読切小説
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kick it out!
「……このあたりのはずなんだが」

 俺は手に持った手描きのメモを見ながら辺りに景色を見回す。
 寂れた郊外のコンクリート路というものは、どうにも苦手だ。
 どこの道も似たようなものばかりで、探しものをするのに一苦労だからだ。
 既に日は傾き始めていて、人通りはまばら。
その辺の人に道を尋ねるにも、そっちの方が手間かもしれない。
 夕日を背に浴びながら歩き続けていると、ようやくメモに書かれた地図に近い場所に出くわす。

「…ここだ」

 ようやく目的地の建物を発見できた。
 俺は一旦手に持った荷物を置くと、俺は手に持った黄ばんだ道着を羽織り、腰に黒帯を巻いて強く締める。
 年季の入ったその黒帯は、ボロボロにほつれて内側の白い生地が丸見えだ。
 目の前にあるのは日の光で黄色がかった白いコンクリート製の建物。
 スライド式の入口の戸の脇には「赫燕(かくえん)空手道場」と荒々しく刻まれた看板が釘で打ち込まれていた。

 俺はいわゆる道場破りというやつだった。

 もちろん本当に看板が欲しくてやっているわけではない。
誰がこんな使い古された小汚い板切れが欲しいものか。
 目的は、シンプルに強いものと試合がしたいということ。
自分のことを完膚なきまでに打ち負かすような、強い者に出会うこと。
 そんな存在を求めて各地を回るのが、俺の生きがいだ。

 この赫燕道場には、とある噂がある。

 まず強い師範がいる、それは当然のことだ。
 見た目こそ普通の道場を謳っているのだが、ここの師範に多くの格闘家が挑戦しては返り討ちに遭っているらしい。
 だが、それだけではただの強豪の地方道場でしかない。
もうひとつ、ここには普通の地方道場とは違う点がある。

 不可解なことに、誰もその強い師範の本当の顔を知らないということだ。

 強いということは、それだけ顔も知られていて当然なはず。
なのに、師範である彼がどんな人物なのか、その証言があまりにもまばらすぎるのだ。隣町で色々と情報を聞き漁ったが、簡単な容姿だけでも十人十色、どれもこれも全くバラバラな内容だった。
 ある人は背が高い短髪だったといい、またある人は髪の毛が長い細身だったといい、またある人は猿のような奴だという。
 しかもそれらの情報も、辿ってみれば又聞きのものであったり、丸っきりのデマだったりすることもあるので、信用できるものは皆無といってよかった。
 そのあまりの情報の曖昧さに、一部では、そもそもそんな人物が本当にいるのかすらも疑われている。

 では実際に師範と戦ったものにあたって直接話を聞くか?
と思うにも、そうもいかないのである。

 なぜなら、挑戦した格闘家たちはここで戦った後、ほぼ全員がその後に所在不明となっているいうのだ。
 ごく一部の人間は生存の確認はできるものの、その居場所を特定できるものは誰一人としていないというではないか。
 長い格闘家人生のどこかで決定的な敗北をし、武の道を諦めて隠居生活のように息を潜めてしまうものは幾多もいる。
 だが関わったもの全てが煙のように、行方を眩ましてしまうのはどうにも不可解だった。
 やがて、真相を確かめようと踏み込んだ者たちも次々といなくなっていき、噂はやがて気味悪がったもの達の間でオカルトじみた方向に進んでいった。

『師範はそもそも人間ではないのではないか?』

 以来、興味本位でこの道場で訪れたり変に噂を広めないようにと、格闘家たちの間では暗黙の了解になっているという。
 関わった奴は皆、煙みたいに消えちまうから、気を付けな―――。

 と、この俺が聞いた隣町での居酒屋の男の話では、そう締められていた。
 だが、行くなといわれて行かないやつがいるものか。
もちろん、その男の情報もデマじゃないという保証はない。

 一体どんな得体のしれない師範なのか。
挑戦した彼らはどこへ行ったのか。
それとも、ただのデマなのか。
 その存在の真実をこの目で確かめるべく、俺はここまでやってきたというわけだ。
 俺は一つ、大きく深呼吸した後、年季の入った引き戸に手をかける。
こういうのは最初の勢いがその後の展開を左右する。
 
「頼もうっ!」

 古くさい台詞と共に一気に扉を開け放つ。
 即座に場内から、何者かと疑う無数の視線を叩きつけられる。
 だが俺は全く気にも留めないフリをしてズカズカと道場に上がりこむ。そうしていると次第に、道場生の疑念の目の色がじわじわと確信に変わっていく。
『こいつは、敵だ』という、明らかに攻撃的な視線。
 ……へへ、たまんねえな。
 肌が痙攣するような武者震いを味わえるこの瞬間。
自分でも古くてどうかと思うものの、慣れると実は結構気持ちがよい。
 もちろん道場破りとして出鼻で目立つことは大事だが、どちらかというとこれは個人的趣味嗜好に近かった。

 俺は目の端で辺りの人間をちらりと見回す。
 見た限りは、これといて何の変哲もない住宅街の道場という感じだった。
 緑と赤のポリエチレン製の畳のコートに、道場生たちが数列に並んでいる。どうやらミット打ちの最中だったようだ。
 先ほどの俺の入室に対して、門下生達は下手に騒いだり、こちらの行動に不必要に応えずに、じっとこちらを見据えている。
 成る程、教え子にもなかなかの心得があることが分かる。
だがその顔触れに何となく違和感があった。

 どいつもこいつも年の若い中性的な顔立ち。
今の世の中の言う「イケメン」というやつなのだろう。
そういう者がやたら多い気がした。
 もちろん、実力は見た目に関係ないことは分かっている。
だが例の噂を知っている身だと、どこかにおかしな所がないか、つい探ってしまうのだった。
 まぁいい、深く考えても仕方ない。
別にこいつらと戦うわけじゃないからな。

 俺が用があるのは、ただ一人だけ。
回りくどいのは嫌いだ。考えるのは面倒だ。
ストレートにいこう。

「ここの師範はだれだい?」

 俺は高らかに言い放つ。
 またしても、道場全体に向けられた俺の声に反応するものはいなかった。それどころか、先ほどまでの細い針のような殺気に満ちた空間が、見る見るうちに薄い嘲笑の色に染まっていくのがわかる。
 なんというか、俺とまともに取り合うこと自体を避けているようだった。
……外しちまったか?

「……ッ。なんだ、噂だけかよ。いないならいいぜ。看板だけもらって帰るだけだ。」

 少々考えた末、嘲笑には嘲笑で返すことにした。
俺を逆上させるつもりなのかは知らないが、ここまで舐め返されて出てこないなら、しょせん噂だけの存在ってことだ。

 数秒の間。
しかし待ってみたところで、やはり反応はない。



「はいはぁい。お客さんですかー?」

 まるで道場に似合わない、間の抜けた女子の声が奥ののれんから聞こえてきた。その声の主は不器用そうにパタパタと駆けてくる。

「お待たせしました。私ですぅー」
「は?」

 一瞬、呆気にとられてしまった。
俺としたことが無様に口をぽかんと開けて、試合だったら確実に命とりだったろう。

「私のこと、呼びましたよねー?」
「え?いや…は?」

 予想外すぎて、ついアホみたいに狼狽してしまう。
何故なら、その相手はどう見ても10代の若い女子にしかみえないからだ。
「あ、申し遅れました。わたし、この道場の師範を務めておりますー。
志宮 蘭といいますー。」
「あ、あんたが…ここの?」
「はーい。どうぞよろしくお願いしまーす」

 ポワポワと気の抜けるその喋り方に調子を狂わされそうだ。
 俺より頭一つ以上は低い小柄な背丈に、猫のような大きな目に、癖のついたフワフワと漂う茶髪。
 空手着は着ているものの、女性特有の柔らかそうな細身の丸身を帯びたシルエットをしているのが分かる。
 明らかに格闘技なんてできそうにもない。
というか割烹着着けているじゃないか、この女子。むしろ給仕係じゃないのか?
 
「……その恰好は?」 

 俺は気が抜けないように、なんとか適当な質問を返して対応を待つ。

「これですかー?そろそろ皆さんお夕飯なので……今日はですね、月一のお鍋の日なんですよぉー」

 思わず肩がガクンと落ちる。目眩がしそうだ。
正体不明と聞いていたが、まさかこんなのが出てくるとは……。
 性別すら想像していたイメージと180度違うその姿に、とうとう俺は片膝をついてしまった。

「あらーどうしました?どこか具合でも…?」

 こちらのことなんてまるで気にもしてないような素振りに、とてもすぐに返答できなかった。

「いや…大丈夫。俺の、情報収集不足だった。失礼する」

 ガンガンと響く眉間をなんとか抑えて、やおら俺は立ち上がる。
 この一か月、この道場のことをあれこれ聞きまわった俺の努力は何だったんだ。
 得たいが知れない道場とはいえ、いくらなんでもこれはあんまりだ。
 まぁ違う意味で得体のしれないものは出てきたが……やはりあの男に眉唾の情報を掴まされたのだろうか。
 なんにせよ、闘る気が致命傷なほどにザックリと削がれてしまった。
 俺はそのまま振り返り、入口へと向かう。
今日は一旦引き上げて、頭を冷やそう。

「そういえば…先ほど何かを頼まれていたみたいですけど。」
「あ?」

 志宮の妙な発言につい嫌そうな声がでてしまった。

「たのも〜って、いってましたよね?」
「ああ、いいんだよもう。ここにもう用はないんだ。」

 苛立ちも包み隠さずに背中を向けたまま荷物を担ぐとぶっきら棒にそう答えた。
 彼女の返答も待たないで、俺は踵を返す。



 突然、視界が真っ暗に染まる。
目の前に何かが飛んできたのだ。

「…つっ‼」

 とっさに俺は右腕を上げ、それを受け流して躱す。
何か太い棒のような、長い物体が飛んできたみたいだった。
 一体、何が起きた?

「意外といい反応ですね。私のこと見た目で判断するからどれだけ脆弱な方かと思っていたんですけど」

 つい今しがた聞いたばかりの声だというのに、声のトーンが全く違うせいで、まったくの別人かとすら思えた。

「猫を被った挙句、不意打ちとはな。脆弱さならそちらもかなりのもんだと思うがね」
「あら、先に失礼なことをしたのはそちらじゃないですか、道場破りさん?」

 朗らかな表情に隠れた、小さな殺気。
先ほど飛んできたそれは、鋭い飛び蹴り。
 そしてその蹴りの使い手は。
他ならぬ目の前にいる師範、志宮蘭の放ったものであった。

「……さっきまでのは、とんだ茶番だったってわけか」
「目には目を、無礼には無礼を、です。それに私、猫じゃあないんですよ」

 意味深な答えを返す志宮に、思わず眉間にしわが寄る。
すると彼女は割烹着をほどき、ふわりと投げ捨てる。
 その下に着ていた空手着。
腰回りにぐるりと巻き付いていたのは、茶色い帯。
 
 ……いや。
 よくみるとそれは、筒のように丸く細長い毛むくじゃらの尻尾だった。その尻尾が彼女の腹部からしゅるりとほどけて落ちる。
そして地面に触れるスレスレで止まり、ふよふよと柔く空中に漂う。
 割烹着の上からでは分からなかったが、彼女の二の腕の辺りにも尻尾と同じ無数の茶色の毛で覆われていた。足首にも同じように剛毛が、チラリと道着のすき間から見える。

「なるほど、確かに。普通の道場じゃあないんだな」
「…カク猿。という、猿の一族です。」 

 挨拶ともに尻尾の先が柔らかく首を垂れる。
そのしなやかな動きからは、同時に溢れだす力強さを感じる。
 カク猿ってのはよく分からんが、要するに…彼女は化け物や魔物の類、というわけか。

「噂通りってわけか」
「噂……ですか?」

志宮は首をかしげる。

「ここの師範は人間じゃねえってな」
「…失礼な方ですね」

 カチンときたのだろう。
彼女の目つきがさらに鋭くなる。

「先代の師範からよく言われていました。道場破りには、容赦をするなと」
「そうだろうな、容赦なんてされたら道場破りの意味がない」

 俺は手に持った荷物を壁際に投げ捨て、軽く手足首を回す。

「最初はどうなるかと思ったが…あんたなら大丈夫そうだな」
「そちらこそ大丈夫ですか?普通の人間を相手にするのとはわけが違います。今ならまだお怪我をせずにお家に帰れますよ?」
 
 お返しとばかりに、たっぷりと皮肉のこもった言葉を浴びせられる。

「そんなことどうだっていいさ。カク猿とやらと闘り合うのは初めてなんでね。むしろ楽しみなくらいだ」

「はぁ…やっぱり、貴方もどうしようもない人間なんですねぇ。道場破りなんて古臭いの、もう流行りませんよ?」

 盛大に呆れた声音を上げているが、既に彼女の身体は準備体操を始めている。なんだかんだ既にあちらさんもやる気じゃないか。

「ほっとけ、流行に逆らうのはロックな男の子の性だぜ」
「そういうわけにもいきません。仮にも私は師範。気は進みませんが……貴方には速やかにここからお引き取り願います」

 呆れながら志宮が軽くつま先をトントンと叩くと、道場生たちはそれだけで察したようで、速やかにコートの一つを空け始める。ざわざわと蠢くコート内を、志宮は真っ直ぐ横切って開始線まで歩き出す。
俺もそれに着いていき、反対側の線へ向かう。

「そうかい。じゃあ故郷への土産代わりにここの看板、もらうぜ」
「本当にどうしようもない人ですね……」

 同時に開始線につき、おたがい八字立ちに構える。

「ルールは……まぁ何でもいいか、時間無制限。最後まで立っていた方の勝ち。防具も要らねぇ。最近の8ポイント差だかなんだかは、回りくどくて嫌いだ」
「いいですよ。他の道場生に迷惑ですからね、手早く終わらせましょう」
「俺には喜んでいるように見えるがなぁ」

 俺たちが舌戦を繰り広げているうちに、嬉々として道場生どもは試合のコートを完成させ、ぐるりと取り囲んでいた。 
 何だかんだ血の気が多いようだな、ここの連中は。
ありがたいこった。

「……だから嫌なんですよ。鍛錬になりません」
「何言ってやがる。実践に勝る鍛錬なんか無いだろう?」

 志宮はとうとう呆れ切って、ついに閉口する。
そして、彼女はそのまま目を閉じて一息、ゆっくりと空気を吐く。



 数秒後。
目を開けた時、志宮蘭はもう「格闘家」の目になっていた。

(なるほど。そうこなくちゃあな。) 

 俺たちの横に、いつの間にか審判役の道場生が出てきていた。
お互いが自分の鼠径部の前で、両の拳をかまえる。
 既に、俺たちは臨戦態勢だ。
 さっきのイケメンの道場生どもも、目をギラギラさせてこちらに野次や声援を送ってくる。
 そりゃそうだ。
無礼な部外者が現れて黙っている格闘家がいるもんかよ。



「叩き出してやります、今すぐに」
「ドブに投げ捨ててやるよ、お前らの看板」

 審判の掛け声ともに、俺たちは半前屈たちに構える。
同時に周りのけたたましい声援がシュンと止んで、静寂が生まれる。
 俺がオーソドックス(左足が前)、志宮はサウスポー(右足が前)。
丁度、鏡のような状態で俺たちは見合っていた。

 
 数秒の間の後。
 先に仕掛けてきたのは、志宮だった。
素早い踏み込み、それと共に道場内に反響する音。

彼女が目前で、俺の左側に回り込む。

上段の突きを2本。
叩きこんでくる。

だが、あまりに馬鹿正直すぎだ。

俺は先に飛んできた右拳を払う。

払われた拳は、もう一方の左拳を遮り。
ぶつかって無力化する。
 
間髪入れず志宮の顔面に向けて。
左の突きを繰り出す。

手ごたえは、ないか。
すれすれで首を捻って躱された。

志宮は静止しない。
さらに前進、俺の左脇腹へ。
潜り込んできた。

死角から中段を打つ気だ。

「なめん、なぁ!」

 俺は右斜め前に跳びのき。
 
 素早く反転。
後ろにいる志宮に向き直る。

 同時に、飛んできた彼女の中段。
それをギリギリ払い潰す。

そこから俺は、覆い被さるように。
上から拳で突く。

が、やはりこれも避けられる。

志宮は臆することなく、なおも突きの嵐を繰り出してくる。

ワンツー。

サイドステップ。

中段。

刻み打ち。

ワンワン。

逆逆。

 次、また次と。
息つく暇もなく、彼女の連撃は続く。






だが。
なんだ。

なにか、違和感を感じる。

(それなりに速い。だが…フットワークもパターンも大したことない。
こんな只の突きの群れで、やられると思っているのか?)

 まるで考え無しの学生を相手にしているかのようだ。
何のひねりもフェイントもなく、ただ手数を増やしているだけ。
こんなのが師範の実力だというのか?
 不審に思いながらも、俺は志宮の乱打を一つ一つ、馬鹿丁寧に潰していく。

 ―――やがて、志宮の長い攻撃の波が途切れる。
女子にしては長い時間は動いている方だった。
しかしここまでなら、そこら辺の女子学生となんら変わらない。
 
 ……何かがおかしい。彼女はまだ何か隠している。

 それを証拠に、志宮蘭は全く息を切らしていなかった。
もちろん、俺だってこの程度じゃバテていやしないがな。

「よぉ、そんなもんなのかい?師範さん。叩き出すってのは、俺の口から減らず口を叩き出すってことなのかい?」
「……それなりに、動けるんですね」
「このくらい当たり前だろぉ。もう少し楽しくやろうぜ、おい」

 俺の挑発に答えるように、さらに彼女の目つきの鋭さが増す。
鋭すぎて眉間が皺だらけだ。
せっかくのかわいい顔が台無しになっている。



 だが、そこから異変は始まった。

途端に、志宮は構えを解く。
そのまま両腕を下げ、肩から下をだらりと脱力する。
 尻尾もペタリと地面についてしまっていて、糸で上から吊られている人形のようだ。

「そうですね。なら…ほんの少し、本気でやってもいいですね」

 そういうと、彼女の右足がすぅっと上に登っていく。
 右足の爪先が左膝の高さを越える。
さらに腰を越えていき…右膝が胸の高さにまできた辺りで静止する。
 
 まるでフラミンゴだ。

「…本気か?」
 
 その奇妙な構えに、俺はつい言葉を漏らしてしまう。
 だが彼女は何も言わず、刃物のような視線でこちらを見据えてくる。

黙ってかかって来い…か。

 俺は構え直しながら、志宮の姿をじっと見据える。
彼女の構えはいわゆる鷺(さぎ)立ちであった。

 さっきまでと違って機動力は著しく下がるが、トリッキーで攻めづらい技巧派の構えだ。 
 通常のそれと違うのは、腕を全く構えずに完全に下に降り切ってしまっている点だ。もちろんハッタリや格好つけで戦えるような姿勢ではない。

 しかし、今までスピードや手数重視の真っ直ぐした組み手だった彼女が、ここにきて急な戦闘スタイルの変更。

 一体、何のつもりだ。

俺の額に冷汗が一滴、つぅっと右の頬へと流れていく。











 刹那。

 志宮の右つまさきが目の前に現れた。

 (…前蹴りっ!?)

 フェンシングのように鋭く突き刺さるような蹴り。
それをギリギリ左手で払う。

彼女の足が右肩を掠める。



 馬鹿な。
見えなかった。


 考える暇はなかった。
俺はなんとか踏ん張って、彼女の死角である右手側に逃げ込む。

 だが彼女はさらに、予想だにしない動きをする。
普通ならそのまま彼女の身体は蹴りの勢いのまま、払った方向に飛んでいくはずだった。


 だが彼女の身体は。

空中でいきなり、停止する。

 そしてその位置のまま。

竜巻のように全身を左に捩じる。

 まずい。
さっき無理に右に避けたのが仇になった。
 
 態勢が完全に死んでいる。

「くっ!」
 
俺はその場に、半ば崩れるようにかがみこむ。

 
直後。

志宮の左足が、俺の頭上を薙ぐ。

ゴウッと。

空気が切断された音。

 俺は転がるようにしてその場から離れる。

 今のは……なんだ。
明らかに不自然な動きだったぞ。

 まず最初の蹴り。
 あの姿勢からでは、どんなに強く蹴っても俺のところまで届く距離じゃなかったはず。

 そして二回目の蹴りを繰り出す時。
見間違えじゃない。両足が完全に地面から離れているのに、彼女は完全に空中で静止した。 
 あり得ない攻撃の前に目が白黒と変化しているのが自分でも分かった。
俺の喉が音を立てて、大きくつばを飲み下す。

「どうしたんですか?さっきまでの横柄な態度はどこに行ったんですか。」

 俺をあざ笑うかのごとく、彼女はおもむろに先ほどの鷺立ちに戻る。

「…やるじゃねえか。」

 俺も構えなおすが、さっきの奇妙な動きの理由が分からずに攻めあぐねていた。
 鷺立ちと戦ったことはあるが、こいつは今までとは段違いだ。

 汗が垂れてくる。息が乱れる。
前歯が小刻みにぶつかり合う。
彼女から、一瞬たりとも目が離せない。
少しでも油断すればまたさっきの蹴りの餌食だ。

 これだ。これだよ。
俺が求めていたのは。

 この胸の奥から溢れるような高揚と焦り、危機感。
胸がたぎってくる。嬉しい。
楽しくて仕方がない。

 噂は正しかった。
ここの師範は強い。
志宮蘭は、強いぞ。

興奮が止まらねぇ。

 俺がすぐに攻めてこないと分かると、彼女は見下すような視線のまま。
またあの鋭い前蹴りで突っ込んでくる。
 
 まるで槍兵の突進のごとく。
一辺の迷いなく。
真っ直ぐと俺の胸元に飛び込んできた。

だが…。

(同じ技を繰り返して見せるなよっ!)

 俺は少し後ろに下がりながら、腕を交差させる。
両手とも掛け手の構えをとり彼女を迎え撃つ。
  
 彼女の右足は、ガッチリと俺の両手首の間に挟まれる。
捕らえてしまえば、何の問題もないはず。

そう思った矢先だった。



 もう一本、下から蹴りが飛んできた。
脚が片方、俺に取られているのにだ。

志宮の左脚が、俺の手元を思いきり蹴り上げる。

「…なっ⁉」
 
 彼女の右脚ごと、俺の両手がまとめてはじき飛ばされた。
そのあまりの勢いに思わず俺はのけぞる。


だが同時に。

 彼女の身体が、完全に空中に投げ出される形になる。
しかも蹴った勢いで、完全に逆さまの状態だ。

(馬鹿な。…頭を打つぞっ⁉)

 予想通り、彼女の身体は後頭部から地面に吸い込まれるように落下していく。

(マジかよ…!)





 不意に彼女の両手が、地面に向かって伸びる。

後頭部のすぐ後ろに添えられたその手が、地面に触れた瞬間。

 まるでティッシュペーパーを落としたかのように。
ふわりと滑らかに彼女の身体が地に下りる。

 志宮は体操座りのまま後ろに倒れたみたいに、綺麗に丸まった姿勢になる。

 そして。

彼女の身体がバネのように跳ね起き。
彼女の両足が俺の股の間に滑り込む。

そして、俺の膝の裏に絡みつく。
 

(…脚で、諸手刈りっ⁉)


 気付いた時には遅かった。
既に脚は完全に組みつかれていた。

 直後、彼女の上半身が持ち上がり。 
彼女の体重が、全て俺の膝にのし掛かってきた。

 俺はとても堪えられず。
そのままダンッと派手な音を立てて倒れる。

 さながら騎乗位のような姿勢で、おれは彼女に押し倒されてしまった。
 
「…いつの間に柔道の試合になったんだよ」

 肩と背中に響く衝撃と痺れをごまかす為に、精一杯の減らず口を叩く。
すると、志宮の両手が俺の両肩を押さえつける。

「―――自分でなんでもいいっていったんですよ。道場破りさん。」

 俺に足を絡ませたまま、志宮が吐き捨てる。

「それとも何ですか?貴方こうやって…女性に無理やり寝かしつけられるのがご趣味なんですか?」

 ―――まずいな。完全にマウントを取られた。

「嫌いじゃない。が、アンタは…趣味じゃないな」

 俺は喋りながら、どうにかしようと腰を捻ってみる。
だが彼女の両腕と脚がガッチリと身体を抑え込んで、てんで全く動かない。 
 
 審判はここの道場生。
静止の合図も向こうのさじ加減。

 つまり、やられたい放題だ。

 くそ、もうおしまいか…。
観念して、俺は身体を脱力させる。
もはや志宮蘭の制裁の拳が、俺の顔面にねじ込まれるのを待つのみだ。
 


 ―――だが、どうしたものか。
いくら待っても、拳が飛んでくる気配がない。
奇妙に思い、俺は志宮の方を見る。

彼女と目が、合った。

「何の、つもりだ?」

訝しみつつ、俺は尋ねる。

「いえ、本来ならこれで決着ですが…チャンスをあげましょう」

 彼女はおもむろにそういうと脚の拘束を解き、立ち上がる。

「いくらなんでもこれで終わりじゃ興ざめです。それでは皆さんも不完全燃焼でこの後の練習のモチベーションに差し支えます」

 言い訳のように、志宮はクドクドと言葉を連ねる。
まるで、勝負の決着をつけたくないみたいだった。

 なぜだ。手早く終わらせたいんじゃなかったのか?

「……それで、どうする気だい?」

 俺も身体を起こし、探るような声音で続きを待つ。



「このままだと、貴方は私に勝てません。」

「…随分と、はっきり言ってくれるじゃねぇか」

「なので、こうしましょう。わたしはここから一切、拳を使いません。
それで貴方が1本でも私から取れたら、それで貴方の勝ちとしましょう、ハンデってやつです。」

 彼女はあっけらかんとそう言い放つ。



 ふざけるな。

 頭の中に強い憤りがうまれる。
だが、それは決してハンディを掛けられたことへの屈辱ではない。

 条件を提示する彼女の目からは、同じく見下すような視線。
まるで冷気が出ているようだ。
 
 だが、彼女はどこか妙だ。
どうにも腑に落ちないのだ。
視線に冷たさは感じても、勝負に対する熱が感じられない。

 さっきからずっと気になっているが。 
―――こいつ……本気で俺と勝負をする気があるのか?

「道場破りには容赦しねぇんだろおい。手ぇ抜いてんじゃねえぞ」

 次第に苛立ちがわいてくる。
 散々戦った後でならともかく、不完全燃焼なのは俺だって同じだ。
本気じゃない勝負になんの意味がある。

「…本当に、人間って馬鹿。だから本気で戦いたくないんです」

 静かに、だがトゲのある声で彼女はそう吐き捨てる。
そして、何か諦めたように。
彼女は開始線に戻り、構える。

「あなたが何を言おうと実力差があるのは事実です。
私はもう手を使いません。文字通り、手抜きですね。どうしても本気でやってほしいというなら、精々そうなるように頑張って下さいな」

「けっ…格好つけたこといって、後悔すんなよ」

 顔に出ないように威勢よく喋っているが、現状で志宮の攻撃が全く読めないことに焦りを感じざるを得ない。 

 ―――このままじゃ、勝てん。

 カク猿とやらがこれほどとは思わなかった。
尻尾と毛以外、ほとんど人間と一緒なのに…。


…尻尾?

 なるほど、そういうことか。

 さっきまでの彼女の動きにようやく合点が言った。
彼女の動きの要は、あの尻尾だったのだ。

 最初の蹴り、やけに勢いがあったのは尻尾のバネを使っていたから。
そして次の動き、急に静止したのは尻尾で地面に立って、勢いを殺していたから。

 あの尻尾は彼女にとっての、第三の脚だ。

 だから、両足が浮いても躊躇なく攻撃ができる。
おそらくだが、脚よりも支える力は強いのかもしれない。
 だが相手の正体は見破っても、いかんせん対策が思いつかない限り俺が不利なのは変わらない。

 何処かに隙がないか…?
何処か…。

 しかし作戦を練る暇もなく、彼女は例の構えで飛び掛かってくる。 
 片足を挙げた状態で機敏に立ち回るその動きは、もはや本来の空手の鷺立ちのスタイルとは全く別の格闘技だ。
 もはやカク猿特有の技術といってもよく、とても普通の人間ができるような動きではない。

 俺の目の前、1m。
 そこで滑るように彼女は左へスライド。
即、右上段足刀が飛んでくる。



 ……はずだった。
急に、彼女の蹴りかけた右脚が空中で止まる。

 同時に尻尾が、コートを力強く叩き。

彼女は、空中に飛びあがり、回転。

即、左上段回し蹴りを繰り出す。

(フェイント……!)

またしても人間ではあり得ない動き。
 完全に騙された俺は、とっさに距離を大きくとった。
空をかいた彼女の左脚は、そのまま脚元に落ちる。



 が、そのつま先が付いた瞬間。

彼女の尻尾がさらに、ドンと床を叩く。

 そのまま、まるでビデオの逆再生のように。
左脚が、先ほどの上段蹴りと同じ軌道を描きながら飛んでくる。


(くっそ……‼)


 俺はなんとか避けようと、また一歩下がる。
右手で彼女の左脚を払う。

が、それでも。

彼女の猛攻は止まらない。

 払った左脚のその陰から、追うように右脚が飛んできた。
流石に避けきれず、俺は左腕でなんとかガードをする。

 それがいけなかった。
ガードをするために、脚を止めてしまった。

 払ったはずの彼女の左脚が、いつの間にか俺の右膝に着地していた。
気付いた時にはもう遅く、彼女は俺を踏み台にして跳び上がる。


(化け物かよ……。)

 今の彼女の位置。

俺の真上だ。

「そろそろケリをつけますよっ!」


 落下と同時。

 彼女は右脚で俺の肩を踏みつける。
その女性らしい身体からは想像できないほど、重い一撃だった。

 彼女は俺を踏み台にし、また空中に跳ぶ。
今度は左脚で、俺の腕を踏む。

 次はそのしなやかな尻尾で俺の太ももを叩く。
さらに跳び上がり。
俺の頭に右足刀を打ち込む。

 彼女は小柄で小回りが利くゆえ、至近距離でも十分蹴りが入ってくる。

 逆に俺には近すぎて手が出せない。
その上に、ほぼ全方向から飛んでくる攻撃に対応が追いつかない。
 無理に手を出そうにも、その手すら彼女の踏み台にされる。

 今や彼女は、完全に空中に浮いた状態だ。


 くそ。どうしょうもねぇ。




何度も、蹴られた。


何度も。

何度も何度も何度も。

何度も何度も何度も何度も。

何度も何度も何度も何度も何度も。


踏みつけられ。

蹴られ。

叩かれ。

嬲られた。

彼女は休む間もなく、打撃を与え続けてくる。

「さぁ!諦めたらどうですかっ!諦めて『お家に帰らせてください』といえば許してあげますよ!」

 侮蔑と罵声を目いっぱい込めて、彼女はそう叫ぶ。
まるで、イジメられる学生のようだ。
 
 余りの猛襲に、とうとう俺の片膝が地につく。
だが、志宮はなおも加減をすることなく、蹴りという蹴りを重ねてくる。 



「全く無様ですねっ!貴方みたいな勝負のことしか頭にないくせに貧弱な方って一番嫌いなんですよ!人間がカク猿にっ!魔物にかなうと思っていたんですかっ!
 人間は魔物より弱いんですっ!
 魔物がいる世の中で、人間が強さを求めることが如何に下らないか、分からないんですか!?そんなに頭が悪いんですかっ!?
だから関わりたくないんですよ、本気なんて出したくないんですよっ!戦いたくないんですよ!弱い人間となんか!」


 蹴りと共に彼女の罵声が、俺を鋭く突きさしてくる。
だがその言葉は、どこか別のことに対していってるようにも聞こえた。



 彼女の言う通りだ。
カク猿は、志宮蘭は段違いだ。
俺の今まで戦ってきた人間よりずっと強い。
彼女こそ、俺の求めていた「自分より強い者」だ。

 だが、他の誰でもないその彼女が。
その言葉を言うことにどうしても納得ができない。



「……うるせぇ」

 猛攻の中で、俺は唸るように呟く。
この沸々とした感情を、抑えられそうにない。

「『今は』関係ねえだろ!そんなことっ!」

叫びと共に、飛んできた彼女の尻尾を、掴む。

「うっ…!」

俺の不意打ちに驚いたのか、彼女の連撃が一瞬止まった。

 しかし、それもつかの間だった。
志宮は素早く身体を捩じり、俺の右手を振り払うと軽く後退する。

「人間だとか魔物だとかなんだかよく分かんねぇことウダウダぬかしやがって……『今は』俺と試合をしてんだろうが。」

 俺は苛立ちをぶちまける。
もう我慢の限界だ。言わせてもらう。
 せっかくの真剣勝負を、他でもない当人が水を差すなんて。
そんなこと、あっちゃいけないことだ。

俺は、回りくどいのは嫌いなんだ。

「アンタや魔物の事情なんてどうでもいいんだよっ!
アンタが今やることは、目の前の俺をボコボコにすることだろっ!それだけに集中してろっ!それもわからん奴が師範を名乗るなっ!」

 全身蹴り飛ばされて、どこもかしくも赤くなって痺れている。
だがこればかりは、いってやらんといかんのだ。

「こいっ!俺をゴミカスみたいにぶっ潰してみろよ、カク猿!」

 口の中に鉄の味が広がる。
立っているのも、正直言ってきつい。
 これが満身創痍というやつだろうか。

知ったことか。

「……本当に、失礼な人ねっ!」

 彼女の口元が少しだけ笑い、そしてまた新たに構える。

そうだ、人間だとか魔物だとか、何も関係ないんだよ。

俺も精一杯ニヤついた顔を作って迎えうつ。

 再度、彼女が右膝を胸元に引き付けたまま突進してくる。
俺の眼前で、彼女が素早く左右に跳び跳ねる。


 
 くそ、蹴られ過ぎた。
全身が痺れて、彼女の素早い動きについていけない。

 膝が震えて、まともに動けない俺を尻目に彼女は無遠慮に跳びかかる。

 またしても俺を踏み台にして、彼女は空中に上がる。
 彼女はさっきよりも速度と強さを増して、蹴りと踏みつけの乱発を放ってくる。

 このままではいずれ俺は負ける。


 ……だが、俺には閃きたての策があった。
先ほどの偶然を俺は見逃してはいない。

 カク猿のこの独特な格闘スタイルは、尻尾を上手く扱うことで成り立っている。
 そしてその尻尾が驚異的なバランス感覚と筋力を持つゆえに、空中でこれだけ暴れまわっても、落下してくることは無い。

 だからこそ攻めどころは、その尻尾だ。

 無数に飛び交う蹴りを耐えながら、俺はその一点、一瞬にのみ集中する。
単に掴むだけでは、さっきのように振りほどかれてしまう。

 何度も顔面を蹴られながら、まともな神経をかき集めて集中し、そのチャンスを待つ。
 彼女の脚ではなく、尻尾が俺を踏み台にする瞬間。



……っ!


 茶色い毛が視界の端に映る。
俺は両手を一気に突き出す。

 右手で尻尾の先端を掴み、左手を根元に添えて軽く巻き取る。

「…っうぁ!」
 志宮が初めて、悲鳴を上げる。

 普段から尻尾でバランスを取ることに慣れているのだろう。
そこを抑えられたせいで、逆に彼女は空中で体勢を崩していた。

「ッせいやぁ!」

 そのまま渾身の力を込めて、両手で大きく円を描く。

 尻尾を中心に、志宮の身体が空中でぐるりと回転する。

その回転力のまま、俺は地面に彼女を思いきり叩き付ける。


 今までで一番の轟音とともに。
彼女の身体がコートに沈む。
彼女は何が起きたのか理解ができないようで、混乱しているようだ。


 俺は間髪入れずに、尻もちをついた彼女に向けて突きを繰り出す。


(―――勝った!)



―――――――


「んっ…」

 目が覚めた時に見えたのは、ベージュの天井だった。

 俺は小さな小部屋で横になっていた。
近くにある洗濯機が唸るような音が、床を通して頭に響いてくる。

 ここはどこだ?
 
 目覚めたばかりで記憶がはっきりしない。
俺は上体を起こし、周りを見る。

 4畳半ほどしかない和室に、タオルと水枕で寝かされていたようだ。
洗濯機はどうやら部屋の外にあるらしい。

 ……そうだっ!俺は確か道場破りにきて。
それで志宮というカク猿の女と戦っていたはず。

 俺はようやく思い出すものの、最後の拳を打った後の記憶だけが、まだ曖昧だった。


 あの後、どうなったんだ?
俺は……勝った、のか?

 記憶をどうにかして掘り起こそうと必死になっていると。
近くのふすまがストンと開き、誰かが入ってくる。

「あっ……」

 部屋に入ってきたのは、志宮蘭だった。
その手元にはタオルの山と氷水の入った器、そして尻尾を医療セットの箱に巻き付けて持っている。


 彼女と、また目が合う。


「えっと…」

 彼女はもごもごとした後、そっぽを向いてしまう。
さっきまであんなに元気に闘り合っていたのに、急にしおらしい。
一体なんだというのだ。


「なぁ、さっき……いつつ」

 俺も何か言おうと、上体を動かす。
だが即座に、口の中や全身に痛みが走る。

「あーほらっ!無理して動かないでください。全身打撲だらけなんですから」

 やったのはアンタだろうが。
そう悪態をつきたいが、痛みであまり余裕がなかった。
 志宮は俺を再び横にさせて、タオルを絞ったり、ガーゼを当てたり、氷のうをいくつも作っては俺の全身にあてたり、妙に甲斐甲斐しく俺の世話をし始めた。

 どういうことだ、これは?

 なぜ道場破りごときに師範が介抱するのだ。
死なれて面倒なら、そのままどこか病院の近くにでも置いておけばいいのに。

「……いったい何のつもりだ」

 普段から相手を挑発するような物言いをするので思わず口から出てしまった。せっかく手当をしてくれている彼女を意図せず、ムッとさせてしまう。

「ちょっと黙っててください」

 そういって志宮は俺の顎に手を当てると、いきなり氷を口の中に放り込んでくる。

「あがっ……痛い痛い痛い、染みるっ!」

 傷だらけの口内に氷は劇薬だ。
暴れようにも全身も痛くて動けない。

「いいから、そのまま静かにしていてください。」

 まくし立てるように、彼女はそういって手当を再開する。

 ……何が何だかわからん状況だ。
 とりあえず、そこまでして拒否することでもないし、彼女の施しを受けるしかないか。

―――――

「……はい。これでいいと思います」

 志宮の治療が終わるまで、俺は素直に受け続けた。
その間に冷静になって色々と考えたおかげで、どうにか思い出せた。

俺は横になったまま、彼女に告げる。





「俺は、アンタに負けたんだろ」

 彼女は何も言わなかった。

 そう、勝利を確信して放ったあの最後の突き。
俺の拳が急に、止められたのだ。
 とっさに出た、彼女の手のひらによって。

 そして、同時にカウンターで飛んできた彼女の反対の拳を顔面に食らい、俺は見事に気絶をしてしまったというわけだ。
 
「あんなのが私の勝ちだなんて、私が認めませんよ。」

「そうだなー。あんなに『手は使わない』なんて豪語してたのに、ダッセーの…イタイタイタ」

打撲したところをボスボスと志宮に殴られた。

「全く。ふざけたこと言ってないとダメなんですか貴方は」

 うん。
と言おうと思ったが、彼女が拳を握っているのが見えたのでやめた。


「……先代の旦那もそうでした。弱いのに格闘技のことばっかり考えていて、ふざけたことばかり喋っていました。人間は皆そうなんですか?」

 彼女は膨れ面で文句を垂れ流す。

「そうだぜ。戦う男なんてバカばっかりだ。」

 これは割りと本気だ。
 勝負にあれこれ思う奴が、そもそも勝負を求めることをするだろうか。
理屈じゃないんだよ、勝負ってのはな。

「……で?そろそろ聞かせてもらおうか。なんで道場破りの俺を介抱した?」

何度でも言うが、俺は回りくどいのが嫌いだ。

「……そ、そうですね。では、説明しましょう」

 志宮は一度大きく深呼吸をして、目に力を込める。



「私と一緒に……カク猿の隠れ里に来てもらえませんか?」

「はっ?」

 突然の提案に、さらに訳がわからなくなる。
隠れ里?なにそれ?俺が?こいつと?なんで?

「わ、訳がわからないことを喋っているのは分かっているんですよ……!私も仕方なくというか、ただ、その、えと……そういう決まりになっていてですね……」

 しどろもどろとはこの事だ。
さっきまでの闘いの時からは想像もできないくらいの乱れぶり。
話の筋が全くわからん。

「おいおい、落ち着け。何、決まりってなんだ」

「えとえと……」

だめだこれは。
完全にテンパっている。
さっきまでのキリッとした態度は一体何処へいったんだ。



「あー、じれったい!だから真っ先に師範にされるんだよ」

 突如、何者かによって襖が激しく開けられる。

「あんたも災難だねっ!よりによって蘭の時に来るなんてさ」
 
 そういって遠慮なしに入り込んできたのは、先ほどのイケメンの道場生の一人だった。

「ちょっと……大城戸さんっ!聞いて……いや、私一人でやるからいいって言いましたよねっ⁉」

「手当ては終わったんだからいいだろ別に。アンタがテンパっているせいで、この兄ちゃん何にも分かってないじゃん。もうイライラするからウチが説明するよ、いいね蘭」

 大城戸と呼ばれたイケメンは、半ば強引に話を進める。
志宮は口を尖らせるが、渋々納得したようだ。

「よし、さてと……兄ちゃんさ。」
 
 大城戸はその場に胡坐をかいて俺に向き直る。

「お、おう」

「ウチの道場の噂……どこで聞いた?」

「あ、ああ。隣町の居酒屋でな」

「隣町……あそこか」

 噂の出所の詳細を言うまでもなく、彼は一人納得する。

「悪いね兄ちゃん。その男……ウチらと繋がってんだ」

「なッ…⁉」

「この道場はウチらカク猿の縄張りでね。道場生は皆カク猿一族なんだ。例の噂あるだろ?アレを聞いてやって来た独り身で腕の立ちそうな奴。そういうのにここの場所と詳細を教えてここに流してくれって、ウチらから頼んでんのさ」

 突然のカミングアウトに思わずぽかんと口が開く。

「なぜ、そんなことをするんだ?」

「元々カク猿は、本当は人間のいない山奥で集落作って暮らす、ごく少数の一族なんだけどな。最近自然が減って近代化してきたせいなのか、山奥までやって来る人間が全然いなくなっちゃったのよ。おまけにカク猿は女しかいない。番い相手になる人間の男が足りてなくて困ってるわけだ。」

「なるほど。……え、女っ⁉アンタ女なのかっ!」

 この大城戸も、さっきのイケメン共も、全員女?
マジでか。
なんだこの、敗北感は。
いや、普段から容姿のことなんてそんな気にしてはいないけど。

「そこで驚くのかよ……。まぁいいや。そこで、男不足対策のために、ウチらはこの道場を建てて、ここに強い師範がいるっていう噂を流した。後はそれを信じて勝負をしにホイホイ寄ってきた男を、婿にして里に連れて帰る!って、そういう一本釣り作戦だったのさ」

 そういうことか。俺はようやく合点が言った。
 噂にあった『師範の容姿が違う』ってのは何でもない、毎回別のカク猿が相手をしていたというだけなのだ。

「つまり、まんまと俺はハメられたっていうわけか。」

「そういうことだね。勝っても負けても、兄ちゃんの行く末は決まっていたわけ。ちなみに代々ここに来た男の相手をするのは師範ってルールなんだけどな……」

 大城戸は志宮の方をチラリと見る。
志宮はさっきからムスッとして一言も喋っていない。

「コイツがまた!面倒くさくてさっ!一向に男とくっつこうとしないんだよ。
 せっかく道場破りが来ても?
居留守を使ったり、試合を途中で他のカク猿の道場生に譲ったり、手を抜いて相手の闘る気を削いだり、相手が逃げ出したりするように脅したり、例の噂に変なオカルト要素を追加して流したり、最初の三文芝居で不意打ちして勝負自体をなかったことにしたり。
 あらゆる手を尽くして意地でも男とくっつこうとしないわけ。
師範の座になるとさ、男との出会いの確率がグンと高くなるから皆が狙ってるのにさ。後がつっかえているんだよもう。」

 大城戸がマシンガンのように志宮への不満をまき散らす。
 なるほど、志宮がしきりに俺に『家に帰れ』と何度も言ったのは、そもそも俺との試合の決着をつけたくなかったのか。

「さ、三文芝居って何ですかっ!師範ですよ師範。武術を志す皆を導く者。格闘家なら憧れるものでしょう。大体、師範が新しい人間が来たらすぐ辞めるような不真面目なものだなんてダメですよ!」

志宮が声を荒げて反論する。

「いや、蘭も真面目にやってないじゃん。」

「たしかに。看板がかかった試合に正々堂々戦わない奴が、師範とは言えないよな」

 思わず俺も師範(笑)のダメ出しに参加してしまう。

「うぅっ……道場破りさんは黙っていてくださいっ!」

「兄ちゃん、それなーよく分かる。色々中途半端なのよこの子。そんなんだから、将来の行き遅れ候補とか陰で言われるんだよー」

「えっ……私そんな風に言われていたんですか?」

「あ、やば。コレ秘密だった」

 そういって、大城戸はそそくさと退室しようとする。

「まぁそういうわけだね!いやぁ兄ちゃんが蘭と勝負してくれて、助かったよ。これでようやく次の師範が決められる。勝ち負けの結果さえ出ちゃえば、後はもうカップル成立だからね。」

「あ、大城戸さんっ!」

「これから蘭のこと、よろしく頼むね兄ちゃん。じゃあ!」



 志宮の制止の声も聞かず、嵐のように大城戸はあっという間に部屋を出ていってしまった。


 部屋に取り残されたのは、俺と志宮のみ。
洗濯機の音だけが部屋の中に無機質に響く。











 ……気まずい。

 よくよく考えたら、あの話の通りだと俺はこのまま志宮とお付き合いすることになるのか?
 さっきの大城戸の話のせいで、変に意識してしまう。


まずい、変な汗出そう。

「……行き遅れ、か」

 一人焦っている俺を他所に、ため息をつくように志宮が声を漏らす。

「たしかに、私って他のカク猿と違ってそういう……色恋とかに積極的じゃないし。そう思われるのも仕方ないかもしれませんね。」

 彼女の口から、自虐じみた言葉がつらつらと流れ出てくる。

「この道場で格闘技を習い始めてから、ずっと楽しくて、それだけで今までやってきました。でも突然、先代に次の師範に任命されて、急に人間の男を作れだなんて言われて、どうしても納得できなかったんです」

「アンタは、人間が嫌いなんだよな」

「否定はしません。どうしてわざわざカク猿は人間と一緒にいなきゃいけないのかなって。人間なんて、すごく弱いのに。カク猿同士の方がよほど鍛錬になるのに、そう思っていました」

「悪かったな、弱くて」

 後ろめたそうに、志宮は部屋の隅を見つめている。

「私、先代の師範とは仲がよくて、憧れていたんです。強くて綺麗で……とてもかっこよかった。師範みたいに、凛とした女性になりたかったんです。
 ……でもある日、人間の男がやってきて、先代と勝負をしました。結果的にその男は先代にボコボコにされましたが、先代はそのままその男と一緒に、隠れ里に帰ってしまいました。」
 
 そうか。
人間が負けても、結果さえ出ればカク猿はその相手とくっつくんだったな。

「それを見て、なんだか怖くなったんです。私もいつか先代や他のカク猿みたいに、格闘技よりも色恋を優先して、この道場を捨てて里に帰らないといけないかと思うと悲しくなりました。あんなに一生懸命鍛錬してきたのは、何のためだったんだろうって」

 なんとなく、俺は試合中の彼女の言葉を思い出す。

―――魔物がいる世の中で、人間が強さを求めることが如何に下らないか、分からないんですか!?―――

 あれはどこか、志宮自身のことも指しているのだろうか。

 俺は志宮に負けた。弱いのだ。
彼女に対して、何も言う資格はないのかもしれない。

 だけどな。
俺は、回りくどいのは嫌いなんだ。

「別にいいんじゃねえの。格闘技も色恋も、そう変わんねえよ。」

「変わらない?」

「そうだ。俺だって強い相手と戦いたくて、各地を回っている。そこに理屈なんてないさ。俺が強い奴と会いたいからそうしているだけだ」

 志宮は顔を上げてこっちをじぃっと見据えてくる。
俺は思わず肩がピクリと上がるが、声が裏返らないよう抑えながら続ける。

「だから。人間だとかカク猿だとかしきたりだとか、難しく考えないでよ。
アンタがいたいと思う場所で、やりたいことをやればいいんじゃねえの。鍛錬の意味とか、人間といる理由とか、いちいち考えるだけ疲れるだけだろ?」

 自分でも相当情けないことを言っている自覚はある。
だが、こんな俺でもそれなりに人生を生きているのだ。
全く参考にならないわけでもあるまい。

「カク猿とか気にせず、アンタのやりたいようにやりゃいいさ」

 志宮は俺の顔をしばし見つめて、やがてクスリと微笑む。

「……先代があの人間の男と一緒になった理由、ちょっとわかった気がします。」

 言うと、彼女はその場で正座をして、俺の方に真っ直ぐ向いてくる。

「……さっきの勝負、久々に楽しかったです。あんな風にボロボロになって、力の差があると分かっていてもカク猿に、私にぶつかってきてくれた人間は初めてでした。」

「こっちはただ必死なだけだったけどな」

「色々と迷走したけど、貴方となら……何だか上手くいきそうな気がします」

志宮は深々と頭を下げてくる。

「勝負の相手が貴方でよかった。真面目に試合をしなかったこと、本当にごめんなさい。またあんな風に、真剣勝負をしてくださいね」

「おいおい!やめてくれ。そんな頭を下げるようなことじゃ……」

「あなたの言う通りでした。人間も魔物も関係なかったんです。戦いたいと、想った相手には全力でぶつかっていくべきでした。だから……」 

 すると志宮はパッと頭を上げる。
そして澄んだ瞳に俺を真っ直ぐと映して、告げる。




「私と……一緒に、来てくれませんか?」

 赤みがかる彼女の顔。
あどけない頬笑みを浮かべた彼女に、誰がNOといえるか。
 
 最初にその強さに惚れたのは、どっちだと思ってやがる。

「……しょうがねぇな。里にいる先代の師範とやらとも闘ってみたいしな」

そう告げると、彼女の顔がぱぁっと明るくなる。

「やった!じゃあ、あっちでもう一度試合しましょうね!今度は手加減はしません、ボッコボコにしてあげます!」

 無邪気な笑顔につい目が奪われる。
俺は気づかれないように、相変わらずの減らず口を叩く。

「ふふ、甘いぜ。アンタの戦い方にはもう慣れた。負ける気がしないね」

「何言っているんですか。足だけでかなり苦戦してたじゃないですか。本気を出したら貴方なんて、今日の晩御飯の鍋の豆腐並ですよ」

「意味わかんねぇよおい。尻尾ひっこ抜いて出汁にしてやろうか」

「上等です。その減らず口、今度こそ叩けなくしてあげますよ」




 ……ぐうう。

二人の間で、全く同じ音が響き合う。
そういえば、もう夕飯の時間だったな。

 お互いにまた、目が合う。
そして、小さく笑い合う。

「……とりあえず、メシだな」

「そうですね。じゃあ今夜はお鍋、食べていってください」

「おう、ありがたくいただくぜ」

「……ところで、あの」

 もじもじと、志宮は訪ねてくる。
まだ何かあるのだろうか。



「私まだ……貴方のお名前、まだ聞いてません」

「あー、そうだっけか?なんだか順番がおかしい気もするが……」

「いいんです。順番なんて、何も関係ないんですよ」

「……それもそうだな。俺の名前は―――」



 ―――数日後。

 俺は志宮蘭と共に、山奥のカク猿の隠れ里へと向かった。
そこでは、俺のみたことのない強敵がうじゃうじゃと転がっていた。
 カク猿たちの強さに驚いたのはいうまでもない。
その夫になった人間の男の実力も、流石カク猿と闘り合うだけあって、目を見張るものがあった。

 ここにきてよかった。俺は心からそう思ったのだ。


 そして。
ここで俺は、カク猿の、蘭の『本気』を思い知らされたのだった。


 何の本気か?

それは……ご想像にお任せする。


16/03/05 14:32更新 / とげまる

■作者メッセージ
 連載の息抜きに申年+バトルものが描きたくなりました。
が、やっぱり難しい…。
 何となく蹴りを主体に戦いそうなカク猿さん。
カポエラとか似合いそう。
 
 ちなみに名前はドラクラ・シミアという蘭の花から。
花の模様が猿の顔に見えるのでモンキーオーキッドともいいます。
面白い花なので検索してみてください。

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