読切小説
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狐の嫁入り
僕は小さい頃に狐の嫁入りに行き合ったことがある。
澄み渡った青空はどこまでも高く、やけに静かな朝だった。いつもは木々の葉が擦れる音や虫の声がする森の中が、あまりに静かで子供ながらにも僕はみんなが何かを待っているようだと思った。だって、まるでピアノの発表会で演奏が始まるのを待っているようだったから。そう、今日の主役は僕らじゃない。
そして、ゆっくりと、でもはっきりとそれは始まった。
空から落ちてきた雫が草葉を叩く。鈴の音のような音が鳴る。初めは小さかったそれは、だんだんと重なり合って、森全体を響かせる。今まで晴れていたのにもかかわらず、降り出した雨に僕は木陰に逃げ込んだ。それでも空は青いまま。まるで別の世界に入り込んでしまったような錯覚を覚えて、急に怖くなった僕は、その場にうずくまって泣き出してしまった。
そんな僕の耳に足音が聞こえてきた。木の陰から覗き込んだ僕はよく叫ばなかったものだ。もしも叫んで気付かれていたら、僕は今この場に居られなかったと思う。
それは狐の行列だった。狐が人みたいに二本足で立って、人みたいに着物を着て、列になって歩いていた。その周りには青い狐火がいくつも揺らいでいた。狐火のせいか、僕が泣いたせいか、狐の行列は陽炎のようだった。列の真ん中には白く綺麗な花嫁衣装を身にまとった狐。静謐な空気の中、狐たちの行列は誇らしげであり、嬉しそうだった。狐の顔色なんて分からないが、そんな感じがした。もちろん恐怖で動けなかったというのもあるが、今思い返すと僕はその光景に見惚れてもいたのだろう。
だから、一番後ろにいた小さい狐と目があっても、綺麗だと思うだけだった。その狐は足を止め僕を見ていた。僕らは見つめ合っていた。その子は、おそらく行列の誰かから呼ばれたのだろう、耳をかすかに動かすと行列の方に駆けて行った。僕は行列が見えなくなって、雨が止んでもしばらくその場から動けなかった。
昼食の時間になって、僕を迎えに来た母親は木陰から覗き込むようにして固まっていた僕を見て、怪訝そうな顔をしていた。木々がさざめき、虫が歌ういつも通りの森の中を帰る途中、僕の服はもう乾いていた。今見たものが幻か白昼夢であったかのように。そこで見たものを僕はついぞ誰にも話さなかった。誰も信じてくれないだろうというからではなく、その光景を僕は独り占めしたかったのだ。特に子狐と見つめ合っていたことは僕にとって宝物になった。
後からそれは狐の嫁入りだったのだと知った。その美しく、触れてはいけないような光景は今でも僕の瞼の裏に張り付いている。


「ここは変わらないもんだな」
俺は不思議な体験をしたこの地を数年ぶりに訪れていた。大学3年になった今でもああの光景はありありと思い出すことができる。あの体験によって、今の俺が形作られていると言っても過言ではない。あれから俺は土地に伝わる伝承に興味を持つようになり、調べていくうちにその土地土地の文化にも興味を持ち始め、今では民俗学を専攻している。俺が特に研究対象としているものは、もちろん狐だ。あの体験以来、俺は狐に取り憑かれてしまったようだ。今回の訪問はこの土地についての風俗をレポートにまとめるためだ。
とはいえ、下調べでは狐の伝承どころか稲荷神社すら見つかっていない。だからと言って、狐に関して書けないわけではない。稲荷信仰が溢れているようなこの国で、むしろこの土地にはなぜ稲荷神社がないのか、という切り口で当たれば良いだけだ。正直なところ、厳しい気もするが。
「ま、何事もやってみなくちゃ始まらんだろう」
正直なところ、外からではこの町について調べられた事はほとんどなかった。だから、この町に来る計画を何度も立てていたのだが、ことごとく中止せざるを得ないことが起こったのだ。台風で飛行機が飛ばない。ならば電車を使おうとすると今度は土砂崩れで運行しない。車の免許を取ってからも、エンジントラブルで結局たどり着けなかった。今回、この地を再び訪れられたことは、俺にとって念願であり、奇跡に近かった。「やっとたどり着けたんだ。良くも悪くも何かしら得るものはあるだろう」
俺は自分を奮い立たせるとさっそく町の図書館へと向かった。

「マジかよ」
俺は図書館の椅子に背を預けながら深い溜息をついていた。予想していたこととはいえ、実際に見つからないというのは堪えるものがあった。稲荷どころか、神社や寺に関する情報がまったく見つからなかった。そして、俺が沈んでいる理由はもう一つあった。
事端山(ことばしやま)。俺が今まで大切に思ってきたあの山は。子飛ばし山、少なくとも大正までも間引きされた子供が捨てられていた山だったのだ。
曰く、事端山に捨てられた子は跡形もなく消える。まるで飛んで行ってしまったかのように。
大方は獣に喰われたしまってだろうが、それでも痕跡すら見つからなくなる。ある者は山が子を食うのだといい、ある者は山姥が攫って行くのだという。白髪の山姥が住んでいたという伝承も見つかった。だから、この町の人たちは、事端山には入らない。唯一入るのは、橋森という家のものだけだということだった。自分の大切な思い出の山がそんな曰く付きの山だったとは。いくら現地で調査できなかったとはいえ、今までそんな話は見つからなかった。ネットの限界だろうか。この土地の人とコンタクトを取ろうとしても、いい人には出会えなかった。自分のアドレスを送ると、様々なコスプレをしたマニアックなエロ画像ばかりを送って来るなんて、どう考えてもいい人ではない。確かに画像に写っていた人は美人ばかりで得にはなったが、っと閑話休題。
俺は調べ物を手伝ってくれた司書さんにお礼を言って、図書館を後にした。
俺の気持ちを萎えさせはしたものの、この図書館で得られたものは十分に過ぎた。本来なら数日かかっても調べられないことだろう。町の伝承に詳しいお年寄りや研究者を見つけて、さらに信用を得ないと話してもらえないような内容だ。あんな優秀な司書さんに出会えたのは、運が良かった。そして、彼女は美人だった。町を歩いていて気付いたことだが、この町には美人が多い。大抵が仲良さそうに男女で歩いている。兄妹や親子もいる。子飛ばし山なんて伝承があっても昔の話、むしろそんな過去があるからこそ、こんな光景があるのではなかろうか。いささか飛びすぎでもあると思うが、そんなことを思わずにはいられなかった。
もう今日は図書館での収穫をまとめるためにも、早めに宿に行くことにした。


懐かしい光景を夢で見た。この土地に来たからだろう、僕は子供で狐の嫁入りを見ていた。
青空が雨のライスシャワーで祝福し、森全体が拍手を送る。その中を着物を着て、誇らしげな狐たちが歩いていく。僕はかつての体験を夢でなぞっていた。いつ見ても綺麗だ。その行列を眺め続けていると、最後尾にいた子狐と目が合った。くりくりとした可愛らしい目だ。大人になった今でも綺麗だと素直に思う。その子狐はよくそこで別の狐に知らせなかったものだ。今考えると、かなり危ない状況である。大人の狐に気付かれていたら、婚礼の引き出物にでもされていただろう。この後、彼女は視線を切って行列に追い付こうと去っていくのだ。もっと見ていたいのに残念だ。美しい金色の毛並みを雨に濡らしながら去って行ってしまう。
あれ、俺はなんであの子狐が雌だってわかるのだろう。見惚れている中に冷静な思考が入る。狐の雄雌なんてこの状況じゃわからないはずなのに。いや、分かるか。彼女は女物の着物を着ている。今まで気づかなかっただけだ。だって、こんなにも長く彼女を見るのは、初めて、だ、から。
「もうすぐ会えるよ。嬉しいな」
彼女が笑う。俺は驚く間も無く、仰向けに倒れこむ。目を閉じる時、白髪の女が見えた気がした。

俺は跳ね起きた。眠る前に見た天井だ。体も濡れていない。あの時と同じ。
「今のは、夢?、本当に?」
あまりに生々しく、彼女の声がまだ耳に残っていた。時刻は午前6時。彼女に会える、そんな予感がした。期待と同時に空恐ろしさも湧いてくる。実際問題として、彼女が俺に会いに来る理由は一つしかないだろう。目撃者を消すために、俺を殺すためにやって来るのだろう。触れてはいけないものにふれたものの末路はいつだって同じ、俺はあの時に殺されていてもおかしくは無かった。ただ運が良かっただけ。それは遅いか、早いかだけの問題。普通、自分が殺される予感を抱いているのに俺は不思議なほど冷静だった。如何か。彼女になら、あの美しい狐になら、殺されてもいいと俺は思ってしまっていたからだ。本当に俺はあの時、狐に、いや、彼女に魅入られてしまったのだろう。
俺はすぐに支度を整えると事端山へと向かう。夢にまで干渉するくらいなのだから、逃げようとしても逃げられないだろう。向こうが来るのを待っているくらいならこちらから出向いてやる。最後の場所はあの場所にしよう。命を拾った場所で、今になって命を落とす。両親や友人に申し訳ないと思うが、もう俺の足は自分の意思を離れて動いている。あんな夢を見てしまったことで、自分は妄想に捕らわれてしまっただけではないかという考えも少しはよぎったが、もう自分の意思では止まらなくなってしまった歩みを他人事のように見ている今となっては、予感は確信へと変わっていた。
事端山の中腹、思い出の場所で俺はだんだんと明るくなってきた空を見上げていた。山は妙に静かで、狐の嫁入りに行きあったあの朝のようだ。あの時、俺はなんて思っけ。そうだ。

"今日の主役は僕らじゃない"
ふ、と笑みが溢れた。望む形ではないが、今日の主役は俺、俺たちだ。近くに何かの気配を感じて俺はそう思った。死の気配とでもいうのか。でも、思っていたよりは優しい気がする。俺がすでに受け入れてしまっているからか。
「いいよ。そこに居るんだろう」
俺は振り向きもせずに声をかける。
「あまり焦らさないでくれるかな。やるなら一思いにやってくれ」
「なんなら食べてしまっても構わない」
その言葉を言い終わらないうちに、俺は強い衝撃を受けて吹き飛ばされる。
最後に俺の目に写ったのは、黒く透き通った瞳と、金の、髪ーーー


目を覚ますと今にも泣き出しそうな顔が覗き込んでいた。
彼女は誰だろう。分からないが、とんでもない美人だ。金砂のように流れる長髪、白磁のように滑らかな肌、その中でしっとりとした唇が赤く艶かしい。整いすぎた顔立ちはまるでこの世のものでは無いようで、それでも潤んだ瞳と綻んでくる表情が、彼女が生きているものだと教えてくれる。彼女の瞳は見覚えがある気がする。そうか、彼女のくりくりとした黒目がちの目はあの子狐に似ているのか。彼女の頭の上についている耳も相まって、尚更重ねてしまったのかもしれない。
「って、え、耳」
思わず声に出してしまった俺は、次の瞬間押しつぶされた。
「よぉかったですぅぅぅーーー」
彼女の歓喜の叫びの後、俺の耳には一切の音が聞こえなくなった。何か柔らかいもので聴覚が、視界が、嗅覚が、鼻と口が塞がれる。
「ごめんなさい。やっと会えた嬉しさで思わず抱きついて、まさか勢い余って、気絶させてしまうなんて。でも、目を覚ましてくれてよかった。このまま目が覚めなかったらって思ったら、怖くて怖くて。でも、あなたも悪いんですよ。ずっと恋い焦がれてやっと会えた私に向かって、”なんなら食べてしまっても構わない”なんて言葉を言ったら、我慢できる訳ないじゃないですかーーー」
より力が加わって、全く息ができない。ずっとタップしているのに離してもらえない。もうダメだ。意識が遠のく。なのに何故だろう。この幸福感は、満足感は、なにか幸せなものに包まれている感覚は。こんな死に方なら、悪くな、い…。
「牡丹、そろそろ離してあげないと、彼、また気絶しちゃうわよ」
「え」
拘束が緩む。
「ご、ごめんなさい。私嬉しくて思わず」
再び光を見た俺は大きく息を吸い込む。死ぬかと思った。そして、今まで俺を殺しかけていた凶器が目に入る。大きい。俺はおっぱいで殺されかけていたのか。なるほど、それならばあの幸福感には納得できる。って、おっぱいにもみくちゃにされていたのか俺。急激に恥ずかしさが込み上げて来る。しかも、この枕は伝説に聞く膝枕というものではないのか。
「きゃ」
思わず頭を上げた俺に彼女が驚く。言っておくが、君の何倍も俺の方が驚いていると思う。こんな美人にこんなことをされて落ち着いていられるほど、俺は免疫はない。そう、美人だ。いや、人ではないのか。見れば彼女には耳だけでなく、尾までついていた。
まさか、「君は狐なのか」
俺は彼女に尋ねることしかできなかった。
「はい」
彼女の尾が嬉しそうに揺れる。俺は彼女のそんな様子を見て、次の言葉が浮かばないでいた。
「あらあら、見つめ合っちゃって」
そんな俺に対して、別の方から声がした。声のした方に目を向けると、絶世の美女とも言える女性が木にもたれかかりながらそこにいた。腰まで届く白い髪、瞳は紅く妖しく引き込まれてしまいそうだ。彼女の頭には角があり、背には翼、さらには尾まである。明らかに人ではないというのに、魅入ってしまう自分を抑えることができない。それに彼女を見ていると何か熱いものが込み上げてくる。
そう、その唇を吸い、舌を絡め、乳房を揉みしだきたい。その股を広げ、屹立した自身を挿入して、滾るものをぶちまけたいーー。理性が夢想に絡め取られる。
気づけば俺は彼女の手を握り、その黒い瞳と見つめ合っていた。
「うわわっ」
俺は驚いて、急いで手を離した。彼女はキョトンとしていた。手には彼女の柔らかい体温が残っている。
「ぷっ、あはははははは」
美女がまるで子供のように大笑いをし始めた。腹を抱えて笑うなんて仕草でもその魅力は失われない。
「ふふ、上々上々。私に当てられても、牡丹の方に向かうなんてなかなか見所あるじゃないあなた」
狼狽える俺をよそに美女は続ける。
「初めまして。私は、橋森 結(ゆい)。種族はリリム」
「リリムって、悪魔の?」
「いいえ、私は魔物娘のリリム。この世界とは異なる世界の存在。だから、似通っている部分もあるけれど、あなたが思っているリリムとは違うものと思ってもらった方がいいわ」
「魔物娘」
初めて聞く言葉だ。
「魔物娘がなんたるかなんて、別の世界の人には少し話をしただけでは分からないでしょうから、詳しくはおいおい教えてあげるわ。今は簡単に」
橋森さんが俺に近寄り、耳元に口を寄せる。彼女の香りに頭がクラクラする。
「エッチで一途な女の子」
そんな言葉が彼女の吐息と一緒に耳に入ってきた。あまりの刺激に俺は立っていることができずに、尻餅をついてしまった。
「と思ってくれていいわ。姿形は人とは違うけどね」
いたずらっぽくウインクする。やっぱり悪魔じゃないか。
「さて、牡丹。早く入ってこないと、私が彼、貰っちゃうわよ」
「っだ、だめですっ」
慌てた狐娘に俺は抱きすくめられた。柔らかな彼女の香りと温かな体温が伝わって来て、自分の体温が上がっていくのわかる。更には、彼女の豊かな胸の感触に身動きできずに固まってしまう。
「じゃあ、そのままでいいから自己紹介なさい」
そのままでよくない。離れるように言ってもらいたかった。正直勿体無いとも思うが。
「そのまま」
はっと自分がしていることに気づくと彼女は顔を赤くしながら離れてくれた。かわいいと、素直に思った。
彼女は深呼吸をすると、
「私は稲荷の牡丹と言います。ふつつか者ですが、これからよろしくお願いいたします」
稲荷ってということは神様。いや、さっき橋森さんが言っていたように、こちらの稲荷神とは別物と考えたほうが良いだろう。そっちも気になったが、聞き捨てならない言葉を言われた気がする。
「えっと、これからよろしくって、どういうこと」
「そのままの意味ですが。私はあなたに娶っていただくために来たのです」
はにかみながら答えるその顔には嬉しさも混じって、美しかった。
こんな子にそんなことを言われたら二つ返事で了承してしまいそうだが、
「そんな。会ったばかりでお互いのこともよく知らないのに結婚なんて」
俺は戸惑うばかりだった。臆病と言いたければ言えばいい。結婚なんて大事なことそんな簡単にできるわけがない。それに俺には彼女が簡単に触れて良いものと思えなかった。
「初対面ではありません」
そんな俺をよそに、彼女は少し語気を強めて言った。
「忘れてしまったのですか。私たちは昔、この場所で出会ったではないですか。確かにあの時はまだ私も子狐でしたが、あれだけ見つめ合っていたのに忘れるなんて。私があなたに会えるのをどれだけ心待ちにしていたか」
彼女は泣き出しそうな様子で俺の手を握ってくる。
俺と見つめ合っていた子狐。それはあの子しかいない。彼女が本当にあの時の子狐であるなら。
忘れるわけがない。覚えていたからこそ自分はここにいる。
「君はあの子だったのか。忘れるわけはないよ。だって、俺がここに居るのは君に会うためだから」
俺の言葉を聞くと彼女は、はっと目を見開いてから、喜色満面ででほころんだ。目尻には涙も浮かべている。
俺から触れる。彼女の頭に手を置いて撫でる。
ぅん。
彼女は艶っぽい声を出して、気持ちよさそうにする。俺は彼女を神聖視して触れることを躊躇ってしまっていた。でも、それはむしろ失礼だったようだ。こんなにも俺を想っていてくれた子を抱きしめないわけにはいかなかった。
二人で抱き合い、お互いの唇が触れようとした時、
端からの視線に気づいた。
「あの橋森さん」
「私のことは気にしないで、さあ、チュッチュしなさい。後、私のことは名前で呼んで頂戴」
「気にしますよ。近いです」
いつの間にか俺たちの至近距離で橋森、結さんは見物していた。特等席どころか、結さんもキスに混じってきそうなほどに近かった。
もう雰囲気もないので離れたが、牡丹は顔を赤くして俯いている。
「私だったら気にせずするのに、というか我慢できないわ。彼女は稲荷だからかしら。でも、ここでお預けしてしまったら、後が怖そうね。くわばらくわばら」
結さんは楽しそうだ。彼女の言っていることはよくわからなかったが、人前でキスなんて出来るわけがない。
「さてと、再開も終わったことで、嫁入り準備もあることだし、私たちは一旦戻りましょうか。準備できたら彼女を送り届けるから、楽しみに待ってて頂戴」
「ちょっと待ってください。結婚はもちろんしたいのですが、こちらにも準備がありますし、両親への挨拶とか。というか、彼女に戸籍はあるんですか」
「シャラップ!そんなことは後ですればいいの。好きあった男女がいてお互いの合意があるのに、何を待つ必要があるの。嫁入り道具を取ったらそのままゴールインでいいでしょうが」
「それに、その辺りのことは上手くやるから気にしないで頂戴」
不穏な笑みを浮かべる結さんに俺はそれ以上何も言うことができなかった。
そうして、結さんは顔を赤くしたまま黙り込んでしまった牡丹を連れて消えてしまった。
「じゃあ、また明日」と。

嫁入り準備なんて1日2日で終わるものではないのと思うのだが、その言葉通り、彼女たちは翌日に現れたのだった。


俺は牡丹のことを考えていた。
今の俺を形作った彼女。彼女と結婚するということは未来の俺も彼女によって作られていくことになるのだろう。それを悪くないと思ってしまうあたり、俺はもう相当に彼女に惚れてしまっていた。彼女は狐で俺は人間で、これからの生活をどうしていくのか、子供は生まれるのか、などと気の早いことまで頭に浮かんでくる。
益体もなく考えながら、俺がぼんやりと宿から空を眺めていると、真っ青な空から水滴が落ちてきた。それは一滴一滴と数を増やして街中を覆う。暖かな陽射しの中、降り注ぐ雨は道を清めていく。雨がアスファルトの道路を弾く音に混じって鈴の音が聞こえてくる。
雨の中に灯っていく青い狐火が道標となって、彼女がやって来る。それは昨日見た彼女より、思い出の中の彼女よりも美しく、俺は生涯この光景を忘れることは出来ないだろう。白無垢に身を包んだ彼女に連れ立っているのは、彼女と同じように人の姿に狐の耳と尾を生やした美しい女性たちと人間の男性たち。疑問に思うことはいくつかあるが、今はそんなことはどうだっていい。
彼女は俺の前に立つと喜色満面で言った。
「ふつつか者ですが、これからよろしくお願いいたします。旦那さま」
思わず彼女を抱きしめた俺の周りで、歓声が上がる。
「こちらこそよろしく。幸せになろう牡丹」
人の目なんて気にならず、俺たちは唇を重ねていた。
先程までの厳かな雰囲気は何処へやら、歓声はさらに大きくなる。
子供の頃に行き会った狐の嫁入り。まさかその婿として参加することになるとは夢にも思っていなかった。夢ならば覚めないでほしいが、握った手のひらの温かさが、柔らかさが、これは夢ではないと教えてくれている。これからやらなくてはならないことは沢山あるが、今はただこの幸せを噛みしめよう。
二人のためだけの天気雨ーーー。
15/05/17 18:14更新 / ルピナス

■作者メッセージ
初めまして、ルピナスと言います。
いつもは読んでばかりでしたが、今回初めて投稿させていただきます。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

初めては稲荷さんと決めていた!

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