連載小説
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『"珈琲茶屋・猫ノ鈴"にてコーヒーブレイク』
『"珈琲茶屋・猫ノ鈴"にてコーヒーブレイク』

……女体盛りとは、読んで字の如く一糸纏わぬ女性の体に食事を乗せる、言わば女体を皿に見立てた芸術である。
たかだか皿と侮ること無かれ。盛り付けは料理のランクを何段も上げるものよ。銀のボウルやバットの上に乱雑に盛られた魔界豚の最高級ステーキセットよりも、陶器のお椀になんてことはない白米、木のお椀に一般的なソイスープ、陶器の長方形の皿に焼き秋刀魚と薬味、小鉢に菜っ葉の和え物……といった粗食の方が極上に見えるでしょうし、味も上々でしょう。
さながら布を一枚一枚はぎ取るかのように、極上の皿から料理を取り分ける、欲望のたぎりに満ちた男達。さながら霧の大陸妖狐最強伝説の一環『酒池肉林』の局地化。肉欲と食欲が交差する見事な欲望に満ちた空間、至福の桃源郷。昔のハンスなら全力で喜ぶわね。
そりゃあ魔物娘ですもの。こういう『私も食べて!性的な意味で!』に焦がれるのも仕方ないでしょうさ。だから翻訳されたりしているわけで……何か所々クノイチアトモスフィアが拭えない文章があるんだけど大丈夫なのかしらこの本。
話がずれた。そうした嗜好も、文化も、あるんだよ。なんて事実は九重に承知の上で、でも私は声を極小にしてでも言いたい。

「……ないわー……やっぱしないわー……」

ジパングの書店にまさか入っているとは思わなかった『オッペケ十二世の華麗なる晩餐:ジパング語訳版』を棚に戻しつつ、私は改めて呟いた。うん、やっぱり存在は認めるけど個人的にこの盛り方はないわー。
確かにグラキエスや雪女の特性を考えれば刺身盛りは出来るでしょうし、ラーヴァゴーレムの熱ならレアでも口でとろけるレベルで美味しく出来るでしょうさ。でもやっぱり個人的には皿に女体を使うのはナンセンスだわー。この件に関してはシプール御姉様と共闘できるレベルね。礼儀と規律を重んじる御姉様からすれば眩暈物でしょう。
前魔王時代と現魔王時代のどっちのそれも経験したサフィは、それはそれで美味しいものだって私を誘うけど今のところ断っている。尤もこの場合、自分の流儀云々よりも前に、宣伝方法に問題があるのは確かだ。
正直彼女は誘い文句を少しは変えるなりすべき。最低でも実例に前魔王時代との比較を出すのは止めないと駄目でしょう。女体に塗り広げられたソースごと女体を味わう(物理的)時代よりマシって、その誘い方じゃマーチヘアーも一瞬性欲を忘れて固まるわよ。
『はぁ……マッドハッターの股間や燕尾服にもグレービーソースをかけてしゃぶりたい……』
駄目だこの変態リッチ早く何とかしないと変な同調者が出てしまう。いや、もう遅いか……。
まぁ確かにあの燕尾服、切り取って乾燥させるといい出汁が取れる(魔物にとっての)珍味になるしねぇ……しかも新調したときに脱ぐお古のもの程良いって……つくづく思うけどやっぱりあの女王様凄い。私とは別ベクトルで魔力を全力で明後日の方向に使っている……。
『オッペケ十二世の華麗なる晩餐:ジパング語訳版』を書店のそれに仕舞うと、私はジパング御伽話を一つ買って、書店を出て左に曲がった。足を傷つける砂利が適度に退けられた整備された土を通橋に向けて歩いていくと、右手には南小橋に向けての通りが見える。この先にあるのが、嘗ての花魁華の町、遊廓。
時代の変化と共に遊廓お取り潰しが決定、今では屋敷が文化財、とはね。決定したのはオブギョウさん?それともまた別の誰か?まぁいずれにしても……妖狐の魔力の特徴からすれば、交わりに関してはさしたる影響はなさそうね。モスマンも驚きの淫欲祭を、自前の魔力でいっつも開けるからねぇ。
で、問題になるのが職を失うってことなんだけど……それは安芸さんの御友人である"最後の花魁"が色々チョメチョメ融通したらしい。今ではその花魁、宵乃宮一の富豪らしいからねぇ。一度お目にかかって……いや、いいか。噂では青姦趣味らしいから多分どっかで見られるんでしょうし。にしても地図を貰ったけど手持ちの土地えらく広いわね。デルフィニウムの屋敷部分が下手したら霞むんじゃないかしら。
そう、私は今何度目かの宵乃宮に訪れている。それも、いつの間にか着いてきた何匹かの狐玉と一緒に。
前回か前々回か、その辺りに宵乃宮に訪れたときに、勝手に鞄の中に入っていたらしいこの生き物は、オヂヤさんや安芸さんに尋ねたところ、どうやらジパングの畑に生息する益獣のようで、畑の土を整えてくれるらしい。実際肥料等の位置を教えたら勝手に持ち出して整備してくれたりする。折角なのでソイビーンズの畑を任せたら目を輝かせて尽力してくれたわね。
おかげで魔女達の導入研修にいい場所が出来たわー感謝感謝。気付いたら増えたりコロコロと集団で踊っていたりしているけどね。
で、何匹か狐火出しまくったのが着いてきたわけだけど……テンション上昇凄いわね。まさか来て早々狐火が一人出来ちゃって一体消えちゃうとは思わなかったわ。それに構わずコロコロと踊る狐玉を引き連れる女性……間違いなく珍妙よね。寧ろ狐玉自体が珍妙な生き物よね……いつの間にか増えたりしているし。
話を戻すとしましょう。通り橋を超えるとそこは東町。開発の手が入ると噂の南北の町とは違い、まだ古き良きというか親しみある空間が出来ている。
「……って」
またセクハラしているのかあの黒稲荷。今度は少しハイカラな女中さんかな?『トリコロミール』のウエイトレス服をジパナイズ(ジパング風に)した格好……とはいえ、まだお淑やかさというか慎ましさとかが見えるのはこちらの良心かしら。ワビサビとでも言うのかしらね。
「アさて♪さて♪さては南京玉簾♪」
向こうではドットの頭巾を被った中年くらいの男性が手に細い木を何本も縫い合わせた何かを手に満面の笑みで大道芸を行っている。口振りからするに、あれがタマスダレというものらしい。
「ちょいと捻ればジパング旗♪ア、ちょいと捻れば九尾狐♪」
へぇ……手元で色々こねこねするとタマスダレが形を変えてそれを再現するのねぇ。子供が「ママ、アレ買って!」というお決まりの文句を耳にしつつ……あ、あの時のカブキモノの皆さんが普通に警邏として働いてる。
「『六尾印の団子屋』の団子を一緒に食べたら、結ばれる確率が高くなるのよ!」
「えー、それって迷信でしょー?」
思春期真っ盛りのガールズトーク。私としても後者に賛成したいところ。きっと六尾→むつび→睦び、という洒落から来ているはず。でもそれでも、そんな浪漫があるって素敵じゃないかしら。それとも六尾だから、狐火でも発生しているのかしら。……この領だと、あり得ないと言えないのが恐ろしいわよね。
狐玉はこの土地の狐玉と意気投合したり踊ったりしている。異文化交流……なのかしら。言葉は分からないのだけど、きっとそうなんでしょう、うん。
と、掲示板があったわ。何々……。
『あのクノイチ一族"瀧"からの挑戦状!幾つもの課題を抜け見事免許皆伝を目指せ!来たれ挑戦者!――瀧忍者屋敷』……これはアトラクションの宣伝ね。へぇ、面白そうじゃない。初級〜免許皆伝まであるみたいだけど……裏、無いわよね?
『寿司早食い大会(山葵有り)
ただいまの最大記録
三桶の部:白田ソネ(女) 21:12
五桶の部:赤城大和(男) 35:13
稲荷十桶の部:尾州玉緒(女) 10:24

番外
山葵寿司早食い対決(一桶)
五割の部:辛島ナヲト(女) 27:19
十割の部:長門武須乃新(男) 12:35』……まぁ風物よね。というか稲荷寿司十桶を10分で食べるのって色々と有り得なくないですか……怖いわー一桶一分ペースとか怖いわー。
『巷を騒がせる浄魔論:人撰組にご注意を』ね、これもまぁ仕方ないことなのかしら。私達だって人間に攻められたら多少は反撃するもの。勿論殺す訳じゃないわ。ただちょっと味わってもらうだけ……うふふ……。
「……っと、もうこんな時間か」
早く行かないと安芸さんの顔を潰すことになるわね。というわけで私は、次の角を左に曲がることにした。
「コヤッ♪(→)コヤッ♪(←)コヤヤヤッ♪(右回転)」
「コヤッ♪(←)コヤッ♪(→)コヤヤヤッ♪(左回転)」
その後ろを、狐玉達がコロコロと転がりながらついて行く。いや、踊りながら着いてきている。楽しそうではあるんだけど、視線が非常に気になるわね……。

――――――

「――ねぇ、ナーラ。水出し珈琲って知ってる?」
そんな異次元に繋がる映像媒体装置が出てきそうな一文で始まる招待状を送ってきたのは、宵乃宮にて『狐路』を構える妖狐シェフ、安芸さん。初めて薬膳を口にしてから、一体何度訪れたことやら。
そんなわけですっかり良好な関係を築いている私達は、定期的に情報交換したりといった交流を続けている。今回の安芸さんの招待状も、そうした交流の一つだ。
はて、水出し珈琲とは何だったかしら。珈琲は普通に口にするけれど、水出しと名が付く物を口にした覚えはない。つか初めて聞いた……いや、初めてじゃない。アルスが以前リオミーゴで話していたわ。曰く「一皮剥けて、"らしく"なったコーヒー」とのこと。
『先行予約を貰ったVIPにしか出せない代物なんだけどね、そのVIPが「これなくして豊かな人生など有り得ぬ」と頬を綻ばせるほどに美味しいんだ。僕も一回頂いたんだけど……普段飲む珈琲の味は何だったんだろうってなるよ。ただ、非常に時間は掛かるんだけどね……』
そんな「一皮剥けたいい珈琲」を出すお店を、今回紹介して貰ったのだ。え?説明して貰ってまだ口にしていないのですって?アルスによるクレセントメアショーを使った高級料理や、デビルフィッシュダンピングウィズケルプアンドボニートスープ……あーはいはいたこ焼きを昆布と鰹の出汁に付けてる料理を食べに来ていたついでの話だし、そもそもVIPのための代物を私が横取りしちゃいかんでしょ。予約無しで作れないのなら、当分後でいいって事になったのよね。
まぁいいわ。この(ハートの女王宛巨大ロリポップを作る作業から解放された)折角の機会だもの。どんなものか一度口にしてみましょうか!

――――――

「さぁさ!張ったはった!丁か半か、好きなモンを選びねい!」
「退いた退いたぁっ!けが人のお通りでぇいっ!」
「まっこと、おやかましうございます〜♪」
「ちくわ大明神」
「コヤヤッ♪」
「号外!号外〜!異人の文筆家『接木留納(つぎきるな)』の書いた『花魁の涙、宵の瑠璃』がついにお国言葉で発売だ!初版には非売品の『初恋歌』がついて、お値段は変わらずだ!さぁ一ついかがかな!」
「はい、ママ。プレゼント♪」
「まぁ……!?ありがとう……!」
……うん、一本入ったら凄まじく騒がしいわ。活気があるのか分からないけど、何か謎の存在も混ざっていたし。
町歩く人の中に、仄かに大陸風の服も増えたかしらね。何というか、緩やかに混ざった感じかしら?お母様が一度『ホルスタウロス品評会』ついでにアラクネとリャナンシーを連れてきて文化交流を催したのがこうして芽吹くとはねぇ……しみじみ。
後は大通りの瓦斯灯ならぬ魔力灯。発散しやすい妖狐の魔力を吸い寄せて貯め、外の明かりに合わせて発光するなんて……あぁ、そう言えば技術特許を結びにジョイレインから道化公が直々に来ていたわね。あそこの魔導具技術は周辺諸領の中でも頭一つ抜けているしねぇ。その技術の無駄遣いも妙に多いけど。
「……とはいえ、この通りはそうそう変わらないかもね」
長屋がずらりと建ち並び、耳を澄ますと生活の音が確かに聞こえるこの場所が変わるとしたら、天災か人災か魔災か何かで住宅が広範囲に渡って壊れたりしたときか、あるいは再開発を徹底してやろうという時かしら。
「はてさて、どうなることやら……と」
ようやく向こうの通りに出ると、そこは大陸風の建物がそこかしこに並ぶ不思議な通りだった。古来ゆかしき長屋の一部を大陸風にしてみたという表現が合っているかしらね。まず形から入ろうとしているのかしら。
……路地をのぞき込んだらその中に一つ、違和感があまりないモノがあった。"珈琲茶屋・猫ノ鈴"と書かれた立て看板に、"鈴ノ猫"と記された暖簾がどこか情緒的な店だ。
店の前では一人、バーテンダー姿のネコマタが箒で店の前の葉を掃いている。私は安芸さんから頂いた招待状の住所、及び店の簡単な情報を見直して……確かにここだと確認した。猫又のバーテンダーという和洋折衷の代物が店の前で掃除する風景に周りの人が好奇の視線を投げかけないのは、多分もう慣れっこだからなのかもしれない。町の風景の一つとして、認識されるのは良い事よね。
というわけで……。

「失礼します。鈴歌さんで宜しいですか?」

「はい。私は鈴歌ですが……あ、はい!ナーラ様ですね!お待ちしておりました!どうぞ中へいらして下さい!」
話しかけられて戸惑ったようだったけど、差し出した招待状で合点がいったらしい。丁寧に頭を下げ、店舗の札を『貸切中』に変更し、その戸を横にスライドさせる。あぁ、流石に前開き後ろ開きは無かったか。長屋だし仕方ないわ……ね……?

戸を開いた瞬間、店に立ちこめる上質な洋モクの香りと、それを旨く溶け込ませた珈琲のフレーバーが、私の心を一瞬にして異世界へと引きずり込んだ。
戸を境界として、中に広がるのは紛れもなく私達大陸の世界。防腐加工を施された焦げ茶の床に壁は、それでもなお呼吸を止めないのか歴史を主張しているのか、優しい木の香りと共に染み着いた珈琲のそれを吐き出している。濃いキャメルを思わせる色彩のカウンターの前には、恐らくまだジパングでは珍しいだろう丸椅子が六つ。そしてカウンターの向こうにはガラスケースに入った沢山の種類の珈琲豆に、恐らく上物の蓄音機が所狭しと並んでいる。DJ垂涎物と思われるから、今度連れて行こうかしら。
店主の鈴歌さんが慣れた手付きで蓄音機を起動させると、そこから響くのは、ほんの少し割れたピアノの音とまるでテノールのように歌い上げるヴィオラの声。ゆったりと時を過ごすかのように、拍子線を跨いでコントラバスのピッツィカートがスキャットを奏でる。珈琲とジャズはよく似合うわ。渋い魅力、って奴かしら。
そのまま手慣れた動きで各種の機材をチェックしていく。彼女の手が、機械に、空間に命を吹き込んでいるかのようだ。
「……」
店の前で圧倒されている私を前に、喫茶店のオーナーはそのまま一礼したのだった。

「ナーラ様、いらっしゃいませ。ようこそ、"珈琲茶屋・猫ノ鈴"へ。予約いただきました水出し珈琲をお持ちいたしますので、カウンター席に着いて少々お待ち下さいませ」

「……あ、はい」
促されるままに私は席に着き、そのまま店舗を眺める。小さい。これは小さいわ。多分今まで私が行ったことがある店舗の中でも断トツにこぢんまりとしている。何せ座席は六つ。その全てがカウンター。後ろには片手間に読む書物が入っているシェルフ。移動スペースは互いに確保されているとはいえ、相当小規模な店であることは確かだわ。
少し形の変わった陶器、底には洗ってもなおこびり付く灰が見える。煙草OKなのね、この店。兎に角ゆったりとした空間を作ろうとしているのかもしれない。でも目の前で吸われるのはのーせんきう。
かち、かち、かち。普段は正確に時を刻む時計の針の音が、妙にゆったりに感じられたりする。しばし、微睡みそうな程に優しいピアノの音に耳を傾けていよう……。
「……お」
曲が変わった。これは有名な奴ね。確か"DJ"がハンスに貰った【外の世界で有名なミュージカル】の一曲……のジャズアレンジね。数多くの名曲が産まれたと外の世界では誉れ高いそのミュージカルは、機会があれば見てみたいかしら。"DJ"は既にハンスに……いや、今はランちゃんにおねだりしているかしら。
ハンス……そうね。霧の大陸でも元気にしているわよね……ん?あ。

「……お」

この珈琲の香りに満たされた空気の中でも、一際強く輝くそれ……まるで雲間から射す日の鋭さと年期を経た師の持つ落ち着きを併せ持つ、別格の芳香……これは間違いないわね。
見ると、大陸では一般的な珈琲カップ(サイズは大人の掌くらい)を和風の盆に乗せたバーテンダー、鈴歌がカウンターの前に立ち、私に向けてことり、とそれを差し出した。

「お待たせいたしました。御予約いただきました、"水出し珈琲"です。是非砂糖もミルクも使わず、ご賞味下さい♪」

「ほう……」
ブラック推奨とはねぇ、と私は幽かに波打つ珈琲の水面を眺めながら笑顔を見せる。
知りたがりフェアリーが苦みに顔を歪め、悪戯好きピクシーがその後ろでほくそ笑み、背伸びのインプが失敗し、おませなデビルが一口舐めてからこっそり魔法で加糖するのが魔界での珈琲のブラックの扱いだったりする。よく訓練されているデーモンの場合はそのままゆったりと飲み干しちゃうけどね。
本当はお豆の一つでも欲しいところだけど、多分置くだけで下半身ずぶ濡れになる娘とか口の中で転がしたりついばんだりしながらじわり濡らしちゃう娘とか居るから置き辛いんだろうなー。ええ、普段のハンスがそんな感じよ。……って、そんな娘はそもそも店に入る時点で沢山のお豆に囲まれるシチュだけで逝くか。
……さて、そんな猥談的妄想はさておくとして。

「……いただきます」

この珈琲は味わって飲むもの。私の五感というか本能がそれを訴えているわ。である以上は私の最大の礼を以て向き合おう。これ、魔界銀貨一枚ですら買えなくなった温もり、あったかい缶珈琲(デビルズサンクチュアリの皆さんによって自動販売機の試作品が魔王城の休憩室に置いてあるのよね。最初は魔界銀貨一枚で買えたのに、いつの間にか値上げされていたわ……刑部狸の仕業らしい。むぅ)と同じようにパッと買ってガッと飲んじゃいけないと思ったのよ。
カップの取っ手に指を通し、ゆっくりと持ち上げる。珈琲の成分が行き渡った液体の重みがずしり、と私の指に乗る。心地のいい重量感に綻ぶ唇。そのまま私はカップの縁に口付けをし、どこまでも澄んだ深い黒の液体を、そっと、口にした。

「――」

……成る程。これは"一皮剥けた"と表現するのも分かるわ。
深い。そして広い。舌先の大海原に落ちた漆黒の甘露が、味蕾全てに波を広げていく。起点となるのは、珈琲豆の持つ苦み。けれどその苦みすら、なんて心地が良いことか。
例えるなら朝焼けの穏やかな光、例えるならば愛する人の頬へのチーク。少し刺激的で、それでいて慈愛に溢れていて、でもあっさりで……それでいて余韻はしっかりと残していく。微睡みの私に輪郭を与えてくれるのは、先程も述べた苦み。
でもただ苦いだけじゃない。例えるなら紳士的なライバル兼師匠役。余裕を持った柔和な態度でそっと到るべき先へとエスコートしていく。
余韻は、モカ。眠り姫を醒ます口付けを受けた後のような、そこはかとなく満たされる、現実というステージに夢から一歩踏み出したような感覚……。
「……」
この余韻が消え去らないようにもうしばらく夢の中で踊っていたいという思いも込めて、一口、また一口……。
香ばしい豆の風味。ただそれだけを抜き出した、至高の一杯。アルスのホテルのV.I.P.が「うむ……苦いな。だが、至高の朝にはこの淑女の如き苦みがよく似合う」と口にしたという話も満更嘘ではないわけね。
男性には淑女、女性には紳士。待つだけの甲斐があるってものよねぇ……。

「……ふぅ、ご馳走さ――」

カランカラリン
……綺麗な余韻を程良く保つような呼び鈴の音。あれ?ここ貸切じゃなかった?
「あ、ナーラ様、伝えるのを忘れておりました。本日、特別デザートが御座いましてですね、それも……どうぞ〜!」
鈴歌さんが平謝り序でに来客を呼ぶ。デザート?店に置いていなかったのかしら……と見回して、納得。あぁ、収納スペースから考えると客向けのは無茶か。倉庫も大半は珈琲向けだろうしねぇ。
戸が開かれると、其処にいたのは一人の矢のような形をした紋章が見られる袴を着た人間……のように見えるけど、その袴は明らかに防水性、寧ろ体がどこか透き通って……というかこの姿、明らかに見覚えがあるわけで。
「ディネさん?」
そう、安芸さんの店の闇妖精が一人、ウンディーネのディネさんだ。冬の時はちんまい姿だったけど、おっきくなるとなんとまぁお淑やかな大和撫子になるものだ。……いろいろと大きいけどね。私の声を受け、ディネさんはおひさしぶりですぅ〜、と一言、そのまま鈴歌さんの方へと近付いていく。
「遅れましたぁ〜」
「いえいえ、調度良い塩梅ですよ!問題ありません!」
挨拶もそこそこに、ディネさんは着物を少しはだけ、懐から何か取り出すような仕草をしている。幽かにぴちゃぴちゃ聞こえることを考えると、多分体の中で保存しているんだろう。体が天然の冷蔵庫って便利よねー。
果たして取り出されたのは、ちょっとお洒落な箱。例によって防水加工がされているらしく、弾く弾く。まるで箱が汗をかいているかのように綺麗な雫が浮かんでいる。
その箱の水分を拭き取り、蓋を開くと、かわいらしい、指で摘むサイズの色鮮やかなラングドシャ風味のお菓子。見間違えるはずもない。
「マカロン……」
まさかジパングで見ることになるとは思わなんだ。私の驚きをよそに、ディネさんは箱に入っていたマカロンの乗っかった皿を取りだし、私の前に音も立てずに置いたのだった。
「マスターが仕事が忙しくてぇ……なのでぇ、かわりにコチラのお菓子をお持ちいたしましたぁ♪」
あの店ってマカロンも作るんだ。チョコレートの円やかさといい、もしかしてジパング出身ではないのかしら?マカロンがジパングにやってきたとは思えないんだけど……。
とまぁ食文化事情は今は置いておきましょうか。改めて、彼女が持ってきたマカロンをしげしげと眺める。いつ見ても本当にカラフルだ。これで人工色彩使ってないから驚きよ。サフィだったらまず使うし。
白、ピンク、赤のクリームを緑色の生地でサンドしたもの、モカブラウン、薄紫、レモンにビリジアン、そして赤に黒……一つとして同じ物がないわね。それぞれ当然ながら味が違うわけで。何味かしら。
「有り難う御座います、ディネさん。ところでどれが何の味です?」
私の声を聞くや、待ってましたとばかりにディネさんが案の定間延びした喋り口で説明した。多分珈琲があったら温くなっていた所だろう。本当にナイスタイミング。
で、例によって説明ダイジェスト。
・白:和三盆を使用した素直系マカロン。仄かな甘み。プレーン。多分どんな飲料にも合うに違いない。
・ピンク:桃を使用した清純派小悪魔マカロン。白桃を丁寧に裏ごしして煮詰めて自然な甘みをプレゼントするらしい。
・緑と赤:夏と言えばコレ、という腕白いたずらっ子マカロン。安芸の遊び心。味は白、しかし僅かながら西瓜のフレーバーがするらしい。
・茶色:コーヒー(砂糖多目)味の、紳士の皮を被ったチャラ系マカロン。コーヒーとコーヒーがカブってしまった……みたいだけど大丈夫、問題ないわ。
・淡い紫:ブルーベリー味の文学少女系マカロン。仄かな酸味。青春の味。私に青春なんてあったかしら。
・レモン色:柑橘セットの小麦肌系マカロン。夏みかん、小夏、レモンのフレーバーがたまらない。味もしっかり甘酸っぱいらしい。こっちの青春の方がらしいか。
・深緑:抹茶風味の撫子系……抹茶!?高級なのか腕なのか、砂糖と違う抹茶の甘さあり……本当?私の記憶では抹茶自体は苦い代物だったはず。甘みが自然と出るものかしら……。
・赤:木苺の背伸び系マカロン。コーヒーの後にサッパリいかが?とは言っても既に飲み干しているけど。
・黒:黒ゴマ餡が練り込まれた霧大陸風神秘マカロン。安芸の渾身の一品。胡麻の油分が甘みになるからこれは期待ね。
と、九つ子大集合ね。さて、まずどれから手をつけようかしら、と考えていると、ことり、と別の皿が置かれる。先程とはまた違った、渋みのある香りだ。
「ナーラ様、こちらはサービスの珈琲です。流石に水出しには劣るかもしれませんが、梨花様はこの味を大変気に入っておられました」
「梨花様?」
「あぁ、失礼いたしました。梨花様は、私達の再就職先を斡旋して下さった方でして……」
「へぇ……再就職でこの腕、かなり上々じゃない」
きっと開店するまでにいろいろ苦労したのね……お姉さん、ちょっとホロリと来そうよ。梨花氏には感謝ね。
「鈴歌さん、元は梨花さんの付き人をやられていたんですよぉ〜」
「へぇ、付き人……付き人?」
あれ、何だろう。何かとんでもないところで何か繋がった気がする。付き人を付けるって事は……もしかして梨花って人、むっさ偉い人?で、そんな人に用意される付き人って事は、もしかして結構身分高い人なのかしら……?いやいや、他人の身分を推し量っちゃ駄目よ何してるの私。
そんな思考を進める私に、冷めてしまいますよと気遣いの一言を述べつつ、鈴歌さんは特に自慢する様子もなく淡々と告げた。

「はい、私は遊郭にて、"最後の花魁"梨花様の付き人をしておりました。茶道の心得があったのと、以前お客様に提供した際に好評でしたので、今はこうしてこの店を開いております」

――まさかのこの町一番の大富豪の直接的な付き人かい!何なのこの偶然性!いやー流石にこれは想定していないわー……でもこのそつなくホスピタリティ完備の立ち居振る舞いを考えれば、まぁ理解できなくはない、か。
おっと、そんな大切なものならば、冷めないうちに頂かなくちゃね。では早速一口……。

「……」

ほう、何というか、『甘さを含ませる余裕がある苦み』ね。かの有名なドーナツ好きのロックシンガー"エリー=ペイズリー"の逸話のように、珈琲にマカロンを浸して食べてみようかしら。
まずは白から普通に……ふぁすりっ……と。――あぁ、予想に違わないわね。素直で優しくて、シプール御姉様が頬を綻ばせて撫でそうな柔らかい味わい。舌先をさらっと撫でて、すっと溶けてしまう、誰でも受け入れられる純粋さがあるわね。最上級の砂糖を使っているのに、いや、使っているからこそ、見栄や嫌らしさが見られない、背伸び無し混じりけ無しの砂糖味。
ね、だからこそ染めたくなるわけで……。
「……ふふ♪」
私は珈琲をほんの少し口に含みながら、その余韻に真っ白なマカロンをそっと浸した。

「……♪」

これは良いわね。影を知ってそれでも白くあろうとする気高さすら覚えるわ。苦みによって甘みが増す、というよりも苦みが甘みを引き立てている?完全支援型の珈琲なのかしら。
人や魔物によっては嫌味になりえるそれだけど、私はこういうのも好きよ。
さぁて、次は……と。
「……やっぱ気になる抹茶からね」
何というか、これだけ趣が違うわ。苦くなく甘いとは聞いている。けれど、嘗て御姉様に礼儀作法の一環として口にした抹茶は……うん、苦かった、というか渋かった。
で、でもこのマカロンは退けている感じがしないし!お高く留まっている雰囲気ないし!というわけで……ゆっくり口に、と。
「……ふむ♪」
苦みはある……とはいえ、はんなりとした甘さも確かにあるわ。やっぱり外面と内面の違いが見られるのはいいわね♪
問題はその渋みがコーヒーに合うかなんだけど……。
「……あら、意外」
質の違う二つの苦味が独特なコクを産み出してるわね。淑女の知られざる一面を見た気がするわ。どんな相手もマイペースに持ち込みつつ、相手の良さも持ち上げる……非常に手練れね。
「ふむふむー……♪」
他の娘達は……まぁまぁ合ったのも居たとはいえ、基本的にはそのままの方がいい、というよりは紅茶の方が合う物が多かったかしらね。特に仄かな甘みと独特の酸味を持つ木苺のそれと……一番「これは違うわ」と思ったのはレモンね。
隠し味にジンジャーが入っているさわやか風味なそれは、珈琲の苦味とは剰り相性が良くなかったわ。逆に意外と相性が良かったのは珈琲と、なんと黒胡麻。あぁ、確かに油物と珈琲の相性は良かったわね。珈琲の苦味が、胡麻の持つ自然な油分に含まれる甘みをナイスに引き出してくれて……。
ゆっくり、そう、がっつくいつもに比べて相当のスローペースで口にしている。一口一口、食べる時間自体を味わっているかのように、私は一息、一口、また一息とマカロンと珈琲を交互に口にしていた。
これが正しい時間の味わい方、って……確か書いてあったわね。ディーバ=ヘンドリックの『桃猫モモの三針トリップ』に。あれの掃除のお爺さんが「リズムじゃよ」とヒップホップスタイルの主人公にワルツのような優雅さで掃除を行う様子が、子供心に素敵だと思ったのよねー……。

「……ふう」

というわけで、しばし針と食事の音が響く空間に身を置いた私。

「……御馳走様でした」

しばしの素敵なモカまたーりを過ごしたところで、私は手を合わせたのだった……。

―――――――

「かうんたーひーとつきめられたー♪おいかけてもひとつせっかっこー♪」
「コーヤヤッ♪(→)コーヤヤッ♪(←)」
楽しそうに左右に回る狐玉を背に、私は一人宵の宮を散策していた。口には珈琲の余韻。まったりした気分で替え歌を歌いながら新旧入り交じる町並みを眺めている。
……あれ、何かこの辺り魔力が濃いぞ。しかも無軌道というか無造作というか出鱈目というか、方向性が全く掴めず発散している感じのそれが。……しかもこれ、単体じゃないわね、複数ね。
「……」
これは間違いなく町中でヤっているわ。大丈夫かしら、ここの風紀。御姉様がしばきに来るんじゃないかしら。

で、近付くと盛っている声か聞こえましてですね、さらに近付くと、明らかに上質な着物をはだけた女性が男性とヤっているんですよ。それも複数。
男性側は思い思いに嫁の名前を叫んでいるわけですよ。紛う事なきアオカンである。弁解の余地もない、『最後の花魁の置き土産ともいえる花魁達の青姦』である。

「……つか町中で何やってんのよ……」
『宵乃宮では花魁が青姦するのは普通らしい。何せトップがそんな趣味だからね』
あぁ……いつぞや黒羽同盟(情報提供したのはカラステング)から耳にした宵の宮の噂が本当だったとは思わなんだ。いや、黒羽同盟の情報だから信憑性は高いにしろ、まさかのまさかのそのまたまさかとは。
や、だって真っ昼間から大衆の面前で青姦している元花魁現大富豪が居るなんて普通思う!?魔界基準なら兎も角、多重に魔力私をリリムと見抜く規律風紀に関して心配いらない実力持ちのお奉行さんが居るこの町よ!?
取り締まらないのが不思議なくらいだわ……町の人も慣れたものな雰囲気が何とも。
と、そこまで考えた私はふと冷静になる。あぁ、成る程。

「これが、この町のまったりした日常なわけか……」

あ、最後の一匹が魔力に当てられて狐火出して消えた。

fin.
14/04/23 22:42更新 / 初ヶ瀬マキナ
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■作者メッセージ
jackry様、沈黙の天使様、どうもありがとう御座いました。
マカロン食べると女子力が上がると聞きましたが、女子力の上がる食べ方とかあるんでしょうか。

狐玉の設定についてはjackry氏にお聞き下さい。外見はいつぞやの厄離玉の下部分でござい。

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