読切小説
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怖い夢
うぉ、んむむ……。
ああ、んぐぐ……。

苦痛とも艶美とも取れない呻きが、寝室の闇を静かにふるわせた。

「あぁ……ッ」

ひときわ高く、まるで絶頂の嘶きのような喘ぎをあげると、慎吾は目を覚ました。

夢……。

それが夢だと知って安堵する。
額には苦悶を絞り出したかのような、濃い汗が滲んでいた。だが、

いつもと、同じーー。

焦点を結んだ意識が夢の輪郭を浮かび上がらせ、愕然とする。だが思い描けるのは夢の輪郭だけ。その夢の内容を抽象的には説明できるが、具体的には思い出せない。
しかしもうなんども見ている。なんど見ているかはもはやわからない。

なんたってこんな夢を見るのか。
人にとってはたまらない夢かもしれないが、自分にとっては拷問にも等しい。
なにせ自分には“嫁”がいるのだから。

その夢というのは、自分が女性と家庭を持ち、仲睦まじく暮らしていると言うものだ。
今の嫁ではない、別の女性……。
美しく明るい妻。可愛らしく闊達な娘。仕事に精を出し、夜にも精を出し、一戸建てのマイホームを手に入れた。贅沢にも思える庭ではバーベキューが出来、週末には友人たちを呼んで充実した休日を過ごす。
仕事も家庭も成功し、誰もがーー自分ですらも羨む、絵に描いたような幸せな家庭だった。しかもそれは絵に描いたような表面的なものではなく、内実ともに幸福と言えるもの。

ーー夢だ。

いや、慎吾が望んでいる夢ではない。単に毎夜、まるで呪いのように見るものだ。まるでではなくまさしく。毎夜毎夜同じ、いや、その都度その都度違う、自分が築いた幸せな家庭。それが隅々まで光明で照らしたかのようにありありと夢に見るのだ。

ーー実感を伴っている。

それは幸せと呼べるだろう。
現実逃避の裏返し?
否、自分はむしろ、この現実にこそ幸福を感じている。
だからそれは悪夢。
お前が望むべき幸せは、それではなくこちらだろうと、心のどこかが、頭のどこかが嘲弄する、声。

深淵を覗く時、深淵もまた汝を見ているのだ。

それはもはや擦り切れたレコードのように使い古された言葉にはなっているが、その夢と言うものを考えるに際して、それほど相応しい言葉もないように思える。
こちらが夢に見て、あちらはそちらに引き込もうとする。

余計なお世話だ。

と怒鳴りちらしたい衝動に駆られるが、相手は夢だから怒鳴りようもない。
しかし幸福ーー、幸福を結晶化させたような夢ではあるのだが、それは抽象的だ。具体性には欠ける。
なんだ、明々晰々に夢を見ているのなら、あまりにも具体的な夢だと指摘されるかもしれない。しかし相手の顔が見えないのだからそれは具体性に欠けると言っていいだろう。

そうだ。見目麗しい妻も、可愛らしい娘も、気心の知れた友人たちも、皆が皆、顔がないのだ。顔がないだけではなく、思い出そうとすればするほど、曖昧模糊とした無意識の湖に沈殿していく。

だから抽象的。或いは繰り返し幸福を再生すると言うことは、嘲弄的と言い換えられる。

まったく、なんだってこんな……。
俺は、今の生活に満足しているんだ。
思わずガリガリと頭を掻き毟れば、

どうしたのーー?

と、掠れた衣摺れのような声が聞こえた。

いつもの夢?

「ああ。いつもの夢だ」

そう。汗ビッショリ……。大丈夫、私が抱いてあげるから。

まるで包み込んでくれるような、嫁の優しげな声音に、気恥ずかしさを覚えながらも慎吾は彼女の柔らかさに包まれた。

いい子、いい子……。

甘く耳朶を蕩かしてくるような声音に、彼はうっとりと微笑みさえ浮かべ、彼女に頬ずりをした。大の大人だと言うのに、まるで母に抱かれる幼子のようで、安心しきっていた。
しかし彼女の甘い芳香に包まれていれば、それに、たまらない柔らかさにも。大人の男である慎吾が熱くなって来ないわけがなかった。

あ……。

彼女は押し当てられた膨らみに気がついた。

「い、いや、これは……」

しどろもどろになる慎吾だが、彼女はふふふ、と琴線を爪弾くように笑った。母性を抱かせた柔和な口元は淫蕩に緩み、身も心も包み込もうとする彼女に、ゴクリと生唾を飲んでしまう。

いいよ。来て……。

「おぉ……」

パンツごとズボンを下ろされ、すぐに滑らかに巻き取られた。そのまま熱く濡れそぼったーー

あぁん……。

「くっ、あぁ……」

包み込み、さっそく蠕動をはじめた快美感に慎吾も腰を動かした。男の息遣いが水音に呑まれ、くちゅくちゅと、秘めやかな響きが闇に満ちていく。

「はっ、おぉ……」

たまらない嫁の感触に、慎吾のボルテージは上がっていく。ギシギシとベッドが呻き、交わりの深さを示した。

「くッ、出すぞ。ミリア……」

いいよ、出して。私のナカで……。あぁンッ……!

「ぉおおおおッ!」

キュンと絞められた途端、慎吾の欲望は彼女を濡らした。ビクビクっと跳ねる脈動は、なんどもなんども彼女を熱く穢した。

はっ、あぁあん……。

「ミリア……」

ぺちゃ、ぺちゃ……。

上の方からも隠微な水音が立った。

彼女は最高の嫁だ。
俺のすべてを受け入れて呑み込んでくれる……。
包み込んでくれる。

慎吾は恍惚として、彼女と絡み合い続けた。



あの夢ーー。

嫁以外の女性と家庭を築いているなど、なんて背徳的で冒涜的な夢なのだろうか。しかもあの夢は幸福になった後だけを見せ続け、その妻といつ出会ったのか、どうやって関係を築いていったのか。その過程がすっぱりと抜けていた。

まるで、気がついたらいつの間にかそこにいたようなーー。

ははっ、やっぱり夢だ。
気がついたら妻がいたなんて、夢以外のなにものでもない。だが、嫁のいる身としては罪悪感を覚えてしまう。
過程もなく家庭を築く夢の妻とは違って、現実の嫁とは出会いから結ばれた時まで、いや、連綿と現在まで続く過程が、隙間ないほどに埋まっている。

はじめは俺の一目惚れだった。

慎吾は甘酸っぱい気持ちを思い出して思わず苦笑してしまう。その気持ちは、まるで時が凍りついたかのように色褪せず、新鮮なまま慎吾の核をなしている。彼女への気持ちがもしも失われてしまうことがあれば、いっしょに自分も瓦解してしまうのではないかと、本気で思う。

あくせく働いてようやく準備が整って、彼女を家へと迎え入れた。
はじめは戸惑っているように思えた彼女も、自分の甲斐甲斐しい献身で心を開いてくれた。
結ばれるのも、時間の問題だった。
こんなにも心を満たすことがこの世にあるのかと、結ばれた瞬間は泣いてしまったかもしれない。破瓜で泣くべきは彼女だったろうが、彼女は苦笑して抱きしめてくれた。

今でも毎日してくれるように。

そんな嫁がいるのだ。
あんな夢を見る道理はない。

その夢のことを嫁に言えば、少しだけハッとしたような顔をして、でも、気にしないで。夢はいつか終わるものだから。

そう言った。

彼女が本当に何も思っていないのかどうかはわからない。
しかし、彼女はこうしていつも通り抱いてくれる。

慎吾は安楽のうちに眠りにつく。
彼が包まれるシーツには可愛らしい少女のイラストがプリントされていた。口元も、股間部もシミになって汚れている。

物言わぬはずのシーツ。
だがその動かないはずの口元が、ゆっくりと吊り上がり、ニタリと妖しい笑みを浮かべた。
18/09/02 12:57更新 / ルピナス

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