連載小説
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みみかき
「お兄、あーんして」

 開けた口に入ってくる、香ばしい匂いのサンドイッチ。ベーコン、レタス、トマト、チーズ……豪華な具の味わいが口いっぱいに広がる。

「おいしい?」
「ん」

 無邪気に尋ねてくる彼女に、サンドイッチを咀嚼しながら頷く。ベーコンのこってりとした脂を野菜が中和し、また濃厚なチーズが味に膨らみを与えている。パンも丁度良い歯ごたえだ。飲み下してからの後味まで美味しい。
 晴れた日の木陰は丁度良い涼しさで、そよ風が気持ち良い。ここでずっと昼寝をしていてもいいくらいに。

 でもやっぱり一番嬉しいのは、彼女がいてくれることだ。

「イブの料理はいつも美味しいな」
「ありがと! お兄がおいしそうに食べてくれるから、ボクもうれしい!」

 太陽みたいな笑顔で笑うイブ。思わず頭を撫でて、肩を抱き寄せる。小さな彼女は嬉しそうに甘えてきた。
 未だにこの子を見るのが飽きない。子供らしく小さな手足はとても綺麗で可愛い。濃い金色の髪は短めにカットして、着ているのはデニムのハーフパンツに白いタンクトップ。初めて会ったときは不覚にも男の子と間違えてしまったけど、ボーイッシュでもしっかりと女の子らしさがある。

 ふと、反対側の肩を叩かれて振り向く。そちらには誰もいない。

「えへへっ。お兄、またひっかかったー」

 いたずらに成功したイブが、楽しそうに尻尾をくねらせた。そう、彼女には尻尾がある。ショートパンツのお尻に空いた穴から、細長い赤い尻尾が伸びている。俺の肩をつついたのは、ハート形をしたその先端だ。
 それだけではない。タンクトップの腰にはスリットがあって、コウモリのような翼が出ている。もちろん飾りなどではなく、ちゃんと飛ぶことができるのだ。耳はツンと尖った形をしていて、その上には小さな角。典型的な悪魔の特徴だ。

「やったな、イブ!」
「きゃーっ♪」

 おかえしに脇腹をこちょこちょくすぐってやると、イブは笑いながらバタバタと暴れた。

「あはははっ、うひゃっ、やーめーてーっ!」

 俺に抱きつき、しっかりとしがみついてしまうイブ。細い手足でがっしりと俺の腕を封じ、くすぐれないようにしてしまう。まん丸な目が間近に着て、吐息が顔にかかる。呼吸を整えながら、イブは俺とじっと見つめ合う。朝ごはんのあとしばらくキャッチボールで遊んでいたから、汗の匂いがした。イブの汗はフルーツのような匂いがして、近くにいるだけで気分がよくなる。

「お兄なんか、ちゅーしちゃう!」

 頬に小さな唇が触れた。柔らかい。その途端、すーっと体から力が抜けてしまった。イブと抱き合ったまま、ふかふかとした草の上に寝転ぶ。とても良い気分だ。

「えへへ。ボクのちゅーはスゴイでしょ?」

 小さな胸を得意げに張るイブは、悪魔ではなく天使のように見えた。腰のところでパタパタとはためいているのは白い羽ではなく、皮膜の張った翼。それでも俺にとっては天使だ。


 ここは黄昏ファーム。もしかしたら夢なのかもしれないけど、もしかしたら現かもしれない場所。
 毎日に疲れきっていたある日、目が覚めるとここにいた。草原と木々、畑、綺麗な夕日。そして目の前で微笑む、小さな魔物の女の子。ここは何処かと尋ねる俺に、イブは言った。「ここは黄昏ファーム。お兄はこれから、ボクと一緒に遊ぶの!」と。
 何が起きているのか分からない俺を、あのときもイブは魔法のキスで脱力させてくれた。二人で草の上に寝転びながら、一緒に手遊びをした。今日みたいに美味しいサンドイッチも食べさせてくれた。小さな翼で飛んで、木になった果物を取ってきてもくれた。

 俺のような疲れている人を一晩癒すのが、黄昏ファームらしい。そしてイブ子守唄を歌ってもらいながら眠りにつき、一晩経てば元の家のベッドで目が覚める……はずだったらしい。けれど俺はその翌日もここで目を覚まし、イブは「お兄、まだいてくれるんだ!」とはしゃいでいた。
 そんな可愛いらしい姿に見とれているうちに、彼女は朝ごはんを作ってくれた。その後また一緒に遊んで、お昼を作ってもらって、また遊んで、晩ごはんを食べて、一緒にお風呂に入って、歯磨きをして寝る。そんな毎日がそれからずっと続いている。

「はい、お兄。あーん!」

 再びサンドイッチを食べさせてくれるイブ。寝転がったまま味わい、飲み込む。俺に食べさせながら、イブも自分のサンドイッチを食べた。

「ナタ姉のチーズはいつも美味しいよね! 毎日食べられちゃうもん!」
「うん、そうだね」

 ここの食事はいつも美味しい。イブが作ってくれる料理も、俺が作っても、一緒に作っても、どれも美味しい。そんな黄昏ファームだから、俺はイブのことばかり考えている。イブと何をして遊ぶか、イブの喜ぶことは何か……それを考えるのが好きだ。
 そして彼女もまた、俺の喜ぶことを考えてくれる。

「よいっ、しょっ」 

 俺の頭を持ち上げて、膝枕をしてくれた。華奢なふとももはすべすべとしていて、とても肌触りが良い。覗き込んで微笑むイブが愛おしく、こっちまで笑顔になってしまう。
 今日はこのまま昼寝をさせてくれるのか。そう思っていると、イブはサンドイッチを入れてきたリュックの中を弄った。

「お兄、これなーんだ?」

 イブは屈託の無い笑みと共に、小さな棒状のものを目の前に出した。片側はごく小さなスプーンのようになっていて、反対側は丸い棉のようなものがついている。

「耳かきじゃないか。どこにあったの?」
「ナタ姉がくれたんだ! ボクがナタ姉からもらった宝もの、これで三つめなんだよ!」

 この黄昏ファームには他にも住人がいるけれど、俺はイブとしか会うことがない。どうしても会ってみたいと思わない限り、自分の世話をしてくれる女の子としか会えないようになっているらしい。だからイブの憧れの人(多分、人ではないと思うけど)たる『ナタ姉』ことナターニャさんにも会ったことはない。「ナタ姉は優しくて、元気で、お料理が得意で、おいしいミルクを出してくれるんだよ!」という話を聞いているだけだ。

「一つめと二つめは何をもらったの?」
「二つめはお兄!」

 イブは快活に答えた。

「お兄がここへきたとき、ボクがおせわするように決めたのがナタ姉なんだ! あ、もらったじゅんばんは二つめだけど、お兄が一番だいじな宝ものだからね!」

 大切なことだよ、と言わんばかりにはっきりとした口調で告げられる。愛おしい。
 
「一つめはあとで見せてあげる。お兄、よこむいて!」 

 言われるままに、小さなふとももの上で寝返りを打つ。そういえば耳掃除はしばらくやっていなかった。イブがしてくれるのが無性に嬉しい。

「おっけー。じゃあお兄、耳かき入れちゃうぞー」

 指先が耳たぶを抑える。目を瞑って彼女に身を委ねた。

 耳かきの先が耳孔に入り、カリカリとかき始める。くすぐったくも痛くもない、ちょうど気持ちいい力加減だ。そればかりか何か、耳がすーっとしていくような爽快感がある。

「これで痛くない? 大丈夫?」
「うん、気持ちいいよ」
「そっか。これ、ドリアードさんのいる木のえだで作ったんだって。だからカラダにいいんだよ!」

 嬉しそうにクスクスと笑い、イブは耳掃除を続ける。木の耳かきのようだったけど、ただの木とは違う気がした。単に汚れを落としているだけではなく、どんどん気分がよくなっていくような感覚だ。

 それにイブのふとももの感触が、何よりも癒される。一生懸命に耳の穴を綺麗にしてくれる彼女の息遣いが間近に聞こえる。手でふとももをすべすべと撫でてみると、気持ち良さはさらに高まった。
 するとお返しとばかりに、イブも俺の頭を撫でてくれる。

「お兄、イイコイイコ……」

 小さな手のひらの感触とささやきが、とても気持ちいい。耳掃除を通じて、体の中の悪いものが全てかき出されていくような気がする。これも特別な木の枝で作られた効果だろうか。
 木のざわめきや鳥の声が響き、そよ風が頬を撫でる。うとうとと眠くなってくる。

「お兄の耳、なんかおもしろいね」

 耳たぶの外周を、指先でつーっと撫でられた。

「とがってないし、耳たぶおっきいし」

 ぷにぷにと耳たぶを揉まれる。無邪気なイブが本当に可愛い。

「耳あか、いっぱいたまってるね。でもまいにち耳そうじするのもよくないって、ナタ姉が言ってたよ」
「そうなんだ?」
「耳がかわいたり、ムシが入ってくるのを耳あかがふせいでるんだってさ! それにあんまりおくまで耳かきすると、耳あかをおしこんじゃうんだって!」

 ナターニャさんから聞いたことを話すとき、イブは楽しそうだ。彼女にとってナターニャさんは先生のような存在なのかもしれない。俺は呼ばれている通りお兄ちゃんか。

「……はいっ、カリカリおーわりっ!」

 耳かきが引き抜かれた。だがこれで終わりではない。

「さあ、お兄! いよいよこのフワフワの方でしあげをしちゃうぞー」

 朗らかな声に続き、ふわふわした綿状の方……梵天が耳の穴へ入ってくる。その瞬間、体に心地よい衝撃が走った。

「あ……」

 思わず声が出てしまう。キメの細かな綿毛が耳の中を拭き取っていく感触。それもただ物理的な刺激だけでなく、不思議な力を纏っていた。イブの指が耳かきをくるくる回し、梵天が擦れる度、多幸感が胸いっぱいに湧き上がる。
 自然と頬が緩み、涎が垂れてしまう。イブの膝を汚してしまうのに、止められない。だけど彼女は嫌な顔一つせず、俺のだらしない姿を楽しんでいた。

「えへへ。スゴイでしょ? これケサランパサランのフワフワなんだぞー」

 幸せな気分が耳から頭へ、さらに全身へ伝わる。イブと会えたこと、今一緒に木の下にいること、さっきサンドイッチを食べさせてもらったこと、こうして耳掃除をしてもらっていること……全ての幸せがより明晰になる。
 くるくる。梵天が耳の中を回る。体がふわふわと浮き上がるかのよう。気持ちいい。幸せだ。

「お兄、カワイイ」

 耳かきを引き抜き、耳にキスをしてくれるイブ。敏感になった耳にぷるっとした唇当たり、体が震える。それが楽しかったのか、イブは引き続きちゅっ、ちゅっとキスの雨を降らせてくる。

 今日はこのまま、彼女の膝に甘える日になりそうだ……







 その日、晩飯は俺が作った。耳掃除をしてもらったお礼だ。簡単な焼き魚とサラダ、そしてナターニャさんから送られてきたヨーグルトにフルーツを入れたものだったけど、イブは美味しいと言ってくれた。
 一緒にお風呂に入った後カードで遊び、やがて寝ることになった。俺たちの住んでいるログハウスにはふかふかのベッドがあり、いつも一緒に寝るのだ。水色のパジャマに着替えたイブはショートパンツ姿とは違った、少し朧げな可愛らしさがあった。

 だけど明かりを消す前に、イブは何かを思い出して机の引き出しを開けた。取り出したのは一冊の赤いノート……日記帳のようだ。

「これ、ナタ姉が最初にくれた宝ものだよ!」

 イブは日記帳を開きペラペラとめくる。俺と過ごしてきた日々のことが書いてあったが、彼女が俺に見せてきたのはまだ何も書いてないページだった。

 しかし見ているうちに、白紙のページに字が浮かび上がってきたのである。


――きょうはお兄とキャッチボールをしてあそびました。
  お兄がいろいろ教えてくれたから、ボクもきのうよりうまくなげられました。
  その後、ナタ姉からもらった耳かきで耳そうじをしてあげました。
  お兄はいつもカッコいいのに、耳そうじしてるあいだはカワイイと思いました。
  とてもキモチイイとほめてくれて、晩ご飯はお兄がつくってくれました。
  とてもおいしかったです。
  あしたは何してあそぼうかな――



「スゴイでしょ。魔法のにっきちょうなの。書きたいと思っただけで、書きたいことを書けるんだよ」
「へぇ、便利なんだね」
「お兄が読みたくなったら、読んでいいからね!」

 日記帳を枕元に置くと、天井から下がるランプを指差した。これも何かの魔法なのだろう、たちまち明かりが弱まり、部屋の中は互いの顔がうっすら見えるくらいに暗くなった。
 後はいつものように、イブはぎゅーっと抱きついてくる。柔らかく優しい感触が心地よい。そのまま上に毛布をかけ、俺も彼女を抱きしめる。少し眠そうな顔で彼女は微笑んだ。俺の腕の中で。

「おやすみ、イブ」
「おやすみ。お兄」

 また、頬に魔法のキス。気持ち良く眠れるように、イブは毎晩これをしてくれる。本当は俺が弟で、イブがお姉さん役なのかもしれない。

 明日は何をして遊ぼうか……日記の最後の文を繰り返しながら、俺は眠りに落ちていった。

19/09/16 14:24更新 / 空き缶号
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