読切小説
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結婚という地獄、あるいは金鵄愛好家への追悼
「火ぃ貰うよ」
「勝手にするといい」
じ、と紙の燃える音がした。
彼女は気の置けない同居人だ。おれにとっては数少ない友人でもある。
彼女はおれの咥えたタバコから火を分けると、ゆっくりとおれの顔に煙を吐いた。
原稿が煙で隠された。彼女はこうしておれの気を引くのが好きらしい。
「何をする」
「煙草を人に向けて吹くのは意味がある」
「そうかい」
作家をしていると度々変人扱いされるが、それを不満に思ったことはない。とはいえ締め切りが近づくたびに頭が割れそうな思いをしていると友人が減っていくのは少し寂しく、彼女のような気の置けない友人は貴重な存在だ。最早彼女以外は多少狂った作家連中しか残ってはいまい。
彼女はおれの肩に頭を乗せた。
「紙煙草はどうかと思ったが、なかなか悪くはないもんだな」
「む。それだけは阿呆に感謝している」
阿呆というのは友人の名だ。すなわち作家であり阿呆が本名であるわけもないが、彼は響きが気に入ったと好んで名乗っている。やはり多少ネジが緩んでいるのだろう。
おれも少しばかりはズレているが、あれほどではない。
その阿呆が勲章だなんだと騒いでおれに寄越したのがこの金鵄という煙草である。
「金鵄ってのは、どういう意味なんだい」
「そりゃあ金色の鵄(とび)だろう」
「君は少しばかり疲れているようだな」
おれは呵々として笑った。「もの書きなぞ疲れておらんとやってられるか」
ふんふんと頷いた彼女はおれの脇に手を通して抱き上げた。「めしにしよう」そのままずるずると引きづっていく。「疲れたらめしを食い女を抱いて寝る。これが大事だ」
おれはその心地よい響きに背筋をなぞられた気がして叫んだ。「待て!待て!今のは何だ。書いておく!」
「なんだい」彼女は稚気を零したおれを笑った。「疲れていたんじゃないのか」
「疲れているとも。だから美しい文がわかるのだ」
「そればかりは私もようわからんね」
「わかったやつが文を書くのだ」
『疲れたら めしを食い 女を抱いて とこに着く』おれはその散文がいたく心を打ち生き返ったようにさえ感じたのだが、どうにも腰があがらず彼女に引きづられるがまま原稿を後にした。
良い文は腰を抜かすのだ。今度阿呆にも教えてやろう。

彼女は面倒見がいい。おれもひどく助けられている。例えばめしがそうだ。
「こりゃ、どこの酒だ」
「さぁ? 河童が寄越したもんだから私はしらん」
「じゃあ河童の国だな」
皮膚は赤色だろうか緑色だろうか。どこにでもいる妖の類らしいがどこの水から作ったものなのだろうか。
考え込むおれのくちに酒がうつされる。見ると、鼻の先の距離で彼女の眉がしかめられている。
「ほかの女のことを考えるたぁ、浮気ものだね」
「ああすまん。酒がうまくてな」
「そうかい」彼女はまた口を合わせて酒を飲ませてくる。「それが私の味だ」
「なるほどうまいな。これが女の味か」
「私の、だ」彼女はそう呟くと箸をおれの口に突っ込んでくる。「これもだ」
おれは彼女に延々ひっつかれながら食事を交わした。普段は何にせよ手間の掛からぬ女だが、めしのときばかりはすこし我儘になる。普段たいそう世話になっているからとおれもめしのときくらいはいいかと付き合うのだが、なにぶんえらく時間がかかってしまうのだ。
膝に乗せた彼女の肩越しに箸を動かしておれはいう。
「おまえはもうめしはいいのか」
彼女はわずかに腰を揺らして笑う。
「これが私のめしだからな」
「そうか」おれは彼女の背に回した手で強く抱きしめた。「なら食え」そして放つ。
彼女はああだかんんだか艶かしい声を上げて喉をそらした。おれは酒の味を求めてその口を吸った。
「足りん」
「食い過ぎると太るぞ」
「まだ団子ふたつ分くらいしか食っとらん」
おれは彼女に酒を渡し、その口を吸うのを何度か繰り返してめしを終えた。
おれはまた筆を取ろうと立ち上がったが、しかし彼女のめしはまだ終わらない。おれと繋がって抱きついたままの彼女はいう。
「やめろやめろ、あとは女を抱いて寝る。これだけだ。さぁ、抱け」
「いや、こういうのもなんだが、おれは女の扱いをしらん。お前以外に女の友人もおらん。どうすればいいかわかったものではない」
「馬鹿。抱けと言ったら抱くんだ。抱き潰すように抱け」
おれはよくわからないまま彼女を強く抱きしめた。彼女の身体がびくびくと震える。「これでいいのか?」
彼女は顔を夕焼けのようにしながら首を振った。
「だ、だめだ。いいか、女を抱くというのは、そのまま寝てしまうまでぐうっと抱きしめ続けるということだ。できれば腰をゆすりながら」
「それは大変だな!」おれは仰天した。先達らの偉大さがすこしわかった気がした。そりゃあ年寄りが偉そうにもするものであろう。
彼女は頷いた。「だから昔から言うだろう。結婚したら地獄だと。さ、抱け」
そうしておれは腕の中で震える彼女を延々抱きしめ続けて気がつけば腰を揺らして、気を失うまでそれを続けた。

煙草の匂いにはと身体を起こすと、彼女はおれの腰にまたがり金鵄を咥えていた。
「お早う。昨日はよく動いたな」
おれは彼女と繋がっているところが腐り落ちていなくて安堵した。身体が保たぬのではと思うほどの思いをしたのだ。
「お早う。ああ、そうか。結婚か」
おれは子を成そうという結婚したものがすることをしたのだ。結婚せねば道理に合わぬ。
彼女は朝餉の途中だがこちらに目を合わせた。
「おれでいいのか」
彼女は言う。「あんたがいいんだ」
「ろくでなしだぞ」
彼女は言う。「何を今更」
「自分で言うのもなんだが、文を書くことしか能のない、金もない、つまらぬ男だ。おれは、月並みだが、お前に幸せになってほしい。おれなどより……」
彼女はおれと口を合わせて、おれの言葉を止めた。しばらくそうして、言う。
「あんたと一緒になれないなら、私はどうしても幸せになれん。文を書くことしか能がないなら文を書けばいいさ。私はそのあんたしかしらん。たくさん金があるところなぞ見たこともない。でも」彼女は言葉を区切った。「私はあんたに惚れたんだ。私の惚れた男を馬鹿にするな」
おれはまんじりともせず彼女の言葉を聞いていた。気圧されてため息が出た。「いい女がいるもんだ。どうかおれと結婚してくれ」
彼女は少女のような笑みを浮かべた。
「はい、宜しくお願いします、旦那様」
しかし、いざ結婚となるとどうにも、彼女を抱かねばならない使命感のようなものが溢れてくる。
まだ朝だと言うのにだ。さしものおれも、それが人目を忍んで夜半に行うものであることは知っている。
「めしはまだ終わらんか?」
おれが尋ねると、彼女はいたずらっぽく私の顔に金鵄の煙を吹き付けた。
「何をする」おれははたと気がついた。「ああ、意味があるんだったな?」
少女であることをやめた彼女は金鵄を咥え直して言った。「お前を抱くという意味さ」
「それは些かおかしい。男がやるものだろう」
彼女は言った。「今どきは女もやるだけの話さ。さて、手始めにここ数日分ほど抱くとしよう」
おれを布団に押し倒し、しがみつき腰を振り始めた彼女におれは改めて思うのだ。
結婚したら地獄だと。
19/07/25 23:03更新 / けむり

■作者メッセージ
ゴールデンバット
1906〜2019
他にはない喫味、値段と釣り合わぬ旨さ、優れたパッケージデザインで数々の愛好家を生み出し、現代まで連綿と受け継がれてきた名煙草。
有名どころとしては太宰治、芥川竜之介、中原中也など。
旧3級品の特別税率廃止の影響で廃盤となる。

ぬらりひょんさんとゴールデンバットでシガーキスしたいだけの人生だった

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