連載小説
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(117)ワーム
燦々と輝く太陽の下、荒れ地を馬車が列をなして進んでいた。砂漠を渡るための隊商だ。
乾いた風が馬車の幌を撫でる。
日差しと相まって、強烈な熱と乾きが馬たちを襲う。
しかし、馬は皆涼しげな顔をしており、どうということもないようだった。
それもそのはず。馬たちの首には、冷気の魔法が込められた首輪がつけてあるからだ。
氷結結晶、氷精霊の欠片、極北石。呼び名は様々だが、砂漠の日差しの下でも快適に過ごせる効果に変わりはない。
無論、首輪にはそれなりの価値があり、すべての馬に首輪をつけさせているこの隊商はそれなりの財力があることを示していた。
幌に描かれているのは、図案化された三つ叉の根を持つ樹木だった。
それが、この隊商のシンボルだ。
荒れ地の上を進む馬車の一つ、一際立派な作りの馬車には、見張り台が備えてあった。
台の上には小柄な男が乗っており、遠眼鏡を手にあちこちをみていた。
「ん・・・?」
ふと男が声を漏らした。隊商の右後方に、小さな土煙をみたからだ。
いや、土煙が小さいのではない。距離が遠いのだ。
「土煙!土煙!」
小男は遠眼鏡を目から離すと、けたたましく鐘を打ち鳴らし始めた。
鳴り響く警鐘に馬はいななき、御者は手綱を引いて馬が暴れぬよう押しとどめた。
「なにが来た?」
一際立派な馬車の幌の中から、男が顔を出した。
「土煙です!ワームのようです!」
「よし・・・速度をあげて、前進を続けろ」
小男の報告に男がそう命ずると、小男は鐘を独特のリズムでたたき始めた。
隊商全体に、鐘の音で符号化された男の命令が伝わり、御者がそれに合わせて手綱を操る。
馬たちの足が速まり、隊商全体の動きが加速していく。
しかし、それでも右後方の土煙の速度には及ばず、徐々に距離を詰められていた。
「土煙、追ってきます!」
「よし・・・八番の二号を準備させろ」
男の言葉を、小男は鐘の音に変えて、隊商に響きわたらせた。
すると、隊商の後ろの方を進んでいた馬車の、後部の幌が開いた。
馬車の中にいた男たちが、人ほどの大きさの包みを抱え、何かを待っていた。
「・・・今だ」
男の言葉に小男は鐘を強くたたき、鳴り響いた音に合わせて、馬車から堤が投げ落とされる。
包みは地面の上を数度はねると、そのまま隊商から取り残されていった。
「・・・土煙、進路をそらしました!」
「そうかそうか。だが、もう少し走らせておけ」
当面の危機が去ったことに小男は胸をなで下ろしたが、男はどうということもない様子でそう命じた。
「しかし・・・中身は少しかわいそうですね」
「かわいそう?このトリフィートにいて、今更そんなことをいうのか。おもしろい冗談だ」
男は、わははと口に出して笑った。
「いいか、俺たちはあのワームと取引をしたんだ。商品と引き替えに、ワームから今一瞬の安全を買ったのだよ」
「いや、でも・・・」
「何だ?商品と引き替えに金をもらうのはいいが、見逃してもらうのはだめだとでも?」
「いえ・・・そういう訳ではなくて・・・」
「いいか、俺たちはこんなところでくたばる訳にはいかないんだ。俺たちの商品は教団からも魔物からも求められているんだ。俺たちがくたばったら、誰が商品を届けるんだ?」
「わ、わかりましたって・・・」
徐々に熱のこもる男に、小男はそう応じた。
「わかったならいい。もう二十分ほど走らせてから、速度を落とさせろよ」
男は満足したように小男に命令すると、幌の内側へ引っ込んでいった。
「はぁ・・・」
見張り台に残された小男は、ため息をついた。
隊商のリーダーはなかなかご立派なことを言っていたが、実際のところ自分たちがろくでもないことをしていることに変わりはないと、小男は理解していたからだ。
扇動。誘拐。売買。
トライフィート(三本足)は、その三本の根で幹を支えているのだった。
男に女に子供。何十人もの商品を乗せた馬車は、荒れ地の上を進んでいた。




荒れ地の真ん中に、泉があった。
泉の周りには木々や草が生い茂り、乾いた土地に一服の涼をもたらしていた。
そして、泉の一角に木と石を積み重ねて造った小屋があった。
小屋の中に目を向けると、部屋の一つに置かれた木枠に布を張って作られた簡易ベッドに、青年が一人横になっている。
ワンピースのような、薄手の布で作られた衣装を着せられていた。だが、襟元や袖口からのぞく彼の肌にはいくつか青あざが残っており、顔にもかさぶたがいくつか張り付いていた。
「うん・・・」
青年が、眉間にしわを寄せてうめき声を上げる。
体の傷が痛むのだろうか、うなされているのだろうか。いずれにせよ、苦しげな様子であった。
すると、きぃと木々がこすれ、きしむ音を立てながら、部屋の戸が開いた。
ドアの向こうから部屋に入ってきたのは、蛇のそれよりも頑丈そうな下半身を備えた、一体のワームだった。
豊満な肉体をゆったりとした布で包んだ彼女は、手にたらいと布を持っていた。
床板の上を、ワームの下半身がずるずると滑り、やがて彼女はベッドのそばで止まった。
「・・・」
彼女はベッド脇のテーブルにたらいをおくと、布を水に浸して、強く絞った。そして、水気のわずかに残る冷たい布で、彼女は青年の額にふれた。
肌に滲んでいた汗が布に吸い取られ、残った水気が清涼感をもたらす。
「・・・うぅ・・・ん・・・」
青年が不意に声を漏らし、一瞬ワームの手が止まる。
しかし、彼女はすぐに汗を拭う作業を再開し始めた。
とんとん、とんとん、と濡れた布地が、彼の肌を清めていく。
やがて、顔の大部分を拭ったところで、青年のうめき声が大きくなった。
「う・・・うぁ・・・や、やめ・・・!」
半ば悲鳴と化した声を上げながら、青年が目を見開く。
「あ・・・あ・・・?」
目蓋の裏の景色がかき消え、替わって目に飛び込んできた小屋の天井とワームの顔に、青年が戸惑いの声を漏らした。
「目が覚めたのね」
「あ・・・俺・・・」
「起きないで、あちこち怪我がひどいから」
目が覚めたまま、ベッドに身を起こそうとする青年をワームはとどめた。
「のど、乾いてない?」
「す、少し・・・」
状況を把握しきれないまま、青年は問われるがまま答えた。
「お水持ってきてあげるから、少し待っててね」
ワームはそう青年に言うと、布をたらいの脇に置き、ずるずると下半身を引きずりながら部屋の外へでていった。
「・・・・・・」
青年はベッドに横たわったまま、部屋の中を見回した。
本当は起きあがりたいところだが、どうもあちこちが痛むせいで体が動かないのだ。
「ええと・・・ここは・・・いや、なにがあった・・・?」
ここがどこなのか、なぜ自分はここにいるのか。彼は自問したが、そう簡単に答えは浮かばなかった。
「ん、ちゃんと横になってたわね。感心感心」
開いたままの部屋の戸から、ワームが姿を現し、横になる青年に向けてそう言った。
「はい、お水持ってきたわよ」
彼女はそう言いながら青年の枕元ににじり寄るが、彼女が手にしていたのはコップではなかった。
ジョウロのような、細長い注ぎ口の付いた、手に乗るほどの大きさの器だった。
「横になったままでいいから、先を咥えて」
青年は、ワームに言われるがまま、差し出された器の先端を唇で挟んだ。
するとワームが器を傾け、彼の口中へと水を注ぐ。
ちょろちょろと、少しずつ注がれていく水を、彼はゆっくりゆっくり飲み込んでいった。
ひんやりとした液体が彼の喉をすべりおり、肉体を潤していく。
そして、ワームが器をほぼ直立させ、水をすべて飲ませたところで、青年は自分が驚くほど乾いていたことを知った。
「はい、おしまい」
青年の唇から、器の先端が引き抜かれる。
「もう少し飲みたいでしょうけど、また後でね」
「はい・・・」
喉が渇くからといって、一度に大量に水を飲んでは危ない。青年はその事実を思い出しながら、ワームの言葉に頷いた。
「ところで、名前は?」
器をベッド脇のテーブルに置きながら、ワームがふと尋ねた。
「ああ、私はメリレレル。見ての通りワームよ」
「俺は・・・ネセスです」
「ネセス君ね」
青年の名前に、メリレレルは頷いた。
「それで・・・なにがあったの?」
数度ネセスの名前を口の中で繰り返してから、ワームが問いかける。
「なにが、って・・・」
「うん、ちょっとお婿さん探しで外を移動してたら、たまたま見かけた隊商からあなたが放り出されるのが見えて・・・それも、かなり速い速度の馬車から、布でぐるぐる巻きにされたままだったから」
「ああ・・・」
ワームの言葉に、ネセスは思い出した。
気を失うまで、なにがあったかをだ。
「その・・・凶暴なワームに隊商を襲われないように、ということで俺が捨てられたんです」
「ぐるぐる巻きにして?」
「はい。何でも、ただ放り出すだけだとワームから逃げ出して、ワームの狙いが隊商に戻るかもしれないからって」
「ひどい話ねえ・・・」
受け身もろくにとれないまま、かなりの速度の馬車から放り出される衝撃を体感したネセスに、彼女の言葉は染み入るようだった。
「それで・・・俺、どうなるんでしょうか?」
ネセスは、ワームに問いかけた。
「もう、行く場所がないですから、あなたの婿でもなんでもやりますから、どうかここに」
「ちょ、ちょっと待って」
懇願を始めたネセスに対し、メリレレルは制した。
「私の婿って、急に何で・・・」
「その・・・ワームが動き回るのは相手を捜しているときで、さっきも『お婿さんを捜して』って言ってたから・・・」
「あ・・・?あ、ああー」
メリレレルは一人合点が行ったらしく、数度頷いた。
「確かに、婿探しとは言ったけど、婿は婿でも私の娘の婿よ」
「・・・娘・・・?」
「こう見えても夫がいるのよ。今ちょっと出かけてるけど、ここにあなたを運ぶのも手伝ってもらったし。それにほら」
彼女はゆったりした衣装の腹の辺りをなでながら続けた。
「まだあまり目立たないけど、赤ちゃんがいるのよ」
「そ、そうですか・・・」
ネセスは、幸せそうなワームのほほえみに、安堵と無念を覚えた。
安堵は、とりあえず見ず知らずの魔物に番にされずにすんだという安堵だった。
一方無念は、メリレレルの美貌と豊満な肉体が、すでに別の誰かのものであるという事実に対してだった。
「とにかく、あなた結構怪我してたから、ここで・・・」
メリレレルがそこまで言葉を紡いだところで、小さく戸の軋む音がどこからか響いた。
「ただいま」
「夫だわ。ちょっと待っててね」
彼女はネセスに一言残してから、ベッドのそばを離れていった。
彼女の下半身の先端が部屋の外にでていき、いくつか言葉が交わされるのが聞こえた。
「やあ、こんにちは」
そう言いながら、部屋に入ってきたのは若い男だった。下手すれば、ネセスよりも年下かもしれない、少年のような気配を残した男だ。
「目が覚めたみたいでよかった。痛むところは?」
「ええ、あちこちちょっと・・・我慢できる程度ですけど」
ワームと同じく命の恩人である彼に対し、ネセスは自然と敬語を使っていた。
「そりゃよかった。あ、いや死ぬほど痛いとか、痛くないどころか感覚もないとかに比べれば、って意味だよ?」
うっかり漏らした一言に、彼はあわてて付け足していた。
「ところで、僕はトーヤって言うんだけど・・・ネセスさんだっけ?」
「はい」
ワームから聞いたの去ろうか、ネセスは彼に首肯した。
「ここにくるまで、大変だったろう」
「・・・・・・それは・・・」
「僕も昔、ネセスさんみたいに馬車から放り出されたんだ」
低く問いかけるネセスに、トーヤはそう応じた。
「そうやって放り出されるのは、おおむね何か理由があるだろうけど、僕は聞かないよ」
「そうですか」
詮索はしない、という彼の言葉に、ネセスはほっと息を付いた。
「とにかく、怪我がよくなるまでここでゆっくりしていくといいよ」
「ありがとうございます」
「それに、メリ・・・妻が外を回っていた理由は聞いただろ?ちょっと気が早いけど、娘の話し相手にでもなってくれれば・・・」
「娘さんの?」
ネセスは、そう繰り返した。
「でも・・・娘さんってまだお腹の中じゃ・・・」
「ん?ああ、まだ紹介してなかったのか。実は・・・」
そうトーヤが言葉をつなげようとしたところ、部屋の外から床の軋む音が響き、遅れてメリレレルの声が届いた。
「あら?エミルル?なにしてるの?」
誰かに問いかけるような声の後、あけ放たれた扉の陰から小さい声が響いた。
やや高い、驚きを含んだ声だ。
「エミルル?そこにいるのか?」
妻の声と驚きの気配に、トーヤがそう振り返りながら声をかける。
すると、しばしの沈黙の後、にわかに存在感を増した扉の向こうの気配がゆっくりとにじり出た。
部屋の戸口に現れたのは、メリレレルによく似たワームの少女だった。
年の頃は、十代の前半ほどだろうか。
メリレレルによく似た顔立ちをしているが、その小柄な体は起伏に乏しかった。
「娘のエミルルです。エミルル、ネセスさんに挨拶しなさい」
「・・・・・・」
エミルルは、ベッドに横たわるネセスに向け、無言で小さく頭を下げた。
「こら」
すると、遅れて彼女の後ろに立ったメリレレルが、娘の頭を軽く小突いた。
「のぞき見だけでもみっともないのに、ちゃんと挨拶しなさい」
「・・・・・・こんにちは・・・」
母の言葉に、エミルルはぶっきらぼうにそう紡ぎ、もう一度頭を下げた。
「ええと、こんにちは」
ネセスはベッドに横たわったまま、とりあえずエミルルにそう応じた。
「妻のメリレレルに、娘のエミルル。そして名前が決まっていない娘がもう一人。これが、僕たちの家族です」
そう、トーヤは横たわる客人に向け、改めて家族の紹介をした。
「それで、ネセスさんには我が家で療養してもらっている間、エミルルの話し相手にでもしてもらおうかと」
「え?エミルルの旦那様じゃないの?」
不意にメリレレルが、夫の言葉に目を丸くした。
「いや、エミルルにはまだ早いだろう」
「私があなたと会ったときも、エミルルぐらいの歳だったけど・・・」
「だからそれがちょっと早すぎるたんだよ・・・すみません、ネセスさん。とにかく、エミルルは少々人見知りが激しいので、その解消のためにもちょっと話し相手をしてもらいたいと」
「・・・わかりました」
この怪我のまま追い出されることを思えば、完治するまで置いてもらえるのはありがたい。
ネセスはトーヤの申し出を受け入れた。
「ありがとうございます。では、食事などのお世話はエミルルにさせますので・・・」
「・・・・・・」
ネセスの世話を申しつけられたのが不満なのか、エミルルが無言で顔をしかめた。
「じゃあ、後は若い二人に任せて、ってことで・・・いくわよ、あなた」
「え、ちょっとメリ・・・」
メリレレルが一言はさみ、なにやら声を紡ぐトーヤの手首をつかむと、半ば引きずるように部屋を出ていった。
そして、彼女のしっぽの先端が、これまで開けっ放しだった部屋の戸を閉める。
すると後には、エミルルとネセスだけが取り残された。
「・・・・・・」
「・・・その、ええと・・・迷惑かけるかもしれないけど、よろしく・・・」
無言のままネセスを見つめるワームの少女に、彼はとりあえずそういった。
すると彼女は、小さく頭を下げた。
どうやらよろしく、と返してくれたらしい。
だが、それきり彼女は何もいわず、下半身を巻いて作ったとぐろの上に腰を下ろした。
そしてエミルルの視線を浴びながら、ネセスはしばしじっと過ごした。
「ええと、とりあえず今はしてもらいたいことはないから・・・自由に・・・」
沈黙と彼女の視線に耐えかね、ネセスがそう提案する。
だが、エミルルは彼の申し出に、軽く首を振った。
「だめ・・・面倒見るよう、いわれた・・・」
ぼそぼそとした小さな声ではあったものの、高く美しい声音がそう紡ぐ。
「何かしてほしいときは、声を出すから」
「だめ・・・大きな声を出すと、傷が開く」
「そんな大げさな・・・」
ネセスは苦笑した。自分の受けた傷は、打撲と擦り傷が大部分のはずだ。だから、多少大きな声を出したところで、何の問題もない。
「大げさじゃ、ない」
しかしワームの少女は首を左右に振った。
「骨にひびが入ってるから、大きな声は出せない」
「そんなことないよ、だってほら・・・あいたっ!?」
自分の怪我がそう重くないことを証明しようと息を吸うと、ネセスは銅の側面に痛みが走るのを感じた。
どうやら、あばらにひびが入っており、大きく息を吸ったことで痛んだらしい。
「いてててて・・・」
「・・・大丈夫?」
顔をしかめるネセスに、ワームは少しだけ心配そうな気配を語調に滲ませながら問いかけた。
「だ、大丈夫・・・落ち着いてきた・・・」
「それならいいけど・・・」
浅い呼吸で痛みをごまかすネセスに、エミルルは納得した。
「とにかく、今はゆっくり休むべき。そばにいるから、ゆっくり休んで」
「そう言われても・・・」
つい先ほどまで眠っていたネセスは、少しだけ困ったようにいった。
今の今まで寝ていた人間が、おいそれと眠れるだろうか。
「目を閉じてじっとしてると、いつの間にか眠ってる。」
「・・・」
ネセスはエミルルのいうとおり、天井に顔を向けて目蓋をおろした。
あちこちの痛みが意識をつつき回しているこの状態で、安らかに眠れるはずなどない。
ネセスはそう考えていたが、彼の考えに反して眠りはたやすく訪れた。

こうして、ネセスの一日目は、静かに幕を下ろした。



それから、ネセスの療養の日々が始まった。
療養とはいっても一日中ベッドで根転がっているわけではなく、トーヤかメリレレル立ち会いの下起き上がり、歩く練習をさせられた。
もっとも、全身の痛みで手足がよく動かないだけで、そう本格的なものではなかった。
最初はベッドから立ち上がる練習を繰り返し、ベッドから部屋の中を歩き回る練習から、家の中を歩き回る練習へと段階を踏んでいった。
最初の内は情けなさも感じたが、一人でトイレに行けるようになった時、彼は誰の手も借りることなく用を足せる喜びを覚えた。
そしてその一方で、エミルルと関わりあう時間が減ってきた。
ベッドから一人で身を起こせるようになった頃、食事の際のエミルルの仕事が一つ減った。
一人で立ち上がり、トイレまで行けるようになった頃、ネセスをトイレに連れていくというエミルルの仕事が一つ減った。
そして彼が一人で家の中を歩き回れるようになり、とー矢たちと一緒に食事ができるようになった頃、ネセスのところまで食事を運ぶという仕事がなくなり、エミルルはほぼ彼の世話から解放された。
そのことに対し、ネセスは内心ほっとしていた。最低限の言葉しか交わさず、接触もなるべく避けてるようなエミルルの様子に、ネセスは彼女が自分をあまり好いていないと感じていたからだ。こうして、接触の機会が減るのは、彼女にとっても彼にとっても気が楽になる。
「さて、ネセスもだいぶ調子がよくなったみたいだし、少し僕の仕事を手伝ってもらおうか」
ある日、朝食を終えたころ、トーヤがそうネセスに言った。
「このあたりはオアシスで、水が豊富にあるんだ。それを利用して果物を何種類か作って、近くの町の市場に卸してるんだ」
「それで、果物の収穫を手伝ってほしい、と?」
「その通り」
トーヤが頷く。
「といっても、ハサミでいい感じに熟した果物を採るだけだから、そこまで重労働じゃないよ。ほら、付いてきて」
トーヤは籠を担ぐと、そうネセスを家の外に連れ出した。
家の周りを囲む木々や草を抜けると、オアシスを囲むように低木が並んでいるのが見えた。
数十本の木々の枝は広く張っており、黄色みを帯びた楕円形の果実が実っていた。
「これは?」
「マルケロという果物だよ。そのまま食べてもおいしいし、もう少し熟れた果肉を樽に入れておくと、香りのよい酒になるんだ」
「へえ・・・」
ネセスは感心したように声を漏らした。そんな果物は聞いたことがないからだ。
果物を使った酒としてはワインがあるが、ワイン用のブドウは食べてもそこまでおいしいものではないと聞く。
「とりあえず今日は、ここからあっちの木までのマルケロを収穫してもらいたいんだ。明日、市場に行くからね」
「分かりました」
「じゃあ、籠とハサミはこれを使って」
家から持ち出し、担いでいた籠の一つをネセスに渡す。
「籠が半分・・・いや、重いと感じたぐらいで家まで持ってきてくれるかな?」
「もしかして、俺が病み上がりだから手加減してるんですか?」
ネセスは、トーヤの訂正に対し、軽く力こぶを作って見せながら笑った。
「まあ、それもあるけど、あんまり重いと下の方のマルケロがつぶれるかもしれないからね」
「ああ、そうですね」
言われてみれば当たり前だ。トーヤは腕をおろした。
「でも、それならいっぱい入れても大丈夫な小さい籠を使えばいいんじゃ?」
「それもそうだけど、その籠は果物の収穫のほかにも、果樹の手入れの道具を入れて運ぶのに使ったりするから、そのサイズにしてるんだよ。まあ、いずれ収穫専用の籠は買いたいと思ってるけどね」
トーヤはそう肩をすくめてみせると、ネセスに手を伸ばした。
「それじゃあ、こっち側の収穫お願いね。僕はあっち側を収穫するから」
「はい」
ネセスが頷くと、トーヤは背を向け、果樹の方へと歩いていった。
「さて」
彼は背の低い木に向き直り、一つ声を漏らした。
樹木の高さは彼の肩ほど。枝葉は両腕を広げたほどに茂っている。
そして枝葉の合間に、黄色みを帯びたマルケロの果実が実っていた。
ネセスは手を伸ばすと、果実に触れた。固い。弾力を帯びた固い表皮が、彼の指を押し返す。
数度楕円形の果実を指の中でもてあそび、彼は枝から果実へと続く軸にハサミを入れた。
二枚の金属の刃は、軸をたやすく断ち切り、彼の手にマルケロの重みをすべて預けた。
「よっと・・・」
ネセスは果実を枝葉から離すと、背負った籠の中にそれを放り入れた。
微かな衝撃が彼の肩に伝わり、マルケロの実一つ分の重みが加わる。
何だ、簡単で楽な作業じゃないか。ネセスは、しばらく繰り返していた歩行訓練の辛さと比較し、内心胸をなで下ろした。
これなら、昼飯前には任せられた分を片づけられそうだ。



夕飯前になっても、果実の収穫は終わらなかった。
作業が長引いた原因の一つは、一本の果樹に数十の果実が実っていたという計算違いのせいだ。
そしてもう一つは、採った果実を背中の籠に入れるという動きが、彼の想像以上に腕や肩を疲労させたからだ。
マルケロの実一つ一つはそこまで重くはない。だが、百は背中の籠に実を入れたところで、ネセスは腕自体が重いと感じるようになっていた。
そして疲労は彼の全身を蝕み、『重いと感じたら籠を家まで運ぶ』という言いつけに基づく果樹と家屋の往復のペースを、徐々に早いものにしていった。
収穫量が増え、収穫に時間がかかり、収穫の合間に家屋までの移動が加わる。
おかげでネセスの作業効率は落ち。任せられた樹木の六割も収穫できなかった。
「まあ、病み上がりにしてはよくやったと思うよ」
ネセスが運んだ果実を木箱に入れながら、トーヤはそうねぎらいの言葉をかけた。
「すみません・・・俺のせいで、収穫の足を引っ張ってしまって・・・」
「いや、よくやってくれたよ。実際、今日の収穫数でだいぶ助かったし、これだけ収穫したって実績があれば、男手をほしがってるところに紹介できるし」
「紹介・・・」
ネセスは、トーヤの言葉に含まれていた一単語を繰り返した。
そう、怪我のせいで少々長居しすぎたが、いつまでもこの家に世話になっているわけには行かないのだ。
「とりあえず、明日市場に行くから、そのときに知り合いにネセスさんのことを伝えておくから」
「ありがとうございます」
ネセスは頭を下げた。いつまでもトーヤたちのやっかいになるより、こうして送り出してもらった方が気が楽だ。
最初の内は多少苦労するかもしれないが、これまでに比べればだいぶましだろう。
「今日はお疲れさん、ゆっくり休んでね」
「はい、お疲れさまでした」
ネセスはそうトーヤに言った。
そして、腕を上げるのもやっかいなほどの疲労感と戦いつつ、ネセスは夕食をとり、身を清めてから部屋に戻った。
いつもならば、トーヤやメリレレル、エミルルとの団らんに加わるのだが、今日だけは辞退させてもらった。
そして、彼は一人部屋に戻り、ベッドに身を横たえた。
肌になじんだシーツの質感と、ベッドの柔らかさが、彼を迎える。
やがてネセスは、疲れに身を任せ、まどろみの内へと沈んでいった。



小さな音が、彼の意識を呼び覚ました。
ドアの蝶番が擦れる音だ。誰かが起こしにきたのだろうか。
ネセスは目を開くが、目に入ったのは未だ暗い部屋だった。夜明け前にしても暗すぎる。しかし、部屋の扉はゆっくりと開きつつあった。
こんな真夜中に誰が?
彼の胸中に疑問が浮かぶが、それはすぐに氷解した。扉の隙間から、室内に身を滑り込ませたのが、小さな人影だったからだ。
「・・・」
エミルルは闇の中、ゆっくりとベッドに横たわるネセスのそばまで忍び寄った。
彼女の瞳が、横たわる彼の姿を、じっと捉えている。
「エミルル?」
「っ!?」
ネセスの小さな呼びかけに、彼女は声を漏らした。
「こんな夜中に、どうしたの・・・?」
「あ、あの・・・あのね・・・」
エミルルは驚きのあまりその小さな胸の内ではね回る心臓を押さえつつ、言葉を紡いだ。
「ネセス、さんが・・・もうすぐ出て行っちゃうから・・・」
「もうすぐ?」
「だって、怪我もよくなったし・・・お父さんも、ネセスさんを安心して知り合いに紹介できるって・・・」
そういうことか、とネセスは納得した。どうやら、ネセスが横になった後、家族の会話の断片を組み合わせて、エミルルはそう早合点してしまったらしい。
「大丈夫、、すぐにはいなくならないよ」
「本当?」
「ああ」
彼は胸の中で、多分と付け加えてから続けた。
「まだ本調子じゃないし、仮によそに行くことが決まっても、準備に時間がかかるからね」
「そうなんだ・・・」
エミルルの言葉に安堵が宿るが、その表情にはまだどこか不安そうなものが残っていた。
「・・・どうしたの?」
彼女の様子に妙なものを感じ、ネセスはそう問いかけていた。
「その・・・ネセスさんと、お別れすると思って・・・」
「ああ、大丈夫だよ。ずっとお別れする訳じゃないから」
トーヤの紹介で近くの町に行くようになったとしても、会う機会はいくらでもあるだろう。永遠の別れではない、とネセスは彼女を安心させようとしたが、エミルルは小さく顔を左右に振った。
「違うの・・・また会えるとかじゃなくて、お別れするのがイヤなの」
「それって・・・」
「ネセスさん、ずっとこの家にいてください。お父さんやお母さんにもお願いするから、この家にいてください」
「そんなこと言われても・・・」
ネセスは困惑した。正直なところ、こうして世話になっているだけでも辛いというのに、いつまでもいてほしいだなんて。
「ネセスさんがいないと、寂しくて・・・」
薄闇の中、エミルルは目元に涙を浮かべながら、そう言った。わーむにしては感情の起伏が小さいとネセスは感じていたため、彼女の涙に彼は驚いていた。
「お願いです・・・」
「そんなこと言われても、俺はいつまでもここにはいられないし・・・」
「じゃあ、私を一緒に連れてってください!」
エミルルはそう言うと、ネセスの胸元に飛び込んできた。ワームの下半身が織りなす、大地を駆け巡る強靱なパワーに彼は一瞬身構えるが、エミルルのもたらした衝撃は軽いものだった。
文字通り、彼女の体を受け止め、そのあまりの軽さに彼は拍子抜けした。
「何でもします。ご飯も作ります。毎日ぎゅってします。だから、私を置いてかないでください」
「エミルル・・・」
「好き、なんです。ネセスさんのことが・・・!」
ネセスの胸元から顔を上げつつ、彼女はそう想いを口にした。
「今まで、ネセスさんが大けがしていて、こうやって抱きついたら壊れそうで、ずっと我慢してました。だけど、もう我慢できなくて・・・!」
彼女は目元に涙を滲ませ、言葉を途切れさせた。
「お願いです・・・お願いです・・・」
「・・・・・・・・・」
胸元に再び顔を埋め、嗚咽とともに懇願するエミルルの頭に、男はそっと手を触れることしかできなかった。
彼女の柔らかな髪の毛を撫で、落ち着かせようとする。
すると、一撫でごとに彼女の懇願がまばらになり、いつしか嗚咽も弱々しいものになっていった。
そして、エミルルの吐息は、穏やかでゆっくりとした寝息に変わっていた。
「・・・眠ったか」
緊張と夜更かしと不安と、様々な精神的重圧による疲労のせいだろう。ネセスは腕の中で静かに眠るエミルルを、そっと自分のベッドに横たえた。
頬には涙の跡が残っており、泣きつかれて眠ったようにも見える。
それほどまでに、エミルルはネセスのことを慕っていたのだ。
ただ、ネセスの身を案じ、好意を胸の奥底に押し込めて、必死に自分を律しながら、彼の世話をしていたのだ。
それをネセスは、自分に対してあまり好意を抱いていないと感じてしまった。
ネセスは彼女に謝り、これまでの世話に対して改めて礼を述べたかった。
だが、エミルルの欲しているものはそんなものではない、とネセスは分かっていた。
「・・・・・・」
闇の中、ネセスはエミルルを見ながら、決心を固めていた。



「トーヤさん、娘さんを俺に下さい」
朝、ネセスは朝食の席で、そうトーヤに言った。
イスに腰を下ろした直後のトーヤは、突然の申し出に完全に固まっていた。
「あら、どうしたの?突然」
お腹がだいぶ目立ち始めたメリレレルが、傍らで硬直する夫の代わりに、そう尋ねる。
「はい。みなさんのおかげで俺の傷が癒え、ようやくみなさんの世話を受けず、一人立ちできそうになりました。ですが実は、俺は娘さん・・・エミルルと、けが人と世話係を越えた関係になってしまいました」
「・・・・・・・・・そ、そうなの、エミルル・・・?」
全身を硬直させたまま、トーヤは口だけを開閉させ、娘に問いかけた。
「え、ええと・・・」
「はい。昨夜もエミルルをベッドの中で抱きしめてやりました」
「ネセスさん・・・!」
事実その通りだったが、誤解を招きかねないネセスの問いに、エミルルは彼の名を呼んだ。
そして彼女の懸念通り、トーヤは誤解していた。
「ネセス貴様、よくもそんなことを」
これまで、一応年上と言うことで敬語を使っていたトーヤが、ネセスに対しむき出しの怒りと敵意を言葉に込めた。
「貴様、こんな子供に手を出してただですむと思ってるのか」
「もちろん責任をとるつもりです。ですが、いますぐにというわけではなく、俺の生活が安定してから・・・」
「貴様、子供に手を出して結婚ですむと思ったら大間違いだぞ、この遣ろう娘をどう弄んだか言ってみろ。娘に触れた部分を切り落としてやる」
「あらー、それは困るわ」
不意に口を挟んだメリレレルに、トーヤが再び硬直した。
「ま、まさかメリ・・・」
妻もこの男の毒牙にかかってしまったのか、とトーヤが真っ青になっていく一方、メリレレルはどこかのんびりとした口調で続けた。
「子供に手を出したら、さわった部分切り落とさなきゃいけないなんて、私おっぱいなくなっちゃうわよ」
「へ・・・?」
「だって、まだまだ子供だったあなたに私、手を出しちゃったじゃない」
「そ、それは・・・」
トーヤは、娘が生まれるより前、おそらくメリレレルと出会ったばかりの頃を思い返しながら、何か言おうとした。
「多分、エミルルから迫ったんでしょ?ねえエミルル?」
「えっ・・・うん・・・」
不意に話を振られた彼女は、反射的にそう肯定していた。
「ほらやっぱり。結構怪我も残ってるのに、私の寝床に入ってきたあなたに似たのよ」
「め、メリ・・・その話は・・・」
「というわけでネセスさん」
狼狽する夫から、ネセスに顔を向けながら、メリレレルは続けた。
「娘をどうか、よろしくお願いしますね」
「・・・はい」
彼はそう頷いた。
13/05/12 11:56更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
「ロリ逆レはどうした!?」
「ノーロリ逆レであります、サー!」
「ならばなぜこっちの話を書いた!?」
「正直なところ、両親夫妻の怪我ショタ寝床もぐり込み夜這いックスは掻いてる途中で思いついたのであります、サー!」
「ということはいつか書くのだな!?」
「いつか、でありますサー!」

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