連載小説
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戸惑の祈り
私が魔物化しかけ、体調を崩してから数日。あの時飲んだ薬のおかげか魔物の魔力に犯されることもなく未だすこぶる調子がいい。これならば何もしなくともひと月この魔界で暮らすことも容易だろう。
だが、それでも私は祈りを捧げていた。膝をつき、両手を組み、瞼を綴じて、十字架へ向かって。
ただ一心に祈るのは神様のこと。
ただ一念に願うのは試練のこと。
ただ一途に想うのは私たちのこと。
今まで捧げてきた祈りを今までどおりに、そして私たちが神様に救われるように。
そうしていると背後で唸り声が聞こえた。

「ん〜…郷土料理、か?」

私が祈りを捧げている間パートナーである黒崎ユウタは机に座り本を読んでいた。ここの文字なんて読めないのだから意味がないのだが眺めているのは料理の本。図面を眺め、文字の羅列を観察しながら内容を読み取っているらしい。随分と器用なことをする男だ。
祈る私と読書中の黒崎ユウタ。そんなことをするよりも私同様祈るべきだというのにそんな素振りは今まで全く見せない。信仰心がないのはやはり…問題だ。
そんな風に考えているとこんこんとドアがノックされた。

「ん?はい?」

椅子が引かれかたりと乾いた音が響く。黒崎ユウタは手にしていた本を置いてドアに駆け寄っていった。
誰だろうと気になるが今は祈りの最中。それに彼が出てくれるのだから私が関わることでもない。ここを訪ねてくる相手なんてこの宿の店主ぐらいなんだ、彼一人で十分だ。

「おはようなのじゃ!」

聞き覚えのある幼くも楽しげな声色に思わず転びかけた。
振り返ってドアの方を見るとそこにはここ最近になって見る機会の多くなった忌々しい魔物の姿。近くに立ち寄ったから挨拶しに来たとでもいうような気軽な風貌でそこに立っていた。

「ま、またあなたですか…っ!!」
「よう、ヘレナ」

驚く私と違って気軽に挨拶を返す黒崎ユウタ。それを見てバフォメットは飛び跳ね彼の体に抱きついた。
これで彼女が訪れるのは何度目になるだろうか。初めの時と私が魔物化しかけた時だけじゃない。当然片手の指の数なんて既に超えてもう両手の指の数さえ超えるほど。いくらなんでも多すぎる。

「んむ〜♪ユウタの匂いじゃ〜♪」

ぐしぐしと顔を擦りつけて彼の匂いを堪能するように呼吸を繰り返す。それどころか自分のものだと言わんばかりのマーキング行為までする始末だ。
このバフォメットとは今までに何度も話し合う機会はあったがそれでも魔物に対する価値観は変わらない。
神様に見捨てられるほど汚らわしく、他人までを堕落に引き込む愚かな存在。一刻も早く浄化すべき劣悪なもの。
その魔物は今黒崎ユウタに抱きついている。それならばまだいいだろう。彼にとって幼子の姿をした魔物はただの子供と大して変わらないのだから。
だが。

「んふ〜♪」
「まったく、仕方ないな」

その魔物に向ける微笑みが気に食わない。
消すべき存在。滅すべき生き物。浄化すべき対象。
その相手に向かって浮かべる笑みは私に向けていたものと同じ。温かく、柔らかく、そして優しいもの。それをどうして魔物なんかに向けているのだろうか。

―矛盾している…。

自身の胸にこみ上げた気持ちは全く反対のものだった。
彼は無知だから仕方ないという理解と魔物は忌み嫌うものという価値観。了承できても納得できないという板挟み。
ただ一心に祈り続けて感情を落ち着けようとするも二人が気になって仕方がない。こんなこと今までにはなかったというのに。

「ユウタ〜、一緒にご飯食べに行くのじゃ。デザートの美味しい店を知っとるんじゃよ」
「まだ朝っぱらだぞ…それに、今はヴィエラに付き合わないといけないんだ。ごめんな」
「なら付き合うのじゃ」
「ん〜…邪魔になるだろうからなぁ」

むしゃくしゃする。どうしてだか彼にバフォメットがベタベタするのを見ているとこの上なく腹立たしくなってくる。
胸の奥が傷んで、腹の底が煮えくり返って、理由がわからなくもイライラする。
わからない。
黒崎ユウタが魔物に対して笑みを浮かべているのかわからない。
わからない。
幼子の姿をした魔物が黒崎ユウタに抱きついているだけでもどかしくやきもきするのかわからない。
わからない。

―私が抱く感情はなんなのか、わからない。

「ならぬしも一緒に行くのはどうじゃ?部屋にこもりっぱなしだと体に悪いぞ」
「そんなこと言ってもヴィエラにはヴィエラの用事があるんだよ。あんまりワガママ言うんじゃないぞ」

他愛のない会話。まるで兄と妹のような話の内容。他人が話すものを聞くのは失礼だと分かっているのに私は聞き耳を立ててしまう。

「…っ」

そして心が、揺れてしまう。
気持ちが、乱れてしまう。
うるさいと、聞きたくないと。
楽しそうに会話をしないでくれと、どうしようもない感情が湧き上がる。

「じゃけど、ずっと同じことばかりじゃつまらんじゃろうし」
「優しいのはいいことだけどな、でも本人には本人のやらなきゃいけないことが―」



「―うるさいっ!!」



私は祈りを中断し、指を突きつけ大声で怒鳴っていた。防音魔法がかかっていなければ周りの部屋にも聞こえていたかもしれない、それほど大きな声で。
本来修道女が感情のままに行動することなどあってはいけない。それでも私の感情は我慢を振り切り溢れかえってしまった。

「うるさいんですよ!貴方は!」
「……ヴィエラ?」

いきなりのことに驚愕の表情を浮かべる黒崎ユウタ。そして同じ反応を示すバフォメット。二人を前にして私は叫ぶように言葉を紡いてしまう。

「貴方は!魔物に対して愛想よく振りまいて、バフォメットを連れ込んで!それがどれほど愚かなことだかわかっているのですか!?」
「…」

バフォメットがいることなどお構いなく、思いの丈をぶちまける。
バレても構わない。そんなことにいちいち気を配れない。それ以上に自分が止められない。先ほどの一言から溢れ出した感情が抑えきれない。
ぐちゃぐちゃだった。
神様に対する信仰心。
魔物に対する価値観。
彼に対する心持ち。
全てが全て混ざり合い、溶け合い、自分のなすべきことがわからい。何をすべきなのか理解できない。
ただ、叫ぶしかできない。

「常識がないにも程があります!何度も言っているのにまだわからないのですか!!」

少しは彼を信じると初めてバフォメットを連れてきた時に決めたはずだった。彼の優しさなら私に害あるものを連れてくるはずがない、そうだと頷いたハズだった。
だけどその信頼すらも覆す目の前の出来事。ただ仲良くしているだけだというのに湧き上がる醜い感情。
たった一度程度ならば耐えることなど容易かった。二度あっても見て見ぬ振りは簡単だった。だが何度も訪ね逢瀬を重ねる様を見せ付けられるのは幼子の容姿であっても許容できない。

「何度同じことを繰り返せば気が済むのですか!」

この男性はいったい誰を守らなければいけないのかわかっていたのだろうか。

「自分のすべきことがわかっているのですか!」

彼は誰を一番気にかけなければいけないのか分かっていたのだろうか。

「貴方は!」

黒崎ユウタは、私の傍に居てくれるのではなかったのだろうか。

「貴方は、私を守るつもりがあるのですかっ!?」

胸の奥で燻っていた感情は燃え弾け、ぶちまけてしまった不満の言葉。取り消せないその一言は冷たい刃のように彼に突き刺さってしまったことだろう。
後悔しても、遅い。
嘆いても、意味がない。
気づいたところで…どうにもできない。

「…そっか」

黒崎ユウタはただ一言だけ返した。切なげに、それでも無理やり笑みを浮かべている。今まで見てきて基本笑ってることが多いと気づいたがどうしてこんな時までそのような顔ができるのか不思議だった。
不思議で、イライラして…だけど、胸が痛かった。
思わず服の中にしまいこんだ十字架を握り締める。それでも固い金属の感触は一切痛みを和らげてくれなかった。

「それじゃあオレは買い物にでも行ってくるよ。しばらくしたら…帰ってくるさ」

硬貨の詰まった財布をポケットに突っ込むとそのまま振り向くことなく早足で部屋を出ていってしまう。そんな彼を見つめるだけで私は何も言えなかった。

「…」

私は何をしているのだろう。
あの薬を飲み込んで正常に、冷静に戻ったはずなのにどうして私はこんなことしか言えなかったのだろう。感情的で一方的で、あまりにも自分勝手な言葉しか出なかったのだろう。
十字架から手を離し、改めて胸に手を当ててみる。そこには魔界による魔力などかけらも感じられない。薬の効力はまだまだ続いているらしい。
だというのに先ほどの私はどうしていたのだろう。
私は…いったいどうしたのだろう。

「はぁ〜あ」

そこで呆れた声が耳に届く。隠すことなくむしろ感情を込めた声のする方を見ると黒崎ユウタとともに出ていったと思っていたバフォメットがそこにいた。
半目でこちらを見つめながら、唇を尖らせて腕を組む。幼子の姿であっても不満だらけの感情はよく伝わってきた。

「…何ですか?」
「いや、素直ではないと思うての」

どかっと椅子に座り膝まで組む。ない胸を張り偉そうにふんぞり返る子供の姿は普段なら可愛げがあったのだろうが今は腹立たしく映るだけだった。

「はぁ〜あ、まったくわからんのう」
「だから、何がですか?」
「いや、何でそこまでユウタに当たれるのかと思うての」
「彼はただの護衛です。護る彼と護られる私。それが私たちの関係です。だというのにその役割をなしていないのだから怒鳴って当然です」
「…はっ」

私の言葉にバフォメットは鼻で笑った。幼子の顔からは笑みは一切消えて代わりに剣呑に目が細められる。子供っぽさを残している顔だというのに浮かべた表情を見て思わず背筋が凍った。

「とんだうつけ者じゃな、ぬしは。なんにもわかっておらん愚か者じゃ」
「…私に説教をしようというのですか?」

魔物の分際なのに。
汚れた存在なのに。
神様に見捨てられるほど堕落しきった愚か者なのに。
聖職者である私を説法でもしようというのだろうか。おこがましいにも程がある。

「魔界で暮らしておるというのにぬしの心はまだ祈ったところで何も見返りもない主神のものかのう?」
「信仰とは見返りなど求めるものではありません」
「ならば見返りを求めないユウタはどうなるんじゃ?」

その言葉に私は何も言えなくなる。それを見たバフォメットはやれやれとため息をついて足を組み替えた。

「信じ、崇め、讃えて、感謝する。それを見えもしない相手にするというのはどうなんじゃろうなと思うての」
「神への冒涜はおやめなさいっ!」

バフォメットは鼻で笑う。嘲るように、それでいて見下すように。
私の手は静かにバッグに伸び、その中に入っている退魔の力を宿す聖書へと向かった。殴りつければ魔物はただでは済まない。その書物の一節を読み上げれば魔物は悶え苦しむ。
だがバフォメットは恐れる様子はない。ここで聖書を見せつけてもきっと同じだろう。こんな修道女相手に遅れは取らないというつもりだろうか。

「冒涜しておるわけではないんじゃよ。誰が何を信じようと勝手じゃからのう。ただ、ぬしが感謝する相手はもっと別におると言いたいだけじゃ」
「…っ」
「それがわからんほどぬしは愚かではなかろう?」

愚かなんて魔物相手に言われるとは最大の屈辱だ。さらには先程から人の神経を逆なでするような言葉ばかりを紡いでくるのだから腹立たしい。
だが、事実であることは…否定できない。

「あれほどうまい料理を作ってもらって何もなし。寝ずの看病をして、特になし。挙げ句の果てには主の体を気遣って大切じゃった薬すら渡す始末。そこまでしてくれた相手にこそ感謝すべきじゃなかろうか?」

諭すように紡がれた言葉にあの時のことが浮かんだ。
熱でうなされ苦しんでいた私に無理やり、それでも出来る限り優しく飲ませてきたあの薬。国で売れば家どころか豪邸が建つぐらい高価で、どんな体調不良も消し去る万能薬。渡されたのは自分自身でたった一つしかなかったというのにそれでもただ笑って手渡してきた黒崎ユウタの姿。

「…っ」

今考えなければいけないのはそこじゃない。あの薬の存在をどうしてこの魔物が知っているのかだ。
バフォメットは私の表情からそれを読み取ったのか視線を部屋の片隅に向ける。その先には中身が空になったまま放置されている小瓶があった。あの薬が入っていたものだ。

「知らぬと思うたか?かすかに漂うわしらと違う魔力の痕跡にぬしの症状。そして置いてあったあの小瓶。バフォメット相手に誤魔化せるわけなかろう」

最も、とバフォメットは私を見つめたまま言葉を紡いだ。

「それもこれも全てバラしたのはユウタなのじゃがのう」
「っ!!」

あの男性は…やはり護衛としては失格だった…っ!!
今すぐ彼を連れ戻し怒鳴り散らしてやりたい気分なのだがバフォメットを前にそのようなことを起こせば何をされるかわかったものではない。部が悪いことにこの魔物は私でも魔物自身でもなく、今は黒崎ユウタに味方しているらしいのだし

「勘違いするではない。バラしたのは条件だったからじゃよ」
「…条件?」

思わずバフォメットの言葉をそのまま返してしまう。
条件。約束や決定するときに内容に関して前提や製薬となる事柄のこと。それがバフォメットの口から出るというのは…もしや、黒崎ユウタはバフォメット相手に取引でもしたのだろうか。
一体…何を?
どうして、どうやって?

「教えて欲しいか?」

内容を知っているのは目の前のバフォメットのみ。黒崎ユウタは出て行ってしまったし、あのような暴言を吐いたのだから聞くに聞けない。

「教えて欲しいかのう?でもただで教えるのも嫌じゃのう」
「…」

ここで頭でも下げれば教えてもらえるだろうか。
だが魔物相手に頭を下げるなんて屈辱以外のなんでもない。堕落した相手に許しを請うなど聖職者としてあってはならない。
聖職者としては…。
でも、一人の人間としては…。

「ふっふっふ。知りたいかのう?」

まるで心を見透かしたような言葉をせせら笑いとともに言う魔物。たった一つの情報と引き換えに魂を渡せと言わんばかりの言葉を紡ぐ幼子の姿が今は悪魔そのものに見える。
私は無言で睨みつける、その悪魔を。

「…」
「…」

悪魔は無言で笑みを返すだけ。お互いに言葉もなく、部屋は沈黙に包まれる。
ずっとそうしていると焦れたのか呆れたのか悪魔はため息をついた。

「まったく、素直に教えてくださいとも言えんのか。頭ひとつ下げなくともただお願いすればいいものを」
「…」

まったく、と続けて一呼吸置き相手は言葉を紡いだ。

「『自分のことはどうなっても構わない。だからヴィエラは無事に帰してやってくれよ。そのためならなんだってしてやるからさ』」
「っ!!」

口調を真似、出来もしない声色までも真似ようとするバフォメット。そんなことをしなくともここずっとともにいたパートナーの声も口調もハッキリわかっている。
頭の中で、彼の声で再生されるぐらいに。

「かっこいいのう。是非とも一度は言われてみたい言葉じゃよ。じゃが」

とんっと椅子から飛び降りるバフォメット。それだけではなく床を蹴り、一瞬にして私の目の前へと飛び込んできた。
いきなり目前に現れる幼子の顔。あまりにも急なことだったから私は思わず後ろにのけぞった。
のけぞり、倒れ込んでしまった。

「きゃっ」

後ろにあったベッドに体が沈む。そこへ追い討ちをかけるようにバフォメットが覆いかぶさってきた。

「それだけ言わせておいてなんじゃ、ぬしは。自分勝手に祈りおってそれだけか?」

べしべしと両頬を叩かれる。魔物の力でそのようなことをされては無事では済まないもののどうやら加減をしているらしくそこまで痛くない。というか手には肉球がついているからか柔らかなものが押し付けられるだけで痛みは少しもない。
べしべしと叩きつけたままバフォメットは続けた。

「ぬしはずるいのじゃ!」
「何が、ずるいと、いうんですか!」
「ユウタに想ってもらえて」

そう言うとバフォメットは手を止める。落ち着いて見ると目の前には幼子の顔があった。
ただ、幼子には似合わない今にも泣き出しそうな、悔しそうな表情を浮かべて。

「ぬしは…」
「…」
「…幸せ者じゃのう」

その一言とともにゆっくり彼女は体をあげていく。対して私は幼子の矮躯などすぐにでも飛びのけられるというのに何もできなかった。
今の一言がやたらと胸に響いてくる。先程までの言葉が胸の奥へと染み込んでくる。
神様に対する信仰心が揺らぎ、何か別のものがせり上がってくるような奇妙な感覚。まるであの時、魔物になりかけていた時と同じだった。
バフォメットは私の体から飛び退きベッドから降りてこちらを見つめてくる。

「自分の身を想ってくれる男性が傍にいる。これ以上ないほど女としては幸せじゃろうに。それをどうして理解しないのかわしにはわからんのう」

呆れたような声色で
私が何も言わずにいるとバフォメットはゆったりとした足取りで部屋のドアへと近づいていった。ドアノブに手を掛けた途端バフォメットは動きを止める。
振り返らない。その表情は一体なんなのか予想もできない。だがバフォメットはただ静かに言った。

「一ヶ月は魔物の寿命からしてみれば短いものじゃが人間にとっては長いものじゃ。その一ヶ月、主はただ祈るだけなのか?」
「…」
「籠ってないでたまには外の世界に行ってみてはどうじゃ?神様とやらを信じ短い一生を終えるのならば少しは見聞を広めてくるといいじゃろう。幸いここにもぬしにとって一度は行くべき場所はあるじゃろうし、そこで相談でもしてみるのじゃな」

まるで数百年生きてきた貫禄があるような言葉の重みを感じられた。実際魔物というのは人間よりもはるかに長寿だから間違いではないだろう。
そのままバフォメットは部屋から出ていってしまった。開け放たれたドアから「ユウタ〜♪一緒にパフェ食べに行くのじゃ〜♪」と先程とは打って変わって明るい声が聞こえる。

「…はぁ」

バフォメットの声が聞こえなくなったのを確認して私は大きくため息をついた。
私の正体がバレていたことなんて今更驚きはしない。あの狡猾な魔物が初対面で気づかぬはずがなかったんだ、予想できないわけがない。
だがバフォメットは黒崎ユウタに夢中で私を気にも止めないだろう。それともこんなたった一人の修道女放っておいても問題ないと思ったのかもしれない。
それはなんとも好都合。
強者ゆえの余裕だろうが僅かな油断だろうが、それはいずれ大きな命取りになる。今はただの修道女であってもこの試練を終え、神様の声を聞けるようになれば…!
そう思ったその時、かさりと音を立てて何かが落ちた。

「?…何ですかこれは」

ベッドから身を起こし、拾い上げて見るにそれは紙だった。図面が描かれた一枚の小さな紙。いや、図面というよりも子供の落書きのようなそれはこの宿屋から一つの線が引かれ様々な店の間を抜けてある建物へと続いている。

「…」

なんともシンプルな地図に申し訳程度に書かれていた文字。そこには一言。

『教会』

ただそれだけが記されていた。









あのあと修道服を着替えるのも忘れて私は街を彷徨っていた。
自分の服のことを気にかけなければいけなかったのに今はそんな余裕はない。自分の存在が周りにバレてしまうはずなのにそれでも着替えようにも体が動かない。あのバフォメットに何かされたわけではない。ただ単に自分の中の何かが一杯一杯だったのだろう。
だから、私がそこに趣いたのはただの気まぐれだったのかもしれない。街を散歩していてふと見つけた店に入ってみたい、そんな気軽で些細なものだったのかもしれない。特に理由なんてものはなく自然と足が動いてしまっていた。
神様に祈りを捧げ、試練を受けるはずなのになんと愚かなことをしているのだろうか。その自覚があるのだがそれでも来てしまったものはしょうがない。
私はその建物を見上げる。
周りの建物と比べれば2,3倍はあるかという大きな建物。大きな扉にいくつもついた窓があり、屋根の上に大きく掲げられた異様なシンボルが目に留まる。あれが私たちで言うところの十字架なのだろう。
屋根から視線を下げてみると整えられた庭先を走っている人の形に近い魔物の姿が見えた。翼を生やした少女の姿、体が液体のように波打つ子供、真っ白な翼を生やした鳥のような女の子と様々だ。
その中でも一番気にかかったのは真っ黒な布で作られた、やたらと露出の多い修道服を着込んだ魔物だった。
ダークプリースト。
堕落した神に仕える魔物の修道女。他人を堕とすことを喜びとしてその体を用いてでも引きずりこもうとする堕落の使い。
ダークプリーストは魔物の子供達相手に遊んでいた。まるで我が子を相手にするような優しい笑みを浮かべて頭を撫でたり追いかけっこをしている。
平和な風景だ。私のいた修道院でも時折孤児院の子供の遊び相手をすることもあった。それと全く変わらない、些細なものだった。

「…あら?」

すると眺める私の姿を見つけたダークプリーストはこちらに笑みを浮かべ一礼する。私も思わず頭を下げた。
布面積の足りない修道服を引っ張る魔物の手を優しく離し、ゆっくりと歩み寄ってくる相手。私はその場に足が張り付いてしまったかのように動くことはできなかった。
そして私のすぐ目の前に来たダークプリーストは柔らかな声で一言。

「こんにちは」
「こ、こんにちは…」

親しげな表情と声色の挨拶に思わず私も返してしまう。

「どうかなされました?」
「いえ、ちょっと立ち寄っただけで…目に付いただけです」
「そうですか?」

疑うようにこちらを見つめる瞳。だがその視線は刺のようなものがあるのではなく、ただ単に心配しているだけのようなもの。
まるで、あの男性と同じようなものだった。

「…何か、悩み事があるのでは?」

その言葉に一瞬体が反応する。ただ図星をつかれただけならこのように反応はしないが相手が魔物。変な緊張と慣れない対応と魔物は汚れた存在という認識により普段の修道女らしい態度を取れなかった。

「別に…そのようなことはありません」

変な意地を張って否定の言葉を言う。それでも目の前の魔物は私の心を見透かしたように言葉を紡いだ。

「一人塞ぎこんで迷っているだけでは堂々巡りになってしまいますよ。他人に話せば楽になることもあるのですから、恐縮ですが私などに話してみませんか?」

魔物が一丁前に迷える者に道を示すつもりだろうか。なんともおこがましいことではないか。そんな風に心の底では嘲笑うも私は迷っていた。
ここに来た当初と違って胸の奥から湧き上がるモヤモヤ。なんという感情かわからない上にそれが原因で護衛でありパートナーであった男性を怒鳴り散らしてしまった。さらにはあのバフォメットに説教を受ける始末だ。
これほど迷っていても神様は私に話しかけてくれない。試練の最中なのだから当然とは言え今の私はどうすべきなのかを誰かに示して欲しかった。この胸の中を占める未曾有の感情をぶちまけたかった。

「…お願いします」

自然と、そんな言葉が口から出ていた。










協会の聖堂に隔離されるように作られたとある一室。窓はあるものの格子をはめ込まれ外から覗き込まれても誰も見えないようにされている。
ここは懺悔室。自分の行いを懺悔し、どれほど罪深いことだったかを自覚し、反省して許しをこうための部屋だ。
私の国にも当然この部屋はあったがまさか魔物の住まう土地にまであるとは知らなかった。

「それでは…どうぞ、お話下さい」

向かいからかかったのは柔らかな声。先ほど私を迎え入れたダークプリーストのもの。
目の前も格子がはめ込まれていて互いの顔が見えないようにしてプライバシーを確保しているのだが魔物相手に話をするなど気が進むものではなかった。
それでも魔物は声をかけてくる。

「人と魔物なんて違いはあれどここに居るのはお互い女性。悩みを共有できることもあるかもしれませんし、なにより話したほうが楽になりますよ」
「…楽に?」
「ええ。おこがましいかもしれませんが私に助言できることもあるかもしれません。それが救いになるかはわかりませんが…このまま悩み続けてもただ辛いだけですよ」
「…」

私は魔物の言葉にゆっくりと口を開いた。

「私は、ある…一人の男性に助けられました」

格子の向こうで静かに頷いた気配がした。私はそれを感じて言葉を続ける。

「彼はいつも笑っていました。笑って、それで優しくて…薬を、くれて…」

頭の中で言葉がうまくまとまらない。順序よく話すつもりなのに舌が回りそうにない。それでも唇は勝手に動き言葉を紡いでいく。

「料理は美味しくて、だけど常識がなくて…それなのに変に、気遣って…」

魔物化しかけたあの時、手を握っていてくれたことが思い出される。
私の肌に染み込んできた体温と柔らかな笑み。疲れて眠ってしまったあの寝顔。自分のことよりも私のことを考えて渡してくれたあの薬。

「でも…」

そこで私は言葉に詰まってしまう。言いたくないからではなく、言い出せなくなってしまったから。
喉の奥が乾いてヒリヒリする。鼻の奥がツンとする。寝起きでもないのに目の前の光景が歪む。そして、声が震える。

「彼はバフォメットを連れてきて、彼女に愛想を振りまいて…それで、私は怒鳴ってしまって…」
「…」

格子の向こうにいるダークプリーストは黙って私の話を聞いてくれていた。話を邪魔せず先を促しているのかもしれない。だけど、今はただ聞いてもらうだけでもよかった。

「彼にとってあのバフォメットを相手にするのは幼子と接するようなものだったのでしょう。だけど、それでも…」

なんて幼い感情なんだろう。
護衛だから彼が私を見てくれているのが当然で、だから他の、それも魔物相手に笑みを向けることが許せなかった。あの柔らかな笑みを独占したいなんて子供みたいな我が儘を自分が抱いているなんてわからなかった。
これでは幼子と変わらないではないか。母親にねだる子供となんら変わらないではないか。

「私には、それが耐えられなくて…」

たったそれだけ。黒崎ユウタにとっては子供相手と大して変わらない。それどころか条件を持ちかけ私の身を案じていてくれた。
だというのに私はそこまで気づくことなど出来やせず、そして怒鳴り散らす始末。目も当てられないなんてものではない。
聖女様が言ったことは何もできていない。それどころか大人の女性としても何もできていない。バフォメット以上に私は幼稚で間抜けで愚かだった。

「私は…自分勝手でした…」

聖女様に言われた私自身を守り、護衛である彼を守ること。それを実践することなどできずに私はただ神様へと祈り続けていただけ。
それに対して彼は食事を用意し、バフォメットに条件を持ちかけ、薬を渡し寝ずの看病をしてくれた。
どちらが守っていてくれたのかなんて考えずとも分かる。

「目の前のやるべきことしか見えていなくて…」

愚かなのは私の方。

「本当は…彼のことも気にかけなければいけなかったのに…」

勝手なのは私の方。

「それでも彼は…身を挺してまで私を守ってくれていたのに…」

失格なのは私の方。

「私は…っ」

試練に必要なのは信仰心だけのハズだった。一日中祈り続け、それをひと月続けるもの。単純なようでただ一心に神様を想い続け祈り続けるのは難しい。
だからこそ余計な感情は必要なかった。
黒崎ユウタはただの護衛。パートナー。守るべき存在で守られる相手。特別な感情なんて抱く必要はないただの男性だ。だから隣でバフォメットと仲良くしようとほかの魔物と仲良くしようと関係ない。魔物の手に堕とすわけにはいかないがそれでも私情を挟むような相手ではない。
あくまで護衛。この試練が終わればただの他人。それが私たちの関係のはずだ。
それだけ、ただそれだけの付き合い。
だというのに…。

「私は…最低です……っ」

修道女と護衛の関係すら満足に成り立ってはいなかった。こんなのおこがましいにも程がある。
修道女以前に人間として…最低だ。
最低で…最悪だ。

「よく話してくれましたね」

格子越しに魔物は優しく声をかけてきた。その声に涙を拭って顔をあげる。木製の格子しか見えないがその向こうには慰めるように微笑む魔物がいることだろう。

「貴方にとってその方は…とても大切なのですね」

その言葉に私は頷いた。格子越しでは見えるはずもない。それでも私は自分に認めさせる肯定を示す。

「貴方の言葉には愛を感じました」
「あ、あい…?」
「ええ、素晴らしい愛です」

いきなりのひょうきんな発言に思わず聞き返してしまった。だが魔物はいたって真面目に、だけどどこか恍惚とした声色で私の言葉を肯定する。

「自分の非を認め、相手の好意を受け入れる。簡単そうなことですが何も抱いてない相手へそんなことはできません」
「…」
「貴方の想うお方は…とても素晴らしいお方なのですね」

その言葉に私は再び頷く。見えるはずもないのに格子の向こうにいる魔物は柔らかな微笑みを浮かべている気がした。

「では、貴方は…その方に何をしてあげたいのですか?」
「…何、を?」
「ええ」

私が彼にできること。そんなことは今まで考えつかなかった。
私の目的はこの街でただ一心に神様に祈り続けること。試練を乗り越え神様の声を聞き入れ、一人前の修道女となること。
だけど、そんな私が彼にできることなんて何があるだろうか。
おそらく料理は彼の方がずっと上手だ。試練の最中バフォメットを引き込むという大胆な思考や行動力は私なんかでは及ばないし、自分の身よりも私のことを考慮する優しさにも届かない。
それでも私にできることは…。

「…感謝、でしょうか?」

すべきこと、しなければいけないこと。
護られた者として、助けられた者として…そして、一人の人間として。
だが魔物は私の言葉に納得できないのか、それとも別の答えを見つけさせたいのかさらに聞いてきた。

「貴方がしたいのは感謝だけですか?」
「…え?」
「私には貴方が彼に向ける感情はただの感謝だけだとは思えません。貴方が先ほど仰った言葉にはもっと大切な感情がこもっているはずです」

途中一度言葉を切り、一呼吸つく。
そして、続けた。

「嫉妬なんてしたことはありますか?」
「っ」

嫉妬。醜き羨望。犯してはいけない大罪のひとつ。神様に仕える者ならば絶対にしてはいけないことだ。
だが思えばあの時怒鳴りつけた私の胸にあったのは…その感情だったのかもしれない。

「何も恥じらうことではありません。悔しく思って嘆いて悲しんで、それで怒鳴ってしまったとしてもそれは一人の女性としてあるべきものです」

魔物は聖女様のように諭すように私に語りかけてくる。

「女性としてあるべき姿に、あるべき感情のままに行動してみるのはどうでしょうか。感謝することも大事ですがそれと共に貴方の胸にある感情をぶちまけてみるのはどうでしょうか?」
「それは………でも一体どうすれば?」

女性として行動する。そのようなこと俗世を捨てた私には疎いことだった。何をすればいいのかわからない。そもそも女性らしい行動とは何かもわからない。
感謝と共にできる女性としての行動などわからない。
自分が何をしたいのかも、わからない。
どうやっても答えがでず困惑する私を前に魔物は安心させるような声色で話しかけてきた。

「簡単です。貴方の体を差し出すといったこととか」
「なっ!!」

何を!と叫びながら私は立ち上がった。狭い室内で座っていた椅子が倒れ、耳障りな音が響く。
魔物らしい汚れた思想。到底理解できない考え。納得なんてできない発言だ。
だが格子越しの魔物は平然と言葉を紡ぐ。

「差し出すというよりも捧げると言ったほうがいいですね」
「な、何をいきなり言っているのですか!」

格子の向こうにいる彼女はまるで祈りを捧げるような、聖書の一節を唱えるような清らかさすら感じる言葉だった。聖女様とはまた違う、司祭様ともまた違ったそれは慌てふためく私の耳にもしっかりと届く。

「捧げるのは彼のためであり、あなた自身のためでもあるのです」
「私の…ため?」
「ええ」

肯定した魔物は「座り直してください」と私に言う。ここまで来て拒む必要もないので私は指示に従って椅子を戻し、先ほど同様に腰掛けた。
そして再び魔物の言葉を聞く。神様に仕える修道女として罪深きことだがそれでも聞きたいと言っている自分もいた。

「貴方は好きな人と繋がりあえている感覚を享受することは罪深きことだと思いますか?」

先程とは少し違うまるで聖母のような優しい声色。聞く者を包み込むような柔らかな声だった。

「愛おしい男性と繋がりたいと思うことは汚らわしいでしょうか?」
「…っ」
「二人が愛し合った証として子供ができる。それってとても素敵なことではありませんか?そうやって私たち魔物も人間も生まれてきているんですよ。私たちは両親が愛し合った証であり、これ以上ないほどの愛情を注がれた存在なんです」

彼女は優しい声で諭すように言葉を紡いでいく。
しかしこれは堕落の囁きだ。一言一言に甘い毒が含まれ、聞き続ければ私という存在が染められてしまう闇の誘いだ。
だけど、その言葉は温かく、じんわりと心の奥まで染み込んでくる。どうすればいいのかわからない私にとってその言葉は一筋の光だった。

「私たちも愛しい男性ができればその方だけに操を捧げ、愛し合い、子供が出来て…そうやってまた繰り返していくのです。なにも淫らに交わることだけが全てではありません。愛し合い、子を成し、家庭を築いて生きていく。そんな聞けばなんでもないような平凡ですが、そういうことだって私たち魔物は夢見ているんですよ」

愛おしい男性の子を孕むことって女性にとって最上の喜びですしね、そう言った彼女はきっとにこりと笑みを浮かべていることだろう。

「貴方はどうですか?」
「どう、とは…?」
「そのようなことを夢見たことはありませんか?」
「…」

なかったといえば嘘になる。だがそんなものは幼少に抱いた淡い夢だ。大きくなったらパパと結婚するなんて女の子なら誰もがいうことだろうが既に私は女の子と言える年齢ではない。
それに神様に仕える者として操を立てている修道女には願ったところでかなわぬ夢。平々凡々な日常など数年前『祈りの間』でとうに捨ててきた。
この身は神様のためにある。
この心は神様のものである。
だけど…。

「見たことがないのなら今見るのはどうでしょうか。貴方の慕う殿方と手を取り合い、幼子を腕に抱える姿は浮かんできませんか?」
「…っ」
「貴方は修道女のようですが、そのような幸せを捨てるのは褒められることではありません。神様へ祈りを捧げることは大切ですが、自分だけの、自分と大切なお方との幸せを願うことも大切です」

どこへ行けばいいのかわからない私にとって魔物の言葉は救いだった。穢らわしい存在なのに並べる言葉には光があり、私の迷いを打ち消す道標となってくれる。
内容はあってはいけないことだとわかっている。神様に対する修道女としてダメなことだと理解できている。
それでも、彼女の言葉は神様へ対する信仰心よりもずっと純粋だった。
だけども、私の抱いてしまった感情は神様へ立てた請願よりもずっと真摯だった。

「貴方の大切なお方に感謝するために、そしてあなた自身も幸せになるために…もう少し正直で我侭に行動してもいいのではないですか?」
「そんなこと、そんな…こと……」

彼女の声に私はどもってしまう。
感謝すること。そして私自身も幸せになること。
言葉だけ聞けばなんと素敵なことだろう。だが常識からしてみればこれ以上ないほど外れている。
魔物の価値観からしてみればこれが当然だとしても私は人間だ。彼女たちが許容できてもできないところだってあるし、私にとっては不可能なことが当然なくらいに常軌を逸している。

「躊躇いますか?」
「…はい」
「いいんですよ。いきなりこんなこと言われても困ってしまうのは仕方ないですよね…なら」

一呼吸おいて彼女は言葉を紡いだ。

「少し…ほんの少しだけですけど、背中を後押しするお手伝いをしましょうか?」

絡め取られるような甘い声。引きずり下ろすような堕落への誘い。抗うことは難しく、逆らうことは許されず、信仰心でどうにもできない人間の欲望の闇へと堕とす言葉。
それでも指し示された道は神様に祈り続けて出るものではない。今以上に祈りを捧げて教えられるかもわからない。
さらに、胸の奥にあったのは計り知れないほどの感謝と…もう一つの感情。

「…お願いします」

自分の感情に従ったその時、私は抱き続けた信仰心を覆すこととなった。









「…ふぅ」

先ほど訪れていた教会で『あること』をしてきたあと私は真っ直ぐこの部屋を目指して歩いてきた。途中カウンターのサキュバスに意味深な笑みで見送られ私は部屋の前で立ち尽くしていた。
このドアノブをひねって開く。その単純な作業に未だ決心がつかない。
この向こうには彼はいるだろうか。それともまだバフォメットと共に街を歩いているだろうか。あのバフォメットといるのだから身の危険はまずないと考えていいだろう。
問題はそのバフォメットが今の私にどう反応するか。そして…彼は私を見て拒絶しないかどうかだ。
魔物に対して嫌悪するわけでなく一人の女性と大差ない扱いをしてきた彼なら心配はないだろう。だが散々魔物を邪険にし、挙句の果てあのように怒鳴ってしまった相手を前にして、さらにはその相手の変化を見てどう思うか…わからない。
温かく受け止めてくれるだろうか。
優しい言葉をかけくれるだろうか。
冷たい態度を取られるだろうか。
辛く突き放されてしまうのだろうか。
わからない。それ以上に恐ろしい。
普段からから笑っていた彼が怒ったところは見たことがない。いつも柔らかに接していた彼が憤るとこなど予想もつかない。
だからこそ、期待するものと真逆の感情を突きつけられたりしたら…。

「…迷っていても、仕方ありませんね」

もし彼が帰っていなかったのならここで鉢合わせすることになりかねない。こんなところで会話をすればカウンターのサキュバスまで声が届いてしまうだろう。
できれば二人だけで、誰にも邪魔をされないで話をしたい。話をしたいというよりも…二人でいたい。
私は意を決してドアノブを掴む手に力を込めた。きぃっと乾いた音と共にドアが開いていく。
すぐに目に付いたのは私たちの持ってきたバッグ。部屋を出る前と同じ位置に置いてある。
次いで大きなベッド。今まで二人並んで眠っていたが今宵も同じようにできるだろうか。
そして、椅子に座る黒髪黒目の男性。膝の上には幼子の容姿であるバフォメットを乗せて彼は本を読んでいた。

「ん?」

ドアが開かれる音に気づいたらしくこちらに視線が向いた。初めて見た時から変わらない闇を切り裂いてはめ込んだような瞳が私の姿を映し出す。

「あぁ、ヴィエラ。おかえ―」

依然として変わらない態度。怒鳴られたことなどなかったかのような笑顔とともに手を上げて出迎える挨拶をしようとする彼が、固まった。
笑みはそのままで。挨拶のように上げた手は動かずに。言葉を発した唇さえもその形を保ったまま。

「…え?」

一瞬遅れでわずかに出た声はそれだけだった。
固まって当然だろう。その反応が通常だろう。今の私の姿はもはや定番となったあの服姿ではないのだから。
胸元に穴があき、長いスカートには深いスリットを入れられた黒地の服。まるで絡みつくように施された鎖の模様に太ももを晒した露出のあるデザインはとても聖職者の姿には見えない。
それ以上に彼の目がいったのはきっと私の顔と、腰の部分。
長く伸び、まるで妖精のように尖った耳と彼の瞳と同じ色の羽を生やした翼。それから臀部から伸びる鎖の巻き付いた尻尾。その三つはどれも人間は存在しないもであり、私にはあるはずないもの。

それはすなわち魔物のである証。

「た、ただいま帰りました…」

魔物となった私は未だ驚愕の表情を浮かべるパートナーへそう返した。
13/07/21 21:02更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということでヴィエラさん堕落への一歩…というか魔物化しちゃいました
今まで積み重ねてきた彼の行動とヘレナの無邪気な態度が彼女の箍を外すこととなりました
修道女とはいえ一人の女性
今まで溜めに溜めた感情の反動かもしれませんね

今回は挿絵はありませんでしたが次回、書かせていだだきます!
そしてとうとう次回は最終話!エロエロしちゃいますよ!

ここまで読んでくださってありがとうございます!!
それでは次回もよろしくお願いします!!

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