読切小説
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宵闇夢怪譚【人ならざると云ふこと】
目が覚めるといつもと変わらない白い天井。
嗚呼、今日もまだ生きているらしい。
ブラインドから差し込む朝日が僅かに柔らかい。
気が付かない内に外界は、いつの間にか夏を終えてしまったらしい。
この部屋は一年中変化がないから、ついぞ気が付かなかった。
長いこと入院している。
私の身体の何処が悪いのか、看護婦も医者も教えてくれない。
教えてくれないのが答えなのかもしれない。
半ば私は自分の運命を受け入れてしまっている。
ただ……心残りがあるとすれば…。

「お目覚めでしたか?」

カラリと病室の扉を開けて入ってきたのは私の妻だった。
幼馴染で長い間お互いに好き合っていて、つい最近になってやっと一緒になれたばかり。
妻の名は楠葉と言う。
一緒になれたばかりだというのに、こんな風に長々しい入院生活で苦労を掛けてしまうことに申し訳なく、それでもこうして彼女の優しさを甘受してしまう自分がいることに心が痛い。
彼女は人間ではない。
狐である。
子供の頃から稲荷明神のお社の境内で二人で会っていたから、きっと稲荷明神の化身、もしくは稲荷明神そのものなのだと私は認識しているのだが、本人は本人で自分が何なのか実のところ皆目見当付かず、狐らしい尻尾と耳があるのだから、八百万の神々などのような上等なものではなく『ただの狐』なのだと常々私に言っている。
「あらあら、何か恐ろしい夢でも見ましたか?酷い寝汗ですよ。」
着替えを手伝いますよ、と楠葉は手馴れた風に私の寝巻きを脱がしに掛かる。
寝汗を掻いていたのかと疑問に思ったが、なるほど言われてみればべったりと汗で寝巻きが身体に引っ付いていて気持ち悪い。
寝巻きを脱がされて、汗を掻いた肌が大気に触れてヒヤリと寒い。
「さあさ、お背中拭きますね。」
そう言って濡れたタオルを彼女は私の背中に当てる。
優しく撫でるように私の背中を滑る濡れタオル。
「冷たくありませんか?」
「いや、気持ち良いよ。」
背中が吹き終わり、今度は仰向けで横になるように言われてベッドに身体を預けると、楠葉は背中を拭いた時のように優しく身体の前面を吹き始めた。
熱が引いていく。
そんな不思議な安堵感。
楽しそうに私の身体を拭いている彼女の背後から大きく覗いているフワフワの尻尾に手を伸ばす。
「……総一郎さん、もしかして寒いのですか?」
「………うん、少しだけ。」
少しだけ嘘を吐く。
寒くなどない。
寒くはないのだが手持ち無沙汰だったのと、彼女の温もりが欲しかった。
そんな私のささやかな嘘を見抜いているかのように、楠葉は柔らかな微笑みを浮かべて『どうぞ』と尻尾を襟巻きのように私の首に巻き付けた。
まるでミンクのコートを纏っているような心地良い肌触り。
あまりの気持ち良さに彼女の尻尾に頬を擦り付けていると、楠葉は私の身体を拭く手を止めると、滑らかな細い指を彼女の尻尾の感触を楽しんでいる私の手に絡め、何も言わずに柔らかでしっとりとした唇を重ねてきた。
愛しそうに。
愛しくて。
放し難い程の切ない温もり。
居心地悪い静寂が支配する朝の病室に、お互いの舌を絡め合う小さな水音が響いた。
「……朝の日課を…忘れておりました…。」
甘い余韻を残して、熱っぽい声で楠葉は囁いた。
入院が長すぎて、私たち夫婦の間に子供はいない。
夫婦の甘い時間は、こうしたささやかな時間の隙間を縫って埋めている。
私の心残りがあるとすれば、彼女を残して逝かなければいけない。
それだけが、何よりも恐ろしいのである。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


あまり美味しくない病院食の朝食を平らげる。
そこから昼までは本当に退屈な時間が過ぎていくのである。
病室の外をパタパタと誰かが走る足音が響く。
あれは看護婦なのだろうか。
「林檎、如何ですか?」
ベッドの横で楠葉が向いてくれた林檎を一つ摘まんでみる。
点けっ放しのテレビからは面白いのか面白くないのかよくわからない番組が垂れ流しだ。
BGM代わりに流しているのだが、これが唯一の外界との接点なのだとは言え、公共の電波に乗って流れるそれが、この口に入れた一欠片の林檎よりも味気なく、面白みに欠けるということは由々しき問題ではないだろうか。
「美味しいよ。甘酸っぱくて、適度な歯ごたえがあって。」
「それは良うございました。総一郎さんのために朝市で吟味した甲斐があったというものです。」
もう一つ如何ですか、と楠葉は可愛らしい声で勧めてくる。
何の変哲もない林檎だというのに、楠葉が剥いてくれただけで林檎の旨みが何倍も増したような気がして、私は彼女に誘われるままに一つ、また一つと林檎を口に放り込んでは、シャク、シャク、という音を立てて食べていく。
「そういえば……。」
楠葉は何か思い出したように右の人差し指で自分の頬を突付きながら上目遣いになる。
「総一郎さんは、昔から林檎が好きでしたね。」
「そうだったかな?」
「ええ、二人で境内で遊んでいた頃も母様の剥いた林檎を一緒に食べてましたね。」
そう言われておぼろげな記憶を引っ張り出す。
幼い頃の私と楠葉。
少しばかり寂れた境内とお社。
楠葉のお義母さんからおやつ代わりにと出されていた林檎。
そういえばそうだった。
「楠葉みたいに兎の形に剥いてくれていたね。」
「……あの頃は。」
楽しかったですね、と楠葉はふと遠い目をした。
ブラインドの向こうの外は真っ白で眩しい。
嗚呼、楽しかった。
あの頃は、ただ彼女とこうして一緒にいられることだけで楽しかった。
何も気にすることなく、ただ無邪気でいられた。
「母様がいて、父様がいて、総一郎さんがいて……それ以外は何もいらなかった…。」
「僕は今でもそうだよ。君がそばにいてくれるのなら、この退屈な病室も苦にならない。例えここから出られなくても、君がこうして隣にいてくれるのなら、あの頃の神社と何一つ変わらない。」
楠葉がそばにいてくれるなら何一つ変わらない。
それは偽らざる本心。
「……私は最低な女ですね。あなたはこの病室から出られないのに、そんな言葉を掛けてもらって……私はこんなにも喜んでしまっています。…本当はこんな現実を悲しまなければいけないというのに…。」
「………楠葉、おいで。」
ベッドに横になったまま、両手を広げて楠葉を呼ぶ。
すると彼女はおずおずと素直に私の胸に飛び込んで来た。
ふわりと香る石鹸。
着物越しに伝わる楠葉の柔らかな身体。
食後に飲んだ薬のせいなのか、それとも楠葉の色香に惑ったのかわからないが、力の入らない腕で楠葉と離れ離れにならないように強く抱き締めると、楠葉も同じように私に強く身体を押し付けてくる。
それでも足りない、と尻尾を私の身体に巻き付けてくる。
「………私、幸せです。」
「……僕もだよ。」
楠葉が愛しすぎて言葉も忘れかけていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


カラリ

「お、悪い。起こしたか?」

病室に入ってきたのはよく見知った顔だった。
「………志雄君?」
どうやら眠っていたらしい。
あたりを見回すと楠葉はいない。
着替えを取りに行ってくれたのだろうか。
「いや驚いたよ。久し振りにみんなで飲もうって話になって集まったら、井川君が入院したって聞いてね。あ、これお見舞いの雑誌とお菓子。」
男の名は志雄京祐という小学校の時からの友人である。
昔から和服を普段着としていた変わり者だ。
まともな社会人ではないというのは想像に難くない。
「志雄君、僕はモナカみたいにモソモソしたお菓子が苦手だって言わなかった?」
「あれ、そうだったっけ。」
物覚えの悪い男である。
酔狂が着物を着て歩いていると言われるだけあって、あまり物事を深く考えず、気の向くままに生きていて、ろくに物事を覚えようとしないところがある。
「それに雑誌もこんなエッチなものを持ってきて。妻が見たら何て言うか…。」
「……………井川君、結婚していたのかい?」
志雄君は驚いた顔をした。
嗚呼、そうだった。
私と楠葉の結婚は、内々だけで済ませたのだ。
病気で辞める前の仕事、日々変調を来たしていく身体などの色々な理由で私は楠葉の実家の神社で、神前式でささやかな式を挙げただけで済ませた。
そのような理由を彼に伝えると、何故か怪訝な顔をした。
「……ふぅん。」
考え事をしている。
「神社……ねぇ…?」
「覚えているだろう。僕らが子供の頃遊んだ神社だよ。友達を連れ立って何人も一緒にかくれんぼをしたり、缶蹴りをして遊んだあの赤い鳥居が連なった古い神社だよ。君のことだ。覚えていないだろうけど、妻の楠葉はその神社の娘だよ。」
「…………もしかして八ツ旗神社のことか。」
やっと思い出したらしい。
日頃から『幼い頃の記憶が曖昧だ』などと公言して憚らない男だが、私がこうして詳しく説明してやらないと思い出せないようなところを見ると、どうやらそれは本当らしい。
「八ツ旗神社か……うん…うん?」
何か納得出来ないような表情を志雄君は浮かべる。
どうやら肝心なところを思い出せないらしいのだが、その内頭を捻ることをやめた志雄君は持って来た如何わしい雑誌に話題を逸らしたり、せっかく楠葉が剥いておいてくれた林檎を勝手に食べたりと、いつもと変わらぬ傍若無人っぷりを発揮して、ほんの30分程度で病室を後にした。

結局、思い出話に花が咲くことはなかった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


私・志雄京祐は病院特有の無機質な廊下を一人歩いていた。
履いた下駄の音が響くほど、不思議と神経に雑音をもたらす嫌な静寂。
人間の息遣いがしない。
そんな嫌な空気。
長年の友人である井川総一郎の見舞いに来たのには訳がある。
別にあんな如何わしい雑誌と彼の嫌いな菓子での嫌がらせが目的ではない。
事の発端は彼にも話した通り、久方振りに山奥から街に下りて懐かしい仲間たちとの飲み会の席で彼の入院を知ったこと………それと、時を同じくして彼の両親から未だに地元から離れていない唯一の友人として見舞いに行ってほしいという電話を貰ったからだった。

井川総一郎は、退院の見込みはない。

そう告げられて今生の別れのつもりで私は病室を訪れた。
だが、それは私の認識違いだった。
彼との今生の別れは、順調に何の問題もなければ精々半世紀は後だろう。
平均寿命くらいなら到達出来るかもしれない。
それでも彼の退院の見込みはないのである。
私たちは八ツ旗神社で確かに遊んだ………確かに遊んだのである…。
しかしその神社は遥か昔に廃屋と化しており、神殿は崩れ落ち、かつての信仰を偲ばせる程度の苔生した狛犬と風雨に晒されて侵食された石の鳥居が残る程度で、とても人が住んでいた形跡はなかったのである。
あの子供の遊び場程度に狭い神社でかくれんぼをしていたおかげで隅から隅まで思い出せるのだが、井川君の言う『連なった赤い鳥居』はどこにも存在しなかった。
それにあの神社で遊んでいたのは、私と井川君の『二人だけ』だった。

何か別の物が彼だけには見えていた。

この病院に来て、それがよくわかった。
地元では、重度の精神疾患患者が入院する病院として有名な場所だ。
彼は子供の頃から見えていたのだ。
彼は子供の頃から聞こえていたのだ。
そこにありもしない甘い『妄想』と『幻聴』。
そして終いには、その甘い『妄想』と『幻聴』に添い遂げようとしている。
だから、彼は退院出来ない。
「……帰ろう。」
そう呟いた私はエレベーターの降下ボタンを押して、エレベーターの到着を待った。
省エネが叫ばれている昨今、すぐ隣に伸びる階段を利用するべきなのだろうが、病院の階段は無機質で耳障りな静寂の吹き溜まりのようで、それでいて照明を控えめにして薄暗かったから、私は反射的に文明の利器とも言える機械の匣を選んでいた。
ここは非日常の場所だ。
失礼無礼とは頭で理解しつつも怖かった。
エレベーターは重い扉の向こうで低い唸り声を上げている。
誰かが乗っているのだろうか。
やけに動きが遅いような気がする。

ポーン…

軽い電子音と共に古く重い扉がガラガラと開いた。
中には誰もいない。
ただ煌々と蛍光灯の光が薄暗くて無機質な廊下に差し込んだ。
それだけでホッとする安い生物である。
そんな自分を省みた時、妄想の中で幸せを掴んだ井川君が少しだけ羨ましくなった。
私には、きっと掴めないであろう幸福を彼はあっさりと掴んでしまったのである。
きっと病室に飾ってあった花瓶の花も看護婦や彼の両親が用意したのだろう。
嗚呼、本当に羨ましい…………そう、心から思っていたその時だった。

『主人のお見舞いに来ていただき、ありがとうございます。』

澄んだ声だった。
澄んだ声だけが何もない空間から聞こえてきたのである。
総毛が立つ。
美しい声が私を現実から非現実へと引き戻した。
そこには何もいない。
しかしそこにいるのである。
金縛りに遭ったように私の足は凍り付いたまま動かず、ただ言い知れぬ不安から、ただただキョロキョロと落ち着きなくあたりを見回すばかりだったが、結局何一つ見付けることが出来ず不安と恐怖心だけが膨らんでいった。
金魚のように口をパクパクしている。
息が、出来ない。

『陽も落ちて参りました。お帰りの道中、お気を付けて…。』

それがまるで合図だったかのように、私はエレベーターに転がるように駆け込むと扉の開閉ボタンを連打した。
扉が閉まっても尚、階数ボタンも押さずに連打し続ける。
ガチガチガチガチガチガチと古いエレベーターのボタンを叩き続けた。
そして誰かが呼び出したのだろう………ゆっくりとエレベーターが降下していく。
そこで私はやっと壁に背中を預けてズルズルと腰を抜かしたように腰を下ろした。
忘れかけていた呼吸が甲高い音を立てて匣の中に響く。
何だったんだ、今の声は………と自分に問う。
だがやがて辿り着いた答えは、それまでの私の中で用意した回答を完全否定するものだった。

井川総一郎は妄想を見ていたのではない。

彼一人だけが、この世であってこの世はでない世界を見ていたのである。
彼が見ていたものがどんな姿をしたものなのかは計り知れないが、彼がこうして入院する事態になったのは、ついにこちらの世界と彼のいる世界の折り合いが付かなくなってしまったからに違いないのだ。
そう気が付いた時、私は背筋に寒いものを感じた。
先程の体験ではない。
友人と思っていた井川総一郎自身に恐怖を感じたのである。
嗚呼、彼は『憑かれて』いたのだ。
初めから隠り世の住人であり、この出口のない病院という場所は彼の安住の地だったのだ。
もう彼を邪魔するものはない。
彼のいる四角い白い部屋を侵す物は、何一つない。
あの病室こそ、触れてはならぬ魔界だったのだ。
「嫌だ…!嫌だ……、私はまだこちらにいたい…!!」

彼は行ってしまったのだ。

誰もが躊躇う彼岸の果てへと、何の戸惑いもなく渡ってしまった。

この世界とは別の場所で生きる井川総一郎という友人だった男。

見ているものが違う。

聞こえているものが違う。

きっと思考もその内違うものへと変貌していくのだろう。

そうなった時、私は彼を一人の人間として見ることが出来るのだろうか…。


「ああ、何て良い香りのする花なんだろう。楠葉、いつもありがとう。君が居てくれるだけで、この病室が本当に華やかになるよ。さっきは粗忽な友人が迷惑を掛けたね。」
「ふふ、変わったご友人ですね。今度いらした時は、ちゃんとご挨拶しておかないと。」


白い病室

そこは無機質な結界

そこは彼と彼女が辿り着いた楽園とも云うべき魔界

男はこの世界の理を抜け出して無償の愛に溺れ

女は理の外でただ無垢な愛に狂い咲く

されば人間などという脆弱な概念に用は無く

決して理解などされぬ彼岸の彼方に住まう者どもを

故に人々は『人ならざる者』と云いけり


「愛しています、総一郎さん。例えここがどこだろうと、例えどこにも行けなくとも………そう、死が二人を引き裂こうとて放しません。……永遠に。」


12/12/13 23:23更新 / 宿利京祐

■作者メッセージ
<オマケ>

私・志雄京祐は一人縁側で野良猫と戯れていた。
先程の恐怖が頭から離れない。
その恐怖を振り払うかのように、ただ一心不乱に私に懐いてくれている野良猫の『ノラ子』のモフモフした腹やらプニプニの肉球やらを触りまくって、心の平安を取り戻そうと努めていた。
「……そうだよな。ありえる訳ないよな。私だって妖怪マニアの端くれだけど、本物の化け物なんかそうそう居る訳がないよ。よし、戻ってきたぞ私の常識!」
「にゃふぅ〜〜〜!(訳・あんたはいい加減にウチが猫又って気付くにゃ〜!)」
腹を揉まれて気持ち良いのか、ノラ子は間の抜けた声を出して緩み切っている。
妖怪なんていやしない、とはわかっていても探してしまう。
それで良いんだと自分に言い聞かせて、私はまた友人の見舞いにSM雑誌と彼の嫌いなクッキーの詰め合わせでも持って行って、更なる嫌がらせをしてやろうと心に決めていたのであった。
………………ん、何だ?
………ノラ子って、尻尾がまるで二本あるように割れているのか?
……あはははは、まさかな?

             (了)


こんばんわ、宿利京祐です。
今回は実験作品ということで、ある意味で魔物娘SSの定番に反してみました。
楽しんでいただけたなら幸いですが、内心ビクビクしております。
次回もまた実験作品を予定しておりますので
どうか……どうか見捨てないでやってください!!orz
では最後になりましたが、
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
また次回、お会いしましょう。

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