連載小説
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Treat for Princess
 研究所を預かる者は、研究ばかりしていればいいと言うものではない。研究に必要な器具や材料の把握も大事な仕事だ。いや、研究に関係しないことも考えなければならない。例えば、住み込みで働いてくれている従業員へのレクリエーション、研究所の清潔具合、そして何より大事なこと、金の管理。
 金儲けには興味がないルナではあるが、金がなければ研究はままならない。必要な実験器具、肥料、薬品、従業員への給料……それらを管理しなければいけないのだ。
 研究費として本家からいくらか経費が降りるが、自分たちの研究やその他いろいろのことを考えると、それだけでは到底足りない。オルト=ブラントーム研究所では研究用の裏庭の畑の他に、市場用の畑もいくつか持っている。これでオルト=ブラントーム研究所の経営は成り立っているのだ。
「……まあ、良い方でしょう」
 所長室にて。クドヴァンがつけた出納帳に目を通し終えたルナは満足気に呟きながらサインをし、それをデスクの上に置いた。椅子の上で軽く伸びをする。そして再び椅子の上に座りなおして口を開いた。
「いつも通り少し早い時間ね、人食い箱さん?」
「ひぇっへっへ、刻限通り到着は商人失格でさぁ」
 ルナひとりきりだった部屋に、彼女以外の声が響く。同時に、パカッと部屋の隅に置かれている宝箱が開いた。中から現れたのは女性……ミミックだ。褐色に近い肌を透けるレースとリボンで作られた東欧風の服で包み、夕焼け色の長い髪二つに束ねている。そしてエメラルド色の瞳でルナを見つめている。
 彼女がルナが呼んだ通り"人食い箱"だ。箱さえ置いてあればどこにでも出てこられるというミミックの特殊能力を利用して、行商を営んでいる。本当の名前はアニータ。"人喰い箱"の異名は人を食ったような態度と、人間達を次々に魔物化・堕落させていることから、とある上級魔物がつけたものだ。
 人を食ったような態度だと客達に嫌われるかも知れないが、態度がデカいだけではない。彼女は商売相手の心を見抜くことにかけては天才的才能の持ち主である。そうでなければ、人間たちを堕とすことなどできやしない。
 人によっては人食い箱の箱を部屋に置き、呼んだ時にいつでも商売ができるようにしている者もいる。だが顧客の気持ち一つで呼ばれて参上すると言うのはミミックと言えどもなかなか骨が折れることだ。故に彼女と専属契約をして箱を部屋に置くのにかなりの金がかかる。上級魔物娘にとって、人食い箱と専属契約をして彼女の宝箱を部屋に置くのはステータスの一つだ。
 そのアニータと、ルナも専属契約をしていた。決して金のある方ではなかったが、アニータの方がルナの研究や生産している作物に惹かれ、専属契約を申し出たのだ。契約料も通常とくらべてかなり割引にされている。二人は顧客同士であると同時に、友でもあった。
「今日は何をお求めで?」
「いつもの器具を、箱3つ」
「へっへっへ、かしこまりやした。少々お待ちくだせぇ」
 そう言うと彼女は宝箱の中に引っ込んだ。箱の中は異空間につながっている。その中から彼女は顧客が求める商品を取り出し、そして相手から買った物をしまうのだ。
ゴトゴト、ガタガタ……ドカンっ! バキン! ドゴーン!!
 宝箱が揺れ、何かがぶつかり合うような派手な音が立つ。
「何度も見ているけど、やっぱり気になるわね……」
 激しく揺れて暴れている宝箱を見ながらルナはつぶやく。魔界の農作物の品種改良を集中的に研究しているルナだが、そもそもあらゆることに興味を持つ科学者でもある。人食い箱の商品を取ってくる様子は、興味深い謎の一つであった。もっとも、調べさせてくれと言ってもアニータには断られてしまったのだが。
 まもなく、宝箱の蓋が開いた。どすん、どすんとルナが頼んだ物が入っている箱が宝箱から出てルナの目の前に置かれる。その後、宝箱からアニータが顔を覗かせた。
「これでよろしいんで?」
「ええ、ありがとう。代金はツケでいいかしら?」
「それなんですがね……器具のお代はツケで結構でございやす。ですが今、ちょいと現ナマが欲しいんですよ。そのためにちょっとした情報があるんでございやすが……コレでいかがでございやしょ?」
 人食い箱がピンと指を三本立てた。相手は貴族だ。銀貨のはずがない。ふぅん、とルナは鼻を鳴らした。
「金貨三枚分ねぇ……それ相応の情報でしょうね?」
「へっへっへ……あたしはそうだと思いやすぜ? その情報をどう使うかはお嬢様次第……それはお嬢様も分かっておいででしょ?」
「……」
 ルナは何も言わず口角を釣り上げた。懐から財布を取り出し、金貨を三枚、人食い箱に握らせた。人食い箱がにんまりと笑う。
「へっへっへ……どーも。ではお教えしやしょう、ルナ・オルト・ブラントーム様。短いですが価値ある情報ですぜ」
 人食い箱が身を乗り出す。ルナは人食い箱から視線をそらして横を向いた。そのまま彼女に顔を近づける。ヴァンパイアの耳とミミックの口が限りなく近くなった。その耳に情報が注がれる。
「ナーラ・シュティム様がルナ様が開発されている農作物にいたく興味をお持ちでございやす」
「なんですって!? あのベンジャミンブランドの創始者様が!?」
 ルナが目を見開き、貴族らしからぬほどの声をあげる。それだけ驚いたのだ。ナーラ・シュティム……この世界において"その筋の人"ならだれでも知っていると言っても過言ではないリリムの一人である。
 ナーラ・シュティムは魔王の娘随一の舌を持つとされているリリムなのだ。妙な意味ではなく、鋭敏な味覚の持ち主だという意味で。この淫らな魔物たちの王の娘の通り、リリムと言うのは好色な者が多いのだが、ナーラは少し変わっており、食に対して非常に興味を持っていた。ただ興味を持っているだけではない。その料理にどのような食材が使われているか、どのような調味料が使われ、どのように調理され、その結果どのような味わいになっているか……それらを全て感じ、表現するグルメだ。
 今は世界の美食を求めて旅をしていると言う噂だ。そんな魔王の王女がふらふらと出歩いていたら騒ぎになりそうな物だが、そこは魔力か何かで隠しているのだろう。魔王の娘というのは伊達ではない。
 また、ただ食べて表現するだけではない。食に対する姿勢というものも自他共に厳しいと言われている。風の噂によると、味はいいのだが接客態度がなっていなかったオークが経営する店を襲撃し、店員全員を完膚なきまでに叩きのめしたらしい。その上、店員全員をハムのごとく店の軒先にぶら下げて一晩過ごさせ、その次の日には首に「修行のため店はしばらく休業します」とかけたカードを下げた店員を四つん這いにして引きずり回し、街の人全員に土下座させたとのことだ。それだけでは終わらない。ナーラはしばらくその街に滞在し、自ら鞭をとって店員たちにマナーを躾けたそうだ。一から。店では鞭の音や板を突き破る音、フライパンで殴られる音、爆発音に混じって豚の甲高い悲鳴が聞こえたらしい。
 噂などいくらでも尾ひれのつく代物なので、どこまで信用できるかは分からない。ルナも、そこにはあまり興味はない。ただひとつ確かなのは、ナーラの襲撃以来、その店は客が徐々に増えていったとのことだ。ナーラの厳しい教育の賜物なのだろう。
 他にも、ナーラは自分でも野菜を育てている。その野菜はこのブラントーム領ではベンジャミン・ブランドと呼ばれている。その味は、あらゆる世界で一級品と言われているブラントームの農作物にまさるとも劣らないと国内では評判だ。
 天才的なセンスと、あらゆる物を食べて磨きぬかれた舌と知識、そして食に対する妥協を許さぬ精神の持ち主……それがナーラ・シュティムなのだ。
 そのナーラがルナが開発している農作物に興味を持っていると言うのだ。そもそも魔王の娘が、貴族の分家であるルナに目をつけたと言うことがルナにとっては驚きだった。
「ナーラ様は農作物に興味を持ったら産地は絶対に調べられるお方でございやすからね。ですが産地を知るだけでは満足されず、品種改良や開発の方から興味を持っているご様子でございやす。」
「……!?」
 言われてみればそうだ。ベンジャミン・ブランドを創設しているのだから、そこのところには興味はあるだろう。つまり、産地であるブラントーム領だけではなく、より具体的に、この分家の研究所が何をやっているかにまで興味があると言うのだ。あのナーラが、自分たちのやっていることに。ルナが失神しなかったのが不思議なくらいの衝撃的な情報である。
「以上が情報でございやす、へっへっへ……」
 笑うアニータからフラフラとルナは顔を離し、デスクの椅子にぐったりとしたように身を沈めた。衝撃がまだ抜けない。腰が抜けてしまったかのようだった。それでも彼女の一部は冷静だった。素早く自分の事を考える。
「……もう一つ教えて。ナーラ様は何を召し上がられて、私の研究所に興味を持たれたの?」
「前々から興味を持っていらっしゃったようでございやしたが……あたしが取引させていただいておりやすアカオニから聞くに『月の甘露』が決め手になったようでございやす」
 月の甘露か、とルナは椅子に身を沈めたままつぶやく。月の甘露は確かに、ルナが品種改良をして産み出された睦びの野菜を醸造して作られている焼酎だ。醸造されている所は違うのだが。だが、今アニータからもたらされた情報からナーラの性格を推測すれば、醸造している所ももとより、ここに興味を持つことも考えられる。
「……まだナーラ様はここのことを突き止めていらっしゃらないでしょう。ですが近いうちに、黒羽同盟に問い合わせることでございやしょう。黒羽同盟の情報収集力はあたしと同等かそれ以上。そしてルナ様が研究をしていること自体は極秘でもなんでもない。ナーラ様に頼まれたらその日には調べあげることでございやしょう」
 ルナは黙って考え続ける。いつになるかは分からないが、いずれナーラはこの屋敷にくるだろう。その時はそれ相応のもてなしをせねばなるまい。準備も必要だ。だがその準備を整えた状態でナーラを待つと言うのは得策ではない。従業員たちも緊張を続けていたら疲れきってしまう。ならば今従業員たちに発破をかけてナーラを迎える準備をし、そしてこちらから招待するのはどうだろうか。厚かましいかもしれないが、悪くない手だ。
 しかし、この研究所にナーラを迎えることができる状態にできるかどうか、そこがそもそも問題だ。相手は魔王の娘なのだ。作物がおいしくとも、そのいらっしゃる場所が不潔だったり従業員の態度がふさわしくないものだったりしたら……それこそ件のオークの店の二の舞いだ。ブラントームの名も汚してしまう。
 ナーラを招くかどうか、それは準備をしてみてから決めてもおかしくないだろう。その準備を今から急ピッチで進めると……
今しがた得た情報から考え、結論を出したルナは人食い箱に告げる。
「四半月後、来て」
「かしこまいりやした、ひぇっへっへっへ……では、日頃お世話になっているお嬢様のために、もう一つ、とっておきの情報をお売りしやしょう」
 宝箱の中に引っ込みかけながら、アニータは笑ってみせる。だがその手はちゃっかり指を一本立てている。さらなる金貨を要求しているのだ。金貨を一枚取り出しかけ、ルナは思い直す。苦笑しながらもルナは惜しげも無く十枚の金貨をアニータに渡した。分かっていらっしゃるとばかりに人食い箱は笑う。
「ナーラ・シュティムというお名前が愛称のような物であるのはご存知でしょう?」
「え、ええ……」
「本名は、ロメリアと言いやす」
 どこからそんな情報を得たのであろうか。母である魔王および血を分けた姉妹、その他数名しか知り得ないその情報だ。金貨十枚でも足りないくらいの情報を人食い箱はサラッとルナに押し付け、笑いながら宝箱の中に引っ込んで蓋を閉じた。部屋には呆然としたルナが一人残された。
 ルナは手元の魔法のベルを鳴らした。涼やかな音が響く。このベルは魔法のベルで、ルナの魔力によって離れたところにいる人物と繋がっている。鳴らせばルナがベルを鳴らしながら念じている人物にその音が伝わり、すぐにその者が駆けつけてくれるようになっている。呼んだ相手はクドヴァン……ルナの夫だ。
 一人では対処できない。ここは大事な男性と一緒に考えたい。虚空を見つめながら、ルナは今もたらされた衝撃をいかにして使うか、その前にどのようにして夫に伝えようか、想いを巡らせるのであった。



 それからの日々は大変であった。何しろ魔王の娘がこの研究所に来るのだ。そこいらの貴族や国の王が来るのとは訳が違う。全ての魔物を束ねる者の子女だ。いかなる粗相があってはならない。
 研究所及び屋敷の大掃除をまず行う。いくら農業の研究所とは言え、リリムがいらっしゃる所が土と肥やしに汚れた場所だなんて言語道断だ。書類が散らかっているのもあってはならない。また、分家とは言え自分は貴族なのだ。みすぼらしい姿を晒すわけにはいかない。いや、自分が恥をかくだけならまだいい。本家の方にも恥が及んでしまってはこれは一大事だ。貴族が住む邸宅ではあるため元からそれなりに綺麗にはされているが、これを機に徹底的に掃除をする。
 さらに合間を縫って、屋敷にいる従業員全員にマナーの講習を再度行う。一応、まれではあるがこのブラントーム領の主、本家のメランアリコ・ブラントームが尋ねることがある。そのために従業員には相応のマナーは教えられているが、今度来る者はそれ以上の大物だ。とにかく禁忌のみは踏み抜かないことを重点的に講習を行う。
 その裏で、この屋敷の厨房を取り仕切っているグールと、どのような料理を出すかを考える。来るのは至高のグルメだ。下手な物は出せない。が、必要以上に背伸びするのも失礼に当たる。ナーラはこの研究所の作物に興味を持っているのだから。その作物を最大限に活かした物にしなければならない。出すことができる料理はいくらでもあるが、その中でどのメニューがいいか。何度もルナとクドヴァンとグールは打ち合わせをした。
 この目も回るような忙しい七日間が過ぎ去った。その七日間を経てルナは、ナーラ・シュティムを迎えることができると判断した。そしてその日に訪れた人食い箱に、ナーラ宛への招待状を送ったのであった。この研究所に来てもらう招待状を。
 返事はすぐにきた。三日後とのことだった。その日が運命の日になる。人食い箱より渡された返事の手紙を持つルナの手は震えていた。




 そして、運命の日が来た。



「ん……」
 ぞわぞわと肌が粟立つような感覚に、ルナは浅い眠りを破られた。彼女が声を出したことに気づいたクドヴァンも、眠りの世界から抜け出す。
「起きたのかい、ルナ……」
 クイーンサイズのベッドの中、クドヴァンは声をかける。その声は少し彼女を心配する様子が伺えた。カーテンは閉められているが漏れている光の色でだいたいの時刻が分かる。今はヴァンパイアが起きるにしては少々早い、黄昏時。
「眠れなかった?」
「ちょっとね……それより何か悪寒がしたんだけど……」
 もぞもぞとルナはベッドの中で身体を動かす。誘っている様子はないのに、その動きはどこか艶かしい。ルナをゆっくり撫でながらクドヴァンは言う。
「さあ、僕は何も感じなかったけど……熱でもある?」
「まさか……魔物娘はそう簡単に病気にはならないわ。ましてや、今日はロメリア様がいらっしゃると言うのに……」
 額に手を当てるクドヴァンに苦笑しながらルナは言う。そうだ。今日は運命の日。グルメのリリム、ナーラ・シュティム、本名ロメリアがこの研究所の見学に来る日だ。
 その時、ルナの顔がサッと青ざめた。
「ルナ?」
「……まさか、ロメリア様がもういらしてしまったとか!?」
 考えてみれば見学日程に関しては手紙で決められたが、時間までは決められていない。さすがに朝や真っ昼間に来るとは思えないが……だがもし、この研究所に来る前に散策をしていて、ちょっと早めにここに来てしまったとしたら?
 ルナはバネ仕掛けのように跳ね起き、ベッド横のラウンドテーブルに置かれたベルを手に取る。呼ぶのはメイドの一人、モイラだ。
「はーい、お呼びでしょうかー、ルナ様ー♪」
 明るく歌う調子の声がベルから響く。暗闇の中だからこそ、余裕を見せつけるような対応なのだろう。さすがにヴァンパイア相手に見下すような態度はとらないが、軽い調子が出ている。
「ナーラ様はもういらっしゃってる?」
「はいー、つい先程いらっしゃいましたー♪ クレアが相手をしておりますー♪」
「キャーッ!? なぜ起こしてくれないのよー!?」
 ベルに向かってルナは叫んだ。主のややヒステリックな叫びに、女中は調子を崩さずに応対する。
「大丈夫ですよー、クレアが上手くやってくれますから大丈夫ですよー♪」
「いや、そうじゃなくて……!」
 ベッドから降り、カリカリと頭を掻きながらルナは呻く。確かに、エントランスでの最初の応対は、礼儀作法を自分以上にマスターしているもう一人のワーバットのメイド、クレアに任せることにしていた。研究所の案内も彼女がすることになっている。ただしそれはナーラが求めなかった時。研究所の主である自分に説明して欲しいと言われた場合はルナ自身が直接出るつもりであった。
 ナーラが求めなかったから良かったものの、すでに出鼻をくじかれている形だ。ルナはため息をつく。
 そのルナの肩に、同じくベッドから出たクドヴァンがそっと手を置いた。急に夫に触れられ、ルナはハッと身をすくめ、短い声を上げる。
だが外からの刺激によってルナは落ち着きを取り戻した。ルナはベルに向かってメイドに命じる。
「すぐに朝の支度をするわ。湯浴みをして着替える。ドレスは前から決めてあったアレを」
「お風呂の方はすでに湧いておりますー♪ ナーラ様たちはすでに裏庭にいらっしゃるので見られる心配もないですよー♪」
 すぐに浴場に向かうと返事をしてルナはベルでの念話を切る。そしてクドヴァンを見た。彼は黙って頷く。その顔はルナをサポートする夫であり、そして屋敷と研究所の主をサポートする秘書の顔であった。




 風呂は手早くかつ丁寧に済ませた。ドレスもいつもより少しシックでありながら華美にはならない、黒を基調とした物。その姿でルナは食堂の入り口に佇んでいた。その横には黒のスーツに身を包んだクドヴァンがいる。さらにその後ろにワーバットのメイドのモイラがいて、超音波でもう一人のメイド、クレアと連絡を取り合っていた。
「ルナ様ー、ナーラ様はもうそこにいらっしゃるようですー♪」
「くっ……」
 針に刺されでもしたかのようにルナの顔が微かに歪む。その頬には汗が一筋流れていた。緊張しているのだ。もし、ミスでもしたらどうなるか……もし恥をかくようなことをしてしまったらどうなるのか……考えただけでも気分が悪くなる。まるで、自分の心が嵐の海のように荒れていて、身体が小舟のように揉まれている気分だった。夜の貴族と言えども、そのように緊張するところは人間と変わらなかった。
 その彼女の汗をそっと、夫のクドヴァンがハンカチで拭う。
「大丈夫、ルナ。いつも通りの君でいいんだ」
「……」
 今ほど大丈夫という言葉が不安に感じることはなかったが……少なくとも、クドヴァンのその言葉はルナの気持ちを落ち着かせた。ルナはクドヴァンの顔を見た。彼も緊張でやや顔がひきつっているが、ルナを安心させようと笑っている。
 そうだ。自分にはこの最愛で最高のパートナーがいるんだ。何を恐れることがある。ルナも笑い返した。まだ心は波立っているが、さっきほどではない。
「モイラ……いいわ。準備できた」
「かしこまりましたー♪」
 歌うようにモイラが言った。口だけが動き、常人には聞こえない声で外のワーバットのメイドに合図を送る。
 食堂のドアが大儀そうに、ゆっくりと開かれた。逆光でシルエットしか見えないが、そこにいるのは紛れも無くリリム……
 そのリリムに、ヴァンパイアは口を開いた。
「改めまして、ロメリア様。ようこそ、我が『オルト=ブラントーム研究所』へ」


「初めまして、ルナ=ブラントーム様。ロメリアと申します。本日はこのような素敵な研究所にお招きいただき、誠に有り難う御座います」
 ルナの挨拶にリリムのロメリアは返事をして一礼する。お忍びのためだろうか、服装は比較的カジュアルだ。だが歪みのないその立ち居振る舞い、そよ風のような柔らかでやさしい声、そしてぞっとするほど美しいピジョンブラッドルビーの瞳は紛れも無く魔の王女の者であった。
「いえ、こちらこそ、来ていただいて誠に有り難う御座います。どうぞ、お掛け下さい」
 モイラが椅子を引く。ロメリアが座ったのを確認してクドヴァンが紅茶をカップに注いでいく。新鮮な物をと考えて、ブラントーム領の中心地で昨日買った、高級茶葉で淹れたものだ。香りを嗅いだロメリアの顔が少しやわらかく見えた。まずは一安心。ルナは胸を撫で下ろす。一度小さく深呼吸をしてからルナは口を開いた。
「当研究所はいかがでしたか?」
「非常に興味深くて面白かったです。高いレベルで安定した土壌から産み出される作物は一体どれだけ美味しいことかと思いを馳せるのと同時に、『月の甘露』の美味しさも何か分かる気がしました」
「『月の甘露』……あぁ、我が研究所の睦びの野菜を使った焼酎のことですね。方々から好評を頂いております」
 そこまでルナが言ったところで、ロメリアの目が輝いた。燃え上がったとか、光が反射したとか、そう言った類の物ではない。輝いた。その表現が一番正しいような光であった。
「好評なんてものではないですよ! 大好評ですよ! 私の親友に酒屋をやっているアカオニがいるんですが、大概を旨いかマズいかの二段階で分けるそのアカオニが原材料を褒めていたんですよ! 『ほう、中々良い芋してるじゃねぇか』って!」
「……」
 自分が開発に携わった芋を褒められたのは嬉しかったが、それ以上に目の前の王女の力説に、ルナは固まってしまった。ルナだけではない。何があってもルナをサポートするつもりであったクドヴァンも少々面を食らっていた。その話し方は王女と思っていたにしてはフランクで、何より牛の大群が猛進しているかのような勢いと早さがあった。
「いやー私もその声につい二本ほど買って一人で晩酌――あ」
 自分が勢い余って喋り倒してしまったことに気付いたのだろう。ロメリアの滝のような言葉が止まった。ルビー色の目が困ったように泳ぎ、頬が目と同じ色に染まる。その恥ずかしがる仕草ですら、魔界の王女は絵になった。
 ロメリアが咳払いを一つし、砕けた口調で話してもいいかと尋ねた。唖然とはしていたが、拒否する理由はどこにもない。ルナは頷く。
「ありがとう御座います。ということで……よろしくね」
 姿勢を直してロメリアはにっこりと笑う。その表情は先ほど以上に躍動感にあふれていた。このフランクな調子の方が、彼女の本来の姿らしい。
 一方、ルナは固い調子を崩さない。ロメリアもフランクな調子で話して欲しいと言う気持ちも、薄々ルナには感じ取られたが、相手は目上なのだ。目上が砕けたからと言って自分も無礼講に接していいはずなどない。このままルナは話を続けようとしたのだが……
「"ロメリア"。"様"はいらない」
 ぴしゃりとリリムはそう言った。短い一言だったが、その声には逆らい難い物があった。高圧的とは違う、威圧的と言う言葉もどこか違う。だが逆らい難いのだ。
「砕けて良いわよ。少なくとも姉様がいない私の前でそんな畏まらなくていいわ。寧ろ宮廷料理でもないのに畏まるのが不自然よ」
「え、いやでもしかし」
「デモもストもしかしも犯しも無くてね、私はそうされるのが苦手なのよ。それにまだ次期魔王継承の可能性があるシプール御姉様はともかく、さして実権もあったものじゃない私に今更目上の礼儀なんてねぇ」
 ルナはため息をついた。本家の頭首相手には敬語を使うのに、それより上の立場の人間に砕けた調子で話せと言う……正直慣れない。また、王女相手に友達のような話し方をするとは何事かと、本家の方から苦情がくるかもしれない。しかし、その王女が要求していることを、自分の都合で拒否するのも良くはないだろう。
「……わかったわ。本当に、噂には聞いてはいたとはいえ、実際に目にして話を交わすと、相当普通のリリムのイメージから外れているわね……」
「それも相当、ね。外見は流石に不思議の国の女王様には負けるけど……それにしても、そこにいらっしゃる貴方の旦那さん、ええと、お名前は」
「いいわよ」
 ルナの許可を得てクドヴァンは口を開く。
「クドヴァン、と申します、ロメリア様」
 クドヴァンの口調を聞いてロメリアが口を開いた。何を言おうとしているか、ルナはすぐに察した。
「申し訳ないがロメリア、クドヴァンにまでは強いないで頂きたい」
 畏まられるのが苦手だとロメリアは先ほど言った。クドヴァンにも砕けた口調で話されるのを望んでいる。しかしそうはいかない。ややこしい話だが、ホストとして直接ロメリアと話しているルナが砕けるのはともかく、あくまで彼女の部下であるクドヴァンまでが砕けるのが許されると、本家の方から苦情がくる。本家の人間はロメリアと会ってフランクに話されることを許されていない。だというのに、貴族でもない、部下であるクドヴァンが砕けるというのはいかがなものか、と言うのだ。
 そして何より彼、クドヴァンは自分の物だ。この男に関しては他の人にとやかく言われる筋合いはない。他の魔物娘にとられたくないのと同じだ。少なくとも、自分はそうだ。そのことを遠回しに主張する。
 ルナの気持ちを分かってくれたのだろう。一度言おうとした言葉を飲み込み、ロメリアは別の言葉を紡ぎだした。
「……失礼したわ。改めて……クドヴァンさん、貴方良い腕しているわね。ここまで美味しい紅茶は中々巡り会えないわよ。」
「誇っていいのよ、クドヴァン。貴方は魔王の娘随一の味覚を持つ彼女に認められたのだから」
 そして自分も同時にルナは誇っていた。自分の夫が褒められていると言うことを。自分の半身とも言えるパートナーが褒められて嬉しくない魔物娘などいない。
 クドヴァンから嬉しそうな感じは伝わってくる。だが彼は表ではそれを執事の顔で包み隠し、ロメリアに近づいて尋ねた。
「では、お客様の味覚に適う料理を提供させていただきます。ロメリア様、本日のお品書きをご覧になって何か質問は御座いますか?」
「ええ、こちらに記された三種類のポテトパイ、それぞれどんな特徴があるのかしら?」
 すかさずと言った感じで返ってくる。やはりグルメに関しては妥協の二文字はないのか、事前情報はきちんとさらっておきたいという貪欲さが見られた。
クドヴァンが横目で説明していいかと訊ねる。お楽しみにするという選択肢もあるのだが、ロメリアが今回ここに来た目的は食事と同時に、作物の品種改良の様子および今年出来た研究品の見学だ。そこは科学者として答えるべきだろう。ルナは頷いた。
「お答えします。ポテトパイ・ジョルノに使われている睦びの野菜は当ブラントーム領の代表作でございます。じゃがいもとの交配を繰り返して作られ、甘さを抑えたタイプでございます。塩の相性もとても良く、ブラントーム領での一般家庭では魔界のキノコと併せて食べられるのが一般的です。今回もそのような形でご用意させていただきました」
 真剣な表情でロメリアはクドヴァンの説明に聞き入っている。
「ポテトパイ・ノッテに使われております睦びの野菜はこのブラントーム研究所の最新作でございます。魔界芋で甘さを可能な限り引き出したタイプです。蒸して割るとりんごのように蜜がとろけるほど糖度が高いです」
 ロメリアが唾を飲み込んだ。それを見てルナはほくそ笑む。つかみはよし。興味を持ってもらえたようだ。あとはその味が彼女の舌の眼鏡にかなうかどうかだ。そこが大事なのだが。
「ポテトパイ・アルバは人間界のじゃがいもが使われております。男爵芋でございます。マッシュルームやしめじなど、人間界のキノコと組み合わせてご提供させていただきます」
「ほへー……」
 感心したため息のような声がロメリアの口から漏れた。その横でクドヴァンは軽く息をついていた。この説明をするのに十日間、寝る間も惜しんで訓練をしていたのだ。それもこれもルナのため……大事な、自らの妻に恥をかかすことのないようにするためだ。妻としてはクドヴァンの修練の様子に嬉しく思う一方で大丈夫か、身体は壊さないかと不安ではあったのだが、そのようなこともなく、そして今、訓練の成果が発揮出来たようでよかった。
 だが、ここまでは前座。本番はここからだ。
 孤高のグルメ、ロメリアの口が開かれる。
「オーダー。ジョルノ、ノッテ、アルバの順でお願いします」
 畏まりました、とクドヴァンは短く答え、厨房に潜ってコックに指示を飛ばし始める。それを見送ってから、ルナはロメリアに話しかけた。ゲストが退屈しないように。
「そう言えば、さっき言っていた不思議の国の女王様って、リリムなの?」
「ええ、そうよ。リリムにしてアリスっていう相当特殊な例なの。多分妹にもいないんじゃないかしら」
 そしてロメリアは妹の、不思議の国の女王について、そしてその主の国の様子を説明する。
 おもちゃ箱をひっくり返したような愉快でファンシーな国……いや、そんなレベルではない。誰がそんなことを、誰がそんな物を考えるのかと疑いたくなるような物があちこちに転がっている……それが不思議の国らしい。国中の様々な場所や物品・食糧には魔術が仕掛けられている。
 たとえば、媚薬の雨……これはヴァンパイアがそもそも真水に弱く、雨が媚薬そのものであることを考えれば驚かない。食べた者を幼い姿に変えるクッキー、逆に幼い姿の女性が食べれば色香漂う大人の女性へと姿が変わるケーキ……このあたりはサバトのことを考えればまだ納得できる。だが飲んだ男性が大きな犬の姿になってしまい、発情して魔物娘を襲って犯してしまう紅茶などはルナは考えたこともない。これらはしかもこれらは突然起こるのだ。慣れていない者は振り回されて疲れるはずだ。これでは不思議の国に勇者が派遣されたとしても、まず精神的にも肉体的にも女王の元に辿りつけないだろう。
 これでは不思議の国に在住している者も不便なのではないかと思われるが、住人達はこれらのハプニングが起これば、とりあえず夫婦で交わって楽しむのだと言う。
『メランアリコが聞いたら卒倒しそうだわ』
 まじめにこのブラントーム領を治めている、自分の従姉妹であるヴァンパイアのことを思い出しながらルナは苦笑する。
「んでまぁさあ。そんな国の支配者な女王様だから分かるでしょう? カリスマ性は確かにあるのよ。バフォメットにまさるとも劣らないわ。そこはリリムよ。でもそれよりも子供っぽさが目立つのよね。機嫌を損ねると厄介だわ。時折城に大量のお菓子の製造を依頼、と言うより命令してくるのよね、"トランプ兵"さんもお疲れ様よ」
 ロメリアは苦笑する。だが心底嫌がっている様子は見られない。しかし、姉に対する愛と言うより、それは妹に向けるようなものに近い気がするのは気のせいだろうか。 ……気のせいではないだろう。残念ながらそこは不思議の国の女王の精神年齢が問題だ。
『なるほどね、そう言う女王さまなら……この手紙も納得だわ』
 ルナは一人頷いた。ルナがハートの女王の話題を振ったのには、もう一つ理由がある。
 懐から封筒を取り出す。紫色のワーキャットから郵便受けに入れられた手紙だ。そのワーキャットがチェシャ猫であることは、人食い箱に聞いて初めて分かった。
 中身は、ブラントーム領の魔界芋や果物、およびそれを使った菓子を献上せよ、と言った内容だ。交配の研究所であるここに届けられるのも少し困るのだが、ハートの女王にブラントーム領の作物を望まれるのは嬉しかった。
「だけど、支払い手段と運送方法が書いていないから……ロメリア、貴女は何処に不思議の国があるか……ってどうしたの?」
 ロメリアが頭を抱えている。ルナが訊ねると右手を出してきた。手紙を見せて欲しいらしい。渡された手紙を見てロメリアはやっぱりねと苦笑した。支払手段と運送方法が書かれていなかったことをこのリリムは予想していたらしい。
 手紙を返しながらロメリアは、姉の代わりにルナが知りたがっていた情報を教える。無論極秘情報だ。メイドなどに任せることなく、ルナが直々にメモし、懐にしまう。
「やれやれ……きっと姉上様は現在進行形で駄々をこねているわ。まあ、お詫びにビッグでビビッドカラーなロリポップでも作ってあげれば機嫌直してくれると思うけど……」
 ハートの女王はリリムでありながらアリスという種族でもあると言う。つまり、姿も幼いのだろう。女児のリリムが身の丈以上の飴を支えながらぺろぺろとなめている様子を想像して思わずルナは微笑んでしまった。
 こうして聞いてみると、魔王の娘と言うのは意外とフランクなのかもしれない。目の前にいるリリムもしかり。そして、なんでもあの宗教国家レスカティエを落とした第四王女デルエラも、あの人気喫茶店であるトリコロミールの一日店長をやったと言う。魔物娘を率いて国を陥落させる実力とカリスマ性を備えた王女とは思えないほどの茶目っ気だ。いや、そういう茶目っ気があるからこそ、部下がついて来るのかもしれない。
「初めまして! ロメリア様! 挨拶遅れまして申し訳御座いません!」
「わぁっ! びっくりしたぁっ!」
 ホールに大音声が響き、ロメリアが軽く椅子の上で飛び上がった。ここの研究所および屋敷に住んでいる従業員がほぼ全員集まっていた。いないのはコックのグールだけだ。
 ロメリアを驚かせて不快にさせてしまったのではないかとルナは不安になったが、無用な心配だったようだ。従業員達を見るリリムの目は笑っている。安堵のため息をついてからルナは言う。
「……ここで働く研究員のみんなよ。では、改めて紹介しようか」
 この研究所と屋敷で働いている者は魔物娘14人、男が12人だ。2人の魔物娘は絶賛男を募集中である。魔物娘の種族の内訳は、2人がワーバットだ。クレアとモイラである。その2人以外は全員アンデッド種だ。ゾンビ、グール、ゴースト……様々である。
「ところでロメリア様」
 一人のゾンビが口火を切った。名前はミシュリーヌ……研究員のゾンビだ。生前も何か研究を行っていたらしい。残念ながらその研究のことは思い出せないのだが。それでも今のルナの研究に携わっていて彼女も楽しいらしい。
 彼女の他に研究員のアンデッドはあと2人だ。残念ながら、知能は平均よりも低めのアンデッドである。他は屋敷や研究室の掃除をしたり、ルナ達の指示にしたがって試作品に水をやったり、物を運んだりする力仕事をしている。
 ミシュリーヌが、人間界のじゃがいもの栽培方法について質問している。限りなく人間界のじゃがいもを生産できている当研究所だが、まだ完全とは言い切れない。そのためのアドバイスを聞いていたのだが……頭を抱えていた。どうやら彼女の頭を持ってしても理解できない内容だったらしい。
 それもそうだろう。ロメリアのアドバイスは魔力を土から抜き、さらに空間中の魔力も抜くなどと言う物……しれっと言っているが、これは相当な高等技術だ。ルナたちもやろうとしたがすぐに挫折した。自ら野菜のブランドを立ち上げるロメリアだ。実際にやっているのだろう。
 ルナがそのこととコスト面の問題を指摘すると、ロメリアは代替案を提示してくれた。書くと膨大な量になりそうなため、ルナは脳内に必死にメモしていく。
 その間にキッチンの方から香ばしい匂いがしてきた。蒸しあがった芋の香り、こんがりと焼けた小麦生地の香り……ロメリアが頭を上げ、期待に目を輝かせる。その彼女の心を追撃して揺さぶるようにルナは語りかけた。
「どうやら第一段が完成したようね。多分あと二つもセッティングそのものは終わっているはずよ……聞こえるかしら?パイを刻む音が」
 ルナの言葉の通り、ザク、ザクと非常に気持ちの良い音がこのホールにも聞こえていた。従業員の皆も同じように聞こえているらしく、ささやき合っている。
「今までで一番良い音をしてるね」
「……うん……きっと……おいし……♪」
「まーた口火傷すっかな……食べんのは止めねーけどな♪」
「せめて冷ましてから食べましょうよ……一番乗りって毎回がっさり摘んで事故ってどうするんですか」
 そう話しているうちに、芳香が近付いてきた。クドヴァンがドーム状の蓋をした銀の皿を持ち、滑るような足取りでホールに現れる。そっと皿をロメリアの前に置き、そして蓋を開けた。
「お待たせいたしました。ポテトパイ・ジョルノです」
 銀の皿の上に鎮座ましましているのが、クドヴァンの言ったポテトパイ・ジョルノだ。タルトなどと同じように円形に焼き上げたパイ……黄金色に焼けたそのパイ生地の中央にブラントーム領の紋章が刻まれている。もっともその紋章はすでに切られているのだが。パイは八等分に切られていた。
 パイ生地の横には二つのソースが入った小皿が添えられている。魔界牛の肉汁と刻まれた魔界茸を使ったグレービーソースなのだが、片方にはアンデッドハイイロナゲキタケが入っていない。アンデッド族が好んで食べるこのキノコだが、魔物娘が食べると腹痛などを起こしてしまう。こればかりは頑強な身体の持ち主である魔物娘でも無理なのだ。
 切り分けられたパイの一切れとともにクドヴァンがアンデッドハイイロナゲキタケが入っていない方をロメリアに差し出す。感心したように、ロメリアが微かな笑みを浮かべた。
「食後に、シェフに有り難う、って伝えたいのだけど、いいかしら?」
 料理と言うのはただ美味しければいいものではない。気遣いも必要なのだ。トラブルになることがある。ロメリアはそこも見ていた。胸をなでおろすと同時にルナは唸る。やはりグルメのリリムは伊達ではない。
 そのトラブルの一つだが、宗教上の問題がある。食事の礼節は地方によって違う。主神教団はもちろん主神に祈る。海の魔物は当然ポセイドンに感謝する。ダークエンジェルやダークプリーストはもちろん堕落神を……と思いきや、実際の食事では堕落神に感謝することはないらしい。
 そして、ここは精霊に祈ることになっている。いかに強力なヴァンパイアが治めるこの領地なれど、自然の恵みまで彼女らが支配しているわけではない。そこはノーム、ウンディーネ、シルフ、イグニス、ダークマターの力がある。
 ロメリアがルナに目配せをする。こちらの流儀にしたがって食前の礼節をするつもりらしい。了承したとルナは頷き、クドヴァンが席についたのを確認して挨拶をする。
「――我らに日々の糧を授け賜う精霊達に、心からの感謝を」
「感謝を」
 リリムとの会食が始まる。従業員たちとロメリアがパイを食べ始める。ルナとクドヴァンは動かない。ロメリアが食べて、感想を言うのを待っているのだ。
 ロメリアはナイフでパイを一口サイズに切っていく。さくりと音を立ててパイ生地に亀裂が走る。その後はするりと生地の中にナイフが沈んでいく。それだけ芋が蒸されているのだ。すっとロメリアがナイフを引く。ナイフと皿が当たった音はしない。彼女のナイフの扱い方にルナは心のなかで唸る。しかし、ナイフ使いに感心している場合ではない。ロメリアの赤い口が開かれ、パイが彼女の口の中へと運ばれていく。
サクッ
「――!!」
 ロメリアの口の中でその音が瞬間、彼女が目を見開いた。無言で二口、三口と彼女はパイを食べていく。まだ何も言っていないが、ロメリアがパイに夢中になったのだとルナは分かった。自然とその口角が釣り上がる。
 パイを飲み込んだロメリアが唾を更に飲み込んだ。その彼女の視線はグレービーソースに注がれている。このパイに、濃厚な魔界牛の出汁を用いたグレービーソースを使ったらどうなるのかしら……そう考えている。グレービーソースに使われているキノコも、ブラントーム研究所で栽培した。魔界牛ばかりは街で買ったが……
 ソースを吸ってしっとりとしたパイをロメリアが口に運ぶ……ちろりと桃色の舌が覗いてその一切れを乗せ、口内へと引きずり込んだ。
「……ルナさん」
 ロメリアが囁く。感情を押し殺した、これまでのフランクな彼女からは想像できない、絞りだすような声だった。まさか口に合わなかったのか……それまでのロメリアの夢中になっていた様子は自分の思い違いだったのか。ルナの顔が凍りつく。
「……赤ワインを、ボトルで頂けるかしら」
「かしこまりました」
 ロメリアの要求を聞いて脱力したルナの横で、クドヴァンが静かに素早く立ち上がって応えた。厨房に一度消え、すぐに赤ワインのボトルを持ってくる。
 持ってきた赤ワインは、これまたブラントーム領で造られた陶酔の果実のワインである。このワインも品種改良の技術が使われている……つまり、ルナとクドヴァンが間接的に携わっているのだ。
 ワインとパイにロメリアは舌鼓を打っている。その様子に満足してから、ルナとクドヴァンは自分のぶんのパイに手をつけた。
 先ほどクドヴァンがロメリアに説明した通り、このポテトパイ・ジョルノはじゃがいもとの交配を繰り返した睦びの野菜である。柔らかくもしっとりと重い歯ごたえとともに口に広がる甘み……その甘みは味付けに使われているバターの塩味とクリーミーなまろやかさを引き立てている。
 グレービーソースを併せるとまた旨味が際立つ。コックをはじめ、研究所のアンデッドはみんな言う。まるで肉にかぶりついているかのようだと。

 切り分けられたポテトパイ・ジョルノをすべて平らげたロメリアにルナは感想を尋ねる。口元を軽くナプキンで拭きながら大きく頷き、彼女は応えた。
「これはお見事ね。主食にもメインディッシュにも添え物にも、それにもしかしたらデザートにも使える代物だと思うわ。品評会トップ受賞経験あるかしら?これ」
「まだ無いわね。次は第何回だったかしら?」
「第72回ね。甘味ばかりが芋の良さではないし、出してみたらどうかしら。何なら推薦状くらいなら書くわよ」
「そうね、お願いするわ……と、ロメリア……」
 ルナが目を細める。勢いが着いたのだ。先鋒戦は勝った。この次も負けない。その自信がルナにあった。大胆になったヴァンパイアは挑戦的に孤独のグルメのリリムに言う。
「貴女、さっき言ったわよね。ポテトパイ・ジョルノを食べて、この睦びの野菜が、デザートにも使える、って……」
 それは一理あるのだ。そのように開発したのだから。その万能性に関してはルナは誇っている。しかし「デザートに使う」ということだけを考えると……
「……次のポテトパイ・ノッテを食べても、同じ事が思えるかしらね……ふふ♪」
「ほ、ほう……それは期待高いわね」
 挑戦的なルナの調子に気圧されるロメリア。その彼女の前にクドヴァンはポテトパイ・ノッテを置く。焼けた生地の匂いい混じってシナモンとナツメグの匂いがテーブルを中心に広がった。まだパイは切り分けられていない。この場で切るのだ。そのパイがいかにすごいかを見せるために……勢いづいたルナは芝居がかった調子で言う。
「ロメリア、よく見ておきなさい。これが、"貴女の求めてきたまかいもを用いたパイ"よ……!」
 ヴァンパイアは従者に切り分けを命じる。ロメリアに断面を見せるように指示しながら。ざくり、と音を立ててクドヴァンはパイを両断した。
 目が大きく見開かれ、ピジョンブラッド・ルビーの目が輝いた。その紅い目には断面からとろりとろりと蜜が溢れていく様子が映っている。林檎ですら蜜がトロリと溢れることは稀なのだが、このパイからはまるで蜂の巣を割ったかのように蜜を滴らせているのだ。
 まだ開発段階で市場に出回ることは愚か、この研究所の者とルナ達の主であるメランアリコしかしらない最新の睦びの野菜……それを使ったパイがこれ、ポテトパイ・ノッテである。
「理解したかしら?食べたら、さらに凄いわよ」
 ルナの言葉とともに、切り分けられたポテトパイ・ノッテがロメリアの前に差し出される。断面から滴り落ちた蜜を救い上げて生地にかけ直すのもクドヴァンは忘れない。
 表向きは冷静だがこらえきれないと言った様子のロメリア。それでもタルトの生地部分を微かに残しつつ、ゆっくりと丁寧に折る。食事のマナーとして、そして美味しく食べるために。
 ロメリアが微かに鼻を鳴らし、パイの匂いを嗅ぐ。少女が花の匂いを嗅いでうっとりするように、ロメリアも顔をほころばせる。アルラウネの蜜香のように甘美な香りを放つポテトパイ・ノッテだ。
「……♪」
 ポテトパイを食べているロメリアの口角が自然に釣り上がっていた。上々だ。
 ロメリアの反応に満足してから、ルナは自慢の最新作のパイを口にする。
 その甘さは蜜が滴るところから分かる通り、相当なものだ。魔物娘が求める魔物娘のための睦びの野菜……そうルナは思っている。ぬっとりと絡み付き、さっと引く。どこか献身的で、でも体には心には記憶にはしっかり刻み込む甘味……それは魔物娘と男の、温かく穏やかに愛を交わし合う様子を思わせる。
 蒸すだけでも甘くて美味しい最新型のまかいもだが、その魅力をさらに引き立てるべく、底の生地にも工夫がされている。ただのクッキー生地では終わらせない。ナッツ・クランチやアーモンド・クランチ、オレンジピールが混ぜられている。それぞれほのかな塩味と酸味を含ませてポテトパイの味を引き立てている。

 あっという間にポテトパイ・ノッテはなくなってしまった。デザートのようなポテトパイ・ノッテであるが、これで終わりではない。ロメリアのオーダーではこれが二番目であった。
「最後はポテトパイ・アルバ……」
 人間界のじゃがいもを、極力魔力が入らないようにして育成してこのブラントーム領で作った。それを使ったパイである。
 人間の女性が魔力を浴びていると魔物娘になる。それは、魔物娘としては歓迎である。これによって魔王が理想とする人間と魔物が手を取り合って新たな共生関係を築く、進んだ世界が生まれる手助けになるのだ。ロメリアの姉のデルエラはそれを行っている。
 じゃがいもも同じように、魔力に曝露されると睦びの野菜となる。魔物娘としては普段口にしており、生産数と言う面では馬鈴薯より多い作物になることは喜ばしいことだろう。魔界の作物の方が味がいいと言っている魔物は多い。
「でも私はそうは思わない。人間界の作物だって、まだまだ捨てたものではないし、安易に魔力に浸すべきではないと思うの」
 それを最初に思ったのがルナの母、ソワレである。
 まだこの研究所が出来る前……ソワレが貴族とは名ばかりで古くて朽ちかけた小さな屋敷で貧相な生活を送っていた時、ルナの父となる男、マルクが現れた。そしてある時、ひょんなことからソワレは人間界のじゃがいもという物を知り、マルクはそれを彼女に食べさせた。それまで食べたことのなかった人間界の食べ物とその味にソワレは楽しまされた。
 じゃがいもはオルト・ブラントーム家にとって思い出深い農作物なのだ。
「おまたせいたしました。ポテトパイ・アルバでございます」
 切り分けられたポテトパイがロメリアの前に出される。人間界のじゃがいもが使われたパイが。
 使われている人間界の物はじゃがいもだけではない。小麦、バター、きのこ……すべてが人間界で作られた物だ。横にはジョルノと同じようにソースが添えられているが、こちらも人間界で作られた物しか入ってない。もっとも、じゃがいも以外は人間界の物を積極的に栽培していないので、これらは取り寄せたものだが。
 ロメリアはパイをさらに一口大に切り、フォークを刺した。そのまま一息に口に運ぶ。口にする前から輝いていたルビー色の瞳がさらに煌めく。
 咀嚼するロメリアの口の動きは、ジョルノの時より少し大きい。今回のパイでは芋は粗めに処理されている。じゃがいものホクホクとした食感を活かすために。それを味わっているのか。
 ロメリアは今度はソースをかけてパイを食べた。咀嚼している彼女は穏やかな顔をしている。まるで、ゆっくりと温泉にでも浸かっているかのように。
「これが、家族の営みなのかしらね……」
 目を閉じ、ロメリアは小さくつぶやく。その脳裏では何を見ているのか。厨房のグールの様子を思い浮かべているのか、ルナ達が研究のためにこの芋を栽培している様子を思い浮かべているのか、あるいはそれとは別な、田舎の農家のことを連想しているのだろうか。
 ロメリアの様子を伺いながら、ルナもパイを口にする。その顔が微かに歪んだ。舌が少しひりひりしているのを感じる。クドヴァンも従業員のアンデッドも顔をしかめていた。そしてロメリアも口を小さくすぼめて息を吸い込んでいる。口の中を冷やすかのように。予期していたが防ぎようがない事態が起きてしまった。
「ごめんなさい、どうやらアルバの中に別の芋に変異したものが混ざっていたみたい……」
 魔力が入らないように努力して育てている人間界のじゃがいもだが、それでも一定以上の割合でまかいもに変化してしまう。今回、ポテトパイ・アルバの中に混じっていたのは、辛味のある品種だ。ステーキを始めとするメインディッシュの付け合せや、純粋に辛さを楽しみたいのであればなかなか優秀な品種だが、今、パイに入っているのはいただけない。
 ルナが謝るとロメリアはいいのよと言いながら笑った。子どもにいたずらをされた親のような笑みであった。だが怒っているわけではない。現にロメリアはさらにパイを切り分けて口に運んでいた。そしてあっという間にパイはなくなってしまう。
「とっても美味しかったわ、ルナ」
 キラキラとピジョンブラッド・ルビーの目を輝かせ、にっこりと笑いながらロメリアは感想を言う。とってもシンプルな言葉だったが、その言葉には万感の思いが込められていた。
 見ただけで男を虜にするというリリム……そのリリムが自分たちに笑いかけながら、その努力を賞賛してくれている。彼女の様子はまるで天に導く天使のようであった。いや、ロメリアも自分も魔物であるので、その表現は正しくないのだが……



 こうしてロメリアによるブラントーム研究所の見学及び会食も終わった。いや、実際は会食後にもう一つ、イベントがあった。
「折角招かれてお食事を頂いたのに、何もしないのも嫌」
 ロメリアはそう言い、何かの手伝いをすると言い出したのだ。いくらフランクに接したとは言えゲスト、それも魔王の王女に手伝いなどしていただくなど申し訳ないとルナは二度断ったのだがそれでもロメリアは折れなかった。そのため、不思議の国に向けてのお菓子製作を手伝ってもらったのだ。さらに、姉に顔を見せに行くついで不思議の国に運ぶことにもなった。
「菓子作り及び材料提供ならまっかせてー♪」
「ええ、その時は期待しているわね」
 そう言葉を交わしてロメリアは帰っていった。その手には大量ブラントーム研究所の農作物で作られた菓子。ハートの女王のための物もあるが、ロメリア自身のおみやげもある。
 ゲートが閉じたところでルナはホッと大きく息を着いた。途中から崩した話し方をしてはいたが、やはり緊張していたのだ。緊張の糸が緩み、倒れこそはしないものの身体がぐにゃりと脱力する。その彼女を支えようとクドヴァンがスッと寄り添った。
「お疲れ様、ルナ……」
「お疲れ様、クドヴァン……」
 彼の好意に甘えてルナは寄りかかり、手を握った。そしてねぎらいを表すべくその手にくちづけをする。少し驚いたように目を丸くしたクドヴァンであったが、ルナの気持ちを理解したようだ。お返しとばかりに自分も握った手を持ち上げ、ルナの手にくちづけをした。
「上手く……言ったかしら?」
「何を言っているんだ、ルナ。最高だったよ。ロメリア様……ずっと笑っていてくれたじゃないか」
 クドヴァンの言葉を聞いてルナは、ふっと笑った。そうね、それもそうね……と呟きながら。
「あなたがいてくれたからよ、クドヴァン……」
「いや、君が……」
「私が主として引っ張っていたとは思うけど、あなたがいなかったらダメだったの」
 ルナの言葉を聞いたクドヴァンが彼女の手をギュッと握りしめる。ルナもまた強く握り返した。
 今回の、ロメリアの研究所見学が上手く行ったのは、二人の努力の賜物だ。正確には二人だけの力ではない。従業員、コックのグール、そして睦びの野菜とじゃがいもを掛け合わせることを考えたルナの母のソワレと父のマルクの存在もある。だが、二人が頑張ったと言うのは大きい。少なくとも、どちらかが欠けていても今日の成功はなかっただろう。愛し合っている二人がいなかったら。
 と、ここでルナがいたずらっぽく笑いながらクドヴァンに話しかける。
「ところでクドヴァン? あなた、ロメリアに見とれていなかったかしら?」
「え? あ、いや、そんなことは……」
「……慌てるあたり、怪しいわね……」
「ちょ、ルナ!?」
 身体を硬直させるクドヴァンにルナはくすくす笑う。
「冗談よ……リリムの魅力は魔王の娘だけあって、目だけは行っちゃうかもしれないけど……クドヴァンのすべては私の物、私のすべてはクドヴァンの物……その事実については負けないと思っているから」
「ああ……そうだね。僕も、同じ気持ちだよ」
「証明してくれるかしら?」
 ルナの目が細められる。ポテトパイ・ノッテをロメリアに勧める時に見せたあの自信に満ちた挑戦的な表情だ。だがそれだけではない。今の彼女にはポテトパイ・ノッテより甘くとろけるような艶が加わっていた。彼女が何を言いたいか察したクドヴァンは軽く笑う。
「ああ、もちろん……ここ最近、忙しかったしね」
「ふふ、期待しているわ」
 二人は指を絡ませるようにして手を繋ぎ直した。そして屋敷の中へと消えていった。
 ロメリアをもてなす時間はここまで。これからは二人の時間だ……
14/04/08 22:39更新 / 沈黙の天使
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■作者メッセージ
どうも、お久しぶりです。沈黙の天使です。
今回は初ヶ瀬マキナ大先生著『孤独のレシピ〜とある淫魔(リリム)の食事録(レシピリスト)』のリリム、ナーラ・シュティムことロメリア様をゲストに招いて書かせていただきました。初ヶ瀬マキナ先生、ありがとうございました!
というわけでアンサーと言うべきかクロスオーバーと言うべきか、いかがだったでしょうか?
大先生のキャラやネタを借りてのSSでどこまでロメリアの魅力を引き出せたか、そして本家の飯テロSSにどこまで追いつくことができたか……とても不安ですが、とりあえず書ききれて良かったです。
本家の『孤独のレシピ〜とある淫魔(リリム)の食事録(レシピリスト)』もどうぞよろしくお願いします。

それではまた次回、ごきげんよう。

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