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愛の影
愛の影



むかしむかし、西の大陸には人魔中立の国、芸術の都と名高いビエナという国にダニエル・グレイという若者がいました。ダニエルは音楽家として、また教師としてフルートやオルガンやピアノを弾いたり教えたりしていました。

月の日には学校で生徒に音楽を教え

火の日にミサで使う曲の作曲を始め

水の日には、弟子達にフルートやピアノの指導

木の日に曲を書き終わり、仕事の合間に活版印刷所へ

黄金の日には、貴族の邸宅でピアノの指導とフルートのコンサート

土の日に聖歌隊に譜面を配り教会でリハーサル

太陽の日に教会でミサと結婚式や葬儀でオルガン演奏をします。これが彼の一週間です。

敬虔な主神教の教徒で、寝る前や食事の前、教会でオルガンを弾く前には必ず主神への感謝を忘れませんでした。

『主神よ、天の王様よ、日ごとのパンに感謝します。日ごとの平和に感謝します。あなたの名前に栄光がありますように...』

貧乏貴族出身の若い音楽家の生活は決して楽なものではありませんでしたが、ダニエルは満ち足りていました。

そんなある日のこと、太陽の日のミサが終わり、その帰り、教会の門の前で若い女を見たところ、ダニエルは一目で恋に落ちました。女の名をアンジと言い、長い亜麻色の髪と茶色の目を持った異邦人の美しい女でした。ダニエルは花と愛を告げてアンジと恋人になりました。

ある冬の日のこと、アンジが教会で泣いていました。

『アンジよ。あなたは、なぜ泣くのですか?』

と聞いたところ、アンジは父が死んで生活の頼りがないとダニエルに話しました。

『あなたのお父様のことはとても悲しい事です。ですから、お父様の為に主神にお祈りをしてください。これからの事は大丈夫ですから…』

ダニエルは心から彼女を愛していたのでアンジの生活の面倒を見る事にしました。

ダニエルはこれまでよりも、多く働いてお金を集めました。より多くの曲を書き、より多くの弟子を取り、やりくもない傲慢な成金貴族のサロンでの演奏をしたり、結婚式やお葬式の演奏も増やしました。

ダニエルは一度アンジを家に招き入れて、一緒に住もうと思いましたが、結婚もしてない男女が同じ屋根の下に住むことを良しとしませんでした。

アンジは父が死んだ悲しさからかどんどんヒステリックになっていきました。

名のある医者に診せたところ、どうやらアンジは気鬱に掛かっていたようです。

ダニエルはアンジの借家や生活や高い薬代の為にこれまで以上に身を粉にして働きました。ですが一向に状況は良くなりません。

『今さえ乗り越えれば、きっとアンジは立ち治り、私たちはきっと幸せになれる。』

そう言い聞かせて、ダニエルは働きました。アンジと出逢って3年が経とうとしていました。ダニエルは休む間も無く働いて、どんどん痩せていきました。

3年の間にアンジのヒステリックはどんどん酷くなっていきました。心ない事を言われたり、物を投げつけられたり、傷をつけられたり、果てには大切な仕事の成果である楽譜や父親から与えられた大切なフルートを窓から投げられました。ダニエルは深く傷つき、悲しみました。アンジの面倒を見ながら新しいフルートを買わなくてはならなくなり、お金が必要になったので、ダニエルは生活を更に切り詰めました。

それでもダニエルはアンジを大切に思っていたので、両親に紹介しました。しかし、紹介したところ、あろう事かダニエルの両親、グレイ男爵と男爵夫人を蔑ろにしてしまいました。

『美しいが、何という娘だ!…ダニエルよ、絶対にあの娘との結婚は認めん!お前は何と情けないのであろうか!!』

と、父親のグレイ男爵はカンカンです。母親の男爵夫人はアンジの心無い言葉に泣いていました。

この事はアンジの気鬱病の為だとダニエルは思いました。いつか病気が治って、その時に会えばきっと許して下さる…そう思っていました。アンジを信じていたのです。





本当にダニエルはアンジを深く深く愛していました。辛抱強く我慢し、笑顔を絶やさず、不満を漏らさず、怒らずに、ただ2人で幸せになる為に黙って働きました。






そんなある日のことダニエルの仕事が珍しく早く終わり、いつもより早い時間にアンジに会いに行こうと、帰路に着いたところ、街中で彼女を見ました。声をかけようと思いましたが、壮年の男と一緒にいたので声をかけられず、暫く様子を見る事にしました。

彼女とその壮年の男は仲が良く、アンジはダニエルに見せる事の無い様な笑顔をその男に見せていました。

アンジと男が話しています。…ダニエルの事についてです。


『馬鹿な男……』


と、アンジは一言語りました。彼女は笑いながら男と一緒に街の中へ消えていきました。

ダニエルは急に不信に思い、病院や生活の為と渡していたお金がどうなっているか知人のジェンキンス氏にに頼み調べました。解っているだけで、およそ王立書記官の1年間の給金程、行き道のわからない不明なお金がありました。それは、1つの家族が1年間豊かに暮らすに困らない十分なお金でした。

ダニエルは余りの事に頭を抱えて動く事が出来ませんでした。自分が深く愛しているアンジに裏切られ、今までの苦労や努力を無下にされたのです。そして、1番辛かったのは自分が望んだ未来を彼女は望んでなかったと言う事実でした。

アンジはダニエルの想いをいとも簡単に踏み躙ってしまいました。



ダニエルは書斎の机の上に

‘‘
最愛の アンジ へ


あなたがたの幸せを願います。


ダニエル・グレイ



と、アンジへ書き置きを残して、心を痛めたダニエルは僅かなお金とペンと楽譜とフルートと、小さな荷馬車にクラビア(小さいピアノ)を積んで芸術の都を後に、片田舎へと逃げる様に去りました。














片田舎へやってきて、数年が経ちました。ダニエルは住処にした小さな村の小さな教会で演奏やオルガンを教える以外は家に閉じ籠り、音楽を作り、クラビアやフルートの練習をするだけの穏やかな生活をしていました。


村の人は暖かくダニエルを迎え入れました。ダニエルは以前よりも人に優しく接する様になりました。ですが、心を深く傷ついたダニエルは人を心から信じることが出来ません。



他者が、特に女が怖くなりました。



怖いから他者に優しくするのです。怖さを隠す為に。また、それを悟られ無い様に。自分の心の中に誰も踏み込ませないように。気付けば笑顔は作り笑いだけになっていました。信じてもまた傷つくのではないか、また裏切られるのではないか。そんな思いに苛まれて、いつしか彼の心の中には、嘆きの壁が高く高く聳え立っていました。


時々、治りかけた傷が開くように、まだ幸せだった頃の記憶が蘇ってきます。幸せの記憶を思い出す度にアンジに裏切られた絶望感や虚無感がダニエルを襲いました。その度に、ダニエルは忘れようと、悲しみから逃れようとワインを飲み、酷く酔い、すすり泣いていました。その姿はあまりにも哀れで、痛々しいものでした。


気がつくと、彼の心の拠り所は音楽だけになりました。オルガンやフルートや曲作りをしている間、彼は救われていました。


皆口々に

『こんなに素晴らしい音楽は聴いた事がない』

『なぜ、ダニエル氏は都を離れてこんな田舎にいるのか?変わったお方だ』

『都では、さぞ持てはやされただろう』

『夜な夜な、ワインを飲み、すすり泣いているようだ。おいたわしや』

など、村人たちは話していました。


さて、その年の穫り入れの秋のこと、ダニエルが教会での仕事を終え、帰り道の田畑を通り掛った所、麦落穂を拾う異邦人達の中にアンジの姿を見ました。

ダニエルは、忘れかけていた記憶が蘇って来る感覚に心を震わせました。それは歓喜と嘆きと希望と絶望の混ざり合った想いでした。

彼は思わず、彼女に近付き


『アンジよ!なぜ、あなたがここにいるのですか!?』


と声をかけました。


女は、少しだけ驚いた様子で、ダニエルに微笑むと

『こんにちは、はじめまして。私はアンナと申します。』

その女は、アンジにそっくりでしたが、良く見れば髪の色と目の色が違いました。アンジは亜麻色の髪でしたがアンナは艶のある黒髪です。アンジの目は茶色でしたが、真珠の様なグレーをしていました。

『これは失礼しました。大きな声を出してしまい、さぞ驚いたでしょう。』

『いえ、お気になさらず…たしか、あなたは教会でオルガンを引いていた方だと思いますが、違いますか?』

『はい。私はダニエルと申します。楽師をしております。娘アンナよ、あなたはこの辺りでは見ない人です。なぜ落穂ひろいをしているのか?』

すると、アンナは少し目を逸らすと、此方に向き直して

『民の争いがあり、逃げて来ました。お金を持っていたので村長様から小さな家と農地を頂きました。しかし、穫り入れが終わった今からでは作物を期待できませんので、冬の備えの為に落穂を拾っています。どうか、哀れな女をお許しください。』

と深々と頭を下げました。

ビエナは中立国でありましたが、この村は主神教の文化が強い地域です。農民は異邦人や野山で撮る獣の為に、収穫の内2割はわざと取り零しておくのです。

『娘アンナよ、安心して落穂ひろいなさい。私はあなたを害すことはありません。主神の加護と心と奇跡の恵みがあなたにありますように。』

『また、あなたと共に…』



ふたりは静かにお祈りをしました。



『次の太陽の日に教会に来なさい。ミサの後、収穫のお祭りが始まります。作物の振る舞いや、次の作付けに用いる種を貰えるでしょう。』

『あなたの心に感謝します。』

と、アンナは落穂ひろいに戻り、ダニエルは踵を返して家路につきました。


その翌日、収穫のお祭りが始まりました。そのお祭りは9日間続きます。初日と7日目と最後の日は安息の日です。皆、実りに感謝して大いに楽しみます。

ダニエルはいつものようにミサでオルガンを引きました。ミサが終わると、神父と村長が出て来てお祭りの開催を宣言しました。

穫り入れが終わった田畑にたくさんの仮屋や屋台が並び、皆笑顔で楽しんでます。踊る男の人、歌を歌う村娘、駆け回る童たち、葡萄酒を飲んでうたた寝をするお爺さん、大鍋で料理を作る女将さんたち。このお祭では農民も、地主も、職人も、祭司も、貴族も、平民も、男も、女も、子供も、老人も、異邦人に至るまで皆分け隔て無く、全ての人が収穫の恵みを主神に感謝するのです。

ダニエルはすぐに家に帰ろうとしましたが

『ダニエルさんも踊りましょう。今年は逃しません。』

と、若くいつも陽気な大工職人のジェイコブスが溢れんばかりの満面の笑顔でダニエルの腕を掴み踊りの輪の中に入っていきました。

牧歌的な音楽の中、皆楽しそうに踊っています。ダニエルも不本意ながら踊りに参加しました。あまり踊った事もなく、普段から引き篭もり勝ちなので、すぐに息が切れてしまいそうです。

しばらくすると曲が変わりました。少しゆったりな音楽になり、皆さっきと違うステップを踏んでいます。男と女にそれぞれ別れ、おのおの好きな相手の手を取りました。

『あなたもいきなさい!』

と、ジェイコブスに強く背中を叩かれました。押し出されたダニエルの目の前には、驚いた顔をしたアンナがいました。


アンナは少し顔を赤らめながら

『私と踊って下さいますか?』

とダニエルに尋ねました。

『はい、喜んで。』

とダニエルは答えました。



ふたりは静かに手を重ね合わせました。その瞬間に、時間が緩やかになる感覚を覚え、彼女から目を離せなくなりました。ふたりだけの時間の中で見つめ合ったまま、ゆっくりとステップを踏んでいきます。


アンナのそよ風に揺らめく黒い髪


アンナの美しい真珠のような灰瞳


アンナの桜色の唇


手から伝わる温もりに幸福を覚えました。



別人の筈なのに…


















アンジと一緒にいる時のようです。

















瞳と髪の色は違いますが、その表情や仕草があまりにもアンジにそっくりなのです。

ダニエルはもしアンジと結ばれていたならば、もし愛してくれたなら、きっとこの様に踊ることが出来ただろうと、そう思いました。

目の前の娘はアンジの顔で、アンジの仕草で笑います。ダニエルにはそれが夢を見ている様に感じました。


踊が終わって、ダニエルはワインを飲み、大いに酔ったので眠ってしまいました。アンナはそれを見て、ダニエルに声を掛け揺さぶりますが、彼はうつらうつらしていて頼りのない返事をするばかりです。風邪を引くと思ったので、アンナは大工ジェイコブスにダニエルの家を聞き、彼の体を支えて彼の家まで送っていきました。

家に着き、ダニエルをベッドに寝かせて毛布をかけました。アンナが立ち去ろうとした時

『アンジ…アンジ…なぜあなたは…』

と、ダニエルはアンナのエプロンを握りしめて啜り泣いています。過去にあった辛い夢を見ているのです。

『ダニエルさん…アンジはここにいます。アンジはあなた様のそばにいます。』

アンナはダニエルの手を左手で握り、彼の頬に右手を添えて涙を優しく拭いました。

‘‘愛しい子よ、お眠りなさい

月は高く、星は微笑み

あなたを夢に連れ去るでしょう

おやすみ、おやすみ、愛しい子よ

明日は、明日は、きっと

やさしいから”

アンナはダニエルのために囁くように子守唄を歌い、彼が眠るまで頬を撫で続けました。アンナの目は優しさと慈しみに溢れていました。

『私は影に過ぎません。もし神様が見逃して下さるのなら、今だけ…どうか今だけはアンジでいさせて下さい…』

とアンナは小さく呟きました。





次の朝、ダニエルは自分の家のベッドで眠っていました。目が覚めると、台所からパンの焼ける良い匂いと歌が聴こえてきます。

『お目覚めになりましたか?今、朝食にします。もう少しお待ちください。』

ダニエルが台所に行くとアンナがそう話しかけました。

『なぜあなたがここに居るのですか?』

『ワインを飲み、大いに酔った様子でしたので、私が体を支えここに連れました。それで私も休ませてもらいました。それから散らかっていたので、お掃除と、起きた時に食べるパンを…』

ダニエルは恥ずかしさから顔が熱くなりました。

『そうですか。それは恥ずかしい所を…』

『こちらこそ、余計なことをしてごめんなさい。 …さあ、パンが焼けました。お食べ下さい。私はこれで…』

と、アンナは去ろうとしました。

『待ちなさい。あなたも一緒に食べてはくれませんか?』

『ですが…』

『一緒に食べてくれると嬉しいのです。誰かと食べるのは久しぶりですから。』

『はい…ではご一緒させていただきます。』

少しためらいながらアンナは食卓に着きました。

『主神よ、天の王様よ、日ごとのパンに感謝します。日ごとの平和に感謝します。あなたの名前に栄光がありますように...』

『そうあれかし…』

お祈りを済まし、ふたりはパンを口に運んだ。




それから、アンナはダニエルの家に顔を出し、不摂生な彼の生活の世話をする様になった。ふたりは毎日のように顔を合わせました。

ダニエルはアンナと過ごす内に、安らぎを覚えました。アンジの様に辛く当たられたり、物を投げつけられたりしないのです。アンナはとても優しく、穏やかな女性でした。理想を鏡に映したようです。

しかし、彼女が帰ったその夜は、アンジとのことを覚え、また、彼女に捨てられた時の惨めな思いを思い出し、ワインを飲み酔い、啜り泣いてしまいます。アンナの存在が嬉しくあり、また悲しいのです。


また不可解な事がありました。アンナは新月の夜には顔を出す事なく、そして何処にもいないのです。



そして、月日は流れて冬の終わりの事、その日ダニエルは書斎にて二日酔いで酩酊していた折、何時ものようにアンナが尋ねてきました。

『ダニエルさん…大丈夫ですか?』

『アンナ…』

『さあ、お身体を悪くしますから、こちらにいらして下さい。』

彼女はそっと背中に手を添えました。

『アンナ…どうして、あなたは私に優しくするのですか?』

『ダニエルさんが心配だからです。』

『あなたは、髪と瞳が違いますが昔、私が愛したアンジという女性にそっくりなのです。私はアンジを心から愛していました。ですが、裏切られてしまいました。あなたに会うたびににその方を思い出して辛いのです。ですから、もう私に優しくしないで下さい。私は酷い男です。あなたのその優しさを辛いと思ってしまうのですから。』

アンナは目の端に涙を溜めて、言葉を聞いていました。

『ダニエルさん…あなたは誰よりもお優しい方です。私こそ、酷い女なのです。私は、ダニエルさんにずっと黙っていた事があります。もし、聞いてくださるのなら次の太陽の日の日暮れに教会の礼拝堂でお話しします。』

そう言うと、アンナはダニエルの家を出て行ってしまいました。






明る太陽の日。


ダニエルは日暮れの礼拝堂にて待つ間、暇なのでフルートで賛美歌を奏でながらアンナを待ちました。

日が傾きかけた頃、ギィィ…ときしむ教会の扉を開けてアンナが礼拝堂に入ってきました。

『…本当に素晴らしい音色です。』

『ありがとう。それで、私に話とはなんですか?』

『今日は新月です。もう少しで太陽が西の空に沈みます…』

すると、アンナの体が紫色の光に包まれて、黒い霧のような、靄のようなものが彼女を覆い尽くしました。

ダニエルは驚き、立って見守ることしか出来ません。

太陽が完全に西の空に沈んだ頃、アンナを包む黒い霧は消えてなくなりました。

『これが私の本当の姿です。幻滅しましたか……?』

ダニエルの目の前には、年の頃は14.5歳の飾りの無い黒いドレスを着て、艶のある長い黒髪で三つ編みで纏めた少女が立っていた。

『あなたは、あなたは誰なのですか?』

ダニエルが驚きながら尋ねます。

『私は、アンナです。いえ…アンナと呼ばれていた者です。』

『あなたは、魔物なのですか?』

『はい…私はドッペルゲンガーという影の魔物娘です。あなた様の、アンジという人間の娘を愛する強い心とその哀しみによって私が産まれました…』

アンナはダニエルの尋ねる事に一つ一つその小さな声で答えていきます。

『何故…何故、あなたはアンジの姿になったのですか?』

『アンジになり、あなた様に近づく為に…』

『では何故、瞳と髪の色を変えて、そして名前をアンジと名乗らなかったのですか?』

『あなた様にアンジの姿で初めてお会いした時、言葉に言い表せない‘‘怖い”という感情があなた様の目に浮かびました。私は咄嗟に髪と瞳の色を私自身のものに変えて、名前をアンナと名乗りました。』

『何故…あなたは私に正体を明かすのですか?』

『…私はあなた様の影から産まれました。あなた様を愛する為に産まれてきました。ですが…あなた様を悲しませる為に生まれたのではありません。…ですから、映し身が使えなくなる新月の夜に私はアンジを辞めるのです。』

すると少女は蝋燭の光を鈍く反射する短剣を取り出し、ダニエルに渡しました

『…儀礼による祝福を受けた短剣です。それで私を消して下さい。あなた様は苦しみから自由になれます。それに…私は魔物で、あなた様は敬虔な主神教の信徒なのですから…』

少女は祈るように手を合わせ後ろを向いて膝をつき、結んだ髪を捲り、首を晒しました。


ダニエルは震える手で硬く短剣を握りました。

そして…























ガラン……!!!















短剣を投げ捨てると、ダニエルは少女のひどく小さな背中を優しく抱き締めました。一瞬、震えるように少女が身体を強張らせます。

『…あなたは、私の望んだアンジとの夢を、たとえ、ひと時だったとしても、たとえ、仮初めだったとしても、叶えてくれたのです。過去に囚われてワインに逃げて辛い思いをするのは、私の心のせいです。確かに辛い思いをしました。ですが、あなたと過ごした月日に私は救われたのですよ?』

少女は声をしゃくりあげ、堰き止められていた涙を滝のように流しています。

『私はあなたを憎んではいないのです。ですから消えるなどと言うのはおよしなさい。』

少女は堰き止められたダニエルの腕をその震える小さな手で硬く握りました。

『憎んでも…恨んでも良いのですよ?あなた様は優しすぎます…私があなた様に触れるたびに…アンジとの記憶が…私の中に流れて込んで来ました……あなた様の優しさと愛を一身に受けながら、裏切り、そのまごころを無下にしたその娘が私は妬ましいのです。』

ダニエルは少女の言葉を黙って、頷きながら聞いています。

『……私はあなた様に愛されなくても良いのです。あの娘の替わりでも、影でも、構わないのです。私はあなた様を……愛しています。ただ、それだけで……』

ダニエルは少女をきつく抱き締めました。

『あなたを…私は知らないうちに傷つけていたようです。本当に私は酷い男です。ごめんなさい…』


この場所には、抱き合うふたりの小さくすすり泣く音が聞こえるだけでした。



『私はあなたの本当の名前を知りません。教えてくれませんか?』

と少女とダニエルがそう少女に尋ねると、少女は哀しそうに笑いました。

『影に名前はないのです。ですから、気にしないで下さい。』

『では、これからはアンナと言う名があなたの名前です。他の誰ではなく、あなた自身になって下さい。』

ダニエルはアンナと向い合い、額にそっと祝福なキスをしました。

『あなたはアンナ。』

『あなた様…』

『私は失うのが怖かったのです。大切なものを無くすまいと、作るまいと拒み続けました。隣人の事、過去の事、あなたの事、そして未来の事。…ですが、このような私にも大切に思ってくれる者がいる。私はそれだけで幸せなのです。そのような方を愛さずにはいられ無いのです。ですから、ずっとずっと、私の側にいてくれませんか?』

『私は…アンジのように美しくはありません。…地味で、臆病で、小さいものです。』

『私は、アンジではなく、今の、本当の姿のあなたが…アンナが良いのです。優しく、しとやかで、思いやりのあるあなたが。』

『はい……』

アンナはようやく微笑んでくれました。その笑顔を見た時、ダニエルは何よりも美しく尊いものだと思いました。

『私ダニエル・グレイは、娘アンナを妻とし、健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみのときも、富める時も、貧しき時も、これを愛し、敬い、慰め、助け、この命ある限り、まごころを尽くすことを誓います。』

『私…アンナは、ダニエル・グレイを夫とし、健やかなる時も…病める時も…喜びの時も…悲しみのときも…富める時も…貧しき時も…これを愛し、敬い、慰め、助け…この命ある限り…まごころを尽くすことを…誓います。』

ダニエルはいつか、アンナがしてくれたように、アンナの涙を指で優しく拭いました。


『『死が2人を別つまで……』』


2人は誓いの口付けを交わしました。

小さな教会の、小さな礼拝堂の、小さな2人を幾つかの蝋燭の火が優しく、彼らを照らしていました。



ダニエルはアンナを自分の家に連れ帰りました。寝室の衣紋掛けには2人の衣がかかっています。

机の上のひどく頼りないランプの小さな灯りが、アンナを照らしていました。白くてキメの細かい滑らかな肌、華奢な体つき、長い三つ編みの黒髪、控えめな胸、細い首、前髪で隠れた目、うつむいたその顔はほのかに熱を帯び、頬は桜色に染まっていました。

『アンナよ…どうか顔を上げて下さい。』

『はい…』

ダニエルはアンナの髪を解き、前髪を分けて、隠れていたアンナの顔を出しました。

『あなたは、こんなにも美しいではありませんか。どうか、ずっと私に見せて下さい。』

アンナは顔をさらに赤くしました。ダニエルは愛しいアンナを抱き締めました。生まれたままの姿で抱き合うふたり。心臓の音が聞こえてくるばかりです。

ちゅ…ちゅ…

何処からとなく、唇を合わせました。啄むように、やがてお互いの舌と舌を絡ませ合う淫らなものへと進んでいきます。

ダニエルはアンナを抱えて寝台に押し倒しました。

『アンナ…』

『はい…私はあなた様のものです。お好きな様になさってください…』

ダニエルは自身の分身をアンナの秘所にあてがいました。アンナなそこは濡れそぼっていて今か今かと、ダニエルを待ち望んでいました。

『うっ…』

『いっ…ぁ…』

ゆっくりと、ゆっくりと腰を沈めていきます。奥へと進んで行くと、そこには壁の様な所へと突き当たりました。ダニエルとアンナは本能でそれが何かを理解しました。

『アンナ…愛しています。』

ダニエルはアンナの額にキスをしました。

『はい…ぃぃぃあ!』

肉を割く様な音がふたりに響きました。アンナは涙を流しています。

『アンナ…大丈夫ですか?』

『大丈夫です…私は…あなた様のものになれて、嬉しいです…さぁ、来てください。』

ダニエルはさらにアンナの奥へと進んでいきます。そして、最奥へとたどり着きました。

それは、光と影が一つになったようでした。ダニエルは自分の中に空いた暗い穴が満たされていく感覚を覚えました。アンナは一つになれた喜びに身を浸しています。

やがて、慣れてきたのかぎこちない動きでしたが、腰を動かしました。

その度にアンナは鳩の鳴くような声を上げます。

心臓の音が徐々に早くなっていくように、ふたりのそれもまた同じでした。

『アンナ!アンナ!!アンナ!!!』

『あなた様!!あなた様!!…アンナは愛しております!!』

『もう、果ててしまう!!』

『きて!…きて下さい!…あなた様のアンナに下さい!』






『『ーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!』』






あとには、ふたりの穏やかな息遣いが聞こえてくるばかりでした。

愛しい人と優しさを持ち寄り、身体を寄せ合って、睦み合う。これ程幸せな事があるでしょうか?


ふたりは目を閉じて抱きしめ合いました。


唇を合わせ


お互いがここに居ることを喜び


愛を囁き合い


尊重し


限りない慈しみを持ち


そして愛し合うのです。











こうして、ダニエルとアンナは夫婦の契りをかわしました。今やダニエルの心にあった嘆きの壁はありません。

ダニエルはアンナと毎日のように交わり、その結果、アンナと同じように歳を取らなくなったので、長い長い旅に出る事にしました。

アンナはもう、映し身を使う事は出来ません。なぜならダニエルの最愛の人は、本当の姿のアンナです。ですから、彼女は他の誰にもなれないのです。

ふたりは少しの財産と、仕事道具のペンと楽譜。前より少しだけ大きな馬車にクラビアと2人分の荷物と幸せを詰め込んで、長い長いハネムーンに出掛けます。

ダニエルとアンナは主神教を信じ続けました。

と、いうよりは

平和と愛を願う主神教の教えと人々の心を信じる事にしました。

ですから、朝起きた時、夜眠る時、毎日の食事の時、欠かさずにお祈りをします。

ダニエルは美しいアンナと共に旅の先々でオルガン引きとして、フルート吹きとして、旅の音楽教師として、長い月日を沢山の場所で活躍しました。彼の教えた生徒は皆、素晴らしい音楽家になったそうです。

ダニエルの作った音楽は時を超え、海を渡り、沢山の人に愛されました。



西の大陸にはダニエル・グレイという、傍に黒い淑女を連れた、何百年も美しい曲を作り続ける作曲家がいるそうな…


その話はまた別の機会に…




『『主神よ、天の王様よ、日ごとのパンに感謝します。日ごとの平和に感謝します。あなたの名前に愛と慈しみがありますように』』




『『そうあれかし』』。







終わり
17/04/16 21:00更新 / francois

■作者メッセージ
今回はドッペルゲンガーのお話です。前作品、時忘れの歌のキャラクターがちゃっかり登場しています。ちなみに名前だけ登場したジェンキンスはお父さんの方です。

昔話風です。…なのですが、話す言葉や描写やら何処かの宗教の聖典みたいになってしまいました。いやはやすみません。芸術の他には音楽が好きですので、私の作品には音楽家率結構高めですね。これもすみません。

ドッペルたんに惚れてこの作品を書かせていただきました。ドッペルたんは元になった人物の影響モロに受けそうなので、敬虔な所はダニエル氏譲りということで…。神様に祈る魔物娘がいてもいーじゃない?ということで書きなぐりました。

お楽しみいただけましたら、嬉しく思います。


ではまた U・x・Uつ

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