読切小説
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蜘蛛の着物
江戸の町は今日も平和だ。
おれはお天道様を抱く青空の下、カラコロ下駄を鳴らして往来を歩いていた。
西風が雲を追い散らし、乾いた風が首筋を撫でていく。せわしない町人たちを横目に、空きっ腹には腰の刀もずしりと重い。堀に沿ってあてどもなく歩けば、町の流れから取り残されて行く気がした。
堀には何食わぬ顔の水の流れがある。
何か安い茶屋にでも入ろうかと思っていたが、覗き込んだ古着屋で、ふと目を引くものがあった。
店は入ってすぐの木箱に古着が並べられている。北側に面した店内は薄暗い。商品が日焼けするよりはマシということだろうか。奥には無造作に古着が積み上げられている。おれの目を引いたのは、その無造作に積み上げられた古着の1着だった。
「おい、親父。その着物を見せてもらえぬか」
おれが声を張り上げると、店の奥から古ぼけた親父がのそのそと這い出てきた。売り物と間違えそうになる見た目の親父に、おれは思わず笑いそうになった。
「へいへい。どの着物でしょうか」
「その着物だ。その藍に染まったかすりの着物」
おれが指をさすと、親父は奇妙な顔をしたが、それを古着の隙間からひっぱりだした。その拍子に埃臭い香りが辺りに広がる。おれは若干閉口しつつ、礼を言って受け取った。
見事な着物だった。
ひんやりとした熱を持っているようで、驚くほどに手触りがよい。おれはこれを着たまま生まれてきた。そう思えるほどにしっくりくる。
これは、このような古着屋で売られるような着物ではない。
ムラなく染められた藍の色合いは広い海原のようでも、高い青空のようでもあるし、かすりの模様もまるで蜘蛛の巣のように、おれが見たことがないほどに繊細に織り上げられている。
おれは、この着物が欲しくてたまらなくなってしまった。
「親父、これはいくらだ」
いくら古着とはいえこれほどの代物。手持ちだけでは心もとない気もする。もし足りなければ、長屋に残してきたおれの着物の全てを抵当に入れても構わない。
そう、構えていたおれに、親父は信じられないことを言った。
「お代はいりませぬ」
「何を言っておる。これほどの品から代を取らなければ損だろう。それにおれの気もおさまらん」
少々いきったおれに、親父は静かに首を振る。
「いいえ、お代はいいのです。この着物はですな……着る方を選ぶのです。この着物をお売りになったのはさるお店(たな)の若旦那さんでしたろうか」

聞けばなんでも、この着物は自らの主人を選ぶのだそうだ。
最初にこの着物を持ち込んだ若旦那は別の古着屋でこの着物を見つけたという。
彼は俺のように良いものに巡りあえたと喜び、家に帰っていそいそと袖を通した。だが、帯を締めた途端にキリキリとひとりでに締まり出した。これは辛抱たまらん、と急いで帯を外したのだが、脱いでみると普通の着物と変わりはしない。
試しにもう一度着てみたのだが、やはりキリキリとしまる。店子に着せてみてもそれは同じ。
気味が悪かったが、この見事な着物を惜しんだ若旦那は手元には置いておこうと思った。さすがに店を継ぐ男となれば、それだけ肝が座っているということだろう。
だが、そんな彼でも次の日、目を覚ましてみると吃驚仰天した。
箪笥にしまいこんでいたはずのその着物が、まるで這い出してきたかのように箪笥の外に出ているではないか。これにはさすがに若旦那と言えども肝を潰し、お店に障りがあってはならぬとこの店に売りにきた。
初めは古着屋の親父もその話を聞いて気味悪がったが、売り物として置いておく分にはなんら不思議なことは起こらなかったという。
そのうちに、このように見事な着物だ、目に止めて買っていく者もいた。そして彼らは次の日には慌てふためいて返しに来る。その人によって降りかかって来る不思議は別々だが、今まで誰に売ってもこの着物は戻ってきてしまった。
店主はそこで値段をつけるのをやめ、他の古着に隠れるように置いた。
「それをおれが見つけたということか」
「へい、そうでして……。先ほどもしまってあったはずの場所からずれていたような気もして、私も背中が……こう、ぞくぞくとしている次第でございます」
親父は古ぼけた半纏の背中を掻いた。
「ふぅん、それならおれはこの着物に相応しい男ということか。ますます気に入った」
そんな話を聞いてもおれは、この着物が欲しかった。どうにも惹かれた。おれはお代を親父に財布ごと放り投げる。
親父はひゃあとか、わぁとか言ってそれを受け取る。
「太った財布ならさまになっただろうが、そうも痩せ細っていてはさまにはならん。だがおれの心づもりとして受け取っておいてはくれぬか」
おれが気恥ずかしそうに言えば、親父は物言わず頷いてくれた。
「これはいい買い物をした」
おれはその着物を受け取ると、意気揚々と長屋への家路についた。
相変わらずの町人たちの忙しなさ。おれと彼らの流れは違うのだから仕方がない。この着物を携えていると、むしろその方が良いと思えた。

立て付けの悪い戸を開けると、くすんだ色の畳、男やもめの部屋はカビ臭い匂いがする。部屋に置かれたちゃぶ台の足もかしいで、貧乏暮らしのこの部屋に、この上等の着物は合わないとつくづく思う。だが、これは手に入れなくてはならないと思ったのだから仕方があるまい。
この着物に見合う男に、おれがなればいいということである。
早速この着物に袖を通してみる。
帯を締めて包まれてみれば、手に持っていた時よりもしっとりと肌に合う。まるで絹ような手触りで、古着の山に埋もれていたはずだというのに、少しも埃臭くなどなく、微かに花のような香りがする。
これは、色街の女たちが通り過ぎる時の匂いにも似ている。
平静ならば、それは気味悪く感じるところだったかもしれない。だが、おれはむしろ安心する心持ちがした。どうにも気分も高揚する。このまま足の向くままに外へ歩き出したいところだが、そうはいくまい。貧乏武士でしかないおれが急にこのような上等な着物を着ていれば、もしや盗んだのではと、いらぬ疑いをかけられることにもなりかねない。
それはこの着物に対して申し訳が立たぬ。
おれはひとしきり堪能すると、着物を脱いでできる限り丁寧に畳んだ。
いささか着物の藍色が寂しげに見えたが、寂しいのはおれも同じだ。
おれは内職の作りかけの傘を引っ張り出してきて、せっせとノリを貼り始めた。

その夜のことだ。
おれは寝ぐるしくて目を覚ました。
窓の格子から射し入る月の光が青い。
蟋蟀(こおろぎ)や邯鄲(かんたん)が静かに鳴いている。静かな、奇妙とも言える風情のある夜だった。夜気の澄んだ空気が、しんしんと満ちていた。
何かが顔に張り付いている気がする。思わず手で拭うと、粘性のある何かが触れた。
「蜘蛛の巣……?」
どうやら無作法な蜘蛛がおれの顔に巣を引っ掛けようとしていたらしい。辺りを見回すがそれらしき蜘蛛は見当たらない。
その下手人を捕らえて殺そうというわけではない。またぞろおれの顔に巣をかけられないように、退いてもらおうと思っただけだ。夜の蜘蛛は不吉だというが、おれは蜘蛛というやつがどうにも好きだった。ブンブン飛び回る鬱陶しい羽虫を、せっせと網にかけては食ってくれる。嬉しい同居人である。
何よりも、あの蜘蛛の巣の見事さと言ったらない。雨上がりの時など、蜘蛛の巣にかかった水滴がお天道様の光を浴びて輝けば、息も忘れて見惚れる。虹色の日の光が、小さなビイドロとなって糸にぶら下がる。
その巣をまるで殿様のようにノッシノッシと主が歩いていくさまなど惚れ惚れとする。
そういえば、おれがあの着物に惹かれたのは、あのかすりの模様が蜘蛛の巣に似ているからもあるのだろう。
おれは今日買った着物を思い出して目を向けると、思わず叫んでしまった。
「なんと、ほつれている」
ドンドン。
壁を叩く音に俺は身を竦ませた。
「す、すまん」
おれは慌てて謝る。ボロ長屋では隣の音が丸聞こえなのである。隣人を起こしてしまったようだ。
しかし、これは由々しきこと。シミも傷もなく、美しさそのものであったはずの着物がほつれている。しかも見ているうちにそれはさらにほつれていくのである。まるで糸がほどけていくように、自然に。
おれは着物を掴んでみるが、着物はやはりしるしると、ほどけていく。ほどけた糸はどこへ行っているのか。跡形もない。
「おいおい、待て待て」
着物に声をかけたところで聞いてくれるわけもない。
月の光が指の隙間からこぼれ落ちるように、着物は跡形もなく消えてしまった。
おれもこの着物に相応しい男ではなかったのか。
摩訶不思議な出来事だったが、この時のおれが感じたものは気味の悪さではなく、女に振られてしまったかのような寂しさと悲しさであった。
うちひしがれて立ち尽くすおれだったが、何やら引かれる力を感じて指を見た。
ーー息を飲む。
小指に糸の端が結びついていた。それが幽かな力で、それでいて確かな力で俺を引いている。おれは訝しがりながら、その糸に引かれるがまま、ついて行くことにした。

下駄を引っ掛け半纏を羽織り、夜中の町へと身を投げ出す。
静かな夜である。平常の夜といささかずれているような心持ちがした。夜は夜であり、それ以外の何者でもないのだが、糸に引かれていれば、普段とは全く違って見える。おれも、本当にここにいるのだろうか、とも思ってしまう。
幸いにも月明かりが煌々として提灯はいらない。おれの下駄の音だけがコロコロと闇に滲む。野犬の遠吠えに、物寂しく柳が揺れる。
堀の水音がぴちゃんと跳ねれば、魚が踊ったのかもしれない。
おれは橋を渡りながら不思議に思って糸を見る。この糸に引かれるままに行けば、どこにたどり着くのだろうか。月の明かりに応えて、絹のようにきらめく糸は、どこともなく続いている。
もしやこの先には化け物が待ち構えているのでは。
この糸は蜘蛛の糸にも似ている。
冷え冷えとした夜気のなかで、おれは蜘蛛の糸にひかれて滝壺に落とされそうになった男の話を思い出す。夜中に蜘蛛の糸で首を絞められる話もあったか。
もしもこれが真実蜘蛛の糸であれば、たどり着いた先でおれは食われてしまうのかもしれない。
だがしかし、それはおかしな話だ。この着物に相応しくないという男たちの方が食われてしかるべき……いや、むしろこちらが正しいのか。
おどろおどろしい話を思い出して見たりもするが、この糸のきらめきを見ている限り、おれはどうしてもこれが恐ろしいものだとは思えなかった。

大店(おおたな)が立ち並ぶ通りに差し掛かった。貧乏武士のおれには縁の遠い区域である。もしも見回りの同心にでも見つかれば、有無を言わさず引っ立てられたところで文句は言えまい。
さいわい人っ子一人足音も、提灯の揺らめきもない。
相変わらずひっそりとした夜だ。
月明かりにそびえる大店を見ると、盗人すらも眠りこけているような絵が浮かぶ。彼らを捕まえるはずの岡っ引きも。
おれを待ち構えているかもしれない化け物よりも、十手片手に走り寄ってくる彼らの方が恐ろしい。弁明をしたところで、貧乏侍の見本のようなおれには、情けどころか侮蔑の視線しか賜われないだろう。
そうしておれは、とある店にたどり着いた。
「ここは呉服問屋ではないか」
街で評判の店だ。この店が有名なのは腕利きの職人がいるからだけではない。この店の主人の娘がこれまた別嬪なのである。おれも遠くから見たことがあったが、見るだけで魂を持っていかれるかと思うほどの美しさであった。
彼女の姿を思い出したおれは、くすぐるような女の笑い声を聞いた気がした。だが、辺りを見回したところで人っ子一人いない。撫でさするような風が吹き、おれは一つ身震いをした。
しかし、これまた何故この糸はここにおれを引き寄せたのだ。
このままここでウロウロしていれば、盗人と間違われて御用になってしまう。
おれが困っていると、
ぐん、
と。
一際強く糸に引っ張られた。
驚く間も無くおれは店の中へと放り込まれた。
「あいててて……」
したたか腰をうったおれがようやく立ち上がる。振り向けば店の表はしまっている。戸の開け閉めもなく、おれはどうやってここに入ることができたのか……。薄ら寒いものを感じながら、ここまできたからには引き返すことはできぬと、おれはやはり糸に引かれて廊下を進む。
立派な店だった。お屋敷と言ってさつかえはない。おれの貧乏長屋とは比べるのもおこがましい。掃除も行き届いており、埃の匂いなど全くしない。古びた木材の歴史の香りがする。
ギィ、
ギィ。
抜き足差し足だが、どうしても板張りの床は音を立てる。それはどうにも呻き声のようにも聞こえ、これは気味が悪い。
小指の糸は相変わらずおれを引いていく。
廊下の向こうにか細い糸のきらめきだけが浮いている。
これほどの大店(おおだな)なのだ、盗人よけのために廊下にうぐいす張りの仕掛けを施しておいても不思議ではない。だが、店子が誰も起きてこないということは不思議である。
みっしりと戸を閉ざした廊下には闇がわだかまっている。
ギィ、ギィ……。
廊下が鳴る。
月の光は差し込まない。
おれが進んで行くと、とある突き当たりの部屋に行き着いた。
戸の隙間から灯りが漏れている。
キィ、
キィ。
中からは虫の鳴くような音が聞こえる。おれはソッとのぞいて見た。
この時おれが叫び出さなかったことをおれは褒めてやりたい。だが、それはおれの胆力が強かったというわけではない。あまりに驚いたために息を忘れたのだ。
部屋の中には、娘がいた。
女は一人っきりで糸車を回していた。
おれがかつて遠くから見たことのあった別嬪の娘。
行灯の明かりが揺れ、一人部屋で糸を紡ぐ指はまるで琴を弾くようにたおやかで美しく、どこか仄暗い艶かしさがある。だが、そうした秘め事じみた光景に、鼻息を荒くはできなかった。
行灯に浮き上がる娘の影は、人の身よりも大きく。
その下半身は巨大な蜘蛛。
あやかしであった。
おれは見つからないうちに逃げ出そうと、後じさる。
だが。
「もし……。そこにいらっしゃるんでしょう」
女の声が戸を通り抜けた。それは蜘蛛の巣のようにおれに絡みついた。
おれが声も出せないでいると、
カラリ
ひときわ大きく糸車の回る音がしたと思えば、おれはものすごい力で部屋の中へと引きずりこまれた。この店に入った時と同じだ。
戸は音も立てずにしまっていた。
行灯の明かりに、彼女の蜘蛛の影とおれの荒い息が滲む。
キィ……。
キィ……。
歓びを含んだ糸車の音。
女はおれを見て、ゾッとするような美しい顔で笑った。蜘蛛の糸のように艶のある黒髪は結い上げられ、かんざしには蜘蛛の細工物がしつらえられている。
「お、おれを食うつもりか……」
「食べる……? まあ、食べるかもしれませんねぇ」
「これでもおれは武士の端くれ。ただでは食われぬ」
おれは腰に手を当てるが、刀はない。そうだ。おれは今は刀を佩いていなかった。
慌てるおれに、女はコロコロと笑う。
「そんなにいきらないでくださいよぅ。あんたを傷つけはしないのだから」
キィ、
キィ。
糸車が回っている。
行灯に女の影が揺らいでいる。
「お前は、あやかしなのか」
「そうですよ。見たまんま」
「あの着物は、お前が織ったのか」
「ええ。あんたがそれを着た。着心地はどうでした?」
「よかった。いくらあやかしが織ったとはいえ、あの着物は素晴らしかった」
おれは正直に答えた。
「嬉しい」
女はまるで無邪気な少女のように、心の底から喜んでいるようだった。いくらあやかしとはいえ、顔は別嬪の女のものなのだ。おれはボウと、思わず見惚れてしまった。
だから、まだおれの小指には彼女の糸が巻きついていることを、失念してしまっていたのだ。彼女がギィ、と強く糸車を回せば、おれは女の胸元に引き寄せられていた。
女の柔らかい体温がおれを強く包み込んだ。
おれは恐怖よりも羞恥で身をよじる。
「あはは。くすぐったいよ。この程度で赤くなっていてどうするのよぅ」
女は笑う。
近くで見れば、女はやはり美しい。
丹念に織り込まれたような白い肌。行灯の明かりが女の肌をほの赤く舐めている。瞳は大きく黒く、うるしの塗り物よりも濡れた光沢を放つ。繊細なまつ毛は長く、鼻筋は通り唇は血で朱を引いたかのように潤っている。
魔性だ。
この女は日の光の中よりも、闇の中、行灯に照らされている方が似合う。
まるで天女のような、いや、天女ではない。この女は極上の妖女だ。この女は夜な夜なこうして男を食らうのだ。だが、この女にならば食われてもいいと、バカな男(おれ)は思う。
彼女の香りがする。
これはあの着物の匂い。
彼女が強くおれを抱けば、体の隅々まで彼女の香りに満たされ、彼女の柔らかさが伝わってきた。ふくよかな乳房が服の下で潰れ、蜘蛛の足がおれの足を搦めとる。
女の瞳は情欲に燃え上がっている。その熱はおれを焼いた。
「あら、こんなに固く大きく」
下腹部に押し付けられた脈打つ熱の感触に、女はクスクスと笑う。
おれの魔羅は真っ赤な鉄杭となって、女を貫きたいと主張していた。どうしたらよいかわからなくなったおれが身をよじると、余計に彼女の体温とその体の柔らかさが伝わってきた。
あの着物のようなぴったりとはまる感触がする。
魔羅は痛いくらいに固い。
「いいですよ。旦那さま」
婀娜っぽい流し目は近く、みずみずしい唇がつりあがる。その隙間からは蜘蛛の牙が覗いて、瞳の中にはおれの冴えない顔が映っている。
彼女は悩ましい吐息を一つ吐くと、貪るように口を吸ってきた。
それは感じたことのない蠢きだった。
そのままおれは、ーー蜘蛛の化生に食われた。
女は、生娘だった。
行灯の油が尽きても、おれたちは暗闇の中でお互いを絡ませあった。女の肌で弾ける玉の汗は、いつか見た雨上がりの蜘蛛の巣のようだった。おれは舌の上でその玉(ぎょく)を転がした。蜘蛛の巣に絡め取られたのはおれだ。肉の弾ける音は、巣の女主人が歩く音だ。
だが、あの着物のようにしっくりくる女の肉体の主(あるじ)はおれだった。
淫蕩で織り上げられた彼女の肉体に、おれは夢中になった。あの着物よりもだ。下半身が蜘蛛であろうともさわりはない。むしろ、彼女はこうでなければならないとまで思った。
体を重ねている間、彼女は官能の悦びに身を震わせていた。
聞けば、彼女は人の肉を食うあやかしではないという。
食うのは人の精。だが殺しはしない。彼女は夫を求めていた。あの着物は彼女にふさわしい夫を探すために彼女が織ったものだという。
ほどけてしまったことをおれが残念そうに語れば、彼女はおぼこのように頬を染めた。
「これからはいくらだってあなたのために織りますよ」
闇に蠢くあやかしである彼女だが、織物を褒められると少女になるらしい。おれは果報者だ。彼女のような女に見初められたのだから。
しかし、彼女の夫となるからには、おれはこの店の若旦那になる。
貧乏侍から大店の主人。
身に余る出世に、少しだけ怖気付くが、身を寄せてくる彼女の温もりにおれは腹を決める。彼女と彼女の織る着物にふさわさしい男になる。
おれは蜘蛛の巣でできた閨の中、彼女がおれのための着物を織る姿にそう誓う。
いつしか、朝が訪れていた。



「お内儀(かみ)さん。いつもながらいい出来だね。いや、いつも以上。祝言をあげてからますます腕が上がったみたいだ」
色街の女主人が、惚れ惚れとして彼女の織物を手にしている。昼間の彼女の呉服店はさらに繁盛している。初めは訝しがられていたおれだが、どうにかこの店の店子にも認められるようになってきていた。
彼女の鶴の一声ならぬ蜘蛛の一声があったからかもしれないが。
「やっぱりあれかい。夜に精を出せば昼の仕事にも精が出るってね」
真昼間から下世話な話だが、色街のお内儀さんでは仕方がないかもしれない。おれは耳に届いてくる姦しい話を複雑な心持ちで聞く。妻はただにこやかに笑っている。
「しっかし、見違えるもんは見違えるもんだね」相手の矛先はこちらに向く。「初めは頼りないと思っていたけど、今じゃどこに出しても恥ずかしくない若旦那じゃないかい。ちょっと、うちに遊びに来ないかい。お内儀さんには内緒にしとくからさあ」
そのお内儀さんの前で言うのはやめてもらいたいものだ。もちろん、色街に行くなどありはしないが。おれは困った風に笑って、
「ウチのかみさんに相手にされなくなったら行くかもしれん。ま、そんなことになったら先に蜘蛛の糸で首をくくっちまうな」
「あらあら、野暮なことを言っちまったね」
舌を出す女主人。視線を感じたおれが、その蜘蛛の糸のような視線を辿れば、妻と目があう。婀娜っぽい流し目は、そんなことになるわけがないと、雄弁に語っている。
ありがたい話だ。
そもそも、女郎蜘蛛のあやかしである彼女が一度捕まえた獲物(夫)を手放すわけがない。ソッと微笑む彼女に、おれも同じ風に微笑むのだった。
17/09/07 14:36更新 / ルピナス

■作者メッセージ
和風テイストの怪奇幻想が好きなのですが、それなりに雰囲気は出せたでしょうか……。

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