連載小説
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後編・そして終焉へ…
ウェールズがガーベラを連れて、宿泊している部屋に帰り付いた時、壁に掛けられた時計は、静かに午前2時半を回ったところだった。
まずはゆっくり身体を休めたい。
そう考えたウェールズだったが、地面にしこたま叩き付けられて泥だらけになったガーベラの姿を見て、彼は気を使って、彼女に先にシャワーを浴びることを勧めると、自分は外に出て待っているからと言い残して、そのまま巻き煙草の紙箱を一つ手に取ると、外に出て、そのままドアにもたれかかって天を仰いだ。
ウェールズはシャワーを勧めた際に、何かを勘違いして慌てふためいたガーベラを思い出し、唇の端に僅かな皺を作ったのだが、その笑みはすぐにいつもの仏頂面に戻った。
「………クソッ、マッチを部屋に忘れた。」
取りに戻ろうかと考え始めていると、部屋の中からシャワーが流れる音が聞こえた。
その音を聞いて手遅れだったことを悟ると、ウェールズはずるずると扉を流れ落ちるように床に腰を落ち着け、火のない巻き煙草を一本咥えると、暇を持て余すように口で上下に揺らしながら、ぼんやりと廊下を眺めていた。
何か、夢みたいだ。
それが彼の感想。
自分のすぐ傍にガーベラがいる。
二十数年の旅の間に、こんなに感情が揺れ動いたことがなかったような気がする。
この安宿の粗末だが清潔に保たれた廊下が、自分を幻想に誘う夢の回廊。
「夢、じゃないな…。」
夢ではない。
その証拠に、彼の右手の手の平がガーベラの温もりを感じている。
その目が、あの頃と変わらない彼女の姿を捉えている。
「よくよく、俺は不器用な人間らしいな。」
諦めたような溜息をウェールズは吐いた。
こういう風に、戦うことでしか自分を表現出来ない。
戦うことでしか、相手の思いを感じられない。
だが、それをウェールズは恥じてはいなかった。
「やれやれ…。60も目の前だというのに、マザコンここに極まれりだな。」
そう言って、自嘲気味に笑う。
むしろ歳を重ねるたびに、彼の考え方や性格はどんどん義母であるドラゴン・カンヘル=ドライグに似てきており、彼女を自己の誇りであると考えているウェールズは、そう思えてしまうことに複雑な思いを抱きつつも、それほど不快感は感じていなかった。
「あ……あの…ドライグさん…。シャワー……、上がりました…。」
扉の向こうから、遠慮がちなガーベラの声が聞こえてくる。
ウェールズは、立ち上がるのに思わず掛け声を掛けてしまう自分に、少しだけ自己嫌悪を感じながら、ドアノブに手を掛けた。
「……………ん?」
何か視線を感じたような気がする、とウェールズはドアノブに掛けた手を放し、視線を感じた気がする方向を凝視したのだが、気配はそれきり現れなかった。
何もない。
しかし、油断は出来ないとウェールズは、敢えて視線を感じた方向に無言で、それでいて異常とも言えるくらい膨大な殺気を鋭く叩き付けて、何か動きがないかどうかを確認してからガーベラが待つ部屋の中に入り込んだ。
何も起こらないことを祈りながら…。


ささやかな酒宴は、思いの外盛り上がった。
二十数年の空白を埋めるように、私たちはお互いの近況を話し合っていた。
まずは、ドライグさんの疑問。
どうやって自分のことを突き止めたのか。
その疑問に答えるのに、私は笑顔で一枚の名刺を彼に差し出した。
「えへへ…。実はわたくし、こういう者でございまして〜♪」
「………後ルオゥム帝国……諜報部局長…!?」
「エグザクトリィ(その通り)でございます♪」
そう。
私は現在、後ルオゥム帝国の役人。
というか、かなり重大な要職に就いている。
ある程度は自分の我が侭が通る地位に就いているため、剣客として名高い彼・ウェールズ=ドライグを帝国に剣術指南役として召抱えるための身辺調査という名目の下、彼の足跡を調査し、現在はどこを拠点をしているのか等々を、職務にかこつけて追っていた。
部下からは、『史上最大規模のストーカー』だなんて囃し立てられたけど…。
「驚いたな。お前が……まさかあの帝国に…。」
「あ、ドライグさん。続きも読んでみてください♪」
「あ……ああ……諜報部局長………ガーベラ……ルオゥム…!?皇族だと!?」
目を丸くしてドライグさんは驚きの声を挙げた。
ああ、この驚いた顔が見たくて、彼を追いかけていたような気がする。
二十数年間捕まらなかったモヤモヤも、何度も名刺と私を見比べながら驚くドライグさんの面白い様を見ていると、どこかに吹き飛んでしまった。
「うん、私、今皇族なの。」
ついでに言えば、それに相応しい低からぬ爵位も持っている。
「ま、待て待て!いきなりだぞ。何でいきなり……お前が皇族なんだ…!?」
「えっと……話が長くなるんだけど…。お姉ちゃんが亡くなる前にね、私のことと……一応私の姪に当たる子を、ノエル義姉さんに託してくれていたの。それで色々あって、私はノエル義姉さんの義妹になって、あの子…、アドはノエル義姉さんの養子として育てられて…。」
お姉ちゃんが亡くなった日、ノエル義姉さんは私よりも泣いていた。
かつての反魔物国家の元首は、魔物であるお姉ちゃんを親友と呼んでくれた。
親友の死を、誰よりも深く悲しんでくれていた。
ノエル義姉さんの姿が、私の中にあったわだかまりを溶かしてくれた。
反魔物国家に私もお姉ちゃんも家族を、友達を、大事な人たちをみんな奪われた経験が、まだ幼かった私の中にも少なからず憎しみや恐れを植え付けていたらしい。
友達だ、親友だと言っても……この人も結局は反魔物国家の王様だった。
ずっと、心のどこかで思っていた…。
でもそれは誤解だったんだって気付いた時、お姉ちゃんの死を泣いて悲しむノエル義姉さんに縋り付いて、義姉さんの腰に顔をぴったりくっ付けて声を殺して泣いていた。
『ありがとう……、私はそなたたちがいてくれて良かった…。』
私たちがいてくれる限り、ノエル義姉さんはこれからも変わらずに、私たちを愛していけると泣いている私を抱き締めて、優しく語りかけてくれていた中、私はずっとこの人の傍を離れないようにしようと心に誓った。
いつかお姉ちゃんの死を悲しんでくれた恩返しをしよう。
そう心に決めて、私はルオゥム家にお世話になることにした。
ところが、お姉ちゃんの死から10年も経って、アドが留学してなかなか家に帰ってこなくなって、退屈を持て余していたノエル義姉さんの部屋で一緒にお茶会をしていた時、
『アルフォンスの妹は私の妹。アルフォンスの娘は私の娘も同然だ。恩返しなどくだらないよ。私は、ガーベラのこともアドライグのことも大事な家族だと思っている。それでも恩を返したいなどと思うのであれば………、こうして私の我が侭を聞いてくれたり、そなたの我が侭を私が聞きたいな。』
ノエル義姉さんは、私のそんな考えをすべてお見通しだったらしく、敢えて大袈裟な仕草で力強く語りかけながら、太陽のように眩しくて優しい笑顔を向けて、もう成人も迎えていた私の頭を撫でてくれた。
ノエル義姉さんも恥ずかしかったのだろう。
耳まで真っ赤になって、私を撫でる手が微かに震えていたのを今でも覚えている。
その言葉と行動が嬉しくて、私もお返しに力強くノエル義姉さんを抱き締めた。
お姉ちゃんが亡くなって、私はまた一人になるかと思っていた。
でも、私を取り巻く人たちは、私を一人にはしてくれない。
暖かい手で私の手を握って、私を離してくれない。
そんな暖かい絆に、私は今も守られている。
「………そうか。良かったな、ガーベラ。」
私の経緯を聞いて、ドライグさんはホッとしたような笑みを浮かべる。
そのまま、コップに注いだお酒をグイッと煽るように飲み干した。
深い息を吐くドライグさんの顔は嬉しそう。
優しい目を向けて、生身の右手を伸ばすと、そのまま私の髪に触れて、ドライグさんはやさしく滑らせるように私の頭を撫でてくれた。
「それはそうと、職権乱用だ。」
「あ、やっぱりそう思います?」
うう……、自覚はあるんだけどなぁ…。
ノエル義姉さんには目的がバレてたけど、敢えて目を瞑ってくれていた。
ノエル義姉さんの後を継いだ姪のアドも、私のドライグさん捜索に小言を言っていたけど、あの子も何か考えるところがあったのか、深くは追求して来なかった。
……あの私と同年代くらいの渋めの騎士さんが関係しているのかな。
「他にもね……、戦災孤児救済組織の最高責任者もやってるの。天使様、じゃなくてネヴィアさんにも手伝ってもらって、孤児院の設営や里親の斡旋とか……私たちみたいな子供がこれ以上泣かなくて良い世の中を作ろうって頑張っているの。」
どうしても、ドライグさんの前にいると…。
私は気が付かない内に喋り方が幼くなっている。
「そうか………、お前は……、しっかりと自分の道を歩んでいるのだな。」
「これもドライグさんのおかげだよ。あの日、ドライグさんが見せてくれた姿があったから、どんなに苦しくても、辛くてもしっかり前を見据えてこれたんだよ。」
ありがとう。
あの日、伝え切れなかった言葉。
たったそれだけを伝えただけなのに、私は胸の奥が熱くなった。
でも、そんな私とは対照的に、ドライグさんは寂しそうな表情を浮かべた。
「さぁ………、俺はそんな大層なことをしたのかな…。」
「ドライグさん…?」
寂しそうな表情のまま、ドライグさんは手弱でお酒を注いでいく。
その姿は弱々しく、疲れ切っているようにも見えた。
だけど………。
だけどいつ見たのだろうか。
そんな見たことがないはずのドライグさんを、私は見たことがある気がしていた。
「ガーベラ……、俺の四半世紀はお前ほど有意義ではなかったよ。」
ああ、そうだ。
あの日、ネヴィアさんを助けてと懇願した私を……。
私の願いを拒絶した時と……そっくりだったんだ…。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


部屋には沈黙が重たく舞い降りていた。
ウェールズ=ドライグが何も語らない以上、ガーベラもまた、彼が何かを喋り出すまでは何時間でも待ち続けようと思っていた。
彼女の知らないウェールズの四半世紀はあまりに重い。
この部屋を支配する沈黙にも似た重さを持っていた。
「………………………すまない。俺は、お前に道を照らせたのだというのに、俺はこの四半世紀をあまりに無為に過ごしてきたように思える。」
ポツリ、ポツリと言葉を紡ぐウェールズにガーベラは異を唱えた。
「そんなことはないはずだよ…。私が調べた足跡では、ドライグさんは色々な戦争や作戦に参加して……、必ず圧倒的弱者の味方となって、人間や魔物の種族を問わず…。」
まるで正義の味方みたいに、とガーベラが語る。
「正義の味方か…。」
そう呟くとウェールズは笑い始めた。
まるで自分を嘲笑うかのように、寂しく冷たい笑いが室内に響く。
「そうだな。俺は確かに弱者に付いた。テロリストの拠点襲撃作戦に参加したのも、巻き添えを喰らい死んだ子供の応報を願った親の願いと聞き届けたからだ。農奴反乱に加わったのも旧体制にしがみ付く権力者が目障りだったからだ。他の戦争にだって、加わった理由なんか高が知れている。これが正義の味方か。……これが、弱者の味方か!ただ自分に酔って四半世紀を無為に過ごしてきた。それが、俺なんだよガーベラ!」
「ドライグさん…。」
「何十人斬ったと思う。何百人何千人斬ったと思う。俺は確かにお前に誓った。龍の子として恥じない道を征くと…。だが、俺にはそれがわからなくなった…。終わらない殺し合いの螺旋を歩き続ける日々。途中下車は許されず、斬った者たちが夢にまで現れ、夢の中まで血塗れに過ごさなければならない。俺が戦いに身を投じた理由だってな……、悪夢を殺すために人を斬ってきただけなんだ…!剣を捨てることも考えた。だが、剣を捨てる決意をするたびに、悪夢は災厄を呼び、災厄は更なる悪夢を呼ぶ。だから剣を、夢を、理想を捨て切れず、捨て切れないまま俺は誰かの意思に決定を委ね、ただ無意味に正義の味方を演じるしかなかった…。俺は………お前にまた出会えるまで忘れていたんだ…。忘れていたかったんだ…。義母に、お前に、アケミに、あの日誓った誓いはあまりに遠くて、あまりに途方もなくて重すぎて……いつしか俺の心は生きながらにして死んでいた…。この手に残るものは……何もなかった…。」
ウェールズは苦しみを吐露し続けていた。
二十数年、心の内にしまい込んでいた苦しみが、ガーベラという眩しい太陽の光を浴びて、ついに抑え切れなくなり、涙と嗚咽と共に垂れ流されていく。
そんな彼の苦しみを、ガーベラは黙って聞いていた。
彼女の憧れの偽りのない姿。
その姿はどこか懐かしく、酷く歪で、どこか純粋な幼さを感じさせた。
「……ドライグさんの…、これまでの軌跡は、無意味じゃなかったよ…。」
「無意味だ、無価値だ。俺は結局誰かの怒りと憎しみを映し出す鏡であり、誰かの唱えた正義を演じ続け、自らの蛮勇に踊らされ、体制と権力者に逆らい続ける反逆の異端者に過ぎない。」
再び沈黙。
無限のエゴ。
無限の理想。
無限の怒り。
無限の悲哀。
尽きることのない人間の激情。
絶えず揺れ動く天秤の如き正義と悪。
二十数年前、彼がやっと辿り着いた熱を持った場所。
初めて生きていることを実感し、理想を取り戻して歩き出した場所は、まるで嵐のように憎悪と悲しみが激しく渦巻き続け、吹き荒ぶ砂嵐が巨石を削るが如く彼の取り戻した理想と魂を磨耗させ、いつしか彼の心は疲弊し、虚無感だけが重く圧し掛かっていた。
それでも絶対的弱者の味方に付いたのは、ウェールズの必死の抵抗だった。
完全に、心が磨り減ってしまう前に…。
そんな言葉にならない重い感情を、ガーベラは感じ取った。
彼の足跡を探していた彼女だからこそ感じ取れたのだろう。
ウェールズが、どれ程の絶望を味わいながら生きてきたか。
それは彼がかつて心を失った時とは、比べ物にならなかっただろう。
長い、長い沈黙。
ただ室内には、語り終えたウェールズがグラスを傾ける音だけだった。
そして、沈黙が破られる。
その沈黙を破ったのは、他ならぬガーベラだった。
「無意味じゃ……ないよ…。」
「繰り返すな、ガーベラ…。俺は……。」
再びウェールズの否定。
だが、その否定をガーベラは否定する。
「無意味じゃない……。無価値なんかじゃない。私がドライグさんの足跡を探った時、色んな人たちがドライグさんのことを讃えていた。色んな人たちがドライグさんに希望を与えられていた。ドライグさんのおかげで憎しみから決別出来た。色んな人たちが……辛い昨日を背負ったけど……繰り返さないために違う明日を歩いていけるきっかけを……ドライグさんに与えられたって言ってた…!それに……、私だって……。私だって、ドライグさんがいたから、こうしてここに……立っているんだよ。」
半ば泣きながらガーベラはウェールズの手を、酒の入ったグラスごと包み込むように握った。
「ドライグさんの手が……、もしも本当に何も掴めないんだったら…。私がこうしてすり抜けていく色んなものを拾ってあげる…。零れないように……支えてあげる…。それに……。」
そっと、ガーベラはウェールズの手を放すと、ウェールズが学園都市セラエノを発った晩に彼女を抱き締めた時のように、大きく手を広げて、優しく包み込むように抱き締めると、泣きじゃくる子供をあやすように背中を軽く叩く。
「疲れたなら、私が抱き締めてあげる…。もう、私も子供じゃないんだよ。恋も知ってるし、人の見たくない汚い部分も知ってるし………、心が疲れてしまって休みたがっているドライグさんの、宿木にだってなってあげられる…。」
ウェールズを抱き締める腕が、少しだけ強張る。
静かに、決意を込めたような声で言葉を搾り出す。
「………慰めて……あげることも出来るんだよ…。」
ウェールズにはその資格がある、とガーベラは消え入りそうな声で言った。
ガーベラに打ち勝った。
もっともウェールズにしてみれば、ただ稽古を付けているだけの感覚であったが、ガーベラにしてみれば彼は絶対の憧れであり、学園都市セラエノで出会って以来、彼以外の男性など考えられるはずもなく、こうしてウェールズに恥ずかしくない実力を身に付けて、全身全霊で勝負を挑んで負けた。
ウェールズには資格がある。
ガーベラというリザードマンに勝ち、彼女を手に入れる資格がある。
生殺与奪はもちろんのこと、望めばその身体を弄ぶことも許される。
「………………はぁ。」
ガーベラの腕の中、ウェールズは大きく息を吐いた。
「…………ク……ククク……ハハハハハ…。」
「……あれ?」
何か可笑しかっただろうか、とガーベラは首を捻る。
腕の中でウェールズは笑っていた。
さっきまでの自分を嘲笑うような笑い声ではなく、吹っ切れて晴々とした笑い声だった。
「……やれやれだ。まさかこんな子供にまで慰められるとはな。」
「あ、子供じゃないってば!……そりゃあ、ドライグさんから見たら若いかもしれないけど、こう見えても大人の女なんですからね。もう孤児院の子達からは『ガーベラおばさん』って呼ばれちゃうんですから。」
大人の女をアピールしようと、ガーベラは自分で言った言葉にダメージを受け、ウェールズを抱き締めたまま弱々しく項垂れるのだが、そんな彼女の姿にウェールズは唇の端を歪めて僅かに微笑むと、彼女がしてくれたように優しく背中を叩いた。
「気にするな。俺など戦場に出れば『老将』とか『老剣客』などと言われている。大物首を獲れば『老いて益々盛ん』などと叫ばれ、時には辟易したものだが、慣れればそれがステータスにも感じるものだ。」
「うぅ……、私はまだそんな心境にはなれないよぉ…。」
どちらが慰めているのだか、とウェールズは苦笑いを浮かべた。
「ありがとう、ガーベラ…。俺は、俺の道を歩いているのか実感がない。俺が誰かの道を照らしているのかすら、お前に教えられても実感が湧かない。今の俺は人形だ。誰かの都合の良い夢に酔い、自分の理想をそこに重ねて、剣を振るうことしか出来ない老いた修羅だ。」
「……ドライグさん。」
「お前は本当に良い娘だ。俺が苦しみ、道を見失っていると、必ず俺の前に現れて、俺に正しい道を照らしてくれる。まったく……セラエノの連中はみんなお節介焼きばかりで困る。どいつもこいつも、俺を諦めさせて、時間に埋没させて、朽ち果てさせてはくれない。」
「朽ち果てさせたりなんて……しないよ…。」
抱き締める腕を解き、ガーベラはウェールズを解放する。
そのままウェールズの頬を両手で優しく包み、熱っぽく潤んだ瞳で彼の目を見詰めていた。
「だって………あなたは……何度だって立ち上がってくれるんだから…。」
瞼を閉じて、ゆっくりと顔を近付ける。
ウェールズも拒まない。
一瞬、唇同士が触れ合うと少しだけ距離が開く。
でもそれもやはり一瞬。
柔らかな唇の感触と、お互いの熱を感じ合いたい。
そんな思いを交し合うような口付け。
舌も唾液も交し合わない優しく、甘い口付け。
「…………煙草の匂い。」
「……嫌だったか?」
「………………ドライグさんの匂い。」
もう一度、熱を感じ合うような口付け。
熱い吐息が漏れ、蕩けるような感覚を二人は互いに感じていた。


………ドライグさん、抱かないんですか


抱かない


………抱けないんですね


ああ、抱けない

俺の中の修羅は、お前には相応しくない


………じゃあ、いつか私を奪いに来てください


ああ、その時は………

その時は………お前を迎えに行こうか……




―――――――――――――――――――――――――――――――――


「じゃあ、私はこれで。」
安宿のロビーで俺たちは別れを惜しんでいた。
俺は何日かここに滞在する予定であり、ガーベラはその立場上、いつまでも俺に付き合って逗留することが出来ず、一緒に朝食を取り、簡単な買い物のために一緒に街をぶら付いて、昼前に彼女はルオゥム帝国の紋章入りの馬車で本国へ帰ることになった。
別の部屋には何人かガーベラの護衛が宿泊していたらしく、キビキビとした動作で彼女の旅支度を整え、その準備に忙しそうに追われている。
そんな姿を見て、ガーベラが皇族だと言うのも嘘ではなかったのだと実感する。
どいつもこいつもかなり腕が立ちそうだ。
もしも長丁場戦えば、俺も危ないかもしれない。
そんな腕を持っていそうなのが、ザッと見渡す限り5人もいる。
ああ、本当にこの娘は大事にされてきたんだな。
「……ガーベラ。今……、幸せか?」
突然の俺の問い掛けに、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「うん、とっても♪」
いくつもの大事なものを失い、いくつもの大事なものを理不尽に奪われた半生で尚、ガーベラはこの不安定なロープの上を歩くような世界で、付け焼刃でいつ剥がれ落ちるかわからない平和を演じる時代であっても、彼女は何の迷いもなく幸せだと肯定する。
少しは、信じてみたくなった。
この世界は、俺が思うよりも少しずつ良くなっていると。
「結局、ドライグさん………私を抱かなかったなぁ…。一晩中私を抱き締めてくれたけど、ソファーの上でお話したり、お酒飲んだり……何度もキスしてくれたのは嬉しいけど…。私って魅力ないのかなぁ…。」
「…………さすがにまだ、な?」
俺の中で、まだあの日の幼かった頃のガーベラが重なってしまう。
そう口篭っていると、それを察したのかガーベラは口を尖らせた。
「あー、また私を子供って思ってる。」
「思っていない。」
平気な顔で嘘を吐く。
「もう、これはわからせてあげるしかないね。良いですか、ドライグさん!」
俺に向き合うや否や、ガーベラは俺の首に腕を絡めて一気に力強く引き寄せると、それだけでは届かない分を、目一杯のつま先立ちで背伸びをしてキスをした。
昨夜とは比べ物にならないくらい熱く、情熱的なキス。
ぬるり、と舌が絡めてくるキスに胸の奥が切なくなり、俺は背伸びをするガーベラが愛しくて、そっと彼女がバランスを崩さぬように抱き締めた。
「………………子供じゃ、ないでしょ?勇気を出して踏み出せば、あなたの胸に飛び込めるし、ちょっと背伸びをすれば、こうしてあなたに愛を伝えられるんだから…。」
続きを言いかけているガーベラの口を塞ぐように、無言でガーベラにキスをする。
貪るようなキスではなく、熱い抱擁の延長のようなキスで返す。
この想いを、何と呼ぶのか俺は知らない。
ただ、どうしようもなくこの娘を手放したくない。
それだけが、今こうしてこの娘に口付ける偽らざる俺の想い。
「………いつか、迎えに来てね。」
この娘はいつまでも夢を見ている。
俺と言う幻想をいつまでも追っている。
「ああ……、今度は……俺の方からお前を訊ねるとしよう…。」
ならば、俺も追い続けよう。
俺が信じられなくなった理想を。
俺が見失ってしまった遠き理想を。
今度こそ、俺を信じているこの瞳を……。
俺は、裏切らない…。













ガーベラの一団が去って、静かになったロビー。
急に舞い降りるのは独特の寂しさ。
ウェールズは宿の出入り口から、彼女の乗る馬車が見えなくなるまで見送ると一人、寂しいのか大きく溜息を吐きながら出入り口の扉を閉めた。
ガチリ、と何故か施錠して。
ロビーからは、木製の垣根で仕切られたサロンで、チェックアウトを終えたのか、トランクなどの大きな荷物を傍らに、談笑を楽しみながら昼食をする人影が見える。
「おい、親父。」
何か用があるらしく、彼は受付に座る安宿の支配人らしき男に声を掛けた。
「はい、何か?」
昨日のように新聞を御所望でしょうか、と支配人は尋ねた。
新聞は後でもらう、とウェールズは答えると、低い声で言い放った。
「思いの外、尻尾を早く出したな。」

キィンッ……

甲高い鍔鳴りの音がホテルのロビーに響いた。
支配人らしき男は、何が起こったのかわからないという顔をしたまま絶命した。
神速の抜刀術。
膝から力尽きて倒れた瞬間、ゴロリ、と男の首が転がった。
赤い赤い、ぬるり、とした絨毯が広がっていく。
ウェールズは男の最期を見届けぬまま、今度は背後に向かって居合い抜きを放つ。
「むぐぅっ…!?」
背後から湾曲したナイフを手に持った男が、ウェールズに襲い掛かっていた。
だが振り抜かれたウェールズの刀が、確実にナイフを持つ男の胴体を上下に真っ二つに両断し、力の行き先を失った下半身はもつれるようにその場に転び、上半身は飛び掛かった勢いそのまま短い声を挙げて、受付のカウンターに飛び込み書類や備品を派手に散らかして棚に激突し、そのまま最初に斬られた男の身体の上に落ちて絶命した。
あたりには、臓物から溢れる悪臭が漂う。
「………昨夜の視線の正体は、貴様らだったか。」
サロンで談笑を楽しんでいたはずの宿泊客全員が、無言で立ち上がる。
手には同じような湾曲したナイフが握られている。
男も女も、子供でさえも冷たく憎しみを込めた視線をウェールズに向けていた。
「ああ、良い目をしている。本当に………どうしようもなく腐った目だ。」
昨夜感じた視線の正体。
それはこの安宿の主人を含めた全員の敵意ある視線だった。
「ところで、貴様らはどこのゴミだ?」
その言葉が引き金だった。
全員が一斉に聞き取れないような金切り声で、一心不乱にウェールズ目掛けて飛び掛る。
それはまるで引き絞った弓の如く。
暗殺者らしい何の飾りもない、どろりとした闇を感じさせる動き。
「ああ、その言葉でわかったよ。カンナニエで潰したゴミどもの残りカスか。ご大層に【御子の後継者たち】とか名乗るカビの生えた盲信者か。」
襲ってくる者たち、そして最初に斬った支配人風の男は、少し前に彼が参加した作戦で滅ぼした反魔物テロリスト集団【御子の後継者たち】のカンナニエ支部の生き残りである。
老いも若きも、尋常でなく彼を憎んでいた。
ウェールズは静かに構える。
緊張はない。
むしろ心は解き放たれたように踊り、顔には愉快と言いたげな笑顔が浮かんでいる。
それは、地獄の底に苦しんで尚戦いを望む修羅そのものであった。
「戯けが……。昨晩は俺の殺気に震えて襲撃出来なかったくせに、まだ俺を付け狙うか。」
一歩踏み込む。
一振りで二人の首が飛ぶ。
「それにその格好は何だ。まさか俺を殺った後は、ガーベラたちを襲うつもりだったのか。」
さらに一歩踏み込む。
軽やかな剣閃が三人の身体を通り抜け、返す刀で一人の顔面を縦に割る。
「無駄なことを…。お前たちはどこにも行けない。お前たちはどこにも帰れない。」
低姿勢でウェールズの腹を刺そうと、少年テロリストが滑るように迫り来る。
それを、ウェールズは斬った。
少しだけ心が痛むが、ウェールズは事もなげにさらに迫る襲撃者を斬り捨てる。
戦場では、少年兵など当たり前だった。
「俺はな……鬼だ。悪鬼羅刹、血に狂う修羅だ。だがな、疲れていた。昨日までの俺なら、お前らに殺されても良いような心地だった。しかし、お前らは間違いを犯した。」
前後から襲い掛かる男たちを同時に斬る。
その剣速は自らを悪鬼羅刹と蔑むに相応しく無慈悲。
そして修羅に相応しく神掛かっていた。
「生きる目的が出来た。ガーベラとの誓いを果たし、ガーベラの想いに応えること。例えそれが彼女に相応しくなかろうと、俺は……俺だけの修羅の道を征く。なればこそ、この身体に一片の正義すら必要とせず。ただ一人の乙女を守護する一匹の魔獣たらん。それがこの時代に道を照らすものとなるなれば、我、喜びてこの幾許かの命を使命に捧げ、血に塗れて狂おうぞ…!!」
袈裟斬り。
大きな音を立てて、男は一人床に臥す。
床に響き渡る音で、いよいよ襲撃者たちはジリジリと距離を取り始めた。
「我はウェールズ=ドライグ。この宿命に従いて、この時代に巣食う理不尽を喰らい尽くす龍の子なり。神よ、魔よ、人よ。この哀れなる者たちの血を以って生贄となし、我ここに誓わん。この身体が動く限り、この耳に悲鳴が届く限り、我は弱者の味方たらんと!」
刀を一振りして、血糊を飛ばす。
その仕草に襲撃者たちは息を飲んだ。
妖しく、恐ろしく、鬼気迫る程に美しいと。
「………いざ、参る!!」
刀を鞘に収めぬまま、ウェールズは翔ける。
駆け抜ける先は目の前の敵に非ず。
駆け抜ける先は、再び目指した理想の果てへ…。


ウェールズ=ドライグ。
史書に曰く、人生の大半を戦うことに費やした修羅である。
87年の人生の内、斬った人間の数は千人を超えるとまで言わしめる男。
各地を転々として、決まった主君を持たなかったために後世に不忠者の烙印を押されるものの、その武は神の領域に達しており、同時代で彼を討ち取ることが誰も出来なかったため、死後数百年経った今も最強の座を譲らぬ剣客である。
その武、生来のものとされ、多くの弟子は持ったが誰一人として、彼の域まで辿り着かず。
最期は辺境統一王朝後ルオゥム帝国アドライグ大帝期に仕官を許され、屋敷と爵位を与えられたものの、87歳の時に長年の無理が祟ったのか病没す。
魔王と戦いし者を勇者と呼んだ時代にあって、ただ圧倒的弱者のために人を斬り、教会勢力、魔界勢力を問わず味方した彼を誰もが英雄と呼び、絶えて久しい真の勇者の心を持つ者と讃え、今日まで伝記が残る。
彼の跡を継いだ者はなく、ドライグの血は彼一代で絶えたと史記は語る。












……………………………。
…………………………。
………………………。
……………………。
海の見える丘に小さな墓がある。
墓には何も掘られておらず、ただ花が添えられているだけ。
その墓に手を合わせるのは、黒い鱗に身を包んだリザードマン。
赤い瞳が墓石を見詰めている。
「………ちょうど、15年前の今日だったなぁ。」
彼女の後ろから、二本の小太刀を腰に差し、美しい装飾が見事な蒼い刀をさらに佩いたリザードマンが、墓の主が好きだったと思われる銘柄の酒瓶を手に現れた。
彼女の母親であろう。
「……………お酒好きで、ヘビースモーカーで、いつも私を子供扱いして。のんびり暮らせば良いのに、たくさんの人たちのために戦って、身体をボロボロにして。」
「でもさ、母さんはそんなこの人が好きだったんだろ?」
まぁね、と母親は酒のキャップを開け、墓石に頭から流す。
「頑張って、生きたんだよ。傷付いて、もう動けなくなるまで戦って、納得するまで苦しんで…。おかげで、世界は少しずつだけど良い方向に進み始めている。後は、あなたたちの世代がどうするかにかかってる。」
母親も静かに手を合わせる。
しばしの沈黙の後、振り返って真剣な眼差しで母は娘に問う。
「エレン……エレンスグ…。」
「はい。」
エレンスグと呼ばれた黒いリザードマンは姿勢を正した。
「エレンスグ、あなたは何をしたい?」
「…………まずは旅を。」
エレンスグは、真っ直ぐに母に向かって応えた。
「私は、何もかも母さんや伯母様の言葉でしかこの世界を知らない。だから自分の目で、自分の足でこの世界がどういうものなのかを知りたい。それが母さんに近付く方法であり、父がどんな人だったのかを知る方法でもあるから。」
エレンスグの言葉に、母は静かに目を閉じて聞いていた。
小さな深呼吸の後、彼女は腰に佩いた蒼い刀を手に取ると、エレンスグに手渡した。
「まずは私からの卒業祝い。私が教えられることは全部教えた。でもこれ以上はあなたの領域。あなたは望みのまま行きなさい。私も、あの人も、誰も彼もが、そうやって傷付きながら前に進んできたんだから。エレン、今日からはこう名乗りなさい。エレンスグ=ドライグ、誇り高い勇者の娘であると。」


しばらくして漆黒の鱗を纏うリザードマンが界隈を騒がせる。
まるで闇を纏うようなリザードマンは、かつて勇者と讃えられた男と同じように弱者のために彼と同じ蒼い刀を持って現れ、弱者のために剣を振るうのだという。
失われたはずの『ドライグ』の名を名乗って……。

ウェールズ=ドライグ、その物語はまだ終わっていない。


12/06/27 07:31更新 / 宿利京祐
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■作者メッセージ
今回は言葉少なめに^^

おはようございます。
これにて外伝・ウェールズ=ドライグの章、完結と相成りました。
ただし、これはあくまで宿利版最終回です。
彼らの物語は、これを読んでいただいたあなたの数だけあるのです。
ホフク様、素敵なゲストをありがとうございました。

では最後になりましたが、
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう(^^)ノシ

……と言う訳で、これから出勤してきます(BGM・ドナドナ)
みなさん、今日も良い一日を!

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