連載小説
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死んでて良かった、生きてたら死んでた。
「      」










◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「おはよう」



―――カチリと。
錠前が開くような小気味いい音ともに意識が覚醒した。
寝起きのように呆けた感覚もなく、いやに明瞭な感覚に明晰夢なのではないかと疑う。
瞼を薄く開くと、ローブを被った小柄な人間が木製椅子の背もたれを抱くようにこちらを覗いていた。

「ふぅん? ちゃんと意識があるのかい? 重畳重畳」

気だるげに拍手するように手を叩き、ギシリと椅子が傾いだ。
目深にかぶったフードのせいで顔は見えないが、そのソプラノの声は男性のものではないだろう。
ジリジリと天井のランプが蝋脂を焦がす音が嫌に耳に残る。
不気味な雰囲気に後ずさりしようとして、ずるりと体が落ちた。

「―――っ」

ドフッ、と幸いにも自分の体は羽毛布団に受け止められる。
どうやら自分はベッドの上に座っていたらしい。
体重を掛けようとした手がスカぶって倒れてしまったようだ。
……いや、ちがう。自分の腕の先を見て違和感の正体に気付いた。

「お探しのものはこれかい?」

そういってぷらぷらと玩具のように彼女が掲げたそれは、人間の肘から先だった。
つまり、僕の右腕だった。

「…………」

―――おかしい。
右腕がないのに、なんで何も痛くないのだ?
スパリと鋭利な刃物で切られたかのようなその右腕が自分のものであるなら、
自分の右腕も同じく断面がむき出しになっているはずだ。
そんな悍ましい状況だというのに、不思議と恐怖は湧いてこなかった。

「冷静だねぇ? まぁ、私としてもせっかく助けたモルモットくんにいらぬ誤解を与えたいわけじゃないからねぇ」
「……ぁすげッ」

助けた? そう喋ったつもりだった。
ガラガラの喉がひび割れたかのような感覚に、まともな言葉を紡ぐことはできなかった。
おやおやと胡散臭い笑みを浮かべて、彼女は椅子から立ち上がった。

「これを飲むといい、キミの発声器官はまだ治ってないようだ」

そう言って懐から取り出されたのは怪しく薄桃色に光る液体の入った三角フラスコ。
明らかに飲めたものではなさそうだが、この際液体なら何でもいいかと左腕を伸ばす。
が、左腕も二の腕から先がなかった。

「あぁ、すまない。そっちの腕もまだ縫ってなかったな」

飲ませてあげよう。
そう言って彼女はパサリとフードを脱いだ。
ねずみ色の髪に、藤紫色の瞳。
芝居がかかった口調とは裏腹に、その顔はひどくあどけなかった。
幼さの残る顔立ちに、くっきりと目尻に刻まれたクマが、異様にそぐわない。

「ほら、口を開けたまえ」

クイッ、と顎を持ち上げる手は氷のように冷たい。
戸惑いを覚えながらも、彼女に素直に従い口を開く。

「いい子だ」

目を細めて微笑む姿は、意外にも年相応な少女の人懐こい微笑みだった。
病人のような彼女の姿とのギャップに見とれているうちにフラスコの口を突っ込まれる。
舌がしびれるような薬液が、干上がった喉に染み込んでいく。
思わず噎せそうになるが、なんとか嚥下すると彼女はフラスコを口から抜いた。

「どうだい? 喋れそうかい?」
「……おかげさまで」

ほう! と彼女の眉が嬉しそうに跳ねる。

「第一声が感謝の言葉とは! いやいや、なかなか出来たモルモットくんだ」
「事情は知らないけど……、少なくとも喉は治してもらったし……」
「状況だけ見れば、キミは錯乱してもおかしくないと思うけどねぇ」

確かに両腕もがれた状態でベッドに寝かしつけられてる事には違いない。
そんな状況なら、目の前の少女を、きっと普通なら疑うべきなのだろう。
しかし悲しいかな。

「……逆らったらロクなことにならなさそうだし」
「あ、そういう?」

どどめ色の返答がお気に召したのか、彼女はくすくすと笑みをこぼしている。

「まっ、そこは安心したまえ。私の目的はキミの治療に近い」
「近い?」
「正確に言えば蘇生だ。実を言うと、キミは死んでいる」

えっ。

「まぁ、かくいう私も死んでいるのだがね」

えっ。

「自己紹介と行こうか。私はランペル・アルハザード。リッチさ」
「リッチ?」
「アンデッドの魔物だよ。死霊魔術が得意な、ね」

死霊魔術。
聞くだにおどろおどろしいその魔術は、黒魔術の中でも禁忌に分類される秘術のはずだ。
死者の魂に干渉すると言われる死霊魔術が得意というのであるなら、
彼女も僕も死んでいるというのもひょっとすると嘘ではないのかもしれない。

「おや、その顔は疑っているね?」

ベッドに膝を乗せて、彼女はずいっと顔を寄せる。
整った顔が、瞼が触れそうなほど近づき、反射的に体が後ろにのけぞる。
言われてみれば、彼女の肌は病的なまでに青白い。
血が通っているかも疑わしいほど冷たい指先が頬をなでる。

「百聞は一見に如かず、だ。自分で聞いてみるといい」

聞く?
疑問に思った瞬間に、彼女の胸元に頭を抱きすくめられた。
白くすべらかでいて心地いい感触に、一瞬思考が止まる。
今更気付いたがこの娘、ローブの下にシャツ一枚すら着ていなかったらしい。

「…………!」
「こらこら、暴れるんじゃない。なんだい、小さな胸はお嫌いだったかい?」
「いや! 違う! そうじゃない!!」
「好きなのかい?」
「極論!!!!」

少女を引きはがそうにも両腕すらないため、せめてもの抵抗でじたばたともがく。
しかしそんな僕の反応を楽しんでいるのか、ランぺルは止めるつもりはないらしい。
ぐっと抱きしめる力が強くなり、より一層密着する柔らかな感触に脳が羞恥に染まった。

「…………っ?」

ふと、違和感を覚えた。
これだけがっちりと胸に抱きすくめられているのに、何の音も聞こえないのだ。
人間が生きているのであれば、絶対に感じられる、聞き取れるはずの脈拍が。
彼女からは聞こえていなかった。

「どれ、キミの脈も計ってあげよう。自分の手じゃないから分かりにくいかな?」

そう言って彼女はするりと片手を首に回し、人差し指と中指を僕の首筋に当てる。
まさか、と思いながらその感触に集中するも、答えはそのまさかだった。
彼女の指先を押し返すはずの脈動の感触が、自分からも一切なかった。
たらりと冷や汗が一筋、頬を伝う感触がいやにゆっくりと感じられた。

「…………まさか、本当に?」
「そう! キミの魂は一度死の断崖から深淵に墜ち、そしてその体に蘇ったのさ!」

口端を三日月のように歪め、彼女は興奮したように両手を広げる。

「人間がアンデッドの魔物になるというケースは非常に多いが、キミの様な人間が人間のまま蘇生されるのは極めて特殊なケースだろう! いや、前例がないと言っても過言ではないだろうね!」
「もっとも各部器官が死滅したまま、痛覚もない、心臓だって動いてはいないが、それも私の手に掛かれば解決までそう気の遠くなるような話ではない! 現に、キミの発声器官はさっき治った!」
「キミは最高の実験体だモルモットくん! 混乱していながらも尚状況を冷静に判断出来る分析力、その上で私に反抗しない弁えた従順ぶり、これからの実験にもさぞ献身的に協力してくれることだろう!」

まくしたてられる言葉の端々には、熱意を超えて妄執の様な狂気が滲んでいた。
ふと、自分の身体を見下ろしてみる。
両腕がないだけでなく、見てみれば自分の身体には縫合の痕が無数にあった。
何が目的なのかはわからないが、彼女は死者蘇生というお題目の為にこの身体を作り、
そこに僕という人間が蘇ったという実験結果を喜んでいるらしい。
あまりにも人道に外れた行いに、自分がどうなるのかひどく不安になった。

「―――おっと、失礼。柄にもなくはしゃいでしまったようだ」

藤紫の瞳が正気に戻る。
表情に感情が出ていたのか、彼女はにたりと口端を歪めた。

「そう不安がるなモルモットくん。私にちゃんと協力するのであれば、それなりの対応は心掛けるつもりさ」
「……た、とえば」

ごくりと生唾を飲み込み、なんとか声を絞り出す。
さっき薬で直ったばかりの喉も、不愉快なほどにカラカラだった。

「うん?」
「……例えば、その実験に協力するのを、拒否したら……、どうなるんだ……?」

なんとか絞り出した言葉に、彼女はそんなことを聞かれるとは思っていなかったのか目を丸くする。
当たり前だ、生殺与奪の権を握っている相手にする質問ではない。
真に彼女が研究の徒であるならば、使えない実験材料をどうするかなんて―――。

「…………協力、してくれないのかい…………?」
「えっ」

捨てられた子犬のように不安げな声色に、思わず変な声が出た。

「ま、待ちたまえモルモットくん! 冷静に考え直すんだ!」

慌ててばっと手のひらをこちらに向けるランペル。
冷静に考えるべきはたぶん君だと思う。

「い、いったいどこに不満があるというのだね!? 交渉の余地があると私は思うよ!」
「え、えーと……、どんな実験するかによってはちょっと……」
「痛いのが嫌なのかい!? 安心したまえ、私も注射は苦手だからしないとも!!」

お注射はないらしい。

「ハッ!? ひょっとして薬が苦かったのかい!? 味見はしたつもりだったが……!」
「あ、あぁいや、むしろ不思議と甘かったくらいだけど……」
「そうだろうともそうだろうとも! 良薬は口に苦しなどとよく言うが、私の意見は違う! 真にいい薬であるなら甘くて美味しい方が心にも優しいと思わないかい!?」

ランペルは甘党らしい。

「私の実験が成功した暁には勿論キミの自由を保証するとも! 当然報酬も支払おう!」
「……報酬?」
「私に出来る事ならなんでもしてあげよう!」

報酬があることも驚きだが、なんでもしてくれるらしい。
薄い胸を張る彼女に、思わず思考がうろんになってくる。
なんでだろう。好待遇は間違いないのだが実験への不安よりこの娘が不安になってきた。
何を勘違いして悪ぶっているのかは分からないが、間違いなくこの娘は間が抜けている。
いや、間が抜けているというよりも、見た目通り年相応なのだろう。
子供らしからぬ言動こそしているが、その良心も嗜好も極めて善良な少女のそれに近い。
とすれば、僕が彼女の実験を拒否したらどうなるのか。
泣く。まぁ間違いなく泣くだろうが、むしろそれだけで済めばいい。
しかしあの狂気に満ちた執念の片鱗を見ればそれだけでは済まない事は明白だ。
もう一度誰とも知らぬ人を蘇らせて、変に拗れたり騙されたりする方がよっぽど不憫だ。

「ま、まだ何か不満があるのかい……?」

黙りこくる僕に不安になったのか、彼女がこちらの顔色を窺う。
考えはまだまとまりきっていないが、なんだか彼女の不安げな表情は落ち着かない。
慎重に言葉を選びながら、僕は口を開いた。

「……一つだけ、条件がある」
「ほほう、なるほど。まっ、私は寛大だ。 言ってみたまえ」
「……僕が嫌だと思った実験は、拒否させてほしい」
「む……」

口元に手をやり思案するランペル。
それはそうだ、この条件は僕が嫌だと言えば全ての実験を拒否できる。
そもそも彼女の言う『モルモット』に相応しくないのは間違いない。

「もちろん闇雲に拒否するつもりはないよ。不必要に苦痛を伴ったり、あまりにも非人道的だと思った時しか拒否しない事を約束する」
「あぁ、なるほど。それは道理だ、言うまでもない」

至極真面目な表情でうなずく彼女にホッとする。
どうやらそこまでネジが外れているというわけではないようだ。

「元よりキミを蘇生したのは私のエゴだという自覚はある。キミの意思は尊重しよう」
「そう……。あと、一つ聞きたいことがあるんだ」

ずっと気になっていたことがあった。
まるで、自我を持ったばかりの子供の様なこの感覚。

「僕は誰だ?」

ついさっき、僕の意識は目覚めた。
しかし不思議なことに、目覚めるより以前の記憶がただの一つとしてない。
どう死んだのか、どう生きたのか、どこで産まれたのか。
今日という日付より前の日記が、すべて破り捨てられたかのように、何も思い出せない。

「…………」

僕の問いかけに、じっと、彼女がこちらを見つめる。
その瞳が何を思っているのか、全く読めないほどの真顔だった。
数秒、僕を見つめた彼女は、不意に視線をそらした。

「……さぁ。如何せん色々な肢体を借りてキミの身体は作られているからねぇ、そのせいで記憶が混濁しているのかもしれないな」
「そう……」

まぁ、死んで生き返っただけでもおかしな話だ。
彼女の言う通り記憶がなくなったというのも不思議な話ではない。
自分がどういう人間だったのかは気になるが、だからどうというわけではない。

「……しかし、なるほど。記憶がないのなら、自分の名前も分からないのかい?」
「うん? あぁ、そういう事になるね。まぁ別にそこはどうでも」
「どうでも良くない」

遮るような強い口ぶりに、動いてないはずの心臓がドキリとした気がした。

「勘違いしているようだけど名前はね、キミのものであってキミのものではないのだよ。それはキミに込められた願いであり、同時に誰かがキミを呼ぶために必要なものなんだ」
「……じゃあ、それこそモルモットくんでいいんじゃ」
「聞いてなかったのかい? 願いなんだよ、モルモットくん」

やけに強く言い切る彼女に、その意図を読みかねる。
気圧される僕の気配に気づいたのか、彼女はふっと肩をすくめた。

「自分を大事にしなよ、モルモットくん。私にキミを、実験動物扱いさせないでくれ」
「…………」

特別な意図はなく、どうやら本気で善意で言っているらしい。
さすがに彼女なりの良かれという気持ちを、わざわざ無碍にするつもりはない。
ぼんやりと自分のツギハギの身体を見下ろして、無意識に口をついて単語が口に出た。

「……パッチ」
「パッチ?」
「いや、僕の身体……パッチワークみたいだなって」

色んな人の身体を、彼女が継いで接いで生まれた身体。
どういう思いで彼女が死人の蘇生を研究しているのかは分からない。
でも、名前を、意思を、心を重んじる彼女のその目的は、きっと黒いものではない。
そんな彼女が作った僕の名前であるなら、きっとその願いは温かいものになるはずだ。

「うん、パッチ。僕の名前はパッチでいいよ」
「まるで私の縫い方に文句があるようで嫌なんだが……」
「丁寧に繕ってると思ったからこそ、僕はパッチでいいんだよ」
「……まぁ、キミがいいと言うなら、私がとやかく言えた義理ではないが」

不承不承といった体で腕を組む彼女に、僕は思わず苦笑いする。
本当に丁寧に縫っていると思っているんだけどなぁ。

「まぁいいさ。契約も決まった、名前も決まった。これからよろしく、パッチくん」
「ん。よろしく、アルハザード」
「ランペルでいいよ。さて、じゃあ早速だが……」

ぶらん、と彼女はそれを掲げた。

「腕、付けようか」



◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「本当に死んでるんだな、僕」

ブスブスと遠慮なく縫い付けられた腕をぐっぱと握り開く。
見てて痛くなるようなその縫合は、他人事のようになんの痛痒も感じなかった。
そもそも縫い付けただけで、腕が自分のもののように動くのも変な気分だ。

「見たまま縫ってるわけじゃないからねぇ。これでも凄い魔法使いなんだよ、私は」
「さらっと心を読まないで」
「モルモットの気持ちも分からないようじゃ研究者失格さ」

ハッハッハと楽しそうに笑う彼女はいったいどこまで本気なのか。

「腕の感覚に違和感はないかい? 触覚がないとか、力が入らないとか……」
「ん……。いや、問題なさそうかな」

乱雑に積まれた、分厚い本の一冊を試しに拾い上げる。
見た目通りに重い本を中空に放り投げて弄ぶが、手は思ったとおりに動いてくれている。

「気をつけたまえよ。その本は乱暴に扱うと噛みついてくる」
「もッッ……と、早く言ってくれない……?」

唐突な爆弾に取り落しそうになった本を慌てて掴む。
僕が常識まで忘れてしまっているのか、彼女が非常識なのかは知らないが、そんな危ない本を雑に置かないでほしい。
そっと本の山に戻して、心の中で謝った。ごめんなさい。

「さて、手足が動くようになったんなら早速働いてもらうよ、パッチくん」
「それはいいんだけど……」

彼女の言葉に、思わず部屋を見渡してしまう。
腕を付けてもらったあとに案内されたのは、彼女の研究室だった。
先ほど本を置いたばかりの、埃をかぶった専門書や魔導書の山。
机の上にはフラスコやアルコールランプ、桃色の薬汁が染み付いた薬研がゴロゴロ。
床の上にはこれまた所狭しと無数の書付が散乱しており、床板のほうが見えない始末。

「……ひょっとして掃除とか?」
「うん? 僕はキミに奴隷になれと一度でも言ったかい? あくまでも手伝ってほしいのは実験だけだよ」
「いやでも……、あまりにもこれは……」

その時、小動物特有の甲高い鳴き声が聞こえた。
チューチューという特徴的な鳴き声に、思わず鳥肌が立つ。
何がいるのかは凡その想像はつくが、反射的に音の位置を探ってしまう。
そしてやはり予想通り、そこにはいた。
ちょうどさっき机の上で見た、桃色の薬汁が染み付いた薬研の上に栗毛色のネズミが。

「安心したまえ。どこに何があるかくらいは自分で把握している。そんなことより、これからの実験の予定についてだがまずは―――」
「ねぇランペル」
「……やれやれ、口数の多いモルモットくんだ。お次は何だい?」
「……あの薬研、ひょっとしてさっき僕が飲んだ薬を調合したやつ?」

ちょうどネズミが立っている問題の薬研を指差す。
彼女は僕の疑問に、ポンと手を打った。

「ご名答! なんだ、キミは調薬の知識もあるのかい?」

事もなげに答える彼女は、つまりネズミに何も問題を感じていないのだろう。
どうやらその肉体だけでなく衛生観念まで死んでいたらしい。
ひょっとしたら死に体の僕らには必要ないのかもしれないが、生理的にあまりにも嫌だ。

「ねぇランペル」

努めて平静な声を出して、彼女の両肩を掴んだ。
平常心を心がけていたが、何かを察したのか彼女の小さな額に冷や汗が滲んだ。

「な、なんだいパッチくん。か、顔が怖いぞ……?」
「僕はね、キミは奴隷じゃない、実験動物じゃないと言った貴女の気持ちはすごく嬉しく思ってるんだ。まずはその感謝の気持ちを伝えるよ、ありがとう」
「ど、どういたしまして……。あ、あの、肩が、ちょっと、痛いんだが……」

どうやら知らずしらずの内に力が入ってしまったらしい。
彼女に謝って手を離すが、話はまだ終わっていない。

「でもね、うん。汚い」
「え゛」
「部屋がね、汚すぎる」

ネズミが媒介する病気の恐ろしさは、なぜか知らないがよく知っている。
死んでて良かったと思う日が来るとは思わなかった。
生きてたら間違いなく死んでいただろう。何を言ってるんだろう僕は。

「掃除、出来ないなら僕がするよ。実験の話はそのあとにしよ?」
「いや、どうせすぐに汚れるからその必要は―――」
「うん、汚れたらまた僕が掃除するから。いいよね?」

なるべく穏やかな声色で伝えると、彼女はコクコクと何度も頷いてくれた。
これは勘だが彼女には才能がある。サボテンを枯らせるほどのズボラの才能が。
彼女に掃除を任せてもたぶん無駄だ。わかってくれたようで何よりである。

「生まれ変わって初めて命の危機を覚えたよ……」
「なにか言った?」
「いやっ、なにも?」

変に声が跳ね上がった彼女に首を傾げつつ、さて、と部屋を見渡す。
たぶん一日じゃ終わらないんだろうなぁ。

「……ところで、この黒い物体は?」
「あぁ、半世紀ほど前の食いさしのパンだね、それ」
「…………」

研究室に火を放ちたくなった。
21/12/09 20:30更新 / 夜辺
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■作者メッセージ
「あのフラスコから生えたキノコは?」
「ほう、鮮やかな緑色だね。実に美味しそうだ」
「捨てますね」
「えっ」

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