連載小説
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虚言の祈り
この汚れた地に足を踏み入れてもう一週間は経とうとしている今日この日、この時。変わらず陽の光が見えない空の下、私は宿屋の一室でベッドの上に寝転んでいた。
体が重い。それだけではなく動悸がし、息苦しさを覚える。さらにはまるでお酒に酔ってしまったかのような高揚感。目の前はぐるぐる回り、正常な判断を下せるだけの思考も溶かされそうな感覚に私は何もできずにいた。

「よっと」

ベッドの横に椅子を持ってきたのは私のパートナーであり、護衛である男性の黒崎ユウタ。私と違ってピンピンしている姿で彼はそこにいた。
私と同じ時間を、同じ空間を共有しているというのに彼に異変は現れない。それどころか私以上に外で魔物と関わりを持ちながらも体に異常は見当たらなかった。
とことん魔力というものに鈍く感じ取れない体質なのか、自覚すら出来ていないのか、それとも異界の者ゆえ私には理解のできない体のつくりなのかはわからない。
彼は心配そうにこちらを見つめて椅子に座った。

「…風邪はどう?」
「風邪…ではありません…」

しゃべることさえ億劫になる今の状態。私はベッドに体を横たえたまま黒崎ユウタの声にそう返した。
息苦しく動悸がする。体が熱くてだるくて、それだというのに感覚は肌に触れる空気さえにも敏感に反応するほどになっている。
風邪をひいたのとは違う体調不良。これが一体なんなのか私は知っている。

『魔物化』

完全なものではなくまだまだ軽い症状。だがこの感覚は体が魔物の魔力に犯されているという事実を私に嫌でも知らしめる。

「ん、ごめんね…」
「っ!」

黒崎ユウタの手が私の額に置かれた。少し冷たい手の感触は火照った体にとても気持ちいい。
だがそれだけではない。
肌に触れる彼の手から伝わってくるしっとりした体温があまりにも心地よく、まるでその部分から溶け出してしまいそうなほど。ただ触れているというだけなのに心が満ちる感覚に私は目を細めた。

「熱は…ある、のかな?」

自分の額に手を当てて体温の違いを比べている黒崎ユウタ。だがよくわかっていないのか首をかしげるばかり。

「…医者っていうのは…この街のじゃまずいだろうし」

どうやら最低限の常識で私を助けられるように考えているらしい。
魔物の病院に行こうものなら素性なんてすぐさまバレてしまう。あのバフォメットは勘違いしていたが都合のいいことは二度も起こらない。
黒崎ユウタの優しさある空回りの行動にヒヤヒヤさせられるが今回ばかりは心配せずとも良さそうだ。

「薬でも買ってくるか」

その一言とともに彼の手が私の額から離れていってしまう。途端に消え失せてしまう心地よさ。

「や…」

私は離れようとする黒崎ユウタの手を掴んでしまった。彼は一瞬驚きながらもすぐに柔らかい微笑みに変わる。

「ん?どうしたの?」
「…なんでも、ありません」

思わず出てしまった手を引っ込めながら私はなんでもないように顔を背けた。
自分は一体何をしてしまっているのだろうか。普段ならば絶対にやらないことなのに…まるでもっと触って欲しいと言わんばかりに手を伸ばしてしまうなど。
認めたくはない。認めたくはないが…どうしようもないくらいに体が人肌を求めてしまっている。

―もっと触れたい。

―もっと重なりたい。

―体温が溶けて、互いの肌に染み込んで、これ以上ないくらいにドロドロにとろけたい。

そんな修道女としてはあってはならない考えが頭をよぎる。神様に身を捧げたはずなのに男性を求めてしまうなどあまりにも罪深いことだ。こんなこと今までなかったというのに私は一体どうしてしまったのだろうか。

「…そっか」

そんな私を見下ろしてニコリと笑う黒崎ユウタ。基本的に笑みを浮かべることが多い彼だが今見る笑みは普段とは違った。
優しい光を宿した黒い瞳と穏やかな笑み。あのバフォメットに向けたものとはまた違う種類のものを見せてくれる。
それだけではなく彼の手は私の額ではなく、頭を撫でた。

「っ!」
「消化にいいものでも食べて汗かいて眠れば落ち着くのかな」

果たして風邪と同じような扱いで今の体を治すことはできるのだろうか。だが今の私はそれすらも考えられなくなるくらいに撫でる手の動きを感じていた。
ゆっくりとした動作で髪の毛を整えるように撫でゆくその手。無骨かと思いきや柔らかで幼子をあやすような手つきは不思議な安心感を与えてくれる。

「どうするか…」

困ったように唸りながらも手は止めることなく撫でていく。対する私は何も言わずにその行為を享受していた。
体を起こすのも億劫になるほどだるいからではない。今はただこの感覚がやたらと体の送まで響いてくる。響き、震わせ、そして奥から何かよくわからないものが湧き上がってきた。
今までにない未曾有の感覚。それが一体なんなのか経験のない私にはわかるわけがない。
ただ分かるのは…欲しい。これ以上ないくらいの欲望が体の内側をチリチリと焦がしてくる。

一人では得られない何かが焦がれるくらいに欲しくて。

二人でしか味わえない何かを狂いそうなほど求めていて。

男女でしか生み出せない何かを切なく望んでいる。

「…んっ」

なんだというのだろう、この感覚は。
胸の内を掻きむしりたい未知の感覚。下腹部から燃えるように勢いを増してくる疼き。呼吸するたびに吐き出す熱い息に鼓動の早まった心臓。それから火照った体温に敏感になった肌。
どうやっても沈められない未経験の症状。信仰心も理性さえもぐちゃぐちゃにされそうな体への異常の前に私は成すすべがなかった。

「…そうだ、あれがあったっけ」

突然思い出したように顔を上げた黒崎ユウタは手元のバッグを引っ張ってきた。その中から取り出したのは青く光る液体が入った特徴的な一つの小瓶。精巧なデザインに作られたそれはどう見てもそこらで売ってる安物には見えない。
何より目を引いたのはその小瓶の中央に刻み込まれた十字架だった。

「…その薬は」

私はこれを知っている。これの話を聞いたことがある。これは私の国にある薬の一つだ。
量は少なく、また一度作れる量はごくわずか。それでも効果は絶大でどのような傷も病気も治癒するというもの。それだけではなく魔物化しかけた体を浄化して正常に戻し、魔物に対しては酸のように溶かすという退魔の力を宿した液体だ。
もっともその効果が絶大だからこそまず目にすることはない。値段をつければ建物一つなんてものではなく、豪邸が建ってもお釣りがくるほどらしいので街の店では取り扱うはずもない。私も実物は今初めて見たぐらいだ。
この薬を作れるのは国の王族のみ。その管理も同様で下っ端兵やただの修道女には無縁のもの。騎士団を率いる団長でも目にできるかどうか。これを与えられる存在となると必然的に限られる。
聖女、教皇、そして勇者。
だが黒崎ユウタはまだ勇者ではない。素質はあるかもしれないが確証も得られない相手にこんな高価な薬を渡すだろうか。

「旅立つ前にもらったんだよ」

黒崎ユウタは私に見えるように小瓶を揺らす。汚れない魔力の混じった液体が輝き、波打った。
これを持たせるなんて聖女様からは聞かされていない。それならば聖女様とは別の人からもらったということになる。思い当たる存在はいくつかあるがその中で一番考えられるのは…あの男性しかいない。

女性嫌いの勇者。

彼のことだ、どうせ『あの女なんてどうなってもいいですから君だけは戻ってきてくださいね』とでも言ってこの薬を渡したのだろう。同じ世界出身の黒崎ユウタを兄弟のように愛でていた彼ならば助けるために何をしても不思議ではない。それにあの勇者が女性である私に気を使うことなどありえないのだ、彼だけ薬を持っている理由なんてそうとしか考えられない。

「それをもらったのは貴方でしょう?それなら…貴方が飲むべきです」
「え?」
「私には試練があります…この苦しみもまた、試練の一つなのです…」

これを乗り越えてこそ私は報われるというもの。熱にうかされようと体が魔物の魔力に染まろうとしても、それでもただ一心に祈り続ける。それができてこそ一人前の修道女となれるのであり、その信仰心があってこそ神様の声を聞けるようになれるのだから。
だが黒崎ユウタは私の答えに顔をしかめた。そして大きくため息をつく。

「…何ですか、ため息なんてついて」
「いや、オレにはわからないなーって思ってね。体調が悪いのにそこまでして、それでどうするのさ?体調不良こじらせて手遅れになったらどうなる?それこそ元も子もないんじゃないの?」
「それは…」
「そうならないためにも…ほら」

そう言って黒崎ユウタは薬を目の前で揺らした。未開封のそれは宝石のように輝いて波打ち、たぷんっと小さな音を響かせる。ただ眺めているだけでも時が経つのを忘れるほど美しいそれは価値を知らぬ者でも飲むのをためらってしまうだろう。
それでも彼は薬を私へ差し出してくる。多分価値は知らないのだろうが大切なものであることぐらい理解しているはずなのに。

「飲みなよ」
「いいと言っているでしょう。さっさとその薬を仕舞ってください」
「いや、せっかくある薬なんだから飲まなきゃもったいないって」
「それは貴方がもらったものでしょう?私はもっていないということは貴方が使うためのモノのはずです」
「なら、オレがどう使おうと勝手だってことでしょ」
「で、ですが…貴方はこの魔界で身を守る術など持っていないでしょう…っ!?」

頑なに拒絶する私を見てまた黒崎ユウタはため息をついた。呆れているのだろう彼はゆっくりとこちらを見据えてくる。
闇を切り取ったような黒い瞳がこちらを向いた。深く吸い込まれそうなほど黒いそれから私の視線が離れない。いや、離すことを許してくれない。
真っすぐにこちらを見つめて黒崎ユウタはぎりぎり聞き取れる声でそっと囁いた。

「あんまり渋るんなら『口移し』で無理やり飲ませるよ?」
「っ!!」

まるで惑わすように紡がれた言葉がどうしてだかぞわりと背筋を震わせた。ただでさえ動悸がしているというのにさらに鼓動が早まった気がする。それだけではなく体の火照りがひどくなり、口の中が乾いた。
嫌悪感の類ではないと理解できた。だが、それが一体なんなのかはわからない。
今のたった一言で体調が悪化しただろうか?まったくなんとタチが悪いことだろう。彼はある意味魔物よりも厄介なのかもしれない。

「ほら」

薬を飲みやすくするためかゆっくり体を起こされる。そして気づけば手に握られているのは先ほど彼の持っていた薬の小瓶。蓋はとっていたためよくわからない香りが鼻をついた。

「飲みなよ」
「ですが…貴方の薬なのに…」
「オレの分はちゃんとあるよ」

からから笑って言った言葉はどうも信用できない。嘘をついている素振りはないのだがその笑みは…見ていて痛々しい。どうしてか切なくて、なんでか悲しくなってしまう。

「だから、ね?」
「…分かりました」

私が頷くと黒崎ユウタも頷いた。視線に促されるまま小瓶を唇に当てて傾け、中身を飲み込む。やや苦く、舌に絡みつくような味のする液体を一気に流し込んだ。沸騰しているわけでもないのにまるで熱湯のように感じられるそれは喉を通り、食道を流れ、胃に到達する。

「…っはぁ」

吐き気を催すのは私の体内が汚染されかけているからだろうか。ちりちりと肌の内側が焼けるような感覚も、体の中から何かが塗り替えされていくように感じられるのも私自身が魔力に蝕まれていたからだろうか。
だが今はその感覚も清々しく感じとれる。体にまとわりついてくる禍々しい魔力も、一呼吸するだけでもねっとりと絡みついてくる甘ったるかった空気も微塵も感じられない。
まるで神様に抱かれているかのような、筆舌し難い素晴らしい感覚。
さすが王族しか取り扱えない、勇者や聖女様しか手にできない薬だ。即効性のある効果はただの修道女である私自身でも絶大だった。

「大丈夫?」

覗き込むようにこちらを見る黒崎ユウタに私は静かに頷いた。

「大分落ち着きました。これなら明日からでも出歩けますね」
「そんな治りかけでやったらまた体調崩しかねないんじゃ?」
「祈り続けるのですからこれでも十分です」

本来なら今すぐにでもベッドから這い出て祈りを捧げたいのだがそれをしたらこの男性は止めに入るだろう。もしかしたら怒るかもしれないし、それ以上に心配をかけてしまう。
いくら護衛とはいえそこまで苦労をかけてはいけない。彼もまた私と同様の症状が出てもおかしくないのだから。
なら、今できることはせいぜい彼の言葉に甘えてここで休むことぐらい。

「ただ…もう少し、寝かせてもらえませんか?」

私の言葉に無言で微笑み、頷く彼。甲斐甲斐しく私の体をベッドに寝かせてくれる。そして、するりと滑るように二本の手が離れていった。

「…っ」

体調を崩すと途端弱気になるというが私もその人間だったのかやはり彼の手を掴んでしまう。先ほど眠る前にしたのと同じように、それも今度は両手を使って。

「…」
「…」

互いに無言。
先程ならば朦朧とする中での曖昧な行動だったから特に意識するようなものではなかった。だが今は薬のおかげで意識はハッキリとしている。自分が何をしているかわからないわけでもない。
思わず、そんな風に出てしまった両手に包まれた黒崎ユウタの手。このままどうすればいいのかわからずに固まっていると五本の指が手を握り返してくる。
指先は少し冷たいのに手のひらの暖かさはまるで春先の日差しだった。ジリジリと焦がすようなものではない染み込んでくる体温。感じているだけで何もかもを忘れてしまいそうになる安らぎを伴うものだった。
それだけではなく彼の片手が私の頭に伸びてきた。そのまま眠りの中へ引き込むようにゆっくりと撫でていく。
一人では得られない心地よさ。母親にあやされ撫でられるのとはまた違う、不思議で溶けてしまいそうな感覚に私の瞼は自然に降りていく。

「お休み」

その一言を最後に私の意識は闇へと沈んだ。















「…ん」

ゆっくり瞼を開くと見慣れてきた天井が目に入った。窓から入ってくる光は自然のものではない街明かり。おそらく今は夜なのだろう。
随分と長い時間を眠っていたらしい。あれほど眠ったというのに私の体はまだ寝足りないのだろうか。魔界という環境下で体に負担がかかりすぎたのか、それとも先ほど飲んだ薬の副作用とでも言うのだろうか。
その代わりに私の体は今までにないほど好調だった。熱にうなされていたのが嘘みたいに感じられるほど清々しく、寝起きだというのに体はまるで羽になったかのように軽い。
軽い、のだが…。

「…」

私は傍に倒れ込んでいる一人の男性を見つめた。薬を飲んで安心したのか、それとも看病疲れが出たのかベッドに倒れ安らかな寝息を立てている。
安心心させるように私の手を握り締めたままで。

「…ふふ」

思わず笑みが溢れてしまう。嬉しいのか、楽しいのか、よくわからないそんな感情とともに。
私と同じくらいの大きさでも硬くてしっかりとした手のひら。一回り大きな指に揃った爪。見た目はいたって普通なのに触れると異常なほど固く感じられる骨。そしてなにより優しいその体温。
熱にうなされていた時もそうだったがこの体温がとても心落ち着く。しっかりと握り締められて温められるように感じたその瞬間、私はなにも考えずにいられた。
今が試練の最中だということも、ここが魔界だということも、自分自身が魔物になりかけていたということも何もかも。
不思議な人。
常識はずれで規格外、それでも優しく温厚な態度。そしてなにより目に付くのはその行動。

「…貴方という人は」

一体どのような気持ちで私に薬をくれたのだろうか。
金貨にすれば部屋が埋まるほどの価値はある薬。一般兵や私なんてとても手を出せないほどの妙薬。
本来ならば自分が飲むべきものを他人に譲るなんてどうかしている。これがなければ彼自身も魔物になってしまう可能性があるというのに。いくらストックがあったとは言え簡単に渡せるものではない。
黒崎ユウタなら理由として何を言うだろうか。これでも普段通りの笑みと『護衛だから』の一言で済ませるのだろうか。
本当に…わからない男性だ。
そっと彼の頭に手を乗せてやってくれたように私も撫でてみる。変な寝癖が付きながらもふんわりとした黒髪の感触は何度も撫でていると癖になってくる。指先で遊ぶと不快だったのか彼が小さく唸った。

「ふふっ」

上機嫌に二度三度、彼の頭を撫でていると不自然に膨らんだ背中に視線が移った。

「っ」
「…」

空気が固まった。それどころか時間が止まったかもしれない。
視線の先には黒崎ユウタの背中を登ってしがみつく様に抱きついたバフォメットがいた。

「な、何をしているのですか貴方はっ!」

彼を起こさないように極力声を抑えてバフォメットに言うと相手は楽しそうにふんと鼻を鳴らした。
バフォメットも彼を起こさないように動くことなく、それでもニヤニヤとした笑みで視線を送りつけてながら見つめてくる。自分がここにいることなど何もおかしくないと言わんばかりの態度で。

「不法侵入です!貴方には常識というものがないのですか!!」
「儂らの間じゃ夜這いするのは常識じゃよ」

これだから魔物というのは…頭が痛くなってくる。

「というのは冗談での、ユウタに部屋に入れてもらったのじゃ」
「…」

…本当に頭が痛くなってきそうだ。
いくら魔物に対する知識がないとは言えバフォメットを部屋に招き入れるなんて…前回も思ったが彼はあまり護衛に適さないのではないか。
思わずため息をつくとバフォメットがぶすっとした顔のまま、それでも心配したような声色で聞いてきた。

「風邪かの?」
「…ええ、そんなところです」

魔物の魔力に犯され苦しんでいたなどとは口が裂けても言えない。この場所において魔物という存在とその関係あるものを否定することは素性を明かすのと同じ。たった一言でも気をつけて発言しなければいけない。

「まぁ、ここの風邪にかかっても交わり続けていればすぐに治るじゃろうけど。ぬしはユウタとしないのかのう?」
「その品のない言葉を慎みなさい!」
「むぅ、素直じゃないのう。ぬしはメデューサみたいなツンデレか?」
「つん…でれ?」
「いつもはツンツン厳しくても時にはデレデレ甘えん坊、それで見てるほうが恥ずかしいほどベタベタしてエロエロという感じじゃのう」
「そういう発言をやめなさいっ!!」

思わず大声で叫んでしまうがそれでも黒崎ユウタは起きる気配がない。私の手を握り締めたまま静かな寝息を立てていた。
相当疲れていたのだろうか。私以上に体力があっても魔界という環境では普段以上の体力を使うのかもしれない。そこへ眠らず看病とくるのだからこうなるのも無理はない。
それならそうと言ってくれればよかったのに。
疲れたなら疲れたと一言言えばよかったのに。
きっと彼は…我慢強いだけじゃないだろう。
この男性は…強がっていたわけでもないだろう。
ただ心配をかけることがどういうことか理解した上での行動だったんだろう。
私の試練に支障が出ないように悟られまいとしたその行い。常識知らずにしては気がまわるその性格。私を支えてくれるその優しさ。
私は…随分と彼に助けられてもらってる気がする。
そんな風に思っているとバフォメットは羨ましそうに、だけどどこか刺のある言い方でしゃべる。

「ぬしはいいのぉ、ユウタにこれほどまで想われていて」
「…っ」

護衛だから。その一言で済ませるには彼の行いはあまりにも大きすぎる。
だけど、他に言葉は見当たらない。それ以外の理由なんてありもしない。
なんと言おうか迷っているとテーブルの上に置いてあるものに目がいった。私が寝る前に彼が持っていたバッグだ。

「そのバッグを取ってもらえませんか」
「ん?これかのう?」

バフォメットはテーブルの上のバッグを獣のような手で掴むと大事に抱えるようにしてベッドの傍で足を止める。そしてなぜだか先程とはまた違うニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてこちらを見つめてきた。

「…何ですか?」
「もしかして…ユウタのパンツでも盗む気か」
「違います!!」
「あ〜大丈夫じゃよ。想い人の下着で自分を慰める魔物もたくさんおるんじゃ、恥ずかしいことではない」
「だから違うと言ってるでしょう!!」



「そんなことするくらいならユウタに直接言えばいいのにのう」
「…」

病み上がりだからか否定するのも面倒になってくる。
全く、これだから魔物というのは汚らわしく、愚かしい存在だ。これほど幼い外見をしていても中身はなんと不埒なことか。
ため息をつきたいのを我慢してバフォメットから黒崎ユウタのバッグを受け取った。彼が眠っている間に勝手に見るのは失礼だと思うが、それでも確かめなければならない。
これは彼のためでもあるのだから。

「…」

静かにバッグの中へと手を差し込んだ。
まず指先に触れたのは布地。おそらく彼の着替の類だろう。次に硬質なものを入れた袋。これはきっと今回持たされた金貨。もっと奥で触れたのは私がいつも胸にかけている小さな十字架。邪悪から身を守る大切なものなのに何で身につけないのか甚だ疑問だ。
そうやって彼の荷物を乱さないように探っていくのだがどうしても目的のものに指が触れない。これは私と同じタイプのバッグだからどこにものを入れることができるかはわかっているのに。
結局それから数分後私はバッグから手を離した。バフォメットに渡して先ほどの場所に戻してもらう。
そして、黒崎ユウタの寝顔を見つめた。

―何がオレの分はあるですか…。

―それらしき小瓶は見当たらないじゃないですか…っ。

自ら助かる手段を渡されて素直に喜べるわけがないというのに…。

「貴方という人は…」

彼の思いやりが切なくって、だけどくすぐったくて。
彼の優しさが悲しくって、なのに温かくて。
彼の心遣いが苦しくって、だというのに嬉しくて。
これほど近くにいても眠っている彼には決して届かないだろう言葉を唇に載せた。

「…馬鹿」
13/07/07 20:59更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということでヴィエラさん魔物化しかけました
体調不良の時って色々と不安になりますよね
そんなところ見事ついてくれる彼、毎度のことやってくれます
ただせっかく魔物化していたところを見事リセットしちゃいましたけど…
それでもヴィエラさんの心の方は確実に侵食されていきますよ!
そして次回は堕落への一歩を踏み出すことになりそうです

ここまで読んでくださってありがとうございます!!
それでは次回もよろしくお願いします!!

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