読切小説
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オフィス・スパイダー
電気も消えたオフィス。
パソコンディスプレイの青い光が、虚しい打鍵の音に揺れていた。車通りの少ない時間、闇を浮遊する白い影のようなヘッドライトが、時折思い出したように窓の外を通り過ぎて行く。
俺はやり残した仕事に必死で取り組んでいた。他に残っている人はいない。
とはいえ一応断っておくが、この会社はブラックではない。
普段はサービス残業もなく、定時になればむしろ尻をひっぱたかれて追い出されてしまう程度には健全な会社である。それは漂白剤をぶちまけたみたいに白くて、むしろ人間味がないと言ってもいいほど。
これは、仕事の順番を間違えた俺のミスだ。
それに気づいて頬を引きつらせていた俺の不審な様子に、「坂本くん。あなた、何か仕事抱え込んでいるわけじゃないでしょうね」と、上司の糸塚さんは怜悧とも言える美貌に乗っけた眼鏡をきらりと光らせていた。
彼女がそんな一瞬の顔色を見てとったことにも驚きだったが、彼女はツカツカと歩いてきて腰を曲げ、椅子に座っている俺の高さまで顔をおろしてきた。
至近距離から彼女の鋭い瞳に覗き込まれ、真っ赤な唇を少しへの字に曲げられてしまうと、上司に迷惑をかけたくない部下というか、情けないところを見せたくない男としては、ごくりと唾を飲み込みつつ、しらを切るしかなかった。
しばらく訝しげな視線をよこしていた彼女だったが、「ふぅん」と諦めてくれたようで、タイトスカートの形のよい尻をくねらせて去って行った。あの人はモデルかと思うほどにプロポーションがいいのだ。
スーツにきつそうに収まっている胸なんて、まるでゴムまりなんじゃないかって思えるほどに張っているし、腰も蜘蛛のくびれのようにキュッとしまっている。尻は前述の通りだが、大事な部位なのでもう一度言っておけば、今度は控え目に言っておけば、人目も憚らずに飛びついて頬ずりしたくなるくらいには魅力的だ。
見た目通りできるキャリアウーマンという彼女だが、それでいて可愛いところもあった。
この前なんてネイルの色を変えたことを褒めると、「当然よ」とそっけない風だったが、その耳が赤くなっていたことを、俺は見逃してはいない。
正直俺は、彼女が気になっていた。
だからこそ、この仕事は彼女にバレないように終わらせるべきなのであって、俺は暗くなった社内にそっと忍び込んでこの仕事をしている。
しかし。
ヤバい、終わらない。
打っても打っても、まだ打ちやまぬ。教育ママにさせられるピアノのお稽古の方がまだ心労は少ないだろう。俺はカマキリみたいに細くて、カマキリのような眼鏡をかけた痩せぎすのおばさんを想像する。絶対に語尾はザマスだ。
ヤバい。
ヤバいザマス、だ。
と、現実逃避をしてしまうくらいには切羽詰まっているし、そんなカマキリにいっそ切りつけられたいほどには眠気が襲いかかってきている。
一度大きく伸びをして、俺はコーヒーを買いに、席を立つことにした。
一人っきりの会社というのもなかなか雰囲気のあるものだ。
普段は人で賑わっているこの部屋が、しんと静まりかえっていると、どこか別の世界に紛れ込んだ気にもなる。
コツコツ、と。
靴音がやけに大きく響く。
ギィ……。
というドアの音だって、いつもより軋んで聞こえる。
俺は怖がりではないはずだが、廊下の角を回るときだなんて、その向こうから何か得体の知れないものが飛び出してきそうな気にもなって、なるべく大回りで回ろうとしてしまう。
廊下に置かれたソファーは古びて見えるし、喫煙所のガラスには白い影が写っている気にもなる。非常灯で照らされている走る人のマークなんて、突然猛スピードで走りだしそうだ。
やがて、廊下の中ほどに青白い光が滲んでいるのが見えた。
闇から逃げ遅れたように立つ自動販売機で、俺は缶コーヒーを買った。
掃除が行き届いている清浄な廊下に、プンとコーヒーが香る。この香りはむしろ眠気を誘うかもしれない。俺がそう思った時、
カサカサ。
音が聞こえた。
「なんだ? 今の音」
静かな廊下には俺の声だけが通り過ぎていく。
先ほど聞こえた音はもうない。
しかし、慌てて逃げていくような……まるで、大きな虫が這うような音……。
馬鹿らしい。と俺は首を振った。
そんなのはB級映画だけの話だ。現実にあるわけがない。
俺はコーヒーを飲み終えて、ゴミ箱に突っ込む。空き缶のぶつかる音だけが、闇に溶けていった。

俺は自分の席に戻った。
カチカチ。
時計の音だけが俺以外の動くものであり、パソコンのグラフィックが、闇に塗りつぶされず、ただ青く光っていた。
そこでふと、違和感を覚えた。
物の配置が変わっているわけではない。だが、何かが変わっているような。強いていうならば、気温がちょっとだけ下がったような、そんな違和感だ。
「気にしすぎだな、俺」頬を張って、俺はパソコンに向かう。「さーて頑張るぞ。今日は徹夜だろうけど……俺のミスだし。何と言っても糸塚さんに迷惑かけられないしな」
カサ……
「え?」
今、確かに聞こえた。自販機のところで聞いたあの音。
俺は周りを見回すが、何もない。
「ゴキブリってこんな音したっけ?」
ガサ……
抗議するような音が立った。
俺は薄ら寒いものを感じながら机の下に顔を向けてみる。光の届かないそこは、黒い淵が口を開けているようだった。だが、何もいない。
「神経が高ぶってきているのかな? ゴキブリとか蜘蛛って苦手なんだよな」
独り言を言いつつ、俺は椅子に座りなおす。
と。
ガサガサ。
シャカシャカ。
確かに聞こえた。
そして。
それは頭の上だった。
視線を感じる。まるで巨大な昆虫が俺に襲いかかろうとしているような……。
俺は全身の毛穴が音を立てるんじゃないかってくらい、肌が泡立つのを感じた。
恐る恐る俺は視線を向ける。だが、ソレの動きの方が速かった。
上から降ってきた何かに俺はのしかかられて、俺は抵抗する間も無く首筋に鈍い痛みを感じた。意識を失う俺の視界の端には何やら虫のような巨大な足が見えて、ゾッとするような冷たい女の声で、
「残業禁止」
そう聞こえたのだった。



目を覚ますと、俺はオフィスの机に突っ伏していた。
なにやらとてつもなく手触りのいい毛布がかかっていた。まるで産着のような、とてもしっくりときて、俺はぼんやりした頭で匂いを嗅いでみた。とても落ち着く香り。ふんわりとはしていても、お日さまのような香りではなく、冷たい中に優しさが織り込まれているような……。
窓の外からは朝日が差し込み、スズメの声が聞こえる。
秒針と重なり合う心地の良いリズムに浸っていた俺は、ふとパソコンに目をやった。
そうして音が聞こえるくらいに血の気が引いた。
思い出した。
俺は仕事の途中だったはずだ。
まだ終わってなかったっていうのに……俺ってやつはぐっすりと眠りこけてしまっていたらしい。糸塚さんの失望した顔を思い浮かべて、今からではもう間に合いそうもなかったが、俺は慌ててキーボードに触れる。そこで気がついた。
「あれ……? 終わってる……」
俺は確かに途中やりだったはずだ。しかも、俺がやるよりも完璧な仕事である気がする。このやり方は何処かで見たような……。と考えていた俺は、

バタン!
というドアの音に飛び上がりそうなくらいに身を竦ませた。
恐る恐る振り返ってみれば、こめかみ浮いた血管が今にも噴火しそうに見える糸塚さんがいらっしゃった。
「お、おはようございます」
俺のぎこちない挨拶に、彼女はギロリと音が聞こえるくらいの視線で睨みつけてきた。金たまが縮むどころではなくて、引っ込んだ末に口から出てきそうなくらいに、俺は体の芯が冷たくなった。
彼女はツカツカとヒールを響かせて俺の元にやってくると、ズイと腰を折り曲げて顔を近づけてくる。間近で見る彼女の顔は相変わらず怜悧に美しくて、今は鋭利に恐ろしかった。鼻と鼻が近付きそうなくらいの距離だが、俺はまるでナイフでも突きつけられているかのような心境だ。
「ずいぶんお怒りのようで……。一体何にお怒りなのでしょうか」
俺は往生際悪く、シラを切る。
彼女はニッコリと笑った。
こんな見るだけで人を殺せそうな笑顔なんて、初めて見た。陳腐な表現だが、背筋が凍る、としか言いようがない。
「何に、何にと言ったわね? 自分の胸に手を当てて聞いてみなさい。なんなら私の胸にでも手を当ててみるかしら?」
糸塚さんがそんな冗談を言うなんて思ってもいなかった。飲み会の席でもそんな冗談聞いたことはないし、飲み会の席だったら勢いに任せて触ってみるところだが、今のノリで触れて仕舞えば、その今にもはち切れんばかりの胸部は、爆発するに違いない。
「えっと……。すいませんでした」俺は観念して素直に謝る。「この仕事、糸塚さんがやってくれたんですか?」
「私以外に誰がいるのよ。嫌な予感がして来てみれば、案の定。しかもあなたはパソコンの前で眠りこけているし、終わらせるつもりなら最後まで終わらせなさい」
彼女は不機嫌そのものといった調子。
「すいません」俺は平謝りするしかない。
「それに、よ。仕事をやり忘れていたのはあなたが悪いとしても、言ってくれれば手伝うわよ。私が怒るだけで、何もしない、そんな奴だとでも思っていたのかしら」
「い、いいえ! そんなことありません。糸塚さんに迷惑をかけたくなくて……」
ちょっと悲しそうな(寂しそうでもある?)彼女に俺は慌てて弁明する。
「結果としてもっと迷惑をかけられたけれど?」
「返す言葉もありません」
俺がしゅんとすると、彼女は鼻を鳴らしてようやく顔を退けてくれた。
「まったく」
彼女が胸を張ると、その大きな乳房に目を奪われる。そのボタンが飛ばないことが不思議なくらいだ。
「どこを見ているの?」
「い、いえ。どこも見ていませんよ」
俺は弁明してばかりだ。彼女はまるで仁王様のように立ち、不機嫌そうに腕を組んで俺の前から退こうとはしない。
と、そこで俺は、大事な言葉を言い忘れているのに気がついた。
「ありがとうございました。糸塚さんのおかげで助かりました」
「よろしい」
ようやく彼女は腕を解いてくれた。それから腰のくびれに手を当てる。そのポーズはカッコいいなんてものじゃなくて、手を合わせたくなるくらいだ。
「あ、そうだ。この毛布、糸塚さんがかけてくれたんですか?」
「そう。馬鹿は風邪をひかないと言うけれど、念のためにね」
「酷いですね」俺は苦笑する。「でも、何ら弁明することができません」
そうして俺は毛布の手触りを再び確かめる。こうして包まれていると、再び眠ってしまいそうなくらいに心地が良い。
ーー手放すのが惜しくなった。
「…………糸塚さん」
「ん、何?」
「この毛布ってどこで買ったんですか」
「何故」
「いえ、とても気持ち良くって、欲しくなってしまって。もしも同じメーカーでシーツとか作ってたら、とても安眠できそうです」
「………………」
「糸塚さん? どうかされたんですか?」彼女はあっけに取られたような様子だった。「コホン」と取り繕うような咳払いをすると、彼女は再び腰を折って、俺に顔を近づける。ギロリと目を鋭くしている。が、先ほどのナイフのような目つきとは打って変わって、むしろ小動物が威嚇しているような気配があった。
「あげる」
「え?」
「だから、あなたにあげると言っているの。二度も言わせないで。あなたが気に入ったのだったらそれをそのままあなたにあげる。それとも私のものは受け取れないと言うの?」
「い、いいえ。ありがとうございます」
何かを押し殺しているような彼女の様子に思うところはあったが、もらえるとは思っていなかったこの毛布をもらえて嬉しくなった俺は、もう一度顔を埋めてみた。
「やっぱり気持ちいいですねこれ。それにいい匂いです」
「匂い!?」
「どうしたんですか?」
「何でもないわ……」
どうにもさっきと立場が逆転してしまっているようなので、俺はおかしくなってしまう。
「なによその顔は……」
「なんでもありません。あ、そうだ。糸塚さん。もし今夜空いていれば飲みに行きませんか? お世話になっているばかりでは悪いので、奢らせてください」
彼女は一瞬キョトンとしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「いいわ。坂本くんがどんな店に連れて行ってくれるのか楽しみにしておくから」
彼女の言葉に俺はサーっと血の気が引いた。普段の飲み会ならばまだしも、彼女と二人で行くような店はすぐには思いつかない。こんな出来るキャリアウーマンの見本みたいな糸塚さんに相応しい店だなんて、駅ビルの最上階に鎮座する店くらいしか思い浮かばない。
しかし、見栄を張ってそんなところに連れて行ってしまうと、テーブルマナーやらなんやかやでボロがでることには確信がもてる。
そんな俺の様子に、彼女はクツクツと、満足そうに笑っていた。形の良いヒップをくねらせて自分の席へと戻って行く。その耳が赤い気がするが気のせいだろう。そして、彼女が本当に楽しみにしているようなのは、期待を持ちすぎだろうか。



目を覚ますと、いい匂いがした。
ここは俺の部屋だ。見飽きた天井に、いつも通りの俺の部屋……にしては妙に片付いている気もする。頭が痛い。どうやら二日酔いのようだ。
俺はなんとか昨夜のことを思い出そうとする。
昨日は確か、糸塚さんと飲んで……思い出してきた光景に、ウッ、頭が……。肉体的にだけじゃなくて、精神的にもイタイ。
昨日は結局俺が行ったことのあるところで一番いいと思う店に連れて行って、でも緊張しすぎた俺は飲みすぎて、糸塚さんに連れていかれたバーで出された酒は飲みやすいくせにどうにも度数が高かったようで……。その後しこたま吐いて……。
「…………ひでぇ」
としか言いようがない。
端的に言って昨日は飲みすぎた。記憶にあるバーテンダーの女性の頭には角さえついていた気がする。そんな幻覚を見てしまうなんて、よほど悪い飲み方をしたらしい。
それから俺はタクシーで糸塚さんに家まで送ってもらって……。
俺は頭が痛いにもかかわらず、鉛のように腹にたまった後悔を、ため息として吐き出した。その振動がズキズキと頭に響く。今日が休みで助かったが、彼女の前で晒した俺の醜態には救いはなく、慈悲もない。
きっと、ではなく絶対に幻滅されたに違いない。そもそも彼女に期待はされていなかったのだ、と思えばこの気持ちは和らぐ気もしないではないが、それはそれでさらに救いようがない。
俺はこの気持ちを洗い流そうと、浴室に向かう。
ガンガンと鐘をつくような痛みが頭に響く。これが除夜の鐘的なもので、一度の痛みごとに俺の煩悩や情けなさが吹っ飛んでくれればいいのにと、本気で思う。
ガンガンという響きの中に、ザァザァという雑音まで混じり始めた。
まだ酔いも残っているらしい。俺は汗でベタつく服を脱いで、脱衣かごに放り込む。洗濯物だって、普段よりも大きく膨らんで見える。
極め付けの幻覚としては、浴室の扉を開ければ糸塚さんがシャワーを浴びていた。
俺はボンヤリとした頭でも、本能的にそれを凝視してしまう。
俺が妄想で描いていた姿よりも、一糸まとわぬ彼女の肢体は美しく、色白の絹のように滑らかな肌。彼女の崇高な曲線の上を泡が滑っていく。窮屈な戒めから解き放たれた乳房は瑞々しい果実のように水滴を弾き、キュッとしまったくびれを、流れる泡が磨いていく。尻の割れ目に乗っかった泡はまるで残り雪のようで、見事に引き締まった脚なんて、春に目覚めた木立のようだ。
これほどまでに完成された女体というものを俺は今までに見たことがなかった。だと言うのにその肉体はどこまでも現実的なもので、匂い立つような色気はもぎ取ってこの手に収めたい誘惑にもかられて、俺は股間を固くさせてしまっていた。
糸塚さんがシャワーを浴びている。……浴びている。
え?
股間の蛇だけじゃなくて、二日酔いも吹き飛ばすような混乱が鎌首をもたげた時、シャワーを浴びる彼女の顔に、蛹が羽化するような切れ込みがうっすらと入る。俺は魅入られたようにそれが開いていくのを見ていて……彼女と目があった。
俺はとっさに土下座した。
「ごめんなさい! 覗くつもりはなかったんです!」
ザァザァ。
白々しい水音が響いてくる。俺のすぐ側を、逃げていくように泡が流れていく。俺も彼らと一緒に排水口に吸い込まれて消え去ってしまいたかった。
「……………」
「……………」
何も声が帰ってこないのが恐ろしい。
キュッ、と。蛇口を閉める音。
今に何が起こるかと、俺の心臓は火に炙られたように脈を打った。
しかし幸か不幸か、ペタペタと、彼女の足首は俺の横を通り過ぎていった。
むしろ何も言われなかったことが恐ろしくて、俺は息をするのも忘れていた。



なんとか自身の気持ちを落ち着けるためにも俺はシャワーを浴びてーーとは言ってもシャンプー以外のいい匂いが風呂場には残っていて、落ち着けなかった俺は、先ほどの彼女の裸身を思い出して、一発ヌいておくことにした。
新しいシャツを着て……。ん? 元々あったシャツと見た目は変わりないようだったが、どうにも肌触りがよかった。このシャツに包まれていると、安心して気分が落ち着いてくる気がする。どのせいかわからないが、二日酔いの気持ち悪さも消えているようだった。
俺は恐る恐る台所を覗く。
誰もいなかった。
ガス代を見れば味噌汁が作ってあった。
「もしかしなくても……だよな。悪いことしたな。糸塚さん、実は繊細だったのか……」
俺は申し訳なく思いつつも、味噌汁を腕によそう。味噌の香りがふんわりと漂う。白味噌の辛さはちょど良くて、優しい味が胃にしみた。玉ねぎやワカメが具に使ってあって、男の部屋にかろうじて残っていたものでここまでの品を作れるなど、脱帽ものだ。
「ホント、なんでも出来る人だな……。あの人の旦那さんになれる人は幸せだ」
ガタッ。
ん、何か音がしたか?
気になったが、彼女の作ってくれた味噌汁をほっぽってなどいけないので、後で確認することにした。どうせ何か積み上げてあったものが落ちただけだろう。それにしても、糸塚さんの裸、綺麗だった。あの体を好きに出来るってのも羨ましい限りだ。
「あーあ、彼氏いるのかな」
ガタッ。
「いるだろうな。いないとしても、俺なんかじゃ釣り合わないよな……」
ガタガタッ。
まるで抗議するような音が聞こえた。
ちょうど食べ終わったし、確認することにしよう。俺は立ち上がり、部屋を確認することにした。引き戸をあけると、
ーーいた。
「…………えーと。糸塚さん、怒って帰られたんじゃなかったんですか」
実は帰ってはいなかったらしい糸塚さんがそこにいた。彼女は耳だけを真っ赤にさせて、ジロリと俺を睨みつけてきた。自他共に認める鈍感な俺だが、これがただの照れ隠しだということはわかる。
というか、俺、さっきとんでもないことを口走ってなかったか……。
「子供じゃあるまいし、裸を見られたくらいで帰るわけないじゃない」彼女はやはり大人の女性だったようだ。ということは、俺と違って経験も豊富なんだろうな。
しかし、俺が彼女を尊敬していた目で見ていると、彼女はこう付け加えた。
「でも、あなたは何も見なかった。私の裸なんて見ていない。いいわね?」
耳がさっきより赤い気がする。
もしかすると、糸塚さん……。
「何? 何か言いたいことがあるのかしら」
彼女はオフィスでするようにツカツカと歩いてくるが、立ち上がった状態だと俺の方が背が高いので、彼女から若干見上げられるような位置どりになる。これもこれで趣がある。とか言っている場合じゃなくて、言いたいことはいっぱいある。
まず一つ。
「なぜ僕のシャツを着ているのでしょうか?」
「着るものがなかったからよ。私のものは洗濯機にかけてしまったから。あなたのものと一緒に回しておいたからいいでしょ」
さすがだ。
着る服がないから俺の服を着た。なんて論理的な説明なんだ。そんなことを言われたら、ダボダボの俺のワイシャツだけを狙ったように着て、その下には何もはいていなさそうなことを突っ込むわけにはいかない。
さらに一緒に俺のものまで洗ってくれたのならば勝手に洗濯機を使ったな、なんて文句も言えない。いや、そもそもそんなみみっちい事で咎めたりなどはしないが……。
「じゃあ、ここで何してたんですか?」
「掃除よ。汚かったから」
これまたさすがだ。
汚かったから掃除した。非の打ち所のない論理的帰結だ。俺の部屋を掃除してくれたのだから文句を言ってはバチがあたる。しかし、
「エロ本が開かれているのはどうしてでしょうか」
まるで彼女が見ていたかのように。
「坂本くん、ああいうタイプが好きなのね」
「ええ。否定はしませんが……」
俺は頭をかきつつ、目をそらす。
何故って、彼女が開いていたのはよりにもよって、
『イケナイ女上司〜出世の道は魔羅しだい〜』
『アフターファイブのサービス淫業』
とか、女上司ものが、しかも見ようによっては糸塚さんに似ている女性たちが並んでいた。
俺は彼女の目を直視することができない。虫の針にチクチク刺されるような、そんな視線を感じる。股間にも視線を感じるし、何やら匂いを嗅がれている気もする。雰囲気だけで彼女がご機嫌斜めであることがわかった。
「……こんな人たちに坂本くんがムダ打ちして、私がいたというのにお風呂でもムダ撃ちさせてしまって……昨日だって同じ布団で寝ていたというのに手を出してこないヘタレだし、そんな彼の寝顔を見てるだけで手を出さなかった私もヘタレだけど……」
何やら彼女は口の中でボソボソと言っているようだったが、俺には聞こえなかった。
「えーと。糸塚さん?」
「ハッ……何よ」
「お味噌汁美味しかったです。暖かい味で」
「そう、それなら良かったわ」
良かったのは俺だ。目元が緩んでくれて、ホッとする。だから、ついこんなことを言ってしまったのだろう。
「はい。あんなに美味しかったら毎日でも食べたいくらいですよ」
「毎日ィ!?」
彼女が引きつったような声をあげた。目を揺らして唇の端がピクピクと動いて、どんな顔をしたらいいかわからない表情、というか、何かを必死に押さえ込もうとしている表情に見えた。
「どうかしたんですか?」
俺が覗き込めば(いつもと立場が逆だ)、彼女は軽く息を吸い込んだ。
「何でもないわ」
そう、そっぽを向かれてしまった。会社での様子とは打って変わって可愛らしく思えてしまう。そんなことを言うと、きっと彼女には軽くあしらわれるだけだし、もしかすると怒られてしまうかもしれない。何に対してかはわからないが、そんな気がする。
「あと昨日はありがとうございました。酷い状態だったでしょう」
「そうね。吐瀉物をひっかけられた時には置いて帰ろうと思ったわ」
「そんな奴置いていってくれれば良かったのに!」
申し訳なさすぎて、穴があったら入って鉛の蓋を閉めた後に茶釜に爆薬を詰め込んで自爆したいぐらいな気持ちだ。俺が愕然としていると、彼女は笑っていた。
「クスクス。冗談よ」
その顔は無邪気な少女のようで、
「可愛い」
「え!?」
「あ、ごめんなさい。そんな顔見たことなくて。ついポロッとホンネが。気に障ったなら謝ります」
「もう謝っているじゃない。……別に、気に障ってないわよ。むしろ……」
「むしろ?」
「何でないわ」
ジロリと睨まれた。耳が真っ赤だった。
俺は軽く微笑んで、彼女にポカポカと叩かれた。その響きはどうにも甘くて暖かくて、いいなぁ、と思ってしまった。
ひとしきり俺を叩くと、彼女はプイとそっぽを向いて台所へ行ってしまった。



今日は不思議な1日だった。だが、生まれて初めてと言ってもいいほどに充実した1日だった。
俺たちは二人で洗濯物を干して、たわいのない話をした。昨日の飲み会の時は正直緊張しっぱなしだったし、早々に酔ってしまって何を話していたのか覚えていない。覚えている話と言ったら仕事の話くらいだ。だから、たわいなくお互いのことを話す時間は、まるで種から芽吹いた草が、ゆっくりと伸びていくような時間だった。花咲くような対した話題でもなかったが、今もまだ、その草が伸び続けているような、忘れられない時間になった。
俺は糸塚さんが好きだ。
その気持ちを再確認した。
残念ながら、告白することはできず、当然実を結ぶことはできなかったけれども……。
一緒に昼飯を食べて、買い物に行って、夕飯を食べて、糸塚さんは帰って行った。
寂しい気持ちもしたけれども、明日会社に行けば会えるのだ。もしも心配なことがあるとすれば、今までのようなただの部下と上司として彼女と話すことができるだろうか、ということだと思う。
俺はベッドにゴロンと寝転がって、天井を見上げる。
部屋を見回す。変わらない俺の部屋だが、彼女がいないということで、色褪せて見えた。俺の目の画素数が下がってしまったと言っても良い。霞みがかったような物足りなさに、俺は身をよじらせる。俺の中の彼女の密度が高まるだけで、彼女一人が移動するだけで、こんなにも世界が変わって見えるとは、新鮮な驚きと同時に不安をもたらしてくる。
もしも告白して、彼女に断られたなら、俺はどうなってしまうのだろう。
俺の中の彼女という存在が膨張して、俺という存在を粉微塵に吹き飛ばしてしまうのかもしれない。
そんな、悶々と彼女の事を考えていたからだろう。
ふと、彼女の匂いがした。
それに、どうにもシーツや枕の感触も違う気がする。
これは、まるで彼女にもらった毛布のような手触りと、匂い。
俺は帰ってしまった彼女の残滓を必死でかき集めるように、毛布に包まることにした。

その夜、俺は夢を見た。
そこは巨大な蜘蛛の巣だった。
蜘蛛の巣はその真っ暗な空間に、まるで流星のように縦横無尽に張り巡らされていた。
蜘蛛の糸というものはベタついて気色の悪いものだが、これは不思議と嫌悪感を抱かなかった。俺は蜘蛛の巣をその中心へと向かって歩いていた。
ここが中心だと思う場所にたどり着くと、そこには一匹の巨大な蜘蛛がいた。
毒々しい色合いをして、体節の間はキュッと糸で締めたようにほっそりとして、腹は艶かしいと言えるまでに膨らんでいた。まるで、吐き出せなかった思いが溜まってしまったように、それを吐き出してしまう事を恐れ、自家中毒を起こしているように。蜘蛛の巣に伸ばしている脚は細く、それでいてその中心で脈動している力強さは、涙が出そうになるくらいに美しかった。
俺が彼女ーーどうしてだか俺はその蜘蛛を雌であると思ったーーを見ていると、蜘蛛の頭にあたる部分が震えだした。そうしてまるで脱皮でもするかのようにガラスで傷つけたようなヒビが入って、そこから、今朝、風呂場で見てしまった糸塚さんの見事な肉体が、蝶が羽化するように現れてきた。触れれば壊れてしまいそうに儚くて、幻のように美しかった。
彼女は見るものをウットリとさせるような顔で微笑んで、俺に手を伸ばしてきた。
上半身は美しい彼女。下半身は巨大な蜘蛛。
そんな異形の存在に向かって、俺は……。
彼女は躊躇う俺を見て、形の良い眉をひそめて、少し悲しそうな顔をした。その顔に俺は、何も考えず、ただ彼女の手を取っていた。
力加減を間違えればすぐに壊れてしまいそうなほっそりとしたその手を、俺はけっして離さないように握りしめる。その手は、溶けてしまいそうなくらいに、温かかった。

目を覚ました俺は、あの異形の存在こそが糸塚さんなのだと、不思議とすんなりと受け入れることができたていた。
彼女があんな存在だなどと、そんな非現実的なことは現実問題としてありえないだろうが、もしもあれが彼女なのであれば、俺はそれでも彼女を愛せると確信した。
俺はいつも通りだけれども物足りない一人での朝食を済ませ、スーツを着て朝の世界に足を踏み出す。忙しなく歩いている人の中で、今日という1日に俺ほどの覚悟を決めている人はどれだけだろうか。
と、こんな偉そうな事を思っても、俺よりも重大な覚悟を決めて歩いている人ももちろんいるだろう。今日、会社で重要なプレゼンテーションがある。大きな手術を受ける予定の家族を見舞いに行く。
だが、その重さは人によってそれぞれだ。
人にとって砂つぶぐらいの重さでしかないものが、他の誰かにとっては空ほどに重い。そんな事だってあるだろう。彼女に思いを伝えるということは俺にとってそれほどのものだった。
いつも通りに出社して、俺はいつも通りに席に着く。
だというのに、心臓はもう張り裂けそうで、このオフィスは始業ベルとともに大爆発を起こす。そんな幻視すらいだいてしまう。
しかし。
俺の覚悟など、一枚の花弁よりも軽いと言うかのように、彼女は今日会社を休んだ。



終業後、俺は彼女の家を訪ねていた。
個人情報の取り扱いについて小うるさい昨今だが、課長は俺に教えてくれた。何やら訳知り顔で、彼女はファイトと言ってきたが、そのニヤニヤ笑いはまるで『不思議の国のアリス』のアニメ映画に出てくるチェシャ猫のようだった。
俺は日の落ちた街で、車のヘッドライトが、まるでギョロギョロ光る魚の目玉みたいに、俺の後ろを行き交っていた。見るからに高級そうなマンションだ。彼女はこのマンションの30階に住んでいるらしい。
彼女の元に行こうとしている俺は、小さな虫になったような心持ちで、それならいっそ小さな羽で飛んでいけたら、と思った。
エントランスに入れば、予想通りオートロックだった。俺は彼女が出てくれる事を望みつつ、3001の番号をプッシュする。コールが5回あって、やっと彼女が出てくれてホッとした。だが、彼女は一言も発することはなく、ただ、自動ドアのあく乾いた音がしただけだった。
俺は、担架も簡単に入るくらいの大きなエレベーターに一人で乗る。
無機質な音が響く。上昇していく浮遊感に、俺は小虫になって、自ら蜘蛛の巣に囚われにいく気になる。
彼女が本当にあの蜘蛛だとするのなら、俺は彼女に食われる小虫でいい。俺は本気でそう思う。
だが、そんな非現実的なこと、あるわけがない。それでも、その予感はベトついた蜘蛛の糸のように、どうしても俺の脳裏から離れてくれない。

彼女の部屋について、チャイムを鳴らす。
少しばかり間が空いて、まるで覚悟を決めたかのように、鍵の開く音がした。
「お邪魔します」
俺はドアを開く。
だが、そこに糸塚さんはいなかった。
部屋は電気が消されていて、奥で何者かが動く気配がした。
カサカサ。
何やら虫が蠢くような音がした。
俺はつばを飲み込む。靴を脱いで揃えて、彼女の香りに満ちた廊下を歩く。足の裏から伝わってくる感触は滑らかで、あの毛布のようだった。ドアがある。この向こうに糸塚さんがいる。
しかし、このドアを開ければもう俺は戻れない。そんな予感がヒシヒシと、まるで重石のように俺の背中にのしかかっていた。
俺は意を決してドアを開けた。
真っ暗な部屋には、何者かの気配が満ちていた。
「えっと、電気は」
「だめ……」
懇願する女の声が聞こえた。それは闇の中を這う、蜘蛛の糸を震わせるようなか細い響きだった。
「糸塚さん、どこにいるんですか? こんな風に電気も消したままで、今日は調子が悪かったんですか?」
「ええ。調子が悪いといえば悪いわね」
「ご飯食べてますか?」
否定するように、それでいて飢えているように、空気が揺れる気がした。
「どうしたんですか……」
俺は暗闇に慣れてきた瞳で彼女を探し、一歩を踏み出した。
「……あなたのせいよ」
「僕の……?」
「昨日、あなたと一緒に過ごしたから……一人が寂しくなったの」
彼女も、俺と一緒だったのか。俺は嬉しくなると同時に、それならどうして会社に来なかったのだ。どうして一人でこんな真っ暗な、虫の巣穴じみた空間に一人でいるのだろう。
俺は暗闇のどこかにいるはずの彼女に届けと願いながら口を開く。
「だったら……俺が一緒にいますよ。俺は糸塚さんが好きです」
空気が傾いだ気がした。
「私も坂本くんのこと好きよ。あなたに一緒にいてもらえないと、私はすごく寂しい」
「だったら……」
俺はさらに一歩を踏み込む。
「でも……あなた、蜘蛛、苦手なんでしょう。昨日も、その前もそう言っていた」
まるで泣き出しそうな気配。それは、俺が蜘蛛が苦手ならば、一緒に彼女も拒絶されるのだと言っているようでもあった。
「昨日、あなたと楽しい時を過ごして家に帰って考えたの。あなたが私の正体を知ってしまったら、蜘蛛が苦手なあなたはきっと、私を拒絶するって……」
俺は彼女の言葉に、昨日の夢と、ずっと俺の脳裏に張り付いている予感が、まるで蜘蛛の糸を織りなしていくように広がった。それは立体的に編み込まれ、下半身が巨大な蜘蛛の姿になっている糸塚さんを、俺の目の前に立ち上げた。
そこには美しい一匹の蜘蛛がいた。
闇の中に立ち現れた、一輪の百合のように。
異形の姿を晒した、一糸まとわぬ糸塚さんがいた。
闇の中、淡く白く輝く、美しい彼女の裸体が浮いていた。
怜悧な美貌はまるで今にも壊れそうなガラス細工のようで、鋭い瞳も今は弱々しい。唇はこぼれ落ちる嗚咽を必死で噛み殺しているよう。ほっそりとした体に似つかわしくない乳房だけは相変わらず重力を拒絶して見事に膨らんでいる。蜘蛛の腰のようにキュッと細まった腰の下には本物の蜘蛛の体がくっついている。だが蜘蛛の頭があるべきところには、女の下腹部があり、整えられた茂みによって覆われていた。
「どう? ビックリしたでしょ。私は人間じゃなかったの。ジョロウグモという魔物娘なの」
彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「こんな姿を知っても、あなた、私のことを好きって言える? こんな、あなたの苦手な蜘蛛の下半身を持った女に」
確かに俺は蜘蛛が苦手だ。
だが、この姿なら、糸塚さんなら、蜘蛛も悪くないと思えた。そんなことは、夢を見た時から思っていたことだ。
「私のことは忘れなさい。私も忘れるから。魔法の使える魔物娘に頼んでもらってそうするから。でも、あなたが気に入ったという、私が作った毛布やシーツ、シャツとかは残していくから。あれ、私の糸で編んだものなの。昨日、部屋に行った時、もともとあったものをいくつか取り替えたのだけど、勝手なことをしてごめんなさい。そうやって私を……徐々に手放せなくしていくつもりだったけれど、私の方が先に参ってしまった。もし、気持ちが悪かったら捨ててちょうだい」
彼女はそう言って、一筋の冷たい涙をこぼした。
その一人で納得している姿に、俺はとても腹が立った。
なんでも一人でできる彼女だからと言って、俺の気持ちを聞いてもいないくせに、恋の行方まで一人で決めつけないでほしい。
「何勝手に一人で言っているんですか。俺は、気にしませんよ」
「え……?」
彼女の瞳はこぼれ落ちそうなくらいに大きくなった。
「俺は、糸塚さんなら、蜘蛛だったって愛せます。それに、あんなに気持ちのいい毛布とかを知ってしまったらもう、他のものじゃ眠れませんよ。あれが傷んでしまった時に糸塚さんがいなかったら、どうすればいいんですか。俺の安眠を確保するためにも一緒にいてください」
「…………それって、プロポーズ……」
「ああ、はい。そうですよ」
俺は真っ赤になった顔で彼女の瞳を見る。彼女はいつものように耳だけではなく、頬まで染めていた。
「でも、あなたは蜘蛛が苦手なんでしょ。無理はさせたくないわ」
彼女は顔をうつむかせていた。俺は彼女に無遠慮に近づいて、その顎を指であげた。
「正直、蜘蛛自体は苦手です。でも、糸塚さんなら大丈夫です。そんなことがどうでもいいくらいに俺はあなたのことが好きです。だから、結婚を前提にお付き合いしてください。それに、そんなに心配だったら、俺が蜘蛛が好きで好きでたまらないくらいに蜘蛛の良さを教えてください。糸塚さんならそれが出来るはずです。そんな弱気な姿、糸塚さんらしくないですよ」
俺の言葉に、糸塚さんは一度、壊れたような微笑みを浮かべ、その顔はすぐにいつもの怜悧で凛々しい表情を取り戻した。
「そうね。あーあ、情けない顔を見せてしまったわね。あなたのことを考えていたら、なんだかどんどん暗くなってしまって……。人を好きになるって、平静じゃいられないものなのね。蜘蛛が自分の蜘蛛の巣に絡まってしまうなんて、笑い話にもならないわ」
彼女はそのままの表情で、まるで少女のように笑った。その顔に俺は言葉をなくす。そうして彼女は不敵な笑みを浮かべる。
「ねぇ、人の顎に手を当てたっていうのにその先はしてくれないの?」
真っ赤な唇を、真っ赤な舌が濡らした。
「もちろんです」
俺は彼女の唇を引き寄せて、唇を重ねた。初めてのキスがこれほど情熱的なものだったなら、次からのキスはもの足りなくならないだろうか。この先彼女以外の女性とキスをすることはないだろうが、俺はそんないらぬ心配をした。
俺は彼女のほっそりとした背中に手を回す。彼女の腕が俺の背中に巻きついてくる。
俺たちは一緒に、蜘蛛の糸に絡まれることにした。

唇を離せば彼女の肌はうっとりと上気して、俺は彼女の首筋に舌を這わせた。
「ンッ……」身をよじらせる彼女の肌を下がっていけば、ずっと触ってみたかった彼女の豊満な乳房があった。弾き返されるほどの張りのあるそれに、俺は顔を埋める。
「何? おっぱい好きなの?」
「はい、大好きです」
俺はその柔らかさと香りを堪能し、顔を埋めながら両手で俺の顔に押しつけるように彼女のおっぱいを揉みしだく。そうしてか細く震える、彼女の桜色の乳首を口に含む。
「だったら、思う存分に堪能していいわ。これは、あなたのために育ったのだから……」
「光栄です」
「ンァ……」彼女の乳首はすでに固く充血して、舌でつついて転がせば、彼女は俺をきつく抱きしめ、俺はあやうくおっぱいに溺れるところだった。俺が夢中になっていると、彼女のほっそりとした指が、俺の股間に当てられていた。
「私ばかり気持ちよくなっていたら悪いわ」
彼女は慣れた手つきで俺のベルトを外して、トランクスごとスラックスをずり下げた。
他人の体温が、それも女の華奢な指に絡め取られて、俺のペニスは痛いくらいに膨張していた。
「いいもの持っているじゃない」
彼女の囁くような吐息が俺の耳に吹きかかってくる。俺は得意げになって、ひときわ強く彼女の乳首を吸う。
「ン、……ぁ。もっと。もっと吸って。私のおっぱいめちゃくちゃにして良いから。……ハ、ぁあ、反対の乳首も……ぁあ! 歯を立てるのは刺激が強いわ」
彼女は全身で感じながらも、俺のペニスをシゴくのをやめない。彼女の指はまるで楽器でも演奏するかのように巧みに動いた。竿をシゴいていたかと思えば、玉をマッサージして、玉の奥底に
眠っていた精子の全てが目を覚ますかと思うほどに刺激的だった。
「糸塚さん、出そうです」
「あゆみ、って呼んで」
「あゆみ、出そうだ」
「……それじゃあ。こっちにちょうだい」
彼女は俺をやんわりと引き剥がすと、蜘蛛の下半身と女の肉体のつなぎ目にある、茂みをかき分けて割れ目を開いた。獲物を前にしてよだれを垂らすような口が開いていた。そのよだれは蜘蛛の下半身を濡らしている。
俺はゴクリと唾を飲み込んで、そこに俺を沈み込ませた。その時、膜のようなものを貫く感触を覚えた。しかし俺の驚きは彼女の声にかき消された。
「ァあああ! イイ。とてもイイわ。やっぱり、坂本くんはイイものを持ってる」
ひときわ高く嬌声をあげると、彼女は俺をきつく抱きしめた。感極まっている彼女の、蜘蛛の足すら俺に巻きついてきている。その虫の足の冷たさと、彼女の体温が、俺の体に伝わってくる。だが正直なところ、俺にそれを感じている暇はなかった。
俺のペニスを包み込んだ彼女の膣肉は、まるで別の生き物のようにうごめいて、俺の射精をこれでもかと促してきた。竿を逆さに擦り上げて、少しでも動けば爆発してしまいそう。
俺は歯を食いしばって耐えていたが、彼女は耳元で、
「有吾、上司命令よ。私を受精させなさい」
その命令は俺の背筋をゾクゾクと震わせて、その快楽信号は容赦なく俺の股間へと送られた。
俺はもうどうにでもなれと、彼女の奥にペニスを打ち付けて、ザーメンを容赦なく吐き出す。
「受精しろ、あゆみ!」
「あぁあああああ!」
彼女の甲高い声と、背中に食い込む爪の痛みに促されて、俺は今までに出したことのないような量を彼女の深みに吐き出した。
「ハァ、ハァ」
俺たちはお互いの汗に滑りながら、荒い息を吐いていた。
もう出ない。……はずなのに、俺のペニスは彼女を雄々しく貫いたままで、再び動きたくてしかたがなかった。
「イイわよ。もっと動いて。私もまだまだ足りないもの。私の子宮をあなたのザーメンでパンパンに満たしてちょうだい」
彼女は俺のペニスを納めている腰をくねらせて新しい刺激を与えてくる。そんな、命令とも懇願とも取れない艶を帯びた声音に、俺は、今夜は萎えることがないのではないか、と思った。
ソファーの上で彼女は俺にのしかかり、一心不乱に腰を振っている。それは捕食行為にしか見えなかった。彼女の白い肌からは玉のような汗が弾け、暴力的な乳房が暴れている。俺が鷲掴みに捕まえても、圧倒的な質量は抑え切ることができない。
「乳首も触って……」
俺は彼女を引き寄せて固く尖った乳首を甘噛みする。
「ちょっと、噛んでイイなんて言ってないわ……感じ過ぎちゃって、や……来ちゃう……ふぁ、あ、あ」
彼女は淫らに体を震わせると、その膣もきゅうきゅうとしまった。その刺激に俺は彼女の中に精を吐き出す。
「ああ……あったかい。まだあなたの精液だけなのに、別の誰かがいる気がする……」
恍惚とした表情に、俺は下から彼女のナカへ突き上げる。
「あ、あ、ア……。酷い、イったばかりなのに。ダメ、またすぐに……」俺が容赦なく彼女を突きあげていくと、彼女は少女のように嫌々と首をふるくせに、腰だけは淫らに俺を求めてくねらせていた。
蜘蛛の足が必死で理性からひき剥がされないようにと、固く踏ん張っている。しかし、高まっていく水音と、彼女の嬌声は、彼女の理性が徐々に上り詰めていくことを表していた。
「イク、イク、イク、イクゥーー!」
彼女は俺にしなだれかかってきて、唇を重ね、舌を絡ませる。
「ちょうだい、有吾。もっと、もっと……」
俺は不思議と湧いてくる肉欲のままに、彼女と一晩中肌を重ねていたのだった。



目を覚ませば、見知らぬ天井だった。
ここはあゆみの部屋だった。
時計を見れば……。
「やばい!」
俺は素っ裸のままベッドから跳ね起きて、ドアを開ける。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃなくて、もう遅刻……」
そこにいたあゆみがキョトンとした顔で俺を見てくる。そうして花のほころぶような顔で笑う。
「大丈夫よ。会社には有給を使うように連絡しておいたから」
「え……?」
「電話したら、多分必要になるだろうからもう手配しておいた、って、課長が言っていたの。ウチの会社はね、そういうことには寛容なの」
何か含みのある言い方だった。目を白黒とさせる俺に、彼女はクスクスと笑う。
「朝ごはんできているけど食べる? 服着てでもいいけれど、着なくてもいいわ。私みたいにね」
そう言う彼女は蜘蛛の下半身の正体を現したまま、裸に割烹着を着ていた。
俺はゴクリと唾を飲み込む。
「もちろん。食べる」
「どっちを?」
「どっちも」
俺は彼女に微笑みつつ、席に着く。
二人でいただきますと言って、味噌汁を口に含む。
これがこれから一生味わえると言うのならば、蜘蛛の巣にかかるのも悪くない。
俺は、そう思ったのだった。
17/09/11 14:01更新 / ルピナス

■作者メッセージ
蜘蛛さんは好きです。
今は飼育しようとは思っていませんが、以前はタランチュラを飼育しようと思っていたこともあり、蜘蛛だけの図鑑も持っています。
旅行中、蜘蛛さんに、アッシーとして使われたとしか思えない体験をしたことがあります。

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