周囲に漂う煙の臭い。
同じ木でも焚火用に乾燥させた薪を燃やすのとは全く違う臭い。
湿った木材と、それ以外の物。
家具に使われている革、金属、樹脂、そして肉。
それらが燃えて放つ異臭が混ざり合った煙
戦争の匂いだ。
その悪臭と言って差し支えない匂いを、トエントは大きく肺に取り込む。
肺が大きく膨らみ、脳に酸素が行きわたり、血が巡る。
疲労のこびり付いた肉体とは裏腹に脳はキンキンに冴え渡っている。

　生きている。

　そこら中に転がる死との対比で生がまざまざと実感される。
そんなキリキリに研ぎ澄まされた自分は、大剣を背負って戦場で敵と対峙している。
めらめらと燃え盛る家屋が周囲を取り囲む中、その相手はそこにだけ涼風がそよいでいるかのように立っている。
ディムだ。
長い黒髪を熱風にたなびかせながらも、その目は涼しい。
冷たい目をこちらに向けながら、ディムはあの隙のない美しい姿で立っている。
「……」
「……」
互いに黙っている。
一騎打ちでも無いのだから、名乗りも何もない。
口を開く事より、相手の一挙一動を見逃さない事に全力を注いでいる。
トエントはディムの下半身を見ている。
下半身と、その爪先に意識を集中している。
ふ、とディムが、その涼風に流されるようにしてこちらに踏み出した。
トエントも弾かれるように反応する。
いや、したつもりだった。
身体が重い。
自分の意識について来ていない。
突如として、自分の姿を客観的に認識した。
あの頃の研ぎ澄まされている自分ではない。
老いて、身体の重くなった自分がそこにいる。
当時の自分と比べればあくびの出そうな動きで、自分は剣を振る。
剣が重い。
当然、そんななまった動きでディムの動きに対応できるはずもなかった。
剣で剣を受けることもままならず、いとも容易くディムの刃がトエントの首に届く。
熱い。
切り傷を受けた時に感じる感覚が首を薙いでいく。
息が止まり、自分の温かい命が喉から吹きこぼれるのを感じた。
膝を着く自分。
剣に付いた血を払いながらディムは去って行く。
ディムにとっては火の粉を払うようなものだったのだろう。
その背中からは何の感慨も伝わってこない。
倒れた自分はひょうひょうと傷から空気を漏らしながら、その背中に震える手を伸ばす。
ディムは一瞥も無い。
走馬灯を見る事もなく、トエントの意識は闇に呑まれ……。

・

・

・

　朝の宿の一室で、鏡の前のトエントは自分の喉をさすった。
夢に見たあの斬撃が残した火傷のような痛みが、起きてからも消えないような気がする。
ディムと戦場で出会い、一方的に切り伏せられる夢。
冷静にディムと自分の実力差を認識すれば、当然そうなるだろうという夢。
トエントは胸が苦しかった。
その夢に対して憤りも無く、そうだろうな、と冷静に思う自分が苦しかった。
昔の自分であれば憤っていただろうか、いや、喜んでいたか。
自分の実力を存分に振り絞っても敵わない相手。
その頃はまさにそういうものに飢えていたのだから。
それが今や「そうなるのも仕方がない」と受け入れている。
老いた。
自分は老いさらばえた。
その実感が急にのしかかってきた。
ずっと前からわかっていて、とっくの前に受け入れたはずの現実がだ。
「何故……？」
自分の口からこぼれた言葉に、自分で首を傾げる。
何が何故なのだ。
「何を間違えた……？」
間違えた？
何を？

・

・

・

　まだ日の登り切らない、朝もやに包まれる広場にディムは居た。
訓練用の軽装姿のディムは、腹部の前に手を水平に組んで呼吸を整えている。
冷たい朝の空気が肺に満ち、筋肉の隅々にまで酸素が行き渡るのを想像する。
そうして、ゆっくりとした動きで武道の型を取り始める。
本格的な訓練に入る前の準備運動だが、それはまるで舞踊のように見る者を魅了する動きだ。
ふと、その動きが止まる。
視界の端に誰かの影が映った。
男が一人、広場の隅に立っている。
「……あっ」
トエントだった。
差し始めた陽光に半身を照らされながら、ディムを見ている。
視線が合うと軽く会釈をして歩み寄って来た。
「お、おはようございます」
「おはよう……先日は申し訳ない事をした」
そう言って改めて頭を下げてきた。
先日、とは酔って絡んだあの件の事だろう。
「い、いえ、為になる講釈でした」
同時に足を掴まれた時の事も思い出して赤面する。
「なに、寂しい爺の戯言だ……」
トエントは視線を足元に落とし、ため息交じりに言う。
「そんな事は……貴公の武勇と功績は私も音に聞いております」
「よしてくれ」
トエントは落とした視線を上げないまま言う。
ディムはその元気のない様子に心配になるが、余計なお世話になるだろうか、と口火を切れない。
「ディム殿」
「はい？」
「違ったら済まないが、貴女は……元人間では？」
「ええ、そうですが……誰かからお聞きになりましたか」
「いや、技術的な意味でな、元から魔物である女性と後天的に魔物化した女性ではやはり違いがある」
「なるほど」
ディムには心当たりがある。
身体能力が飛躍的に向上したが故に、一度完成に近づいたスタイルを組みなおす事になった。
「しかし、見るに魔物化以前から相当な腕前だった様子……」
「いえ、誇れるようなものではありません」
ディムの表情が硬くなる。
「覚えておられるか、人間だった頃に……」
「はい？」
「何人斬ったか」

　ちゅん、ちゅんちゅん

　鳥が、晴れ始めた朝もやの中を飛んでいく。
街が眠りから覚め始め、少しずつ人々の営みの気配がする。
爽やかな朝だった。
トエントは再び顔を伏せる。
「すまない、忘れてくれ、酔ってもいないというのに不躾な事を……」
「覚えていません」
その言葉に視線を上げると、ディムの無表情な顔があった。
「途中から数える事をやめました」
「そう、か……」
一目から感じていた、彼女からは微かだが自分と同じ匂いを感じ取った。
それは言葉にできない感覚的なもの。
戦場の匂いだ。
さらに言うならそれは不殺を旨とする魔物達の戦場ではない。
前時代の戦場。
人間と人間の戦争だ。
人命が無作為にすり鉢に放り込まれ、すり潰されていくような戦場。
その地獄で命を燃やした事のある者。
ある種のシンパシーのようにそれを彼女から感じ取ったのだ。
「私の過去に興味がおありですか」
取り乱した様子もなく、ディムは言う。
「いや……触れられたくない部分に触れてしまった、謝罪する」
「私は気にしません」
ディムはふと、あるなしかの微笑を浮かべた。
「過去ではなく、今現在が最も重要です」
トエントはその顔を眩しそうに見た。
自信と自負が感じられる。
国と国の争いのための戦いではない。
少し特殊な価値観だが、魔物娘達の戦いは純粋に命を救う戦いだ。
過去を乗り越え、今の自分に誇りを持っている。
自分とはあまりにも違う。
「なるほど、強い」
その言葉にディムははにかんだ。
「トエント候にそう言われるとは光栄です」
「……私とは違う」
何か苦い物を噛み締めるように言う。
「トエント候」
ディムが諫めるような口調になる。
「先程からおかしい、何故自分を貶めるような言葉ばかりを言うのです」
「……」
「トエント候……」
ディムは少し、髪を気にするそぶりをした。
「少し、お茶でもどうでしょう」

・

・

・

二人は食堂でテーブルを挟んで向かい合っていた
カチャカチャと食器の触れ合う音と店員の声が飛び交い、コーヒーと朝食の匂いが漂う。
「急に誘って申し訳ありません……その、予定があったなら……」
「いや、いつも暇だ」
互いに湯気の立つコーヒーに手も付けずに黙り込む。
その場だけ周囲に比べて空気が重いようだ。
「平和だな」
口火を切ったのはトエントの方だった。
今日の仕事に向けて朝食をとる人々や、忙しそうな店員達の方を見ながら言った。
「ええ」
「素晴らしい事だ、平和である事が何よりだ」
「そうですね」
トエントの言葉を取りこぼさないよう、ディムは最低限の相槌をうつだけだ。
「我々の戦いもこれが目的だったのだ、勝利の先に平和を見ていた」
トエントの視線が遠くなる、ここでは無いどこかを見ている。

　「という、お題目があったのだ」
不意に、ディムに視線をうつした。
暗い目をしていた。

「そういうお題目の元に人を斬ってきたのだ」

「だから我々には存在価値があったのだ」

「強い事に意味があったのだ」

「人を斬る事に意味があったのだ」

「今は違う」

「今、人を斬る事はただの凶行だ」

「私は人生をその凶行に捧げて来たのだ」

「私は間違えたのだ」

　「違う」
ディムはその暗い目を見返しながら言う。
強い光を宿した目だ。

「その時代にはその時代の生き方がある」

「人を斬る事が人を救う事に繋がる時代があった」

「だから貴公はその時代のやり方で人を救った」

「何も間違えてはいない」

　トエントの口角がぐい、と上がった。
深い皺の刻まれた顔は笑顔だ。
その瞬間、食堂に居た何人かの兵士や魔物が二人の座る一画に視線を向けた。
どちらかが声を荒げた訳ではない。
大きな音を立てた訳でもない。
ただ、そういう空気に敏感な者にしか感じ取れない物がそこには発生していた。
朝の食堂の爽やかな空気にあまりにそぐわない、不穏な気配がそこに生じたのだ。

「勘違いをしている」

「「俺」は一度たりとも人を救う目的で人を斬った事は無い」

「戦いの先に平和を夢見た事も無い」

「斬る事に罪悪感を感じた事もない」

「俺は」

　トエントは声を潜め、囁くように言葉を吐いた。

「人を斬る事が好きなのだ」

　さらに複数人が二人に目を向けた。
敏感な者以外にも異変を感じ取れる程に空気が張り詰めている。
店主や店員の視線も集まり始めている。
と、不意にトエントの笑顔が消え、知らずに乗り出していた体勢を戻して背もたれに背を預けた。
ふい、と張り詰めた空気が霧散した。
集まっていた視線も、唐突に消えた気配に僅かな戸惑いを残しつつ、散っていった。
トエントはため息をつく。
「私は時代に則した人間だった、あの時代だからこそ生きる事を許された人間だった」
ディムは変わらず強い光を宿した目でトエントを見ている。
「もう、わかっただろう、私が何を間違えたのか」
トエントは小さくなっていた。
ディムの目には、先程の気配を発したトエントは一回りも大きく見えていた。
それが今、目の前の老人は実際以上に小さく見える。

「引き際だ」

「引き際を間違えた」

「自分の生きた時代と共に幕を引かねばならなかった」

「生き延びるべきでない所を、生き延びてしまったのだ」

「なあ、ディム殿」

「余りにも身勝手な願いだとはわかっている」

「だが、もし、もしも私に最後の我儘が許されるなら」

「貴女のような人に幕を引いてもらえたなら」

「私にとってそれを超える幸福は無い」

　トエントの目は少し濡れていた。
それとは反対に、ディムの目からはいつしか色味が抜けていた。
カラカラに乾いた砂漠のような目になっていた。
そのトエントの濡れた目と、ディムの乾いた目が交差する。
時間にして数分間、二人は見つめ合った。

「鉄……」

　ディムが呟くように言った。

「鉄の剣」

　トエントが微笑む。

「そう、鉄の剣」

「魔界銀などで、私は斬られたくはない」

「無慈悲な鉄だ」

「鉄の剣で生きて来た私は、鉄の剣で幕を引きたい」

　さらに数分間、二人の間に沈黙が降りた。

「賜った」

　小さくディムが言った。
トエントは笑った、少年のような笑顔だった。
その目から一筋、涙が流れ落ちた。

・

・

・

　食堂を出て二人は別れた。
ディムはこれから訓練の予定があるので広場に足を向けた。
鉄のような無表情で歩いていたディムだが、ぴたりと足を止めた。
足元の一点を見つめてじっと動かなくなる。
が、しばらくしてまた歩き始める。
しかし、またすぐに足が止まる。
何度かそれを繰り返した後、ディムは進路を変えて足早に人のいない路地裏に駆け込んだ。
人目がなくなると、その足取りがふらつき始め、とうとう壁に背を預けてしゃがみ込んでしまう。

「……あ……」

　鉄のようだった無表情が、くしゃ、と剥がれた。

「あああ……」

　瞳から大粒の涙がはらはらと零れ落ちる。
それは後から後から溢れ出て止まらず、膝を、地面を濡らしていく。

「あううぅぅぅぇぇぇぇぇ……」

　路地裏に座り込んだディムは顔をくしゃくしゃにして泣いた。
子供のように泣き続けた。