方が変わり、積極的に郵便物探しを手伝う事にした。ココの言うとおり、自分は諦めが早かったのかもしれない。確かに自分がもっと若い時にこんな状況に陥ったら、恐らく多少無茶をしても郵便物を探しに行ったのだろうと思う。……これも年を無駄に食ったからなのだろうか、だとすると少し悲しい気持ちにもなる。

 そして、俺とココの努力の甲斐あってか続々と残りの郵便物が一通、二通と見つかっていき、遂に残された郵便物はあと一通のみとなっていた。
 今日も、ココと雪原を手当たり次第に捜索していた時の事である。

 太陽が雲に隠れる事なく昇っているお陰で雪原は光り輝き、まるで小さな宝石があちこちに散りばめられている様な様相を呈している。その中で、ココはご自慢の腕力で熱心に雪を掘り返していた。そんなココの後姿を一瞥して、もう使い慣れてしまったスコップでザクザクと雪を掘り返しながら俺が言う。

「遂にあと一通だけになったな」

「うん」

「これもホント、ココのお陰だ。命を助けてくれただけじゃなく、君のお陰で郵便物も見つけられた」

「うん」

 一度スコップを辺りへ無造作に突き刺し、額に浮かんだ汗を手袋に覆われた手で拭い、一呼吸置く。吐いた息が白く染まり、白い糸の様に空へと伸びる。首を曲げ、ココの方を見やった。

「もし最後の一通が見つかったら、きっと差出人も受取人も大喜びだよ。その顔を思い浮かべるだけでこっちも嬉しくなる」

「うん……」

「……ココ?」

 先程からココの様子がおかしい。返事はしてくれているものの、心ここにあらずというか、いつもの元気に満ち溢れているまるで太陽を連想させるココの声ではない。
 連日と言っていい程俺の仕事に付き合ってくれたり、今こうしている風に郵便物探しも手伝ってくれているのだ。魔物とはいえ疲労が溜まったり、場合によっては病気にかかっているのかもしれない。もしココがそんな状態だったとしたら、俺はすぐに彼女を助けなければならない。

「大丈夫か? 調子が悪いのか?」

 すると、俺の声でハッとした様にこちらへ振り返るココ。顔色自体はいつもと同じだったが、少なくともその顔にいつものような笑顔は浮かべられていなかった。

「いやっ そんな事は全然ないよ。 ……でも、ごめん。そうだよね……心配させるつもりなんてなかったんだけど、そこまで気が回らなかったよ……」

 言ってうなだれるココ。尻すぼみになっていく語尾は、距離が離れている為に聞き取る事が難しかった。だが、いつもと様子が違う事は確からしい。そこで、一体何があったのかを問い質そうとしたその時。

「あーーーっ! あったよ、あった! 最後の一個!」

 唐突に声を張り上げるココ。身を屈ませ、もぞもぞと掘り返して穴になっている部分へと両手を突っ込んでいる。そして、何かを掴んで立ち上がり、こちらへ振り返った。

「お! 遂に見つかったか!!」

 ココの手には、茶色い小包が握られている。そして、いつの間にかココの顔にも笑顔が戻ってきており、いつもの素敵な笑顔のままこちらへ勢い良く突進してくる。
 軽く跳躍したのではないか、という勢いで俺の胸に飛び込んできたココは、優しく俺にハグをして身を預けてきた。俺はそれに応え、小包を受け取ったあとハグを返し、頭を優しくなでてあげる。郵便物を見つけた際には、この一連の流れがお決まりとなっていたのである。

 俺に抱きつきながら嬉しそうな、気持ちよさそうな表情になるココ。少ししたら満足するのか、ココは離れていくのだが、その少し短い一時を愛おしく思っている自分がそこには居た。

「良くやったぞココ。いつもありがとう。全部見つかったけど、俺が掘り起こした郵便は結局一個だけだったな……ほとんど君の活躍って訳だ」

 やや自嘲気味に苦笑して言う。実際、大の大人なのにこの体たらくなので、ココに対して申し訳ない気持ちを覚えていた。
 が、ココは俺が言い終えた途端、例の笑顔を引っ込ませて、代わりに先程までの様な態度に逆戻りしてしまっていた。

「ココ……?」

 そしてハグをやめたココ。俯きながら、両手を固く握り締めている。明らかに様子がおかしいが、理由も原因も分からない今のままじゃココになんて声をかければいいか分からない。下手な探りを入れて、ココに嫌な思いをさせてしまうのは本末転倒であり、自分でもそんな事はしたくなかった。

「そ、それじゃ、洞窟に戻って休憩でもとろっか……」

 色んな事に考えを巡らせていると、ココが一旦洞窟に戻る事を提案してきた。俯いてるために表情が伺えないが、その声音はどこか悲しげだ。

「あ、ああ……」

 俺は言われた通り、二歩ほど前を歩いていくココに付き従い、洞窟に戻っていった。



 ――戻ってきた洞窟には焚き火が焚かれ、雪山ではとても貴重な存在である、暖かさが満ちた空間になっていた。パチパチという、焚き火の爆ぜる音が今この洞窟内を満たす音の全てだった。そんな中、俺とココはというと、焚き火の前に置かれた、腰を下ろすのに適した形をしている、平べったい石に座ってただ何も言わず体を休めているだけだった。

 郵便物を探している時からこんな調子である。いつもは常に元気でテンションが高く、例え俺が落ち込んでいても、いつしか出会った時の様に自然とこちらまで元気になってしまう様な調子だったのに。今ではそんな面影もなく、握り拳ばかりを作り、顔をあげている時間よりうつむかせている時間の方が長いのではないだろうか。

「ココ。……その、なんていうか、ほら」

 恐る恐る、落ち着いた声音で、割物を扱うかの様に話し始める。先程も言ったが、自分のせいで更に不快な思いを彼女にして欲しくはないのだ。ココが一体なんで先程から悲しげなのかを突き止めたくはあったが、神経を使って掘り進めていく。

「今日はなんだか様子がいつもと違うみたいだけど……なんでそんな様子なのか、俺にも教えて欲しいんだが……いいかな?」

 飽くまで俺の憶測だが、彼女は相当思い詰めているような雰囲気だった。そんなシャボン玉の様になっている彼女を傷つけないよう、顔色も伺いつつ、ようやく本題を言う事が出来た。我ながらさすがに気を使いすぎなのかもしれないが、用心に越した事はないだろう。ふとしたきっかけで、彼女との関係が終わるなんて、考えたくもなかったからだ。

「……」

 ……だが、俺の訴えむなしくココは俯き、美しい褐色の肌を持った両脚、そのキチンと揃えられた膝の上で握り拳を固くするばかりである。残念ながら自分は女性の扱いが上手いわけではない。人生でも関係を持った女性といえば、前妻しかいないのだ。……それも盛大に振られてしまったが。
 女性との縁をたくさん持っている様な男なら、ここで一体なんて言うのだろう。どう振舞うのだろう。何も言わず傍に付き従う? 優しく声をかけながら頭をなでてあげる? 思いつく限りの事を思い浮かべてみたが、全くもって何をすればいいのか分からなかった。それはとても歯がゆく、自分で自分に失望してしまう失態である。

 続いていく無言。寒々しい静寂が洞窟内に満ちていき、焚き火の爆ぜる音と暖かみを上書きし、塗りつぶしていく。まるで視界内が灰色で覆われていくような錯覚に陥っている中、何も出来ない自分の耳にココの声が届いた。

「……本当に、ごめんなさい。こんなに心配かけさせているって、分かってるのに、ボク……すっごくわがまま」

 咄嗟に現れた会話の糸口に、夢中で飛びつきそうになる。だが、それよりも先にココは続けて口を開いていた。

「ボクね、郵便物探しをあんなに頑張っていたのに、実は……本当は、郵便物を見つけたくなかったんだ」

 そう言われ、厳選に厳選を重ねて用意し、一気にあふれ出そうとしていた言葉達が喉の辺りでつっかえ、出てこなくなる。ココのその言葉は、あまりに予想外すぎるものだった。

「でもね、見つけたいっていう気持ちもあったんだよ? 矛盾してるのは分かってるけど……アレクセイと、そのお客さんの為に見つけたかったし、見つけた時アレクセイに褒められるのも凄く嬉しかった。だけど……最後の一個を探している時は、そう思えなかった」

 淡々と、まるで彼女の思いをたった今目の前で形作って糸にし、それを紡いでいく様にココは呟いていく。言いたくはなかったものの、それでも自分に伝えようとしているのがひしひしと伝わる光景だ。

「……本音を言うと、郵便物を全部見つけようだなんて言いだした理由の大半は、アレクセイと自分のつながりを保つ為だったのかもしれない……いや、きっとそうだったんだ」

 膝の上の小さな両手が、更に固く握り締められる。俺は何も言えず、そのまま彼女の話を聞いていく。

「バカだよね……ボク、アレクセイに構って欲しくて、崖から落ちたのを助けたっきりの関係だけじゃなくて、それ以降も一緒に居られる理由の為に、郵便物探しを利用しちゃったの。こんなワガママなボク、きっとアレクセイは嫌いに……」

 相変わらず俯きながら、ただでさえ小さかった声量がさらに小さくなり、語尾は霞むように消えていこうとしている。そこで、俺は遂に我慢できず言葉を発してしまった。

「ああ、本当にバカだよ、ココは。たったそんな事であの素敵な笑顔の代わりに湿っぽい表情を浮かべていたのか?」

 ココが目尻に大粒の涙を溜め込み、焚き火の炎を涙でキラキラと反射させながら顔をあげる。

「あ、いやその……語弊があるな。ココにとっては凄い悩みの種なんだろうけど……その、下らない事だよ。……いや、その悩みが、じゃなくてだよ? 俺なんかと一緒に居たいが為に悩む、って事であって、俺で良ければいくらでも一緒に居てあげるし、だな……」

 ココが半泣きになっているのを見て、思った事を熟考せずついそのまま言ってしまった事を慌てて訂正する。あのままでは誤解を与えてしまうかもしれないし、ココを傷つけてしまいそうだったからだ。だが訂正すると言っても、どぎまぎしながら矢継ぎ早に言葉を発しただけ、というのが正確かもしれない。

「アレクセイ……ッ」

 ココが遂に、溜めに溜めた、無色透明の宝石を目尻から零す。焚き火の、オレンジ色の炎に照らされたそれは、今まで目にしてきた宝石のどれよりも美しい輝きを放っていた。

「ハハ、俺も口下手だからフォローになってないな。なんて言えばいいんだろう……。ッ!?」

 気を取り直して、自分の胸中の思いを正確に伝えようとした矢先だった。ココが、持ち前の俊敏さを存分に発揮し、勢い良く横に座っていた俺へと突撃してきたのだ。
 今までとは比べ物にならない程強い抱擁。勢いのせいで、そのまま後方へ一緒に倒れこんでしまったが、多少の衝撃など意に介せないほど、ココの抱擁は心地よく、愛しかった。

「コ、ココ?」

 とりあえず、と言った風に俺はハグを返してあげる。それを感じ取ったココは、より一層、俺の体に回した両腕で強く抱きしめてきた。自分の胸辺りに顔を埋める彼女。そんな彼女は、そのまま切ない思いをぶちまけてきたのだった。

「ボク、優しいアレクセイの事が大好きなのッ ……ううん、愛してる! アレクセイ、愛してるッ!」

 言葉だけで、ここまで意識が遠くなる事があろうか。今自分は、妻に夜逃げされてもぬけの殻となった哀れな我が家を見た時よりも衝撃を受けていたに違いない。口を半開きにし、胸にうずまっていたココを見下ろしていたが、ココはふと、うずめていたそのとても可愛く整った顔をあげた。先程言った言葉の答えを待っている、といわんばかりにキラキラ輝く、切なそうに目尻を垂れている双眸と目が合ってしまい、息が詰まりそうになる。

「やっぱり……このまま会わないようになっちゃって、アレクセイが居なくなっちゃうなんて事考えたら……耐えられないよ……アレクセイ、ボクの傍に居て……」

 そう言ってまた、俺の胸に顔をうずめるココ。今度は抱擁の力も弱まり、代わりによく注意しないと気づけない程小さく、彼女はその体を震わせていた。
 それを感じ取り、自分はふと自分のやるべき事が全て手に取る様に分かったのだ。

「ココ、大好きだよ。……いや、愛してる」

 ゆっくりと片手で、ココのふわふわとしている、雪色の綺麗な髪をなでてあげる。なでているこちらが心地よくなるほど、ココの髪はふわふわとした感触をしていた。
 自分の言った言葉と、その行為だけで、ココの小さな小さな震えは止まった。代わりに、今まで見てきたどの笑顔よりもとびっきり素敵な笑顔を浮かべた、いつもの可愛い顔で、ココは俺を見つめてきたのだった。

「大丈夫。俺が仕事をしている限り……いや、退職したってこの山へ登り、君に会いにくるさ。それに……君さえ良ければ、その……家も持ってるから、一緒に住んでくれてもいいんだぞ?」

“小さくて古い家だけどな”としっかり付け加えておく。

「アレクセイ……大好きっ」

 彼女は天使の様にクスッと笑い、そう言ってくれた。
13/11/29 01:21更新 / 小藪検査官

■作者メッセージ
 どうも、小藪検査官です。覚えてくれてる人が居たら幸いです。それよりも、この後書きにまで辿り着いてくれた人が居るのかどうか……。
 初めて魔物娘小説を書いてからこれで三作目。二作目からとても長い時間を空けてしまいましたが、魔物娘への愛は冷める事はありませんでした!

 今回は今までと違ってエロを入れるかにも悩み、結局「今後ふとしたきっかけで勃起しちゃってココに(性的な意味で)襲われるんだろうな」という妄想で済ませちゃいました。
 あと、いつもどんなタイトルにするかで悩む……。皆さん、どうやってタイトルを決めてるんでしょうか……。

 最後に、この文章を読んでるという事は(恐らく)小説を読んで頂けたのでしょう! こんな駄文を読んで頂いて本当にありがとうございました!

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