休息と旅立ちと
「ありがとうございましたー!」
出ていく客に頭を下げる。
ここはノーステイルの街、中心街から少し離れた場所にある食事処。
現在、レオンハルトはその食事処で従業員として雇われていた。
旅をするには金が必要。そのため彼は立ち寄った街で短期間の住み込みの仕事をさせてもらったり、街毎の特産品などを売買することで生計を立てていた。
今回お世話になっている食事処は、そうした住み込みが出来る仕事の一つだった。
この日最後の客を見送り、彼は店先の掃除を始める。
「ありがとうね、レオンハルト君」
「ああいえ。お世話になっているのはこちらですから」
そんな彼の背中にかかる声があった。
雨に濡れたような黒塗りの髪に、母性の滲み出る優しく垂れた目尻。穏やかで母性的な雰囲気を乱す、水浸しにされ肌に貼り付いた藍色の着物と、ソレを押し上げる男なら誰でも視線がいってしまう淫らな肢体。
彼女の名前は時雨。この食事処の主人の妻である魔物――ジパングに生息するぬれおなごと呼ばれる妖怪だ。
「しかし、本当に反魔領なのに魔物が結構居るんですね」
珍しげに彼が呟く。
この街は反魔領である。だが、反魔領と言ってもなにも魔物は絶対悪、滅ぼすべき、という考えの場所ではない。
この街のスタンスは反魔寄りの中立。立場上は反魔領を名乗っているものの、その中身は、人間に過度な被害を与えない――ここでの被害とは、無理矢理男を犯したり、女性を魔物化したりしないことだ――を念頭に、街中で極力魔物の姿をしない、ということを条件に魔物の定住を許可しているのだ。
「そういえば、レオンハルト君は他の国の出身でしたっけ?」
「はい。だから凄い珍しいです。反魔領っていったら普通、魔物が居るだけで処罰される場所ですから」
大体の反魔領はそうした、魔物は排除すべきという考え方を持っているのだが、この街は例外のようだ。
しかし、当然のことながら何の考えも無しにこの街が中立の政策を行っているわけではない。
この街が彼女たちを受け入れている理由――それが、魔物の持つ技術だ。
人間とは違い、魔物はその名の通り魔力を食らうことで生活し、魔力由来の力を使用することで絶対的な力を発揮するのだが、元々は戦闘で使用されていたこうした力を現在の魔物は番となる人間のために使用する。
そうした人間とは違うアプローチを行う力は、生活をより便利に、豊かにするための革新的な技術に使用されるのだ。
こうした魔物側の技術や、ホルスタウロスのミルクを代表とする、人間側の利益に繋がる物品を得るためにこの街は中立として魔物が住むことを許可しているのだ。
「中々面白い街ですね」
「私はちょっと住みにくいですけどね」
噂通りの街だと上機嫌なレオンハルトの言葉に思わず苦笑してしまう時雨。
彼女の種族はぬれおなご。ぬれおなごはその名の通り全身が水浸しになっているような姿が普通の姿である。
この街で魔物が生活する条件はいくつかあるが、その内の一つが『人に近い姿で生活する』というものがある。どんな魔物であっても人に化けること、それが条件の一つ。だが、ぬれおなごは人に近い姿にはなれても、人と同じ姿になることは出来ない。
勿論そのような、人の姿になりきれない、もしくはなるのが下手くそな魔物の為にこの制度には『極力』という猶予を残してはいるのだが、時雨本人からすると皆が人と変わらぬ姿をしている中で一人だけほとんど元の姿と変わらないというのは気まずいことらしい。
「でもほら、時雨さんのこと皆好いてますし、洋吉さんも濡れてるのが好いって」
俺も時雨さんと居ると涼しく感じて好きですよ、と笑うレオンハルトに、からかわないでください、と頬に手を当てて縮こまる時雨。
既婚者でありながらこの可愛らしさ。この店の店主である洋吉のことを少しだけ羨ましく思いつつ、彼は暖簾を下げる。
本来なら店の者がやらなければならないところだが、時雨の身長はラインハルトと比べてあまりにも小さい。そのため身長の高いラインハルトが暖簾を下げているのだ。
しかし、小さいのに胸は抱えるくらいの西瓜サイズで少し括れた腰と桃のような尻。童顔と身長が合わさり少女にも見える姿でありながら、あまりにも妖艶な落差による異様なまでの色気。
魔物って反則、いや、洋吉さん羨ましいなと独り身特有の嫉妬を少しだけおぼえてしまう。
「ああ! もう終わりなのかい」
「…何でまた丁度良い所に」
そんな彼に声をかけてくる影。
金糸の如き髪が肩口ほどで切り揃えられており、赤い瞳は切れ目と相まってまるで宝石のように鋭くも暖かい光を放つ。
服装は旅装束ではなく、恐らく部屋着なのだろう。胸元の開けられた純白の服に紺色のピッチリと身体とくっついたズボン。
ハッとするような美人であるが、どこか快活な印象を受けるのは溢れる彼女の雰囲気と服装のせいだろうか。
彼と共にこの街にやって来た旅人の女性、フィールだ。少々息が荒いのは、どこかで運動でもしてきたからだろうか。
現在彼女は、この店の前にある宿の二階に泊まっていると聞いていた。
「あら、フィールちゃん御飯?」
「はい」
なぜか知らないが時雨とフィールはとても仲が良い。
こうして彼が見ている間にも、ドンドンと話が進んでいく。
「うーん、今日も店じまいなんだけど…」
「えー、そこをなんとかー」
「そうねぇ…あ、レオンハルト君は晩御飯まだよね?」
「え、あ、まあ…」
うーん、と何やら悩みはじめる時雨。と、何か思いついたのだろうポンッと手を叩くと二人を見ていった。
「じゃあ、賄いを二人で食べたらどうかしら?」
「どうかしらというか、いつもそれですよね…」
まあ、いいですけど。
レオンハルトは他人と食事をすることは決して嫌いではない。だが、毎回のようにこのようなやり取りをされればため息の一つは吐きたくなるし、彼自身なぜかこの会話に大きな含み、企みを感じて仕方がないのだ。
「ねぇ、今日はどんなご飯なんだい?」
「そりゃ――ッ」
時雨が店に引っ込み、自分も続くかと歩き出そうとしたところで側から聞こえてきた声にそちらを向いて彼は思わず硬直した。
妖しげに輝く赤い瞳と獲りたての果実のように瑞々しい唇。開けられた胸元から見える、豊満と言って差し違えない胸によって出来上がる山脈のような谷間に、少し視線をズラせばそこには砂時計のようにキュッとした腰とそこから伸びる、つい手を滑らせてしまうような美しい曲線を描く、丁度つかみやすそうな臀部。
微かに香る甘ったるい花のような、果実のような香りと服越しの温もりが、彼女がこちらの間合い深くに存在している
外套を脱いだとしても、旅装束と言う物は水筒であったりナイフであったりと様々な物を吊るしたり、様々な物を所持する関係上厚手になりがちだ。そんな厚手の服の上からでも分かる彼女の肢体。
こんな厚く着てても分かるのか、と感心しつつも想像していた身体がこうして表に出てくる。
「――ぇ、ねえ!!」
「なんだ?」
「だから、今日のご飯はどんなものかなって」
「あー、ほら、魚だった気がする」
何でもいいから入ろう。彼は彼女を置いて先に店に入る。
凶悪、などという物ではない。身体のラインを浮かび上がらせる服だからこそ改めて感じる彼女の肢体の魅力。耳心地の良い声に、何よりあの妖しげな光を放つルビーのような瞳。
あれ以上一緒に居たらもしかしたら手を出していたかもしれない。魔物であっても退けてきた自分が、高々人間の女性一人程度でどうこうなるとは。
少し意志が弱くなっているのかもしれない。自分自身を叱責するようにやれやれとため息を吐く彼。
そんな彼の背中を見て、彼女は三日月のように口元を緩めて笑う。その瞳に言い得ぬ輝きを宿して。
「で、路銀の方はどうなんだい?」
今日の賄いは魚の煮付けと鶏肉を天ぷらというジパング特有の揚げ方で挙げた食べ物だ。相変わらずの味の良さについつい無言で舌鼓を打つ二人だったが、ふと気になったのか彼女がフォークを止めて彼に尋ねた。
「ああ、今回は住み込みが許されたから大分貯まってきたな。明日か明後日には出ようと思ってる」
「そっか…」
ふーん、と食事を再開する彼女を見て、彼は言葉に詰まる。
今彼は迷っていた。
いつものように今までありがとう、と言って別れるか、それとももし次も目的地が同じなら一緒に行かないか、と言うか。
昔から複数人で旅をするのは普通だ。むしろ彼や彼女のように一人で旅をする者の方が少ないとも言える。だからこそここで相方を得ることが出来ればこれからの生活がグッと楽になるのは間違いない。
彼女とはかろうじて両手で数えるほどしか関わっていないが、それでも信用に足る人物であると言う確信が彼にはあった。
そのような人物が相方となってくれると凄い喜ばしいのだが…そこまで考えて彼は首を振った。
違う。自分は彼女の事を好ましく思っているのだ、と。
今までも彼女と同じか、それ以上の美貌を持つ魔物と関わったことがある。その中には一緒になってほしいと言ってくれる女性もいた。
だが、彼は旅人であり、最終的に目的がある人だ。世界を見て回る、それ以外に選択肢が無い彼からすれば、街とはどこまでいっても止まり木に過ぎず、そこに住まう彼女たちはあくまでも良くしてくれた人。
そんな彼女たちに対して自分は根なし草を気取って逃げに徹するだけの人間。とてもではないが、彼女たちの気持ちに応える気にはなれなかった。
そう言うときは心を鋼にして耐えたものだが、フィールが相手だとそれをするのが難しい。
彼女が懐に入るのが上手いとも言うし、自分の防御が甘くなっているともとれる。
注がれた酒を飲みながら彼は彼女を盗み見る。
酒が入って赤く染まった頬。キリッとした切れ目も今ではトロンと垂れ下がり、快活だった雰囲気はなりを潜めていて、身体の方も赤くなっているようで、熱いと開かれた胸元からはシャツの白によって際立つ朱に染まった谷間がチラチラと見えている。普段のどこか少年を思わせる雰囲気から一変、全身から色気を放つその姿はある種の芸術的な雰囲気があるが、酒も入った独り身からすれば毒だ。
毒ではあるが、純粋に美しいと思った。
初めて会ったときはその雰囲気に気を許し、外套を脱ぎ去って素顔を晒されたときは、そのルビーのような瞳に吸い寄せられた。魅了されたと言っても良い。
この女性と共に旅ができたらどうだろう? この瞳が楽しく輝く場面を見てみたい。素晴らしい場所に巡り会えたときの感動を分かち合いたい。そんなことを考えてしまう。
だが、それはあくまでも自分の願いでしかない。彼女も旅人であるならば、恐らく何かしらの目的があると見て間違いは無い筈だ。
そんな彼女を、ただただ各地をさ迷い歩くだけの旅に付き合わせようなどとは傲慢なことだ。
そう焦がれたところで彼女には分からないのだから黙っていればいい。
旅は出会いと別れの連続。彼女との出逢いもまあその程度だったということだ。
「んふふ、そんなに熱い視線を送っちゃって……火照ってきたじゃないか」
「あ? なにを――なにやってますかねあなたさまは!?」
ニヤニヤと笑いながら胸元のボタンを外し始める彼女を見て彼は目を剥いた。
いくらからかうにしてもやりすぎだぞ! そう怒ろうとするが、口はわなめくばかりで動く気配を見せず、視線は胸元に縛り付けられる。
白い服によってより強調される赤く染まった肌。テラテラと煌めく汗の跡と甘い香りが彼の頭を痺れさせる。
「たっ、ちが悪いぞお前ッ!」
「あはは、ごめんごめん。でも、君が悪いんだよ?」
妙に熱の入った彼女の視線を振り払うような必死の声色に笑いながら胸元を直す彼女。ホッと息をつくまもなく彼女に言われてうぐっ、と声に詰まる。
確かに彼女の言う通り、酒の席とはいえやりすぎだ。だが少し待ってほしい。
「視線が胸元に行ってたのは謝るが、別に胸をみていたわけじゃない」
「へー、そっかそっか」
「…色々考えてんだよこっちも」
下手に話を続ければボロが出てしまうのは明らかだ。彼は気持ちを落ち着かせるようにお冷やを一息に飲み干して大きな息を吐いた。
喉をツンッと貫く冷たさに頭が冷える。
とりあえず、今は彼女との食事を楽しむとしよう。無理矢理思考を交換しつつ、彼は浴びるようにグラスを傾けるのであった。
『ねぇ――』
それは金色の女性。彼も良く知る女性。
『これからどうしよっか?』
優しく微笑んでくれた。優しくしてくれた。だから自分は惚れたと言っても過言ではない。若かったといえばそうだが、何処の馬の骨とも知れない自分を温かく迎えてくれた彼女は自分にとって絶対だった。なのに――
『もう用済みなのよ、汚らわしいッ!!』
冷たい、つめたい。つめたいのは嫌いだ。つめたく感じるのは、あついから。ならこんなあつさなんていらない。こんなねつなんて――
『――?』
「ッ!? はッ、ゆ、夢か……」
嫌な夢を見たものだ。彼はその夢を振り払うように頭を振った。
だが、いつもと違って胸の内は何処かスッキリしている。何故かはわからない。思ってみるとなぜか途中からつめたさは陽だまりのような暖かさに変っていた。
何の気なしに首元にそっと手を当てる。とっくの昔に棄てた筈の熱がまだ、そこに残っているような気がした。
「馬鹿を言うな。もう、あんなのは御免だ」
弟には悪いが、暫く旅をさせてもらおう。あいつの晴れ姿は見たい。だが、きっとその隣には、いや、隣でなくともあそこに行けば彼女に会わなければならない。もしかしたら会わないかも、なんて甘い考えは切り捨てる。彼女はあの場所にとって必要不可欠な人材。取り換えの効く自分のような存在とは違って、彼女は――
「止めだ止め。こんなこと考えて何になる」
そんな気持ちはとっくの昔に捨て去った。今の自分は勝手気ままな旅人で、それだけでいいじゃあないか。
大きく深呼吸をして息を吐きだす。酸素が巡り回りだす頭の中で彼はふと思った。
最後に声をかけてくれたのはだれなんだろう? と。
「もう行っちゃうの?」
「ええ。路銀は貯まりましたからね。今日まで本当にお世話になりました」
「いやいやこちらこそ。レオンハルト君が来てくれて本当に楽しかった」
僕たちもこんな子が欲しいよね。恥ずかしいです、洋吉さんっ、と朝からイチャイチャラブラブしている店主夫婦を見て苦笑しながら彼はもう一度頭を下げると外套を翻してノーステイルの門へと歩き出した。
街並みを眺めながら彼は歩く。振り返るようなことはしない。住み心地の良さそうな町ではあったが自分の目的はあくまでもあの場所へ戻ること。いくら住み心地が良さそうだからと言って定住するわけにはいかないし、ましてこれからまた長い旅路を行くというのに感傷に浸っている暇はないのだ。
しかし、とそんな彼の心に少しだけ後悔が浮かぶ。
共にこの街に来た彼女。昨日は酒盛りをしていたのだ、こんな日もようやく昇り出す時間では彼女はまだ寝ている頃だろう。疼く胸を勘違いだと抑えつけ、彼は荷物を抱えなおして一路門へと歩いていく。
門番に挨拶を済ませた彼は、とりあえず進路を南に。例の大樹の元に向かっていた。
特にこうと言った理由はない。強いて言うならば彼女と出会ったあの場所に行ってみようかという女々しい気持ちだけだろうか。だが、案の定というべきか、彼が街を出て暫くすると雲行きがドンドンと怪しくなってくる。この一帯は冷たい風と暖かい風が混ざり合う地形だから天候が変わりやすいとかどうとかと黒い毛並で褐色の肌を持つ魔物娘が言っていたことを思い出すが、重要なのは旅人にとって雨と言う物が大変迷惑であるということである。
近くに民家はない。屋根になるものと言えばあるのは例の大樹だけ。あの嬌声を聞くのは勘弁したいのだが、今回は仕方がないだろう。彼はそう口の中でぼやくと大樹を目指して走り出すのであった。
大樹にたどり着いた――次の瞬間に降り始める雨。まるでタライでもひっくり返したような大雨に思わず顔を顰めてしまう。
――朝の悪夢と言い、とんだ厄日だ。
そう思い大きなため息を吐く彼であったが、視界の端に見慣れない物を見つけた。
それは足だ。大きな木の根の陰から微かに見える人の足。
その足になぜか強烈な既視感を覚えた彼は、フラフラと幽鬼のようにその足に向かって歩き出した。
一歩、また一歩。ドクドクと耳元に心臓があるように頭の中に心臓の鼓動が響き渡る。震える手で幹を押して震える身体を支えつつ、彼はゆっくりとその足に向かって歩いて行き、そしてついにその主を発見した。
息を呑む。美しい、などという物ではない。恐らく妖精というのはこういうモノを言うのだろう。
さらさらと流れる金色の髪。穏やかに閉じられた瞼と長いまつ毛、口元から漏れる甘い吐息。幹に寄りかかりあどけない寝顔を晒す少女の名前を彼は知っている。
「ふぃー、ね……」
心の中でつぶやくはずだった言葉は、無意識のうちに口から漏れていた。
その言葉に反応したのか、彼女の瞼がピクリと動き、ゆっくりと身体が動き出す。
「あ……れおんはると?」
ぽーっとした彼女の姿に喉が鳴る。
とろりと垂れ下がった眉尻に、涙で濡れた瞳。欠伸をかみ殺して伸びる肢体はしなやかで思わず抱きしめたらどうなるだろうと考えてしまうほどで、おとがいを上げて見える喉元は、思わずむしゃぶりついてしまいたくなるほど魅力的だ。
無防備という言葉がこれほど似合う状態もないだろう。グッと歯を噛み締めて耐える彼を他所に、目の焦点が合い始めたフィールはもぞもぞと立ち上がった。
「おはよう。随分と早いじゃないか」
「ああ、それは俺が早く街から――って、そうじゃない!!」
彼は思わず叫んだ。何故此処にいるんだ。
「君はボクを置いて街から離れるつもりだったんだろう?」
「え、あ、いや……」
目を細められて、まるで蛇に睨まれた蛙のように身を縮めた彼。返す言葉もなかった。彼女の言う通り自分はそのまま街を出る予定だったし、下手をすればこの大樹の前にすら寄らなかっただろう。
「まったく、先に色々仕込んでおいてよかったよ」
「――え?」
彼女の呟きの内容は詳しく聞こえなかったが、何か聞き捨てなら無いことを言われたことだけは分かった。聞き返そうとする彼であったが、それよりも先に彼女が切り出した。
「ねえレオンハルト。旅は良いと思わないかい?」
「は?」
「だから、旅は良いと思わないかい?」
「そりゃ、まあ……」
旅は良い、それは確かに彼女の言う通りだ。だが、それが今までの話とどうつながるのか。混乱する彼を見て、彼女はボソリと何かを呟くと怒ったように眉を寄せて言った。
「誰かと旅に出れたら良いと思わないかい?」
「……まあ」
「何よりも信頼できる人が一緒に居る旅って素晴らしいと思わないかい」
「確かにそうだが、それでも一時的な物でしかないだろう」
行きずりの関係というのは旅人によくあることだが、だからと言ってそれがそのまま信頼になるとは思えない。事実、そういうところで苦い経験をしてきた彼はそうした人と共に居ることは敬遠がちだ。
彼の様子を見て、ついに彼女は大きなため息を吐いた。これは直接言わないと駄目らしい。
「あのね、よかったら――」
「俺と一緒に来てくれないだろうか」
「ぇ?」
彼女の視線の先には彼のつむじ。
「良かったら、で良いんだ。これから俺は西の都を経由して、その、ノースフォレストに行こうと思ってるんだ」
「ノースフォレスト?」
「ああ。何もない土地なんだけど、そこが自分の目的地なんだ」
ノースフォレストは、特に特色も何もない町である。あるとすれば特産品である木製の工芸品くらい。
だが、その場所には彼の家族が居た。彼の大切な人達が。
長い、永い旅。だがいつかはそこへ。そう思ってずっと旅をしてきたが、どこまで行っても決意できない。覚悟が持てずただ冷めて斜に構えているだけだった彼は、今この瞬間、熱を取り戻していた。
駄目かもしれない。緊張で震える身体を、ふわりと温かいモノが包み込んだ。
「そっか、君もノースフォレストに行くんだね?」
「君も、ってまさか――」
そんなことがあり得るのか。顔を上げて目を見開く彼の瞳に、陽だまりが咲いた。
「ボクもそこへ行くんだ」
これからよろしくね、レオンハルト。
雲の切れ間から漏れる日が、流れる雨を包み込んだ。
出ていく客に頭を下げる。
ここはノーステイルの街、中心街から少し離れた場所にある食事処。
現在、レオンハルトはその食事処で従業員として雇われていた。
旅をするには金が必要。そのため彼は立ち寄った街で短期間の住み込みの仕事をさせてもらったり、街毎の特産品などを売買することで生計を立てていた。
今回お世話になっている食事処は、そうした住み込みが出来る仕事の一つだった。
この日最後の客を見送り、彼は店先の掃除を始める。
「ありがとうね、レオンハルト君」
「ああいえ。お世話になっているのはこちらですから」
そんな彼の背中にかかる声があった。
雨に濡れたような黒塗りの髪に、母性の滲み出る優しく垂れた目尻。穏やかで母性的な雰囲気を乱す、水浸しにされ肌に貼り付いた藍色の着物と、ソレを押し上げる男なら誰でも視線がいってしまう淫らな肢体。
彼女の名前は時雨。この食事処の主人の妻である魔物――ジパングに生息するぬれおなごと呼ばれる妖怪だ。
「しかし、本当に反魔領なのに魔物が結構居るんですね」
珍しげに彼が呟く。
この街は反魔領である。だが、反魔領と言ってもなにも魔物は絶対悪、滅ぼすべき、という考えの場所ではない。
この街のスタンスは反魔寄りの中立。立場上は反魔領を名乗っているものの、その中身は、人間に過度な被害を与えない――ここでの被害とは、無理矢理男を犯したり、女性を魔物化したりしないことだ――を念頭に、街中で極力魔物の姿をしない、ということを条件に魔物の定住を許可しているのだ。
「そういえば、レオンハルト君は他の国の出身でしたっけ?」
「はい。だから凄い珍しいです。反魔領っていったら普通、魔物が居るだけで処罰される場所ですから」
大体の反魔領はそうした、魔物は排除すべきという考え方を持っているのだが、この街は例外のようだ。
しかし、当然のことながら何の考えも無しにこの街が中立の政策を行っているわけではない。
この街が彼女たちを受け入れている理由――それが、魔物の持つ技術だ。
人間とは違い、魔物はその名の通り魔力を食らうことで生活し、魔力由来の力を使用することで絶対的な力を発揮するのだが、元々は戦闘で使用されていたこうした力を現在の魔物は番となる人間のために使用する。
そうした人間とは違うアプローチを行う力は、生活をより便利に、豊かにするための革新的な技術に使用されるのだ。
こうした魔物側の技術や、ホルスタウロスのミルクを代表とする、人間側の利益に繋がる物品を得るためにこの街は中立として魔物が住むことを許可しているのだ。
「中々面白い街ですね」
「私はちょっと住みにくいですけどね」
噂通りの街だと上機嫌なレオンハルトの言葉に思わず苦笑してしまう時雨。
彼女の種族はぬれおなご。ぬれおなごはその名の通り全身が水浸しになっているような姿が普通の姿である。
この街で魔物が生活する条件はいくつかあるが、その内の一つが『人に近い姿で生活する』というものがある。どんな魔物であっても人に化けること、それが条件の一つ。だが、ぬれおなごは人に近い姿にはなれても、人と同じ姿になることは出来ない。
勿論そのような、人の姿になりきれない、もしくはなるのが下手くそな魔物の為にこの制度には『極力』という猶予を残してはいるのだが、時雨本人からすると皆が人と変わらぬ姿をしている中で一人だけほとんど元の姿と変わらないというのは気まずいことらしい。
「でもほら、時雨さんのこと皆好いてますし、洋吉さんも濡れてるのが好いって」
俺も時雨さんと居ると涼しく感じて好きですよ、と笑うレオンハルトに、からかわないでください、と頬に手を当てて縮こまる時雨。
既婚者でありながらこの可愛らしさ。この店の店主である洋吉のことを少しだけ羨ましく思いつつ、彼は暖簾を下げる。
本来なら店の者がやらなければならないところだが、時雨の身長はラインハルトと比べてあまりにも小さい。そのため身長の高いラインハルトが暖簾を下げているのだ。
しかし、小さいのに胸は抱えるくらいの西瓜サイズで少し括れた腰と桃のような尻。童顔と身長が合わさり少女にも見える姿でありながら、あまりにも妖艶な落差による異様なまでの色気。
魔物って反則、いや、洋吉さん羨ましいなと独り身特有の嫉妬を少しだけおぼえてしまう。
「ああ! もう終わりなのかい」
「…何でまた丁度良い所に」
そんな彼に声をかけてくる影。
金糸の如き髪が肩口ほどで切り揃えられており、赤い瞳は切れ目と相まってまるで宝石のように鋭くも暖かい光を放つ。
服装は旅装束ではなく、恐らく部屋着なのだろう。胸元の開けられた純白の服に紺色のピッチリと身体とくっついたズボン。
ハッとするような美人であるが、どこか快活な印象を受けるのは溢れる彼女の雰囲気と服装のせいだろうか。
彼と共にこの街にやって来た旅人の女性、フィールだ。少々息が荒いのは、どこかで運動でもしてきたからだろうか。
現在彼女は、この店の前にある宿の二階に泊まっていると聞いていた。
「あら、フィールちゃん御飯?」
「はい」
なぜか知らないが時雨とフィールはとても仲が良い。
こうして彼が見ている間にも、ドンドンと話が進んでいく。
「うーん、今日も店じまいなんだけど…」
「えー、そこをなんとかー」
「そうねぇ…あ、レオンハルト君は晩御飯まだよね?」
「え、あ、まあ…」
うーん、と何やら悩みはじめる時雨。と、何か思いついたのだろうポンッと手を叩くと二人を見ていった。
「じゃあ、賄いを二人で食べたらどうかしら?」
「どうかしらというか、いつもそれですよね…」
まあ、いいですけど。
レオンハルトは他人と食事をすることは決して嫌いではない。だが、毎回のようにこのようなやり取りをされればため息の一つは吐きたくなるし、彼自身なぜかこの会話に大きな含み、企みを感じて仕方がないのだ。
「ねぇ、今日はどんなご飯なんだい?」
「そりゃ――ッ」
時雨が店に引っ込み、自分も続くかと歩き出そうとしたところで側から聞こえてきた声にそちらを向いて彼は思わず硬直した。
妖しげに輝く赤い瞳と獲りたての果実のように瑞々しい唇。開けられた胸元から見える、豊満と言って差し違えない胸によって出来上がる山脈のような谷間に、少し視線をズラせばそこには砂時計のようにキュッとした腰とそこから伸びる、つい手を滑らせてしまうような美しい曲線を描く、丁度つかみやすそうな臀部。
微かに香る甘ったるい花のような、果実のような香りと服越しの温もりが、彼女がこちらの間合い深くに存在している
外套を脱いだとしても、旅装束と言う物は水筒であったりナイフであったりと様々な物を吊るしたり、様々な物を所持する関係上厚手になりがちだ。そんな厚手の服の上からでも分かる彼女の肢体。
こんな厚く着てても分かるのか、と感心しつつも想像していた身体がこうして表に出てくる。
「――ぇ、ねえ!!」
「なんだ?」
「だから、今日のご飯はどんなものかなって」
「あー、ほら、魚だった気がする」
何でもいいから入ろう。彼は彼女を置いて先に店に入る。
凶悪、などという物ではない。身体のラインを浮かび上がらせる服だからこそ改めて感じる彼女の肢体の魅力。耳心地の良い声に、何よりあの妖しげな光を放つルビーのような瞳。
あれ以上一緒に居たらもしかしたら手を出していたかもしれない。魔物であっても退けてきた自分が、高々人間の女性一人程度でどうこうなるとは。
少し意志が弱くなっているのかもしれない。自分自身を叱責するようにやれやれとため息を吐く彼。
そんな彼の背中を見て、彼女は三日月のように口元を緩めて笑う。その瞳に言い得ぬ輝きを宿して。
「で、路銀の方はどうなんだい?」
今日の賄いは魚の煮付けと鶏肉を天ぷらというジパング特有の揚げ方で挙げた食べ物だ。相変わらずの味の良さについつい無言で舌鼓を打つ二人だったが、ふと気になったのか彼女がフォークを止めて彼に尋ねた。
「ああ、今回は住み込みが許されたから大分貯まってきたな。明日か明後日には出ようと思ってる」
「そっか…」
ふーん、と食事を再開する彼女を見て、彼は言葉に詰まる。
今彼は迷っていた。
いつものように今までありがとう、と言って別れるか、それとももし次も目的地が同じなら一緒に行かないか、と言うか。
昔から複数人で旅をするのは普通だ。むしろ彼や彼女のように一人で旅をする者の方が少ないとも言える。だからこそここで相方を得ることが出来ればこれからの生活がグッと楽になるのは間違いない。
彼女とはかろうじて両手で数えるほどしか関わっていないが、それでも信用に足る人物であると言う確信が彼にはあった。
そのような人物が相方となってくれると凄い喜ばしいのだが…そこまで考えて彼は首を振った。
違う。自分は彼女の事を好ましく思っているのだ、と。
今までも彼女と同じか、それ以上の美貌を持つ魔物と関わったことがある。その中には一緒になってほしいと言ってくれる女性もいた。
だが、彼は旅人であり、最終的に目的がある人だ。世界を見て回る、それ以外に選択肢が無い彼からすれば、街とはどこまでいっても止まり木に過ぎず、そこに住まう彼女たちはあくまでも良くしてくれた人。
そんな彼女たちに対して自分は根なし草を気取って逃げに徹するだけの人間。とてもではないが、彼女たちの気持ちに応える気にはなれなかった。
そう言うときは心を鋼にして耐えたものだが、フィールが相手だとそれをするのが難しい。
彼女が懐に入るのが上手いとも言うし、自分の防御が甘くなっているともとれる。
注がれた酒を飲みながら彼は彼女を盗み見る。
酒が入って赤く染まった頬。キリッとした切れ目も今ではトロンと垂れ下がり、快活だった雰囲気はなりを潜めていて、身体の方も赤くなっているようで、熱いと開かれた胸元からはシャツの白によって際立つ朱に染まった谷間がチラチラと見えている。普段のどこか少年を思わせる雰囲気から一変、全身から色気を放つその姿はある種の芸術的な雰囲気があるが、酒も入った独り身からすれば毒だ。
毒ではあるが、純粋に美しいと思った。
初めて会ったときはその雰囲気に気を許し、外套を脱ぎ去って素顔を晒されたときは、そのルビーのような瞳に吸い寄せられた。魅了されたと言っても良い。
この女性と共に旅ができたらどうだろう? この瞳が楽しく輝く場面を見てみたい。素晴らしい場所に巡り会えたときの感動を分かち合いたい。そんなことを考えてしまう。
だが、それはあくまでも自分の願いでしかない。彼女も旅人であるならば、恐らく何かしらの目的があると見て間違いは無い筈だ。
そんな彼女を、ただただ各地をさ迷い歩くだけの旅に付き合わせようなどとは傲慢なことだ。
そう焦がれたところで彼女には分からないのだから黙っていればいい。
旅は出会いと別れの連続。彼女との出逢いもまあその程度だったということだ。
「んふふ、そんなに熱い視線を送っちゃって……火照ってきたじゃないか」
「あ? なにを――なにやってますかねあなたさまは!?」
ニヤニヤと笑いながら胸元のボタンを外し始める彼女を見て彼は目を剥いた。
いくらからかうにしてもやりすぎだぞ! そう怒ろうとするが、口はわなめくばかりで動く気配を見せず、視線は胸元に縛り付けられる。
白い服によってより強調される赤く染まった肌。テラテラと煌めく汗の跡と甘い香りが彼の頭を痺れさせる。
「たっ、ちが悪いぞお前ッ!」
「あはは、ごめんごめん。でも、君が悪いんだよ?」
妙に熱の入った彼女の視線を振り払うような必死の声色に笑いながら胸元を直す彼女。ホッと息をつくまもなく彼女に言われてうぐっ、と声に詰まる。
確かに彼女の言う通り、酒の席とはいえやりすぎだ。だが少し待ってほしい。
「視線が胸元に行ってたのは謝るが、別に胸をみていたわけじゃない」
「へー、そっかそっか」
「…色々考えてんだよこっちも」
下手に話を続ければボロが出てしまうのは明らかだ。彼は気持ちを落ち着かせるようにお冷やを一息に飲み干して大きな息を吐いた。
喉をツンッと貫く冷たさに頭が冷える。
とりあえず、今は彼女との食事を楽しむとしよう。無理矢理思考を交換しつつ、彼は浴びるようにグラスを傾けるのであった。
『ねぇ――』
それは金色の女性。彼も良く知る女性。
『これからどうしよっか?』
優しく微笑んでくれた。優しくしてくれた。だから自分は惚れたと言っても過言ではない。若かったといえばそうだが、何処の馬の骨とも知れない自分を温かく迎えてくれた彼女は自分にとって絶対だった。なのに――
『もう用済みなのよ、汚らわしいッ!!』
冷たい、つめたい。つめたいのは嫌いだ。つめたく感じるのは、あついから。ならこんなあつさなんていらない。こんなねつなんて――
『――?』
「ッ!? はッ、ゆ、夢か……」
嫌な夢を見たものだ。彼はその夢を振り払うように頭を振った。
だが、いつもと違って胸の内は何処かスッキリしている。何故かはわからない。思ってみるとなぜか途中からつめたさは陽だまりのような暖かさに変っていた。
何の気なしに首元にそっと手を当てる。とっくの昔に棄てた筈の熱がまだ、そこに残っているような気がした。
「馬鹿を言うな。もう、あんなのは御免だ」
弟には悪いが、暫く旅をさせてもらおう。あいつの晴れ姿は見たい。だが、きっとその隣には、いや、隣でなくともあそこに行けば彼女に会わなければならない。もしかしたら会わないかも、なんて甘い考えは切り捨てる。彼女はあの場所にとって必要不可欠な人材。取り換えの効く自分のような存在とは違って、彼女は――
「止めだ止め。こんなこと考えて何になる」
そんな気持ちはとっくの昔に捨て去った。今の自分は勝手気ままな旅人で、それだけでいいじゃあないか。
大きく深呼吸をして息を吐きだす。酸素が巡り回りだす頭の中で彼はふと思った。
最後に声をかけてくれたのはだれなんだろう? と。
「もう行っちゃうの?」
「ええ。路銀は貯まりましたからね。今日まで本当にお世話になりました」
「いやいやこちらこそ。レオンハルト君が来てくれて本当に楽しかった」
僕たちもこんな子が欲しいよね。恥ずかしいです、洋吉さんっ、と朝からイチャイチャラブラブしている店主夫婦を見て苦笑しながら彼はもう一度頭を下げると外套を翻してノーステイルの門へと歩き出した。
街並みを眺めながら彼は歩く。振り返るようなことはしない。住み心地の良さそうな町ではあったが自分の目的はあくまでもあの場所へ戻ること。いくら住み心地が良さそうだからと言って定住するわけにはいかないし、ましてこれからまた長い旅路を行くというのに感傷に浸っている暇はないのだ。
しかし、とそんな彼の心に少しだけ後悔が浮かぶ。
共にこの街に来た彼女。昨日は酒盛りをしていたのだ、こんな日もようやく昇り出す時間では彼女はまだ寝ている頃だろう。疼く胸を勘違いだと抑えつけ、彼は荷物を抱えなおして一路門へと歩いていく。
門番に挨拶を済ませた彼は、とりあえず進路を南に。例の大樹の元に向かっていた。
特にこうと言った理由はない。強いて言うならば彼女と出会ったあの場所に行ってみようかという女々しい気持ちだけだろうか。だが、案の定というべきか、彼が街を出て暫くすると雲行きがドンドンと怪しくなってくる。この一帯は冷たい風と暖かい風が混ざり合う地形だから天候が変わりやすいとかどうとかと黒い毛並で褐色の肌を持つ魔物娘が言っていたことを思い出すが、重要なのは旅人にとって雨と言う物が大変迷惑であるということである。
近くに民家はない。屋根になるものと言えばあるのは例の大樹だけ。あの嬌声を聞くのは勘弁したいのだが、今回は仕方がないだろう。彼はそう口の中でぼやくと大樹を目指して走り出すのであった。
大樹にたどり着いた――次の瞬間に降り始める雨。まるでタライでもひっくり返したような大雨に思わず顔を顰めてしまう。
――朝の悪夢と言い、とんだ厄日だ。
そう思い大きなため息を吐く彼であったが、視界の端に見慣れない物を見つけた。
それは足だ。大きな木の根の陰から微かに見える人の足。
その足になぜか強烈な既視感を覚えた彼は、フラフラと幽鬼のようにその足に向かって歩き出した。
一歩、また一歩。ドクドクと耳元に心臓があるように頭の中に心臓の鼓動が響き渡る。震える手で幹を押して震える身体を支えつつ、彼はゆっくりとその足に向かって歩いて行き、そしてついにその主を発見した。
息を呑む。美しい、などという物ではない。恐らく妖精というのはこういうモノを言うのだろう。
さらさらと流れる金色の髪。穏やかに閉じられた瞼と長いまつ毛、口元から漏れる甘い吐息。幹に寄りかかりあどけない寝顔を晒す少女の名前を彼は知っている。
「ふぃー、ね……」
心の中でつぶやくはずだった言葉は、無意識のうちに口から漏れていた。
その言葉に反応したのか、彼女の瞼がピクリと動き、ゆっくりと身体が動き出す。
「あ……れおんはると?」
ぽーっとした彼女の姿に喉が鳴る。
とろりと垂れ下がった眉尻に、涙で濡れた瞳。欠伸をかみ殺して伸びる肢体はしなやかで思わず抱きしめたらどうなるだろうと考えてしまうほどで、おとがいを上げて見える喉元は、思わずむしゃぶりついてしまいたくなるほど魅力的だ。
無防備という言葉がこれほど似合う状態もないだろう。グッと歯を噛み締めて耐える彼を他所に、目の焦点が合い始めたフィールはもぞもぞと立ち上がった。
「おはよう。随分と早いじゃないか」
「ああ、それは俺が早く街から――って、そうじゃない!!」
彼は思わず叫んだ。何故此処にいるんだ。
「君はボクを置いて街から離れるつもりだったんだろう?」
「え、あ、いや……」
目を細められて、まるで蛇に睨まれた蛙のように身を縮めた彼。返す言葉もなかった。彼女の言う通り自分はそのまま街を出る予定だったし、下手をすればこの大樹の前にすら寄らなかっただろう。
「まったく、先に色々仕込んでおいてよかったよ」
「――え?」
彼女の呟きの内容は詳しく聞こえなかったが、何か聞き捨てなら無いことを言われたことだけは分かった。聞き返そうとする彼であったが、それよりも先に彼女が切り出した。
「ねえレオンハルト。旅は良いと思わないかい?」
「は?」
「だから、旅は良いと思わないかい?」
「そりゃ、まあ……」
旅は良い、それは確かに彼女の言う通りだ。だが、それが今までの話とどうつながるのか。混乱する彼を見て、彼女はボソリと何かを呟くと怒ったように眉を寄せて言った。
「誰かと旅に出れたら良いと思わないかい?」
「……まあ」
「何よりも信頼できる人が一緒に居る旅って素晴らしいと思わないかい」
「確かにそうだが、それでも一時的な物でしかないだろう」
行きずりの関係というのは旅人によくあることだが、だからと言ってそれがそのまま信頼になるとは思えない。事実、そういうところで苦い経験をしてきた彼はそうした人と共に居ることは敬遠がちだ。
彼の様子を見て、ついに彼女は大きなため息を吐いた。これは直接言わないと駄目らしい。
「あのね、よかったら――」
「俺と一緒に来てくれないだろうか」
「ぇ?」
彼女の視線の先には彼のつむじ。
「良かったら、で良いんだ。これから俺は西の都を経由して、その、ノースフォレストに行こうと思ってるんだ」
「ノースフォレスト?」
「ああ。何もない土地なんだけど、そこが自分の目的地なんだ」
ノースフォレストは、特に特色も何もない町である。あるとすれば特産品である木製の工芸品くらい。
だが、その場所には彼の家族が居た。彼の大切な人達が。
長い、永い旅。だがいつかはそこへ。そう思ってずっと旅をしてきたが、どこまで行っても決意できない。覚悟が持てずただ冷めて斜に構えているだけだった彼は、今この瞬間、熱を取り戻していた。
駄目かもしれない。緊張で震える身体を、ふわりと温かいモノが包み込んだ。
「そっか、君もノースフォレストに行くんだね?」
「君も、ってまさか――」
そんなことがあり得るのか。顔を上げて目を見開く彼の瞳に、陽だまりが咲いた。
「ボクもそこへ行くんだ」
これからよろしくね、レオンハルト。
雲の切れ間から漏れる日が、流れる雨を包み込んだ。
16/11/07 23:35更新 / ソルティ
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