読切小説
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君がいた冬
記憶の奥底に、長いあいだ眠っていた思い出がある。


ぼくの生まれ育った町では、一冬のあいだに決まって何回か大雪が降った。空も山も家も道路も、一面に塗りつぶす灰色の景色が、幼いぼくにとって「冬」という言葉の表すものだった。
雪が降った翌朝が晴天であれば、ぼくはよく一人で街はずれの神社に出かけた。ひと気のないその神社で、まだ誰にも踏み荒らされていないまっさらな雪の絨毯に、最初の足跡をつけて回るのがぼくの密かな楽しみだった。そして、そんな日に神社を訪れると、決まってぼくのもう一つの密かな楽しみ――名前も知らない「あの子」がぼくを待っていた。


 「あの子」はどんなに寒い雪の朝でもコート一枚羽織らず、きちんと着付けのされた着物に草履だけを履いてぼくの前に現れた。
 ぼくらが顔を合わせれば、最初にやることは決まっていた。境内の雪をかき集めて、大きなかまくらを作るのだ。大きな、といっても子どもが2人で作れる大きさなどたかが知れていて、5、6歳の子ども2人が入れるだけの部屋を作るのがやっとだった。それでも、ぼくと彼女の秘密の遊び場として、そこはこれ以上ないほど適した空間だった。
 2人の遊びは、いつもおままごとと決まっていた。やんちゃ盛りの男の子としては、雪合戦や雪だるまを作って遊びたいというのが本音だったけれど、彼女の方が1つか2つ年上だったこともあり、ぼくの意見はいつも通らなかった。
 そのことについて不平を言うと、彼女はすました顔で言った。
「いい?これはね、れんしゅうなの。女の子はみんな大人になったら、夕ごはんを作ったり、赤ちゃんをお世話しないといけないでしょう?大人になってこまらないように、今からちゃんとれんしゅうしておかないと」
 ぼくはその相手役をずっとさせられていたというわけだ。曰く、「相手がいなくちゃ、れんしゅうにならないでしょ?」
 おままごとの道具はなんでも雪で作った。雪の食卓、雪のお茶碗、雪のご飯。

「お夕はんができましたよっ」
「いただきます」
「おあがんなさいなっ」
 そうやってぼくらは毎日のように、ふたりの隠れ家の中で家族の真似ごとをした。季節が移り、かまくらが融けてなくなるまで、冬の間じゅうぼくらは秘密の「れんしゅう」を重ねた。


 寒さが和らいだある日のこと、ぼくが神社の境内を訪れると、屋根が融け落ちたかまくらはぺしゃんこに潰れていた。あの子が少し寂しそうに、それを傍で見降ろしていた。
「……また、来年かな」
 あの子がぽつりと呟いた。そして着物の裾をひらりと翻して向き直ると、ぼくの方へと駆け寄ってきた。
「……これも、れんしゅうだからね」
 そう呟く声が耳元で聞こえたのと、ほぼ同時だった。
 ちゅっ、という軽い音がして、ぼくの唇に何か冷たいものが触れた。気がつくと、目の前に彼女の顔があった。彼女の吐息が耳にかかるのを感じた。
 彼女がそうしていたのは、一瞬だった。すぐに彼女は身体を離し、そっぽを向いて駆けだした。
「れんしゅーなんだからねー!」
 そう言って走り去る彼女の顔が真っ赤に染まっていたことだけは、その場に取り残されたぼくにも見えていた。



 それから季節は春になり、ぼくは駅ひとつ離れた小学校に通い始めた。やがて山ひとつ越えた町の中学へ進み、隣の県の高校へ行き、都会の大学へ入った。働くために住み始めた遠くの町では、真冬でも雪が積もることはなかった。


 社会人になってもう3年、手探りでやってきた仕事にもようやく慣れ、忙しい日々の中で少しずつゆとりが持てるようになってきた。
 だからなのだろうか。もうずっと忘れていた幼いころの記憶が、このごろ不意に蘇ってきたのは。あの冬の終わり以来、神社で遊ぶことはなかった。学校で新しくできた友だちと遊ぶのに夢中で、あの子との日々を思い出すことすらなかった。
 あの子は、もしかしてずっと待っているのだろうか。雪の食卓を用意して、遊び相手の帰りをずっと待っているのだろうか。
 季節はちょうど、故郷の町に今年最初の雪が積もるころだった。



 音もなく降る雪の中を、ぼくは足早に歩いていた。ぽつぽつと立つ街灯に照らされた道は、すでに真っ白な雪の絨毯に覆われていた。
 故郷の駅に降り立ったその足で、ぼくは神社を目指していた。駅の周りはぼくの記憶から大きく変わっていた。知らない駐車場、知らないコンビニ。かつての神社もまさか元の場所にはないのではないかと、かすかな不安が頭をもたげる。
 結果、その不安は杞憂に終わった。神社は記憶通りの場所に、変わらず寂しげなたたずまいを残していた。雪に覆われた夜の境内に、人の気配はない。
 境内に足を踏み入れる。辺りを見回すが、しんしんと降り積もる雪のほかに動くものはない。やはり、あの子にもう会うことはできないのだろうか。それとも、あれは幼いぼくが作り出した幻だったのか。呆然とその場に立ち尽くす。

 そのとき、ふと思いついたことがあった。地面に膝をつき、足元の雪をかき集める。ある程度集まったら積み上げて、四角い形に成形する。
 でき上がったものは、雪の食卓だった。かまくらを作る時間はないけれど、これが今のぼくに作れる精一杯の準備だった。雪の食器、雪のご飯を作ってその上にのせる。
「お夕飯ができましたよっ!」
 まるで神前に供え物をするように、ぼくはそう言って目を閉じた。祈るように両手も合わせた。そうして、何の音も聞こえない時間がしばらく過ぎた。
 どのくらいそうしていただろうか。
「……いただきます」
 かすかな声が聞こえた気がして、ぼくは恐る恐る目を開ける。
 雪の食卓の向こうで正座していたのは、透き通るような白い着物を着て、同じくらいに白く長い髪を伸ばした、世にも美しい女性だった。女性はちょっとだけぼくの顔を見ると、すぐにそっぽを向いてしまった。
「……ずいぶんと遅いお帰りですこと」
 口をとがらせてそう言う彼女は、ぼくが今までに出会った中で誰よりも美しく、気品のある女性だった。しかし、その横顔に残る面影は、確かにぼくの記憶を呼び覚ます何かを持っていた。
「ごめんね」
 そう言ってぼくは、おもむろに身を乗り出して彼女の肩を掴む。そして彼女が何かを言う前に、一息に顔を近づけてその唇を塞いだ。冷たく、柔らかい感触があった。
 彼女は一瞬目を見開き、しかしすぐに目を閉じてそれを受け入れた。彼女の冷たい手が、ぼくのそれに重ねられた。
 ゆっくりと唇を離す。彼女が、口を開いた。
「これも、練習ですか?」
「ううん」ぼくは言った。「これは、本番」




 それからしばらくして、ぼくは彼女にお夕飯の練習の成果を見せてもらうことになった訳だけれど、そちらはまた別のお話。
18/02/03 11:18更新 / 琴白みこと

■作者メッセージ
ちょうど大雪が降った日に書いたのでこんなお話になりました。


短くまとめるって難しいですね。

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