連載小説
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黒猫喪失

中野洋二(なかのようじ)は小さい頃から一人でいるのが好きだった。
小学校時代の人間関係といえばグループに分かれていたりペアになっていたりする物だが、その中で洋二はどのグループにも属さない子供だった、いわゆる友達同士でグループを作る時に余るタイプだ。
本人は好きで一人でいるのだが、周囲の大人達はいつも一人でいる洋二を心配し、友達を作るようたびたび勧めた、そうして大人達に構われる子というのは他の子供には大抵良い印象を与えない。
間を置かず、洋二はいじめの対象にされるようになった、それは命にかかわるような暴力とか、クラスぐるみとかいうような酷いものではなく、数人の乱暴者のクラスメイトに目を付けられ、嫌がらせをされるようになるというよくあると言えばよくあるものだった。
しかし例え新聞に取り上げられるような大事ではなくとも、当事者である洋二にとっては苦痛に満ちた毎日だった。
初めてその黒猫に会ったのはそんな日々の中、いつものごとく学校で泣かされ、べそをかきながら家に帰ろうとしている所だった。
ふと見上げると塀の上に一匹の黒猫が座っていた、首輪が無いので野良猫だと思われるが、野良とは思えないような艶やかな毛並みをした猫だった。
その猫が目を薄く開け、金色の瞳でこちらをじっと見ている。
洋二にはその目が泣いていた自分を馬鹿にしているように見えた。
何だか腹が立った洋二は驚かしてやろうと思い、足元の石を拾って塀に投げ付けた。
石は猫の座っている塀のすぐ下に当たり、かちんと音を立てた。
しかしその猫は微動だにしなかった、普通なら害意のある行動をした時点でさっさと逃げ出しそうなものだが、その猫は石像のようにただ自分に変わらない視線を送り続けた。
「何だよお前ぇ・・・」
洋二は自分は猫にまで舐められているのかと思い、怒りよりも情けなさでまた泣き出してしまった。
それを見ると猫は塀から降り、泣いている洋二の目の前にちょん、と座った。
「ぐすっ・・・ううっ・・・?」
泣き続けていた洋二は訝しげな顔になる。
めそめそするなよ。
そう聞こえた気がした、無論、気のせいに違いない、目の前の猫は先程と変わらず少し眠たげな眼で洋二の事をじっと見ているだけなのだ。
しかし洋二はごしごしと目をこすり、びっこをひきながらも泣きやんだ。
目の前の猫はぱち、と一回瞬きをするとひらりと塀に乗り、向こう側に行ってしまった。
それ以降、洋二はいじめっこに泣かされるたびにこの黒猫と遭遇するようになった、そのたびに黒猫は語りかけて来た、洋二はそう感じた。
泣くな、しっかりしろ、男だろう?
洋二はいつしかちょっとやそっとでは泣かないようになった、そんな洋二にいじめっ子も近寄らなくなっていき、それと同時にその黒猫も洋二の前に姿を現さなくなった。


次にその黒猫の姿を見たのは洋二が中学に上がってからだった。コンビニに買い物をしに行った帰りに以前と同じ塀の上に居る所を見つけたのだ。
小学生の頃に見かけた黒猫と同じ猫なのかどうかなど普通は解らない物だが、洋二は見つけた瞬間、(ああ、あいつだ)と何となく思ったのだ。
しかし黒猫の様子は以前と随分違っていた、黒い毛ではっきりとはわからないがどうも体が痩せ細っているように見える、体勢も塀の上に突っ伏して元気がなさそうだった。
ふと、洋二は自分の持っているビニール袋を見た、おあつらえ向きにいりこだしの袋が入っている。
洋二はおもむろに袋を開けると中の煮干しを取り出し、黒猫に差し出した、しかし黒猫はふん、というように顔をそむける。
「プライドじゃ腹は膨れないよ?」
洋二が言うとそれを聞いた訳でもないだろうが、渋々という感じで一つをかり、と口に含んだ。
一つ食べると歯止めが聞かなくなったのか、その黒猫は洋二の手から与えられる煮干しを次々腹に収めていった。
やがて満腹になったのかむっくり起き上がるとぱち、と一つ瞬きをして塀の奥へと去って行った。
洋二も何事もなかったかのように帰路についた、中学時代で遭遇したのはその一回だけだった。


家庭環境が少しばかり複雑だった洋二は高校に入学すると同時に一軒家で一人暮らしをすることになった。
その黒猫と再び遭遇したのはその家の玄関だった。
八月上旬、毎年のように更新される最高気温のただ中、日が落ちた後も気温は下がり切らず、ひぐらしの鳴き声を聞きながら洋二は吹き出す汗を拭いつつ下校する最中だった。
洋二は玄関の入口に小さな黒い塊が鎮座している事に気付いた。
(あ、あいつは・・・)
洋二はまたも、自然にその黒猫があの猫であることを察知した。
(何年振りだろう、また腹でも減ったのかな)
そこまで考えてふと、洋二は疑問に思った。
(あの猫、幾つなんだ?)
猫の寿命というと十年か長くても十六年ぐらいだと記憶している、つまり目の前の黒猫が「あの」黒猫だとするとかなりの老猫だという事になる、しかし近付いて見てもその猫はしなやかそうな体も黒々として艶やかな毛並みも眠たげな目も小学生の頃に見掛けた容姿と何一つ変わらないように見える。
やはり、自分の見間違いであの時の猫とは違うのだろうか?
そうも思ったがやはりどこからどう見てもあの時の猫にしか見えないのだった。
見た所、以前のように痩せこけている様子は無い。
洋二が黒猫の傍を通り抜けるとその黒猫は追従するように洋二の後をついて来た。
玄関のドアの前まで辿り着き、鍵を開けて振り返ってみると黒猫はじっと座ってこちらを見ていた、何かを待つように。
洋二はドアを開けると、一言黒猫に声を掛けた。
「・・・上がりなよ」
その一言を聞いた黒猫は腰を上げると開かれた扉からするりと家の中に入り込んだ。
洋二の家に一匹の黒猫が住み着いた経緯は大体このようなものだった。


「ほんと幾つなんだよお前」
日曜の午後、ソファーに寝転がりながら洋二は聞いた、もう一つの来客用のソファーに丸くなっている黒猫はにゃんともすんとも応えない。
そもそもこの家に住み始めて約一年、この猫が鳴き声を上げた事など数えるほどしか記憶にない。
寡黙な黒猫はもそりとソファーから起き上がると窓際まで歩き、その肉球でちょいちょいと窓を軽く叩いた、それを見て洋二が窓を開けてやると外の塀に身軽に飛び移った。
「今晩は外食か?」
洋二が後ろ姿に声を掛けると尻尾をひらひらっと揺らして反応した、今晩は食事はいらないらしい。
洋二と黒猫の関係は大体こんな調子であり、飼い主と飼い猫というよりは互いに過剰に干渉しない同居人といった感じである、人とのべたついた関係を嫌う洋二にとっては丁度いい距離感と言える、黒猫にあえて名前を付けないのもそんな関係を重視したいという洋二の気持ちだった。
「メシはいらない、か、俺の晩飯はどうするかな・・・」
今晩の献立を色々頭に思い浮かべながら洋二はやがてソファーでうとうととうたた寝を始めた。


ぎし、ぎぎぎぎっ
洋二の目を覚ましたのは不快な音だった、寝ぼけ眼で時計を確認するとそろそろ日が暮れる時間帯になっており、窓からはオレンジ色の光が射している。
(・・・今の、何の音だ?)
玄関の方から聞こえて来た気がする、そう思ううちにまた音が鳴った。
めき、めき、めき、バキッ!
明らかに何かが壊れる音だった。
そこでようやく洋二はソファーから跳ね起きた。
ドア?誰かがドアを壊そうとしてる!?
バキッバキッ   キィィ・・・
・・・っきしょう・・・のやろ・・・・
決定的に何かが破損した音と扉の軋む音が聞こえた、それと同時に誰かがぼそぼそと呟く声も。
洋二の住む家は新築ではない、かなり年季の入った物件だ、ドアもかなり古くなっていたので壊そうと思えば壊せる・・・かもしれない、加えてセキュリティ関連の設備も施されていない。
そして玄関から洋二の居るリビングに向けてごと、ごと、と土足で歩いているらしい足音が近づいて来た。
洋二はソファーから起きた体勢のまま硬直してしまった、頭の中は恐怖で真っ白になってしまっている、そうして逃げ出す機会を失ってしまった。
凝視していた廊下とリビングを繋ぐドアの前まで足音が到達するとドアはあっさりと開かれ、侵入者が目の前に現れた。
それはずんぐりとした体形の男だった、つば付きの帽子を目深に被り、うっすらと顎髭のはえた口元しか伺えない、この暑い季節にジャケットを着込み、手には軍手をはめている。
そしてその手には恐らくそれでドアを壊したのであろうバールが握られていた。
洋二はもはや声も出せなかった。
男は洋二が居るのを目に止めると「クソッ!」と悪態をつき、ずかずかと洋二に近付いて、バールを突き付けた。
「おいガキ、金はどこだ」
「・・・あ、あ、あ・・・」
「どこかって聞いてんだよ!?」
男は怒鳴り声を上げ、横にあった本棚をバールで力一杯殴りつけた、ガラスが割れる音が家中に響いた。
帽子から僅かに見える男の目は血走っており、バールを握る手も小刻みに震えている。
考えうる最悪のケースだった、相手は犯罪に慣れている人間ではないのか完全に冷静さを欠いており、興奮状態に陥っている。
「答えろっつってんだろオラァ!!」
男は動けない洋二の胸ぐらを掴んで引き寄せた、洋二の顔に酒臭い息がかかる。
「てめぇもか、なぁ、オイ、てめぇも俺をバカにしてんのか、なぁ」
洋二にとって全く意味のわからない言葉を発しながら男はますます興奮し、バールを振り上げようとした。
「フギャーーーーーーーー!!」
「ぎゃっ!?」
男がバールで洋二を殴りつけようとする寸前に男の後頭部に黒い塊が飛び掛った。
男は洋二を突き飛ばし、頭に纏わりつくその黒い塊を振り払おうと足掻く、しかしその塊は執拗に男の頭に纏わりつき、鋭い爪で男の顔面に引っかき傷を作って行く。
黒猫だった、いつもの取りすました眠たげな表情が嘘のように歯を剥き出し、いつもの寡黙さが嘘のように激しい声を上げて男に攻撃している。
「おい!やめろ!馬鹿!逃げろぉ!」
洋二は必死に叫び、男に飛びつこうとしたが恐怖で膝が言う事を聞かず、立ち上がる事さえ出来ない、洋二は自分の不甲斐なさに涙を流しながらやめろやめろと叫び続けた。
やがて男は黒猫の首根っこを掴んで頭から引き剥がした、帽子は落ち、真っ赤に紅潮した顔は深い引っかき傷だらけで血まみれになっている。
黒猫はそれでも威嚇の声を上げ、手足をばたつかせて抵抗しようとしたが首根っこを掴まれて宙ぶらりんにされてはどうしようもなかった。
「猫か!?ああん!?畜生まで俺をバカにしやがんのか!?ああ!?」
男は血だらけの顔で鬼のような形相になりバールを振りかぶった。
「やめっーーーーーーー」
びしゃんっ
一生耳について離れないような音がなった、男はバールで黒猫の胴体を力一杯殴った。
黒猫は弾き飛ばされ、リビングの壁に叩き付けられると濡れタオルのようにべしゃりと地面に落ちた。
家中に響き渡るような物凄い絶叫が響き渡った、男の声ではない、誰の声なのか洋二には一瞬解らなかったがそれが自分の上げている声なのだと認識した、そこまで考えた所で洋二の頭の中で太い何かがばちんっ音を立てて千切れ飛んだ。
「あやああああああああああああああ」
人としての理性も何もかもをかなぐり捨てたような絶叫を上げながら洋二は男に飛び掛っていった。


そこからの記憶は定かではない、ただただ視界も思考も真っ赤に染まっていた。
気がつけば洋二はバールを片手に放心状態でめちゃめちゃになったリビングに突っ立っていた。
擦り傷や打撲で全身がジンジンとするが、痛みは感じなかった。
何がどうなったのかは記憶にないが逃げ出したのか男の姿は家の何処にも見当たらなかった。
徐々に正気を取り戻した洋二は歯をがちがちと鳴らしながらへたり込みそうになる。
しかししゃがみこむ前に弾かれたように振り返った。
(黒猫、黒猫は!?)
洋二の耳に何かの音が聞こえた、何かの呼吸音に聞こえる。
音の発生源を見ると、リビングの片隅に黒猫が横たわり、ふっ、ふっ、ふっ、と短く浅い呼吸を繰り返していた。
洋二はぶるぶる震えながら黒猫の元に近寄った。
(そんな、そんな・・・冗談だろ)
横たわる黒猫の胸は呼吸に合わせてせわしなく上下しており、口からは血が流れている。
素人目にも致命傷なのが分かった。
がたがた震える洋二の耳に玄関からどたどたと足音が聞こえた
「ちょ、ちょっとあなた!これ何!?大丈夫!?何!?強盗!?」
近所の顔見知りの主婦の声がした、どうやら騒動を聞いて駆け付けたらしい、しかし洋二はただ黒猫の前に立ちすくみ、振り返ろうともしない。
「け、警察!警察よ!」
主婦は電話を求めて慌ただしく自宅に戻って行った。
警察?必要なのは警察じゃない救急車だ、医者が必要なんだ、違う、獣医だ、世界で一番腕のいい獣医がすぐに必要なんだ、いますぐここに飛んできてくれ、こいつを・・・こいつを治してやってくれ、いつもみたいに身軽に歩き回れるようにしてやってくれ、好きな煮干しを食えるようにしてやってくれ、取り澄ました眠たい表情で俺を見下せるようにしてやってくれ、頼む、お願いだ、いくらでも払うから、どんなに掛ってもいいから、一生そのために働いてもいいから。
カチャン
割られたガラスが立てる音でふと、洋二は自分が現実逃避をしている事に気付き、慌てて黒猫の傍にしゃがみ込んで抱き上げようとした。
しかし手が止まった、動かさない方がいいかもしれない・・・。
「ふっ・・・ふっ・・・ふっ・・・み・・・・みぃー・・・」
しかし黒猫はか細い声を上げ、動かない身体で必死に洋二の伸ばされかけた手に縋ろうとする、それを見て洋二は矢も楯もたまらずそっと黒猫の体を抱き上げた。
「だっ・・・大丈夫・・・大丈夫だよ、こんな怪我、大した事ねぇよ・・・すぐ直るって・・・」
洋二は顔をくしゃくしゃにしながら気休めにしかならない台詞を言った、そんなことしか出来なかった。
黒猫は浅い息を繰り返しながらいつもは眠たげなその目を大きく大きく見開いて洋二を見ていた、耳もぴいんと立って洋二の方を向いている。
それを見て洋二は理解した、黒猫は自分が助からない事を理解している、だから最後に洋二の姿を、声を、しっかりと脳裏に焼き付けようとしているのだ。
自分は黒猫に最後に何が言ってやれるだろうか?
洋二は黒猫の体にぼたぼたと涙の雨を降らせながら必死に言葉を紡ぎ始めた。
「あ、あ、あっ・・・あのっあのっ・・・あ、ありがとう、ありがとうよ、俺は、俺は無事だ、お、お前のお陰だよ、お前のお陰で助かったんだよ、ち、違っ・・・それだけじゃないんだ、は、初めて会ったときからっっ・・・今までもずっとありがとう、ずっとずっと、言いたかったんだ」
黒猫はただただ洋二の顔を見つめ、耳をそばだて続けた、時折瞼が落ちそうになるのをぐっと堪え、洋二の言葉に耳を傾け続けた。
「だっ・・・だからっっ・・・だかっらっ・・・!」
言ってはいけない、もう助からないと解っているならこの言葉は言うべきではない。
「し・・・死ぬなよっ!・・・し・・・しなっ・・・死なないでくれ!死なないでくれ!死なないでくれ!」
洋二は堰を切ったように懇願し始めた、こんな事を言ってはいけない、せめて最後は安らかに逝かせてやりたい、そう思っているのにその懇願は止まらなかった。
「・・・・み・・・・みぃ・・・・み・・・・・・」
黒猫は洋二の腕の中で身じろぎをした、動くだけでも激痛の走る体で何とかして起き上がろうとした。
黒猫は「生き」ようとしていた、洋二の言葉を聞いて必死で死に抗い始めた、しかしそれはどうにもならないことだった。
「み・・・・みぃー・・・・・・・・・・・・」
黒猫は最後、懇願するような鳴き声を上げ、やがてその全身から力が抜けた。



「中野くん、本当に大丈夫なのかい?」
「大丈夫ですよ、ちゃんと検査しましたから後遺症なんかもないって・・・」
「いや、怪我の話では無くてね・・・」
洋二は職員室にいた、あの出来事からはもう半年ほどが経過し、外は底冷えのする寒さに支配される季節だ。
洋二に質問する担任の教師は淡々と答える洋二に困った顔をした。
確かにあの事件で負った怪我は見た目ほど大きなものではなかった、しかし精神面に負った傷が心配なのだ、何しろ強盗と取っ組み合いをし、家を壊され、飼い猫を殺されているのだ、しかも犯人はいまだに捕まっていない。
無論、カウンセラーなどにも掛っているが、そのカウンセラーの話によると余り心を開いてくれておらず、まだまだ時間が掛るそうだ。
担任である自分も何か協力したいと思い、自分に何かを吐き出してくれれば、とよく話を聞こうとするのだが彼は大丈夫、の一点張りで取りつく島もない。
「ほんと大丈夫ですって、むしろ強盗を撃退したって武勇伝が出来てラッキー、ってくらいに思ってますから」
「しかしその・・・大事にしていた猫が」
「そりゃあ猫が死んだのはショックでしたけど、そんなに長く引き摺ることじゃないですよ、たかが猫ですから」
あっけらかんとした物言いに何も言えなくなる。
話に区切りがついたと見ると洋二は一礼をしてさっさと職員室を出て行ってしまった。


(全く皆腫れものに触るように接しやがって・・・まぁ、俺も逆の立場ならそうなるか)
家に帰った洋二はため息をついた、当然のことながら以前とはもう違う家だ。
着替えるために洗面所に行くと、自分の顔が鏡に映った。
(・・・確かに色々変わったけどさ)
鏡の中の自分は事件が起こる前に比べてかなり痩せて見える、それもそのはずだ、事件前と比べると相当に体重が減ったのだから。
事件が起こった後、洋二は何もかもがひどくつまらなかった、好きだったゲームはつまらなく感じるようになり、食べ物も美味いと感じなくなった。
何をしていても楽しくないし、夜もよく眠れない。
多分、精神的後遺症というものなんだろう、周りは色々気を使ってくれるが、しかし本人は立ち直りたいという気力すら湧かないのだ。
(・・・猫、か・・・そりゃあショックだったけれども・・・たかが猫一匹の事でなぁ・・・)
洋二本人は自覚していないが、このたかが猫一匹、という言葉を事あるごとに呪文のように繰り返すのが事件後、彼の癖になっていた。
「はぁーーーあ、やんなっちゃうぜ・・・たかが猫一匹で俺がこんな・・・」
「―――」
「・・・」
洋二はぴたりと動きを止めた、何か聞こえた気がする、猫の、鳴き声のような・・・。
「・・・おーい?」
洋二は家の中で一人、呼び掛けた。
「・・・」
返事は無い。
「おーい・・・」
洋二は着替えの手を止め、台所に行って戸棚を開けて回った。
黒猫は時折何の断りもなくかつお節なんぞの缶を失敬していくことがあった、その現場を押さえてやろうと思ったのだ。
いない。
洋二はリビングに向かうと、ソファーやテーブルの下、本棚の隙間などを覗き込んで見た、少し変わり者の黒猫もやはり猫らしく、狭い場所に好んで入り込もうとすることがよくあったからだ。
いない。
洋二は家の外にでて周囲の塀を見て回った、黒猫は塀の上に座って道行く人を観察するのが趣味なのだ。
いない。
「・・・」
洋二は再び台所に行くと、ツナ缶を開けて皿に盛り、地面に置くとぱん、ぱん、と手を叩いた、「メシだぞ」の合図だ、こうすると黒猫はそれこそ猫まっしぐらと言う感じで・・・。
来ない。
「・・・はははっ」
洋二は笑い出した、全く自分は何をやっているのか。
「はははははっ・・・ははっ・・・はっ・・・・」
目の前で死ぬ所を見たじゃないか。
「はは・・・へへっ・・・ひっ・・・」
最後の自分の呼び掛けに答えようとして。
「ひっ・・・ひぃ・・・ひぐっ・・・」
いざという時に足腰の立たないこんな自分のために。
「ひっ・・・ぇぇぇっ・・・っぐっ・・・」
穏やかな最後も迎えさせてやれなかった自分なんかのために。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
こんな事をするのは初めてではない、何度も何度も同じような事を自分は繰り返している。
ツナ缶だって自分は嫌いなのにこの下らない儀式のために買い込んでいる。
そうしてもうこの世にいない黒猫をを呼び出そうとするのだ・・・何回も何回も・・・。


ふと、洋二は目を覚ました、尻が冷たい、当然だ、この時期に台所の地べたに座り込んで眠ったりすれば。
目の前には皿に盛られたツナが置かれている、時間を置き過ぎてすっかり色が変わっている。
どうやら泣き疲れてそのまま眠ってしまったようだった。
「はぁぁぁ・・・」
洋二は深々とため息をついた、あと何回こんな事を繰り返せばいいんだろう、時間が傷を癒してくれるのだろうか・・・今の自分にはとても時間でどうにかなりそうな気がしない。
とりあえずこのままでは風邪をひいてしまう事は確実なので洋二はふらふらと立ち上がった。
「・・・メシ食う気起きねぇなぁ・・・」
「―――――」
「・・・」
また、聞こえた気がする、猫の鳴き声が・・・。
「・・・ちくしょう・・・ちくしょう・・・もうたくさんだ・・・」
洋二は耳を押さえてしゃがみ込んだ、枯れ果てたと思っていた涙がまた溢れ始めた。
今度は、外だ、外から声がする気がする、居るはずもないのに。
ひょっとするとこれは黒猫の呪いなのかもしれない、黒猫は自分を恨んでいるのかもしれない、いるかもしれないという幻想を見せて、いないという絶望を何度も与えて、最後にとり殺そうとしているのかもしれない。
「・・・それも、いいか・・・」
洋二は焦燥しきった顔で、手を離し、立ち上がった。
黒猫になら、とり殺されてもかまわない、それで黒猫の気がすむなら。
何より黒猫のいない世界はこんなにもつまらない、こんな世界に未練もない。
洋二はやつれた顔に泣きながら笑みを浮かべ、ふらふらと玄関に向かった。


外は息が白くなる寒さだった、夜空には怖いくらい大きな月が浮かんでおり、青白い光を全てに投げ掛けている。
洋二はその光の中を歩いた、靴もはかずに歩いた、泣きながら歩いた。
全身に凍えるような寒さが染み込んでくる、しかし洋二はもうその感覚を苦痛とも感じなかった、ただ、鳴き声が聞こえた気がする方向へ歩き続けた。
「・・・このあたり、かな・・・」
そこは住宅街の一角にある何の変哲もない十字路だった。
洋二は白い息を吐き、涙で真っ赤に充血した目で周囲を見回した、誰もいない。
「・・・はははっ」
洋二は掠れた笑い声を上げると踵を返し・・・。
ふと、十字路に設置されている反射鏡が目に入った。
・・・何かが居る、自分の背後、真後ろの塀の上、暗闇に何か白い物が浮かび上がって見える。
洋二は振り返った。
そこにいるのは猫では無かった、一人の少女が塀の上に腰かけていた。
少女は黒いワンピースを着ていた、その真っ黒な服の部分が闇に溶け込み、色白で華奢な手足と顔の輪郭だけが闇から浮かび上がって見える、反射鏡に映った白い物はその少女の白い肌だったのだ。
肩辺りまでぼさぼさに伸ばされている髪、その髪も服と同じく闇に溶け込むように黒い、手入れがなされているようには見えないのに月光を受けて光るその髪は見ただけで手触りの良さがわかるほどつやつやと輝いている。
闇に浮かびあがるその顔はぎょっとする程美しい、少なくとも洋二が今までみたどんなアイドルやモデルよりも美しい。
そしてその完璧な造形の顔はその大きく、黒目がちな目を少し眠たげに半目にし、洋二の事をじいっと見下ろしている。
魅入られたようにその少女を見つめる洋二と、じっと彼を見つめる少女を月はその冷たい光で照らしていた。
11/09/09 16:49更新 / 雑兵
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■作者メッセージ
自分で書いてて凹んだでござる、
これはもう徹底的なハッピーエンドにしてくれよう!

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