連載小説
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春 草原にて

故郷は遥か遠く、旅は長く苦しいものになるだろう。
イーサンはそう考えた。
イーサンは大岩の上に立って、足元に広がる草原を眺めていた。
柔らかな日差しが優しく降り注ぎ、のびのびと生える草木を緑色に照らしている。
その向こうには、地平線を隠すようにそびえ立つ山脈が、緩やかな山稜を描いている。
尾根はすっぽりと雪をかぶって、太陽の光で真っ白に輝き、イーサンの心算をさらに厳しいものにしていく。
頭の中の地図と照らし合わせ、あの山脈を越えなければ次の街にたどりつけないと見切りをつけた。
イーサンは俗に言う流れ者である。
今は故郷に帰るために、街を巡り歩いている。
両親はいない。イーサンが故郷を出る前に死んでしまった。
妻子はいない。そんな余裕はなかった。
しかし、イーサンには故郷に帰る理由があった。
今日のうちに山脈を越えよう、とイーサンは決めると、大岩から降りて自分の荷物が置いてある草むらに向かう。
まずは腹ごしらえだ。バックに入ってるサンドイッチを食おう。
宿のおかみさんが持たせてくれた、肉の脂身みたいにねっとりとしていながら、さわやなか味がする不思議な果物を挟んだ、特別なサンドイッチだ。
その味を頭の中で想像し、よだれが垂れるのを我慢しながら草むらに入ろうした時、イーサンは身体をこわばらせた。
荷物の上に何かが乗っている。
巨大な青虫、というのが見たまんまの感想だった。
ぶよぶよした緑色の身体を動かして、頭に当たる部分を荷物袋の口に突っ込んでいる。
「おい!」
幼い子供くらいのでかさはある青虫にひるみながらも、イーサンは声を張り上げた。
荷物の中には、イーサンが故郷に持って帰るべき大切なものがある。青虫ごときに負けてられない。
すると、青虫の動きは止まり、袋から頭をひっこぬいてイーサンを見た。
それは女の子の顔だった。頭にはオレンジ色の触覚が生えている。
何かを食べているのか、口をもごもごと動かしていた。
「なに?」
声変わりの最中の子供みたいな、ざらついた声で青虫は言った。
「なに、じゃない!それは俺の荷物だ!」
「え?ああ、ごめんね。お腹がすいてて、つい」
イーサンは青虫をおしのけて、袋の中を見た。
思った通りだった。楽しみにしていたサンドイッチは、ひとつ残らず無くなっていた。
「俺の昼飯が……
「ほんとにごめんね、何日も何も食べてなくて」
「他には?何も食べてないな?」
「うん、サンドイッチだけ。おいしかったよ」
イーサンは袋をさらって、目当てのものを見つける。
それは小さな革の袋だった。中の物を絶対に傷つけないように、中地に綿まで詰めている。
袋を開けて、イーサンは中の物を確認する。
「よかった。こいつは無事だったか」
「なにそれ?そんなに大切なものなの?」
「お前には関係ないだろ。さて、サンドイッチの恨みを返してやるぞ」
イーサンが拳を作って青虫に近づくと、青虫はおびえた声を出した。
「ちょ、ちょっと落ち着いて……」
「落ち着けるわけないだろ。あのサンドイッチを俺がどれだけ楽しみにしてたか」
ふつふつと湧きあがる怒りを手に込めて、青虫に掴みかかろうとした時だった。
甘い匂いがイーサンの鼻をついた。
糖蜜を煮詰めたような、嗅いでいると気が抜ける匂い。
イーサンの怒りは穴の空いた風船のように萎えしぼんでいった。
「はぁ……なんなんだ、いったい」
「ふう、助かった。私の匂い、効くでしょ」
青虫は触覚を振りながら言った。さっきの甘い匂いはそこから出ているようだ。
再び怒ろうとしても、甘い匂いのせいですぐに気が抜けてしまう。
「ああ、クソッ。もういい。どっかいってくれ」
怒っているのも馬鹿らしくなり、イーサンは荷物袋に手を入れる。
サンドイッチのほかにも食料はある。それで腹ごしらえしたら、出発しよう。
イーサンが地べたに座って乾燥パンと水で食事を始めた時、青虫はまだ居てイーサンの正面に回ってきた。
「なんだよ?さっき食っただろ?」
「そんなに楽しみにしてた?あのサンドイッチ」
「ああ、そうだよ。お前が食ったんだろ」
「ほんとにごめんね」
「もういいって、その話は終わりだ。俺は今日中にあの山脈を越えなきゃなんねえんだ。邪魔すんな」
イーサンはそっぽを向くようにして、遥か向こうにそびえる山脈を見た。
もしかしたら今日中に超えるのは無理かもしれない。山の中で野宿することになるかもな。テントも揃えておくべきだったか。
「なんで山を越えるの?」
「あ?別に何でもいいだろ。向こうの街に行きたいんだよ」
「違う、違う。なんでわざわざ山を越えるのかなって」
「どういうことだよ」
「向こうに行くだけなら、山を登らなくても道があるんだよ」
イーサンは思わず問い詰める目で、青虫を見た。
「本当か?どこにある?」
「私、向こうから来たから知ってるよ。山と山の間にある道なんだけどね。サンドイッチのお礼に、案内しよっか?」
「ああ、ぜひ頼む」
イーサンは乾燥パンを口に放り込んで水で流しこむと、荷物袋を背負って立ち上がった。
「お前、名前は?」
「プラム。森でプラムばっかり食べてるから」
「なるほど」
プラムはイーサンの身体をよじ登って、肩に上半身を預ける格好で落ち着いた。
荷物が増えたのは痛いが、プラムの体がそこまで重くないのが救いだった。
「よし、行くか」
イーサンは山脈を目指して歩き出した。
20/07/07 14:22更新 / KSニンジャ
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