読切小説
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黄金色に揺れる
 パン屋の一人息子であるルウにとって、パンの配達は、自分のできる手伝いの中でも一番楽しいものだった。
 お父さんの焼いた、まだ温かいパンを紙に包んで、ひとつ、ふたつ、みっつとカバンの中へ。
 お母さんの作ったサンドイッチは、焼きたての温かいパンとは離しておく。
 忘れ物がないことを確認してから、もう一度メモに目を通す。
 宿屋と工房にサンドイッチ、領主様の所にバケット、空いたジャムのビンを貰ってくるのも忘れないように。

「……よし、行ってきます!」

 両親の「行ってらっしゃい」という声も置き去りにして外に飛び出すと、パン焼き窯の熱に慣れきっていた体に寒気が滲みた。
 吐く息は白く染まり、粉雪の中へと消えていく。

 かつて、その町は一本大きく引かれた道に店が連なるだけの宿場町だった。それが随分と大きくなったのは、今代の領主が魔物との共生を宣言してからである。
 遠くに見えるのは、決して白さを絶やさない凍り付いた雪山。吹き下ろす風が町を凍えさせているとまで言われるような、吹雪の止まない山。
 だが、どれだけ風が冷たくても、大地が凍り付いてしまっても。町は決して活気を失わない。
 雪山を踏破した人々を、雪原を抜けてきた人々を、温かく迎え入れる。そして、次の場所へと向かう活力を与える。

 ルウは、そんな町を誇りに思っている。そんな町で、ささやかながら役目を持っていることを、誇りに思っている。

「おう、ルウ君。いつもありがとうなあ」
「外は寒いでしょ?ほら、ちょっと、お茶飲んで行きなさい」
「ああ、ルウちゃん、うちの子がまた一緒に遊びたいって言ってたよ。よかったら、遊んでやってくれな」

 だから、あちらこちらで声をかけられるたびに朗らかに笑って答え、寒い中を駆け回ることも苦ではない。
 いつかはお父さんのような立派なパン屋さんになって、町のみんなに美味しいパンを振る舞いたい。そんな夢も持っている。
 しかし、率先してお手伝いをするルウも、結局はまだまだ子どもである。目の前に好物がぶら下がっていれば一も二もなく飛びついてしまう。
 つまり、店に戻り、父親に「お手伝いのご褒美だ」と好物のブルーベリーパイを焼いてもらうと、その手順を見るのも忘れて今か今かと焼き上がりを待つだけになってしまうのである。

「ルウは、本当に美味しそうに食べてくれるなぁ」

 店内に置かれた空樽の上に座ってパイを頬張るルウは、若い父親の言うとおりとても幸せそうな顔をしている。
 そんな自分の姿が客寄せになっているとは、つゆほども思っていない。「美味しそうだから、おやつを買っていこう」という客が店にぞろぞろ入ってきてもお構いなし。
 ただ、大好物のブルーベリーパイを、焼きたての最高に美味しいタイミングで食べられる幸せを噛み締めている。

 だから、町では見たことのない魔物の姿に気付いたのも、その魔物が店を出て行ってからだった。

「……さっきのお客さん、はじめて見た」

 惜しむように一口分だけブルーベリーパイを皿の上に残したまま、ルウは窓の外を、遠ざかっていく魔物の背中をじっと見つめて言った。
 ブラウンのコートから出ているのは足ではなく、蛇の尻尾。ラミアだろうか。しかし、ゆらゆらと揺れる尻尾の先には、鳥のような羽根がついているようにも見える。

「ああ、たまに来て、パンを買って行くんだよ。どこに住んでるかは知らないけど、頭の上に雪積もらせてるのを見ると、町の外から来てるんだろうな」
「町に住めば楽なのに、わざわざ外に住んでるの……?」

 町の外も中も、寒いことには変わりない。それでも建物があるから風はしのげるし、そうでなくとも雪の中を長々と歩くのはつらい。
 別に、魔物だから追い払うなんて事も無いのだから、町の外に住むくらいなら、引っ越してくればいいのに。

 そう思う程度には、ルウは魔物を特別視などしていない。人間とは姿形が異なるだけで、恐れる理由など何もない、親しい隣人でしかない。
 だから、「事情があるんだろう。色々と」という父親の言葉も、さほど真剣には受け止めなかった。
 それよりも、「もうすぐ夕ご飯なのに、『半ホール分のパイを食べたので、ご飯が食べられません』なんて、お母さんに叱られないだろうか」などという不安の方が、よほど深刻だった。

 そして、その不安は、現実のものとなった。

「おやつだけじゃあ大きくなれないって、いっつも言っているでしょう?これからは、ご飯前のおやつは全面禁止です」

 半分近く残してしまった夕食を前に、ルウは縮こまってお説教を受けていた。
 確かに、野菜もお肉もパンもスープも、好き嫌いせずご飯を食べないと大きくなれないとは、お母さんが毎日のように言っている。だからおやつを食べすぎてはいけないとも言われている。
 どう考えても自分が悪く、言い訳はできない。はい、ごめんなさい。それだけを繰り返し続ける事しかできない。

「まあまあ、そんなに叱ることはないじゃないか。元はと言えば……」
「ええ。ルウを甘やかしたお父さんも悪いですね。お父さんも、後でお仕置きです」
「……はい」

 庇いに入ってくれようとした父親も、ぴしゃりと言われただけでそれ以上は何も言えなかった。

 お説教は長々と続いたものの、翌朝にはいつも通りの優しい母親に戻っていたことだけは、ルウにとって不幸中の幸いではあった。
 昼食後に宅配に出ようとした所で「帰ってきてもおやつは無し」と言われたり、パンを焼いている父親がやけに疲れた顔をしていたりはしたが。

「……べつに、おやつなんて」

 その日の配達を終えたルウは、すぐには店に帰らず、すっかりふて腐れた表情で噴水の縁に腰掛けていた。
 魔法によって加工された噴水は、どれだけ寒くとも凍りつくこと無く水を湛えているが、わざわざ雪のちらつく中で冷たい水に近寄る物好きなど滅多にいない。
 いるとすれば、親に叱られていじけた子供か、噴水の飾り部分を着地用の足場として利用するハーピーくらいなものである。

「どうしたの?お父さんかお母さんに怒られた?」

 羽音とともに背後から降ってきた声にも、ルウは振り向かず首を縦に振る。

「うん……いや、ううん」

 正反対の返答を重ねられ、「どっちなの?」と、噴水の上に立ったハーピーは水色の翼を畳んだ。

 ルウよりも一回り年上の彼女は、恋仲である青年と共に、ルウの兄姉代わりをしていた。
 今でも何かと話す機会は多いため、「寒いけど、時々でも飛んでおかないと翼が鈍っちゃうから」などという翼を持つ者ならではの悩みから、用が無くとも日に数度は空を飛び回り、最後には噴水へと着地するのはルウも知っていた。
 しかし、今日はタイミングが悪い。

「……なんでもないです」

 口をとがらせて、明らかに何でもないような口調で呟く。
 小さい頃には遊んでもらったりもしていて、今でも慕っているが、いや、慕っているからこそ、あまり話をしたくないときもある。今が、そうだった。

 一方で、反抗期や思春期などとうに終わったハーピーには、「自分にもこんな時期があったな」と懐かしむ余裕があった。
 こういう時は無理に相談させるより放っておいた方がいいとも、自身の経験から知っていた。自分が悪くても、変に意地を張ってしまう時はある。何事も。

「……まあ、風邪は引かないようにね」

 結局、ハーピーは適当な心配だけ言い残して、家へと帰っていった。
 それで「何をしに来たんだろう」などと思うほど、ルウも察しが悪い子どもではない。
 本当に風邪の心配だけをしていたのではないと分かってはいるが、だからと言って心配されてもどうすれば良いのかは分からない。
 無論、素直に母親に謝ればいいだけではあるのだが、この少年は、複雑なお年頃だった。

「……あっ」

 そうして眉間に皺を寄せていたルウは、不意に視界に入ってきたものに、思わず声をあげていた。
 この間来ていた尻尾に羽根の付いた蛇の魔物が、パン屋に入っていくところだった。いつの間に来ていたのだろうか。
 雪の上に残った尻尾の後を目で辿ると、町の門の方までずっと続いている。

 本当に、町の外から来てたんだ。
 驚きと疑問と好奇心がないまぜになった、なんとも言えない気分で、その魔物がパンを買う姿を見守る。
 やがて、蛇の魔物は紙袋をパンでいっぱいにして店から出てくると、そのまま町を出ていく……のではなく、ルウの目の前まで歩いて、もしくは這って、あるいは滑って来た。

 尻尾だけじゃなくて、腕にも羽が生えてるんだ。宿屋のラミアさんは人間の手だったけど、この女の人の手は、どちらかと言えばハーピーに似ている。さらさらの長い髪は青いけど、羽の色はそれより薄くて、水色っぽい。
 でも、一番目立つのは、顔につけたお面。大きな一つ目が描かれている紺色のお面で、おでこも目も鼻も隠れていて、口しか見えない。

 じろじろと目の前の魔物――バジリスクと呼ばれるものを観察してから、ルウはようやくそれが失礼な事だと気付いて、取り繕うように首を傾げた。

「何か、ご用ですか?」

 誤魔化すには足りない引きつった作り笑顔だったが、バジリスクの女性はそれに気付いてすらいなかった。
 無造作に紙袋に手を突っ込み、紙箱に入ったブルーベリーパイだけを取り出すと、それをルウの前に差し出した。

「……?」

 意味が分からず無言のままパイを見つめるルウに、バジリスクは首を傾げる。

「食べない?」
「……お母さんから、おやつを食べるとご飯を残しちゃうから駄目って言われてるので」
「そっか。ご飯を残すのは、いけないことだよね」

 思わず正直に答えてしまってから、ルウは恥ずかしさで顔を赤らめた。自分の悪事をたしなめられたようで、ひどく居心地が悪い。
 しかし、女性はそんなルウの様子など気にする気配もなく、箱からパイを一ピース取り出すと、それを半分ほどに千切って、あらためてルウに差し出した。

「これなら、ご飯も食べられる?」

 こないだは半ホールくらい食べてしまったから、ご飯も食べられなかった。でも、これくらい小さいのなら。

「……はい。たぶん」
「ん。じゃあ、食べて。元気出して」

 バジリスクは半ば押し付けるようにしてルウにパイを渡すと、やり遂げたとでも言うように、するすると門の方へと向かっていった。尾の跡と、砂糖と果物が混ざったようなとても甘い香りを残して。
 あっという間の出来事に呆気にとられ、後姿をぽかんと間抜けに見送ってから、ルウははっとした。
 元気出して。
 あのバジリスクさんは、全然知らない僕を元気づけようとしてくれたんだ。
 なんで僕がブルーベリーパイを好きな事を知っているのかは、分からないけど。

「……お礼、言えなかったな」

 呟いて、焼きたてではないパイをもぐもぐと食べる。
 量としては物足りない。それでも、ルウの心は大好物をたくさん食べた時と同じくらい爽やかになっていた。
 そして、知らない物を食べる時と同じくらい、ドキドキもしていた。


…………


 次にバジリスクが町へとやってきたのは、三日ほど経ってからだった。
 白い息を細く吐きながら門をくぐってきた彼女に、ルウは「こんにちはっ!」と裏返った声をかける。
 一瞥もせず通り過ぎようとしていたバジリスクは、声をかけられてようやく気付いたとばかりに、仮面に描かれた大きな眼をルウへと向けて、しばし間を置いてから静かに言った。

「……この間の子?」
「はい。えっと、パイを貰った時に、お礼を言ってなかったので」
「いいよ、気にしなくて」

 つっけんどんな返事だけでするすると尻尾を滑らせるバジリスクに、ルウは慌てて追従する。

「町の外から来ているんですか?」
「ん。おかしい?」
「あっ、別にそれが悪いとかそういうのじゃなくて、どうしてわざわざ町の外に住んでいるのかなって、気になって……」

 機嫌を損ねてしまったかと、自分よりも頭一つは背の高いバジリスクの顔を見上げた。
 しかし、顔の大部分は仮面で隠れてしまっていて、どんな表情をしているのか見ることはできない。
 かろうじて見える、一文字に結ばれた艶やかな唇は綺麗ではあるものの、その内にある感情を察する助けにはならなかった。

「……その方が、いいから」
「……?」

 抽象的な返答に、ルウが首を傾げる。
 そもそも、外に住めそうな所なんてあったかな。洞窟に住んでる魔物もいるらしいから、このバジリスクさんもそういうのなのかな。もしかして、一人で暮らすのが好きなのかな。
 何にせよ、ちゃんと話はできそうで良かった、とルウは安堵した。

「あの、名前……聞いても、いいですか?」
「私の?」
「はい」
「……名前」

 そんなに難しい話だっただろうか。いや、単に名前を教えたくないのかも。
 長い沈黙に気まずさを感じたルウが「やっぱりいいです」と言おうとした所で、バジリスクはようやく口を開いた。

「……サリー」
「サリーさんですね。僕は……」
「ルウ君、でしょう」
「知っているんですか?」
「ええ。町の人たちが呼んでいるのを、聞いたから」

 じゃあ、配達中にハーブティーをもらって顔をしかめている所まで見られていた、いや聞かれていた?
 途端に、ルウは首筋が熱くなるのを感じた。
 自分がまだ子どもだとは分かっているから、他のみんなにはそんな姿を見られても別に何も思わなかった。なのに、なんで今さら。

「……あれ?今日は、パンを買いに来たんじゃないんですか?」

 そんな事を思っているうちに、サリーはパン屋の前を通り過ぎてしまっていた。

「パンも買う。でも、先に瓶を買いたい」
「ビン?」
「そう、瓶。落として割っちゃったから」

 答えつつ、目の前をじっと見据えたまま歩く。
 少ない口数と仮面の風貌が合わさって神秘的な気配すらある女性の、妙に現実的な生活感が垣間見えて、ルウはくすりと笑った。

「でも、雑貨屋さんはもう通り過ぎちゃいましたよ」

 その言葉に、ぴたり、とサリーの尾が止まる。

「……本当に?」
「はい。案内しますね」
「……ありがとう」

 やっぱり、お面を付けていると見えないものもあるらしい。見る以外の方法でものの場所を感じているみたいだけれど、全部が全部、目で見るのと同じように感じられているわけではないのかもしれない。
 ルウがサリーに手を差し出したのは、曖昧な知識と想像、そして、何も考えていないと言ってもいいほどに純粋な善意からだった。

 他意は無く、ただ「その方が良いだろう」という思いだけから差し出された手に、サリーの仮面の視線が向かう。
 意図を汲んでも、硬い鱗に覆われて鋭い爪の付いた手はすぐには少年の手を取らず、躊躇いがちに宙を彷徨った。

 だが、ルウは、そんなサリーの逡巡には付き合わなかった。

「ドワーフさんたちが作ったガラス細工を仕入れたって、雑貨屋さんが言ってたんです。確か、お洒落なビンとかもあったはずですよ」

 爪にも鱗にも怯えること無く、ルウはサリーの手を握り、引っ張るように歩き出した。
 サリーは何も言わなかった。ただ、「ドワーフさんって手先が器用なんですよね、僕はパンを焼くのもまだまだ下手なので、羨ましいです」と話すルウの熱を、静かに感じていた。

 だから、と言うわけでもないが、サリーが再び口を開いたのは、雑貨屋で三つほどビンを買い、今度こそパン屋へ向かうという段に入ってからだった。

「お母さんからは、まだ、駄目って言われてるの?」

 唐突な質問に、ルウは思わず振り向いて、首を傾げる。

「駄目……?」
「おやつ。食べちゃだめって、言われてたんだよね」

 ああ、とルウの口から曖昧な返事がこぼれる。
 そういえば、そうだった。すっかり忘れていたし、多分お母さんも忘れているけれど。

「……たぶん、まだだめ……なのかな。とりあえず、おやつは食べてないです」
「じゃあ、お腹空いて大変だね」
「いえ、ご飯はちゃんと食べてるので、そうでもないです」
「……そっか。そうだよね」

 抑揚の無い声で、サリーは「おやつは駄目でも、ご飯は食べてるよね、当然」と独り言のように続ける。
 繋いでいない方の手で、肩から斜めに提げた革の鞄の位置を直すと、中に入っているビンががちゃがちゃと音を立てた。ルウには、それが彼女の感じているばつの悪さを表しているように聞こえた。

 どうにも流れが掴みがたいというか、会話がどの方向に行くのかが分からない。
 少し話しただけだが、ルウはサリーにそんな印象を抱いていた。
 それが悪いというわけではなく、むしろ楽しいとまで感じていたが、同時に「もしかしたら、サリーさんは話をするのがちょっと苦手なのかもしれない」とも思っていた。
 人が苦手なのか、話すのが苦手なだけなのかは分からないけれど、町の外で暮らしているのは、そういう事情もあるのかも。
 お父さんも、「事情があるんだろうね」と言っていたし。

「おや、珍しい組み合わせだね」

 当のルウの父親は、息子に手を引かれて店に来たサリーを見て、言葉ほど驚いていない様子で迎えた。
 サリーもまた、一緒にいる理由を説明する事もなく、仮面に隠れた視線を棚にあるパンへと向ける。

「……バケットを三本。あと、ブルーベリーパイと、ストロベリーデニッシュ」
「ああ、デニッシュなら焼き立てのがありますから、そっち出しますね。ちょっと待っててください」

 父親が入っていった店の奥を、ルウは背伸びをして覗く。
 確かに、テーブルの上に窯から出したばかりらしいパンがいくつも並んでいる。
 昼食を済ませてからしばらく経ち、そろそろお腹の中も少し空いた頃である。今にも声を上げてしまいそうな腹の虫を誤魔化すためにも、ルウはサリーへと尋ねた。

「前にも、ブルーベリーパイ買ってましたね。好きなんですか?」
「……ええ。美味しいから。甘いものは、なんでも好き」

 そう語るサリーの口元は、少しだけ緩んでいるように見えた。

「僕も、甘いものは好きです。その中でも、ブルーベリーパイは特別、好きです」
「知ってる。そこの樽の上で、いつも食べてたのも」

 「お待たせしました」と戻ってきた店主からパンの入った紙袋を受け取るやいなや、サリーは中からブルーベリーパイを取り出し、半分に千切った。
 そして、以前にもそうしたように、ルウへと差し出す。

「……お礼。案内してもらったから」
「いや、でも……」

 思わず、ルウは父親に視線を向けた。
 だが、父は肩をすくめて笑っただけで、「窯を見てこないと」とまた奥へと引っ込んでしまった。見なかったことにするよ、とでも言いたげに。

「……じゃあ、いただきます」

 どちらかと言えば真面目なルウにとっては、母親の言いつけを破り、隠れておやつを食べる程度の行為ですら後ろめたい。
 おそらくは、サリー以外の知人に同じようにパイを渡されても、「お母さんに言われているので」と断っただろう。

 じゃあ、どうしてサリーさんから貰ったものは、食べてしまうのだろう。
 答えを探して、ルウはサリーの顔を盗み見る。
 その動作はとても小さく、目が見えている者でも気づかないであろうものだったのに、サリーの仮面に描かれた大きな眼は、すぐさまルウへと向いた。

「……美味しいね」

 そう言ったサリーは、確かに笑っていた。
 口の端に付いたジャムが、長く赤い舌でぺろりと拭われる。
 何か、いけないものを見てしまった気がして、ルウは視線を落として答える。

「……はい、美味しいです」

 たぶん、美味しいと思います。味が、よく分からないです。胸がどきどきしてしまって。
 そんな言葉は、パイと一緒に飲み込んだ。
 大好物であるはずなのに、食べるのは好きだったはずなのに。自分の鼓動の音がはっきり聞こえて落ち着かない。お母さんに見つかったらどうしよう、なんて理由?それじゃあ、顔まで熱くなってしまっているのはおかしい。
 少年の頭の中を、未知の感情がぐるぐると回り続け、更なる熱を生む。
 しかしルウは、今はただ、こんな動揺がサリーに気取られていないかという事ばかりが、気になってしまっていた。


…………


 サリーは、決まって三日おきに、ルウの配達が終わる頃に町へとやってくる。
 家は洞窟ではなく、町外れの小さな小屋。昔から町に住んでいるお爺さん曰く、お爺さんが小さい頃に見張り小屋として使われていたものらしい。
 店での会話は最小限なのは、パン屋に限らず、どこに行っても同じ。薪を買うときも、布を買うときも、ビンを買うときも。
 それは不機嫌だからとか人が嫌いだからではなくて、単に喋るのが苦手なだけだから。
 話しかければ答えてくれるし、極稀にだけど、冗談を言ったりもする。そして、冗談が伝わらなくて気まずそうに説明を付け加えたりもする。

 口下手で、ただでさえ表情が変わりにくくて、しかも仮面を着けてるから分かりにくい事この上ないけど、とても優しい人、ではなく魔物。

 ルウは、町に来たサリーと話をするたびに、彼女の事を知るほどに、自分の中でのサリーの存在が大きくなっていると自覚していた。
 他の誰にも感じたことのない、単に楽しいだけじゃない何かを、サリーさんと一緒にいると感じられる。時々妙に苦しくなるけど、それも嫌だとは思わないような、何か。今日こそは、その気持ちの正体を突き止めてやろう。
 サリーが来る日になると、ルウはそんな決意とともに家を飛び出すようになった。
 しかし、サリーの顔を見た途端に、あらゆる予定は「今日も会えて良かった」という喜びに上書きされてしまうのだった。

「……ルウ君。こんにちは」
「はい、こんにちは!」

 門での待ち合わせは、どちらかが言い出したものではない。
 手を繋いで歩くのも、サリーの買い物に文句一つ言わずルウが付き合うのも、そのお礼にと、サリーがルウにおやつを買ってあげるのも、一度たりとも約束などしていない。

「今日は、何を買うんですか?」
「……果物。イチゴがいいかな」
「イチゴかあ。ジャムとかになってないのは、あんまり見たことないんですよね。この辺りまで運んでくるの、大変らしいんです」
「雪、多いものね……」
「だから、えーっと……ホワイトホーン?って魔物さんたちに、雪が少ないところまで輸送の中継……?をしてもらおうと思ってるって、領主様が言ってました」
「そっか。大変なんだね……?」

 いつも通りの他愛のない会話の最中、唐突に、サリーは立ち止まり、何かを探るように顔を伏せた。
 それが耳を澄ませるときの動作だとは、ルウもつい最近知ったことであった。

「……鐘の音がする」
「鐘?」
「うん……小さい、けど。からん、からんって……」
「ああ、じゃあ多分、ウェンディゴさんたちが来ているんだと思います」
「……ウェンディゴ?」
「はい。普段は雪山の集落に住んでるんですけど、吹雪が来そうな時は、町に知らせに来てくれるんです」
「……吹雪」

 呟いたサリーが、顔色を曇らせていたように、ルウは感じた。

「どれくらい、吹くの?」
「僕には、ちょっと……でも、そんなに慌ててはいないみたいだから、一晩くらいかなあ。一晩でも、かなり積もっちゃうかもしれませんけど」

 ハンドベルの音は、既にルウにも聞こえる所まで来ていた。
 からんからんと響く音に、町は慣れた様子で吹雪への備えを始める。

「じゃあ、しばらく町には来られない、かな」

 サリーの言葉は、小さな鐘の音にすら消されそうなほど、小さなものだった。
 建物のある町中ですら、天候が落ち着いてもしばらくは雪かきで大わらわとなる。障害物のない町の外ならば、道という道は雪に埋もれてしまう。かき分けて進むことすらできないほどに。

「ごめんね、ルウ君。今日は薪や食べ物も多めに買って、早めに帰らないと……」
「うちに、来ませんか?」
「……え?」

 一切の前置きも無い、あまりにも唐突な申し出に、サリーは珍しく間の抜けた声を出した。

「うちに、って……?」
「吹雪に備えて薪とか食べ物とか買っていくのも大変でしょうし、雪がだいぶ溶けないと、町にも来られないんですよね。だから、吹雪が落ち着くまで、サリーさんが僕の家に来ればいいと思うんです」
「……でも」
「大丈夫です!お父さんとお母さんもサリーさんの事は知っていますし、『いいお客さん』って言ってましたから!」
「それは、ルウ君が考えてるのとは、意味が少し違うんじゃないかな……」

 サリーは口の端を僅かに釣り上げて微笑んではいたが、それでも首を横に振った。

「……ルウ君もお父さんとお母さんも『良いよ』って言ってくれても、私は、町にはいられないから。でも、ありがとう。気持ちだけでも、嬉しい」

 それははっきりとした否定の言葉だったが、ルウはなおサリーの手を繋いだまま食い下がる。

「サリーさんが来られないなら、僕が行きます」
「……行くって?」
「サリーさんの家に、です。薪とか食べ物とか、一人で運ぶのはきっと大変ですから、手伝います」
「それは……いや、やっぱり、駄目。もし途中で吹雪が来たりしたら、ルウ君が……」
「そうなったら、少しだけ泊めてください。あっ、僕が食べる分のパンとかはちゃんと持っていきますので!」
「そういう話じゃなくて……それに、お父さんとお母さんは駄目っていうでしょう、きっと」
「きいてきます!」

 サリーが止める間もなく、ルウはパン屋へと走っていった。
 溶けることのない雪が踏み固められた道で足を滑らせることもなく、平地を駆けるように遠ざかっていく。
 そして、パン屋に飛び込んだかと思えば、あっという間に戻ってきた。

「お父さんには、『気をつけて行ってこい』って言われましたから大丈夫です!」
「じゃあ、大丈夫……いや、大丈夫なのかな……」
「さあ行きましょう!急がないと、吹雪が来ちゃいますよ!」

 その無鉄砲はルウが感情に振り回される子供でしかない証左であり、本来は諌められるべき事だったのかもしれない。
 それでも、サリーは一言たりとも文句は言わず、ルウに再び手を引かれて町中を駆け回った。
 重い荷物を意地を張って背負う姿や、吹雪の影響について自慢気に語る姿を、微笑ましく思いながら。



 町を出て、雪原を貫く街道。決して整っているとは言えないその街道から少し離れた場所に、サリーの暮らしている小屋はあった。
 元は見張り小屋と言っていたけれど、こんな所で何を見張っていたのだろう。ルウがそんな感想を抱くほど、辺鄙で、周囲には何もない。
 吹雪どころか、少し降雪が強まるだけでも町から隔絶されてしまいそうな気配すらあった。

「温かい飲み物、用意するから。座って待ってて」

 両手いっぱいの荷物を下ろしたサリーが、火打ち石で暖炉に火を入れ、ついでに湯を沸かすためにポットを火の中に埋める。

 強がってみせたものの、まだ幼い少年の体に、数日分の薪は軽いものではなかった。
 サリーの言葉に甘えて、ルウはすっかり疲れ切った体を、室内に一つだけ置かれた椅子に預けた。
 使い古された椅子独特の馴染みや汚れ、傷がまったく無い、新品のような木の椅子だった。
 テーブルを挟んだ向こう側には、少しくたびれたクッションが転がっている。更に向こうにある小さなキッチンには、大鍋が一つ。

「すごく、甘い香りがしますね」
「今朝までジャムを煮ていたから。そろそろ、冷めてるかな」
「ジャムを作ってるんですか?」
「うん。まだ、練習中だけど」

 脱いだコートを壁のフックにかけながら、サリーが答える。
 今まで何度も会っていたのに、上着を脱いだサリーの姿は一度も見たことがなかったのだと、ルウは当然のことに今更気がついた。
 グレーの毛糸で編まれた、上下一体の長いセーターは、物静かなサリーにはよく似合っていた。ただ、体に張り付くような細いデザインのせいで、胸の膨らみと腰の細さが強調されてしまっている。
 羽や爪を引っ掛けないために、セーターには袖がなく、脇も大きく開いている。そこから見えるのは、息を呑むほどに美しく白い肌だった。
 触ったら、どんな感じなんだろう。きっと、すべすべしていて、やわらかくて……。
 脳裏をよぎった邪念で我に返り、ルウは慌てて目を逸らして、火打ち石で灯されたばかりの暖炉へと視線を逃した。
 女の人の体をじろじろ見るのは失礼。いやでも、サリーさんは目を隠してるし、僕が見ていることに気付かないかも。いやいや、そういう問題じゃない。
 ぱちぱちと鳴る暖炉の火のごとく、頭の中でも様々な意見が火を上げては弾ける。

「……あっ」

 不意に、サリーが天井を見上げた。
 がたがたと窓が揺れ、雪原も山も空も、全てが一瞬にして純白に塗りつぶされる。
 まるで、二人が屋内へ入ったのを見計らったかのように、吹雪は唐突に訪れた。

「……ありがとう、ルウ君」
「何がですか?」

 猫舌気味のルウに合わせた、ぬるめの紅茶を出し、サリーはテーブルを挟んだ反対側に座る。
 くたびれたクッションは、とぐろを巻いたサリーの体重に押しつぶされて薄っぺらく広がってしまっていた。

「……吹雪が来たらしばらく帰れなくなるのに、来てくれたから」
「いえ、実はずっと、サリーさんがどんな家に住んでるのか気になってたんです。したごころ?ですよ」
「でも、ルウ君がいなかったら、私は寂しくて不安で仕方なかったと思う。ううん、そもそも家まで来られず、吹雪に巻かれて凍えてたかもしれない。だから、ありがとう」
「……どういたしまして」

 照れ隠しの上から更に礼を言われてしまい何も言えなくなったルウが、紅茶に逃げる。
 微かにマーマレードジャムの甘い香りがする紅茶だった。苦味は無く、飲みやすい。

「……私は、暖かい地方で育ったから。寒いのは、あまり得意ではないの」

 郷愁の念を声に滲ませながら、サリーは仮面の目を窓の外に向けた。
 ルウも釣られて外を見たが、目で見られる景色は吹雪に消えていた。

「それなのに、どうして、こんな寒い所に?」

 故郷である雪の町から数度しか外に出たことのないルウも、吹雪に悩まされることのない、温暖な気候の場所があることは知っている。サリーのようなラミアに近しい種族は、特に寒さが苦手だとも聞いている。
 サリーさんたちにとって、ここはきっと住みにくい所なのに。それこそ、宿屋のラミアさんみたいに、旦那さんに連れられてきた、みたいな理由が無ければ来ようとはしないはず。
 なのに、どうして。

「……寒いと、人の温かさがよく分かるから」
「それは……サリーさんが」
「熱を見ているから、というのとは、少し違う。もっと抽象的……分かりにくくて、曖昧な話」

 途切れ途切れに、しかし珍しく饒舌に、サリーは語る。

「生き物の温かさの中でも、人間の熱は、他のものとは違うの」
「そうなんですか?」
「うん。魔物の熱とは、明確に違う。優しくて、力強い。その中でも……ルウ君は、特別」
「……特別?」
「温かくて、安心して、大きくて。暖炉みたい」
「暖炉……」
「……傍にいると、幸せになれるの」

 確かに、火の入った暖炉にあたっている時は幸せだ。
 それは、ルウにも理解できた。

「……だから、ね。ルウ君に話しかけた時には、本当に緊張して、声が裏返らないか心配だった」
「あの、噴水に座っていた時の事ですか?」
「そう。……あのね、私、はじめてあの町に行った時から、ずっとルウ君のことを見ていたの」
「……全然、気付きませんでした」

 純粋な驚きが、ルウの内に広がる。
 もしかしたら、僕が気付くよりもずっと前から、サリーさんは僕のことを見ていたのかもしれない。
 その驚きは、しかし、奇妙な喜びへと変わった。

「だから、ブルーベリーパイが好きだっていうのも知っていたし、魔物に対しても優しい子だっていうのも知ってたけれど、この格好で話しかけたら、怖がられるんじゃないかって。私なんかが近づいていいのかな、って」
「確かに、ちょっとだけ驚きました。でも、次に会った時には、あんまり僕のこと気にしてないみたいな感じでしたよね」
「……あれは、うん。私から話しかけるにしても、なんて言ったらいいか分からなかったから……気付いてないふりをしておいて、パイを買ってから、また話しかけようと思ったの。そうしたら、ルウ君の方から声をかけてきて……変な声が出そうなくらい、驚いた」
「それは……なんか、ごめんなさい」
「ううん。今思えば、その方が良かった……かな、多分。もしかしたら、あらためてルウ君に話しかける勇気は無かったかも、しれないから」

 転がるように、ここで止まったら二度と言う機会は無いとばかりに、サリーは続ける。

「……以前住んでいた場所では、私は、『魔眼の毒蛇』なんて言われてたの。だから……私が仲良くしようと思って人に声をかけても、怖がられるだけだった」

 そこで一度区切り、細く長く息を吸った。
 暖炉でも中々温まらない、冷たい雪国の空気を、ため息混じりに吐き出す。

「……ルウ君は、きっと、あの町の優しさそのものだから。私のことも怖がらないあなたを好きになったのは、きっと、当然のことだったんだと思う」

 ゆらりと立ち上がり、鍋を覗き込んだサリーは、その中のジャムを軽く混ぜながら呟く。
 ルウにとって、その語りは理解に遠い話だったが、そこだけ切り取られたように、「好き」という言葉だけは理解した。

「……それで、満足。この目を隠したまま、遠巻きに、人の営みに触れる。それだけでいいの」

 ジャムが冷めていることを確かめてから、それを瓶の中へ。
 二つ、三つ。よく洗われたビンに、均等にマーマレードジャムが注がれていく。偏らないように、あふれないように。

「……今くらいが、私にはちょうどいい、の、かもしれない。ルウ君はとても優しいけれど、だからと言って、これ以上は甘えるのは……」
「サリーさん」

 紅茶が冷めていくのにも構わず、黙ってサリーの話を聞き続けていたルウは、強く、遮るようにサリーの名を呼んだ。
 大きく息を吸い込み、まくし立てるように続ける。

「……僕は、今よりももっとサリーさんと仲良くなりたいと思ってます。サリーさんがどんな女性で、どんな魔物なのか。それだけじゃなくて、全部、全部。いろんな事を知りたいんです、教えてほしいんです」
「……でも」
「僕は、たぶん……いや、たぶんじゃないです。サリーさんの事が好きです」

 それは、ルウが自身の気持ちを確かめるための言葉でもあった。
 口に出してみれば、なんてことはない。複雑でも難解でも無い。それどころか、とても単純な気持ち。
 だから、そこから続く想いも、簡単に紡げる。

「サリーさんが何を考えていても、今更離れようなんて思いません。いえ、離れようなんて思われないくらいサリーさんに好きになってもらえるように、『甘えても大丈夫なんだ』って思ってもらえるように、もっとかっこいい男になってみせます。町とか人とかじゃなくて、僕のことが好きなんだって、言ってもらえるように」

 流れるように出てきた宣言にも、後悔は無かった。
 背伸びしてかっこつけている自覚はある。空回りもしている。でも、嘘ではない。

 しばらくの間を置いてから振り向いたサリーの口元が緩んでいるのを見て、ルウは少なからず安堵した。笑ってもらえたのか、笑われたのかは分からなかったが、少なくとも、悲しそうではない。

「……耳まで真っ赤にするくらいなら、言わなければいいのに」
「うっ……分かるんですか……?」

 それでもやっぱり、恥ずかしいものは恥ずかしかった。
 サリーの言うとおり真っ赤になった耳に、ルウは両手で塞ぐようにして触れる。熱い。耳だけじゃなく、頬も、首も。

「うん。顔だけじゃなくて、全身火照ってるのも、分かる」
「それは、その、こんなの、言った事ありませんし……」

 数瞬前の告白で見せた力強さはどこへ行ったのか。
 ルウは完全に初心な子供に戻っていた。無理な背伸びを笑われて恥ずかしがるところも、元通り。
 だから、サリーもまた、いつも通りの落ち着いた女性へと、戻ることができた。
 緩慢な動作でジャムのビンの蓋をしめて、分かりにくい微笑みを浮かべる。

「……ありがとう、ルウ君。でも、そういう事は、もっとよく考えてから言わないと」

 既に頭から湯気が出そうなほど恥ずかしがっていても、ルウは「考えなしに言ったわけじゃないです」と返そうとした。
 だが、それはできなかった。

「私は、人間じゃなくて魔物。そして、魔物は、『好き』って気持ちを抑えるのが下手なの」

 目の前が真っ暗になって、柔らかくて、いい匂いがした。
 抱きしめられたのだと気付くまで、結構な時間がかかった。

「……下心があったのは、きっと、私の方。本当は、無理矢理にでもルウ君を町に残して、一人で帰ってくるべきだったのに……」

 ルウの髪に、サリーの爪が櫛のように通される。鱗の付いた冷たい手で、頭を撫でる。

「ごめんね、私は、卑怯だから。ルウ君の同情を誘ったり、自分の気持ちを誤魔化そうとしたり、そういう事ばっかり、するから……」
「……じゃあ、サリーさんのごまかしてない気持ちを、聞かせて下さい」
「……そうだね。そう、しないとね」

 その時サリーが浮かべていた笑みは、ルウには見えなかった。

「ねえ、ルウ君は……私に何をされても、私を好きでいてくれる?」

 見た目から想像した以上に、胸の膨らみは大きく、柔らかい。それでも聞こえるサリーの鼓動は、胸中にある不安と緊張をルウに伝えるには十分だった。

「もちろんです。ちょっと叩かれたり怒られたりしたくらいじゃあ、いまさら……」
「そう。分かった」

 穏やかに、優しく微笑み、サリーはルウの体を解放すると、とん、と肩を押した。
 細身の体からは想像できないほどの力に、ルウはよろめき、床に尻餅をつく。

「私の気持ちを伝えるのに、これは、邪魔だから……」

 仮面に手をかけ、呟く。

「これから、ルウ君を苦しめるかもしれない。でも、お願い、許して。きっと、その苦しみは、私が感じているものと、同じだから。ううん、違う。私と同じものを、感じてほしいから」

 サリーが何を言っているのか、ルウには分からなかった。
 ただ、仮面を外して、隠していた目で自分を見ようとしているということだけは、分かった。それを、躊躇っていることも。
 だから、ルウは笑った。

「大丈夫です。僕も、サリーさんの目を、見てみたいです。きっと、とっても綺麗な目をしているんだろうなって、ずっと思ってましたから」
「……ありがとう。ルウ君は、本当に優しいね」

 かちり、と音を立てて、魔力によって固定されていた仮面が外れる。
 あるいは、それはサリーの感情が堰を切って溢れ出す音でもあったのかもしれない。

「あぁ……あはっ……ふふふっ…………」

 ルウの姿を初めて「視た」サリーは、仮面で口を隠しながら、歪な笑みを浮かべた。
 その目は、黄金色だった。
 切れ長の目は獲物を前にして更に細められ、捕食者としての本能を露わにしている。
 しかし、露出した毒蛇の視線がルウに与えたものは恐怖では無く、異質な美しさを目の当たりにした、感動だった。

「やっぱり、ううん、思っていたよりも、ずっと……」

 バジリスクの、サリーの瞳から、目を逸らせない。それどころか、指一本動かせない。

「かわいくて、かっこよくて、きれいで……」

 力が抜けて前のめりに倒れ込みそうになったルウの体を、仮面を投げ捨てたサリーが受け止める。
 そうして、サリーに触れた瞬間。ルウは声にならない悲鳴をあげた。
 触れた箇所から、熱いものが体中に広がる。頭の中がぐちゃぐちゃになる。喉が焼けるようで、声も出せない。
 ゆっくりと床の上に押し倒されても、身を任せることしかできない。

「……ああ、ごめんね。私はズルいよね。ずーっと、こういう風にルウ君を襲いたいって思ってたのに、お姉ちゃんぶって、かっこつけて……うん、だから、ちゃんと、してあげなきゃね……?」

 絡みつくように組み敷いて、サリーは細い目を輝かせた。
 冷たい手が、ルウの両頬に添えられる。座らなくなった首を固定され、強制的に、サリーの瞳を見つめさせられる。
 妖しく光る眼が、ゆっくり、ゆっくりと近づく。
 どこまでも透き通った、怖いほどに綺麗な眼。
 もっと見ていたいのに、これ以上見ていたらおかしくなってしまいそうで、どうしたらいいのか分からない。

「……はじめて、だから。上手じゃないかもしれないけど……」

 それだけ言って、サリーは、ルウの唇を塞いだ。
 柔らかい唇の感触に、ルウが息が止める。熱っぽい吐息とともに這入ってきた細長い舌が、ぬるり、ぴちゃりと音を立てて口内を犯す。
 恋人同士の挨拶。キスに対してその程度の認識しかなかったルウにとって、サリーの本能任せの口付けはあまりにも甘く、淫らだった。

「んぅっ……ふっ……ちゅっ…………」

 時折、息継ぎをしながら、溢れ出した欲望に身を任せ、無抵抗な少年の唇を貪り続ける。
 幼い瞳が快楽に揺れる様に、愛する人が自分の毒に侵されていく姿に、震えるほどの愉悦を抱く。
 もっと、もっと。
 唾液を啜り、舌を絡め、歯をなぞり、喉まで犯しても、まだ足りない。溶け合うまで、口付けを。
 そんな状態になるまで理性を失っていたサリーが唐突にキスをやめたのは、当然、満足したからではない。

「……あぁ……うれしい……ルウ君…………」

 足に当たる箇所、自分の尾に、ルウの未熟な生殖器が押し当てられていることに気づいたからである。
 ルウ自身は、それの排泄以外の用途をまだ知らないが、バジリスクの毒に満たされた体は、本能的にサリーの体を求めていた。

「うん……そうだよね、ごめんね、私が、ちゃんとしてあげないと……」

 雪と冷気を凌ぐための分厚いズボンを、爪で裂かないように慎重に、しかし力任せにずり下ろす。
 露出した小さな男性器からは既に先走りが滲んでおり、軽く触れただけでも暴発してしまいそうなのが、見ただけで分かってしまう。
 しかし、何も知らないルウにとっては、自分の体の異変は、ただ混乱を起こすだけのものだった。

「さりー、さ、ん……」

 泣きそうになりながら、ルウはサリーの名を呼んだ。キスで痺れた舌では喋ることもままならず、助けを求めることはできなかった。
 その表情が、サリーの内に、庇護欲と僅かな嗜虐心を芽生えさせる。

「大丈夫。ルウ君は、何も心配しなくていいから。私が、全部、してあげるから……」

 尾でルウの体を押さえつけたまま、サリーはセーターを脱いで、胸と性器を露出する。
 ルウを見下ろすその顔は緩んだ笑みを浮かべており、荒い息は、興奮を微塵も隠そうとしていなかった。

「何も、考えなくていいんだよ。我慢だって、しなくていいからね……?」

 言われるまでもなく、ルウは、もう何も考えられなくなっていた。
 ぬちゅ、じゅぷ、という湿った音は聞こえていたが、自分が何をされているのかという具体的な理解はできず、ただ、未知の快感に背を仰け反らせた。
 そして、体温の低いサリーからは想像できないほど熱い蜜壺の中に収まると同時に、ペニスの先から、大量のどろどろとした精を放ってしまった。
 はじめての射精。その快感の激しさに、意識が遠のく。

「……は、ふふっ……ルウ君……すごい……んぅっ……!」

 挿入しただけで動かしてもいないというのに、びゅくん、びゅくん、と、塊のような精液が噴き出す。
 体内を満たしていた、毒に侵された精が吐き出され、そのかわりに、気が狂いそうなほどの快楽をその体に残していく。
 だが、それが性的快楽だという事すら、ルウには理解できていなかった。

「あ、うっ、ぁっ……?」
「……いいよ、ルウ君……そのまま……全部、私の中に出して……?」

 口の端からよだれをこぼし、目を見開いてがくがくと体を震わせたルウに、サリーの尾が巻き付いていく。
 床の硬い感触が消え、細かな鱗に覆われた尾と、柔らかいサリーの肢体に包まれる。
 それによって、ルウは強制的に与えられる快楽から逃れる術も失っただけでなく、更に近くで、サリーの眼を見つめさせられる事となった。
 あるいは、自分から望んで見つめていたのかもしれないが、それを判断するだけの思考力は、ルウには残っていなかった。
 好きな人に、きもちよくしてもらっている。この、きれいな眼を見ていると、しあわせな気持ちになる。
 分かるのは、それだけだった。

「ほら、ぎゅーっ……て、しててあげるから……♥」

 体の中に新鮮な精が染みていくような感覚を楽しみながら、サリーは柔らかく大きな胸の間に頭を押し込むように、ルウを抱きしめた。
 そこに篭っていた甘い匂いを無理やり吸わされ、落ち着きかけていたルウのペニスから、再び、どくどくと漏れ出すように精液が吐き出される。

「それとも……こっちの方が良い……?」

 その反応に気を良くしたのか、頭を抱く手を緩め、ぷっくりと膨らんだピンク色の乳輪と、その先の乳頭を唇に押し付ける。
 ルウはほとんど反射的にそれを咥えると、さほど遠くない幼少期の記憶のままに、強く吸った。

「ひぃんっ……」

 普段の静かな振る舞いからは想像できないような、鼻にかかる甲高い嬌声。
 自分で慰めているときとは全然違う、胸から体全体に広がる痺れるほどの快感に、黄金色の瞳が濁る。

「やぁっ、だめっ、るうくんっ……そこっ、かまないでぇっ♥」

 しかし、そんな言葉はルウの耳には届いていなかった。
 催促するかのごとくピンク色の乳頭を甘噛みされてしまい、サリーは「んひぃっ♥」というみっともない喘ぎ声を上げながら、背を仰け反らせる。
 自分がサリーの性感を刺激しているなどルウには分かっていなかったが、それでも「こうすると、サリーさんに喜んでもらえる」と言うことだけは、理解した。

「ごめんねっ、まだ、おっぱいは出ないっ、からぁっ……だからっ、ゆるしてっ、ちくびっおかしくなるっ♥」

 ただ乳を吸うだけの、愛撫とも呼べない行為であっても、サリーは目の端に涙を浮かべたまま、尾の先を振って身悶えする。
 もはや、バジリスクの毒に侵されてしまったルウと同じくらいには、サリーも理性を失ってしまっていた。
 お腹をうねらせて、繰り返し繰り返し絶頂を迎えながらも、意思とは無関係に腰をゆすり、疼く子宮に精を浴びようと、膣肉で小さなペニスをずりゅ、ずりゅと舐めあげる。
 胸への刺激は、それをさらに激しいものにして、ぎゅうと乱暴に、ルウのものを締め付ける。
 ルウの体も、少しでも早く体内の毒を出し切ってしまおうと、栓が壊れてしまったかのように、未熟で敏感な性器から精液をだらだらとこぼし続ける。

「だめって、いってるのにぃ……♥」

 サリーは、言葉とは裏腹に幸せそのものといった表情を浮かべていたが、ルウに強く乳首を吸われながら甘噛みされると、「ひぎっ♥」という品の無い悲鳴を上げて、白い首を反らしながらひときわ激しく体を震わせた。
 精液と愛液でぐちゃぐちゃになっている膣内もぐちゅぐちゅと蠢いたことで、ルウが受けていた快楽刺激も一層激しくなり、思わず胸から口を離して、子どもらしい高い喘ぎ声を上げた。
 どくん、どくん、と、どこにあったのかと思うほどに濃い精液をサリーの中へとぶちまけ、力の抜けた体をぐったりと巻きついた尾に委ねる。

「……悪い子には、おしおき」

 体中に残る甘い痺れに声を上ずらせながらも、サリーは長い舌で、ルウの眼の端に浮かんだ涙を拭った。
 更に、そのまま紅潮した頬や耳、よだれでべとべとになった口元まで舐めあげてから、半開きの口に舌を差し入れ、自らの唇で蓋をする。

「んぶっ、じゅるっ……ちゅぅっ……♥」

 興奮のあまり、だらだらと毒液のように溢れる唾液が、ルウの口内へと流し込まれる。
 体液の交換というには、あまりにも一方的だった。あっという間に自分の味に占められてしまった口内に、ルウの味を探すように、サリーは滅茶苦茶に舌を這わせる。そして、やり場を無くしていたルウの舌に絡みつくと、水温を立てながらそれを味わい始めた。

「ふぅっ……んくっ、ぅ……♥」

 夢中になって小さな舌を貪るサリーに対して、ルウは、流し込まれるものを飲み込むことに必死だった。
 蜜で味付けされた毒のように、魔物の体液は、ただの人間でしかない少年には、とても甘美なものとして感じられていた。
 一度喉を鳴らす度に、体の奥が熱くなり、落ち着いていた情欲に薪がくべられていく。出し尽くしたかと思っていた、体中に残っている精をかき集め始める。
 これをサリーさんの中に出してしまったら、気持ちよすぎて頭がおかしくなってしまうかもしれない。
 腹の底で煮えるような射精欲を感じながら、ルウはぼんやりとそんな事を思った。

 そして、サリーはそれを望んでいた。
 ルウ君を、快感の、いや、自分の虜にしてしまいたい。
 この無垢な少年に淫靡な快楽を教え込んで、自分から離れられないようにしたい。優しくて可愛い男の子の頭の中を、交尾をすることばかりでいっぱいになった獣のようにしてしまいたい。
 この愛おしさを抱きしめて、人とか魔物とかそんなものすら捨てて、ただ二人で快楽を貪るだけのものになってしまえたら。

 それは、仮面の下に長く溜め込んでいた情欲や恋心が濃縮された、本人をも狂わせる妄想だった。
 そして、その妄想は心身の快楽という媒介を得たことで魔眼の毒に残らず溶け込み、凶悪な快感となって、ルウの体を満たした。

「っ!?」

 一瞬、視界が真っ白になるほどの刺激に、うつろに揺れていたルウの眼が見開かれる。
 今も口内に染み込まされている唾液とは別に、どろどろとした何かが、体中を支配する。

 そこからは、もう、本能すら残っていなかった。
 骨が当たるほどに腰を押し付けて、ぐちゃぐちゃになった膣内の一番奥に、どぷっ、びゅぷ、という濁った音が聞こえそうな塊のような精液を放つ。
 あまりにも濃厚な精を思いっきり体の芯に浴びせられたサリーも、ルウの体が軋んでしまうまで、尾できつく締め付けた。

「んぅっ!ふっ、んんぅ〜!」

 尾だけでなく、自らの舌でも、ルウの舌をぎゅうと締め上げる。
 ぬるぬるとしたその感触が、繋がったままの下半身の刺激と結びつき、ルウは本当に気が狂ってしまいそうなほどの快楽に包まれ、更にびゅくん、びゅくんサリーに種付けをする。
 何も考えられず、雄としての本能などというものすらなく、ただ、気持ちいいからという理由で、サリーの中にも収まらないほどの精を注ぎ続ける。

「お゙っ、じゅるっ、んっむぅっ……♥」

 そして、それを受け止めさせられるサリーもまた、押し寄せる快楽の波に飲まれてしまっていた。
 必死になってルウとのキスを続けるが、それでも、合わせた唇の隙間からはみっともない声が漏れ出てしまう。
 黄金色の瞳を潤ませ、愛する人の精を、雌として最高の喜びを得られる場所で受け止める。

 そんな長い射精がようやく終わり、重ねっぱなしだった唇も離すと、だらしなく開いた口の間に糸が伝った。
 どちらの顔もよだれと涙でぐしゃぐしゃになっていたが、それを気にする余裕は、もう残っていなかった。

「るう、くん……しゅごい……おなか、いっぱいにされちゃったぁ……♥」

 下腹部を僅かに膨らませながら、サリーはうっとりと呟いた。
 しかし、彼女が何を言ったのか、ルウにはもう分からなかった。
 頭の中で、何かが焼き切れてしまったかのように、意識が遠のいていく。
 ぐったりとして、サリーの柔らかい胸を枕に、体力を使い果たした体が休息を求める。

「……ふふっ。おやすみ、ルウ君……だいじょぶ、起きるまで、ずぅっと、こうしててあげるからね……」

 頭上から降ってくる優しい声。
 その声に小さく頷き、ルウは温もりに包まれたまま、心地良い眠りへと落ちていった。
 だが、それを見るサリーの瞳は、まだ、欲望を残したまま爛々と輝いていた。


…………



 目を覚ましたルウが最初に見たものは、仮面を着けた、いつものサリーの顔だった。
 膝枕ならぬ尻尾枕で寝かされていたらしい。頭の下に敷いていた尻尾をぺたぺたと触ると、足先の方に伸びていた尻尾の先端で、羽根がゆらゆらと揺れるのが見えた。
 ルウはすぐには起き上がらず、サリーに見下ろされたまま、確かめるように名を呼ぶ。

「……サリー、さん」
「ルウ君……ごめん、なさい……」

 黄金色の眼は見えなくなってしまっていたが、それでも、サリーが泣きそうになっていることは、か細い声から察せられた。
 手足が自由に動くことを確認し、その顔へと手を伸ばす。
 白い頬は、見た目通り冷たかった。

「大丈夫です。全然、嫌じゃなかったですから」

 「それどころか、あんなに気持ちよくて幸せなことがあったなんて、知りませんでした」とまでは言えず、ルウは言葉を探す。
 サリーの事を否定せず、自分の想いを伝えるために。
 しばし考え、「そういえば」と思い出したものとともに、はにかむ。

「サリーさんの眼、すごい綺麗でした。だから、またいつか、見せてください」
「……うん」

 その言葉が意味するものは、当然、ルウにも分かっていた。何もかもがはじめての体験だったが、それがあまり公言していいものではない、どちらかと言えば恥ずかしいことであるというのも。

 やがて、ルウは照れ隠しのために勢い良く跳ね起きて、「吹雪は止んだんですね」と、窓へと駆け寄った。
 しかし、外を見るなり、思わず「うわっ」と声を上げていた。

「すごい積もってる……」

 そこでは、ルウの肩近くまで、雪が積もってしまっていた。
 吹き付けた氷雪で窓まで凍り付いていて、押しても引いてもびくともしない。

「……ドアの向こうまで積もっているみたい。開けようとしても、開かなくて……」
「窓もこれですし、じゃあ、外には出られないんですね……」
「……どうしようか」
「どうしようも……ない、ですよね」

 どうしようか、とは言いつつも、選択肢はない。

「えっと、じゃあ……もう少し、お世話になります……」
「……うん」

 心のどこかでは、こうなる事を望んでいた。まだ、二人だけの世界を楽しんでいたかった。
 ルウもサリーも同じことを思ってはいたが、口には出さなかった。
 あるいは口に出さずとも、サリーが後ろからルウを抱きすくめるだけで、十分に同じ想いだと伝わった。

「……ルウ君、あったかい」
「そうですか?」
「うん……ほら、私の手は、冷たいでしょう?」
「ほんとだ。じゃあ、僕の手であっためてあげますね」
「……ふふっ、ありがとう」

 暖炉の火は一旦消してしまったので、後で点け直さなければならない。
 でも、今はこうしてくっついている口実に――

「…………あっ」

 どさっ、と、屋根から雪の落ちる音。
 ルウとくっついている事に夢中になっていたサリーは、今までそれに気が付けなかった。

「……あっ」

 サリーが声を上げて振り向いたことで、ルウもようやくそれに気が付いた。
 小屋に二つある窓の、今までほとんど目を向けていなかった方。
 そちらから、雑貨屋のハーピーが覗き込んでいた。屋根の縁に足を引っ掛けているのか、上下逆さまで、興味津々といった様子で。
 そして、気付かれたと分かるやいなや、張り付いた窓を強引に引き開けた。

「いや、ごめんね、邪魔するつもりはなかったんだけど……ルウ君が帰ってこないから、お父さんとお母さんに様子を見てきてって言われて……うん、私は止めたんだけどね?なんとなく分かってたしね?」

 とても気まずそうに、言い訳が連ねられる。
 居場所は分かっているのだから、雪の中を歩けなくても、飛んで様子を見るくらいはできる。考えてみれば当然だとは思いながらも、ルウもサリーも、それを予想できていなかった。

「……いつから、そこに?」

 尋ねるサリーの声は、動揺のあまり裏返っていた。

「あっ、うん、今来たばっかりだから、サリーちゃんがルウ君を抱きしめるところは見たけど、それだけ。その前に何をしてたかとかは、全然知らないから安心して!じゃあ、とりあえず私は一回帰るね!雪かきとかどうするか決めなきゃいけないし、夕方の鐘が鳴ったら、また来るからね!夕方の鐘!覚えといてね!」

 ハーピーはルウとサリーが呆気にとられるほどまくし立て、最後にもう一度「何も見てないからね!」と叫び、逃げるように飛んでいった。
 残された二人はそのまま固まっていたが、開けっ放しにされた窓から入った寒風で、ようやく動き出した。

「あ、あはは……でも、おねえちゃんが見に来てくれて、助かりましたね!これなら、思ったよりも早く町に帰れるかも!」

 サリーの腕の中から抜け出したルウが、誤魔化すように笑いながら窓を閉める。
 しかし、サリーは愛想笑いも浮かべず、複雑な感情を押し隠したような声で尋ねた。

「……お姉ちゃん、って?」
「あっ、えっと……小さい頃から、そう呼んでて……やっぱり、変ですか……?」
「……お姉ちゃん」

 ルウがあのハーピーを姉のように慕っている事は、サリーも知っていた。
 だから、幼少期からの知り合いであることを羨んだりはしても、否定的には思わない。
 焦点は、二人の関係とは別の場所にあった。

「……ルウ君」
「なんですか?」
「私も、お姉ちゃんがいい」
「……はい?」
「だから、お姉ちゃんって呼んでほしい。おねがい」

 また分かりにくい冗談を、と片付けるには、サリーの態度はあまりにも真摯だった。

「いいですけど、なんでですか?」
「いいから」
「……サリーおねえちゃん?」
「うん……うん、完璧」
「……?」

 何が完璧なのか、どうしてそんなに満足げなのか。
 不思議には思ったが、あまり表情の変わらないサリーが嬉しそうにしている事が嬉しくて、「まあいいか」と流してしまった。
 それよりも、そろそろ言わなければいけないことがある。
 今までとは全然違う緊張で、心臓が口から出そうなほどドキドキしている。でも、これだけはちゃんと伝えなくちゃ。

「サリーさ……おねえちゃん。夕方になったら、僕と一緒に、町に行きましょう」
「……私も?」
「はい。『僕はいつかサリーさんと結婚するから、それまでサリーさんと一緒に暮らします』って、お父さんとお母さんに伝えなきゃいけませんから」
「けっ……!」

 それはもはや、ルウの内では確定事項となっていた。
 ここで行われたのが、つがいを孕ませるための行為であったということすら、自覚してはいない。
 ただ、好きな人と想いを確かめあったのは間違いない。そして、その先にあるのは、当然、「結婚」という象徴的で確固たる縁の連結である。
 そこから先のことや、そこに至るまでの感情の変化には、何も憂うことはない。
 実際に頭の中で考えていた内容はもっと単純だが、とにかく、無垢な少年であるルウはそう信じ切っていた。

「それとも、サリーおねえちゃんは、僕と結婚するのは……」
「嫌じゃない!」

 勢い余って叫びに近くなってしまった否定に、サリー自身が驚き、口を抑える。
 それから、一度深呼吸をして、声を落とす。

「嫌じゃない……けど……」
「……けど?」
「その……怒られ、ないかな。ルウ君のご両親に……」
「それは大丈夫です!お父さんとお母さんに何を言われても、僕が説得してみせます!」
「いや、そうじゃなくて……それもあるんだけど……」

 ルウが無邪気に振る舞えば振る舞うほど、サリーは口ごもり、所在なさげに尾を揺らす。
 と言うのも、サリーはルウが寝ていたのを良いことに、自らの所有物であることを示すためのキスの痕を、体中に付けていた。
 そして、それが未だ消えることなく熱を持って残っているのは、サリーにだけ感じられる事だった。
 服に隠れて見えない所がほとんどだが、首筋に残したものは、マフラーでも着けていなければ隠せるものではない。
 となれば、当然、ルウの両親の目にも留まるわけであり。

「……ルウ君。私、がんばるから」

 何か、重大な覚悟を決めたかのように、呟いて、希望に満ちた目をしたルウを抱きしめる。
 その時点では、それは言ってしまえばしょうもない覚悟でしかなく、「愛する人の両親に、自分は受け入れてもらえるだろうか」という真剣な悩みに繋がるのは、もう少し先のことであった。
 だが、結果として、サリーがルウと共に暮らしていくという最上の幸福を得られたのは、間違いなく、このなし崩し的な覚悟のおかげだった。




 ちなみに、サリーはルウの母親に根掘り葉掘り聞き出される羽目になった上に、「うちの子が歪まない程度でおねがいね」などとやんわりと釘を刺されるのだが、それはまた別の話。
17/02/18 01:39更新 / みなと

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