連載小説
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黒猫再臨

その少女と見つめ合い始めてどのくらい経ったのか、凍りついたような時間を再び動かしたのは・・・。
「・・・っくしょんっ!!」
洋二のくしゃみだった、目の前の少女はちょっと驚いたようにぴくん、と反応するが表情は変わらないままだ。
「ぐすん」
同時に改めて寒さを感じ、体中が震え始める、先程までは少しばかり異常な精神状態だったため気にならなかったのだが、くしゃみをきっかけに一気に我に返った。
しかし目の前の幻のような少女は正気に戻っても変わらず塀の上に座り続けている。
「ふぅぅ・・・え、ええと、君は?」
手で肩をごしごし擦りながらとりあえず、声を掛けてみた。
「・・・」
黒い少女は何も答えず、ただ先程と変わらない視線を洋二に送り続ける。
洋二はだんだん怖くなってきた、冷静に考えるとこんな時間、こんな場所にこんな格好をした少女がいるなんて異常だ、目の前のこの少女は本当に人間なのだろうか?
「そ、その・・・寒くない?」
少女はこの寒空の下でワンピース一枚とシンプルな黒い靴しか身に付けていないのだ、それを言うなら靴すら履いていない自分もなのだが。
「・・・別に」
黒い少女は洋二から目を逸らすと初めて口を開いた、鈴の鳴るような綺麗な声だったが、洋二の耳にぎりぎり届くかという小さな声だった。
しかし、意思の疎通が出来るとわかって洋二は少し安心する。
「こんな所で何してるの?」
「・・・そっちこそ」
言われてみれば自分もこの寒い中で上着のない学生服で靴も履いていない格好だ、少女に負けず劣らず怪しい。
「え、ええと・・・」
死んだはずの猫の声につられて外に出て来た、なんて言えるわけがない、かといってこんな格好で夜中に道を徘徊している真っ当な理由なんて思いつくわけがない。
「さ・・・散歩」
どうしようもなかったのでそう答えた・・・怪しさ満点である。
「散歩?」
「そ、そう、散歩」
「ふうん」
幸いなことに少女はそれ以上突っ込んでこなかった。
「君は?こんなとこで何してるの」
自分は答えたのだからそっちも答えろ、と言うニュアンスを込めて洋二は聞いた。
「わたし?・・・わたしは・・・」
少女は少し視線を宙に彷徨わせた後、答えた。
「家出」
「家出・・・?」
「そう、家出」
「近所なの?」
洋二がそう推測したのは少女の格好がやけに小奇麗な上、何も荷物を持っていないからだ、少女はまた少し考えると。
「そう」
と答えた。
「・・・」
「・・・」
一応の自己紹介(?)を互いに終え、また周囲は沈黙に包まれた、しかしいつまでもこうしている訳にはいかない、何よりいい加減寒い。
「あ、あの・・・それじゃ」
「待って」
立ち去ろうとした洋二の背に声が掛けられた。
振り返ると少女は塀からすとんと地面に降り立った、不思議な事に殆ど音が立たなかった。
「泊めて」
「・・・うん?」
「家泊めて」
「俺ん家に?」
「うん」
とんでもないことを言い出した、洋二は呆れてすぐに断ろうとしたが、ふと考えた。
「・・・いいよ」
普段の洋二ならば絶対に断る場面だ、しかし一人を好む洋二であっても今ばかりは孤独が辛かった、いつまでも黒猫の事ばかりを考えてしまうのだ、誰でもいいから誰かが傍にいてくれれば少しは気が紛れるかも知れない、それに・・・。
洋二は後をついて歩いて来た少女をこっそり盗み見た。
すっごい可愛いし・・・何考えてんだ俺・・・。
少女が何?と言う感じでこちらを見たので慌てて視線を逸らし、少し自己嫌悪に陥る。
「ええと、俺は洋二、君は?」
「無い」
「え?」
「名前はまだ無い」
夏目漱石かよ、と思ったがこれは要するに教えたくないという意志表示だろうか、とりあえず洋二はそう受け取る事にした。
「そっか・・・無いんだ」
「うん、無い」
「じゃ、何て呼んだらいい?」
「黒猫」
「・・・」
洋二は立ち止まった、少女も立ち止まった。
洋二は振り返って少女をじっと見た、少女も洋二を見返した。
何とも言えない沈黙が過ぎた後、洋二は口を開いた。
「ごめん、その名前使いたくない」
「じゃ、好きに呼んで」
「・・・じゃあ、クロ、黒猫から猫を取ってクロ」
「それでいい」
短いやり取りを終えた後また二人は歩き出した。
平静を装っていたが洋二の心臓は後の少女・・・クロに聞こえるのではないかと思うほどどくどくと激しく脈打っていた、動揺を悟られないように装いながら背後のクロに話しかけた。
「何で、黒猫って名前を?」
「なんとなく」
「・・・そうか」
曖昧な理由を答えられたのでそれ以上突っ込む事は出来なかった。
・・・偶然、だろうか。
洋二は頭を振った、偶然に決まっている、自分は何を考えているのか。
そうこうするうちに家の玄関に辿り着いた。
鍵を開けて振り返ってみるとクロはじっと立ってこちらを見ている。
洋二はドアを開けると一言声を掛けた。
「・・・上がりなよ」
クロはするりとドアの中に入り込んだ。
自分も入ってドアを閉めた後、洋二はぐらぐらと眩暈を覚えた。
強い既視感を感じたのだ、そうだ、黒猫が初めて家に来た時もこんな・・・。
クロはそんな洋二の事は気に留めず、遠慮のない足取りですたすたとリビングにまで上がり込んだ。
そして適当なソファーを見つけるとその上にころん、と横になり、くぁ〜〜っと一つ大きな欠伸をした。
ピンク色の舌と並びのいい白い歯、特徴的に鋭そうな長い八重歯が覗き、洋二は何だか赤面してしまう。
長い欠伸を終えるとクロは何の警戒心も無くそのままソファーの上ですやすやと寝息を立て始めてしまった。
洋二は先程の奇妙な感覚も忘れて呆れてしまった。
ゆきずりの男の家に転がり込んで何の警戒も無く目の前で爆睡し始めるとは・・・いや、もちろん自分は襲いやしないけれども。
そんな度胸なさそうだ、とでも判断されたのだろうか、それはそれで何やら悔しい気がする。
洋二は大きく溜息をつくと掛け布団を引っ張り出してクロにかけてやり、そこでようやく自分が汚れた靴下で家を歩き回っていた事に気付いてぶつぶつ言いながら床を掃除した。
洋二の家に一人の少女が住み着いた経緯は大体このようなものだった。


「どうやら、体調は良くなったようだね」
「別に最初から健康でしたよ」
「嘘を言っちゃいかん、健康診断やカウンセリングにしっかりと結果は出ているんだ、事件から暫くの間、明らかに中野君は食事も睡眠も十分に取れていなかった」
洋二は職員室にいた、外ではようやく寒さが和らぎ、そろそろ緑が芽吹こうかという季節だった。
洋二の担任の教師はとりあえず洋二が健康を取り戻した事に胸を撫で下ろしていた、どういったきっかけがあったのかは分からないが今の洋二は睡眠も食事も普通に取れるようになっていた。
かといって安心は出来ない、トラウマと言うのはそうそう簡単に完治するものではない、それにどうも今の彼には別の大きな悩みがあるらしい。
「カウンセラーの先生から聞いたんだが・・・何か、事件と関連した別の出来事に悩んでいる様子があるとか・・・」
「先生」
話を遮るような洋二の言葉に思わず黙る。
「いつも俺の事気にかけてくれてありがとうございます、でも、俺の問題なんです、俺が自分で克服しないといけない問題なんです」
洋二はきっぱりと言った。
「うん・・・うん・・・そうか、そうだな、わかった、ただ、何か吐き出したい事があったり、相談に乗って欲しい事があったらいつでも言うんだぞ」
「はい」
洋二は深く一礼すると職員室を出て行った。


自分で解決しないといけない、自分で・・・。
洋二は帰り道で自分の言った言葉を反芻していた、そう、解決しなくてはいけない。
俯いて、赤い陽光に照らされる帰路を歩いた。
程無くして自宅前に到着した、洋二は一つ大きく息をつき、鍵を開けた。
「ただいま」
「・・・お帰り」
居間から返事が返ってきた、そう、クロはまだこの家にいて一緒に暮らしている、もう二カ月は経つ。
親からの仕送りに加えてバイトもしているので食費がもう一人分増えても問題は無かった。
始めの頃はすぐに出ていくだろう、と思っていた、そうでなくとも彼女の両親か誰かが捜索願いでも出せばすぐに出て行ってもらうつもりでいた。
しかし一向に誰も訪ねてくる様子はなく、一応ニュースなどでも確認したが行方不明者として彼女の名前が挙がる、なんて事もなかった、奇妙な話だ。
それが、今自分を支配しているこの馬鹿な考えを助長する。
いや、これだけではない、彼女が来てからあれ程荒んでいた自分の精神は驚くほどの安定を得ている、先生の言うように体調も事件以前と変わらないくらいに回復した。
明らかに彼女の・・・クロのお陰だ、しかしそれはただ孤独を癒してくれたから、というレベルに止まらない。
黒猫を失った事で胸の中にぽっかりと空いた穴、一生塞がるはずのない穴、クロはその胸の穴にまるでパズルのピースのようにすっぽりと収まり、塞いでしまったのだ。
その事が逆に洋二を悩ませる、自分はクロを黒猫の代用品にしているのだろうか、結局は代用品で埋まるような穴だったのだろうか・・・。
違うはずだ、失って初めて気付いた事だ、黒猫の存在は自分の心を大きく占拠していた、他の何にも代えられない存在として。
それなのに、彼女はそれを埋めてしまう、それはつまり・・・つまり・・・。
洋二が居間に入るとクロはいつもそうしているようにソファーに寝転がっていた。
あの黒いワンピースではなく、洋二から借りたシャツとジーンズを着ている、サイズが大きいため少しだぼついているが、彼女は気にならないようだった。
洋二は彼女が寝転がっているソファーの向かいに座り、声を掛けた。
「なあ、クロ」
「なに」
「大事な話があるんだ」
「・・・」
クロは黙って居住まいを正した。
窓から射す陽光は更に赤みを増し始め、電気をつけていない薄暗い室内を朱に染めていく。
クロはその赤い光を右半身に受けながらいつもの眠たそうな目で洋二を見つめた。
その姿が余りに綺麗だったので一瞬呆けそうになり、洋二は頭を振った。
言わなくては、どう返されるかわからないが言わなくては。
向かい合って暫く、洋二は何度も口を開こうとしては閉じ開こうとしては閉じを繰り返し、やがてようやく絞り出すように言葉を紡いだ。
「お前は・・・・・・・・黒猫、なのか?」
「・・・」
文面だけ聞くと意味がわからないだろう、クロには昔猫を飼っていた事も、その猫が死んだ事も、ましてやその猫にまともな名前をつけずに黒猫なんて呼んでいた事も話していないのだ。
普通なら何の事?と問い返すか、意味が分からない、と言うだろう。
そう言わなければおかしい、だってそうだ、彼女があの黒猫だなんて自分でも頭がどうかしているとしか思えない、しかし自分はどうしても彼女にあの黒猫を重ねてしまうのだ。
クロは、その眠たそうな眼を大きく見開いた。
なに、何だその反応は、まさか・・・。
そしてその目をぱち、と閉じると頭をふるふると振り始めた。
何だ?違う?黒猫じゃないって?意味がわからないって?・・・そうだろう、当たり前だ。
洋二の口元に自嘲気味な笑みが浮かびかけたが、それは途中で固まった。
頭を振っていたクロが頭だけでなく、全身をぶるるっと震わせると、その真っ黒な髪の中からぴぴんっと一対のふさふさとした猫の耳が出現したからだ。
ほう、と息をついてクロは目を開けると言った。
「気付くの、遅い」
「・・・」
洋二は口を中途半端に開いた間の抜けた表情でその顔も姿勢も頭の中も完璧に停止させていた。
クロは首を傾げるとおーい、と言うようにつんつんと指で洋二をつついた。
洋二はその指には反応を示さず、ゆっくりとした動作でクロの頭に手を伸ばした、クロも避けようとしなかった。
ふさっ
その耳に触れると非常に手触りのいい毛の感触と共に確かに血の通った感触がする。
洋二はそれが取れないかどうか確認するようにつまんでくいくいと引っ張った、合わせてクロの頭もぐらぐら揺れる。
「ヨウジ、痛い」
クロは顔をしかめて言った。
洋二の中でようやく何かの回路が繋がった。
「うわわわわわわわわっ」
洋二は仰け反ってソファーから転げ落ちた。
クロが黒猫かどうかとかいう以前に単純に目の前の少女が人間でない事にびっくりしたのだ。
「・・・失礼な反応」
クロは眉をひそめて言いながらソファーからずり落ちた洋二の傍にしゃがみ込んだ。
「お、おま、お前、何!?」
「クロ」
「そ、それは知ってる!人間じゃないのか!?」
「さあ」
「さあって・・・」
クロが余りに冷静なので洋二も頭が冷えてくる。
クロは人間ではなかった、あまつさえ猫みたいな耳まで生やして・・・。
「・・・え?・・・黒猫の・・・生まれ変わり?」
「これが生まれ変わりかどうかは知らない、でも私はクロで黒猫」
「・・・」
つまり、やはり彼女は・・・。
「違う!違う!嘘だ!そ、そんなの・・・!」
「何故?」
首を傾げて問うクロに洋二は叩きつけるように言った。
「死んだ奴はなぁ・・・!死んだ奴は絶対に生き返らないんだよ!!」
黒猫を失ってから何度も何度も自分に突き付けられてきた絶対的で冷たい現実を叫んだ。
「でも、私は黒猫、ここにいる」
「うるさいうるさいっ!!黙れ!!」
クロは洋二の異変に気付いた、全身はガタガタと震え、顔色は青いのを通り越して紙のように白くなっている。
そのうちに洋二は過呼吸になったようにぜえぜえと不自然な呼吸をし始めた。
「ヨウジ?」
「ぜっ・・・ぜっ・・・ぜっ・・・だ、黙れ・・・黙れぇ・・・!」
洋二は歯をかたかたと鳴らしながら頭を抱え込み、体を丸める。
洋二の頭の中ではずっと蓋をしてきた記憶が洪水のように溢れ出していた。
フシャーーーーーー!!
初めて聞いた黒猫の攻撃的な鳴き声。
びしゃっ
脳裏に刻まれた肉を打ち据える音。
みぃ・・・みぃー・・・
死なないでくれ!死なないでくれ!死なないでくれ!死なないでくれ!
み・・・みぃ・・・
みぃー・・・・
「あ・・・ああっあっあっあっ・・・あうううわああああっはっはぁぁぁ・・・」
洋二は笑い声のような泣き声を上げながらながらぼたぼたと涙を流し始めた。
「ヨウジ・・・」
クロは眠たそうだった目を大きく見開き、何度も手を握ったり開いたりを繰り返し、何かを堪えるような仕草をした。
「し・・・死んだんだっ・・・黒猫は死んだんだぁ・・・俺がぁ・・・俺がぁ・・・」
ひと際激しく体を震わせると絞り出すように言った。
「い、いぐ、意気地なしだったからぁ・・・」
自分の罪を告白するように言った。
洋二が最も後悔している事、それはあの場面。
黒猫が強盗に飛びかかって格闘していた時、自分は何をしていたのか、腰を抜かしてただわめき続けていた、あの時、自分が一緒に戦っていればあの後の展開は違っていたのではないか、黒猫は死なずに済んだのではないか、あんなに無残な最期を迎えずに済んだのではないか。
「ぢぐしょぉ・・・ぢぐしょぉぉぉぉ・・・俺がぁ・・・俺がもっとぉ・・・ぢぐしょぉぉぉ・・・」
洋二は小さな子供に戻ってしまったように顔をくしゃくしゃにして泣き続けた。
「・・・っっ」
クロは何かに耐えかねたように洋二に飛びつき、抱きしめた、洋二は泣きながら振り払おうとする。
「ヨウジ・・・ヨウジ、ヨウジ、ヨウジ、泣かないでヨウジ」
「やめろぉ・・・触るなぁ・・・」
「いや」
しかし、クロはその華奢な見た目からは想像もつかない強い力で洋二を抱き締め続けた。
洋二は顔を上げてクロの顔を間近で見た。
クロの大きな瞳には今にも溢れそうな程に涙の雫が溜まっていた、洋二と目があった瞬間にその涙は表面張力の限界を迎え、驚くほど大きな粒になってはらはらと瞳からこぼれ落ちた。
感情の起伏に乏しいクロが見せた涙に洋二は思わずクロの顔を見つめる、その洋二向かってクロは口を開いた。
「・・・ごめん」
「え・・・?」
「ごめん」
「・・・何だよ・・・何がだよぉ・・・」
「・・・ごめん」
「何で謝るんだよぉ・・・」
「・・・ごめん・・・ぐしゅ、・・・なさい」
「謝るなよぉ・・・何でお前が謝るんだよばかやろぉ・・・」
「ぐず、ごめんなさい・・・」
ただただ涙をこぼしながら謝り続けるクロが何故だかやるせなくて、洋二の目からもまた涙が溢れ始める。
「死んじゃって・・・ごめんなさい」
「・・・」
「返事、できなくて・・・ごめんなさい」
「・・・」
「ツナ、缶・・・ぐず、食べられなくて・・・ごめんなさい」
「おま、え・・・?」
クロは、黒猫はずっと見ていたのだ、洋二の事を。
息絶えた後、黒猫は肉体を無くした意識のみの存在となってこの世に留まっていた、人間の知識で解りやすく言うならば霊魂、とでもいうような状態だった。
そうして見続けのだ、自分を失った洋二がずたずたに傷付き、壊れていく様を。
毎夜のようにもういない自分を探して回り、ツナ缶を開けて皿に盛り、泣きながら何度も何度も自分を呼び続けるのを、身を裂かれるような思いで見ていたのだ。
どうして自分は呼び掛けに応えてやれないのだろう、どうして彼の胸に飛び込んで行ってやれないのだろう、どうして自分は死んでしまったのだろう。
洋二が慟哭する傍で、それに応えられない黒猫の魂もまた慟哭していたのだ。
「いるよ・・・ここにいるよ・・・ヨウジ・・・触れるよ、応えられるよ」
クロはその瞳から絶えることなく涙をほろほろと溢し続けながら訴えかけるように言った。
「黒猫・・・」
本当はわかっていた、心の奥ではずっとそうではないかと思っていた。
ただ、洋二は怖かったのだ、何度も聞かされてきたあの幻想の猫の声のように、この少女も実は自分が作り出した幻想なのではないのか?手を伸ばしたとたんにたちまち夢のように消えてしまうのではないか?
その時の絶望が、落胆が怖かったのだ。
でもクロの手はこんなに温かく、強く自分に触れている。
洋二は恐る恐る手を伸ばした、焦って手を伸ばすとクロが消えてしまうとでもいうように。
クロは洋二の肩に手を置いたままじっとしている。
やがて洋二の手が涙に濡れたクロの頬に触れた、熱い。
「黒猫なの・・・か・・・?」
「うん」
洋二は頬に触れた手をそっと首に滑らせてくすぐるように触れてやる、黒猫が喜ぶ触れ方だった。
「んん・・・」
クロは黒猫がそうするように気持ち良さげに目を瞑る、目を閉じた拍子にまた、大粒の涙がこぼれる。
その涙がぽたぽたと洋二の腕に落ちる、熱い。
「黒猫・・・」
「うん」
洋二は触れていた手をクロの頭の後ろに回し、初めて自分からクロを抱き締めた、クロも抱き返した。
「黒猫」
「うん」
体をぴったりと合わせると血の通った温かい感触がする。
「黒猫」
「うん」
クロが息を吸うたび、吐くたびに胸が上下するのが感じられる。
「黒猫」
「うん」
その奥からとくん、とくん、と脈打つ心臓の鼓動が伝わってくる。
「黒猫ぉ・・・黒猫ぉ・・・くろねこぉ・・・」
「うん・・・うん・・・うん・・・」
あの時、どうすることも出来ない自分の手の上からこぼれ落ちて行った命、冷たくなっていった体、消えていった鼓動。
二度と取り戻せないと思っていたそれが今、手の中にある、姿形が変わってもこうして自分の手の中で息づいている。
日は殆ど落ち、雲に遮られた僅かな西日が暗い室内をうっすらと浮かび上がらせる、時折遠くから車のエンジン音が聞こえる。
そんな中で二人は一つの黒い塊のようなってに抱き合い続けた。
洋二は幸せだった。


「・・・」
「・・・」
どのくらい経った頃だろうか、どちらからともなく、二人はようやく抱擁を解いた。
「あっ・・・あいだだだだだだだ」
「・・・」
長時間同じ姿勢でいたので足が痺れた様だ、クロも顔をしかめながら刺激しないようにゆっくりと足を伸ばそうと試みている。
洋二はひょこひょこと足を引き摺りながらどうにかスイッチにまで辿り着くと部屋の電気を付けた、暗かった室内にようやく明かりがともる。
「・・・ひでぇ顔」
「そっちも」
互いの涙やら何やらでぐしゃぐしゃになった顔を見合わせて言う。
取りあえずティッシュで顔を綺麗にしてようやく一息ついた。
誰しも経験があるように感情を激しく発露させるのは非常に体力を使う。
「疲れた・・・」
「おなかへった」
よって二人ともへとへとになってしまった、加えて帰ってからまだ夕食も食べていない。
二人は取りあえず夕食に取り掛かる事にした。


「で、さぁ」
「んー」
遅い夕食を済ませた後、茶を啜りながら洋二は聞いた、クロは牛乳を飲んでいる。
「どういった経緯でそんなハチャメチャな復活を遂げたんだ?」
「色々あった」
「色々って?」
「色々」
「・・・そうか、色々か」
話したくないなら無理に聞き出す事もないか、と思った、とにかく帰ってきてくれたのだから何も文句はない。
「その耳、俺以外の人の前では出さんほうがいいぞ」
洋二はクロの頭頂部でひこひこと動く耳を見ながら言った。
「わかってる、尻尾も出さない」
「えっ・・・尻尾もあんの?」
「ん」
「今出せる?」
「・・・この服なら」
先程はジーンズを穿いていたので出せなかったが、今はあの黒のワンピースに着替えている。
クロが耳を出した時と同じようにぶるるっと震えると背後に黒く、ふさふさとした二又の尻尾が現れた。
「に、二本!?」
「うん」
「それってええと・・・そうだ!あれだ!」
洋二は少し考えた後、何かを思いついたように席を立つと部屋にある本棚に向かった。
しばらくごそごそと探した後、一冊の本を手にして戻って来た、本の表紙にはおどろおどろしい絵と共に「大妖怪図鑑」と表記されている。
「ねこ・・・ねこ・・・そうだ、これだこれ」
その本の中の「猫又」の項を開く。
「ふむ、長い年月を生きた猫が妖怪化したもの・・・か、そういやお前何年生きてるんだ?」
「生まれてからの日数なんて数えてない」
「そりゃそうか・・・しかし何で女の子の姿になったんだか・・・」
図鑑に描かれている猫又は二足歩行で歩く猫という姿で描かれていて、クロのような美しい少女の姿になる、などという記述はない。
洋二は図鑑を目の高さに持ち上げてその猫又の図とクロを見比べる。
クロはさりげなく腰に手をやってぴしっとポーズを取る。
「うん、うちのが美人だ」
「当然」
「まぁいいさ、猫又だって何だって、こうしてここに居てくれるだけで・・・」
「・・・」
自分が恥ずかしい台詞を吐いている事に気付いて洋二は言葉を切って恥ずかしそうに後頭部を掻いた、クロはそんな洋二をじっと見ている。
「・・・寝るか」
「うん」
「よし、今日はあの頃のように一緒に・・・」
「一人で寝る」
「つれねぇー」


洋二は寝返りをうち、クロが寝ているであろう隣の部屋の壁を見つめた、無駄に広いこの家は使ってない部屋がいくつかあり、洋二とクロは隣り合った部屋で寝ている。
洋二には考えなくてはいけない事が色々あった、しかし取りあえず一番の問題は今後のクロとの付き合い方だ。
クロは付き合いの長い黒猫であると同時に一人の少女でもあるのだ、それも道を行けば人が振りかえるような容姿の。
そこのあたりはやはり洋二も戸惑いがある、黒猫とクロが同一であると分かっていても彼女を異性として意識せざるを得ない、しかし彼女が自分に求めている関係はやはり以前と変わらず共に暮らす同居人としての関係だろう。
そこのあたりを自分は勘違いしてはいけない、彼女の好意はあくまでその範疇の物であるという事を、それ以上を期待してはいけない。
「・・・辛ぇ」
ぼそりと呟いて洋二は眠りに落ちた。


クロは枕に顔を埋めてうつ伏せになっていた、窓から差し込む青白い月の光がクロの艶々とした黒い髪を照らしている。
不意に、クロの耳がぴん、と立った。
耳は周囲の様子を伺うようにじいっとアンテナのように立ち続ける。
するとクロのベッドの傍らの空間がぐにゃり、と歪んだ。
その歪みが発生したのは一瞬だけですぐに空間は元に戻った、しかし戻った時にはそこに一人の女性が立っていた。
ぞっとするほど美しい女性だった、真っ白な長い髪に燃えるような深紅の瞳を完璧な造形の美貌に光らせ、男の理想を体現したようなスタイルを胸元を露わにした挑発的で異様な衣装で包んでいる。
それより何より目を引くのは腰から伸びる一対の蝙蝠のような大きな翼と先端がハート形になっている尻尾、頭部にある黒山羊のような角だった。
しかしそれらの人にはありえないパーツでさえ彼女の美貌を損ねる事は無く、むしろ異様な美貌に彩りを添えるようだった。
その女性はベッドにうつ伏せになっているクロを見てくす、と笑って声を掛けた。
「よかったね、気付いてもらえて」
クロは枕に顔を埋めたまま反応しない。
「だけど・・・とうとう触れ合っちゃったね」
「・・・」
その女性は気付いていた、クロがずっと耐えている事を、体の内からこみ上げてくる熱と衝動と戦い続けている事を。
その女性はそっとクロの白いうなじにそのしなやかな指でとん、と触れた、びくんっとクロの体と尻尾が跳ね上がる。
「ずっと触らないように注意してたのにね?・・・触ったら我慢できなくなっちゃうから」
指はゆっくりとうなじから背筋に這うように移動していく、クロはシーツを掴み、ぷるぷると震えている。
「でも・・・我慢、する必要あるのかな?」
指は背中の中程まで到達する、クロの全身は紅潮し、しっとりと汗ばみ始めている。
ぼそり、と枕の中でクロが何かを呟いた。
「うん?」
女性は指の動きを止め、聞き返す。
「ヨ・・・ウジは、そんなの・・・望んで・・・な・・・」
掠れた小さな声でクロは言った、女性は微笑んだ。
「本当に彼が大切なんだね」
クロはもう何も答えずにただふうふうと息を乱しながら枕に顔を押し付け続ける。
「でも皮肉だね」
女性は笑みを深くする。
「想いが深いからこそ・・・」
つつ、と指がまた動き始める、クロはぎゅっと枕を噛む。
「貴方は我慢できない」
指は一気に加速し、尻尾の付け根までついっとなぞりあげた、クロの尻尾と耳がびんっと立ち上がる。
「んみぃっ〜〜〜〜〜っっ」
隣の部屋まで届くような鳴き声を上げそうになり、クロは枕を千切らんばかりに噛み締めて耐えた。
「ふぅーっ・・・ふぅーっ・・・ふぅーっ・・・」
部屋の中にはクロの息遣いだけが響き、その女性はいつの間にか姿を消していた。
クロは初めて枕から顔を上げた、普段あまり感情を表に出さないその顔は耳まで真っ赤に紅潮し、瞳は潤んで蕩けている。
「ヨぉ・・・・じぃ・・・」
切なげな声が部屋に小さく響いた。
11/09/09 16:51更新 / 雑兵
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最後あたり出てきた人は、まぁ、あの人ですw

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