連載小説
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前編 お前を殺す
 らしい友人はと言えばそう、月くらいのものだった。それくらい、僕は夜に生きていた。僕はそういう生き方をしなくてはならない環境に生まれた。だから、その生き方にも何の疑問も持っていなかった。
 僕は、僕以外の誰にも心を開かなかった。そんな必要も、機会も無い生き方をしてきた。これまでも、これからも、ずっとこうやって生きていく。そう思っていた。





 深まった夜に眠る街。街灯がスモッグを通して、薄ぼんやりとした光を放っている。そんな薄暗い街でも一際暗い路地裏。そこで、物陰を縫う様にして走る黒いものが僕だ。煌びやかな礼装に身を包んだ、中年の男。僕はそれを追っていた。彼はこの街の要人らしい。だから、夜道を歩く際には護衛も付けていることだろう。それくらいは何ともない。今日は月の出てない曇った夜。絶好の仕事日和。こなれた僕にはそれだけの条件が整っていれば十分すぎる。
 開けた通りに出ると、探している後ろ姿が見えた。あいつとその護衛以外に、他の人影は無い。僕は姿勢を低くし、音も立てずに街路の石畳を蹴った。無防備な後ろ姿がどんどん大きくなる。僕は走りながら、息を止めて腰の短剣を抜いた。護衛は前と後ろに一人ずつ付いているが、僕にはまだ気付いていないようだ。僕は更に深夜の煙霧を切って走った。眼前に見える人間の輪郭が最も大きくなる時、僕は右手の短剣を、礼装から覗いた首元目掛けて振り抜く。
 霧の街に一つの断末魔が、また響いた。僕にとっては、ただそれだけの事だった。



 依頼主から報酬を受け取った僕は、街の離れにある森へ足を踏み入れた。開拓もされていない道無き林道も、僕にとっては庭の様なものだ。元々夜目は利くし、そうでなくても、目を閉じていてもこの森を歩くぐらいはわけがない。耳だけでも判る。死んだ様な鎮静を湛える夜の森でも、森は確かに息づいている。音を殺せば遠く、葉擦れや梟の声。微か、香る果実や水の匂い。それらを頼りに進むことも、僕には依頼を果たすよりも簡単だ。この先に、僕のアジトがある。尤も、アジトと言うには少々、矮小が過ぎるかもしれないが。
 森を歩き始めていつも通りの時間が経ち、開けた場所に出る。僕は徐に顔を上げて空を見た。本来開放感に溢れているはずの空は一面の暗雲に覆われていた。黒いペンキでもぶちまけた様なそれを見て僕は一人、大きく舌打ちをした。顔を下せば、辛うじて雨風を凌ぐしか能の無いあばら家と、用水として使うには困らない程度の池が、いつもの様に佇んでいた。戸も付いていない玄関口を抜けて、その辺に金貨の入った袋を放り投げる。袋が偶々そこに居た蜘蛛を下敷きにすると、封が解けて数枚の金貨が床に散乱した。ちゃりちゃりと弾ける音は僕の耳をすり抜ける。僕は家の奥まったところ……この家で唯一、雨漏りの無い場所に置いたベッドに身を横たえた。腐りかけた木製のベッドは派手な音を立てて軋む。劈く様な音に身を包まれながら、僕は黴臭いシーツに鼻を埋めた。意識が遠巻くまで、大した時間は掛からなかった。



 僕はふと眠りから離れた。そうとなれば、僕が目を覚ます要因が何かあったに違いない。その正体は光だった。見れば、硝子の無い窓枠から光が差し込んでいた。光は、床に転がっている金貨を明るく照らしている。爛々とした金貨は自分に向けられた光を僕の目に押し付けていた。そういう事だった。……どうしてだろう。
 この光は、さっきまでは無かった。けれども、朝と言うには、周りは余りに暗すぎる。今はまだ夜なのだろうが、しかし、光はそこにある。僕は導かれるようにして家を出た。
 すると、僕が焦がれた光が僕を包んだ。黒雲が去った夜空は、清々と澄み渡っていた。空に、大きな丸い穴がぽっかりと開いている。穴から零れた金の光が、夜色をより一層鮮やかにしていた。
 満月だ。今日はもう出てきてくれないかと思っていたが、嬉しい誤算だった。僕は弾む足取りで池の縁に吸い込まれる様に座った。風は僅かも無く、細波すら無い水面はさながら鏡の様だった。
 その鏡に映るのは夜空。そして目も眩む望月。座ったまま、僕はぼんやりとそれを見ていた。時の止まった様な静謐の中で月を見るこの時、僕は唯一心が安らいだ。中でも、満月の日は最高だ。晴れた日に欠かした事は無い。月が降らす柔らかな光が、気休めながらも、僕の心の膿を洗い流してくれている様な感じがする。月が空の向こうへ帰らない限り、僕はいつまででも見ていられるくらいだ。だから、今日も僕は月が帰ってしまうまで、ずっとこうしているつもりだった。
 月は空と池の両方とで、依然その輝きを放ち続けている。池に映った月は、手を伸ばせば届くと思える程の実体感でそこに在った。けれども、僕は手を伸ばさない。月はそこに在る方がずっと綺麗だと分かっているから。僕はずっと、月と見つめ合っている。
 その時、不意に月が歪んで見えた。風が吹いたのではない。僕の目がおかしくなってしまったのかと、目をこすってもう一度そこの月を見てみた。月が割れて、水の弾ける音と共に何かが飛び出した。それが何なのかを確認する間も無く、僕はその影に押し倒された。両腕を押さえつけられて、馬乗りにされている。だから、それは人間だと思った。それが今しがた纏っていたであろう水が、ぽたぽたと僕の顔に垂れてくる。
 月のおかげで顔が見えた。輪郭まではっきりと。僕は今まで、僕に襲い掛かってくる奴は全部、僕を殺そうとしているのだと思っていた。今回もそうだと思った。僕を恨む人間が御礼参りに来たのだと。けれども先ずそれは人間ですらなかった。僕を押さえつけている腕からして違う。脚も、服も、人間のそれとはまるで違う。半魚人。そう言うに相応しい、魔物だった。魔物は馬乗りになったまま、僕の目を見つめる。じっと見つめて、何も言わない。眉一つ動かさない。僕は押さえつけられている腕を振り解こうとしたが、魔物の膂力とあっては僕の腕力なんて有って無いようなものだった。終わった、と。食われて死ぬ、と。そう思った。人間にせよ魔物にせよ、襲われるのであれば殺されるのは変わらない。これから、死がやってくる。嫌だったが、じたばたするつもりも無かった。魔物の顔がだんだんと近づいてくる。噛むつもりだ。僕の首を噛み千切るつもりだ。噛みつかれたら痛いのだろう。僕は月でも見る様に、迫ってくる魔物を見ていた。だが、魔物は噛まなかった。代わりに、唇を重ねてきた。触れるだけの、軽く、淡白な口付け。顔が離れて、また目が合った。僕は何をされたのか分からなかった。思考が固まっている内に、魔物はまた顔を近づけて僕に口付けした。今度はさっきとは違う。僕の口の中に何かが入り込んできた。それが魔物の舌だと認識するよりも早く、僕はそれに思い切り噛みついた。
 魔物が大きく仰け反る。顔が離れて、腕の力が緩んだ。腕が自由になって、胴体の圧迫感も軽くなる。すかさず足を折り曲げ、魔物の鳩尾目掛けて一気に蹴りつけた。小柄な僕よりもさらに小さい体格の魔物は、目論見通りに後方へ吹っ飛んだ。僕は横に転がり、起き上がって体勢を整える。蹴り一発程度では魔物には掠り傷にもならない。飽くまでも距離を空けるためのものでしかない。魔物は僕の目論見通りに素早く起き上がって体勢を整えた。睨み合いの格好になる。僕は血の味がする唾を吐き捨てた。
 今なら、はっきりと魔物の姿が判る。手足には泳ぎに適した水かき。人間のそれより余程無骨で、無機質な印象を与える深い青色をしている。水棲ゆえか、服装は体にぴったりと密着する紺色の水着一枚。魔物らしく言い直せばそれは鱗だ。尻尾に、耳には鰭まで付いている。それらが無ければ、魔物はただの少女だ。僕より少し年下くらいの、少女だった。腿まで伸ばした、鈍い青緑の髪。未だ、水が滴っている。吊れて少しきつめな琥珀色の眼。何を考えているのか分からないのは、彼女が余りに表情に乏しいからだ。
 尚も睨み合いは続く。只管、目を合わせ、そこには沈黙しかない。僕は嫌な既視感を覚えた。どうしてかは分からないが、彼女を見ていると、何だか虫酸が走ってくる。僕は痺れを切らして短剣を抜き、彼女目掛けて投げつけた。短剣は獲物の喉元を狙ったまま真っ直ぐに飛んでいく。僕は、それがどうなったのかも見ずに踵を返して木々へ疾走した。金属を弾く音がしたから、彼女は生きているのだろう。魔物と戦うよりも僕は逃げる事を選んだ。魔物とは言え水棲とあっては陸上で思う様に動けるわけではないだろうと踏んでの事だった。試みは成功した様で、暫く走っても彼女は追いかけてはこなかった。手頃な木によじ登り、枝伝いに元来た道を引き返す。池のある場所に出て、木の上からそこを見下ろした。彼女はもう居ない。諦めて戻ったか、僕を探してまだ森の中をふらついているか。何にせよ、これ以上月を楽しむことは出来なくなってしまった。いつの間にか、出ていた月は叢雲に隠れてしまっていた。僕はまた舌打ちしながら、家の中に戻って眠ることにした。仮に彼女が戻ってきて僕の寝込みを襲おうとしても、恐らく彼女の思い通りにはいかない。僕にはそういう寝方が可能だった。寝方が身体に染み付いていた。



 

 僕はまた光で目が覚めた。今度は、家の中にまで入ってくる、辺りに満ちた光だった。この白い光は朝だ。
 僕はベッドを降りて外に出た。木々の向こうにある太陽が眩しくて、手を顔の前に翳して目を細めた。日の光は、僕には余りに強すぎる。屈んで、池の水を手で掬って、口の中に流し込む。ひやりと、僕の喉を通っていった。ほう、と息を吐く。昨日の魔物は出てこない。僕と同じで夜に動く方が性に合っているのかもしれない。僕と同じで……。
 家の中に戻って、床に転がっている袋を拾い上げた。上下に揺らしてみると、硬貨の跳ねる音がした。買い物をする分にはこれで足りるだろうと見切りをつけて、僕は森の外へ向かった。太陽の光はあまり好きではないが、朝の、こういう澄んだ空気は嫌いじゃない。起き出した小鳥が囀っているのも、嫌いじゃない。頭の中が、段々と明瞭になっていく感じがする。慣れた道を進みながら、僕は昨日出くわした魔物について考えていた。池に棲みついてしまったのだろうか。何にしても、月を見る時は気を付けなければならなくなった。僕の、たった一つの楽しみに傷を付けられてしまった。恨めしい。いっそ殺してやろうかと思うくらいに。だが、魔物と対峙して勝利を収めるのは、ただの人間には難しい。勇者とか騎士とか、そういう専門の者でなければ、逆にこっちが狩られてしまう。そこまでするのも、面倒だった。月を見るのであれば、遠くから見ればいい。結局のところ、あいつはきっと池に近付かなければ出てこない。窓辺からでも見よう。街に着く頃、そんな結論に達した。



 ロングマントに付いた紺色のフードを目深に被って、市場を練り歩く。雑踏は鬱陶しいけれど、買い物するには仕方が無い。売りに出されている果物やらパンやらを適当に選んで代金を差し出す。売り子のおやじのがなり声は耳に悪い。買い物は済ませたし、早く帰って、今日の仕事に備えよう。気持ち早足で、通りを抜けようとしたとき、ふと、横のショーウィンドウに目が留まった。女性用の、派手で飾りの多い服がマネキンに被せられている。僕の目的はそんなものじゃない。窓そのものだった。窓に映った僕だった。どこかで見た事のある顔だった。……そうだ、彼女だ。僕は彼女に抱いている朦朧とした嫌悪感の理由を理解した。
 僕と彼女は似ているんだ。髪の色や目の色は同じだし、背格好も無駄の少ない、ストイックなものだ。極めつけは表情。窓に映った僕は、周りを歩く人間に比べると、ひどく無色な顔をしている。仮面でも張りつけたような、何の抑揚も無い顔だ。僕は、だから、彼女を見た時にこういう気持ちになったのだった。僕は冷ややかに納得して、また歩き出した。
 時々、街の通りでは恋人とか友達という関係であろう二人の人間を見る事がある。大概、二人は顔を赤らめていたり、とても楽しげに談笑したりしている。それだけだ。それを見て、僕は何を思うわけでもなかった。誰かとああいう関係を持とうとは思わないし、そもそもそうは思えない。僕はそういう世界に生きている。通りの喧騒を避けて、なるべく路地裏を通るようにする。矢張り、こういう影の部分を歩いている方が、ずっと落ち着く。
「おい、そこのフード」
 錆びたような太めの声で呼び止められて、その方向へ振り向いた。無精髭を生やした、中肉中背で壮年の男が濁った目で僕を見ていた。こんな所で僕を呼び止めてくる奴と言えば、依頼人以外には喧嘩の押し売りくらいだ。
「……依頼?」
 男は察しが良くて結構、といった風に頷いた。





 殺し屋。それが僕の仕事。依頼を請けて、誰かの代わりに誰かを殺す。その見返りとしてお金を貰う。雇われであるにしろそうでないにしろ、そうして殺し屋は生きている。別段、僕は人を殺すということに抵抗は感じない。そういう風に躾けられたから。そうしないと生きられないから。僕自身はその生活を満足にも不満にも思っていない。ただ、人を殺して生きる。それ以上でも以下でもない。僕が幼い頃、両親に捨てられていなければ。そこで殺し屋に拾われなければ、僕はまた違った人生を歩んでいたのだろう。殺しとは無縁の人生を送っていたかもしれない。違いは精々、仕事で命の危険を冒すか冒さないかというくらいだろう。だから、また違った生き方をしたいとも思わない。思わないという事は案外、僕はこの生活に居心地の良さを見出しているのかもしれない。その意味では、満足していると言えるのだろうか。考えても、何が変わるわけでもない。いつも通り、僕は夜の街を走って、受けた依頼を淡々とこなしていくだけ。日が昇れば寝て、日が沈めば起きて人を殺す。そんな日々の繰り返し。そうして月に一度、満月を見る。
 そういえば、今日は満月の日だ。一月前は確か、魔物に邪魔をされてしまったのだった。あれ以来姿を見ていないが、恐らくまだ池の中に潜んでいるだろう。見る時は、家の中からにした方がいい。少しばかり遠くでの月見になるけど、邪魔をされるよりは数段マシだ。依頼を終えた帰り道でも、木々の隙間からは月光が零れ落ちていた。今日はよく晴れている。良い月が見られそうだ。僕は少しだけ早足で、足元の草を踏み分けた。森の息づきはいつもと変わらない。けれど、今日という日の光を受けて、それらは一層神秘的に感じられる。水の匂いが段々と強くなってきた。遠くに一際明るいところが見える。僕はその光を目指して歩を進めた。そこにはいつも通りの家と池が佇んでいた。僕の予想の外に居る誰かを含んで。
「……お前」
 一月前に僕を襲ってきた彼女が、池の縁に座っていた。座って、空を見上げていた。視線の先には、僕が見るはずのものが浮かんでいる。気付かれない内に首を切ってやろうかとも思ったが、それより先に僕は彼女に向かって声をかけていた。低く、静かで、語勢の強い声で。僕に気付いた彼女が振り向いた。前に出くわした時と変わらぬ無表情を僕に向ける。群青の尻尾がゆらゆらと揺れている。出所の分かる居心地の悪さが僕を包んだ。しかし、それは前より少しだけ軽くなってもいた。
「月を?」
 僕が訊くと、彼女は無言で首を縦に振った。不思議と、僕に対する敵意の類は感じられなかった。だから僕は声をかけたのだろう。
「そうか」
 最近こうして月を見るようになったのは何故なのだろう。月は水の中から見ればいいのではないのか。疑問に思う事はあったが、僕は一言だけ答えて家の中に入る。それを見た彼女が後ろからぺたぺたと付いてくる。
「入ってくるな」
僕はすかさず短剣の切っ先を彼女の喉元に付きつけて鋭く睨んだ。如何に僕に対する敵意が薄くとも、それが僕に近付いて良いという理由にはならない。僕は、僕の内側に入り込んでくるものを拒否する。
「僕に近付くなよ」
僕は彼女の琥珀色の目を捉えて逃がさない。表情、語調、あらゆる所作で彼女を威圧する。彼女の表情はそれでも動かなかったが、やがて尾を垂れて池の縁に戻っていった。心なしか消沈して見えたのは気の所為だと思うことにした。僕の希望通り、彼女は池の縁で、僕は窓から月を見るという形に落ち着いた。それなのに、どうしてなのか、僕はその日、月よりも彼女に意識を向けている時間の方が多かった。彼女が脚を交互に動かしてぱしゃぱしゃと水を蹴ると、立った波紋で池に映る月が弛んだ。僕は弛んだ月よりも彼女を見ていて、やがて僕の視線に気づいた彼女が僕の方に振り向くと、僕ははっとして空の月を見直すというのが何度か続いた。結局彼女は魔物なのだから、僕は彼女の様子を警戒せざるを得なかったのだろう。月が空の向こうに帰ってしまうと、彼女は立ち上がって、僕の方に振り返った。勿論、何も言わずに押し黙ったまま。僕達はまた睨み合った。時間はさほど経っていなかったと思う。僕が彼女の尻尾の揺れに気付いた頃、彼女は池の中に飛び込んでいった。ばしゃん、と。大きく水の跳ねた音が、明らんできた東の空に木霊した。僕は月をしっかりと見ていたわけでもないのに、妙な満足感を覚えていた。戸惑ったが、それについて考えるよりも先に、僕はベッドに倒れて意識を手放してしまった。



それから、この奇妙な月見が始まった。僕が依頼を終えて帰ると、満月の日には必ず、先に彼女が池の縁で佇んでいた。彼女は僕が帰ってきたのに気付いて振り向き、僕達は少しの間だけ目を合わせる。間も無く僕が目線を外すと、彼女は下に戻って座る。僕はそれを見て何を思うでもなく、家に入って、窓枠に頬杖を付く。それで、僕達は時間の許す限り、時々お互いの目と目が合いながらも、月に興じるのだった。そうして彼女との風変わりな時間を過ごすうちに、僕は僕自身の微妙な変化に気付いた。ふと気付いた時に、僕は彼女の事を考えている。何気なく街を歩いている時でさえ、警戒する必要など微塵も無いのに、彼女は今何をしているのだろうか。何を考えているのだろうか。そんな、その場で答えが出ないような事を延々と考えている僕がいた。僕が僕でないような、漠然とした不安感に襲われた。その奇怪な寒気を伴う感情は、月に一度、彼女の顔を見て和らぐ。
 けれども僕は、自ら彼女に近付くようなことはしなかった。出来なかった。彼女との距離を縮めようとすると、僕の胸の奥で何かがつっかえて、えづきそうになって、気分が悪くなる。どう近づいたらいいのかも分からなくて、結局僕は窓枠から彼女を見ているだけだった。それでいいと、僕は自分を納得させてもいた。彼女との距離を縮めてどうなる。その先に何がある。近付くだけ損だ。……違うのか? 
 彼女は人を陥れ喰らう魔物だ。いつ僕を殺すかも分からない。だから、このままでいい。錆びついた沈殿物の様なものを心の奥底に抱えたまま、僕はまた、彼女という闖入者をも含みいれて、いつもを生きた。



そうして十二回目の満月を迎える日の朝、僕は珍しく目が覚めた。自然に、ではない。僕を起こした気配がある。何だろうか。ベッドから起きて辺りを見回したが、家に誰かが踏み込んできたわけではないようだ。窓枠から、朝の日差しが強く照っている。僕は大きく息を吐きながらも外へ出た。目を閉じて耳を澄ますと、鳥の囀りに混じって何かが聞こえる。多くの足が草を踏み分ける音。がやがやとした低い声。恐らくは街の調査兵団だろう。とうとうこの森にまでやって来たか。多分この家にも入り込んでくるだろう。荒らされて困るような所でもないから、見つからない様にさっさと出てしまった方が賢明だ。僕は最低限の荷物をまとめ、森の外を目指して歩き出した。彼らの足音を頼りに、出くわさない様に細心の注意を払い、無論、森に棲む魔物に対する警戒も忘れずに。森を出る間際、遠くで悲鳴のような声が聞こえた。調査兵団と魔物が交戦を始めたのだろう。彼女の事が思い浮かんだが、彼女は水の中だ。下手な事は起こらないだろう。僕はそう踏んで、特に用も無い街へ時間潰しに出た。



 街の雑踏は今日も変わらず僕の耳を劈いてくる。そこへ行くのが当然であるかの様に、僕は通りから裏路地の貧民街へと滑り込んだ。薄暗くて、黴臭くて、じめじめするそこが、捨て子である僕の故郷だ。曲がりなりにも故郷だから、愛着、というものはある。僕が育てられた場所。ここに居る住人は皆一様に濁った目をしている。当然だ。輝きのある目を持っているなら、こんな所に住むはずは無い。それでも皆、毎日を生きている。生きる為に。殴り、盗み、殺し、その上に僕達の生は存在している。それがここでの摂理だ。
「ちょっといいか?」
 低めの、だが少しばかり剽軽な声が聞こえて、僕はその方向へ振り向いた。ボロボロのマントにだぼついたズボンを穿いた、ここでは普通の青年だった。
「……依頼?」
「ああ」
 こうして今日も依頼が舞い込んでくる。今日は一体誰を殺すのか。
「内容を」
「こんなこと頼むのはちっと筋違いかもしれねぇけどよ、魔物をやってほしいんだ」
 標的は魔物。そんな依頼が偶に来る。不可能ではないが、大体は手間のかかる依頼になる。魔物という種そのものが、人間の能力を遥かに超えているからに他ならない。
「詳細は」
「サハギンって種族なんだが……知ってるか?」
 そもそも僕は人間専門なので魔物の事はよく知らない。精々、街の外でならどんな場所でも遭遇し得るという程度の知識しかない。僕は首を横に振った。
「まぁそうだな。ヤツは水棲の魔物だ。容姿は当然個体によって誤差が生じるが……共通しているのは、水着みてえな鱗、水かきの付いた手足、耳のヒレ、尻尾……てなもんだ」
 僕はそれを黙ったまま聞いていた。と言うよりは、これに対する言葉をすぐには見つけられなかっただけだった。青年が提示した特徴から、僕はいとも簡単に彼女を連想してしまったのだ。特徴と彼女はあまりに一致しすぎている。別の魔物であるという可能性に縋るのは、それこそ見苦しい。
「で、オレはそいつの尻尾が欲しいわけなんだが……」
「報酬は」
「悪いが、あんまり出せねぇ」
 それもそうだ。そんなのは彼の身なりを見れば判る。僕は質問を変えた。
「生息地は」
「街の離れにでっかい森があんだろ? そこの開けた所にある池で見た」
 僕の連想は間違っていなかったという事だ。他の個体を探そうにも、川は廃水で汚染されてしまっている。僕は更に質問した。
「標的の生死は」
「はぁ? 殺さねーと採れねーだろ」
 何を言っているんだ、という風に青年が呆れた。僕もどうかしている。仮に尻尾をくれと交渉したとして、相手がはいわかりましたと寄越してくれるわけがない。尻尾を切られればそれこそ死にもの狂いで報復しにきそうなものだし、成程殺す以外に方法は無い。僕はそんな事でさえも見えなくなっていたのか。
「なぁ、受けてはくれねえか。あんたの噂はこっちまで聞こえてるぜ」
 青年は懇願するような口調だった。僕はこれまでの殺し屋稼業で、依頼を断った事は無い。それでいて、依頼の失敗も無い。僕がここまでの殺し屋になれたのは、幼い僕を拾って、殺しの技術を叩き込んでくれた師のおかげだ。暗殺に要する一通りの身体技術、次いでこの世界で生きる為のイロハ。何も知らない僕に何から何まで教えてくれたのは他でもない、僕を拾った殺し屋だ。受けた依頼は何が何でも完遂しろ。師が口を酸っぱくして教えてくれた。殺し屋は信頼が基本、と。師はそうもよく言っていた。
「……了解」
「恩に着るぜ。少ないが、前金だ」
 小汚い袋が手の上に乗る。銅貨三枚。殺しの報酬としては、お世辞にも釣り合っているとは言えない。それでも僕は請け負う。別に彼から貰う報酬が貧相なものだったとしても、殺し屋とは普通、もっと多くの大金をものに出来る。だから、少しばかり損な仕事を請け負っても、食うに困ることはない。とは言え、僕の様に、貧民街に住む様な貧乏人の依頼を請ける者はごく一部だが。しかし、それゆえに僕はフリーでありながらも殺し屋としてのブランドを獲得している。損な仕事を請け負っても、僕は依頼において然したる危険を冒したことはない。魔物相手は少しばかり手こずるけれども、九死に一生、という体験も無い。強いて言うなら捨てられた時か。
 それでも、今回の依頼だけは複雑だった。依頼の遂行は最優先だと考える一方で、確かにそれを拒んでいる僕がいる。彼女を殺すことを躊躇っている僕の存在が、僕にとって何よりも異常だった。ここまで生き延びてきた中で、こんな違和感は経験したことが無い。どうすれば、この迷いは断ち切れるのか……。
 答えが出ないまま、辺りに夜の帳が降りてきた。僕はどうあっても、彼女を殺さなければならない。魔物を殺す方法は、人間にはあまり無い。方法は待つこと。標的が通る道を予め先回りし、物陰に隠れるなりして、標的が気付かずに目の前を通る瞬間を只管待つ。魔物は人間の気配に敏感だから、身体に泥を塗りつけたりしてでも気配を殺さなくてはならない。方法はもう一つある。魔物は得てして人間を、特に男性を狙う時には、自らが女性の姿をしていることを利用して、獲物を誘惑する傾向がある。それを逆手に取り、自ら魔物に近付いて油断した風を装い、こちらへ仕掛けてくる瞬間、クロスカウンターの要領で殺す。リスクは高いが、より確実に仕留められる。彼女であれば……僕は後者の方法を選ぶことが出来る。図ったかの様に今日は満月だ。今日もきっと彼女は、あの池の縁でいつもの様に佇んでいるだろう。そして僕が来たのに気付いて振り向く。多分、僕から彼女に近付けば、彼女は何らかの反応を見せるはずだ。その隙を突いて首を刎ねればいいだけの話だ。何も難しい事ではない。これが最善の手ですらある。
 だから、僕は夜の、暗闇の落ちた森を進んだ。朝にはしなかった、血の匂いがする。幻聴だろうか、梟に混じって、時々艶のある声が聞こえる。緊張でいよいよ僕はおかしくなったか。
 ……緊張。僕が、緊張している。嘗て無く。胸が拍動している。一歩一歩。池へ近付く度にそれが大きくなる。森中に響いているのではないかと錯覚するほどに。もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐ、池に着く。いけない。こんな状態では、彼女が僕を怪しんでしまう。飽くまでも平静に。いつも通りに、かつ自然に、彼女に近付くんだ。僕なら出来る。
 池に、着いた。彼女は確かにそこに居た。影の無い月が照らす広場に。僕は一歩、一歩と、彼女に近付いていく。けれど、彼女は振り向かなかった。彼女は、月光の下、倒れていた。
「……っ!」
 僕は息を呑んだ。僕の頭は夥しいほどの混沌が渦を巻いていたが、にも拘わらず、僕は彼女へ駆け寄っていた。うつぶせに倒れている彼女を見下ろす。白い手足には無数の切創。裂傷に肌が真っ赤に染まっている。微か、微かに、彼女の呼吸が聞こえる。弱い。弱々しい。でも生きている。まだ、死んではいない。でも虫の息。今。今、止めを刺すなら造作も無い。僕は短剣を抜いた。これを、この透き通った白銀を、彼女の首に振り下ろせばいい。それで依頼は達成だ。依頼の完遂は最優先。不可欠。必須。絶対。だのに、僕は何を躊躇っている。どうして僕の手はこんなにも震えているんだ。ただ一匹、魔物を殺すだけ。その最大の好機が目の前にある。あとはそれを掴むだけ。それだけの事が何故出来ない。
 やるんだ。やらなくては。やれよ。早く。やれ。殺せ。僕は殺し屋だ。銀の刃が閃いた。
15/11/15 20:09更新 / 香橋
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■作者メッセージ
ちょっぴり中二成分多めです。これから頑張っていやらしい方向に持って行きます。

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