連載小説
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旅の始まり
2021/03/11 登場人物の記載を追加


登場人物

アイオン
 主神教団の戦士として訓練を積んだ青年。
 かつて住んでいた村と、慕っていた兄を魔物の襲撃で失う。

ステリオ
 アイオンの兄。
 ハイオーク姉妹の姉と戦い、消息不明となる。

アルデン神父
 主神教団の神父であり、アイオンの養父。
 戦士の一団を率いており、アイオンを戦士として育てる。

ティリア
 主神教団のシスターであり、アルデン神父の養女。
 アイオンの姉替わりであり、歳も上。

ハイオークの姉妹
 アイオンの住んでいた村を襲った魔物の姉妹。
 姉はエデル、妹はガーラという名。






第一 アイオン

……とある教会の大広間にて、荘厳な雰囲気の中儀式が執り行われていた。
 片や、この教会を治める神官であるアルデン神父、片やその神父を父代わりに育った青年アイオン。そしてその二人を取り囲むように並び立つ《戦士》たち。彼らは主神とその教えの為に、魔物と戦う戦士たちであった。
 「天に座す主神の名と許しの下、そして我がアルデン・ノクトアムの名と言の葉によって汝、アイオン・ノクトアムを教会の剣たる戦士の任につくことを命ずる 汝、民を守り、民を導く、民のための剣となることを誓うか」
 厳粛な声で誓いを求められたアイオンと呼ばれた青年は神父であるアルデンの前に跪き、同じく粛々とした様子で誓いの言葉を返す。
 「我、アイオン・ノクトアムは主神の名と許しの下、民のための剣となることを誓う」
 その言葉に恭しく頷いた神父は、アイオンの額に聖別した葡萄酒に浸した指をあて、主神の印を描く。
 「立て、アイオン・ノクトアム 今より汝は主神の戦士として、魔を討つ者とならん」
 その言葉と共に立つ青年は、表情こそ穏やかであったが、その目は魔を討つという使命と怒りに燃え立っていた。

 アイオンは神父の子ではない、かつてはこの教会のある国の片田舎で過ごしていた普通の少年であった。両親はおらず、決して裕福でもなかった。それでもアイオンは幸せであった。優しく、そして誰よりも強かった兄が一緒だったからである。兄は普段は猟師として、時に村の用心棒として、非常に頼られていた。アイオンはそんな兄が大好きであった。だが、そんな慎ましくも幸福な日々は突如として終わりを迎える。
 オークの群れの襲来である。
 決して豊かでない、小さな農村は瞬く間もなくオークの群れに蹂躙された。ただでさえ、貧しい村である。身を守る道具もろくに整っていない、それでも精いっぱいの抵抗は試みた。だが統率されたオークの群れの前には無力であった。
 そう、オークの群れは統率されていた、恐ろしいハイオークの姉妹によって。
 今でもアイオンの脳裏に焼き付いて離れない、恐ろしいあの日の記憶。村を、家を、そして何より兄を奪ったあの憎き魔物の群れ。
 『ひひっ、見っけ!』
 アイオンが隠れていた家の木戸をまるで粘土細工のように打ち砕く小さな少女。褐色の肌、灰の様に白い白髪、そして未だに鼻の奥にこびりつくかのように鮮明に思い出せるあのむせ返る臭い、あの時アイオンは一体のハイオークに執拗に狙われていた。まるで獲物をいたぶる捕食者のようにハイオークの少女はアイオンを追い回して《遊んで》いた。村を、アイオンを守ろうと、飛び掛かっていった村の大人たちをまるで蠅を払うかのように弾き飛ばしてじりじりと追ってくる《怪物》を前にアイオンはただ泣き叫びながら逃げることしかできなかった。そして、そんなアイオンの様子をまるで新品の玩具を見るような目で、嬉々とした表情で追いかけるハイオークの少女はついに、アイオンの腕をつかむ。
 『捕まえた♪』
 さあ、遊びましょ……そんな少女の嘲りをアイオンは一度も忘れることはなかった。その目を、声を、嗜虐に歪んだその笑みを。
 だが、ハイオークの少女は獲物を捕らえることは叶わなかった。鋭く飛翔した矢が少女の腕を射貫いたからである。つんざくような悲鳴をあげ、少女はアイオンを掴んでいた手を離す。
 『アイオン! こっちだ!』
 何よりも安心する、兄の声。声の方へと走り寄る。
 『貴様ァッ!』
 あと少しで兄の下へたどり着くというところでのハイオークの絶叫、突き破られ砕け散る家屋。その衝撃を受けたアイオンは吹き飛ばされる。もしもあのまま地面や壁に叩きつけられていればどこかを挫き身動きが取れなくなっていたであろう。だが幸運にもアイオンは川へと落ち、事なきを得た。溺れかけながら、何とか対岸へと泳ぎ着きアイオンは兄へと目を向ける。衝撃の主、それは妹を傷つけられ激昂した姉のハイオークであった。憤怒のあまりか、それとも性質か、湯気を放ちながら全身を震わせる様はまさに怒れる大猪であった。そして、そんなハイオークの様子に中てられたかのように周囲のオークも体を震わせ、声をあげていた。
 兄は叫んだ。
 『アイオン! 逃げろッ!』
 そしてハイオークの前に立ち、叫ぶ。
 『豚野郎! てめえに一騎打ちを挑む!』
 一騎打ち、その言葉に色めき立つオークたち。勇者でも戦士でもない、ましては兵士ですらないただの農民が統率者たるハイオークに挑もうというのだ、実に愚かな挑戦であった。勿論、アイオンの兄も勝てるとは思っていなかった。
 ただ一心、弟を無事に逃がすための時間稼ぎ、ただそれだけである。
 『……良いぜ、妹を傷物にしてくれた礼に相手してやるよ……楽に逝けると思うなよ』
 明らかに身の丈ほどあるであろう大斧を軽々と片手で振るい、ハイオークは高らかに嗤う。獲物を前にした強者の余裕、そう思える笑みであった。
 『兄ちゃん!』
 『馬鹿野郎! 行けッ!』
 決して大きくはない川、その川を複数のオークが渡りアイオンを捕えようと迫ってきていた。その先頭には、獲物を取り逃がした苛立ちからより目をぎらつかせたあのハイオークの少女がいた。
 逃げなくては。そう思った時、既に足は動き出していた。アイオンは啼いた、叫んだ、兄を置いて逃げることに許しを請うた。
 『マテェェェッ!』
 耳に残るは叫び声、最後までアイオンを追ってきたあのハイオークの声。
 それからのことは記憶にない。ただただ走った。

 夜も明けた頃、村からずっと離れた道で、力尽きて倒れたところをたまたま遠征していたアルデン神父率いる戦士団に拾われたのである。
 その後、話を聞いた神父の一団が村に着いた頃には何もかもが終わった後であった。家々は破壊され、畑は荒らされ、人々は連れ去られたか逃げ散ったのか、もはや何もない廃墟だけが残っていた。
 アイオンが見た、故郷の最後であった。

 だが、今の自分はあの時の無力な少年ではない。そうアイオンは心の中で叫ぶ。
 あの時の恐怖は怒りに、あの時の後悔は復讐心に、あの時の嘆きは憎悪に、それらの感情が激しく燃え盛りアイオンを一振りの刃へと変えたのである。
 アルデン神父の下でアイオンは育ち、学び、そして戦士としての道を志した。アルデン神父もまたアイオンの素質を見抜いていた。そもそも、並の子どもがオークの、それもハイオークが率いる群れの追跡を振り切るなど到底できることではない。アイオンは極めて優秀な戦士になる、そうアルデンは確信していた。だが同時に葛藤と懸念もあった、果たして正義や義憤ではなく、憎悪と憤怒に駆られた戦士は主神に仕える者としてとして相応しいのか、と。
 だが、そのようなアルデン神父の思いとは別に、アイオンはめきめきとその才覚を目覚めさせ、兄と同じ年齢になる頃にはもはや神父の知るどの戦士よりも優れた戦士となっていた。ただ唯一足りないのは対魔物の実戦のみ、少なくともこの教会に属する戦士の中でアイオンに打ち勝てる者はまずいない、そう言えるだけの実力を身につけていた。

 儀式が終わり、アルデン神父と仲間となる戦士たちが去った後、アイオンは一人教会の奥に鎮座している主神を象った像を眺めていた。戦士となり、いよいよ魔物と戦う日が来たのだ、そう考えるだけで全身の血が沸き立つようであった。
 神父様には感謝してもしきれない、そうアイオンは考えていた。当初、アルデン神父はアイオンを戦士として迎え入れることに懸念を示していたからである。アイオンの内に渦巻く憎しみと怒りを見抜いていたからである。しかし、最後は認めてくれた、戦士として戦いに赴くことを。ただ、それだけが嬉しかった。
 「お疲れ様」
 一人黙々としていたアイオンの耳に、嫋やかな、甘い声が届く。
 「ティリアか……」
 「シスター・ティリア、よ 今は勤めの最中なのだから」
 柔らかな赤髪がふわりと舞う。ティリア、アイオンと同じくアルデン神父に育てられた少女……今は成熟した女性であり、この教会のシスターとして神父の補佐をしている。アイオンと同じく孤児だが、彼女の場合は両親を流行り病で亡くしたのがアイオンとは違う。またアイオンよりも先に神父に世話になっていたためか、よく姉の様に振舞っている。
 「……おめでとう で、良いのかな」
 おずおずと、ティリアがアイオンに声をかける。
 「ああ ……ありがとう、ティリア」
 「だから、シスター・ティリア、だってば」
 ティリアもまた、数少ないアイオンの理解者であった。多くの人物に対し、不愛想なアイオンにとって、家族のように思ってくれる僅かな人物。少々口うるさいところがあったが、それも自分を案ずるが故と理解しているからこそ、アイオンも決して無下にはしなかった。
 「……神父様から、さっそくだけど任務があるって 今日の午後、部屋で説明をなさるわ」
 憂いを秘めた声音。
 「わかった、ありがとう ……シスター・ティリア」
 そういうと、アイオンはまた静かに主神の像を見上げる。ティリアは小さくため息をつくと、天に向かって祈りをささげる。無口で武骨、そして不器用な優しさを持つ彼が、どうかこの道で人の心を失わないように、と。



第二 任務

 ……昼下がり、神父の部屋の扉をノックする音が響く。
 「入りたまえ」
 「失礼します、神父様 任務を拝命しにまいりました」
 そういうとアイオンは主神の印を手で結ぶ。それに応じるように神父も印を結んだ。
 「……アイオン、本当に良いのだな」
 「愚問です ……神父様、何ゆえ疑うのですか」
 「良いか、決して憎しみで剣をふるってはならぬぞ 我々は」
 「民の模範となり、導くものであるから……わかっています 神父様」
 ぴくりとも表情を変えずに言葉を紡ぐアイオンに、神父は一抹の不安を感じるも、任務の概要を伝える。それは、アイオンにとってはまさかの因縁ともいえるものであった。
 「……故郷を覚えているか、かつてお前が育ったあの場所を」
 故郷、その言葉を聞いた途端、アイオンの目に炎が宿る。
 「はい……っ」
 「……数年前まで廃墟だったその村だが、再び村……と呼ぶにはやや小さいが集落ができている そこの住民たちからの依頼だ」
 神父はアイオンの様子を伺うように視線を走らせる。
 「前々からであるそうだが、オークの群れが時折見つかるそうだ 村からは離れた位置だが決して安心できるような位置でもない 今まで被害はないが、恐らく廃墟のままと思われているのだろう……だが、集落の規模が大きくなり、畑や家畜が増えるにつれて見つかる可能性が高くなってきている つまりまた襲撃が起こりえるという事だ」
 「討伐ですね」
 神父が答えを言う前に、アイオンは解を告げる。
 「護衛、ではなく討伐 そうでしょう?」
 まるでそうであってくれ、と言わんばかりの雰囲気でアイオンは神父に告げる。
 「……前の襲撃は完全な奇襲であり手の打ちようがなかったが、今回は相手がわかっている 君には戦士の一団の一員としてオークの群れの討伐に向かってもらう」
 ため息をついて神父は任務の答え合わせを行う。
 「領主、国の兵士は」
 「いない 辺鄙な片田舎の、農村と呼ぶには小さい集落を守るために兵を動かすのは割に合わないということのようだ だが我々はそのような民の為にこそある剣だ」
 「その通りです!」
 討伐、そうと聞いて興奮……復讐心を抑えきれないようにアイオンは意気込む。兵士の一団がいない、そんな不安要素を全く気にしていないかのようであった。その様子に、ますますアルデン神父は不安に駆られるも、言葉を続ける。
 「良いか、アイオン お前はまだ未熟だ……だから決して一人で、独断で動かぬように 隊長となる者の指示には従うように 良いね」
 指示を与える者ではなく、父として案ずるが故の言葉。
 「……はい、わかっております」
 そんな神父の様子を察してか、心を静め控えめに返事をする。
 「出発は明日、日の出の頃に 馬を走らせ、何事もなければ夕刻にはつくはずだ 支度を整えなさい」
 「はいっ 必ず、この任を遂行します!」
 それから……、そう神父が告げるよりも先にアイオンは席を立ち、支度の為に部屋を飛び出していく。
 「……私たちも同行すると、伝えたかったのだが……」
 神父は心配だと言わんばかりに、こめかみを抑え、アイオンの今後を悩ましく思うのであった。

 翌日、最後の部分を聞き損ねていたアイオンが、自身と同じく旅支度を済ませたアルデン神父とシスター・ティリアに驚いたのは、神父が予想した通りであった。特に、ティリアが同行するという点に関して、アイオンには珍しく反対意見を神父に唱えたほどである。曰く、もしもあの時のオークの群れであれば、間違いなくハイオークが、それも二体いるだろう、オークの群れというだけでも危険なのにハイオークまでいるのだ、危険すぎると。
 「それでも、戦士アイオン 貴方が私を守ってくださると信じていますわ」
 そんなアイオンの主張をよそににっこりと、ティリアの穢れなき笑みを向けられ、ついにアイオンは折れるしかなかった。シスターを守るは、教会の戦士の誉れ。信じる者を、守れぬと断じるは戦士の恥、ティリアの作戦勝ちである。
 何はともあれ、戦士アイオンの初陣であった。戦士の一団、と言っても小さな教会の私兵団である。アイオンを含め、戦士は十名ほどしかおらず、高齢の戦士と見習いは教会を守るために残っている。言ってしまえばたった六名程度の戦力でオークの群れに挑むのである。味方はおらず、満足な陣もないであろう孤村へと向かう無謀な任務であった。だからこそ、長たる神父と一輪の花であるティリアも同行したのであろう。戦士たちのせめてもの支えとして、少しでも助力になるように。

 ……件の村には神父の言うように日が傾きかけた頃、到着した。かつてアイオンが生まれ、兄と共に育った村。オークによって踏み躙られ、そしてまた立ち上がろうとしている村。過去の残骸と未来の欠片が入り混じる不思議な風景がアイオンの眼前に広がっていた。
 「大丈夫?」
 アイオンと同じく、馬上からティリアが声をかける。今は動きづらいシスターの服ではなく、軽装の女戦士に近い恰好をしていた。シスターにしては引き締まった体と、風にたなびく赤毛が夕日に照らされ燃えるように輝くその姿は、アイオンがひと時見惚れるほど美しいものだった。
 「……ああ」
 言葉少なに、しかしその目は鋭く、冷たく燃え盛り叫ぶ。あの時とは違うと、研鑽を積み、歯を食いしばり、復讐に来たのだと。そんなアイオンの瞳を、ティリアは心憂げに覗き込む。
 「アイオーン! おいていくぞ! ティリアも急げーっ!」
 すこし離れたところで戦士の一人がアイオン達を呼ぶ。すぐ行くと、手を振り馬を駆るアイオンとティリア。季節は収穫の月を迎え、日が短くなり始めていた。傾いた日はたちまちのうちに沈み、一行が村の入り口についた時には既に太陽はその姿を隠し、闇が手を伸ばし始めた頃合いであった。
 全体にして僅か数十人しかいない、小さく貧しい村。それでも、そんな村を守るために駆けつけてくれた戦士の一団を歓待するために、村の長を含めたほぼ全員がアイオン達を出迎えてくれた。豪勢でもなく、量も多くないが食事も用意してあり、いかにアイオン達の存在がこの村にとって重要でありがたいことなのかを示すかのように、精いっぱいのもてなしが行われた。尤も、そこまで大騒ぎすることなく、食事を終えた先から戦士たちはそれぞれ来る明日へと備え、早々と寝床につくのであった。アイオンも例にもれず、食事を手早く済ませるとすぐに明日の追跡、討伐任務の支度を整え用意された寝床へと入り瞼を閉じ眠りにつく。

 寝床に入り、数刻がたった頃。アイオンは目を覚ます。なんとなしに体を起こしたアイオンは、月明かりに誘われるように窓の傍によると、身を乗り出して外を眺める。アイオンの部屋は村の畑に面した二階に用意されていたため、遠くまで良く見えた。
 月明かりに照らされた畑と、その奥に広がる鬱蒼とした森林。そして森の端には崩れ落ちた家屋が、半ば浸蝕されたかのように点々と転がっている。かつてオークの群れが押し寄せてきたのも、あの森からであった。
 アイオンと兄の家は、村から少し離れた森の傍にあった。あの襲撃の日に、たまたま村まで出かけてなければ、兄にくっ付いていかずに留守番をしていたら、もしかしたらアイオンが最初の犠牲者となっていたかもしれなかったのである。あれから十数年、まるで因果か何かのようにアイオンは戻ってきた、最初の戦場として、自らの因縁の地へと。
 アイオンはぼりぼりと自らの体を掻く。お世辞にも清潔とはいいがたい寝床であったために体がかゆく感じてしまう。藁と毛皮の粗雑だが暖かな布団、昔はこれでも贅沢な寝床だったし体がかゆくなることもなかった。いつの間にか教会の中の清潔さに慣れてしまっていたか、そう自嘲気味に呟くとアイオンは再びその粗雑な寝床へと入り込む。
 アイオンは目を閉じる、もう二度と、そう心に決めて。



第三 追跡

 ……翌朝、日が昇る前にアイオンを含む戦士三名が斥候として、まずはオークの群れを探すことになった。オークという種族は、種として見ればそこまで賢いわけではない。しかし、全くの愚か者というわけでもなくどちらかといえば悪知恵が働くタイプであり、特に統率者、つまりはハイオークに率いられている群れはたかがオークとは侮れないほどの動きを見せる。特にわかりやすいのが戦闘、略奪時である。ハイオークのいないオークの群れはそれぞれ好き勝手に略奪を行い、最後に群れとしてまとまって去るが、ハイオークによって統率されたオークたちは略奪班、防衛班、略奪物の運搬班といったように組織立った動きを見せる。そして戦闘においても、普通であればバラバラに襲い掛かり一体二体返り討ちに会えばすぐに逃げ出すオークたちが陣形を組み、複数まとまって襲い掛かるようになり、さらに言えば非常に士気が高く仲間がやられたところで逃げ出すこともしない。
 そう、ただハイオークがいる、というだけでオークという魔物の群れはただの野盗から統率された軍団へと姿を変えるのである。だが、弱点もある。オークたちがそこまで組織立ち、かつ恐るべき戦士に変わるのはひとえにハイオークの存在があってこそ。群れの長が絶対的な力とカリスマでまとめ上げている、言うなれば全てのオークを支える柱ともいえる群れの長が倒れた時、全てのオークは戦意を喪失する。だからこそ、ハイオークが率いる群れと戦う時の常は頭であるハイオークを叩く、その一点に集約される。
 そのため、こちらに数がいるのであればオークたちをひきつける役目を担う陽動部隊と、ハイオークを叩く奇襲部隊の二手に分けるのが最も安全な戦い方であった。しかし、今回の任務は僅か六名程度の小集団でハイオーク率いる群れを叩かねばならない。陽動部隊なしに、最初の奇襲で仕留めねば後がない、そんな戦いであった。
 難しい戦い、それだけにまず群れを見つけ、どのように動き、数、戦力、有れば弱点等、ありとあらゆる情報を仕入れ、そして先手を打たねば負ける戦いであった。群れの規模がどの程度かは未知数だったが、どっちにせよ少数でしかない戦士たちの劣勢を補うにはそれしかなかった。
 幸いにして、オークは発見が容易な種族であった。いくら統率されていると言えども、個々はさほど賢くはない種族である。足跡を消す知恵も隠す気もないし、またオーク独特の体臭は非常に分かりやすくかつ臭いがよく残る。特にハイオークの体臭はすさまじく、嗅いだことがある者からすればずっと遠く離れた位置でもわかる、というほどであるという。
 ただ、そこで気を付けねばならないのは、オークの鼻はとても良い、ということである。多くの冒険者や兵士はオークの嗅覚がとてつもなく鋭い、という事を知らないばかりか『あれだけ臭いのだから鼻もバカに違いない』と侮り、臭い対策を怠るばかりか全く自らのにおいを隠さずに追跡を行い、気が付いた時には逆にオークによって囲まれていたという事例が後を絶たない。
 つまり、見つけるのはたやすいが、対策もなしに追うのは難い、それがオークなのである。アイオン達もそれを心得ており、臭い消しの為に全身に獣の油を塗り、常に風向きには注意を払って行動をするように心がけていた。

 森に入って暫く、アイオン達はオークの群れを見つけられずにいた。痕跡は多く、臭いもある。しかし、肝心の群れが見つからなかった。
 「よほど慎重な群れのようだ、これは追うのも難しいかもしれん」
 初老の戦士が呟く。日によって移動する範囲を変えているのか、痕跡の多さに関わらず群れの動きを推測することができるような情報が少なく、移動しているオークの群れ、ひいてはオークの集落の発見の糸口とはなりそうになかった。
 「もしくはもっと奥を縄張りにしているのかもしれないな」
 もう一人の戦士も呟く。あまり深追いはしたくないが、とその顔は語っていた。
 「これだけの痕跡があるのです、奴らは間違いなくこの森のどこかにいます」
 「それは間違いないだろう だが、今日のところはいったん引き上げよう 慣れぬ場所での深追いは危険だ」
 初老の戦士の提案に、もう一人の戦士も賛成する。アイオンは異論を唱えたかったが、隊長や仲間の言に従うようにと、アルデン神父に言い含められていたこともあり、大人しく従って引き上げる支度を始める。日はまだ十分に高く、探索を進める時間はあるように思えたが、仲間の言うように慣れぬ場所での探索で慎重に過ぎることはない。
 結局のところ、最初の探索の成果は殆どないといっても良かった。

 昼下がり、無事に戻ってきたアイオン達をアルデン神父とティリアが出迎える。村の住民たちはそれぞれの仕事をしに散らばっており、村は閑散としたものであった。長閑な空気が広がり、ただ静かに時を重ねていく、かつてアイオンが育った過去の村と変わらぬ空気が流れているような気がして、アイオンはふと立ち止まり空を見上げる。変わらない、あの時の青色が広がっている。
 「オークの群れがいるのは間違いありません ただ、追跡は難しいかもしれません」
 隊長である初老の戦士が報告を行う。
 「群れの規模は大きくはなさそうですが、移動の痕跡が複数あります もしもそれが全て別の群れだとしたら結構な数になります……正直、我ら六人だけでは厳しいかと それにこれだけ巧妙に痕跡を隠す群れです、ハイオークによる統率はまず間違いないでしょう」
 ハイオーク、その言葉にアイオンは微かに反応する。あの時の残り香が、微かに脳裏をかすめる。もし、もしも本当にあの時の姉妹だとしたら。
 兄さん……、兄の、兄の顛末を知ることができるだろうか。心の奥に冷たい炎が宿る。自らを逃がすためにあのハイオークと対峙した兄はどのような最期を迎えたのか、勇敢に戦い散ったのか、無残にもいたぶられ殺されたのか……仄暗い復讐心の中に芽生える疑問。兄の最後はどのようなものだったのか。アイオンの逡巡は暗く、冷たく、ただ燃えていた。

 その日の夜、アイオンはティリアと一緒に村の外を歩いていた。
 本当は一人で当てもなく散歩するだけの予定だったのだが、よほど思いつめた顔をしていたのか、ティリアが心配だからと半ば無理やりついてきたのであった。このようにティリアは時折強引なところがあったが、アイオンもその強引さには慣れたものであった。
 それに、やはり少し心がざわついていたのであろう。ティリアと一緒に過ごす、という状況はアイオンのざわつき揺らいでいた心を驚くほど静かに落ち着かせた。
 「アイオン、この村に戻ってきて 大丈夫?」
 二人で静かに歩いていると、ふと思い出したようにティリアが口を開く。月明かりがあるとはいえそれ以外の明かりは一切ない夜、ティリアの表情は影となり見えなかったが、恐らく心配そうに眺めているのだろうとアイオンは思う。アイオン自身は落ち着いているつもりだったが、やはり顔に出ているのだろうか、そう考えながらアイオンも口を開く。
 「大丈夫だ 落ち着いている、と思う」
 「そう? 私にはすごく思い詰めているように見えるけど」
 そういうと、ティリアがアイオンの表情を覗き込むように顔を近づける。ふわりと、汗の匂いに混じって甘い花のような香りがアイオンの嗅覚をくすぐる。その香りに、気恥ずかしさを感じたアイオンは、照れ隠しの様に答える。
 「本当に問題ない、ティリアこそ慣れない旅でつらくはないのか? ここは……教会のある町と違って本当に何もない 店も無ければ、体を洗えるような場所もない……ティリアが好きな湯あみもできないだろう」
 アイオンの湯あみという言葉に反応したのか、ティリアが気まずそうに離れると、すんすんと鼻を鳴らす音が聞こえた。
 「……におう?」
 多分に、羞恥心を含んだ声がぽそりと響く。陰で見えないが、恐らく顔を真っ赤にしているのだろう。いつも強気なティリアがしおらしくしていると思うと、アイオンはなんとなしに可愛らしく思えるのであった。とはいえ、流石に年頃の乙女に向かって暗に汗臭いですよ、というのは戦士として男として申し訳ないと思い、アイオンは取り繕うように言葉をつなぐ。
 「いや、大丈夫だ ティリアの匂いは嫌いじゃないから、気にならないさ」
 尤も、その言葉がどこか的外れなのはどうしようもなかったが。暗に、かなりわかりやすく『貴女は匂いますよ』という事を告げることは年頃の乙女にとってはかなりの羞恥的状況であった。特に、清純を良しとする主神を信仰するシスターとしては、どんなものであれ異性に『匂う』と言われるのは受け入れがたいものがあった。
 「っ! もうっ! もうっ!」
 暗がりでもわかるほどに顔を真っ赤にしながら、ティリアはアイオンのことをはたきつける。女性のとはいえ、それなりに力を籠めて打ち付けられる張り手は結構な威力であった。それに、ティリアはこう見えて結構鍛えてありその辺の男の張り手よりもよほど効いたのである。
 「うわっ! なんだ⁉ わっ悪かったって」
 よくわからんがとにかく謝っておこうと、アイオンが謝罪の言葉を述べるも、聞きたくない、と言わんばかりにティリアは走っていってしまった。あとには、釈然としない表情で一人アイオンが残されるばかりであった。



第四 邂逅

 ……この村についてから二日目、三日目と探索を続けても、アイオンを含む斥候隊はオークの群れの動きを掴むことができないでいた。今までは村の周辺、森の浅い範囲を広く探索していたが、いよいよ森の奥地へと入らなければ群れは見つからないとの判断を下す。
 だが、群れは見つからなかったが、アイオン達にとって気になることがあった。森の中に殆どといっていいほど、獣たちがいないのである。いることにはいるのだが、普通の森、この規模の森にしてはあまりにも少ない。特にこの周辺は村が数年前まで廃村だったこともあり、普通であればもっと獣が繁殖し増えていてもおかしくはない。
 しかし、まるで定期的に、それもかなりの頻度で狩りがなされているかのように獣の数が少ないのであった。オークの群れがいるから、という点を除いても奇妙な状況であった。オークも狩りを行うが、大抵は一か所にとどまらず移動しながら生活するので一つの狩場を狩りつくしてしまうという事は殆どない。この疑問は、森の奥に入ることですぐに解明された。
 オークの群れは、かなり長いことこの周辺の森を縄張りにしている、ということであった。四日目の探索にて、森の奥に入り少し進んだところで古い罠と最近かかった獲物を回収した後が見つかったのである。古い罠は繰り返し補修されながら使用されており、定期的に仕掛け位置を変えながら何度も使われていることが伺えた。だが、それは新たな疑問も産むことになった。
 「オークどもにこのような……鉄の罠を作る知恵が?」
 それは鉄で造られた挟み罠、簡素ではあるがオークが使うことはまずない類のものであった。そうというのも、オークは作る罠は大抵使い捨てであり、獲物がかかればそのまま解体して打ち捨てていくのがふつうである。それに、この鉄の罠の様に獲物を傷つける罠をオークはなぜか好まないというのもある。オークの仕掛ける罠の定番といえば、穴底に網を張るか泥をためた落とし穴や釣り縄罠、網落とし罠といった原始的な動き止めや捕獲用の罠が大半である。今回見つけたような、獲物を明確に傷つける罠自体が珍しいと言えた。
 とはいえ、この日はそれ以上の収穫はなく、アイオン達はまた村へと戻る。そして、その日の夜、アルデン神父から明日の探索を持って一区切りとし、いったん神父は教会の方へと戻るという事を告げられる。なんでも、こちらに増援を送ってもらえるかもしれないとのことで、アルデン神父と同じく戦士団を組織している者……神父が言うには友人とのことで、その人物がアルデン神父の教会を訪ねるという。その際にここの話をするために戻るという。この話に、戦士たちは気勢を上げる。まだ決まったわけではないが、魔物と戦う上で戦力が増えるのは純粋にありがたいことだからである。
 何はともあれ、明日の探索でいったん偵察は終わりとし、神父が戻るまで村の守りを固めるという方向で方針は決定されたのであった。

 翌日、アイオン達はいつものように支度を整え、探索へと出る。今日は鉄の罠を見つけた地点のさらに奥へと向かうつもりであった。
 今日で五日目となるが、相変わらず森は静かであった。薄暗く、それでいて少しばかりの風が吹き抜ける静かな森。粛々とアイオン達は歩みを進め、昨日よりも深く、オークたちが潜んでいるであろう領域へと入っていく。
 森の奥地へと入って数刻、相変わらず森は静かに葉を揺らしている。
 今日も何もないか……とアイオンが思い始めたその時、ふと微かなにおいにアイオンは気づく。他のオークの痕跡よりもより色濃く、はっきりと感じられる独特なにおい。昔に吸い込んだ、むせ返るような臭い。
 『ひひっ、見っけ!』
 脳裏にはっきりと響き渡るあの嘲り、そして表情、間違いないとアイオンは確信する。
 「あいつだ……っ!」
 ぎりりと無意識のうちに歯を食いしばる。
 「アイオン?」
 戦士の一人がアイオンに声をかける。アイオンとは違い、もう一人の戦士と初老の戦士はにおいに感づいていないようであった。しかしアイオンにははっきりと感じ取れた、そればかりかどこにいるのかその位置さえもある程度把握できるほどであった。
 「……においがする、こっちだ」
 「間違いないのか?」
 仲間の問いかけに、アイオンは力強く頷くと先導して進み始める。一歩一歩、歩みを進める度ににおいはよりはっきりと、濃密に感じ取れるようになり、アイオンの心臓は無意識のうちに早鐘を打つようにその鼓動を速めていく。間違いない、あの時の、あの時のハイオークだとアイオンは確信していた。なんという運命、なんという因縁だろうか、そうアイオンは口の中で呟き、まさしく積年の思いと恨みを積み重ねた相手への邂逅に備える。
 どうしてか、アイオンは身につけた武器が何時もよりもずっと重く感じられた。

 かくして、アイオンは群れを見つけた。森の奥のさらに奥地に開けた場所があり、そこにオーク達は住処を構えていたのである。数にして約十数体、それに対しアイオン達斥候隊は三人、村の護衛にあたっている人数を加えても六人と、やはり数の上ではどうしても劣勢であった。
 そして、何よりこの群れがアイオン達にとって難敵であるか、それを示す存在がその中心に座していた。
 《奴だ》
アイオンの心が叫び、その両眼は食い入るように《奴》を見つめる。黒く輝く褐色の肌に、灰の混じった白髪、忘れもしない嘲笑の笑みを湛えたあの顔。そして何よりの証明として、彼のハイオークの左腕に刻まれた矢傷。あの日あの時アイオンの腕をつかみ、そしてアイオンの兄が放った矢が突き刺さった、その腕の証明であった。
 あの日と違うのは、奴もまた成長していたということであった。記憶の中の小さな獣は、今や立派な怪物として群れの中心に君臨していた。まるで岩の様に鍛え上げられた体を持ちながら、それでいて魔物特有といえる暴力的な女性性をその全身に漲らせて。かつて目立つこともなかった胸は巨大に膨れ上がり、臀部、太腿も同様にはち切れんばかりであり、もしも彼女が魔物でなければ恐ろしく美しい女戦士として、アイオンも見惚れていたであろう。
 しかし、今アイオンの心は復讐心と怒りに燃え、その造形美すらも何一つとして自らの心を動かすものとしては映らなかった。無意識のうちに、武器へと手が伸びる。
 「アイオン!」
 その手を、初老の戦士が抑えると、目覚めるようにアイオンは己が怒りに呑まれ自制を失ったことに気が付く。
 「退くぞ! これ以上は危険だ!」
 叱咤の声でアイオンは冷静さを取り戻し、即座に周囲を確認する。まだ気づかれてはいないはずだったが、群れのオークが数体、アイオン達が隠れている位置に向かってきているところであった。
 アイオンは撤退という判断に、心のどこかで反感を覚えながらもオークの集落から離れるべく立ち上がり、村へと引き返そうと踵を返す。その時、ほぼ無意識のうちにアイオンは引き際に振り返りハイオークの方を見る。
 その時、アイオンの瞳にハイオークの金色の瞳が映りこむ。そう、アイオンの方を確かに《ハイオークも見た》のであった。
 視線と視線が交差したその瞬間、アイオンは気づく。あの時と変わらない、獲物を見つめる獣の眼を前に心の奥底にしまいこんでいた恐怖心が弾け、無意識のうちにアイオンの口から叫び声が上がる。
 《奴》は最初から気づいていた、アイオンの震駭の叫びと同時に、ハイオークの雄叫びが響き渡りオークたちが奮起の声を張り上げる。
 狩りの始まりであった。



第五 追撃

 ……深い森の中を戦士の一団が駆け抜ける。その身のこなしは鋭く、枝を躱しながら速度を落とすことなく悪路でしかない森を走り続けていた。
 そして、その戦士たちをオークの群れが追いかけていく。鈍重そうな見た目とは裏腹に、戦士達と変わらぬ速度で森を駆けていく。多少の枝や茂みといった障害物は全く意に介すことなく弾き飛ばし、強引に道を開けながらまっすぐ獲物を追い立てるその姿は正に《魔物》であった。
 そして、その集団の先頭に立つハイオークは恐るべき速度と破壊力でアイオン達との距離を詰めていく。大木すらもへし砕き、道へと変えるその突撃を止める術はなく、アイオン達はただ逃げるしかなかった。
 ただひたすらに、全力を持って走る。だが、それも限界が近い、荒い息を吐きながらもアイオン達は終わりを覚悟しつつあった。
 そんな中、アイオンは少し開けた場所に出ると、一人立ち止まり振り返る。
 「アイオン!」
 仲間の戦士が気付き、立ち止まる。
 「二人は先へ! 俺が食い止めます!」
 あの時、たとえハイオークに気づかれていたとしても、声をあげてしまい他のオーク達に気づかれる原因を作ったのは己のせいだと、そう思う負い目もあった。それに……
 《奴を殺したい、殺せる機会がある、この恨みを晴らすときがきた》
 アイオンの心に囁く殺意の声もまた、アイオンを戦いへと駆り立てていた。
 「馬鹿を言うなっ! 一人で何とかなる数でも相手でもないぞっ!」
 初老の戦士が怒号をあげてアイオンに逃げるように詰め寄る。
 「早く行ってください! もう奴らがっ!」

 来る、そう言った瞬間に茂みの木々が弾けるように吹き飛び、粉塵を纏った影が飛び出す。

 一瞬であった。咄嗟に初老の戦士は構えを取り防御するも、木々を吹き飛ばしてなお余りある強大な力を受け止めることは叶わず、まるで吹き飛んだ木切れの一つであるかのように宙を舞うと、地面に叩きつけられる。
 「隊長!」
 アイオンが叫んだその瞬間、目の前に褐色の巨体が現れアイオンめがけて斧が降り降ろされた。ひどく大ぶりな一撃、ただそれすらも怪力を誇るハイオークが振るえば受けることはおろか避けることさえも難しい刹那の一撃へと変わる。アイオンは素早く、横に躱し跳ねるとハイオークから即座に離れ距離を取る。
 地面が抉れ弾ける音が響き渡る。深く大地にめり込んだ大斧を特に気にするそぶりもなく抜き去ると、ハイオークはアイオンの方を見る。
 「へへっ 見っけ」
 ぺろりと、赤く肉厚な舌を出すとアイオンの方へと向き直る。その瞳はようやく見つけた獲物を前に、我慢が効かなくなった獣のように爛々とぎらついていた。
 「貴様……っ!」
 アイオンは腰から剣を抜き去り、構えをとる。追いつかれた以上、戦うしかない。それに、先ほどの一撃で倒れてしまった仲間がいる以上、皆を守るにはここでハイオークに勝つしか道はなかった。
 アイオンの殺気を受けてか、ハイオークは体についた埃を払うようにぶるりと武者震いをすると、大斧の長い柄を両手で持って構える。
 しかしその表情は命のやり取りをするというよりも、まるでこの前の《遊び》の続きをするかのように無邪気な笑みをはらんでいた。
 「アイオン!」
 残った仲間の戦士が、アイオンに加勢しようと武器を取り前に出るが、アイオンは片手でそれを制し声を上げる。
 「隊長を! 隊長をお願いします!」
 「っ! わかった……!」
 アイオンの方を心配げに見るも、踵を返した仲間の戦士はハイオークに吹き飛ばされ、満身創痍となった初老の戦士へ駆け寄り、その身を支え起こす。
 「もう、良いか?」
 早く遊ぼうぜ、そう言いたげにハイオークは笑うと、一気にアイオンに詰め寄る。
 眼にもとまらぬ速さで繰り出された突進をアイオンは寸でのところで受け流そうとするも、完全には流しきれずに弾かれたような衝撃をくらい吹き飛ばされる。
 「ヒヒッ!」
 アイオンは直ぐに受け身を取り、起き上がるもハイオークはそれを見計らったように大斧の横薙ぎを繰り出す。
 (不味い!)
 受け身の勢いのまま咄嗟に身を投げ出し、何とか致命の一撃を躱す。
あれほどの威力を持つ突進を、無理やり怪力で方向転換したその遠心力が乗った大斧の一撃は獲物を捉えることなく空振りし、地面に突き刺さる。怪力を誇るハイオークも、流石にすぐには引き抜けぬようで、歯噛みをしながら両手で乱雑に大斧を抜き放つ。
 ほんの一瞬のやり取り、だがその一瞬の判断の誤りで脳天を砕かれ命を落としていた事実にアイオンの全身からは汗が噴き出し、心臓は早鐘を打つように鳴り響いていた。わずかに斧がかすった額が、灼けるようにじくじくと熱を持つ。ただそれだけであの斧の一撃がどれほどの威力を持つか、アイオンは痛感していた。
 「……やるじゃん」
 そして、ハイオークの方もあの一撃を躱されるのは想定していなかったのか。先ほどよりも真剣な表情でアイオンの方を睨むと、大斧の構えを変える。しかし、あのあざける様な笑みだけは絶やすことなく。アイオンの全身を舐めるように見つめていた。
 (くっ……先ほどよりも隙が無い…… っ! それになんてにおいだ!)
 じりじりと大斧を構えてにじり寄ってくるハイオークを前に、アイオンは何とか一撃を入れようと隙を伺うもその前に隙は無く。さらにハイオークの体から湯気の様に発せられるにおいがより一層と強くなり、アイオンはまるで全身をあのハイオークに包まれ嫐られるような錯覚に陥り、集中力を奪われていく。思考に靄がかかり、全身が熱くなるような感覚にアイオンは怖気を覚えると振り払うように口を噛みしめ、相手を睨む。
 それに、このハイオークのにおいを嗅ぎつけてきたのであろう。オークの群れがこちらに向かって来る音が聞こえてもきた。このまま互いに隙を伺っているようでは、どんどんアイオンが不利になるだけであった。
 恐らく、それも作戦の内なのであろう。ハイオークは先ほどよりもにったりとした笑みを浮かべ《隙を出す》。ここで未熟な戦士であれば、相手が油断から隙を見せたと判断したであろう。しかしアイオンは直ぐに隙をつくようなことをせず、逡巡する。
 (くそっ! どうする! 時間がない……かといって決定打もない、あの隙をついたところで!)
 アイオンは気づいていた。確かにあの隙をつけばハイオークの懐に飛び込めるだろう。長柄の大斧である、懐に入られればまともに振るうことはできまい。だがハイオークの一番の脅威はそんな大斧を棒きれの如く振り回せる強力である。懐に入ったはいいが、読まれていれば一撃を躱され巨体に組み付かれることになるだろう。そうなれば、いくらアイオンが鍛え抜かれた戦士といえども成す術はない。
 「親分ーっ! 待ってくださいよー!」
 がやがやと間の抜けた声が、ハイオークがなぎ倒した木々の向こう側から聞こえてくる。ハイオークの突進の速さに追いつけず、後から追ってきたオークの群れであった。
 「はあっはあっ やっと追いつけたっす」
 「はあっふうっ、加勢しますよっ! やっちまいやしょう!」
 ぶたぶたとハイオークを追ってきたであろう数体のオークが武器を構え、アイオン達を見る。その目は間抜けな声とは裏腹に鋭くアイオン達を睨み、決して逃すまいとする狩人のようであった。
 「待ちな こいつはアタシんだ……ひひ」
 その言葉に、アイオンを取り囲もうとしたオークたちは直ぐに離れ、ハイオークの後ろに下がる。
 「まあ、でもそっちの二人は好きにして良いぞ 可愛がってやりな」
 その二人と呼ばれたアイオンの仲間たちは武器を構え、オークたちを威嚇するも一人は満身創痍となりもう一人の戦士が支えなければ立つことも難しい有様である。オーク達からすればあまりにも容易い獲物であろう。ハイオークの言葉を前に複数のオークが歓声を上げて襲い掛かろうと戦士の方へと走り出す。
 最早一瞬の猶予もなかった。アイオンは覚悟を決めると、罠とわかっていてもハイオークが見せた《隙》へと飛び込む。
 しかし狙うはハイオークがあえて見せた隙ではなく、オーク達に命令するためにほんの僅か視線を逸らしたその瞬間の隙、アイオンは駆けだすと同時に大きく薙ぐように剣をふるって投げ放つ。ハイオークの正面に向かって鋭く投げられたその剣を、ハイオークは咄嗟に斧で弾き飛ばす。その刹那、確かに虚を突かれ大斧を持ち上げたことにより生じたハイオークの大きく開かれた懐へとアイオンは飛び込み、渾身の力を籠めてハイオークの腹に拳を撃ち抜く。
 「! おごぅっ! っかふっ」
 十分に速度と重さを乗せた一撃を、守りの緩んだ腹へと打ち込む。備えもなく打ち込まれた腹に拳は鈍い音を立ててめり込む。それはいかにハイオークが強靭であろうとも決して無視できぬだけの威力があった。体はくの字に曲がり、詰まった息が喉元で暴れる。
 しかし、それでも倒すにはまだ足りない。そもそも基礎的な身体能力が魔物と人間では違い過ぎる。今の一撃では少しばかり怯んだ程度でしかないだろう。アイオンはそのまま脇へと回り、体をねじると強烈な回し蹴りをハイオークの尻へとむけて放つ。肉厚の、たっぷり詰まった尻が大きくたわみ、くの字でつんのめったハイオークは尻に受けた蹴りの衝撃で顔面から地面に突っ込む。
 「プギャッ!」
 まだ負けたわけではない、しかし絶対強者たるハイオークが人間の男に尻を蹴られ地べたを舐めさせられたのである。その姿にオークたちは動揺し、戦士達へと襲い掛かろうとしていたオークの動きも止まる。
 ハイオークは直ぐに起き上がろうと顔を上げるも、地に伏した衝撃と動揺で開いた首元に、アイオンの両腕が後ろからがっちりと組み付き喉を締める。
 「ひゅっ」
 普通の人間であれば、一瞬で意識を失うか首を折られていたであろう正確かつ無慈悲な締め落とし。しかしハイオークのしなやかで強靭な首を締め落とすには至らなかった。首を決められたハイオークはもがく様に立ち上がると、首に手をかけ体を振るいアイオンを振り落とそうと暴れる回り、その様相はまさしく暴れる大猪とそれにしがみ付く人間のようであったが、アイオンは締める両腕を緩めることなくぎりぎりと喉元へと食い込ませていく。
 あと寸で締め落とせる、よろよろと先ほどよりも力なく暴れるハイオークにアイオンは勝機を見出す。しかし、それが僅かな気のゆるみとなり、それを察したハイオークは後ろに大きく跳ねるとアイオンごと背中を叩きつける。僅かなゆるみとハイオークの全体重が乗った衝撃に、アイオンは締めていた両腕を放してしまう。
 その瞬間、アイオンの片足が掴まれると同時に宙に浮き、そのまま叩きつけようとしたのだろうが、掴んでいた手の力が抜けアイオンは放り投げられる。
 「がっぐっ!」
 背中に感じる鈍い痛みに気取られることなく、アイオンは即座に起き上がると周囲を確認する。
 「がっはあっ!」
 すこし離れた位置で、ハイオークが首を抑えて息苦し気に悶えていた。アイオンの締め落としは、思った以上にハイオークにとっての痛手となっていたようであった。武器を落としたハイオークは両腕を突き出し、アイオンに組み付こうと向かってきていたもののその足取りは重くふらつき、視線も先ほどの獣の如き鋭さは失われ涙に濡れ呼吸を失ったことによる狂乱に濁っていた。

 止めを刺すならば、今。

 アイオンは両目を開き、腰に差した短刀を抜く。両腕を突き出し、まるで何かを求めるかのようにアイオンへと近寄るハイオークに向けたアイオンの眼は冷たく冷え切っていた。
 手にした短刀がやけに重く、冷たく感じる。体も冷たく芯まで冷えていくようだ、心はこんなにも燃え盛っているというのに。
 アイオンが短刀を、ハイオークの心臓へ突き刺そうと構えたその瞬間であった。

 「動くなっ!」

 空を切るような声、それと同時に放たれた矢がアイオンの足元に突き刺さる。
 その声にアイオンは動きを止める。別に矢など怖くはない、目の前の相手の息の根を止めて盾にすればよい。しかし、アイオンの手は止まる。記憶の奥底に宿り、確かに知っているその声に、耳が凍り付く。ずっとずっと知りたかった、会いたかった、その声にアイオンの心が止まる。

 「兄さん?」

 無意識に、口から言葉が零れ、視線を向ける。嗚呼、あの日あの時、永遠に失われたものがある。時の流れをその身に刻んで、確かに生きているとわかる。なのに。

 なぜ、こんなにも心がざわつくのだろう。

 「ガーラ! 早く離れろ! 殺されるぞ!」
 もう一体のハイオークが、アイオンの前でふらつくハイオークに声をかける。そうだ、そうだった、ハイオークは《姉妹》だった。それはわかる。わからなかったのは、なぜ、どうして、兄はそのハイオークと並んで立っているのか、ということであった。
 「貴様、何者だ!」
 兄が、アイオンへ敵意を向ける。嗚呼、それほどまでに自分は変わってしまったのだろうか、自分は兄の姿を一目でわかったというのに。
 呆けたアイオンに、ガーラと呼ばれたハイオークが組み付く。ふわりと、ハイオークの薫りがアイオンを包む。引き締まりながらも、柔らかく弾力のある体はひどく心地よかった。
 「馬鹿! ガーラ! 早く離れるんだ!」
 もう一体のハイオークが大斧を構えて叫ぶ、しかしもう一体のハイオークはアイオンに抱きつき、まるで少女の様にぐずりながら叫ぶ。
 「嫌だ! アイオンはアタシんだっ! やっとっやっと会えたんだ!」
 だが、その言葉はアイオンの心には届かなかった。しかし、アイオン、という名を聞いたその時、驚いた表情で兄はアイオンを見る。そして、はっとした表情で兄は弓を降ろす。
 「まさか……! お前は!」
 驚愕とも歓喜ともとれる表情。しかし、その表情は直ぐに曇る。アイオンの服装と、表情が兄であるステリオとの見えぬ壁を表していた。
 「アイオン……まさか、どうして……」
 アイオンは一目でわかったが、それでもかなり兄の姿は変わっていた。前はこざっぱりとした農民の服だったが、今は毛皮を中心とした格好となり山賊のようであった。それに、前は剃っていた髭をかなり蓄えており、かなり厳つい見た目をしていた。
 「エデルの姐さん……どうします?」
 相対するアイオンとステリオの周りで、おずおずといった様子でガーラが引き連れてきたオークが、ステリオとともに現れたハイオーク……エデルに尋ねる。既にオークたちの戦意は消失しているようで、怯えた様子で武器を構えていた。
 「アイオン! しっかりしろ! 堕落させられるぞ!」
 初老の戦士が声を張り上げ、アイオンを叱咤する。その声に我に返ったアイオンは、しがみ付き泣きじゃくるハイオークを振り払う。アイオンに追いすがるその力は弱々しく、先ほどまでの強力が嘘のようであった。
 「ああっ!」
 振りほどかれたハイオークは、手を伸ばしアイオンを掴もうとする。
 「寄るな!」
 しかし、アイオンは手にした短剣をハイオークへと突きつけ動きを制すると、兄へと問う。
 「兄さん、どういうことなんだ なんで……なんでそのハイオークと一緒に?」
 まるで仲間の様に……いや、もっと親密な仲の様に思えた。恐らく兄はハイオークとの戦いに勝利したのだ、そうでなければ今ここで生きて会えるわけがない。しかし、ならばなぜ兄が討ったはずのハイオークは生きている、なぜ今まで弟である自分に会いに来なかった、探そうとしなかった。そんな疑問ばかりがアイオンの心の中で渦巻いては嵐の様にかき乱す。
 苦悶の表情を浮かべたアイオンの問いかけに、ステリオはゆっくりと一歩踏み出すとアイオンを正面に見据える。
 「あんた……」
 「大丈夫だ、エデル ……彼女たちを彼らに近づけさせないでくれ」
 心配そうに兄を見るハイオークに、優しく言葉をかける兄の姿は、到底あの時ハイオークへと単身戦いを挑んだ兄とは思えなかった。
 「……あんたたち、奴らに手を出すんじゃないよ」
 兄の連れたハイオークの掛け声で、オークたちはすごすごと引き下がる。ひとまずの危機が去ったことに、戦士達は安堵の息を吐くもその表情は硬く、武器の構えを解くことはしなかった。
 「……アイオン まあ、なんだ……あの戦い、結果を言えば俺は勝った ぎりぎりだったがな、運もよかった」
 「……じゃあなんでっ!」
 「殺さなかったか? ……俺も最初はそのつもりだった、だが俺がエデルに勝ったことで周りのオークたちが大人しくなったんだ エデルもだ……俺は悩んだ ここでエデルを討てば脅威は減る、だがもう一つの脅威が残っていた ……お前だガーラ」
 アイオンの傍でガーラと呼ばれたハイオークがピクリと震える。
 「お前はまだ幼かったが、群れの統率者としての才覚は既に備えていた あの時数名のオークを引き連れてアイオンを追ったな……もしもそのオークたちとガーラが戻り、姉であるエデルが討たれたと知ったら? その時未熟とはいえ怒り狂ったハイオーク相手に、疲れ果て満身創痍だった俺は勝てるのか? 例え撃退できたとしても大人しくなったオーク達が討たれた長の仇を討ちに来たら? ……俺には勝ち抜く自信もオークの仇討ちに耐える勇気もなかった」
 そういってステリオは大きく息を吐く。そして意を決したかのようにアイオンに告げる。
 「だから、俺はエデルを生かした そうすることで、オークの群れを統率できると思ったからだ 上手くすればガーラも姉であるエデルの言うことを聞き、二度と人里を襲わせないようにできるかもしれないと まあ実際のところは、半分当たり、半分外れというところだった…… エデルは思った以上によく俺に尽くしてくれたしオーク達もいう事を聞いてくれた、そんなエデル達の助けもあって、俺はここら一帯のオークの群れを統治することに成功した だが、ガーラとガーラが率いていたオークの群れだけはダメだった」
 「皆を守るために、オークどもを率いているとでもいうのか⁉」
 初老の戦士が張り上げるような声でステリオに問いかける。
 「そうだ 先ほども言ったようにガーラの群れだけは俺の……エデルによる統率を受け入れずに、新たな長としてガーラによる統率を選んだ それからだ……俺はエデルと共にガーラの群れが人里を襲わないように見張りを立て、必要とあらばガーラの群れと戦った」
 淡々と語るステリオだったが、ガーラを見る目だけは少しばかり違っていた。なんというか、非常に手のかかる迷惑な親戚……とでもいうような目であった。
 「待ってくれ……兄さん、そのハイオークは兄さんの……命令を聞くんだよな? なんで一緒にいるんだ? 妹のハイオークを見張り森の奥から出すなと命ずるだけでよかったんじゃないのか?」
 戸惑うアイオンの質問に、ステリオは少しばかり気恥ずかし気にすると、気まずげに答える。
 「……その、なんだ 確かにそうだったかもしれないが、その時は近くで見張ってなければ、という思いもあった 特に最初の頃は全く信用してなかったからな、夜寝る時も武器を手放さなかった……んだが、なんというか 何かと甲斐甲斐しく世話を焼かれたり、色々と助けてもらっているうちに……情が移った」
 アイオンは兄が何を言っているのか、理解ができなかった。

 「アイオン……横にいるのは、エデル 俺の妻だ」

 衝撃であった。アイオンは、目の前の人物が自分の兄であるということを、信じたくなかった。
 「嘘だ!」
 「本当だ、嘘じゃない 娘もいる」
 「そんな! どうして……」
 アイオンは頭を抱え込むようにして、兄から告げられた事実に打ちのめされる。いったい自分は何のために、復讐に身を焦がしてきたのか。兄は勇敢に戦い死んだのだと、ただ信じその兄の敵を討つために戦士の道を志したというのに、当の兄はアイオンが討つべき魔物と契りを交わしていたなどと、信じられなかった。
 「……どういう形であれ、アイオン お前と争うつもりはない エデル、引き上げよう」
 「良いのかい?」
 ああ、とステリオが頷くと、エデルは手をあげて周りのオーク達に引き上げるように伝える。オークたちは一言も喋ることなく、エデルの指示に従い、粛々と来た道を引き上げていく。その中には、ガーラに連れられてきたオーク達もいた。
 しかし、ガーラと呼ばれたハイオークだけは仲間が全て去った後にも去ろうとせず。ただ茫然と立ち尽くすアイオンの傍に力なく立っていた。
 「ガーラ! あんたも行くよ!」
 エデルが叫び、ガーラに寄ろうとする。
 「っ! 嫌だ!」
 頑なに反発するようにガーラは叫ぶと、アイオンへと駆け寄る。
 「待て、アイオンに近寄らせはしない!」
 しかし、そのガーラを戦士の一人が制する。その手には剣を持ち、ガーラの喉元へと突きつけていた。力を取り戻した初老の戦士も、同じように武器を構えガーラを背後から狙う。
 「てめえら……っ!」
 戦士の妨害に、ガーラの瞳が怒りに染まる。
 「ガーラ、それ以上やるっていうなら 私が相手になるよ」
 ずしり、とエデルが一歩踏み出す。エデルからすれば、夫であり自らの勝者であるステリオの決定が絶対なのである。そのステリオが戦いをしないと決めたのだ、この場の戦いはそれでお終いであり、結果がどうあれこれ以上の戦いは妹相手であっても許しはしなかった。
 それでも、ガーラはなお退くことをためらった。前後を戦士に挟まれ、かつ姉も自らを止めに来る。そうあってもなおアイオンのことを諦めきれなかった。
 「……っ ちくしょう! ちくしょうっ!」
 苦悶の表情で咆哮をあげると、ガーラは戦士の突き付けた剣を振り払いそのまま森の中へと飛び込み消える。
 そのまま戦士たちは武器を構えたまま《もう一体のハイオーク》へと構えをとる。その間も、アイオンは茫然とした表情で兄の方を見るばかりであった。
 「そこのハイオーク、寄るな」
 「へえ やるっていうなら、相手になるよ」
 戦士とエデルの間に緊迫した空気が漂う。しかし、ステリオがエデルに引くように告げる。
 「アイオンの兄上殿、この度は助力を感謝する しかし、貴方は支配されているわけでも、魅了をされているわけでもなく、自ら望んでその魔物と共にいるのですね?」
 エデルが退いてもなお、戦士たちは武器を構えたままステリオに問う。
 「そうだ」
 「……であれば、我ら教会の戦士は貴方を魔物に従う者として討たねばなりません 今回は見逃しますが、次に会った時は」
 「見逃すたあずいぶんと偉そうだね! 今ここで終わらせてやってもいいんだよ?」
 「よせ! エデル、いくぞ!」
 戦士との会話もそこそこに、ステリオはエデルを引き連れ去ろうとする。その去り際に、ステリオはアイオン達戦士の一団に声をかける。
 「どちらにせよガーラを捕らえるか、止めたらこの森を出る もっとずっと遠くへと行くつもりだ あんたらがこの辺も守るって言うならもう会うこともない ……じゃあな」
 そう言い残すと、かつてアイオンが兄と慕った男とハイオークのエデルは森の中に消える。跡にはただ静かな森と、戦士の一団だけが残るばかりであった。



第六 行く末

 ……あれからアイオンはどのように森から出たのかは覚えていない。ただ、意識が戻った時は村に戻り、あの粗野な藁と毛皮の寝床の中であった。体は重く、そしてあのガーラという名のハイオークの残り香が、まだアイオンの周りに漂っているかのように感じられた。
 だが、不思議と嫌悪感はなかった。まるであの時、ガーラに抱き留められた奇妙な心地よさを薫りに包まれ感じることができた。
 鈍い頭を抑えながら、アイオンは身を起こす。どれほどの間、意識を失っていたのだろうかと窓を見る。日はまだ高く、昼頃のように思えた。

 「アイオン! 起きたの?」
 それからしばらく、アイオンがぼんやりとしているとドアが開き、ティリアが顔を出す。手には盆を持ち、簡素な食事が乗せられていた。
 「ティリア、か……」
 アイオンは力なく笑うと、ティリアから渡された盆を受け取る。盆の上には、パンとチーズ、そして水の入ったコップが置かれていた。
 「その……聞いたわ お兄さんの事」
 兄の事、アイオンはぐっと歯噛みをする。アイオンは理解できなかった。どうして己を襲い殺そうとした魔物を許し、共に歩もうなどと思えたのか。魔物は古来より、人と神の敵であり討つべき存在であると、そう信じてきた。だからこそ、戦士の道を志したのである。兄の仇を、自分と同じような存在を生み出さないように、救えるようにと。
 「その……ごめんなさい」
 ティリアは薄く微笑むと、申し訳なさげにうつむく。
 「いや、良いんだ 兄さんは、生きていた それで良いんだ……」
 「でも……お兄さんは堕落、してしまったのでしょう?」
 堕落、その言葉を聞いてアイオンはうつむく。主神の教えにより、魔物は討つべき敵とされているが、魔物と同様に魔物に魅入られた人間……俗にいう堕落した人間もまた同様に討つべき者となっていた。
 堕落した者が許されることはない、生かしておけば内部から魔物の教えを広め人々を堕落へと誘うから……これが意味することは一つ。アイオンが戦士である以上、次に兄と対峙した時は兄を討つべく戦わなければならない。
 これでは、何のために戦士を志したのかわからない。アイオンは葛藤する。そうというのも、アイオンの内にある復讐心も怒りも、全てはあの時兄を失ったことに起因するからだ。だがその兄は生きていて、しかもアイオンが矛先を向けていた魔物と共に生きる道を選んでしまっていた。
 次は兄を、殺さねばならない。
 もしもわざと兄を見逃そうとすれば、アイオンもまた同じく異端として討伐、処刑の対象になるだろう。アイオンが戦士である以上、免れ得ない道であった。
 ぽたりと、アイオンの眼から涙が落ちる。長いこと、心の内に止めてきた何かがとめどなく流れてくるようであった。
 静かに涙を流すアイオンを、そっとティリアは包むように抱きかかえると、アイオンが落ち着くまで傍にいるのであった。



 「落ち着いた? 貴方は戦士様でしょ、元気出して」
 ふわりとした赤毛が、アイオンの頬を撫でる。あれから暫く立ち、ようやく落ち着いたアイオンを元気づけるように、ティリアは努めて明るい声を出す。そんなティリアの優しさにアイオンは元気づけられる。
 そっと、ティリアの手がアイオンの手に重ねられる。
 「……アイオン、私は貴方の傍にいるわ たとえ貴方の手が……血によって汚れても、その手を私は包むわ そして貴方のために謡ってあげる、苦しみを癒すために……」
 真摯なティリアの声。アイオンはティリアの告白に、さっと顔を赤くする。それはティリアも同じようで、アイオンの手に重ねられたティリアの手はしっとりと熱く汗ばんでいた。
 「ティリア……」
 「さっ 早く起きて! もうすぐ夕方よ、ずっと寝てたからひどい臭いね 川で体を洗ってきなさい!」
 ティリアはさっとアイオンから離れると、照れ隠しの様にいつもの強気な態度に戻り、アイオンの肩をはたく。
 「……わかった そういえば、アルデン神父はどこに?」
 アイオンは寝床から起き上がる。確かに、アイオンの体はあの時の戦いでかいた汗とハイオークのにおいでひどいことになっていた。少なくとも、良いにおいではない。
 「神父様は昨日教会にお戻りになられたわ 貴方たちの話を聞いて、何としてでも応援を連れてくるって息巻いてね 明日にはこちらに来られるようにすると」
 そう告げると、早く洗ってきなさいとばかりにアイオンを起こし部屋から追い出す。やれやれとアイオンは思いながらも、ティリアに感謝しながら川へと向かう。川に向かう途中、何人かの戦士とすれ違うも皆気を使っているのか挨拶だけで詮索をするものはいなかった。

 「……ふう」
 川で体を洗い、すっきりとした心地で川辺に座り込む。洗ってもなお、あのハイオークのにおいが取れなかったが、もうそんなに気にならなくもなっていた。どこか、今まで心の中にあった黒い塊が取れたかのような、そんな心地であった。
 「大丈夫か?」
 聞きなれた、しわがれた声がアイオンに声をかける。
 「! はい、隊長 迷惑をおかけしました」
 アイオンは素早く立ち上がると、敬礼をする。そのアイオンに、隊長と呼ばれた初老の戦士は楽にしろと告げる。
 「森でのことは気にするな お前はまだ若い、抑えられないことも、割り切れないこともあるだろうさ 今回へまはしたが、全員生きて戻れた その功労者はお前だ、それだけで十分さ」
 そういって、初老の戦士は軽く笑う。昨日の傷が癒えていないのか、少し難儀しながらもアイオンと並ぶように川辺に腰掛ける。
 「……アイオン、兄上のことはつらいことだが、戦士の務めだ だがお前が手をかける必要はない」
 必要とあらば私が、そういうように初老の戦士は剣の柄を叩く。
 「……すみません 俺……」
 覚悟足らずで、そういうようにアイオンは沈み込む。そんなアイオンの背中を初老の戦士は軽くたたく。
 「まあ、見た限り兄上は我々と戦う気はないようだし ここから離れるとも言っていた、存外もう会うこともないかもしれん」
 二度と会えないだろうが、言外にそう告げてもいた。しかし、これが戦士として精いっぱいの励ましであった。
 「……私はもう行くぞ、今日はゆっくり休め そうだな、明日は久しぶりに摸擬戦でもしようじゃないか! 実戦を経験したお前がどのように攻めてくるか楽しみだぞ」
 そういって背中を強くはたくと、初老の戦士は笑って立ち去っていく。
 その後ろ姿に、アイオンは頭を下げる。

 夕日が沈み、村に夕闇の中へと溶け込んでいく。



 第七 月夜

 ……その日の夜はとても綺麗な満月であった。どこまでも明るく、闇夜を照らすその輝きは一面を蒼く染め上げ幻想的な雰囲気に変えていった。それは、アイオン達が駐留する村でも変わらなかった。
 何人かの戦士たちは、酔いつぶれない程度に酒を持ち出し、月見酒としゃれこみ。村の人々も、戦士によってもたらされたオークが去るかもしれないという報せにささやかながらの祝杯を挙げていた。
 そんな中、アイオンは一人仮宿を抜け出し、かつて自分が育った村の亡骸を見て回っていた。かつて自分が子どもだった時は、もっと人も多く畑も広大だったなと、アイオンは懐かしみながら崩れ去り、放置された畑の中に埋もれる家々を眺める。当てもない散歩であったが、歩いているうちに色々と思い出してくるようであった。
 (そういえば……)
 ここから少し離れた場所。今ある村からは遠いが、かつてよく遊びに行った場所があるなとアイオンは思いをはせる。森の傍の小高い丘の上、何時の時代のものかわからない石碑が建てられた場所。時に一人で、時に村の子どもたちと……そこに集っては日が暮れるまで遊んでいた。
 (……行ってみよう)
 今の機会を逃せば、次はいつ来られるかわからない。そんな軽い気持ちで、アイオンは歩みを進める。月夜に照らされ風が吹き抜ける、気持ちの良い晩であった。
 そう、それは恐ろしいぐらいに、気持ちの良い晩であった……



 歩みを進めた月明かりの下、目的の場所が見える。そして、アイオンは気が付く。心地よい風の中に、あの薫りが混じっていることに。アイオンは用心をしながら、石碑への道を進む。かつての仲間たちと遊んだ思い出の地へと。

……月下に照らされる石碑の上に、奴はいた。
 「ガーラ……!」
 石碑にどかりと腰を下ろし、手には大斧を携えアイオンを見下ろす。
 「アイオン……」
 その顔は月光の影となり表情は窺えなかったが、張りつめたものを感じる声音であった。
 アイオンは護身用の剣を抜くと、ガーラと対峙する。心もとなく、また同じ手が通じるとは思えないが、宿敵を前に逃げるということは考えられなかった。
 「……ずっと、ずっと待っていた」
 「何を……誰を」
 アイオンははっきりと感じていた、ガーラの視線の先に己がいることを。そしてその視線が、ただの敵を見る目ではないことを。
 「お前を、アイオンを……ずっと」
 情念、ただそうとだけ言える。どこまでも純粋な想い。アイオンが怒りと復讐であれば、ガーラのそれは……
 「お前を、アタシだけのモノにできる日を! ずっと!」
 月下の獣が吠える。
 「アイオンッ! ずっとずっと! あの日からずっと! お前のことが欲しかったッ! もう逃がさないッ! 誰にも渡さないッ! 邪魔させないッ! 武器を取れッ! 今度こそお前を叩きのめして、アタシガッ! アタシこそがッ アイオンの持ち主だとオシエテヤルッ!」
 咆哮と共に、ガーラは跳躍し大斧を振りかぶり、そのままアイオンめがけて力任せに振り下ろす。しかし、アイオンに躱された大斧は大地をへこませ、大きく土石を抉り飛ばす。
 普通であれば、動かすことすら難しいほどの強烈な力で撃ち込まれた大斧を、ガーラは一息で引き抜くと即座にアイオンへと大斧を構え突撃する。
 振り下ろし、振り上げ、そしてまた振り下ろされる。怪力のままに右から左、上から下からと薙ぎ払われる大斧の一撃をアイオンはギリギリのところで躱し続ける。一瞬でも判断を誤れば容易く絶命しうる一撃が叩き込まれることになる、正に刹那の攻防であった。
 アイオンはガーラの猛攻を前に武器を巧みに構え、何とか捌きながら距離を離すべく機会を必死に探っていた。少なくとも今の防戦一方のままではいずれ根負けし、屈することになってしまう。そうでなくとも、あの大斧の一撃をくらえばひとたまりもない。
 「アイオォォォンッッ!」
 狂乱ともとれる絶叫を咆えながらガーラが大振りの一撃を繰り出すも、その一撃はまたしてもアイオンに躱され、大斧は地面にめり込む。その隙にアイオンは距離を取るべく、ガーラから離れる。
 いくら胆力に優れたハイオークといえども、間髪も入れず大斧を振り回し続けるのには無理があるようで、ガーラは大きく肩で息をしながらアイオンの方を見る。その目は執念に濁り、まるで正気を失ったかのような眼差しであった。その目を前に、アイオンはまるで昨日までの、復讐に燃える己を見るかのような錯覚を覚える。
 ガーラは再度、大斧を一息で引き抜くと、アイオンへと向き直る。前回の様な、油断を含んだ隙は無い。しかし、息を整える間を与えれば再びあの猛攻が始まるだろう。
 攻めるしかない、アイオンはそう決断すると素早く距離を詰めて刃を繰り出す。早く鋭く突き出された刃はガーラの脇腹を掠め躱されるも、即座に手首を返し横に薙ぎ払う。その横薙ぎをガーラは大斧で受け止め防ぐ。
 弾かれつつも、飛びかわし距離を取ると再びアイオンはその剣を振るう。突きと薙ぎを巧みに織り交ぜ、ガーラに挑むもその切っ先は掠るか軽い傷を負わせるのみで決定打となるような一撃は全て防がれていた。技術と速さはアイオンの方が上だっただろう、しかしガーラもまた天性の戦士であり、そして魔物の本能とでもいうべき反射神経を持って致命傷を躱し続けていた。そして、アイオンは攻め続ける疲労と焦りから致命的なミスを犯す。薙いだ剣をガーラの大斧が絡めたのである。
 (しまったっ!)
 アイオンがそう思うのと、顔面に強烈な衝撃が加わるのはほぼ同時であった。一撃を防がれ、動きが止まったアイオンの顔面をガーラの手が捉えたのである。掌底により脳が揺れるかのような震動がアイオンの視界を狂わせ、意識を奪う。アイオンの体は宙に浮き、石碑の傍まで弾き飛ばされ叩きつけられる。
 「あっ! がっ……!」
 叩きつけられた衝撃により反射的に意識が戻るも視界は霞み、混乱した思考はまとまらず、痙攣した四肢は仰け反るように曲がり動かせない。
 常人であれば、とうに気絶するか戦意を喪失していたであろう一撃を受けてもなお、アイオンは起き上がろうともがく。そして、そんなアイオンの姿を見てガーラは薄く笑うと、止めを刺すべく姿勢を低く構える。それはハイオークの持ちうる一撃の中で最も威力のあるもの……突進である。

 ハイオークと対峙した時、何を一番恐れるべきか。鋭く、防ぎようのない一撃を見舞う大斧か、はたまたそれを休みなく繰り出す胆力と強力か。否、最も恐れるべきは木々を薙ぎ倒し岩山をも突き崩す猪突の猛進である。

 その最も恐れるべき突進が、石碑を掴み何とか立ち上がろうとしているアイオンに向かって放たれようとしていた。

 「喰らいな」

 筋肉が隆起し、ばねのようにしなり弾ける。肉の砲弾が、恐るべき速度でアイオンめがけて撃ちだされた。
 長い距離を突き進むための突進ではなく、純然たる破壊のための突進。故に距離は短くてもよい、全身全霊の力で刹那の破壊力を極めるのだから。
その一撃がアイオンに襲い掛かった。

 しかし、その刹那においてアイオンもまた己の全身全霊をかけて、歪む視界を繋ぎ、震える四肢を奮起させ、ほんの、ほんの僅かなところで直撃を躱したのである。

 空気が震え、地が鳴り、石碑は粉々に砕け散る。アイオンもまた、直撃は躱したものの突進を受けたことは変わりなく、砕け散った石碑と共に吹き飛ばされる。
 あの石碑は祠だったのであろうか……、空へと打ち上げられたアイオンはそんなことを思っていた。破壊された石碑の破片の中に、古き戦士が身につけたであろう武具が、石碑と同じようにばらばらに飛び散り宙を舞っていた。
 アイオンは再び大地にたたきつけられ、その周りに石碑の破片や散らばった武具が落ちる。思った以上に石碑が強固だったのか、石碑を打ち砕いて突進を止めたガーラだったが、突進による衝撃は殆どガーラにとっては何の痛手にもなっていなかった。
 悠々と瓦礫の中から身を起こすと、月下に倒れるアイオンを見てにやりと笑う。そして、勝者が褒賞を手にしようとするがごとく、ゆっくりとアイオンへと向かって歩き始める。
 (くっ……これまでなのか……)
立ち上がろうと力を籠めるも、体は言うことを聞かず、何とか這うように身を起こすのが精いっぱいであった。このままでは、やられる。そう覚悟したその時であった。

 こつり、と何かが手に触れる。

 それは古い剣。古の戦士が使い給うた古強者よ。

 ほぼ無意識のうちに、アイオンはその剣の柄を握る。刃幅は決して太くない、しかしその刃は長く、刃こぼれ一つなかった。
 剣を支えに、アイオンは立ち上がる。決して負けまいと、もう二度と、そう決めたのだ。

 その姿に、ガーラの笑みは消え、怒りへと染まる。
 「……なんでだよ」
 もう終わりだろ、そう呟くガーラの問いかけにアイオンは応えず、ただ古き剣を構え立つ。その目に宿る闘志は消えず、静かにガーラを見据えていた。

 月下、一陣の風が吹く。
 ガーラは大斧を構える。最早、次はない。先ほども全身全霊をかけた一撃だったが、此度の一撃も同じであった。強者すらも怯むであろう気迫で、ガーラは斧を振り上げ駆ける。
 振り下ろされた大斧に、振り上げられた古き剣の切っ先が当たる。通常であれば、剣は砕けそのままアイオンへと大斧は振り下ろされたであろう。しかし剣が狙ったのは、斧ではなくその柄。恐るべき精度と集中力で、振り下ろされる柄を切り上げる横薙ぎで撃ち大斧の軌道をずらす。
 大きくずらされた大斧とガーラはそのままアイオンの横を過ぎ去り、行き場を無くした力のまま前のめりに倒れ地面に叩きつけられる。
 ガーラは、何が起きたか理解できなかった。
 しかし、即座に飛び起きると、再びアイオンへと向かっていく。先ほどとは違い、縦ではなく横へと薙ぎ払う。正確に胴体を捉えた一撃、退くも跳ねるも難しく、下に躱せば蹴り飛ばされる。だが、アイオンは下へ避けた。
 このまま蹴り飛ばす、そういわんばかりにガーラの足がしなろうとしたその時。しゃがむと同時にアイオンは剣を逆手に持ち替え、そのまま柄頭を突き出しガーラの腹へと突き立てる。ガーラの勢いによって十全に、重さと力が乗った一撃は文字通り腹を抉り貫くかのような衝撃をガーラに与えた。
 「アッ! ガッァァァ! オゴッ」
 あまりの衝撃に支えを失ったガーラは転げるようにして跳ね飛び倒れ、アイオンもまた、正面から勢いを受け止めたために跳ね飛ばされる。
 しかし、先の一撃による痛打の差は歴然であった。
 「オッオッ! ウゴォォォッゲッ!」
 腹部という生ける者にとって、最も柔く守らなければならぬ場所に響く激痛に、ガーラは悶絶していた。湧き上がる吐き気にえずくも、ガーラは大斧を掴む手を離すことはなく立ち上がりアイオンへと向き直る。
 アイオンもまた、立ち上がってガーラへと刃を向ける。

 僅か、二回の攻防で形勢は逆転していた。
 「……ぐっ ……ちくしょう」
 アイオンの一撃が繰り出される。薙ぐように次々と繰り出される一撃一撃をガーラは何とか防いでいくも、腹への一撃で力が入らず足もふらつくために徐々に押されていく。
 ついには振り下ろされた一撃を防ぎきれず、片膝をつくと、その次の一撃で斧を弾き飛ばされてしまう。呆然とするガーラの眼に、アイオンの冷たく燃える眼だけがやけにはっきりと映っていた。
ガーラの耳に大斧が重く空を切る音がやけに大きく響く。

 大地へと、ガーラの大斧が突き刺さる。その重々しい音は戦いの終わりを告げていた。



第八 選択

 ……戦士は、構えを解くことなく魔物の前に立つ。
 変えられない、変わることのない世の常であるかのように。
 「終わりだ」
 戦士が魔物に告げる。
 「……ああ 殺れよ」
 振り上げられる戦士の剣。その戦士の顔は暗く陰り、その目は冷たく澄んでいた。そんな戦士の顔を、魔物はじっと眺めていた。

 振り下ろされるその時、魔物の瞳からぽたりと雫が流れ落ちる。堰を切ったように、両眼から泉の様に、涙が流れ落ちる。

 魔物よ、なぜ涙を流す  戦士が問う。

 かなしくて、うれしいからさ  魔物が答える。

 なぜ  戦士が問う前に魔物は答える。

 もうあたしは、おまえにあえない だからかなしいのさ

 なぜ

 でも、あたしのいのちはずっとおまえのものになるからさ、だからうれしいのさ
 だからおねがい、あたしをわすれないで

 なぜ  戦士はただ問う。 その故を。



 むかしむかし、ある所にいっぴきの魔物がいました。
 たくさんのなかまと、強くてたよれるお姉さんもいて、とてもしあわせでした。

 ある時、魔物はいつもくらしている森から出てみようとかんがえました。
 そとの世界がどうなっているか、見てみたかったのです。
 なかまをひきつれて、どんどん森の中をすすんでいきます。
 やがて、そとの世界と森のさかいめまでやってきました。
 そこで魔物はそとの世界を見ました。
 くらくてざわざわしている森とちがって、なんて明るくてしずかなんだろう。
 魔物はふしぎそうにそとの世界をながめます。
 すると、むこうの丘にそとの世界のじゅうみんたちがあつまっているのを見つけます。
 姉が人間、とよんでいる人たちの子どもたちでした。
 しかくい石のはこのまわりで、がやがやとあそんでいるようでした。
 そこで魔物は、その中の子どものひとりをきにいります。
 ひとめぼれ、あとでなかまはそう教えてくれました。
 魔物はかんがえます、あの子となかよくなりたいな。
 でも、なかよくなるやり方がわかりません。
 魔物はなかまをひきつれてとぼとぼと森の中にかえっていきました。
 そして魔物はお姉さんにたずねました。
 人の子となかよくなりたいの、どうしよう。
 お姉さんはこまりました、お姉さんもわからなかったからです。
 その子がほしいの?
 魔物はたずねます。
 ほしいってなに? ずっといっしょにいたいっておもうこと?
 お姉さんはわらいます。
 魔物はいいました。
 じゃああの子がほしい、ほしいの!

 つぎの日、魔物とお姉さんはなかまたちをひきつれて人の村をめざします。
 森からでて、石のはこをすぎて、村を見つけました。
 人の村はおおさわぎになりました。
 まものがやってきたぞ!
 おそってくるきだ!
 みんなをまもれ!
 たたかいになりました。
 でも、人よりもお姉さんとなかまたちはずっと強かったのです。
 だから人は、みんなにげていきました。
 はやくあの子をみつけないと!
 魔物はいっしょうけんめい、探しました。
 そして見つけました。
 でも、その子はにげていきました。
 まって、あなたがほしいの! いっしょにきて!
 その子はもっとにげました、魔物はおいかけます。
 つかまえた!
 やっと、魔物はその子をつかまえました。
 うれしい!
 そう思ったそのとき、人がはなった矢がうでにささってしまいました。
 あまりのいたみに、魔物は手をはなしてしまいます。
 すぐにその子はにげて、おこったお姉さんにつきとばされてしまいます。
 そんな!
 魔物はその子がとんでいったさきをみると、おおきな川がながれています。
 その子はむこうがわにいました。
 魔物はうでのいたみをがまんしながら、なかまをつれて川に入ります。
 うしろでは、おこったお姉さんが人とたたかっていました。
 川からでて、むこうがわについた時、もうその子はずっとずっと遠くにいました。
 まって!
 さけんで魔物はおいかけてさがします。
 どんなにどんなにさがしても、ほしかったその子は見つかりませんでした。

 とぼとぼと魔物が村にもどった時、魔物はびっくりします。
 お姉さんが人に負けて、人のものになっていたのです。
 たくさんいたなかまたちも、その人のものになっていました。
 その人はいいました。
 これいじょう、おまえたちに人はおそわせない
 そして、森にもどりいっしょう出ることはゆるさない、と言いました。
 魔物はいやでした。
 そんないうことを聞いたら、いっしょう会いたい子に会えなくなってしまうからです。
 いやがる魔物の前に、人と、お姉さんと、なかまたちがじゃまをします。
 魔物は森の中にもどされました。
 それからずっと、ずっと、ずっと泣いていました。

 そして、いつしか魔物はお姉さんとなかまたちからにげだしました。
 ひとりぼっちです。
 ひとりぼっちになって、なんどめかのあるさむい夜に、魔物は魔女さまに会いました。
 まん丸な月が、ひかっている夜でした。
 魔女さまはいいました。
 いつか、この森にいるあなたのもとにあの子はもどってきますよ。
 魔女さまのことばに魔物はとてもとてもよろこびました。
 そんな魔物を見て、魔女さまはかなしそうに言いました。
 でも、あなたののぞむとおりになるわけではないのですよ。
 あの子はりっぱな戦士さまになって、あなたの首をはねにきますよ。
 魔女さまのことばに、魔物はとてもかなしくなりました。
 どうして?
 魔物がかなしそうに魔女さまにたずねると、いつの間にか魔女さまはきえていました。
 それから、魔物は強くなることにしました。
 いつか、いつかあの子がもどってきても、負けないように。
 お姉さんにも、お姉さんに勝った人にも、負けないように。
 いつしか、魔物のまわりにはなかまたちが集まってきました。
 いつしか、魔物はとても強くなっていきました。
 お姉さんとも、あの人ともなんかいもたたかいました。
 勝てなかったけど、ふたりをあいてに負けることもありませんでした。

 それから、ずっとずっとずっと、魔物は待ちつづけました。
 この森に、あの子がもどってくるのを。
 この森に、魔物の首をはねにやってくるのを……



 長い長い物語を話し終えると、その《魔物》は微笑む。
 「アタシは負けたんだ さあ、戦士様……魔物の首を刎ねなよ」
 そういって、ガーラは戦士に首を差し出す。かつてこの森で会った魔女様の予言は成就した。後は予言の続き、その子は魔物の首を刎ねる、魔物はその時が来るのを待つ。

 だが、アイオンには握りしめた剣を振り下ろすことができなかった。
 アイオンが育った村を襲ったことは確かに許されることではない、だがその故が己にあったのだと、ただただ純粋な思慕故だったと知った時、もはや目の前の魔物を討つだけの冷酷さを持つことはできなかった。

 「去れ、そして二度と戻るな」

 剣を降ろし、背を向ける。
 慈悲、魔物にかけては決してならぬと教えられたもの。

 「どうして?」
 だが、ガーラは泣きそうな声で問いかける。
 「戦士として、魔物に慈悲をかけてはならぬと教えられた だが、俺はお前を斬ることはできない……だから去れ つぎはない」
 淡々と告げると、アイオンはこの場から去るべくかつて石碑があった丘へと上がる。先ほどの戦いが嘘のように、辺りは静まり返り、蒼い月光に照らされていた。
 戻ろう、そうアイオンが決断し歩き始めようとしたその時、背後に気配を感じる。
 気配の主はわかりきっていた。
 「斬られたいか、去れ」
 「嫌だ」
 はっきりとした、拒否の言葉にアイオンは振り返る。
 そこには武器を持たず、しかし覚悟を決めた表情のガーラが立っていた。
 「来るな、斬るぞ」
 「いいよ アイオンになら、斬られてもいい」
 剣を構えるアイオンに、ガーラは穏やかに微笑む。その目には涙を浮かべ、待ち望むかのように両手を広げる。ふわりと、薫りがアイオンを包む。

 「……頼む、去ってくれ 俺は、お前を斬りたくない」
 アイオンの言葉に、ガーラは一歩踏み出す。
 「っ! 来るな!」
 ガーラの胸元に、切っ先が突きつけられる。ぷつり、と紅い血が剣を伝い流れ落ちる。
 ほんの僅か、一息に押せば刃は心臓を切り裂くだろう。だが、アイオンはそれをできずにいた。戦士としての道を望み、戦士として戦い、戦士として魔物を討つ、それが望みだったのではないのか。アイオンは自問する。
 いつの間にかアイオンは、その剣を降ろしていた。そして、剣を手放すとどっかりと石碑だったものに腰掛け、深く息を吐く。
 「アイオン……?」
 ガーラが心配そうに声をかける。
 アイオンはおかしくて笑った。なんで命をやり取りした相手の、殺そうとした相手の心配をするのかと。
 「……もう、わからないんだ ずっと、戦士として戦い、魔物を討つ事だけを願ってきた でも、もう俺には何もないんだ ガーラ、お前を殺そうとした時 驚くほど空っぽだったんだ」
 あれほど燻っていた復讐心が、憎悪が、憤怒が、今は驚くほど何もない。きっかけはなんだったのだろうか、兄が無事とわかった時か、ティリアの想いに気づいた時か、それともガーラに打ち勝った時か、いずれにせよ毒気が抜けた様に、戦士としてのアイオンは既に失われていた。そして何よりも、アイオンは己が恐ろしかった、命を奪おうとすることに対し、何の感情も動かなかった己の中の闇が。

 「アタシさ、よくわからないけど」
 打ちひしがれるアイオンの横に、同じくどっかりと座り込むガーラ。
 「今、幸せだよ 生きてアイオンと少しだけでも一緒にいられる、とても幸せ」
 そう告げてガーラはアイオンを抱きしめる。
 アイオンを、柔らかい温もりが包む。あれほど不快に感じていたガーラの匂いが、とても心地よく感じた。獣の様な、むせるような匂い。ゆっくりと肺を熱で満たし、冷え切った四肢に血が巡る。生きている、そう感じられる薫り。アイオンは自然と、赤子のようにガーラに抱きつくとその豊かな胸元に顔を埋める。
 「どうして」
 アイオンは問う。なぜ魔物のお前が、と。
 「いったろ、アタシはアイオンが欲しかったんだ 一目で気に入っちまってね……ハイオークは執念深いんだ、絶対に逃がさないんだよ……」
 アイオンが顔をあげると、目の前にガーラの顔があった。褐色の、とても美しい顔。それが月明かりに下で照らされ、古い物語に語られる戦乙女のようであった。
 ガーラの両眼がアイオンの両眼を捕らえると、ゆっくりと顔が近づきそのまま互いの口が重なっていく。

 互いに初めての口づけ。

 ゆっくりと、唾液を交え舌を絡める。やり方など知らなかったが、時折当たる歯の痛みすらも愛おしく感じる。体が熱い、アイオンとガーラは互いにそう思った。
 だが、アイオンは欲望を抑え、ガーラを制すると立ち上がる。惚けた表情のガーラは、どうして、と無言で尋ねる。
 アイオンはわかっていた、選ばねばならないと。

 「……ティリア、いるんだな」

 その言葉に、ガーラがはっとする。村へと向かう道、その方向に影が一つ。燃えるような赤毛が蒼い炎のようにたなびいていた。
 「アイオン、どうして? どうして魔物なんかと一緒にいるの?」
 悲しみに満ちた声。
 「……お願い、何も言わないで ……アイオン、今ならまだやり直せるわ そこの魔物の首を刎ねなさい」
 淡々とした、冷徹な声。悲哀に満ちながらも、冷たく響く。
 「何時からだ」
 アイオンが問う。
 「……つい先ほどよ……胸騒ぎがして走ってきたわ、どうしてかここにいると思ったの ……アイオン、惑わされないで 魔物は討つべき敵なのよ あなたには私がいるわ」
 だから殺しなさい、まるで別人のような冷たい声でティリアは処刑を命じる。
 ここで魔物の首を刎ねれば、ティリアはずっとアイオンの傍に立ち、支えてくれるだろう。
 シスターは献身的に戦士を支え、戦士はまたシスターを守る。シスターを守るは戦士の誉れ、シスターを娶るは戦士の夢。
 アイオンは剣を拾い、手に取る。古き剣、かつて古の戦士が使い給うた古強者よ……

 ガーラは悲し気に微笑むと、静かに目を閉じる。
 わかっていた、負けた時に首を刎ねられる定めだったのだから。愛した男は教会の剣なのだ、その剣に花が添えられている、そこに自分の居場所はない。本当はわかっていた、剣が、討つべき獣を愛するわけがない。剣に恋をした、獣の物語はここで終わるのだ。

 アイオンはティリアとガーラの間に立つと、ガーラの方を向く。
 目の前の魔物はただ静かに、時を待っている。その目を閉じ、どうか忘れないでと、その首を差し出す。
 ティリアの方を向く。
 共に育った娘は、強く冷たく立ちふさがっている。しかしその眼は確かにアイオンを想っていた。想うが故の、冷酷さであった。

 丘の上に風が吹く。たなびく二人の長髪が、まるで灯火のように揺らめく。紅く輝く蒼い炎、白く燃える銀の炎。
 選択せねばならない、どちらの道を歩むのか。

 「ティリア」
 名を呼ぶ。彼女の眼は、確かに決意と想いを秘めていた。



 「俺にはできない」
 すまない、そう心に秘めて。アイオンは選ぶ。



 「……だめよ、いや おねがい」
 「父に……アルデン神父に伝えてくれ」
 「アイオン、教会に逆らうの? 父さんの思いは?」

 「アイオン・ノクトアムは最初から堕落していたと 幼き頃に既に堕ちていた、ただそれを忘れていたのだと……」
 「いやッ イヤッ! アイオン! どうして……私じゃ、私じゃダメなの……?」

 すまない、零れそうになる言葉を必死に飲み込んで、アイオンはガーラの前に跪くと彼女の手を取る。ガーラの目が開き、涙があふれ流れる。剣は花ではなく、獣を選んだ。
 「さようなら、シスター・ティリア」
 さようなら、その残酷な一言を花に告げて剣は立ち上がる。そして獣を連れて、その道を外れてゆこうと歩き出す。当てのない、追われる旅へと。
 「待ちなさいッ 待ちなさいアイオンッ!」
 ティリアが叫ぶ。
 「見つけ出すわ たとえあなたがどこへ行こうとも、見つけ出してあなたを捕らえるわ 覚悟してなさい……アイオン、あなたは逃げられないの だから、だからお願い……私から離れていかないで……ッ!」
 ティリアの慟哭。だが、アイオンは静かに振り向くことなく歩み続ける。次会う時は敵なのだ。情は捨てねばならない、お互いに。
 アイオンは堕落していたのだ、だからティリアは止められなかった、それで良い。

 月夜、ただただ蒼い光が辺りを染めている。
 古い遺跡、そこから離れてゆく二人とそれを眺める一人。
 選択はなされた。



 第九 旅の始まり

 ……月下、冷たい風が吹く道をアイオンとガーラは並んで歩く。
持ち物は、ほとんどない。お互い、持っているものは武器が一つ、そしてアイオンは腰につけた短刀と応急処置用の薬と僅かな通貨だけ。ガーラに至っては身につけている衣のほかにはほとんど何も持っていなかった。
 文字通り身一つに近い状態での旅であったが、不思議と二人は清々しい気分だった。恐らく前途多難、当てはないし追われる身となる厳しい旅となるだろうことが容易に予想できるにも関わらずであった。
 ガーラは上機嫌に、大斧を担いでアイオンの手を握り歩く。そんなガーラに引っ張られるように、アイオンも歩いていた。満月はどこまでも明るく、広い平野の先を照らしている。
 どこにいこうか、ガーラに引っ張られながらアイオンは考える。主神教団の手が及ぶ場所にはいられない。しかし、無事に教団の手が及ばぬ場所まで行けるだろうか。
 アイオンは知っていた、この冷たき北の大地はそのほぼ全ての国が主神教団を中心とした対魔物の同盟を組み、魔物を討ち滅ぼすべく戦っている。この北の大地から抜け出すだけでも、厳しい旅路になるだろう。
 また、この北の大地以外の場所でも、状況はそうは変わらないだろうとも知っていた。もしもアイオンとガーラが安寧の地を得ようと思えば、はるか遠くの魔王領へと向かうか、魔界と呼ばれる領域に向かうしかない。
 「どこに行こうか」
 アイオンはたずねる。思えば今までこのような当てのない旅はしたことがないなと、アイオンは笑う。
 「どこだっていいよ、アタシはアイオンと一緒にいられればどこだっていい」
 アイオンは魔物だけが知る理想郷、のようなものがあるという答えを期待したが、やはりそんなものはないのだなと一人苦笑する。だが、今のガーラの明るさはアイオンにとって少なからず勇気を与えてくれていた。
 「そうだ!」
 突然、ガーラが声を上げる。
 なんだ、とアイオンが声をあげようとしたその時、ぐいっとアイオンを抱きしめるとガーラは勢いよく口と口を重ねる。
 勢いのあまり、どこかぶつけるかとアイオンは思ったが、ガーラは唇も体も、どこまでも柔らかくアイオンの体を包み弾く。互いの息を交換する長い口づけ。
 やがて満足したのか、ガーラはアイオンを解放するとニッと笑う。
 「ヒヒッ、捕まえた! もう絶対離さないからな!」
 その巨体に似合わぬ無邪気な笑顔に、アイオンは微笑むとガーラを抱きしめ返す。
 「ああ、捕まってしまったよ」



 それからしばらく、二人はひたすらまっすぐその長い平野を進み続けていった。横には森が広がり、前には山々が見える。
 月が傾き、夜が明けようとしていた。夜通し歩いたこともあり、アイオンは少し息が上がっていた。ガーラはその様子を見て心配げに声をかける。
 「アイオン? 大丈夫か?」
 少し立ち止まり、息を整えながらアイオンは頷く。しかし、その表情は重く、汗がにじんでいた。思えば、あの戦いからろくに休憩もとっていないことをガーラは思い出す。何より、直撃はしなかったとはいえあの突進を受けているのである。立つこともつらいはずであった。ガーラは急いで辺りを見回す。アイオンはできる限り遠くへと行きたがっていたが、無理はさせられないとガーラはアイオンを担いで休めそうな場所を探す。
 幸運にも、森の小川の傍に小さな窪みのようなほら穴を見つけたガーラはそこにアイオンを寝かせる。アイオンはだいぶ疲れていたようであり、ガーラが担いでいる時からすでに意識を朦朧とさせていたのであった。すぐに眠りに置いたアイオンが寒く無いようにと、ガーラはぎゅっとアイオンを抱きしめると、自らも目を閉じ眠りへと落ちる。
 夜明けの川の辺の小さな洞で、二人は眠りに落ちる。
 ようやく訪れた、僅かばかりの平穏であった。

 ……少し後、昼頃を過ぎたあたりでアイオンは目を覚ます。
 (しまった……)
 いつの間にか意識を失っていたか、一人アイオンは呟く。そんなアイオンの横で、ガーラが少し鼻息荒く眠りに落ちていた。腕を回し、胸を押し付け、足を絡ませながら。夢の中でガーラに何が起きているのかわからなかったが、どうも顔は上気しやたらと上機嫌であった。そして、そんな密着した状況というのは、アイオンにとってやや毒であった。
 (不味いな、先ほどまでそんなに、意識してなかったが……)
 ちらりと、ガーラの方を見る。今まで何故意識しなかったのか不思議でならないが、アイオンはガーラの衣服の際どさに驚いていた。
 (殆ど裸じゃないか!)
 大事なところは毛皮で作った衣で隠してあるが、それ以外は殆ど身につけていないと言ってもよく。何よりガーラを許し、また異性として認識してしまった影響か、横で無防備にその成熟した体を押し付けられるというのはアイオンにとって耐えがたいものがあった。
 あっという間にアイオンは目を覚ますと、己の中の獣欲が起き上がるのを感じる。だが、つい先ほどまで教会に属し、教会で育ったアイオンにとってそのような気持ちは邪なものであり、耐えねばならぬものでもあった。
 だが、そんなアイオンの気も知らぬように、先ほどよりもガーラの薫りが甘く、どこかねっとりとしたものを含むように感じられ、それがまたアイオンの精神を少しずつ削り取っていくかのようであった。それに、よくよくガーラを見てみればやはり様子がおかしい。体は火照り、不規則に両腿をこすり合わせ少し湿ったぬめりのある音が聞こえる。息は荒く、これはまるで。
 「アイオン……!」
 いつ起きたのか、ガーラが甘えたような声でアイオンの名を呼ぶ。
 「! ガーラ、起きたのか!」
 まだ寝起きなのか、もぞもぞと甘えるように四肢を絡みつかせるガーラ。むわっとした薫りが示すようにその体は汗でしっとりと濡れ、今度ははっきりと、両腿の付根から粘ついた音が響いてくる。アイオンは確信する、そして同時に少なからずの焦りを感じる。
 「へへっ……アイオン アイオン」
 無邪気に甘えるような声音でありながら、その体は淫らに濡れている。ガーラは発情していた。当然、アイオンも知識はある。知識があるだけである。
 ガーラの手が、アイオンの下腹部、その付け根を撫でる。武骨なようでいて、柔らかく繊細な細指がアイオンの一物を探していた。既にアイオンの一物は、窮屈な衣服の中で痛いほど隆起しており、解放の時を待ち望んでいた。
 「まっまて、ガーラ! こういうのは」
 もっとお互いを知ってから、そういおうとする口をガーラが塞ぐ。ねっとりと、熱く絡みつく口づけ。アイオンの歯をなぞるように、ガーラのぽってりと長い舌が口の中に入り込む。たった数度の口づけで、ガーラは熟練の淫婦の如き口戯を身につけていた。全ての魔物の中に宿る、淫魔の本能がなせる業である。
 とろりと、唾液の橋が架かる。情熱的な口づけにアイオンはすっかり惚けてしまう。そうこうしている間に、ガーラの指はアイオンの欲望を探り当て、器用に防具の隙間に手を滑りこませ直に撫で握っていた。今まで手淫の経験すらもほとんどないアイオンにとって、異性に直に己を包まれるというのは初めてかつ強烈な感覚であった。その初めての感覚に、アイオンの腰はたまらずに震える。
 もちろん、ガーラも初めてである。しかし、魔物の中に刻まれた本能が自然とどのようにすればよいか、教えてくれていた。それに何より、己を打ち負かすほど強く、そして愛おしい相手を、良いように手玉に取る感覚はもともと嗜虐心の強いガーラにとってたまらなく心地よいものであった。にんまりと、かつての意地の悪い笑みを浮かべちろりと舌を出す。
 その顔に、アイオンはぞくりとする。記憶の底に刻まれた恐怖が、少しずつ被虐的な快感へと塗り替えられていく瞬間でもあった。
 「ヒヒッ! 逃がさないよ、アイオン」
 喰われる。その甘美な本能の囁きに、アイオンの意識は少しずつむせるような匂いの中に沈んでいく。深く息を吸い、ガーラの薫りを楽しむ。吸い込めば吸い込むほど、まるで風船のように己の一物が膨れ上がっていくかのような錯覚を覚えるほど、ガーラの匂いは芳醇で心地よく、それでいて奮起させられるものであった。
 ガーラはアイオンの一物から手をはなし、むくりと起き上がると、アイオンの上に跨り、粗雑な動きとは裏腹に丁寧にアイオンの防具を剝いでいく。破り捨てられるとばかり思っていただけに、アイオンは驚くようにガーラを見る。
 「旅、続けるんだろ?」
 アタシはここでもいいけど、そういってガーラは笑う。ガーラのその言葉に、アイオンはより一層の愛おしさを感じ始める。ほんのわずかな間に、アイオンの気持ちもまたガーラの想いに負けぬほど大きくなり始めていた。
 ほどなくして、アイオンを脱がし終えたガーラは自らの纏っていた衣服も豪快に脱ぎすてると、再度アイオンの上に跨り押さえつける。
 互いに、生まれたばかりの姿となり、見つめ合う。
 アイオンは感嘆の表情で、ガーラの裸体に見惚れる。灰色のかかった白髪が流れるように褐色の肌を覆い、引き締まっていながらもしっかりと脂がのり、むちむちとした肉体。胸はふくよかでいながらツンと張りがあり、淡い桜色の頂きが慎ましやかに存在を主張していた。尻や両腿も太ましいながらも尻は上向き、両腿ははち切れんばかりに輝いている。それは正に理想の肉体であった。
 「ガーラ……綺麗だ」
 アイオンの、混じりのないその言葉に、ガーラはぽっと顔と体を火照らせる。既にガーラの秘泉はしとどに溢れアイオンの下腹部を濡らしている。ねっとりと、熱く粘つくその雫もまた濃密な薫りを放っており、ただそれだけでも射精に至ってしまいそうなほど、今のアイオンにとっては刺激が強いものであった。現に、アイオンの一物は反り返り、びくびくと暴発を耐えているかのような有様であった。
 だが、それはガーラも同じであり。秘部はひくひくと蠢き、熱く疼き続けている。どちらともなく、互いに性器をあてがう。ただそれだけでも、心地よかった。
 ガーラの秘唇は吸い付くようにしっとりとアイオンの先端を包み込み、奥へ奥へと飲み込むかのようににゅるにゅると蠢く。

 アイオンとガーラは互いに見つめ合う。そのままガーラはゆっくりと、ゆっくりと体重をかけながらアイオンの熱い肉杭を受け入れ、自らの蜜を滴らせる肉窟へと沈み込ませていく。こつり、と頂きが最奥の扉へと当たり、きゅうっと蜜肉が締まる。

二人が結ばれた瞬間であった。

 苦痛ではない、心地よい熱の塊が己の中にあるという初めての感覚に、たまらずガーラはアイオンの上に覆いかぶさるように倒れ込むと、自らの胸をアイオンに押し付ける。
 若干の余裕があるガーラに対し、アイオンは既に限界であった。己の分身が熱くぬめり、縦横無尽に締め付け吸い上げる蜜の中に浸されているのである。実戦経験などなく、摸擬戦すらも殆どしなかったアイオンはあっけなく敗北し、射精に至った。
 まるで噴き上げる泉のように最奥を叩くアイオンの迸りに、ガーラは暫し驚くも、熱く疼く子宮の心地よさに愛おしさを募らせ、より強くアイオンを抱きしめ受け入れる。
 初めての性交、そして胎内への射精の快感にアイオンは脳が焼き切れるかのような快感と眩暈を覚える。アイオンの一物は、大量に精を吐き出したのにも関わらず未だにびくびくとガーラの中で硬度を保ちながら暴れていた。

 暫し、互いに抱き合い静かに呼吸を重ねたのち、ずにゅり、と最初に動き始めたのがガーラであった。腰を浮かせ、にゅるにゅるとアイオンの肉棒を引き抜き、抜ける直前でまた飲み込むように腰を下ろす。単調な、緩慢な動き。
 「あっ あっはっ」
 だが、経験の浅い二人には僅かな肉と肉の摩擦でさえも耐え難い快感であった。アイオンは歯を食いしばり、ガーラは抑えきれない艶声が最奥を叩く度に漏れる。
 「あっ! すごいっ! んっ! すごいっ、アイオン!」
 徐々に、確実に飲み込み快楽を己のものにしていく。ガーラの腰の動きは早くなっていき、それに伴いぬめる水音も弾けるような音へと変わっていく。あっと今に馴染み、まるで最初からぴったりとはまるように創られたかのようなガーラの膣内に、アイオンは言葉を失いただひたすら押し寄せる快感を耐える。
 「ねっ 触って! 触って!」
 そんなアイオンの気など知らないように、ガーラは腰を打ち付けながらアイオンの手を取り自らの胸へと導く。ぷるんと、腰が動く度に揺れる豊かさをアイオンは掴む。
 「ああっんっ!」
 その瞬間、ガーラは仰け反りギュッと下が締め付けられる。耐えていた所の不意打ちである、アイオンは二度目の敗北を喫した。
 「うっぐぅ!」
 思わず声が漏れるほど、びゅるびゅると音が聞こえるような強烈な射精。二度目だというのに減るどころか量が増えているかのようであった。そのたっぷりと注ぎ込まれる射精に、ガーラは子宮だけでなく全身を震わせて快感に溺れる。
 ちゅうちゅうと、何かが先端に吸い付くかのような感覚に、ぞわぞわと背筋がくすぐられるような快感がアイオンに走る。その瞬間、少し萎えかけていた愚息が、再度息を吹き返すがの如くガーラの中で直立し、奥を押し上げるようにぐりぐりとガーラの中を蹂躙する。
 「ああんっ! いいっ!」
 自らの中で、再び硬度を取り戻すという現象は予想外の快感をガーラに与えたようであった。ぴしゃっという淫らな音と共に、粘ついた蜜が結合部から漏れる。

 二度目の射精をへて、ようやくガーラを味わう余裕ができたアイオンは、相変わらずアイオンに跨るガーラの胸を今度こそとばかりに掴む。熱く柔らかく、指が沈み込むようでいてぴんと弾くその感触は初めてのもので、いくら触っていても飽きがこないほどであった。
 揺れる二つの果実、その先端にある薄桜色の蕾をアイオンの指が捉える。少し強めに捻るたびに、上の口は涎を垂らして快叫を奏でながらも、咥えこんだ下の口が収縮して一物に吸い付き、得も言われぬ快感をアイオンに与える。
 アイオンは身を起こすと、その揺れる果実を一つ口に含む。ピンと硬く尖った蕾を、舌の上で転がすとほんのりと染み出すようにガーラの薫りと滋味がアイオンの口の中に広がる。
 「ンっ! ヒヒッ、あんっ! おっぱいが恋しいのか? 良いぜ」
 そういってガーラはアイオンを抱きしめると腰を深く落とし、ぐりぐりと押し付ける。押し付けられる度にぎゅうぎゅうと締め付けられる快感はもちろんのこと、抱きかかえられて赤子のようにあやされるという精神的充足感もまた麻薬の様な快感としてアイオンを包む。ガーラはアイオンを包むように丸まり、その揺り籠の中でアイオンは母なるガーラに甘えていた。
 縛らく、母の薫りと味に酔っていたアイオンだったが、乳房から口を離す。しばしの休息により、アイオンの愚息はじくじくと張りつめ、熱く硬くガーラの胎内を押し広げていた。
アイオンは欲望のままガーラを押し倒すと、そのまま快感を貪るように腰を打ち付けていく。
 「はんっ! ンンッ! なんだよ! 急に男ッらしくなりやっがって!」
 勢いよく引き抜かれるたびにぬばっと蜜が粘る。打ち据える度にどこまでも深く飲み込み、吸い締め上げる肉壺を味わう。何時までもこうしていたい、アイオンは無意識のうちにそう願う。
 それはガーラも一緒だったのだろう。お互いに抱きしめ合いながら、時折視線と口付けを交わしながら、絶頂へと昇りつめていく。

 「アイオン! アイオン! 一緒にッ!」
 玉汗を飛び散らし、縋りつきながらガーラが叫ぶ。
 「ああっ! 行こう! ガーラッ!」
 限界まで高めた欲望を、深く深く突き立てる。奥底から入り口まで、全てを使ってガーラはアイオンを受け入れ包みこむ。アイオン三度目の射精は、先の二度の射精よりも長く、それでいて全てを満たすかのように多くの精が吐き出されるのであった。

 ぐぷり、とアイオンの一物が引き抜かれる。ねらねらと艶やかに光るそれをガーラがうっとりと眺めていた。未だに萎えることを知らないそれは、熱気を放ちながら先ほどまで己が埋まっていた蜜泉へと戻りたがっている。
 むせ返るガーラの薫り、そして未だに蠢き欲望を誘う蜜壺を前に、アイオンの一物は熱く反り返り、天を衝く。
 「……良いぜ アイオン」
 そんな愚息を恥じ入るかのような表情のアイオンに、ガーラは慈愛の言葉をかけ、抱き寄せると再び自らの中へと招き入れる。



 小さな洞の中で、一組のツガイが何時終えるともわからぬ睦み事を続けるのであった……



 第十 新たな道

 ……あれから暫く後、アイオンとガーラが満足したのは日が暮れてさらに月が辺りを照らし始めてからであった。
 「いや〜なんだ 人間ってみんなこうなのか?」
 小川の辺で、ガーラがからからと笑いながら、未だにとろとろと秘所から溢れ出る白濁液を洗い流していた。
 アイオンは、己の無尽蔵ともいえる性欲にすっかり恥じ入ってしまい、小川の中心で座り込んだまま動かなくなってしまっていた。
 これでも、長いこと教会という禁欲を良しとする集団で生活してきた男である。いくら相手が魔物とはいえ、いや、魔物相手だからこそ獣欲に流され理性を失っていたことをひどく恥じ入っていたのである。この辺の価値観だけは、すぐには抜けないものであった。
 それは、アイオン自身生真面目なところがある男というのも関係していた。
 「な〜 アイオーン」
 全裸のガーラがカラッとした声でアイオンの傍による。むくりと、ガーラの薫りに反応するかのようにアイオンの愚息は反応してしまう。
 流石に性欲は殆どなかったが、まるで条件反射のように体はガーラの匂いに反応し求めてしまうようであった。殆ど己で制御できぬと諦めたアイオンは、川から立ち上がるとガーラの方を向く。
 「おっ けっだものー」
 未だに元気なアイオンの愚息を見て、ガーラはからりと艶っぽく笑って舌なめずりをする。どうやらガーラはまだまだいけるようであった。
 そんなガーラの様子と、自分の愚息を見てアイオンはため息をつく。
 「なんだよ、どうしたんだ?」
 「いや、少し恥じ入っていただけだ……」
 「恥じ? なんで恥ずかしいんだ?」
 「何でもない…… ガーラ、服を着ろ そろそろ行くぞ」
 相変わらず明るい月明かりの下で、ガーラの豊かな胸が揺れる。胸ばかりか、むっちりとした尻も同じようにふるふると震える。そんなガーラの体は、薫りだけでも反応してしまうようなアイオンにとっては強烈な淫毒に等しかった。
 「わかったよ、へへっ」
 一緒の旅、ただそれだけで嬉しいのか、ガーラははにかみながら衣服を着ていく。
 そんなガーラを、アイオンは微笑みながら眺めると、同じように服を着ると荷物を確認していく。
 そう、どうしてかわからないが、交合を終えたアイオンとガーラがほら穴から出ると、出口の脇に小さな荷物が二つ、置かれていたのである。誰のものかわからない荷物に、最初は警戒したものの、結局辺りには誰の気配もしなかったのである。
 荷物をどうするか悩んだアイオンであったが、ガーラはその荷物の匂いを一嗅ぎすると、少し嬉し気な、それでいて郷愁のような悲しい表情をして言うのであった。
 「ヒヒッ ……持って行こう、誰かさんからの選別みたいだし」
 獣の皮で編まれた簡素ながらも頑丈な荷袋。なんとなく、アイオンはガーラの表情からこの荷物を置いていった主を想像するも、口には出さなかった。ハイオークであるガーラ程嗅覚のすぐれないアイオンは、真似して匂いを嗅いでみても懐かしい毛皮の匂い以外、何も感じ取れなかったからである。そう、狩人であった兄の匂い以外は……

 荷物の中には、三日分はありそうな束ねた干し肉と干した果物、手作りだろう大きめの水筒に火打石、小さく不格好な鉄の片手鍋にちょっとした食器、そして修繕用の道具と旅に必要なものが一通り入っていた。
 前途多難な、追われる旅。それでも誰かが祝福してくれている。ただそれだけの事実で、アイオンは勇気が湧いてくるようであった。

 荷支度を終え、荷袋と武器を背負う。アイオンにはやや重たかったが、ガーラにとってはちょっとした程度のものであったようで、軽々と指にひっかけてぶら下げている。
 アイオンとガーラは、つかの間の休息を与えてくれたほら穴を、もう二度と見つけられないだろうけども、思い出の場所となったほら穴を、そっと目に焼き付けると振り返り、前へと歩き始める。

 「アイオン」
 「なんだい」

 「鎧、置いていっても良いの?」

 ほら穴の中には、丁寧にたたまれた鎧が置いてある。

 「ああ 旅に出るんだ、身軽な方が良い」
 「そっか」

 二人が歩く。蒼い月明かりの下。
 道なき平野であったが、二人は迷うことなく進み続ける。

 この歩みが、二人の新しい道なのだと知っていたから。

21/03/11 20:27更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
読んでいただき、ありがとうございます。
今後も切りのいい形で投降できたらなと考えています。

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