連載小説
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(114)バイコーン
街道沿いに小さな町があった。
宿場町と宿場町の間に位置する、休憩するには中途半端な場所だった。
おかげで、多くの旅人や荷馬車は訪れるものの、そのほとんどが素通りで、仮に止まったとしても休憩がてらお茶を飲む程度だった。
おかげで、この町は街道沿いだというのにそう大きくなく、住民も農業に専念して生活していた。
そして、その小さな町に唯一存在する茶店に、一人の女がいた。
たまに訪れる旅人をもてなすため、彼女は今日も並ぶテーブルを磨き、掃除をしていた。
「・・・よし・・・!」
光沢を帯びるほどに磨きあげられたテーブルを見回し、彼女は一つ頷いた。
これで、いつ旅人がきても、あるいは彼が帰ってきても大丈夫だ。
女は、ふと店の外に顔を向けた。
店の前を左右に横切る通りには、人通りはなかった。
店の前の通りは、街道から枝分かれした道の一本だからだ。
通りの入り口には、この店の宣伝看板を掲げてはいるものの、よほどの物好きでなければわざわざ小道に入ってこようという者はいないだろう。
どうやら、今日も忙しくはなさそうだ。
「ま・・・夕方の仕込みはしておきますか」
夕飯時、旅人ではなく近所の住民向けのテイクアウト夕食メニューの準備のため、彼女は店の厨房に入ろうとした。
しかし、その瞬間、店の戸が開いたことを知らせるベルの音が鳴り響いた。
「はーい、いらっしゃーい」
昼過ぎの来客。
珍しいものに彼女は驚きながらも、店の戸に向き直りながら声を上げた。
すると、彼女の目に、造りの丈夫そうな旅装束をまとった男が目に入った。
「や、久しぶり」
男が女に向け、にこやかに微笑みながら手を挙げた。
「ロゥ・・・?」
「やっぱりこの店にいたんだね、スゥ」
目を見開く女、スゥに向けて、男は続けた。
「ただいま」
「お、お帰りなさい・・・」
信じられない、といった様子で、スゥはそう返した。
「え・・・いつ帰ってたの?」
「ほんのついさっきだよ。仕事の合間に時間ができたからね」
「だったら、ここよりも先に・・・あ・・・」
スゥは実家に顔を出すように、といいかけて言葉を切った。三年前、彼の家族が流行病で倒れたから、彼は商人となるため町を出ていったのだった。
「まあ、ほかにも顔を出すところはあるけど、この町で一番会いたかったのが、スゥだったからね」
「え・・・」
ロゥの言葉に、スゥの心臓が小さく跳ねた。
ロゥと幼なじみとして共に育ちながら、いつしかスゥの内側に芽生えていた感情。
三年前に、とうとう口にすることができなかった想いに呼応してくれたかのようなロゥの言葉に、スゥは動揺半分嬉しさ半分であった。
「ところで、今大丈夫かな?ちょっと朝早くに前の町を出たせいで、昼を食べてなくて・・・」
「あ、大丈夫よ。メニュー取ってくるから、好きな席に・・・」
スゥがそういいながら、カウンターの奥に行こうとしたところで、再び店の扉が開いた。
「お待たせ。馬と馬車、預けてきたわ」
「お、ありがとう」
ベルの音と共に響いた女の声に、ロゥが応じる。
ロゥの言葉にこもった親しさに、スゥは店の戸口を振り返った。
そこに立っていたのは、スゥの知らない『女』だった。
きついウェーブのかかった黒い髪を長くのばし、豊満な胸を衣服に詰め込んだ、やや垂れ気味の目をした美人だ。
だが彼女の腰から下は、馬の首から下になっており、浅黒く短い毛が馬の身体を覆っていた。
半人半馬の魔物が、店の戸口に立っていた。
「え・・・?ロゥ、その・・・・・・ケンタウロスは・・・?」
「ああスゥ、紹介しておこう。彼女は・・・」
「バイコーンのディナトリア、ディナです」
半人半馬の魔物、ディナが微笑みながら頭を下げた。
よくよく見てみれば、下半身が馬の衝撃に紛れてしまっていたが、彼女の波打つ黒髪の間からは二本の角が伸びていた。
「ロゥとは、商売のパートナーとしても、夫婦としても仲良くさせてもらってます」
「え、夫婦!?」
スゥはディナの口から紡がれた言葉を、大声で繰り返していた。
「まあ、式とかはまだ挙げてないから、正式な夫婦じゃないんだろうけど・・・」
「もう、ロゥったら。二人が互いに自分たちは夫婦だ、と思えばそれでいいじゃない」
バイコーンは、男に向けてそう微笑んだ。
スゥは、ただ二人のやりとりを呆然と見つめていた。
「ところでスゥ、彼女の席もほしいんだけど、さすがにケンタウロス向けのイスとかないよね?」
「・・・え?あ、ごめんなさい・・・うち、人用のイスしか置いてなくて」
スゥは一瞬呆然としていたものの、どうにか我を取り戻し、ロゥの問いかけに答えた。
「じゃあ、カウンター席でいいわ。あのテーブルの高さなら、立っていてもちょうどいいし」
「んー、ディナが立っていてもいいっていうのならいいけど・・・悪いね」
「いいのよ。ロゥの幼なじみさんの手料理、楽しみにしてたから」
「・・・メニュー、取ってきますね」
楽しげに言葉を交わす二人に背を向け、スゥはカウンターの内に入った。
そして文字の書かれた板を一枚取ると、彼女は二人の下に向かった。
すでにロゥもディナもカウンターに向かっており、ディナは並ぶイスを一脚どけて立っていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
スゥの差し出したメニューを、ロゥは三年前と変わらぬ笑顔で受け取った。
「さーて、何にしようか・・・」
「へぇ、結構メニューあるのね・・・」
一枚の板を、左右からのぞき込みながら、ロゥとディナは言葉を交わした。
二人の仲睦まじい様子に、スゥの胸の奥にちくりと何かが刺さる。
「茶店、って聞いていたから、甘味と簡単な料理しかないと思ってたけど、結構いろいろあるわねえ」
「昔からこの店は、色々やってたからね。三年前は僕も結構世話になったし」
「そういえば寝言でも言ってたわね・・・『ハリハリ焼き食べたい』って」
「え、本当?」
ロゥとバイコーンが、この店の思い出を種に話を膨らませている。
放っておけば、いつまでも続きそうな二人の会話に、スゥは思わず割って入っていた。
「あの、そろそろお決まりでしょうか?何なら、さっと用意できるのを出しますけど」
「ああ、ごめんごめん。じゃあ・・・『浅茹でパスタの赤ソース和え』と『ジパング式五目パスタ』をお願い」
スゥの口調が変わっていたことに気がつくこともなく、ロゥは二品注文した。
「わかりました。しばらくお待ちください」
メニューの書かれた木の板を受け取ると、スゥは厨房に引っ込んだ。
鍋に水を注いで火にかける。パスタを茹でる湯のためだ。
だが、注文は二品のため、湯がたぎる前にソースや具の準備をしなければ。
スゥはベーコンにタマネギ、トマト、キャベツ、人参、そして豆の缶詰を取り出した。
スゥはベーコンの固まりを取ると、それを指の幅ほどの厚さに切った。そして包丁をいれ、短冊状に刻んでいく。
ベーコンを刻み終えたら、今度はタマネギだ。タマネギの皮をむき、二つに割ると、彼女は片方をみじん切りにした。
タマネギを細かく刻んだら、今度はトマト。フォークに刺して、鍋を炙る火に軽くかざし、皮をむく。
スゥは小鍋を取り出すと、そこにベーコンを入れ、火にかけた。小鍋が熱を帯び、ベーコンから滲む脂がぱちぱちと音を立てる。
木のへらでベーコンをかき回しながら、刻んだタマネギを鍋に入れ、ベーコンと共に炒めていく。
真っ白だったタマネギがベーコンの脂にまみれて艶を帯び、徐々に透明になっていった。タマネギから滲む水気が小鍋の熱によってじゅうじゅうと音を立てる。
おかげで、カウンターで交わされているロゥとディナの会話は、スゥの耳に届かなかった。
やがて一通り火が通ったのを確認すると、スゥは皮をむいたトマトを小鍋に入れ、へらでつぶしながらあえていった。トマトの赤い果汁がタマネギやベーコンに絡み付き、鍋から立ち上る香りに色を添える。
そして最後に、彼女は鍋の中に水を注いで、木のへらを鍋から引き上げた。後はしばらく火を通して、最後に味を調えるだけだ。
今度は五目パスタの準備だ。
スゥはボウルや皿をいくつか取り出すと、ベーコンやタマネギの残り半分や、野菜に包丁を入れていった。
ベーコンは赤ソース用のものと同じく短冊切り。タマネギは半円になるよう薄切りに。人参も火が通りやすいよう、縦に割ってから短冊型の薄切りに。キャベツは適度な大きさに刻み、豆の缶詰を開いて煮汁をいくらか捨てる。
そして、スゥが鍋に目を向けると、パスタ用のそれはすでにぶくぶくと沸騰していた。
乾燥パスタを取り出し、鍋にバラバラになるよう投入する。
ここからは時間との勝負だ。フライパンを手に取ると、彼女はそれを火にかけた。
まずはベーコンを入れ、脂をフライパンの鍋肌になじませる。そして人参、キャベツ、タマネギと刻んだ材料を順番に投入し、火を通していく。
最後に豆を入れてかき混ぜながら、パスタの様子を目で確認する。パスタは湯を吸ってしなやかになり、沸騰する鍋の中で踊っていた。そろそろだろうか。
スゥはフライパンから手を離すと、パスタを鍋から掬いとり、一本だけ口に含んだ。歯で面を噛みつぶすと、僅かに芯が感じられる。
ちょうどいい。
スゥはフライパンに、鍋で踊るパスタの半分を移し、具と混ぜていった。最後に、ジパング特産の黒いソースをそそぎ入れて、味を調える。
次は赤ソース和えだ。皿を二枚取り出し、片方に鍋の中で踊るパスタを乗せる。そして小鍋の赤ソースを、パスタにかけてやった。
トマトとスパイスの織りなす香りが、厨房に広がる。
「はーい、お待たせしましたー」
フライパンの五目パスタを皿に移し、二枚の皿をお盆に乗せると、彼女は厨房を出た。
「お、来た来た」
バイコーンと顔を向かい合わせて話し込んでいたロゥが、うれしげにそう言う。
「ええと、赤ソース和えが・・・」
「とりあえず僕で」
ロゥの言葉に、スゥは二人の前にそれぞれ皿を置いた。
「ごゆっくりどうぞ」
「あ、スゥ」
フォークを並べ、スゥが頭を下げると、ロゥは彼女を呼び止めた。
「久々だし、少し話をしようよ」
「ごめんなさい。今使ったお鍋とか片づけないと・・・」
「そうね、後からだと油が取れにくいものね」
ディナがスゥのいいわけに頷く。
「・・・じゃあ、また後で」
スゥは二人に向けてそう言うと、厨房に引っ込んだ。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
鍋を流し台に運ぶ彼女の耳に、二人の声が響いた。
「お・・・相変わらず旨いなあ!」
「ほんと、美味しいわ。パスタの茹で加減もいいし、具材とソースの組み合わせもいいし」
「な?言った通りだったろ?」
鍋肌にこびりつくソースの残りや、パスタの茹で汁の微かなぬめりをこすり落としながら、彼女は二人の会話を聞き流していた。
「この町に寄ろう、って言ったときはちょっと遠慮気味だったけど、この料理なら十分寄る価値はあっただろ?」
「ええ。正直、墓参りか思い出の地めぐりぐらいかと思ってたわ。ごめんなさいね」
「謝る必要はないよ。むしろ、スゥのことをほめて欲しいぐらいだ」
「じゃあ、後で美味しかった、って伝えないとね」
スゥは無言のまま、スポンジを手に鍋を擦る。
「ところで・・・スゥさんって、あなたとどういう間柄だったの?」
不意に響いたディナの問いかけに、彼女の手が止まった。
「うーん、幼なじみかな・・・?」
ディナに応じるロゥの言葉は、スゥの予想していたものと同じだった。
「小さい頃からこの店を手伝っていて、料理が上手くて・・・うん、いい嫁さんになるよ、彼女は」
「あなたが貰ってやろう、とは思わなかったのね?」
「ははは、昔は僕もガキだったからなあ」
ロゥの冗談めかした口調に、スゥの腕にかかっていた呪縛が解けた。
なぜ動きを止めてしまっていたのかわからないほど自然に、彼女の手が鍋肌を再び擦っていく。
「でも、三年前に町を離れたんでしょ?もしかして、立派な商人になって彼女を迎えにいく、とか考えてたんじゃないのかしら?」
「三年前の件は、まとまった金が入ったのと、一つ自分で何かやってみたくなったからだよ。特に立派な考えがあって町を離れた訳じゃないさ」
油や茹で汁のぬめりがなくなったところで、彼女は鍋や包丁をざっとすすいだ。
水音にロゥとディナの声が紛れ、聞こえなくなる。
やがてすすぎを終え、水切りかごに鍋と調理器具を並べると、彼女はヤカンに水を入れて火にかけた。
「はい、お待たせ」
「ああスゥ、料理美味しいよ!」
厨房から出た彼女に、ロゥがそう顔を向けながらにこやかな表情で言った。
「そう?三年前と味付けが変わってるかもしれないけど・・・」
多少の謙遜を返しながら彼女がカウンター席のテーブルを見ると、二人の皿が目に入った。
ロゥの前には五目パスタ。ディナの前には赤ソース和えが並んでいる。
「本当、美味しかったわ。大きな町の料理店でも、こんな見事なパスタはでてこないわよ」
ディナがカウンターの前に立ったまま、スゥに向けて微笑んだ。
「本当、あなたいいお嫁さんになれるわよ」
「・・・ありがとうございます」
一瞬遅れたものの、スゥはにっこりと笑みを浮かべながら、ディナにそう返した。
「もうすぐでお湯が沸くから、食後のお茶を用意しますね」
「いいのかしら?」
「懐かしいお客さんですから、このぐらいはしないと」
驚くバイコーンに向けてそう言うと、彼女は厨房の方を見た。
「ちょっとごめんなさい」
二人の前を離れ、厨房に入る。
ヤカンの湯は、もうすぐでわきそうだった。
スゥは棚からティーポットとグラスを二組出すと、ポットの中に茶葉を入れた。
取り立てて有名であったり、高価な銘柄ではないが、それでもスゥが自ら選んだ茶葉だった。
するとちょうどいいタイミングで、ヤカンの湯が勢いよく湯気を吐き始めた。
火を止め、ヤカンをとり、ポットにゆっくりと注ぐ。
乾燥して縮こまった茶葉が広がるように。茶がよく湯に出るように。丁寧に湯を注いでいく。
やがて二つのポットを湯が程良く満たしたところで、スゥは蓋をした。
お盆にカップとポット、ミルクに砂糖を乗せ、彼女は厨房を出る。
「お待たせしました」
すでにロゥとディナはパスタを平らげており、皿をどけてお茶のためのスペースを作っていた。
「熱いので気をつけて」
カップとポットを二人の前に並べ、ちょうど二人の間にミルクと砂糖の小瓶をおく。
「ふふ、このお茶がまた美味しいんだよ」
「ほんと、いい香り」
ポットをとり、カップに茶を注ぎながら、二人はそう言葉を交わした。
「ん・・・?スゥ、茶葉変えた?」
注がれる茶の香りに、ロゥが口を開く。
「はい、二年前にいい茶葉を紹介して貰って・・・」
「そうか・・・でも、スゥの選んでくれた茶葉だから、きっと美味しいんだろうな」
ロゥは三年前との相違に一瞬落胆しながらも、そう期待を込めて言った。
「いただきます」
ディナがカップを手に取り、唇をつける。
静かに茶を口に含むと、彼女は目を閉じて味と香りを味わった。
「・・・おいしい・・・」
「だろ?あつつ・・・」
傍らのバイコーンにそう言いながらロゥがカップに口を付け、その熱さに声を漏らした。
急いで茶を飲もうとして、熱い目に遭うというのは変わっていないようだ。
「火傷に気をつけてくださいね」
変わっていない幼なじみの癖に、スゥは内心ほほえましく思いながら、そう注意した。
「では、ごゆっくりどうぞ・・・」
「あ、スゥせっかくだから君も・・・」
「ごめんなさい。そろそろ、夕方の仕込みをしないといけないの」
ロゥの誘いに、彼女は頭を下げた。
「うちのテイクアウトメニューが、一人暮らしの人に人気だから」
「そうか・・・繁盛してるんだね。がんばって」
ロゥの励ましの言葉に、スゥは顔だけで微笑んだ。
「ありがとう。ごゆっくりどうぞ」
彼女はそう言うと、厨房に引っ込んでいった。



それから、彼女は夕方の準備をいつも以上に手間をかけて行った。
ロゥとディナはお茶を楽しみながら言葉を交わしていたが、おやつの時間頃には会計をすませて店を出ていった。
二人がいなくなった店は静かだったが、スゥの心には安堵があった。
ロゥと出会った瞬間はうれしかった。だが、ディナが現れてから彼女の心は揺れていた。
言葉遣いも表情も接客用のそれに変え、動揺が表に出ぬよう努めたが、ロゥは気がつく様子もなかった。
それだけ、スゥの事などどうでもよく、バイコーンの妻と懐かしい味を楽しみに来ただけだったのだろう。
スゥは、もはやロゥが三年前のロゥとは変わってしまっている事を受け入れながら、料理に集中した。
やがて夕刻になり、常連がテイクアウトメニューを求めて店を訪れる。
彼らの相手や会計は忙しく、その間彼女は幼なじみのことを忘れることができた。
だが、客足はいつまでも続かず、夕飯時をすぎる頃には脚はいなくなっていた。
後に残るのは静かな店内と、売れ残ったほんの少しの料理だ。
スゥは売れ残りを夕食代わりに平らげて片づけると、店の片づけをした。
イスをテーブルの上に上げ、使用した調理器具を洗い、戸締まりを確認する。
そして、店の照明を消すと、彼女は外に出た。
ほのかな月明かりが、彼女を照らした。
「・・・・・・」
彼女は一度月を見上げると、視線をおろして歩きだした。会話の断片を思い返してみると、ロゥは明日までこの町に滞在するらしい。
明日の朝、もしかしたらまた店に来るかもしれないが、できれば彼には会いたくなかった。
自分の恋心が破れたのは、今日一日でスゥは痛いほどに自覚していたからだ。
ロゥと出会い、恋心の名残とディナへの嫉妬に胸をえぐられるのは、もう十分だった。
もう二人と出会いませんように。月に向けてそう祈りを捧げながら進めていた彼女の足が、不意に止まった。
「今晩は」
夜道の傍らに、一体の魔物が立っていた。
半人半馬の姿に、黒く波打つ長い髪と、その間から突き出る二本の角。
ディナだった。
「・・・何のご用ですか?」
「すこし、お話をしようと思って・・・ね?」
「こんな夜中に外を出歩いたら、旦那さんが心配しますよ」
とっとと追い返そう。そう思いながら、スゥはそうディナに向けて言った。
「大丈夫よ。あなたとお話するから、って宿を出たんだもの」
「・・・あなたの言葉を信じてくれるだなんて、優しい旦那さんですね」
ロゥが優しいのは知っている。だが、もう彼女のものだ。
そう自分に言い聞かせるため、スゥは旦那さんと繰り返した。
「あなたの旦那さんは、本当にすてきな人ですから・・・どうか、旦那さんを悲しませるような事はしないでください」
「ふふ、わかってるわ」
「だったら、夜中に一人で出歩くなんて真似はやめて、宿に戻ってあげてください」
「あらあら、どうしても私を追い返したいみたいね」
スゥは無言で止めていた足を進めると、ディナが彼女の歩調にあわせてゆっくりと四本の足を動かした。
「お昼の時から妙に他人行儀だし、今も追い返したいみたいだし・・・ロゥとは本当に幼なじみだったのかしら?」
確かに、彼女が現れてからは接客用の態度だったが、幼い頃から三年前までの日々を否定されるいわれはない。
「なにが言いたいんですか?」
「いえ、本当にあなたとロゥが幼なじみだったのか・・・それとも、あなたがロゥに想いを抱いていたから、私のせいで不機嫌になったのかはっきりさせたくて、ね・・・」
「・・・だから、何ですか?」
図星ではあったが、スゥは感情が表に出ないよう、平坦な口調で問い返した。
「あなた、今もロゥのことが好きでしょ?」
「っ・・・!」
ディナの言葉に、スゥは息を詰まらせた。
「今でも好きで好きでたまらないのに、ロゥの側には私がいる。だから、想いを断ち切るために、そうやって振る舞ってるんでしょ?」
「そうだったとして、あなたは何がしたいんですか・・・!」
自身の想いや、彼との決別を茶化されたように感じ、スゥは言葉に微かな怒りを滲ませながら、傍らを進むバイコーンに向けて言った。
「私はね、そうやって気持ちを中途半端にくすぶらせているなら、いっそのことロゥにぶつけたらどうか、って言いにきたのよ」
「え・・・?」
スゥの怒りを涼しく受け流しながらの言葉に、彼女のバイコーンに対する怒りが空回りした。
「何を・・・」
「そのままの意味よ。今から宿に行って、ロゥに『好きです!』って伝えたらどう?」
「そんなこと、できるわけ」
「できるわよ。あ、もしかして私に遠慮してるのかしら?」
余裕の態度で、ディナはスゥに目を向けた。
「私は構わないわよ。むしろ、私の好きなロゥが、ほかの女からも好かれるぐらいいい男だってわかって、うれしいぐらいよ」
「あなた、何を・・・」
ディナが魔物だからだろうか。彼女の考えが、スゥには理解できなかった。
「そうやってロゥから逃げ回ってるぐらいなら、ロゥに想いをぶつけなさい」
「あなたがいるのに、そんなこと・・・」
「私が許すわ」
スゥを見ながら、ディナは続けた。
「それとも、あなたはロゥのことを、私一人しか愛せない狭量な男だと思ってるの?」
「・・・・・・」
挑発じみたディナの言葉に、スゥの心は決まった。



「ほ、本当にいくのよね・・・?」
「何言ってるの、あなたが決めた事じゃない」
宿の一室の前で、スゥとディナはぼそぼそと言葉を交わした。
勢いに任せて宿に入ったはいいものの、ここに来てスゥの決心は揺らいでいた。
「でも、もし・・・」
「大丈夫よ。ロゥもあなたのことは結構好きみたいだし、もし断られても私がついているわ」
ディナの手が、スゥの肩に触れた。
ほんの一時間ほど前まで、敵だったはずの彼女の手のひらは、とても暖かく感じられた。
「・・・いくわ」
「その意気よ」
ディナはにっこりとほほえむと、扉に手をかけ、開いた。
「ただいま」
「お帰りディナ・・・って、スゥ?」
備え付けの机に向かい、地図を見ていたロゥが、妻と共に入ってきた幼なじみの姿に目を大きく開いた。
「ちょっと、外で出会ったのよ。何でも、あなたにお話があるそうよ?」
ディナがそう言葉を連ねる内に、スゥの胸の中で心臓が高鳴っていく。
「ほら、行きなさい」
そう言いながら、ディナはスゥの背中を軽く押した。
「・・・ロゥ・・・実は、その・・・」
一つ深呼吸を挟んでから、彼女は続けた。
「実は、あなたのことずっと前から好きだったの」
「・・・へ・・・?」
「三年前にあなたが町を出ていって、やっと気がついたの。長く一緒に過ごしていたせいで当たり前に感じていたけど、あなたのことが好きだったの」
緊張のため、ちゃんと言葉が紡げるか不安だったが、スゥの口から想いはいくらでも飛び出した。
「ロゥ、あなたのことが好きです。友達とか、幼なじみじゃなくて、男と女としてあなたのことが好きです。あなたにはディナさんがいるのは知ってるけど、それでも好きです」
「え、ええと・・・」
「ほら、ロゥ。幼なじみの告白よ?あなたはどうなの?」
返答に窮するロゥに、ディナがそう問いかけた。
「いや、そりゃ僕のことを好きだって言ってくれるのはうれしいけど・・・ディナがいるし・・・」
「私は構わないわよ。むしろ、こんなかわいい娘さんにあなたが好かれているなんて、うれしいぐらいよ」
思いの丈をぶちまけ、少しだけ放心しているスゥの肩を抱き寄せながら、ディナは微笑んだ。
「それで、スゥのこと好きなの?それとも幼なじみレベルなの?」
「・・・実は、三年前まで一緒に過ごせたら楽しいだろうな、とか考えていたよ・・・うん、スゥのことは好きだよ」
「・・・!」
ロゥの返答に、スゥは胸の奥で花が開くような解放感を覚えた。
「よかったじゃない、スゥ。ほら、早速成就のキスをしたら?」
ディナはにこにこしながら、そうスゥに言った。だが、いくら奥さん公認とは言え、スゥにはいきなりロゥと唇を重ねるほどの度胸はなかった。
「え、その・・・」
「できないの?だったら・・・」
ディナは戸惑う彼女の肩を押さえると、馬の足を少しだけ屈めて上体を落とし、顔を近づけた。
迫る唇に、スゥは脳裏に一つの可能性を浮かび上がらせる。
そして、彼女の予想通り、ディナとスゥの唇が重なった。
「・・・!?」
「ん・・・」
驚きの気配を漏らすスゥに、ディナは小さく声を漏らした。
そしてディナは唇を離すと、屈めていた足を伸ばし、スゥの肩から手をおろした。
「うふふ、柔らかい唇・・・」
ディナはスゥに向けてそう言うと、ロゥの元へと移動し、妻と幼なじみの突然のキスに身を強ばらせる彼と、唇を重ねた。
「・・・ぷはっ、はい、間接だけどキスできたわね」
ロゥとスゥ。二人に向けて、ディナは微笑んだ。
おそらく、踏み出すことのできなかったスゥに対する親切のつもりなのだろう。
だがスゥからしてみれば、目の前で改めて夫婦のキスを見せつけられたことに変わりはなかった。
彼女の胸の内で、メラメラと炎が燃え上がっていく。
「わ、私だって・・・!」
スゥは声を上げると、ロゥの元に駆け寄り、目を白黒させる彼に抱きつきながら唇を重ねた。
勢い余って前歯がぶつかるが、そんなことはどうでもよかった。ただ彼と唇を重ねていることが重要だった。
「ん、んぅ・・・!」
のどの奥を震わせながら、彼女はロゥの唇を吸い、抱きついていた。
物心ついてから十数年かけて育んでいた想いを伝えるため。
彼が町を離れてから三年かけて気がついた彼への恋心を伝えるため。
昼間に出会ってから数時間の間に膨れ上がったディナに対する嫉妬心を癒すため。
彼女はロゥの唇を吸った。
「ぷは・・・!」
息を止めたまま唇を重ねていたため、彼女は息苦しさのあまり唇を離した。
心臓が脈打ち、呼吸が乱れる。だがそれは、キスの際の息止めによるものばかりではなかった。
「ロゥ・・・あなたのことが好きで、もう我慢できないの・・・」
涙の滲む瞳で、彼を見つめながら、スゥは口を開いた。
「お願い・・・私を抱いて・・・!」
「スゥ・・・」
「あらあら、そこまでするんだったら、私も混ぜて貰わないと」
ディナが二人に抱きつきながら、衣服の下の乳房を押しつけた。
「ロゥのことを好きになったのは、あなたが先かもしれないけど、ベッドの上では私が先輩よ?」
「なら、いろいろ教えて貰いましょうか、先輩」
余裕の態度のディナに、スゥがやや鋭い口調で応えた。
「いや、あの・・・ディナにスゥ・・・」
「あなたはちょっと静かにね」
「そうよロゥ。このバイコーンから、あなたを奪い返してやるんだから・・・!」
そう言いながら、ディナとスゥは左右からロゥに抱きついていった。
三人の夜は、これからだった。
13/05/03 00:52更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
世の中には二種類の人間がいるという。
パートナーの初恋の話を聞いて、微笑ましく感じる人間と、嫉妬を覚える人間だ。
昔から「初恋破れて山河あり 青春にして草木深し」と言う言葉があるとおり、初恋などと言うものはたいてい破れた昔の話だ。
だというのに、そんな思い出話にも嫉妬してしまうという。
まあ、あの人が好きなのは私だけ、という独占欲はわからないでもないけど、過ぎたるは及ばざるがごとし、あまり締めあげると苦しいのである。
その点バイコーンさんは、「一度に何人も愛してくれるストロングな旦那様大好き!」って感じで初恋の思い出どころか、現在進行形の横恋慕もウェルカム!で好感が持てる。
正直、一人の男を巡って刺したり刺されたり突き飛ばしたり毒盛ったりするよりかは、圧倒的に安心できる。
相手の気持ちが多少揺らいでも、きっと自分のところに帰ってくるという信頼があるっていいよね。

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