連載小説
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(120)セルキー
薄暗い闇の中を、私は舞っていた。
全身を力強く波打たせ、両腕で姿勢を整えながら、まっすぐに闇の中を進む。
上の方に目を向ければ、白いものが上をふさぎ、合間合間から光が降り注いで闇の中に柱を作っていた。
ここは氷に閉ざされた海の中だ。冷えきった海水の中を、私は銛を手に泳いでいた。
私の前方を泳いでいるのは、一頭のアザラシだ。
灰色の毛には色の濃い丸い模様が規則正しく並んでいる。あの毛皮を身につけることができれば、どれほど仲間から賞賛されるだろう。
私は脳裏に浮かぶ景色に見とれそうになったが、アザラシの追跡に意識を戻した。
今は成人の儀式の最中。自分の手でアザラシをしとめ、その毛皮で自分の衣服を作るのだ。
親から与えられた毛皮ではなく、仲間に頼って手に入れた毛皮でもなく、自分で手に入れた毛皮を身に纏う。それこそが、我々セルキーが一人前と見なされる条件なのだ。
前方のアザラシと私の距離は、かなり開いている。距離と灰色の毛皮のため、氷の下の薄闇にその姿が紛れてしまいそうだ。
だが私は目を見開き、アザラシを見逃さぬよう捉え続けていた。時折アザラシが氷のひび割れから降り注ぐ光を浴びるため、追跡は容易だ。
あとはアザラシが疲れはてるか、振り切るよりも私をしとめる方が容易いと判断するのを待つばかりだ。
毛並みのように立派な体格のアザラシだが、勝算はある。
必ずこの手でしとめてみせる。
私は決意を胸に、銛を握りなおした。そして両親に仕立ててもらったアザラシの毛皮に包まれた下半身を、大きく上下に動かした。
魔力と防水脂が冷えきった海水を弾き、滑りをよくする。四肢に絡みついて動きを妨げる海水の隙間を、私は進んでいった。
すると不意に、前方のアザラシが泳ぎ方を変えた。大きく身をうねらせて、光の降り注ぐ亀裂に接近するよう上昇したのだ。
息継ぎだ。アザラシと私の距離を狭める絶好のチャンスだ。
だが、息継ぎが必要なのは私も同じだ。ここで無理して接近しても、息継ぎをして体力を回復させたアザラシから距離を取られるのは避けようがない。ここは私も息継ぎを行い、距離を維持しなければ。
私はちらりと上方を伺うと、一番近く勝つ大きな亀裂に接近した。
亀裂に迫るにつれ光が私の視界を覆い、ついに海面が破れる。
「ぷはっ、はぁっ、はぁっ」
ただ息をするのではなく、肺の中の淀んだ空気を入れ換えるよう、私は意識して呼吸した。
少しだけ思考に濁りの生じていた意識がクリアになり、知らぬ間に体が空気を欲していたことを遅ればせながら察する。
あと十呼吸。吸って吐いてを十回繰り返し、最後に大きく吸ってから追跡を再開しよう。
そこまで考えたところで、亀裂に影が落ちてきた。
細長くうねる影と、その先端の湾曲した何か。
亀裂の上、青空を背にした何かは、まっすぐに私に向かって襲いかかってきた。
「っ!?」
鳥とも違う訳の分からない影の形に気を取られ、私は潜り損ねてしまった。下半身を操り、水中に頭を沈めるほんの一瞬が間に合わず、湾曲した何かが私の胸元に食い込んだ。
「きゃ…!」
両親からもらったアザラシの毛皮に食い込むのは、金属でできた半円型の金具だ。紐のついた金具が、氷の上から投げ込まれたのだ。
金具の先端は鋭くとがっており、銛のような返しまで備わっていた。だが先端は私の皮膚には至っておらず、毛皮を引っかけるばかりだった。
無傷であることに対する安堵と、両親からもらった毛皮に穴があいたことへの衝撃が同時に私の胸中に沸き起こった。直後、金具から氷の上へと続く紐が引き上げられ、氷の亀裂の縁と私の胸元の間でピンと張った。
毛皮が引き裂かれる。
とっさに胸元の毛皮に引っかかる金具をつかみ、布にあいた穴が広がるのを防ごうとした。しかし紐は変わらぬ力で引き上げられていき、結果私の体は冷えた海水から持ち上げられてしまった。
「しま…っ!?」
アザラシの追跡から離脱させられてしまう。海から引き上げられていく私の脳裏をよぎったのは、そんな考えだった。
海水をかいて深みに潜ろうにも、私の体はほとんど水を離れており、鰭がむなしく空をかくばかりだった。
そして数秒のうちに、私は凍てついた氷原の上に投げ出されていた。
「くぁ…!」
胸や腹を打つ衝撃に、私は思わずうめいていた。だが痛みをこらえながら、私は手にしたままの銛を構えた。私の胸元から続く紐を握る人影に向けてだ。
「何をするか!」
誰何よりも先に、私は抗議の声を上げた。
「何だ…アザラシではないのか…」
紐を握っていた人影が、ぼそりと呟いた。ふわふわとした毛皮を仕立てた衣服に身を包んだ男だ。
背中にはなにやら大きな荷物を背負っており、腰には私の胸元に食い込むのと同じ金具がいくつか下がっていた。
「私はエルシ、気高いセルキーの一族だ!」
アザラシと間違えたことに、私は抗議した。
「すまないな…上からだと音が全く同じだったからな」
男はそう言い訳した。
「それで、まさかとは思うが氷の下のもう片方もセルキーだったりしないか?」
「あいつはアザラシだ」
「ならばつり上げてしまっても、何の問題もないな」
「だめだ!あれは私の獲物だ!」
成人の儀式のため、ようやく見つけた立派なアザラシなのだ。この場で横取りされても困る。
「あのアザラシの毛皮がないと、一人前と認められないんだ」
「ふむ…俺としても譲れない事情があるんだが…協力して分けあうというのはどうだ?お前は毛皮がほしい。俺は肉と骨がほしい。協力する価値はあると思うが?」
「断る」
私は首を左右に振った。成人の儀式は基本的に一人で挑まねばならない。
同族の協力は禁止されているが、例外的に協力が認められる場合もある。だが、私は自分の儀式は自分だけで達成するつもりだった。
「そうか…それは残念だ」
男は提案を突っぱねられたことに、少しだけがっかりしたようだった。
「私は私であのアザラシを追う。先に捕らえた者の物でうらみっこなしだ」
「仕方ないな…なあ、協力をもう一度考えてくれないか?」
男は一応納得したようだったが、なおも食い下がった。やはり地上と海中では、海中の方が有利だからだろう。
「だめな物はだめだ」
私はもう一度念押しすると、胸元に引っかかる金具を示した。
「それと、こいつをどうにかしろ」
「ふむ…けがはないのか?」
「ああ、だが両親から授かった大切な毛皮に引っかけたのは許さん」
「それはすまなかったな」
男は私に歩み寄ると、金具に結わえ付けられていた紐をほどき、毛皮から金具を外した。
「これでよし」
「よくない。穴が開いてしまったじゃないか」
胸元の地肌が覗くほどの穴を指し示し、私は一応の文句を言ってやった。
「この場で繕え、などとは言わない。だが二度と間違えるなよ」
「気をつけよう」
私は銛を握り直すと、氷の亀裂ににじりよった。そして男の方をちらりと見てから、海に身を投じた。
冷たい水が全身を包み込み、光の射し込む薄闇が目の前に広がる。
(ええと、奴は…)
氷の下で辺りを見回すと、狙いのアザラシはだいぶ距離を稼いでいた。
かなり時間を無駄にしてしまった。
(急がないと…)
私は氷海の中、まっすぐに泳ぎ始めた。



辺り一面に広がる氷の上に、男が一人いた。
海獣の毛皮を防寒具として纏い、腰に何本も返しのついた鉤をぶら下げた男だ。
彼は氷の上にひざを突き、何かに祈るように上体を伏せていた。だが彼の顔は横を向き、祈りを捧げているのではなく氷に耳をつけていることがわかる。
「……」
男は氷を伝わる音を聞いていた。
氷のどこかを歩く何かの足音や、その下に広がる海水のうねり、そして海中を泳ぐ何かのたてる音。
「東の方に足音が一つ…氷の下に泳ぐ物が二つ…」
聞こえてくる音から、男は動く物の気配を読みとっていった。そして自分の近くを泳いでいる二つの気配の、微妙な音の違いを覚えた。
「こいつはセルキー…もう一つが獲物…」
下半身を動かして進む泳ぎ方のため、二つの音はほぼ同じだった。しかしセルキーの方は銛を持っていたためか、絡みつく水の流れによって独特な音を生じさせていた。
音の強弱から判断すると、アザラシとセルキーの距離はかなりあるようだ。そしてこうして音を聞いている間にも、男との距離はどんどん開いていく。
「…よし」
男は氷の上に身を起こすと、何もない氷原に目を向けた。
一面の氷と、多少の起伏しか見えない。だが男の目には、音によって位置を探ったアザラシとセルキーの姿が見えるようだった。
男は氷の上を走り始めた。



アザラシとの追跡は続いている。少しずつ彼我の距離を詰めながらだ。
アザラシはその体格に見合うだけのスタミナを有しており、なかなか疲労した様子を見せなかった。しかし私は奴の泳ぎ方の癖を見抜き、ほんの少しの隙を見せる度に距離を縮めた。
呼吸のための氷の亀裂を見つけた瞬間、鰭を操って向きを変える。その一瞬、奴の速度が少しだけ落ちる。
呼吸の直後、奴は一度深く潜ってから、徐々に浮かびつつ前進していく。
速度の落ちる瞬間、無駄な距離を泳ぐ合間、私はちょっとずつ距離を詰めていった。
一度氷の上に引き出されたことで開いてしまった距離も、既に取り戻している。後少しで奴に追いつき、後少しで手が届く。
奴に銛を突き立てるか、奴が襲いかかってくるか。どちらかはわからないが、決着までもう少しだった。
不意に前方のアザラシが、光の射し込む亀裂に接近していった。
息継ぎのためだ。この距離ならば、息継ぎを我慢して接近すれば、銛が確実に届くだろう。
私は多少の息苦しさをこらえつつ、大きく下半身を上下させて奴に接近した。
だが奴に向けて銛を繰り出そうとした瞬間、氷に顔を当てていたアザラシが急に頭を下げた。真っ黒な目を見開き、白目の縁を露出させながら、奴は深みへと潜っていく。
何が起こったのか?
疑問は、直後に水面を突き破って飛び込んできた、湾曲した金具によって氷解した。
あの男が上にいるのだ。
アザラシは亀裂からはなれようと距離を取るが、二つ、三つと新たな金具が海中に飛び込んでくる。
それらはまるでアザラシの姿が見えているかのように、奴の尾鰭や灰色の毛皮に食い込もうとした。
毛皮に穴が開く!私は迫る金具に向け、突進した。氷の亀裂とアザラシの間に飛び込み、銛を構える。そして迫る金具を弾いた。
「っ!?」
金具は海中とは思えぬほど重い勢いを持っており、銛を握る手に衝撃が走った。
勢いを失い、海底へと垂れ下がっていく金具は、直後結わえ付けられた紐によって氷の上へと引き上げられていった。
そしてすべての金具が亀裂の上に引き上げられたところで、亀裂から射し込む光に一瞬影が挟まった。
アザラシが亀裂から離れたと判断し、移動を始めたのだ。
一体どうやってアザラシの位置を探り、息継ぎのための亀裂で待ちかまえていたのか。
疑問はつきないが、あの男も十分にアザラシを捕らえることができるのだ。
(先にしとめないと…!)
ほぼ意識の外に追いやっていた男の存在を格上げし、私は成人の儀式の障害とした。
もう悠長にアザラシの癖を見抜いてなどと追いかける暇はない。
私は海の中、逃げるように速度を増したアザラシを追った。



氷の上を一つの影が滑っていた。海獣の毛皮を纏った男だ。
彼は靴の下に板を付け、なだらかな氷原を進んでいた。
彼の右手が勢いよくしなり、前方に向けて紐のついた鉤が投擲される。
鉤が氷に浅く突き刺さると、男は紐を握る右手に力を込めて引いた。
結果、男の体は前方に進む。そして投擲した鉤のすぐそばまで迫ったところで、今度は左手で鉤を投擲した。
右左右左。交互に鉤を投げては引きながら、彼は勢いを増していく。
彼が追うのは、氷の下を泳ぐアザラシだ。人の足では追いつけないが、彼の滑走ならば先回りも可能である。
先ほどはセルキーによって妨害されたが、実際待ち伏せには成功した。あとはセルキーに先を越されぬよう、アザラシが息継ぎをするであろうポイントを見定めるだけだ。
男は何十度目になるかわからない鉤の投擲を行い、再びアザラシを追い越した。アザラシの姿が見るわけではないが、逃げた方向と速度から位置はわかる。
アザラシの肺活量からすると、もう少し先で息継ぎをするはず。
そして氷のひび割れが彼の目にはいくつか見えていた。
あそこのどこかで待ち伏せをしよう。
男はたぐり寄せた鉤を氷から引き抜くと、紐を手に巻き付けて巻きとり、加速を止めた。
そして足裏の板の角度を変え、滑走の速度を落としていく。
やがて男は、氷同士がより集まってひび割れた場所で止まった。
足裏につけていた板を取り外し、氷を踏みしめる。そして腰に下げていたひも付きの鉤を数本手に取ったところで、彼は動きを止めた。
「…?」
男は延々と続く氷原の果てを凝視すると、その場にひざまづいた。そして耳を氷に押し当てる。
「…これは…」
聞こえてきた音に、男は緊張をはらんだ声を漏らした。
アザラシを狙っているのは、彼とセルキーだけではなかった。



海の中、アザラシは猛然と泳ぎ続けていた。
奴は悟ったのだ。自分を狙っているのが背後から迫るセルキーの私だけでないことに。
氷の上から襲いかかる金具は、奴の意識に深く突き刺さっていた。下手に私と応戦すれば、手負いのところを氷の上の男に襲われるからだろう。
アザラシが逃げの一手を取ってくれるのは、私にとってもありがたかった。
アザラシは海面を覆う氷に近づくと、絶対に自分が通れないであろう小さな亀裂に顔を近づけた。氷の上の男を警戒しての息継ぎだが、おかげで次にどの穴で息継ぎをするか予想がしやすい。
私は奴の位置を確認してから、頭上のやや大きな亀裂に接近した。
「ぷはっ」
海面から顔を出し息をつく。息継ぎの場所が限られている奴と違い、私は好きなときに呼吸ができる。
呼吸を制限されているおかげで、奴の動きは少しずつ鈍くなっている。この調子ならば、もうすぐ奴に追いつける。
「おい」
「ひゃっ!?」
不意に頭上から降り注いだ声に、私は飛び上がりそうなほど驚いた。
「な、何だ急に!?」
心を落ち着かせてみれば、声をかけたのは男だった。
「話がある」
「何だ?協力の話だったらお断りだ」
私が邪魔したとは言え、捕らえ損ねたことでアザラシが大きな亀裂に近づかなくなったのは彼自身のミスだ。私が奴に手が届きそうだと言うことで協力を持ちかけるとは、図々しい奴だ。
「違う。あのアザラシはあきらめるんだ」
「何だと?」
彼の言葉に、私は耳を疑った。
「あのアザラシを追っているのは俺たちだけじゃない。アレがアザラシに目を付けた以上、俺たちにできるのはあきらめることだ」
「何をバカなことを…」
「まじめな話だ。相手はペンギンだぞ」
「ペンギン?」
その名前は話に聞いたことがある。確か、氷の上に暮らす鳥で、よちよちと歩くか泳ぐことしかできないという。
そんな鳥がアザラシを狙っているから、あきらめろ?
「冗談はやめろ」
「冗談じゃない。本気だ」
「わかった。だったらお前だけがあきらめろ。私は奴を追う」
そろそろアザラシも息継ぎを終えた頃だろう。つり上げられたときのように、無駄な時間を過ごすつもりはない。
「お前はペンギンでも怖がっていろ。私は行く」
「おい、待て!」
男が私を呼び止めようとするが、私は無視して水中に頭を沈めた。
見ると、既にアザラシは移動を始めていた。しかし蓄積された疲労のためか、その動きはかなりゆっくりになっている。この調子なら、すぐに追いつけそうだ。
氷原の縁から追跡を始め、かなり奥地まできてしまった。だが、ようやく奴をしとめることができるのだ。
肉付きのよい体を包み込む灰色の毛皮。濃淡が水玉模様を描くその毛並みで自分の体を覆うことを思いうかべ、私は期待に胸を高鳴らせた。
そして、手を伸ばせば尾鰭に手が届く。そこまで距離を詰めたところで、奴が息継ぎのためか浮上した。
奴が近づくのは、私の手のひらほどの大きさの亀裂だった。
辺りに他に亀裂はなく、私が息継ぎすることはできない。どうやら、自分だけ息継ぎをした上で、呼吸が詰まりつつある私と戦うつもりらしい。
疲労しきったアザラシと、息継ぎが必要な私。奴は実力が逼迫しているつもりなのだろうが、私が負けるとは思えなかった。
そして、氷の亀裂から降り注ぐ光に奴が顔を近づける。すると、奴の顔を照らしていた光が不意に消えた。
氷の上に何かがいるのだ。その事実に思い立った瞬間、手のひらほどだった亀裂が一気に広がった。
氷の破片をまき散らしながら海中に飛び込んできたのは『手』だった。
骨ばった、鱗と鉤爪の生えそろった四本の指が、大きく広がりながらアザラシの頭をつかむ。そしてようやく私の頭だけが通りそうな大きさに広がった亀裂から引きずりださんと、アザラシを引き上げた。
でっぷりと太ったアザラシの体が氷にぶつかる。だが氷を強引に割りながら、アザラシの体が引き上げられていく。
「…!」
氷の破片でアザラシの毛皮が傷ついていく様子に、私はアザラシを引き戻そうとその体にしがみついていた。
だが、私が下半身を操って深く潜ろうとする抵抗もむなしく、私ごとアザラシの体が引き上げられた。
冷たい海水の代わりに、冷気に満ちた風が私の体をなで回す。そして一瞬の浮遊感を経て、私は氷に叩きつけられた。
「…っは…!」
衝撃に肺から息が絞り出される。だが痛がっている暇はない。
私は、痛みを堪えつつ身を起こし、アザラシと私を引き上げた何かを見据えた。
そこにいたのは、見上げるほど巨大な何かだった。
鱗が生えそろい、湾曲した鉤爪を備えた二本の足がどこまでも続いており、ぺったりとした羽毛が覆う楕円球状の胴体につながっている。そしてまた長い首が続いて、大きなくちばしを備えた顔が鎮座していた。顔の両側には感情の一切宿っていない、ガラス玉のような目がはまっている。
鳥、なのだろうか?だが胴体に翼のような物はなく、氷を踏みしめる両足は走るのに特化しているようだった。
『鳥』は海中から引き上げたアザラシの頭に爪を食い込ませたまま、顔を横に向けてじっとこちらをみていた。
アザラシはぴくりとも動かない。『鳥』の爪が頭部の毛皮と頭蓋骨を貫いてしまっているからだ。
私は『鳥』の目を見たまま、身動きがとれなくなっていた。『鳥』は私を観察しているのだ。氷の中から引きずりあげたアザラシにひっつく私が何なのかを。自身の獲物を狙うこそ泥か、奇跡的な幸運で手に入れた餌なのか。
少なくとも、自身の命を狙う敵だとは思われていないようだ。
「こ…この…!」
私はガラス玉のような目玉に飲まれそうになっていた心を奮い立たせると、銛を握りなおした。こちらには武器がある。奴のただ鋭い爪や、大きな嘴など怖くない。
すると『鳥』は、アザラシに食い込ませていた指をゆるめた。にちゃり、と粘っこい音を立てながら爪が引き抜かれる。爪の先端から半ばまでが赤く濡れており、アザラシの体温の残滓によって緩やかに湯気をくゆらせていた。
「ケ、ケ、ケ、ケ…」
『鳥』の嘴が開き、笑い声のような音が響いた。威嚇音なのだろうが、私には『鳥』が笑っているように聞こえた。
『お前もこうしてやる』
足下のアザラシを貫いていた爪を示しながら、『鳥』はそう言っているようだった。
「この…!」
雰囲気に飲まれてはいけない。相手は鳥だ。それも、魔物ではないことが明らかな、ただの鳥だ。
魔物の私と鳥。その勝敗は明らかだ。
私は自分を奮い立たせると、手にした銛を繰り出すべく、腕をたわめて引き絞ろうとした。
しかしその瞬間、軽く持ち上げられた『鳥』の足が揺れた。『鳥』がなにをしたのか、なにをするつもりなのかさっぱり予想もつかなかったが、私の体はとっさに反応していた。
私と『鳥』の間を隔てるように、両手で銛をかざす。すると衝撃が私の両腕を襲い、私の体が宙を舞った。そして数度氷の上に叩きつけられ、しばらく滑ってからようやく止まる。
『鳥』に蹴られて吹き飛ばされたときがついたのは、動きが止まってからだった。
「つ…う…!」
鈍痛と衝撃の余韻に意識を揺さぶられながらも、私は身を起こした。
首を巡らせて『鳥』を探すと、会話するには多少大声にならなければならないほどの距離のところにいた。私を蹴って、その反動で退いたのではない。『鳥』の足下に転がるアザラシが、私だけが蹴りとばされた事実を示していた。
距離はまだある。体勢を立て直さなければ。
「この…っ!?」
銛を構えようとしたところで、私は両手の違和感にようやく気がついた。手にしていた銛が、半ばほどで二つに折れてしまっているのだ。
鳥の蹴りの直撃を受けていれば、銛の代わりに私の方が二つになっていたかもしれない。
反射的に防御できた幸運と、銛が折られて射程が短くなった不運。二つは等価に見えるが、私が不利な状況に追い込まれつつあるのは明らかだった。
だが、この場から逃れようにも氷の亀裂は唯一、『鳥』がアザラシを引きずり出した物しかなかった。『鳥』の懐に飛び込んで穴に逃げるか、『鳥』をおびき寄せて穴から距離を取り、隙をついて飛び込むか。
「…!だめだだめだ…」
私はいつの間にか、この強敵から逃げようと考えている自分に気がつき、頭を左右に振った。
弱気になってはいけない。それに私の狙っていたアザラシは奴の足下にあるのだ。
逃げることよりも、この『鳥』を片づけてアザラシを手に入れる方法を考えなければ。
だが顔を横に向け、ガラス玉のような目をこちらに向けたまま軽く片足をあげる『鳥』を相手に、なにをどうすれば勝てるのか私には思いつかなかった。
「…ケ、ケ、ケ、ケ…」
『鳥』は笑うと、血の付いた足を氷の上におろし、私に向けて一歩ずつ近づいてきた。湾曲した鋭い鉤爪が氷に食い込み、細長い足の上の巨体がバランスを崩さぬよう耐えていた。
一歩、また一歩と距離が縮まり、視界の中の『鳥』が見る見るうちに大きくなっていく。
だが私は『鳥』に挑むことも、『鳥』から逃げることもできず、ただ接近する巨体を睨むつもりで眺めていることしかできなかった。
そして、手を伸ばせば届きそうな場所で『鳥』が足を止めた。氷を踏みしめていくらか汚れの拭われた鉤爪が、ゆっくりと持ち上げられる。
この距離ならば、折れた銛でも奴に突き立てることができる。穂先のない方も折れ口がかなり尖っているから、力を込めれば突き刺さるかもしれない。だが、そんな攻撃をすれば反撃されてしまう。じっとしていれば、『鳥』は見逃してくれるかもしれない。
鉤爪の生えた足に頭を掴まれそうになりながらも、私はそんなことを考えて逃避していた。
しかし『鳥』の足が私の頭に触れようとしたところで、不意に動きを止めた。
「ケ…」
顔を横に向けたまま、『鳥』の視線が私から外れる。
そして短い鳴き声とともに、軽く頭を見回した。この氷原に何かいるのだろうか。『鳥』と私とアザラシのほかに。
すると不意に、私の視界の橋で何か白い物が動いた。
「動くな!」
短く、力のこもった声が響く。そして私が声の方向に顔を向けるより先に、『鳥』の足に湾曲した金具が引っかかった。
『鳥』の鉤爪のように曲がり、返しのついた先端を鋭く尖らせた金具。そこから続く紐をたどると、そこには男がいた。
私と同じくアザラシを追い、途中でアザラシを諦めろと言った男だ。
「ケ…!」
「せいっ!」
鳥が足を動かすよりも先に、男が全身で紐を引いた。すると『鳥』の足に引っかかった金具がその巨体を引っ張る。重心位置がずれ、氷に爪を食い込ませて保たれていた『鳥』のバランスが崩れた。
「ケッ!」
『鳥』が短く声を漏らし。転倒せぬよう上げていた足をおろした。鳥の鳴き声には明らかに動揺が混ざっていた。意識のどこかでいつの間にか負けを認めていた私の胸に、かすかな希望が生まれる。
「距離を取れ!」
「っ!」
男が作りだした『鳥』の隙に、私は氷の上を転がって『鳥』から離れた。
そして鳥を挟んで男と反対の位置で、私は姿勢を整えた。
「おい!何だこの鳥は!」
おそらく隠し持っていたであろう大きな白い布をマントのように羽織り、氷に姿を紛れ込ませていた男に向け、私は声を上げた。
「ペンギンだ」
男は『鳥』を睨み付け、全身を緊張させたまま答えた。
「氷の上に住む、極北ペンギンだ。氷の上をその強靱な爪を使って走り回り、息継ぎをしようと海面に近づいた海獣を捕らえて食らう」
「そんな生き物聞いたことない!」
「当たり前だ。極北の奥地にしか生息しないからな。俺も見るのは初めてだ」
男は腰から下げていた金具を二つ手に取ると、紐を使ってだらりと垂れさせた。
そして両腕を動かし、紐を振り回して金具を回転させる。金具が空を切る、鋭く高い音が響き始めた。
「ケ、ケ、ケ、ケ…」
威嚇音のようにも聞こえる風切り音に対し、極北ペンギンは氷を踏みしめて彼の方に向き直った。
ちょうど、私に対して完全に背を向ける形だ。極北ペンギンは私を敵として見なしていない。
実力が及ばないことに対する悔しさが、私の胸に芽生えた。しかしその一方で、油断しきった極北ペンギンに有効な一撃を咥えられるのではないかという期待も芽生える。
「…」
「動くな!俺がどうにかする!」
銛を握り直したところで、男が声を張り上げた。同時に彼の腕が跳ね、回転させていた金具を投擲した。
「ケ!」
極北ペンギンは声を上げると、身をくねらせて迫る金具をかわした。しかし男が回転させていた金具は一つだけではない。もう片方の手で振り回していたそれを、男は極北ペンギンが身を避けた先に放っていた。
金具がまっすぐに極北ペンギンに接近する。ガラス玉のような目がその動きを捉え、全身に命令を下した。氷を踏みしめる足を一瞬たわめ、氷原を蹴って跳躍したのだ。
見上げるような、男よりも一倍半は大きな極北ペンギンの巨体が宙を舞い、男の投げはなった金具が空を切る。金具はしばし宙を舞い、私の住ぐそばの氷にその先端を突き立てた。
これでは紐を巻きとって金具を回収することもできない。男の失敗に私は肝を冷やす。しかし彼は氷に突きたった金具と自身をつなぐ紐を握りしめ、力を込めた。すると彼の体が氷の上を滑り、極北ペンギンの足の下に迫る。急接近する男に極北ペンギンは何もできず、ただ足の下を彼にくぐり抜けさせた。
「ふぅ…っ!」
男が吐息とともに滑走の勢いを弱め、氷に突きたった金具を思い切り踏みしめた。浅く引っかかる程度だった金具が、深く氷に突き刺さる。
そして握りしめた紐の反対側、先ほど投げはなった最初の金具を行きおいよくたぐり寄せる。そして回収の際の勢いを殺さぬよう、腰から銅、銅から腕へと全身をしならせつつ、彼は極北ペンギンに向けて金具を投擲した。
極北ペンギンが跳躍を終え、氷の上にいきおいよく着地すると同時に、金具がその銅に食い込む。
「ケェッ!?」
羽毛を貫き体に食い込む金具の痛みに、極北ペンギンが鳴き声を上げた。
しかし男はダメージを与えたことに対する喜びもなく、手早く紐をぐるぐると巻いて結び目を作り、長さを制限した。
そして彼の手が新たな金具を手に取ると、ひゅんひゅんひゅんと数度回転させて加速させ、極北ペンギンに向けて投擲した。金具の食い込む痛みに混乱しているのか、奴は逃れることもできず二つ目の金具を体に受ける。
男は、紐を握りしめたまま氷の上を駆け抜け、別の場所で紐の反対側に着いた金具を足下に落とすと、再び強く踏みしめて打ち込む。
極北ペンギンが身動きすれば、食い込む金具が苦痛を生み出す。少しずつ、極北ペンギンは追い込まれつつあった。
だが、二本の金具を引っかけ、三本目を手に取った男の表情はまだ硬かった。
「ケ…!」
男の緊張に呼応するように、極北ペンギンが一つ鳴き声を上げる。そして自身を氷の大地につなぎ止める紐の一つに足をかけた。
「ケェ…!」
絞り出すような鳴き声の直後、ぶつりという音が響き、ペンギンの体から金具が外れた。返しの先端には肉と羽毛がついている。
「く…!」
男が手にしていた紐を回転させ、金具を加速させた。今度はもっと深く食い込ませるためだ。だが、その勢いをつけるためのわずかな時間を使って、極北ペンギンはもう一本の金具を外しにかかっていた。
痛みが怒りを増幅させ、奴の殺意を膨れ上がらせていく。
食い込む金具を引き抜き自由を得たら、真っ先に踏み殺してやる。そんな感情が、ガラス玉のような目玉から滲んでいるようだった。
仮に私に向けられていたとしたら、身動き一つとれなくなるほどのむき出しの殺気。しかし、実際にその殺気が向けられているのは男の方だ。
だから私は動くことができた。
「くらええええっ!」
完全に男の方に意識を向けていた極北ペンギンに向け、私は声を上げながら飛びかかった。
海中を勢いよく進むため発達させた下半身が氷を蹴り、私の体を宙に舞わせる。そして私は迫る極北ペンギンの胴体に、手にしていた銛を思い切り突き立てた。
「ケェェェッ!?」
鈍い手応えの直後、甲高い鳴き声が辺りにとどろく。私は銛を手放して極北ペンギンの足下に降りると、氷をかいて滑り、その足に踏まれぬよう距離を取った。
銛の突き刺さった傷口から血があふれ、氷に滴り落ちていく。貫通こそしなかった物の、そこそこの深手を負わせることができたようだ。だが、極北ペンギンをしとめるには至らなかった。
「エルシ!よくやった!」
男はそう私の名を呼ぶと、続く言葉とともに手にしていた金具を投擲した。勢いをつけた金具は極北ペンギンに突きたった銛の柄に引っかかった。
返しのついた金具が木製の柄に食い込み、その柄はさらに極北ペンギン自身に突き刺さっている。
これならば、多少力を込めたところで外れることはないだろう。男は極北ペンギンをつなぎ止めるべく、三つ目の金具から続く紐の反対側を氷に打ち込んだ。
金具と紐により身動きはとれず、銛によってじっとしていても徐々に血が流れ出ていく。もはや極北ペンギンに勝ちの目はなかった。
しかし、念には念を入れるつもりなのか、男は四本目の金具を手に取った。
幾分余裕の表情を浮かべながら金具を回転させて勢いをつけ、極北ペンギンに向けて投擲する。極北ペンギンの銅に引っかかるか、銛に引っかかるか。いずれにせよ、完全に動きを封じ込められるはずだった。
極北ペンギンが首をひねり、その嘴で金具を捕らえなければ。
「しまっ…!」
嘴の縁に金具が引っかかったことに男が声を漏らした。そして彼が紐の反対側の金具を氷に打ち込むよりも、紐から手を離すよりも先に、極北ペンギンは勢いをつけて首をそらし、嘴に引っかかる金具と紐を引いた。
結果、体重と力の差により男の体は氷の上に転げ、極北ペンギンの方に向けてたぐり寄せられることとなった。そして足下に転げた男の銅に向けて、極北ペンギンはすくい上げるような蹴りを放った。
「ぐぁ…!」
男が声を漏らしながら宙を舞い、氷に叩きつけられる。身を起こそうと彼の手が氷につくが、力が足りないのか体を支えるには至らなかった。
「ケェ!」
極北ペンギンがもう一度鳴き声を上げ、再び首をぐいとそらして嘴に引っかかる金具と紐を引く。
男は意識が揺らいでいるためか手に絡み着く紐をほどくこともできず、再び鳥の足下へと手繰り寄せられることとなった。
そして今度は、極北ペンギンは足を持ち上げた。自身の体重をかけた踏み下ろしを、男にかけるつもりなのだ。
男が死ぬ。そして遅れて極北ペンギンも命を落とす。その結果、私だけが生き残る。
そんな考えが浮かぶよりも先に、私の体は動いていた。
両手で氷を思い切り掻いて、転がる男に向けて突進する。そして男に半ば体当たりするようにして、鉤爪の生えた足の下から彼の体をどかした。
直後、極北ペンギンの足が思い切り氷の上に踏みおろされた。私の手のひらほどの大きさの亀裂を力で広げ、そこから無理矢理アザラシの巨体を引きずり出すほどの脚力を備えた極北ペンギンの足が、氷を思い切り打つ。
結果、氷がみしりという音を立て、ついに割れた。
「ケ…」
極北ペンギンが声を漏らしかけるが、それが悲鳴なのか何なのかわからぬうちにその巨体は口を開いた氷の海に落ちていった。
極北ペンギンが軽くもがくが、ろくに浮かぶこともできないままに海の中に引きずり込まれていく。そして氷と奴をつなぎ止めていた紐がピンと張り、氷から金具が外れてペンギンの後を追っていった。
むろん、その力は男が最後にひっかけた紐に対しても及んだ。
「うお…!?」
男の手に絡み着く紐がすさまじい力で引っ張られ、私の体ごと氷の海に引き寄せられていった。
白い氷に開いた真っ黒な亀裂に落ちるまいと私は踏ん張ろうとするが、それ以上の力で引き込まれていく。そして、極北ペンギンの後を追うように、私と男の体も冷えきった海水に落ちた。
「うわぶ…!」
ろくに心の準備もできないままに海に落ちたことで、私は軽くむせた。
しかしその間にも、極北ペンギンの体は海底に向けて沈んでいく。あの巨体は鉄でできているのではないのだろうか、と疑いたくなるほどの勢いだ。そして沈降の勢いは男にも及んでおり、彼もまた海底を目指していた。
(この…!)
私は男の手に触れると、絡みつく紐をほどいた。そして男の体を抱え、今し方できたばかりの巨大な氷の亀裂に向けて浮上した。
海面から顔を出す瞬間、私はひときわ強く下半身を操り、勢いよく表情に飛び出した。
男を氷の上に横たえ、声をかける。
「大丈夫か!?」
しかし返事はなかった。無理もない。極北ペンギンの蹴りを一度受け、さらに冷えきった海に落ちたのだ。衝撃で意識のゆるんだところに冷たい海水が触れて、彼の命の灯火は消えかかっていた。
「何かないか…?」
私は男の持ち物を探すが、どうやら身につけているずぶ濡れのものですべてらしい。
早く濡れた傍観具を着替えさせないと危ないというのに。
「…あった!」
極北ペンギンを前に飛び出してくれた恩人を救わなければ。という考えでいっぱいになった私の目に、あるものが映った。それは氷の上に倒れ伏す、アザラシだった。
極北ペンギンの爪が食い込んでいた頭部の穴から溢れ出す赤い液体は、かすかに湯気を立てていた。つまり、アザラシの体はまだ暖かいのだ。
私は男を抱えたままアザラシのそばに近寄ると、男の体を探った。すると彼の懐から小さな刃物が一本でてきた。男のナイフを借りると、私は迷うことなくアザラシの毛皮に切れ込みを入れた。
灰色の毛皮が左右に開き、湯気が立ち上る。私は男の濡れた防寒着を脱がせると、まだ体温の残るアザラシの中に彼を押し込んだ。
アザラシの体は十分大きく、男がすっぽりと入るほどだった。だが、アザラシの体温の残滓だけではいずれ冷えきってしまう。もう一つ熱源がなければ。
「そうか、私が暖めてやれば…!」
私は体を覆う毛皮を脱ぎ捨てると、男に覆い被さるようにアザラシの中に入った。
ぬるりとアザラシの内蔵と体液が肌をぬらし、体温の残滓が私を包み込む。しかし一緒にアザラシの中に入る男の体は、氷の固まりかと思うほど冷えていた。
私は彼の体を抱きしめると、肌を擦って暖めようとした。アザラシの体液が絡み合い、にちゃにちゃと音を立てる。
「う、うぅ…」
「っ!しっかりしろ!」
低くうめいた男に、私は声をかけた。だが彼は本当にうめいただけらしく、それ以上の反応を返さなかった。
死なせるわけにはいかない。濡れたアザラシの中で、私は必死に彼の体を温めようと、手だけでなく全身を擦りつけさせていた。
だが、体温をこれで維持してやったとしても、極北ペンギンに蹴られた負傷が心配だ。こうしている間に手遅れになるかもしれない。
早く治療の心得のある者のところにつれていかなければならないが、私が外にでれば彼は冷えてしまう。
「…仕方ない…」
私は、一瞬だけ迷ってから一つの方法を採ることにした。男の生命力を強め、負傷と低体温の二つから救い出す方法だ。
それは、男と私が交わると言うものだ。
人間の男と交わることにより、魔物は精を得ることができる。一方男の方も、魔物と交わることで生命力や魔力などいろんな物を得ることができる。
つまりこのまま私と彼が交われば、彼に生命力を与えることができるのだ。
「…許してくれ…」
私は届かぬ言葉をかけてから、彼の唇に自身のそれを重ねた。
熱を生むために男に触れさえていた手のひらを、彼自身を感じるために撫で回すように動かす。そして男のむき出しの下腹と、自分自身の下腹を押しつけた。
普段はアザラシの毛皮に覆われている私の下半身、両足の代わりに魚のようなそれと人のような上半身の境界に刻まれた女陰が、男の肉棒にあたる。冷えて縮こまったそこを、やや軟らかな肉が圧迫した。アザラシのぬるつく体液が滑りをよくし、にゅるにゅると彼の肉棒を擦る。
すると、男の股間が徐々に勃起していくのが感じられた。生命の危機に瀕した肉体が子孫を残そうとしているのか、私の抱擁に彼自身は無意識ながらも反応しているのか。どちらかはわからないが、彼と交わる準備ができつつあることに変わりはなかった。
私の方が腰をつきだし、肉棒に女陰を押し当てるようであったのが、いつしか屹立の方から私の亀裂を圧迫するようになっていた。彼のそこは、冷えきった海に落ちたとは思えぬほどの熱を帯びていた。
「これで…」
アザラシの体内に入っているためどうなっているか見えないが、私は体の感覚だけを頼りに屹立を女陰に触れさせた。単に亀裂に押し当てるのではなく、亀裂の奥へと受け入れるためだ。そして少しだけ彼の腰に触れた手に力を込めると、屹立が私の中に入ってきた。
「ん…!」
腹の奥が押し広げられる感覚に、小さく息が漏れてしまう。多少の痛みはあるが、耐えられないほどではない。私はゆっくりと彼を根本まで受け入れた。
「はぁ…入っ…た…!」
異性の生殖器が胎内に入っている。改めて私と男が交わっているという事実を、私は感じていた。
私の中で肉棒がびくびくと脈打ち、彼の命の鼓動を伝えてくる。
彼は生きている。生きて私の中に入っている。
そう懸命に主張する屹立の感触に、私は愛しさを覚えていた。
「このまま…んっ…!」
肉棒の感触を味わいながら小さく身じろぎすると、私の下腹を小さなしびれがおそった。屹立の凹凸が胎内の粘膜を擦る感触による物だ。
その甘い痺れは私の意識に染み入り、もう一度だけ味わいたいという欲を芽生えさせた。
男の命を助けるため。そう自身に言い聞かせながら、私はもう一度腰を揺する。ぬめる膣壁を肉棒の凹凸が擦り、私の背筋をゾクゾクとふるわせた。寒さによる物ではない、心地よい震え。
私の内側から男の命を救うという目的が吹き飛んだ。もう少しこの心地よい屹立を味わいたい。その一心で体が動く。
「く…ん…ぅ…!」
吐息とともに小さく喘ぎ声が溢れ、体が小さく震える。
私の胎内で彼の肉棒は脈動を強め、熱を帯びていった。女陰の中で屹立が破裂してしまうのではないか。そんな考えが浮かぶほど肉棒は猛り、私の背筋は期待によって痺れた。
そして、しばし体を揺すり続けたところで、腕の中の彼の体に力がこもった。
直後、私の胎内に肉棒の帯びていた熱と同じ体液が迸った。女陰の内側を熱する粘つく液体の感触に、私の意識の底で火花が散る。
「んぃっ!?」
裏がえった声とともに背筋がそり、私も一拍遅れて絶頂した。
胎内を命が満たしていく。その幸福感が、私を染めていった。



延々と広がる表現の一角、不意に大きく口を開いた氷の亀裂のそばに、大きなアザラシが転がっていた。
アザラシの近辺の氷は赤く染まっており、もはやアザラシが生きていないことを示していた。
しかしその亡骸の中で、二つの命が息づいていた。
セルキーと男の二人だ。
「ん…」
セルキーが悩ましげな吐息を漏らし、まどろみの底から意識を浮かび上がらせた。
にちゃつくアザラシの中で、男と抱き合っている。その状態に彼女は取り乱すことはなかった。
「はぁ…やはり、精はすごいな…」
彼女は自身が凍傷はおろかしもやけ一つできておらず、眠る男の呼吸が穏やかなのを確認するとそう呟いた。
氷の上で、アザラシの亡骸に包まれているとはいえ、ぐっすり眠り込むなど自殺志願の行い以外何物でもない。だというのに魔物のである彼女が人間の男と交わり、精と魔力を交換するだけで命を長らえたのだ。
「う…うぅ…」
そんなことを考えていると、男が目を覚ました。
「目が覚めたか?」
「何だ…何が…」
「お前は極北ペンギンに蹴られ、海に一度落ちたんだ。体を温めるため服を脱がせて一緒にアザラシの中に入ったが…痛いところはないか?」
「………いや、どこも痛くない」
彼女の説明に男はしばし沈黙すると、そう返した。
「よかった」
「それより、極北ペンギンはどうした?」
「お前を踏みつぶそうとして氷を割って、沈んでいったよ」
「そうか…それならよかった…」
男は心底ほっとしたようにそう漏らした。
「それでだ…何であの時、助けてくれたんだ?」
彼女はひとまず男が落ち着いたところで、胸に抱いていた疑問を口にした。
「一度はお前の警告を無視したというのに…」
「それは…何でだろうな?」
男はわずかに苦笑しながら答えた。
「アザラシを追っているという点ではライバルだったが、極北ペンギンに襲われるのを見過ごせるほど嫌いじゃなかった、ということだろうな」
「そうか…」
自分に対する特別な感情を期待していた彼女は、少しだけがっかりしたように呟いた。
「どうした?」
「いや…このアザラシのことで、少しな…こいつをしとめたのは極北ペンギンの奴だが、奴からアザラシを奪い返すにはお前の協力が必要だった」
彼女は言葉を切ってから続けた。
「私の一族の掟では、基本的に成人の儀式のアザラシ狩りは一人でやらねばならないんだ。だが、特別に協力が認められる場合もある」
「それは?」
「協力するのが夫か、そうなる予定の男の時だ。こうして裸で抱き合ったから夫婦、というわけでもないし…このアザラシはお前に譲るよ…」
「なぜだ?お前の協力もなければ、極北ペンギンはしとめられなかったぞ?」
心底不思議そうに、男が尋ねた。
「だから、一族の掟で協力が認められるのは…」
「夫かそうなる予定の男が協力するときだけ、だろう。それとも何だ、俺を夫にするのがイヤなのか?」
「…は…?」
彼女は自分の聞いた言葉が理解しきれず、思わず声を漏らした。
この男の言葉は、まるで彼自身は夫婦となることにやぶさかではないとでも言っているようだ。
「イヤ待て、でもお前さっき私を助けたのは、あまり嫌いじゃないからとか…」
「確かに嫌いではないと言ったが、好きではないとは言ってないぞ。互いに好きあうのは夫婦になってからでもいいじゃないか」
「いや、あのその、いや…」
確かにその通りだが、となぜか舌の回らない彼女は男の言葉に胸の中で抗議する。
「俺は、お前がいなければこのアザラシはしとめられなかったと思っている。それに極北ペンギンに食われるのを見逃せるほど嫌いでもない。あってから何日も経ってないのに、俺の中でお前は大切な存在になっている」
男は彼女の目を見つめながら続けた。
「俺に、お前がどこまで大切になれるか、試させてくれないか?」
「………私にも、試させてくれるのならな」
彼女は小さくうなづいてから、ようやくそう返した。
成人の儀式の成功の喜びより、彼女の中では訳の分からない感覚の方が大きかった。

13/05/29 21:08更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
極北ペンギンは、俺が考えた最強の動物なんだ。
一年中冬の極北海に浮かぶ巨大な氷の塊の上に生息しているんだ。
身長3mぐらいのダチョウみたいな鳥で、両脚の巨大な爪が特徴だ。体を覆う羽毛はぺったりとしており、皮膚や毛穴から分泌される脂で羽毛同士がくっついて天然の防寒具になるんだ。
爪は氷にがっちりと食い込むよう分厚く頑丈で、腱で足の指の筋肉や骨格と接続されているんだ。爪と言うより骨の一部が露出しているような感じだ。
しかも爪は固い表面とやや柔らかい芯の二重構造で頑丈なんだ。まるで歯だよ。
極北ペンギンは身長と頭の左右に着いた眼を利用して、氷の上に点在する亀裂を監視するんだ。アザラシといった海獣が顔を出すのを見ると、そちらの方に走って移動して次の息継ぎを待つんだ。
アザラシが待ち伏せしている穴に接近したら、脚力と爪でアザラシの頭を掴んで引きずり出すんだ。
そしてはじまるモグモグタイム。
極北は餌が無いため、食べられる時に食べないといけないんだ。だから極北ペンギンは、アザラシを丸ごと食べる。骨も毛皮も。
極北ペンギンの強靭な消化器は骨も毛も全部溶かして栄養にしてしまうんだ。カルシウムは骨を強くするのに使うし、毛皮からはたんぱく質を抽出できる。
アザラシには捨てるところが無いんだね!
ただ極北ペンギンにも弱点がある。空を飛べないことと泳げないことなんだ。
極北ペンギンの骨は鳥類にしては異常なほど密度が高いし、その全身の筋肉のお陰で見かけよりも重いんだ。だから氷の海に落ちると浮かぶこともできず溺死か凍死するんだ。
でも極北ペンギンが泳げてあちこちに行けるんだったら、大変なことになってたね!

そんなどうでもいい生き物が出て溺凍死する話でした。

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