砂の玖
「さらばだ、弱者どもーっ!」
口々に騒ぐ従業員らを尻目に、
ゴウユウは引き金に指をかけ――こそすれ、引くことは叶わず。
「な、に……?」
当然弾丸も発射されず、自殺は未遂に終わる。
「な、何が起こっ、ぬおわっ!?」
手元に違和感を感じたゴウユウが拳銃を握った筈の右手を見れば、そこに拳銃はなく、冷たい粘液だけが纏わりついていた。
「なんだ、これは……なんだというのだ、この液体はっ!?」
見ればスーツの袖口や床までもが、粘液によって溶けている。
「……間一髪、間に合いましたね」
静けさの中に響く、エリモスの声。
ゴウユウの手にした拳銃を溶かして消滅させたのは、小さな塊として投擲された彼女の消化液であった。
「……おのれ、魔物っ〜〜! かくなる上は〜〜〜っ!」
自棄を起こしたゴウユウは床へ座り込み、投げ槍な態度で叫ぶ。
「殺せいっ! いっそ一思いに!
貴様ら、この隈取ゴウユウが憎いならば、貴様ら自身の手で殺せば良かろうっ!
遠慮はいらん、さあ殺せっ!」
正真正銘、最後の悪足掻きであった。
これが不発となれば何もすることがない、というくらいの。
然し……
「断る」
従業員一同の代表として出てきたケンスケの口から出たのは、ゴウユウがある意味で最も恐れていた言葉だった。
「俺たちはお前の会社を辞める。つまりお前の部下ではなく、よって<>お前の言葉には一切従わない。即ち、俺たちの誰もお前を殺すことはない」
「ぁ……ぁぁ……」
「つーか、お前如きの為に殺人の罪を背負うなんざ割に合わねーっつーの」
「そうそう。あとここ、クロビネガだしぃ? お前殺すのって、誰にとってもマイナスにしかならないんだよねぇ〜♪」
「そん、なあ……」
「残念だったな隈取ィ。お前の望みは叶わない……どころかお前は、これから最悪の生き地獄を味わうことになるんだ」
ニイヒトの一言は、ゴウユウを震え上がらせるに十分過ぎた。一体何をされるというのか。
今すぐにでも逃げ出したかったが、足に力が入らない。
ニイヒトはそんなゴウユウを嘲笑いながら、大振りなバケツを手に振り被り――
「うおらあっ!」
その中身をゴウユウ目掛けて力強くぶちまける。
「ーーーっっっ!!??」
一体どんな毒劇物かと、最初は思った。
浴びれば即死か、全身が焼けるか、或いは溶けたり腐る可能性もある。
否、殺さない、生き地獄を味わうというのなら、致死性でなく、皮膚が腫れ上がったりするのかもしれない。
そう思った。寧ろ望んですらいた。
もしそうなら、奴らは結局その程度の存在だと嘲笑うことができたから。
お前たちも所詮はそんなものに過ぎないと挑発できたから。
だから苦痛を望んだ、のだが……
(なにも、起こらぬっ……!?)
結局、隈取ゴウユウは裏切られる。
ニイヒトが浴びせたバケツの中身は、どうやらただの汚水であった。
幾らかの異物を含み、ある程度の異臭を放つ、ただの汚水。
それをただ浴びせただけで、終わり。
去り行く背中へ何を言おうと、振り向かず、立ち止まりもしない。
そうして遂に、豪邸にはその主のみが残される。
虚無。
それが自分に課せられた罰か。確かにこれは生き地獄だ。
然し、ともゴウユウは思う。
(……逆に考えればどうだ、我はまだ生きておる。ただ汚水まみれになっただけで、生きておるではないか。
ならばまだ……幾らかやり返せるっ! 終わってなどおらぬぞ!
私兵がいない? 悪事がバレた? だから何だ? それがどうした!
死んでおらんならまだ負けぬ! 負けぬどころかまだ勝てる!)
絶望的な状況にかえって燃え上がる何かを感じたゴウユウは、決意を新たに立ち上がる。
割れていない部屋の窓を開け放ち、汚水まみれの衣類を勢いよく脱ぎ捨てる。
爽やかな風が湿気や異臭を吹き飛ばす。
「そうだっ! このままでは終わらんぞ! まだまだ我は――ぅひぃっ!?」
唐突に大きな音がして、ゴウユウは縮み上がる。
恐る恐る背後に目をやるも、視界には何も映らない。
「……誰か知らんが脅かしおってっ……誰だ!? 姿を見せろっ!」
姿なき侵入者を、ゴウユウは怒鳴り付ける。
するとその声へ応えるかのように、床や壁、天井ががたがた、どたどたと揺れ始め、
窓の外からは鈍い音が聞こえてくる。
「ここ、こ、今度は何だぁ!?」
恐怖に震え上がるゴウユウを嘲笑うかのように、揺れは激しく、音は大きくなり、
豪邸の至る所にできたありとあらゆる入口から入り込んだ侵入者たちは、我先にと老人の私室へ集結する。
「っ、ひぃぃぃいいいいぃぃぃ!」
侵入者たち改め彼女らを見たゴウユウは、恐怖と不快感に震え上がり悲鳴を上げる。
大柄なもの、小柄なもの、翅を持つもの、触角を持つもの、
外骨格を持つもの、色鮮やかなもの、地味な色合いのもの、
八本足のもの、背に節足を持つもの、無数の足を持つもの、
足のないもの、素早いもの、群れをなすもの、獰猛なもの……。
様々な姿をした彼女ら――無数の虫魔物たち――に共通しているのは、主に一つ。
誰もが剥き出しの性欲を隠しもせず、餓えた表情でゴウユウを見据えていたということ。
「おい、よせ……」
及び腰のゴウユウ。
震えた声が、正気を欠いた虫魔物たちに届くことはない。
「や、やめろ! 我を誰と心得るか!? ナニガシ企画代表取締役社長、隈取ゴウユウであるぞ!?」
そんなこと知らん関係ないと言わんばかりに虫魔物たちは息を荒げ、ゴウユウににじり寄る。
それは幾らかの読者諸兄姉にしてみれば夢のような素晴らしい光景であろう。
恐らく多くの方々は、少々躊躇い怖じ気づきこそすれゴウユウほど拒絶はしないと思われる。
然し、生来の虫嫌いにして魔物嫌いでもあるゴウユウにしてみれば、
眼前に広がるのはこれ以上ない悪夢の如き光景に他ならず。
「来るでない……来るなあああああっ!」
四方八方を取り囲まれたゴウユウに、逃げ場などある筈もなく……
「ぐぎょわああああああああああっ!」
ゴウユウの悲鳴は、彼自信が今まで踏み付け、傷付けてきた誰よりも惨めで哀れな弱者のそれだった。
「上手く行ったみたいだねぇ」
「隈取の野郎にはお似合いどころか贅沢すぎる末路ですよ。ぶちまけたのが藻仁田だったのが気に入りませんでしたけどね」
「食われたり殺されたりするわけじゃないからな。少なくとも肉体は無事だろう。もしかしたらあれを機に改心……するとは思いがたいが」
「つまり……『次にあなたたちは「隈取爆発しろ」と言うでしょう!』……という流れですね。
または『隈取ざまあ』かもしれませんが」
「エリモス……責めるわけじゃないが、そんなネタいつ覚えたんだ?」
「はい、マダラタさんに教わりました」
「や、だってエリモスちゃん地上のこと知りたいっていうから」
「はい。マダラタさんのお話はケンスケさんのお話とはまた違った興味深さがあって好きです」
「まあ、君が満足しているならそれでいいんだが」
「ところで話は変わるがな斑田」
「ん、何〜?」
「あの汚水……確か『試作型独身魔物誘引興奮剤‐虫用』だったか、よくあんなもの見付けて来たな」
銀辺の言う『試作型独身魔物誘引興奮剤‐虫用』とは、ニイヒトがゴウユウに浴びせていたあのバケツの中身のことである。
「ああ、あれね。SNSで仲良くしてる研究者が『相性のいい魔物娘とお近づきになれる香水の作り方』ってコラムを書いててね?
『各魔物が好きな成分を混ぜてピンポイントでいい感じにGET!』みたいな内容だったんだけど」
「見るからに怪しい記事だな……」
「というかマダラタさん、本当に広い人脈をお持ちですね……」
「エリモスさん、そこ無理に誉めるとこじゃないです」
「まあ怪しい知り合いが多いのは認めるよ。
それで、その記事には幾つかの注意事項があってね? その注意事項に敢えて全力で違反するように作ったらああなったんだよぉ〜」
「その研究者が不憫過ぎる……」
豪邸付近の路地裏でゴウユウの悲鳴を聞き届けた四人は、事前に調べておいた地下道へ潜り、その先に用意してある隠れ家へと急ぐ。
当初はエリモスの巨体をどう隠すかが問題だったが、幸いにも彼女は人化の術を習得済みであったため事なきを得た。
(さて、あとは世間の反応次第だが……)
ゴウユウとの戦いを終えたケンスケらナニガシ企画の元従業員たちはあの後、それぞれ事前に確保しておいたルートを通ってその場から逃げ出した。これ以上目立つわけにはいかなかったからである。
そもそもケンスケからして、今回の作戦を考えた時点で一連の行為が決して褒められたものではなく、寧ろ悪行ですらあると自覚しており、今回の作戦に賛同した元従業員たちも皆考えは皆同じだった。
後に彼が某所にて語ったところによると、
『本来なら労働基準監督署や警察といった公的機関に相談し、法的に戦うのが正攻法である。
ただ隈取ゴウユウという男はそういった正攻法が通用しない相手だった。奴の力は法さえも捻じ曲げかねない。だからこうするのがその時は最適解だと思った』
との事。
続けて、
『派手に動くのだから目立つのは当然。目立てば何かと面倒なことになる。
だから、作戦が終わったらすぐに安全な所へ逃げ込んで隠れられるよう準備を徹底したんだ。
潜伏して、俺たちが世間からどう思われ、どう扱われていくのかを知らなければと。
そうして世間の反応を粗方知った所で、どう動くかを考えていくしかないだろう、と』
元従業員たちはその後暫く、各々の隠れ家でテレビやネットなどを駆使して情報収集に徹した。
やはりと言うべきか、彼らの起こした騒動は連日各種メディアを騒がせ、日本国内はおろか海外メディアまでも注目するほどになった。
彼ら元従業員たち、中でも取り分けケンスケたちは思った。
自分たちの行動はどうあがいても犯罪だ。逮捕されるだろうし、向こう三年は世間から批判を浴びることを覚悟しなければならないだろう。
然し実際、人々は彼らを非難も糾弾もしなかった。
多くの人々は、苦境に立たされ、強硬手段に打って出ざるを得ないまでに追い詰められた彼らを擁護し、中には『ブラック企業を打ち破った』として英雄視する者さえも決して少なくはなかった。
このことが切っ掛けとなり、それまで潜伏していたナニガシ企画の元従業員たちは積極的に表舞台へ立つようになり、世間はかの企業がいかに恐るべき邪悪であったかを嫌と言うほど知らされることとなる。
これを機に人々は、労働、ひいては経済や社会そのものの在り方について長い時間をかけて徐々に認識を改めたりしていくわけであるがそれはまた別の話。
ここからは、各登場人物のその後について語らせて頂こう。
斑田ハンタロウ。
隈取ゴウユウに関する情報や彼の暴言をネット上に流出させ公にするという重要な役割を担った彼は、持ち前の弁舌と社交性、幅広い知識や人脈を活かし、ナニガシ企業元従業員たちの代表格として表舞台の第一線で活躍。
情報発信や、ブラック企業根絶に向けての講演活動をこなし多忙な日々を送る。
絶大な人気やカリスマ性から芸能界や政界への進出も噂されたが、当人はそれらを否定。
表立った活動は後続に任せるとして、彼自身は経営者としてこの社会をよりよくしたいとの思いから起業を決意し、短大に再入学するなど東奔西走。
短大在学中に出合った刑部狸の設楽ワカバと意気投合し、交際を経て卒業後に結婚。程なくして優れたホワイト企業の経営者として妻共々名を馳せるようになる。元々好色であった彼はインキュバス化も早く、比較的早い段階で二児の父となり幸福な家庭を築いたという。
魚住カゲトラ。
今回の一件で自分が、真面目で情熱的な反面想像以上に直情的で怒りっぽくストレスに弱い性格だと自覚した彼は、
ハンタロウらのような表舞台での活動を辞退し、自分自身を見つめ直し更なる高みを目指すべく各地を旅しては様々な経験を積んでいく。
その過程で若くして幾多の修羅場をくぐり抜け、各所で華々しい活躍を続けたカゲトラは、自身の手で着実に世界が改善されつつあることに誇りと喜びを感じながら、一方で壮絶な日々に疲弊もしており平穏を求めて引退。
緩やかな旅路の果てに辿り着いた長閑な海沿いの街でシー・ビショップのネクトと運命的に出会い結ばれる。
情熱的で幸福感に溢れた交わりの果てにインキュバス化を果たしたカゲトラは、漁師や観光ガイドをしながら妻と共に穏やかな日々を過ごしている。
その他のナニガシ企画元従業員たちに関しても、最悪のブラック企業から解放されたことで自由を手にし、それぞれの道を歩み始めている。
中には魔物と結ばれた男性従業員や、魔物と化した女性従業員も数多くいるようである。
隈取ゴウユウ傘下にあった私兵194名は、その全員がケンスケらの策によりけしかけられた魔物娘らとめでたくゴールイン。
ゴウユウの破滅により枷から解き放たれた彼らは皆過去に犯した罪を償う意思こそあったが、裁判所は魔物の伴侶たる彼らに、魔物の伴侶ならではのある特殊な刑を命じた。
その特殊な刑が如何なるものであるかは……各自お察し頂きたい。
ここまでは幸福を獲た者たちばかりを紹介してきたが、戦いを制した者の中には悲惨な結末を迎えた例外も極僅かに存在する。
その僅かな例外とは読者諸兄姉もお察しであろう。
そう、藻仁田ニイヒトである。
戦いの後ほとぼりが冷めた所で表に這い出てきた彼は諸方でずる賢く立ち回り、ナニガシ企画時代に犯した全ての罪をゴウユウ――消息不明につき不起訴処分――に擦り付け無罪を主張。
当然元従業員たちや世論はそんな彼を糾弾し、元従業員の一人によって起訴される。
然し彼は業界で悪の天才と名高き白澤の守銭奴美人弁護士を雇い入れ見事勝訴。
以後はナニガシ企画時代にゴウユウから偶然聞き出した同社の機密情報やゴウユウ自身の秘密をうろ覚えだったので五十割増程度に脚色して書き記した暴露本『ナニガシ企画の真実〜史上最悪のブラック企業はなぜ産まれたか〜』を執筆・出版。
著書は飛ぶように売れ、全国各地で入荷当日に品切れという事態が相次いだ。
印税収入はナニガシ企画時代とは比べ物にならない額になり、更に調子づいたニイヒトは己の実力を過信し芸能界や政界に進出。最初の半年こそ物珍しさに注目されたが長続きはせず、著書の売り上げも急落したことで収入源を失う。
然しそれでもニイヒトは働きもしなければ生活水準を下げようともせず派手な暮らしを続けた。結果金が底をつき、ニイヒトが破滅するのにそう時間はかからなかった。
そして――
(ここから再び、俺たちの……彼女と俺の、新しい生活が始まるんだ……)
(不安がないわけではありません。然しどんなことでも、彼とならきっと乗り越えられる気がするから)
銀辺ケンスケとエリモス。
ある日唐突に知り合い、そして恋に落ち、そして一連の騒動を引き起こすこととなった二人もまた当然世間から注目を集めた。
各方面から取材が相次ぎ、二人の出会いの地となった鳥取砂丘は元より、ケンスケの自宅や出身地、行きつけの店から愛用の文具に至るまであらゆるものが調べ上げられては連日メディアで取沙汰され、彼ら二人に起因する経済効果は計り知れないものとなっていく。
これに乗じて鳥取県はエリモスに住民票を与え、正式な砂丘の住民として認めることを決定。砂丘の一定区画をエリモスとケンスケの住居として正式に指定し部外者の無許可での立ち入りを禁じる、役所に婚姻届を出しに来た二人に対し膨大な予算を投じて大規模な結婚式を企画するなど全力で厚遇した。
挙げ句の果てには二人に関する何かしらの日――出会った日なり誕生日なり――を祝日とする流れまであったと言えば、一連の挙動はいっそ異常とすら言えた(流石に制定とはならなかったが)。
その裏側には、二人を観光資源として活用し、経済効果の恩恵を余すところなく享受するとともに、人魔共存に積極的な県であると内外に向けてアピールしイメージアップを図っているだとかの意図もあったが、同じくらいに二人への敬意や思いやりも含まれていた。
そしてその甲斐もあり、夫婦は今も尚砂丘の奥底で仲睦まじく暮らしている。
……というのが、表向きに発表された話。
そう、公に明かされている事実はこれだけ。だが実の所、この話には続き、というよりも、隠された真相がある。
「ケンスケさん、こっちですよー! 早く早くっ!」
「ああ、今行くから待っててくれ。……あ、走って転ぶなよー?」
白いワンピースに麦わら帽子というスタイルで日の当たる石畳の上を駆けていくのは、人化の術で人間に化けたエリモス。後を追うケンスケも比較的ラフな格好で、ゆったり進む足取りは目に見えて軽やかだった。
(……まさか、新婚旅行を兼ねて身を隠すために妻の故郷に里帰りとは……悪くないな)
ケンスケとエリモスは現在、魔物の本来の生息地である異界を訪れていた。
(然し、まさか県がここまで俺たちの面倒を見てくれるとはな……木綱県知事には本当に足を向けて寝られん)
当時鳥取県知事を務めていた木綱という男は、ケンスケとエリモスが間接的にもたらす経済効果を存分に利用しようと策を練る一方で、世間からの注目を集める余り苦悩の絶えない日々を過ごさざるを得ないであろう夫婦に何とかして自由と平穏を与えたいとも考えていた。
そこで彼は思考を巡らせ、先程述べたようにエリモスの住まいである鳥取砂丘の一角を正式に銀辺夫婦へ住居として譲渡すると発表することで『銀辺ケンスケとその妻エリモスは鳥取砂丘の深部で生活している』と人々へ認識させた。
然しそのまま夫婦を砂丘に住まわせたのでは、いつ如何なる要因で彼らの自由と平穏が脅かされないとも限らない。そう考えた木綱は己の持ちうるありとあらゆる人脈を辿り、二つの世界を繋ぐ門の管理者たる魔物らと接触。
交渉の結果、『毎年県内在住の独身男性の最低三割を彼ら自身の意思で魔物と結婚するよう仕向ける』等といった幾つかの魔物向け政策などを交換条件として銀辺夫婦を異界へ招待、住居や物資などの全面的なバックアップまでも確約させるに漕ぎ着けた。
移住の時点でインキュバス化を果たしていたケンスケは、愛する妻エリモスと共に、人外夫婦然とした淫らで愛と快楽に溢れた自由で平穏な日々を謳歌している。
「斑田……魚住……元ナニガシ企画のみんな……俺は今、幸せだよ……」
爽やかな風の吹く虚空へ向けて、ケンスケは呟く。
「この先何が起こるか、俺にはわからない。
辛いこと、苦しいこと、悲しいこと……
どんな出来事が待ち受けていても、俺は負けない……とは言い切れないけど、
負けたとしても、そのまま終わらせはしない。
敗北にさえ抗い続け、最後には必ず勝つと誓おう。
だからどうか、みんなも幸せな、敗北に抗う勝者であってくれ」
立ち止まり待っていたエリモスに追い付いたケンスケは、少し膨れっ面で抱き付いてくる妻の腰に手を回し、薄いシャツ越しに押し当てられた胸の感触を堪能しながら優しく語りかける。
「さあエリモス、次はどこでなにをしようか?」
「そうですね。じゃあ――」
斯くして元社畜のインキュバスと砂虫は、未来へ向かって歩き出す。
彼ら夫婦の行く先に待つもの……
それらはきっと、砂丘を明るく照らす、淡く暖かな光の中に。
それが、スナキズナ。
口々に騒ぐ従業員らを尻目に、
ゴウユウは引き金に指をかけ――こそすれ、引くことは叶わず。
「な、に……?」
当然弾丸も発射されず、自殺は未遂に終わる。
「な、何が起こっ、ぬおわっ!?」
手元に違和感を感じたゴウユウが拳銃を握った筈の右手を見れば、そこに拳銃はなく、冷たい粘液だけが纏わりついていた。
「なんだ、これは……なんだというのだ、この液体はっ!?」
見ればスーツの袖口や床までもが、粘液によって溶けている。
「……間一髪、間に合いましたね」
静けさの中に響く、エリモスの声。
ゴウユウの手にした拳銃を溶かして消滅させたのは、小さな塊として投擲された彼女の消化液であった。
「……おのれ、魔物っ〜〜! かくなる上は〜〜〜っ!」
自棄を起こしたゴウユウは床へ座り込み、投げ槍な態度で叫ぶ。
「殺せいっ! いっそ一思いに!
貴様ら、この隈取ゴウユウが憎いならば、貴様ら自身の手で殺せば良かろうっ!
遠慮はいらん、さあ殺せっ!」
正真正銘、最後の悪足掻きであった。
これが不発となれば何もすることがない、というくらいの。
然し……
「断る」
従業員一同の代表として出てきたケンスケの口から出たのは、ゴウユウがある意味で最も恐れていた言葉だった。
「俺たちはお前の会社を辞める。つまりお前の部下ではなく、よって<>お前の言葉には一切従わない。即ち、俺たちの誰もお前を殺すことはない」
「ぁ……ぁぁ……」
「つーか、お前如きの為に殺人の罪を背負うなんざ割に合わねーっつーの」
「そうそう。あとここ、クロビネガだしぃ? お前殺すのって、誰にとってもマイナスにしかならないんだよねぇ〜♪」
「そん、なあ……」
「残念だったな隈取ィ。お前の望みは叶わない……どころかお前は、これから最悪の生き地獄を味わうことになるんだ」
ニイヒトの一言は、ゴウユウを震え上がらせるに十分過ぎた。一体何をされるというのか。
今すぐにでも逃げ出したかったが、足に力が入らない。
ニイヒトはそんなゴウユウを嘲笑いながら、大振りなバケツを手に振り被り――
「うおらあっ!」
その中身をゴウユウ目掛けて力強くぶちまける。
「ーーーっっっ!!??」
一体どんな毒劇物かと、最初は思った。
浴びれば即死か、全身が焼けるか、或いは溶けたり腐る可能性もある。
否、殺さない、生き地獄を味わうというのなら、致死性でなく、皮膚が腫れ上がったりするのかもしれない。
そう思った。寧ろ望んですらいた。
もしそうなら、奴らは結局その程度の存在だと嘲笑うことができたから。
お前たちも所詮はそんなものに過ぎないと挑発できたから。
だから苦痛を望んだ、のだが……
(なにも、起こらぬっ……!?)
結局、隈取ゴウユウは裏切られる。
ニイヒトが浴びせたバケツの中身は、どうやらただの汚水であった。
幾らかの異物を含み、ある程度の異臭を放つ、ただの汚水。
それをただ浴びせただけで、終わり。
去り行く背中へ何を言おうと、振り向かず、立ち止まりもしない。
そうして遂に、豪邸にはその主のみが残される。
虚無。
それが自分に課せられた罰か。確かにこれは生き地獄だ。
然し、ともゴウユウは思う。
(……逆に考えればどうだ、我はまだ生きておる。ただ汚水まみれになっただけで、生きておるではないか。
ならばまだ……幾らかやり返せるっ! 終わってなどおらぬぞ!
私兵がいない? 悪事がバレた? だから何だ? それがどうした!
死んでおらんならまだ負けぬ! 負けぬどころかまだ勝てる!)
絶望的な状況にかえって燃え上がる何かを感じたゴウユウは、決意を新たに立ち上がる。
割れていない部屋の窓を開け放ち、汚水まみれの衣類を勢いよく脱ぎ捨てる。
爽やかな風が湿気や異臭を吹き飛ばす。
「そうだっ! このままでは終わらんぞ! まだまだ我は――ぅひぃっ!?」
唐突に大きな音がして、ゴウユウは縮み上がる。
恐る恐る背後に目をやるも、視界には何も映らない。
「……誰か知らんが脅かしおってっ……誰だ!? 姿を見せろっ!」
姿なき侵入者を、ゴウユウは怒鳴り付ける。
するとその声へ応えるかのように、床や壁、天井ががたがた、どたどたと揺れ始め、
窓の外からは鈍い音が聞こえてくる。
「ここ、こ、今度は何だぁ!?」
恐怖に震え上がるゴウユウを嘲笑うかのように、揺れは激しく、音は大きくなり、
豪邸の至る所にできたありとあらゆる入口から入り込んだ侵入者たちは、我先にと老人の私室へ集結する。
「っ、ひぃぃぃいいいいぃぃぃ!」
侵入者たち改め彼女らを見たゴウユウは、恐怖と不快感に震え上がり悲鳴を上げる。
大柄なもの、小柄なもの、翅を持つもの、触角を持つもの、
外骨格を持つもの、色鮮やかなもの、地味な色合いのもの、
八本足のもの、背に節足を持つもの、無数の足を持つもの、
足のないもの、素早いもの、群れをなすもの、獰猛なもの……。
様々な姿をした彼女ら――無数の虫魔物たち――に共通しているのは、主に一つ。
誰もが剥き出しの性欲を隠しもせず、餓えた表情でゴウユウを見据えていたということ。
「おい、よせ……」
及び腰のゴウユウ。
震えた声が、正気を欠いた虫魔物たちに届くことはない。
「や、やめろ! 我を誰と心得るか!? ナニガシ企画代表取締役社長、隈取ゴウユウであるぞ!?」
そんなこと知らん関係ないと言わんばかりに虫魔物たちは息を荒げ、ゴウユウににじり寄る。
それは幾らかの読者諸兄姉にしてみれば夢のような素晴らしい光景であろう。
恐らく多くの方々は、少々躊躇い怖じ気づきこそすれゴウユウほど拒絶はしないと思われる。
然し、生来の虫嫌いにして魔物嫌いでもあるゴウユウにしてみれば、
眼前に広がるのはこれ以上ない悪夢の如き光景に他ならず。
「来るでない……来るなあああああっ!」
四方八方を取り囲まれたゴウユウに、逃げ場などある筈もなく……
「ぐぎょわああああああああああっ!」
ゴウユウの悲鳴は、彼自信が今まで踏み付け、傷付けてきた誰よりも惨めで哀れな弱者のそれだった。
「上手く行ったみたいだねぇ」
「隈取の野郎にはお似合いどころか贅沢すぎる末路ですよ。ぶちまけたのが藻仁田だったのが気に入りませんでしたけどね」
「食われたり殺されたりするわけじゃないからな。少なくとも肉体は無事だろう。もしかしたらあれを機に改心……するとは思いがたいが」
「つまり……『次にあなたたちは「隈取爆発しろ」と言うでしょう!』……という流れですね。
または『隈取ざまあ』かもしれませんが」
「エリモス……責めるわけじゃないが、そんなネタいつ覚えたんだ?」
「はい、マダラタさんに教わりました」
「や、だってエリモスちゃん地上のこと知りたいっていうから」
「はい。マダラタさんのお話はケンスケさんのお話とはまた違った興味深さがあって好きです」
「まあ、君が満足しているならそれでいいんだが」
「ところで話は変わるがな斑田」
「ん、何〜?」
「あの汚水……確か『試作型独身魔物誘引興奮剤‐虫用』だったか、よくあんなもの見付けて来たな」
銀辺の言う『試作型独身魔物誘引興奮剤‐虫用』とは、ニイヒトがゴウユウに浴びせていたあのバケツの中身のことである。
「ああ、あれね。SNSで仲良くしてる研究者が『相性のいい魔物娘とお近づきになれる香水の作り方』ってコラムを書いててね?
『各魔物が好きな成分を混ぜてピンポイントでいい感じにGET!』みたいな内容だったんだけど」
「見るからに怪しい記事だな……」
「というかマダラタさん、本当に広い人脈をお持ちですね……」
「エリモスさん、そこ無理に誉めるとこじゃないです」
「まあ怪しい知り合いが多いのは認めるよ。
それで、その記事には幾つかの注意事項があってね? その注意事項に敢えて全力で違反するように作ったらああなったんだよぉ〜」
「その研究者が不憫過ぎる……」
豪邸付近の路地裏でゴウユウの悲鳴を聞き届けた四人は、事前に調べておいた地下道へ潜り、その先に用意してある隠れ家へと急ぐ。
当初はエリモスの巨体をどう隠すかが問題だったが、幸いにも彼女は人化の術を習得済みであったため事なきを得た。
(さて、あとは世間の反応次第だが……)
ゴウユウとの戦いを終えたケンスケらナニガシ企画の元従業員たちはあの後、それぞれ事前に確保しておいたルートを通ってその場から逃げ出した。これ以上目立つわけにはいかなかったからである。
そもそもケンスケからして、今回の作戦を考えた時点で一連の行為が決して褒められたものではなく、寧ろ悪行ですらあると自覚しており、今回の作戦に賛同した元従業員たちも皆考えは皆同じだった。
後に彼が某所にて語ったところによると、
『本来なら労働基準監督署や警察といった公的機関に相談し、法的に戦うのが正攻法である。
ただ隈取ゴウユウという男はそういった正攻法が通用しない相手だった。奴の力は法さえも捻じ曲げかねない。だからこうするのがその時は最適解だと思った』
との事。
続けて、
『派手に動くのだから目立つのは当然。目立てば何かと面倒なことになる。
だから、作戦が終わったらすぐに安全な所へ逃げ込んで隠れられるよう準備を徹底したんだ。
潜伏して、俺たちが世間からどう思われ、どう扱われていくのかを知らなければと。
そうして世間の反応を粗方知った所で、どう動くかを考えていくしかないだろう、と』
元従業員たちはその後暫く、各々の隠れ家でテレビやネットなどを駆使して情報収集に徹した。
やはりと言うべきか、彼らの起こした騒動は連日各種メディアを騒がせ、日本国内はおろか海外メディアまでも注目するほどになった。
彼ら元従業員たち、中でも取り分けケンスケたちは思った。
自分たちの行動はどうあがいても犯罪だ。逮捕されるだろうし、向こう三年は世間から批判を浴びることを覚悟しなければならないだろう。
然し実際、人々は彼らを非難も糾弾もしなかった。
多くの人々は、苦境に立たされ、強硬手段に打って出ざるを得ないまでに追い詰められた彼らを擁護し、中には『ブラック企業を打ち破った』として英雄視する者さえも決して少なくはなかった。
このことが切っ掛けとなり、それまで潜伏していたナニガシ企画の元従業員たちは積極的に表舞台へ立つようになり、世間はかの企業がいかに恐るべき邪悪であったかを嫌と言うほど知らされることとなる。
これを機に人々は、労働、ひいては経済や社会そのものの在り方について長い時間をかけて徐々に認識を改めたりしていくわけであるがそれはまた別の話。
ここからは、各登場人物のその後について語らせて頂こう。
斑田ハンタロウ。
隈取ゴウユウに関する情報や彼の暴言をネット上に流出させ公にするという重要な役割を担った彼は、持ち前の弁舌と社交性、幅広い知識や人脈を活かし、ナニガシ企業元従業員たちの代表格として表舞台の第一線で活躍。
情報発信や、ブラック企業根絶に向けての講演活動をこなし多忙な日々を送る。
絶大な人気やカリスマ性から芸能界や政界への進出も噂されたが、当人はそれらを否定。
表立った活動は後続に任せるとして、彼自身は経営者としてこの社会をよりよくしたいとの思いから起業を決意し、短大に再入学するなど東奔西走。
短大在学中に出合った刑部狸の設楽ワカバと意気投合し、交際を経て卒業後に結婚。程なくして優れたホワイト企業の経営者として妻共々名を馳せるようになる。元々好色であった彼はインキュバス化も早く、比較的早い段階で二児の父となり幸福な家庭を築いたという。
魚住カゲトラ。
今回の一件で自分が、真面目で情熱的な反面想像以上に直情的で怒りっぽくストレスに弱い性格だと自覚した彼は、
ハンタロウらのような表舞台での活動を辞退し、自分自身を見つめ直し更なる高みを目指すべく各地を旅しては様々な経験を積んでいく。
その過程で若くして幾多の修羅場をくぐり抜け、各所で華々しい活躍を続けたカゲトラは、自身の手で着実に世界が改善されつつあることに誇りと喜びを感じながら、一方で壮絶な日々に疲弊もしており平穏を求めて引退。
緩やかな旅路の果てに辿り着いた長閑な海沿いの街でシー・ビショップのネクトと運命的に出会い結ばれる。
情熱的で幸福感に溢れた交わりの果てにインキュバス化を果たしたカゲトラは、漁師や観光ガイドをしながら妻と共に穏やかな日々を過ごしている。
その他のナニガシ企画元従業員たちに関しても、最悪のブラック企業から解放されたことで自由を手にし、それぞれの道を歩み始めている。
中には魔物と結ばれた男性従業員や、魔物と化した女性従業員も数多くいるようである。
隈取ゴウユウ傘下にあった私兵194名は、その全員がケンスケらの策によりけしかけられた魔物娘らとめでたくゴールイン。
ゴウユウの破滅により枷から解き放たれた彼らは皆過去に犯した罪を償う意思こそあったが、裁判所は魔物の伴侶たる彼らに、魔物の伴侶ならではのある特殊な刑を命じた。
その特殊な刑が如何なるものであるかは……各自お察し頂きたい。
ここまでは幸福を獲た者たちばかりを紹介してきたが、戦いを制した者の中には悲惨な結末を迎えた例外も極僅かに存在する。
その僅かな例外とは読者諸兄姉もお察しであろう。
そう、藻仁田ニイヒトである。
戦いの後ほとぼりが冷めた所で表に這い出てきた彼は諸方でずる賢く立ち回り、ナニガシ企画時代に犯した全ての罪をゴウユウ――消息不明につき不起訴処分――に擦り付け無罪を主張。
当然元従業員たちや世論はそんな彼を糾弾し、元従業員の一人によって起訴される。
然し彼は業界で
以後はナニガシ企画時代にゴウユウから偶然聞き出した同社の機密情報やゴウユウ自身の秘密を
著書は飛ぶように売れ、全国各地で入荷当日に品切れという事態が相次いだ。
印税収入はナニガシ企画時代とは比べ物にならない額になり、更に調子づいたニイヒトは己の実力を過信し芸能界や政界に進出。最初の半年こそ物珍しさに注目されたが長続きはせず、著書の売り上げも急落したことで収入源を失う。
然しそれでもニイヒトは働きもしなければ生活水準を下げようともせず派手な暮らしを続けた。結果金が底をつき、ニイヒトが破滅するのにそう時間はかからなかった。
そして――
(ここから再び、俺たちの……彼女と俺の、新しい生活が始まるんだ……)
(不安がないわけではありません。然しどんなことでも、彼とならきっと乗り越えられる気がするから)
銀辺ケンスケとエリモス。
ある日唐突に知り合い、そして恋に落ち、そして一連の騒動を引き起こすこととなった二人もまた当然世間から注目を集めた。
各方面から取材が相次ぎ、二人の出会いの地となった鳥取砂丘は元より、ケンスケの自宅や出身地、行きつけの店から愛用の文具に至るまであらゆるものが調べ上げられては連日メディアで取沙汰され、彼ら二人に起因する経済効果は計り知れないものとなっていく。
これに乗じて鳥取県はエリモスに住民票を与え、正式な砂丘の住民として認めることを決定。砂丘の一定区画をエリモスとケンスケの住居として正式に指定し部外者の無許可での立ち入りを禁じる、役所に婚姻届を出しに来た二人に対し膨大な予算を投じて大規模な結婚式を企画するなど全力で厚遇した。
挙げ句の果てには二人に関する何かしらの日――出会った日なり誕生日なり――を祝日とする流れまであったと言えば、一連の挙動はいっそ異常とすら言えた(流石に制定とはならなかったが)。
その裏側には、二人を観光資源として活用し、経済効果の恩恵を余すところなく享受するとともに、人魔共存に積極的な県であると内外に向けてアピールしイメージアップを図っているだとかの意図もあったが、同じくらいに二人への敬意や思いやりも含まれていた。
そしてその甲斐もあり、夫婦は今も尚砂丘の奥底で仲睦まじく暮らしている。
……というのが、表向きに発表された話。
そう、公に明かされている事実はこれだけ。だが実の所、この話には続き、というよりも、隠された真相がある。
「ケンスケさん、こっちですよー! 早く早くっ!」
「ああ、今行くから待っててくれ。……あ、走って転ぶなよー?」
白いワンピースに麦わら帽子というスタイルで日の当たる石畳の上を駆けていくのは、人化の術で人間に化けたエリモス。後を追うケンスケも比較的ラフな格好で、ゆったり進む足取りは目に見えて軽やかだった。
(……まさか、新婚旅行を兼ねて身を隠すために妻の故郷に里帰りとは……悪くないな)
ケンスケとエリモスは現在、魔物の本来の生息地である異界を訪れていた。
(然し、まさか県がここまで俺たちの面倒を見てくれるとはな……木綱県知事には本当に足を向けて寝られん)
当時鳥取県知事を務めていた木綱という男は、ケンスケとエリモスが間接的にもたらす経済効果を存分に利用しようと策を練る一方で、世間からの注目を集める余り苦悩の絶えない日々を過ごさざるを得ないであろう夫婦に何とかして自由と平穏を与えたいとも考えていた。
そこで彼は思考を巡らせ、先程述べたようにエリモスの住まいである鳥取砂丘の一角を正式に銀辺夫婦へ住居として譲渡すると発表することで『銀辺ケンスケとその妻エリモスは鳥取砂丘の深部で生活している』と人々へ認識させた。
然しそのまま夫婦を砂丘に住まわせたのでは、いつ如何なる要因で彼らの自由と平穏が脅かされないとも限らない。そう考えた木綱は己の持ちうるありとあらゆる人脈を辿り、二つの世界を繋ぐ門の管理者たる魔物らと接触。
交渉の結果、『毎年県内在住の独身男性の最低三割を彼ら自身の意思で魔物と結婚するよう仕向ける』等といった幾つかの魔物向け政策などを交換条件として銀辺夫婦を異界へ招待、住居や物資などの全面的なバックアップまでも確約させるに漕ぎ着けた。
移住の時点でインキュバス化を果たしていたケンスケは、愛する妻エリモスと共に、人外夫婦然とした淫らで愛と快楽に溢れた自由で平穏な日々を謳歌している。
「斑田……魚住……元ナニガシ企画のみんな……俺は今、幸せだよ……」
爽やかな風の吹く虚空へ向けて、ケンスケは呟く。
「この先何が起こるか、俺にはわからない。
辛いこと、苦しいこと、悲しいこと……
どんな出来事が待ち受けていても、俺は負けない……とは言い切れないけど、
負けたとしても、そのまま終わらせはしない。
敗北にさえ抗い続け、最後には必ず勝つと誓おう。
だからどうか、みんなも幸せな、敗北に抗う勝者であってくれ」
立ち止まり待っていたエリモスに追い付いたケンスケは、少し膨れっ面で抱き付いてくる妻の腰に手を回し、薄いシャツ越しに押し当てられた胸の感触を堪能しながら優しく語りかける。
「さあエリモス、次はどこでなにをしようか?」
「そうですね。じゃあ――」
斯くして元社畜のインキュバスと砂虫は、未来へ向かって歩き出す。
彼ら夫婦の行く先に待つもの……
それらはきっと、砂丘を明るく照らす、淡く暖かな光の中に。
それが、スナキズナ。
20/02/26 22:42更新 / 蠱毒成長中
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