連載小説
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前編
 東方はジパングのとある森の奥深くを、一人の年若い男が歩いていた。

 彼の名は刹那という、一風変ったものであった。
 それというのもこの若者、まだ目も開かないうちに寺へと預けられて『刹那』の稚児名をもらい、元服の時期を過ぎた現在でもそのまま名乗っているのだ。
 見た目も性格も幼い刹那はこの名を大変気に入っており、また、髪を切らずにその名を持ち続けることが、孤児であった彼に名をくれた寺への恩義の証でもあった。

 刹那が育てられた寺は近辺にカラステングの里がある山の頂にあった。そのため彼は寺で育った仲間たちと共に朝から晩まで山を駆け回り、里のカラステングたちから剣の稽古をつけて遊んでもらうという幼少期を過ごした。
 寺を出てからは天狗直伝の剣術を売りに用心棒のような仕事をこなし、諸国をあちこちを見て回る生活をずっと続けている。
 別に一所に留まれぬ性分ではない。
 ただ寺を継いだ仲間がいてくれたので、せっかくだからと旅に出てみることにし、それ以降は腰を落ち着ける場所も機会も特になかった、というだけの話であった。

 そんな刹那が森に足を踏み入れているのは、先日立ち寄った町で『大百足の退治』を依頼されたのが理由だ。

 大百足は魔物に対して親交の深いジパングの中であっても『怪物』と恐れられる魔物である。
 性格自体は陰気なのだが、かのウシオニに並ぶほどの凶暴性を秘めた本性を持ち、一度男を手に入れれば二度と手放すことはない。
 時には人里に降りてきて男を襲うこともあり、今回調査を依頼されたのも森で大百足の目撃上があったためであった。
『どうにもまだ相手のいない大百足らしく、町の人間が襲われても困るうえに、放っておいたら町にやって来る人足の方が鈍ってしまう』と町の衆に泣き付かれてしまっては断るに断れなかったのだ。本人はあまり気付いていないが、刹那は生来人が好いのである。

(しかし、大百足の退治とは……引き受けたのは良いけれども、どうしたもんだろう)

 烏天狗に指導を受けていたこともあって、刹那は魔物に対する忌避感・嫌悪感の類は全く持っていない。たとえ大百足が凶暴な妖怪であるといえども、無闇に危害を加えるつもりはないのである。ましてや命を奪うようなことは絶対にしないと、町の人間にも言ってある。
 だからといって大百足をそのままに放置しておくわけにもいかない。大百足と結婚したいという男でもいれば円満に解決しそうなものだが、残念ながら町の男たちには皆断られてしまった。妖怪を伴侶にする者は決して珍しくないものの、流石に相手が大百足とあっては抵抗があるらしい。

(別の土地に移り住んでもらうか? でもそれじゃ根本的な解決にはならないし、そもそも大百足に話が通じるか分からないし……第一、住んでる場所を追いたてるってのが良くないよなぁ。あふぅ……どうしようか……)

 無責任に安請負をしてしまったものだ。そう今更になって頭を抱え始めた刹那だったが、立ち往生するわけにもいかず、森の奥の奥、誰も足を踏み入れないような場所にまで入って、例の大百足を探し始めていた。
 入り組んだ森の中を歩くことには慣れっこであるし、大百足が近くに来れば音や気配ですぐに気付くことができる。自分が襲われることになっても、頭上の木々を足場にすれば逃げることなど造作もない。本当に万が一の事態になれば腰の刀で撃退することだってできる。そこはカラステングたちを相手取って鍛えてきた自負が刹那にはあった。

(ん……? もしかして、この音は……?)

 木々がますます鬱蒼と茂り、辺りにうす暗い雰囲気が漂い始めた頃だった。遠くから何かの物音が微かに聞こえ、刹那は目を閉じて注意深く耳をそばだてた。
 聞こえてくる音は二つ。こちらに距離が近い音は、草葉や地面を蹴り上げる音の方だ。森を駆け抜ける獣の足音……だが軽い。恐らく兎のような小動物だろうと推測できる。
 そしてその後方にもう一つ何かがいる。ざわざわと草葉を蹴散らしていく何かが。奇妙なことに土を蹴る音が一切しない。初めて耳にする、まるで這うような音――
 それが目的の足音であると判断した刹那は、すぐに傍の大木の枝に駆け上って息を潜めた。枝葉を寄せて身を隠し、じっと音が近づいてくるのを待つ。

 小さな獣の気配。
 大きな得体の知れない気配。
 そして木陰から兎が飛び出した次の瞬間に、蟲の巨体がぐわりと覆いかぶさるように現れ、兎を捕らえていた。

(あれが大百足……!)

 暗い緑色をした体が節になって幾重にも並び、対になった褪せた赤色の脚が無数に蠢いている。得物を抱えた上体が身じろぎをすると、そこから伝播するように蟲の体はうねりをあげていく。尾の先に付いた牙を恐ろしげに開き、キチキチと音を立てて脚を鳴らすその様は、まさに百足そのものだ。

 だがその上半身は女性の――しかも飛び切りの美女の姿をしていた。

 紺の地の着物は紫の鮮やかな襟から、袂に向かって模様が毒々しく垂れている。
 赤く変色していく模様に合わせて染められた袖口と花飾り。
 かつて見たことのない妖しい着物をはだけるように羽織るだけで、女性はその艶かしい身体を惜しげもなく晒している。
 白い肌には紫の印が這い回り、それと共に腰と胸に回った蟲の脚が、彼女の肢体を一層艶かしく際立たせる。
 紫苑色の長髪は彼女の顔を覆い隠そうと伸びているものの、その内側にある 物憂げな瞳に形の良い八の字の眉、整った鼻に瑞々しい唇を隠しきれていなかった。
 首筋に隠れた鋭い顎肢も、頭部から突き出た赤い蟲の触角も、女性の全てを形作る魔性の美の一部だ。

 刹那は思わず息を呑んだ。

 それは兎に牙を付きたてる面妖な怪物に恐れおののいたせいか。
 それとも人の女では決して届くことない妖魔の美貌にほれ込んだためか。
 視線は眼下の女性に釘付けになり、何も他のことを考えることは叶わなくなっていた。

「……ごめんなさい」

 大百足はそう呟いて兎の体をそっと抱きしめると、また蟲の身体を揺らしてもと来た道を戻り始めた。

(あふぅ、綺麗だ……じゃなくて、早く追いかけないと!……こっそりだけど)

 刹那はその後姿をぼんやりと眺めていたものの、依頼のためにも大百足を追いかけなければいけないと思い出し、彼女に気取られぬように注意深く木の上を渡っていった。

 しばらく彼女の後を付けていくと、大百足は小さな川のほとりにある洞穴へと入っていった。まさか正面から侵入するわけにもいかず、どこか中を覗けるような場所はないかと、刹那は洞穴の周りをあちこち調べ始める。
 すると洞穴の天井にあたりそうな箇所に、ぽっかりと穴が開いているのが見つかった。これ幸いと刹那は穴のまわりの岩へ器用に足をかけ、顔だけを突き出すようにして逆さ吊りで中を覗き始めた。

(ここに彼女が住んでいるのか。ずいぶんと寂しい場所だな……)

 下半身が大きな体躯の大百足が住んでいるだけあって、洞穴の中は空間としては開けていて非常に余裕があった。しかし中の空気はじめっとして湿り気が強く、ひやりと冷たい。
 家具の類は何も見当たらず、中央にある焚き火が無機質な岩肌と彼女を照らしているのが見えるだけだ。隅にある寝床らしき場所には草が布団のように敷いてあるが、それも粗末なつくりである。人間が住んでいる気配は無く、彼女を出迎えた者もいなかったので、ここで一人暮らしているようだ。
 大百足の方はといえば、奥の窪みから刃物や桶といったものを取り出すと、悲しげな顔をしたまま再び洞穴の外へと出て行った。おそらく捕まえた兎を捌きに行ったのだろう。戻ったときには兎はキレイに切り分けられた肉塊に変っていた。

(彼女……どうしてずっと、あんな顔を……)

 肉を串刺しにして焼き始めても、彼女の表情は変わらない。百足の身体を巻き、抱え込むようにしてうつ伏せになり、火の加減を見つめている。時おり思い出したように肉を動かし、またじっと火を見つめる。
 煙にいぶされて少し涙目になりながらも、刹那は大百足から目を離すことができなかった。依頼に従うなら彼女と何かしらの話をつけなければいけないのだが、それよりも今は、彼女がどうしてあのように憂いに満ちた表情を浮かべているのかが気になって仕方なかったのである。

「……いただきます」

 遂に兎が焼け終わると、大百足はそっと両手を合わせて目を閉じた。そして肉に手を伸ばし、それを一口かじり咀嚼して――

(――な、泣いてる!? な、なんで!? いきなりどうしたんだ!?)
「……うぅっ……ひぅ、ひっく……」

 彼女は嗚咽を漏らし始めた。暗く濁った瞳からはボロボロと涙が雫となってこぼれ続け、彼女の蟲の脚を濡らしている。片手で拭ってみせても、後から後から涙は途切れることがない。

 たまらなかった。
 今すぐにでも彼女の傍に駆け寄りたい。
 その涙を拭って、何が悲しいのかと訳を聞いてあげたい。
 彼女を笑顔にしてあげたい。彼女の笑顔が見たい。彼女に笑顔でいて欲しい。
 まるで心臓を鷲掴みにされたような感覚だ。胸は痛いほどに締め付けられ、顔が熱病にかかったように火照っていく。
 今まで味わったことのない感情に、刹那は心が揺さぶられていた。

(ちょ、ちょっと待てよ? なんだか、頭がクラクラしてるような……)

 そして彼は気付いていなかった。あまりにも長い間逆さ吊りの状態で大百足を見ていたせいで、頭に血が上り(今の体勢ならば下がり)きっていたことに。
 足にかけていた力が緩む。支えのなくなった体はいとも簡単に重力に引かれ、彼は間抜けた声を上げて洞穴へと真っ逆さまに落下していった。

「ふぅおおおおぉぉぉぉああああぁぁぁぁっ!?」
「きゃああぁぁっ!」

 突如奇声を上げて落下してきた男に、大百足は身を後ろに跳ねさせて悲鳴を上げる。

(まずい、落ちて、彼女にバレて、いや、彼女が怯えて、怖がらせちゃって、えっと、どうしよどうしよどうしよどうしよどうしよ!?)

 地面に這いつくばりながら、必死に考えをめぐらせる刹那。
 しかし混乱した頭では何も考えはまとまらず、起き上がることさえ忘れてしまい、荷車に轢かれたカエルのように床にへばり付くだけであった。
 動けないでいる刹那と同じように、大百足も壁際へと身を退きながら目を大きく見開くばかりだ。

(あふぅ何を言えば良いんだこんにちはいい天気ですね気分はいかがですかって駄目だよ急にこんなこと言ったら軟派な奴だって彼女に思われるかもえっとじゃあお友達からお願いしますなんてどうだろうそれも違うだろていうかまず最初に後を付けてたことを謝るべきかなああでもそれを話しちゃったら彼女に嫌われちゃうかもそれは嫌だああどうしよこんなことなら先に結婚してた連中にもっと女の子のこと聞いておけば良かったでもあいつらみんな妖怪には襲われて結婚したんだっけそれって参考になるのかだけど彼女も立派な妖怪だじゃあ俺も襲ってもらえるのかいやっほういやでも彼女にも好みってものがあるだろうし俺なんかで釣り合うわけないよねだからって諦めるなんてできないああもう大百足さん可愛いよ大百足さん着物に顔を埋めながら腕枕してもらいたいよ長い前髪をかき分けておでことおでこゴッツンこしたいよ体をギチギチに巻きつかれて食い込むぐらいに拘束されたいよ仰向けにひっくり返してジタバタしてる上に乗ってお腹たくさんなでなでしたいよたくさんある脚全部順番にぺろぺろしたいよ長い触角を指にくるくる巻きつけてからちゅぱちゅぱしゃぶりたいよ首の顎肢をいっぱいしごいて毒液をぴゅっぴゅって出してあげたいよ最後は寝てる俺の上から大百足さんに乗っかられて手と脚でぎゅっとされつつ幸せな重みを感じながら眠りに就きたいよ大百足さんぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろ――)

――ぐううぅぅ〜〜……。

(――えっと、俺は何を考えてたんだ? ああ、そういえば朝から何も食べてなかったからお腹空いてたんだっけ。肉の焼ける良い匂いもしてたし……)

 洞穴に腹の虫を響かせたことにより、刹那は冷静な思考を取り戻した。
とにもかくにも自分が怪しい者でないと信じてもらうのが先決だろう。そう決めて刹那が口を開きかけたその時、大百足の方からおずおずと声をかけてきた。

「あ、あの……」
「な、なんでしょうか……」
「お腹……空いてるんですか?」
「あ、はい。お恥ずかしながら……」

 ねっとりと全身にまとわり付くような、しかし心地よい柔らかさと温かさを持った女性の声がする。
 少し躊躇いがちに、大百足は焚き火から下ろした肉を指差した。

「ごはん……ご一緒に、召し上がります……?」
「えっと、は、はい……!」

 大百足からの思わぬ誘いに舞い上がり、刹那はしどろもどろにしか返事ができない。
 しかしそんな刹那からの返答を聞くと、大百足の表情は見る見るうちに笑顔へと変わっていった。

(〜〜〜〜ッ!? 反則だってその顔もう無理無理死ぬ死ぬ死んじゃう……! あ、あふぅ……)

 まさしく暗く静かな洞窟にひっそりと咲く、可憐で愛らしい笑顔の花。
 胸に矢が貫通したかのような衝撃を食らい、刹那は地面に顔を突っ伏して沈没した。


◇◆◇


「いただきます……」
「い、いただきます……」

 刹那は上ずった声を出しながら、大百足と一緒に手を合わせていた。
 隣でこちらの顔を覗き込みつつ、少し不安げな表情を浮かべている絶世の美女。近くで見れば見るほどに、刹那はその妖艶な美しさに胸が高鳴っていく。
じっと注がれ続ける視線に、自分がまだ食事に手を付けていないことに気付き、慌てて肉を口に運び始めた。程よく焼けた肉の旨みが口にじわりと広がっていく。簡素ながら塩の味付けが良い具合だ。

「お口に、合いますか……?」
「は、はい! と、とってもおいしいです!」
「本当ですか? 良かったです……!」

 刹那の返事にほっと安心したように、大百足は自分も肉を齧り始めた。
 既に彼女は警戒を解いているらしく、刹那の隣でとても優しげな微笑を浮かべている。

(駄目だ、頭が真っ白になりそう……な、何を話せば良いものやら……)

 ぼんやりとした思考で考えあぐねつつ、空腹も手伝って刹那は黙々と食事を続けていたが、肉が骨だけになったところで肝心なことに思い立った。まだ彼女の名前すら聞いておらず、自分の名前すら名乗っていないのだ。
 鼓動の鳴り止まない胸のまま『ごちそうさまでした』と手を合わせ、刹那は恐る恐る大百足に向き直った。

「あの……俺、刹那って言います。貴女の、お名前は……」

 あっ、と何かに気付いたように小さく声を上げると、大百足は礼儀正しくお辞儀をする。

「失礼しました……恥ずかしながらこの大百足、名を百代(はくたい)と申します。どうか以後お見知りおきください」

 袖を揺らして恭しく頭を下げる大百足。やはり絶世の美女である。しかし、魔物の美女ならば子供の頃から見てきたというのに、百代は何かが違っていた。
 陰気をたたえた悩ましげな顔も、身体を舐りつくすような声も、蠱惑的という言葉を体現したような身体も――何もかもが刹那の心を捉え、絶対に離そうとしてくれない。
 寺の人間とカラステングにしつけられたため、基本的に礼儀正しい刹那であったが、この時ばかりは頭を下げ返すことも忘れて、百代にぼうっと見惚れていた。

「百代さん、かぁ……」
「百代、とお呼びして構いませんよ? それに敬語も結構ですから……」
「いえいえ! そんな失礼なことできませんって!」

 ぶんぶんと勢いよく首と手が横に振られる。しかし否定の意を表す行動を見ると、百代と名乗った大百足の表情は途端に曇り始めた。微笑を浮かべていた顔にかげりが生まれ、両手で慎ましくも形の良い胸を押さえている。

「すみません、お嫌でしたか……?」
「え、いや……!」
「そうですよね、ご迷惑でしたよね……会ったばかりなのに、馴れ馴れしくしてしまって……」
「〜〜〜〜ッ!?」

 またしても心臓を直接掴まれたような衝撃に、背中から全身があわ立つ。
 しゅんと二本の触角を悲しそうに垂らし、チキチキと百足の下半身を動かして距離を置こうとする百代を、刹那は大慌てで引き止めていた。

「迷惑なんてことありえないです! むしろ馴れ馴れしいのは俺の方ですから! あ、あ〜っと……」

 しばしの逡巡。二人の間に沈黙が続く。

「敬語抜きはともかく……恥ずかしいから、せめて“さん付け”だけはさせてくれない? ねえ、百代さん……?」

 刹那が照れたように頭をかいていると、百代は感激したように両手を握りしめ、満面の笑みを浮かべた。

「はい、刹那さん……! 百代はとても嬉しいです……!」

 心底嬉しそうに触角や下半身の先を左右に揺らしている百代。
 刹那の顔には急速に熱が集中していき、視線は思わず横に逸れていってしまう。

(駄目だ直視できないマトモに見てたら本当に俺死んじゃうってば……!)

 冗談ではなかった。何しろ百代の傍にいるだけで、心臓が早鐘を打つように鳴っているのだ。このまま彼女と見詰め合っていれば心臓が過労死すると、刹那は本気で思い始める。

「あ、あの……百代さんこそ、俺に敬語なんて使う必要は……」
「刹那さんは気になさらないでください。これは百代の口癖のようなものですから」
「そ、そう言われても……」

 これもまた刹那には気後れするところであった。
 童顔なために(気性が幼いことも理由にあるのだが)子供扱いをされることが多い刹那にとって、自分よりも年が上らしい人間(魔物)に丁寧な口調で話しかけられるというのは非常に気恥ずかしいことなのだ。自分は普通に口を利いているのだから尚更である。

「それとも……百代の話し方は、お嫌でしょうか……」
「いやいや! 百代さんの好きなようにして構わないから!」

 もっと言ってしまえば、彼女に『刹那さん』と呼びかけられる度に心の琴線がびんびんに触れられ、最終的に一曲出来上がりそうな気さえしている。

「あの、刹那さん……」
「はいぃ!? 何でしょう――何かな、百代さん……?」
「もう少しそちらに寄っても、よろしいですか……?」
「〜〜〜〜ッ!? いや、いくらなんでも、それは流石に、どうかって、あの!」
「ご、ごめんなさい!……こんな蟲女に近づかれるなんて、嫌に決まっていますのに……」
「嫌じゃないよむしろ嬉しくてたまらないよこっち来てよその脚ぺろぺろさせてよ!」
「ぺ、ぺろぺろ……?」
「〜〜〜〜ッ!? あの、いや、それは……!」

 遂に口にまで出してしまった。刹那の真っ当な思考は決壊寸前である。

「ごめんね百代さん、変なこと口走っちゃったけど気にしないで! とにかく百代さんがしたいことなら、何をしてくれてもぜんっぜん構わないよ俺は!」
「……刹那さん、本当によろしいんですか? 百代は蟲女なんですよ? 醜い化け物なんですよ? 刹那さんをぺろりと食べてしまうかもしれないんですよ?」
「その時は最後まで美味しくいただいてくれると最高です!」
「……刹那さん、ありがとうございます。それでは百代は、お言葉に甘えてしまいます……」

 そう言ってするりと刹那の腕を取ると、百代はしなだれかかるように身体を密着させた。腕を中心に広がる柔らかな女体の感触に、石像になったように身を硬くする刹那。
 それに気付いているのかいないのか、百代は目を細めて上半身の体重を彼に預け、触角をゆらゆらと動かしていた。

「もう何年ぶりでしょうか……温かいです」
「……え?」
「最後に他人に触れたのは、両親の元を出て行った日でしたから……それ以来ずっと、百代は独りきりだったんです」

 百代の顔にあった憂いの色がいっそう濃くなった。刹那に抱きつく力を強めて、ぼそりぼそりと言葉を紡いでいく。

「誰かに会いたくても、誰かの温もりがほしくても、この身体を見てみんな逃げていきました。生き物の温かさを知るのはいつも、その命を奪う時でしかなくて……」
「もしかして、さっき泣いてたのも……」
「……そうです、刹那さん。百代は根暗な泣き虫なんです。毎日ごはんを食べながら百代は泣いていました。ずっと独りぼっちで、ずっと寂しくて、ずっと悲しくて……」
「そっか……」
「だから刹那さんが天井から落ちてきて……最初は驚いたりしましたけど、とても嬉しかったです。刹那さんは……こんなに気持ち悪い蟲女と一緒に食事をしてくださって、優しく甘えさせてくださって……刹那さん、百代はもう……」

 うっとりと自分の胸に顔を埋めていく百代の姿に、いよいよもって刹那の思考は、自分が彼女に抱く感情を表す端的な一語へと行き着いた。

(一目惚れ……しちゃったんだよね、俺……あふぅ……)

 一目惚れ。
 ひとめぼれ。
 ヒトメボレ。
 
 初めて見たときから恋に落ちて、というアレである。
 顔がどうしようもなく火照る。胸は張り裂けそうな勢いで鳴っている。手足は歓喜にむせび震えている。
 きっと愛する男を見つけた妖怪は、今の自分のような気持ちになるのだろう。刹那の頭には情熱的な言葉がひしめき押し合っていた。

 自分の気持ちを理解しまえば、もうガマンなどできるはずもない。この胸の感情を全部ぶちまけてしまえば楽になれる。
 百代の頭をかき抱き、意を決して刹那の口が開かれた。

「あの、百代さ――」
「――だからもう離しません――」
「っつぅッ!?」
 
 不意に刹那の首筋に、針を刺したような痛みと快感の熱が走った。

「――いけませんよ、刹那さん。嘘でも蟲女なんかに優しい言葉をかけてはいけないんです。嘘でも蟲女なんかに笑いかけてはいけないんです。嘘でも蟲女なんかに同情するそぶりを見せてはいけないんです。全て本気にしてしまいますから……」
「は、百代さ……ん……?」

 熱はあっという間に全身へと伝わっていき、体にかかる力を急速に奪い去っていく。両の手足を弛緩させて崩れていく刹那を、今にも泣き出しそうな顔で百代が抱きしめていた。
 百代の長い髪から覗く顎肢の先からは、血と思しき赤色が混じった、濃い紫色の液体がしたたり落ちている。そして腹の奥底から込み上げる熱さ。獣のように荒くなる吐息。
 百代に咬まれたのだと、熱に浮かされ始めた頭でも簡単に理解ができる状況だ。

「百代さん……急に、どうして……?」
「……申し訳ありません、刹那さん。ムカデの化け物に抱きつかれていては、気持ち悪くて仕方ありませんよね? あまつさえ、その化け物に犯されるようなことになったら……刹那さんがどれだけ深く傷つくことでしょうか……」

 大百足は体内に非常に強力な毒を持っている。傷口を中心に強烈な快感を生じさせると同時に、男の身体から自由を奪っていく神経性の猛毒である。
 その毒を注入するということはつまり、今から相手を犯し蹂躙するという合図に他ならない。

(なのに、どうしてそんな泣きそうな顔をしてるのさ……!?)

 刹那にとって百代に犯されるなら本望であった。喜んでその身を捧げ尽くす気になっている。
 しかしその献身の理由も彼女に喜んでほしいからだ。その彼女が笑顔でなければ何の意味があるものか。
 納得ができないと、乱れた吐息の中で懸命に口を動かそうとする。

「百代、さん……俺は、そんな……ことは――」
「百代は耐えられないんです……! 百代は刹那さんに出会ってしまいました……! 百代は刹那さんの温かさを知ってしまいました……! もう百代は独りで生きてなんていけません、刹那さんから離れることなんて考えたくないんです……!」
「百代……さん……俺は、百代さん、から――」
「いいんです……もう刹那さんも、無理に嘘を吐かれる必要はありませんよ……?」

 人の爪を、蟲の脚を身体に食い込ませるほどの力。ますます悲しみで歪んでいく顔。
 毒に侵され動かせない身体に、刹那は歯噛みをすることしかできなかった。
 どれだけ長い間孤独であったのだろう。今の彼女に、言葉だけで想いは届かない。
 だがこの身体は動かせない。せっかく彼女の涙を拭える距離にまで来たというのに。

「……刹那さんから離れたら、きっと百代は死んでしまいます。だからもう刹那さんを離しません。刹那さんの全てが百代のものになるまで、刹那さんを犯してしまいます。本当に……申し訳ありません。でも百代には……醜い蟲の化け物には、こうすることしかできないんです……」

 百代の頬に涙が一筋流れたその時に、刹那の心で何かが振り切れた。

「……違う……!」
「せ、刹那さん……?」

 気合でも神通力でも呪いでも妖術でも魔法でも奇跡でも何でも良い。
 彼女に想いを伝えるために。彼女の涙を拭き、もう一度あの笑顔を見せてらうために。
 今だけはたとえ彼女にも、彼女の毒にも屈するわけにはいかない
 その一念で刹那は腹に力を溜め、麻痺をしている四肢に神経を集中させる。

「ううううぅぅぅぅ――」

 まずは指先から。少しずつ感覚を手足に行き渡らせるように。

「おおおおぉぉぉぉ――」

 先がピクリと動いた。そこを糸口に、指、手、足、腕と脚に向かい。

「りやぁああああぁぁぁぁっ!」
「――ッ!?」

 そして痺れの残る体を奮い立たせ、勢いのままに百代の身体をきつく抱き寄せた。

「せ、刹那さん!? どうして、毒が効いて――」
「……百代さん、好きだ」

 驚愕する百代の耳元に顔を寄せる刹那。
 空っぽの頭のままで、ただ自分の想いの丈を述べていく。
 好きだという思いを伝えるためにである。

「好きだ、百代さん。だから笑ってほしい」
「え……? 刹那さん……ご冗談は止して……」
「冗談だったらこんなことしない。けど、百代さんになら何をされても構わないから」
「刹那……さん……?」
「一目惚れしちゃって、泣いてる顔見てドキッて来たから、ホントは退治に来たけど、笑ってる顔がすっごく素敵で、町の人から言われて来て、今は頭が沸騰しそうで……ごめん、自分でも何言ってるか分かんない……」
「……刹那、さん……」
「とにかく、好きだ。だから、そんな顔しないで、笑って――あふぅ、もう駄目……」

 そこまで言ったところで刹那は力尽き、糸の切れた操り人形のように脱力してしまう。

「えっと……俺の言いたいこと、伝わったかな……?」
「……刹那さんが、百代のことを……本当に、本当に……よろしいんですか……? 百代のことを好きで……一目惚れ……なんて……」
「うん、良かった……俺、告白するのも初めてで……」

 全く格好のつかない告白になってしまったが、存外悪いものではなかったらしい。百代の胸に顔を埋めながら、しかし心地好い満足感に頬が勝手に緩んでいく。

「刹那さん――」

 蟲の脚で刹那の体を固定し、正面に体勢を整える百代。
 かろうじて動く首を上げて、刹那は百代の顔を覗き込む。

「――百代も、一目惚れでした……! 刹那さん……!」

 目尻に涙は溜まったままだったが、そこには満面の笑みが浮かんでいた。
 そしてその露に濡れた笑顔の花を見て『その顔はやっぱり反則だよなぁ』と刹那は思う。

「刹那さん……! 刹那さん、刹那さん、刹那さぁんッ!」
「あの、は、百代さん!? あの、胸当たってます! 顔に、顔にぃっ!」

 刹那の告白に感極まったのだろう。百代は蟲の脚と人間の腕で同時に刹那を拘束すると、彼の頭をかき抱き頬ずりしながら、胸へと力いっぱい押し付けた。
 愛おしくてたまらないとばかりに何度も刹那の名を呼ぶその様からは、先程の陰鬱そうな陰りは見当たることはない。

(まぁ……全部円満に解決したから良かったなぁ)

 町の衆からの依頼もこれで解決。百代の悩みも解決。ついでに自分の一目惚れも解決。
 刹那の全身を多幸感がほっこりと包む。
これから末永く幸せな暮らしが続くことだろう。めでたし、めでたし――

「――刹那、さぁん……ふふ、ふふふ……」
「――え? あの……百代、さん……?」

 頭の上から絡みつくようなねっとりと甘い声が聞こえてくる。
 顔に押し付けられた胸が興奮したように大きく上下してもいる。
 非常に恐る恐る、ゆっくりと刹那は百代の顔を見上げた。

「刹那さぁん……もう絶対に、何があっても……今後一生、死んでも……離しませんからね……?」

 瞳が濡れていた。それはもう欲情が爆発しかけているせいで、である。
ここに至ってようやく刹那は気付いたのであった。

 押し当てられた百代の身体。人と蟲の狭間辺りのそこから、粘り気のある水音がくちゅくちゅと鳴って、自分の腹を冷たく濡らしていく。
 大百足の猛毒に侵され言う事の聞かない身体。快感だけが熱を持って全身を蝕み、股間の一物は硬く自己主張をしている。

 動けるものと動けないもの。
 妖怪と人。
 喰うものと、喰われるもの。

 自分を見下ろして目尻を下げる絶対的捕食者に、刹那の背筋から寒気のようなものが立ち上る。培ってきた経験が反射的に身体を飛び上がらせようとするが、毒に侵されていては無駄なことであった。

「あの、あの……百代さん、聞いてくれる……?」
「はい、何でしょうか……?」
「俺、その、初めてだから優しく……してくれると――」

――にやぁり――

「――ひいいぃぃッ!?」

 初めてという言葉を耳にして、百代の口角がゆっくりと吊り上がった。
これまで決して見せなかった嗜虐的な表情に、刹那は甲高い悲鳴を上げてしまう。

「ご安心ください、刹那さん。百代も初めてですけれど……百代が一所懸命にご奉仕して、たくさん気持ち良くして差し上げますから……」
「あは、あはは、あははははは……あふぅ……」
「愛しています、刹那さん……ふふふ、いただきまぁす……」

 再び迫り来る百代の白い肌。薄暗い洞窟の中で、刹那の目の前が真っ暗に暗転していった。
13/05/17 17:09更新 / まわりの客
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■作者メッセージ
初投稿になります、まわりの客でございます。
衝動で書いた後にHDの肥やしになっていた作品ですが、枯れ木も山の賑わいになればと、この度掲載させていただきました。
こんな駄作でも、皆様からご感想をいただければ何よりです。
また、健康クロス様を始め、この場を与えてくださった全ての方々に感謝の言葉を申し上げます。本当にありがとうございます。

それでは。よろしければ後編のメッセージ欄にてお会いできることを。

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