出会い
いつものことだ、と彼は心を無にして呟く。
「んっ、どうや? この外套は……んぁ…中々、お買い得、やと、思うんっやけども…」
「そうそう、今ならこの携帯食料もお付けしてこのお値段、どうだろうか?」
お、おう、としか言いようが無い。彼は、自分の人生に疲れたような顔を更に疲れさせながら、どうしてこうなった、と頭を抱えたくなった。
気づけば顔なじみになってしまっていた刑部狸の夫婦。魔物の夫婦がイチャイチャしていることなんていつものことなので、ソレに関してとやかく言うつもりは欠片も無かった。
だが、これはどうなんだ、と彼はフードの下で思わず表情を引きつらせる。
目の前の夫婦がナニをしているかなんて明らかだった。
魔物の中では小柄な分類に入る刑部狸――妻を胡坐のような姿勢の自分の膝の上に乗せ、後ろから抱きしめている夫。それだけならばよくあるイチャイチャしている夫婦というだけですむのだが、問題は状態であった。
後ろから覆い被さる様にして抱きしめている夫。彼の掌は刑部狸の着物の中に差し込まれており、彼の動きから着物の中の慎ましい胸を揉みしだいているということは安易に想像ができる。
それだけならばまあ百歩譲って許す。だが、問題は下半身だ。
下半身、こちらからは見えないが、恐らく貫通している。ナニがとは言わないが。
何故そう思うのか。それは刑部狸の表情が理由だ。
胸を揉みしだかれているだけでトロトロに蕩けているのに、その表情はもうどうしようもないレベルだ。だらしなく垂れ下がった眉尻に、ゆるみきった口元。顔は熱にうかされたように真っ赤で、身体は常にゆらゆらと揺れ動き、その中に、時々下から突き上げられたような、ビクンッ、という動きが混じる。
仮にも客の前でお前らは何やってるんですかねぇ…。眉をひくつかせながら文句を言いそうになる口を必死に縫い止める彼。
「すまなねえな。ちょぉっとさっき事故でこいつに虜の果実のジュースを飲ませちまってねぇ。大分調整したから問題なく飲めると思ってたんだけどねぇ」
いや、事故って何だよ事故って。あきらかに故意じゃねえか。
ニヤニヤとそれはもうあくどい顔をする夫を見て彼は最早笑うことしか出来ない。幸い、と言っていいのかは分からないが、性行による興奮のせいか夫婦の提示する金額は相場よりも遥かに安い。
夫婦の言葉を信じるのならば、この外套はアラクネの糸を加工した物。アラクネの糸によってつくられる様々な衣類は、人間の作るソレと比べてはるかに頑丈で扱いやすい。そんなものがこの値段で手に入ると言うのならば安いものかもしれない。
「ああ、それとこれも付けますよ」
そう言って夫が外套に加えて、何か奇妙な包み紙を取り出して置いた。
「これは?」
流石に見た目が怪しすぎる物を受け取る趣味はしていない。只の包み紙とはとても思えない代物を見て、彼は眉をひそめて夫に問いかけた。
「ああ、怪しい物じゃないですよ。ちょっとした餞別ってやつですよ」
「餞別ゥ?」
「そう」
彼は言う。
曰く、この包み紙の中には血のように真っ赤なルビーが入っている。このルビーはある街で起こった悲劇――それこそ反魔領も親魔領もないほど昔に起こった、とある悲恋の魔物の夫婦の血によって出来たという逸話が残っているルビーである、と。曰く、この石の持ち主は必ず人生を変えてしまうほどの大きな出会いをしてしまうのだ、と。
それを聞いた彼は思う。
――それ、明らかに危ない物じゃねえか。それにソレ最早呪いの類いぢゃん。
「はっはっは、大丈夫ですよ。この石を持っていた人はみんな死んでませんから。まあ――」
こうして人生の墓場には足を突っ込みますけどね、と腕の中の妻の腰を鷲掴みにして下に叩き落し、全身を震わせながら笑う夫。
刑部狸も我慢できなかったのだろう、目の前の彼のことなど気にせず白目をむいて嬌声を響かせながら身体を弛緩させる。
お前ら本当に見境無しだな…と最近遠慮が全く無くなってきた夫婦を見て、頭が痛いと額に手を当ててため息を吐く彼。
どうしようか、など決まっている。
明らかに怪しい物であるが、アラクネの外套、携帯食料を含めてたったの数ゴールドぽっきり。詐欺すら疑ってしまうくらい格安であるが、この夫婦がそんな商売をするとは考えられない。
そうなれば、もっと何かしらの目的があると見て間違いは無いだろう。だが、それを確かめる術は彼には無い。ならば一々気にする必要など無い。幸いなことに魔物に対する対策は彼も出来るし、何度も魔物の襲撃から逃げのびてきているのだ。
ドラゴンやワームなどのドラゴン種でも来ない限りどうとでもできるさ、などと呟きつつ彼は夫に金を投げる。
「毎度あり!」
さてと、と彼は早速アラクネの糸で出来た外套を身に纏う。
これは好い。今までの外套は何だったのかと言うほど軽く、そして風を通さない。噂通りの代物に思わず破顔しながら彼は礼を言って店を後にしようとする。
「――ああ、ちょっと待ちな」
刑部狸が意識を取り戻したらしく、彼の背中に声をかけた。
どうでも良いことだが、表情がだらけきっているのにその無駄にキリッとした声は何なのだろうか。
「もうすぐ雨が降るからね…。この先に雨風しのげそうな良い大樹があるんだ。だから雨宿りはそこでするといい」
彼女の言葉の通り、空は曇天。遠くの方で雷鳴が響いていることを考えると、このままでは大降りになるのは間違いない。しかしこの近辺に宿は無い。目的の街にはまだまだ時間がかかることを考えると、彼女の情報はとてもありがたいものであった。
「ありがとう、木葉さん」
「良いって良いって。それじゃあ良い旅を」
「ああ」
外套のフードを被り、彼は今度こそ店を後にした。
後に残るのは、売り上げの数ゴールドと濃い雄と雌の臭い。
「これで良いのかねぇ?」
「それはまあ、見てのお楽しみだろう。きっとあの二人なら上手くいくと思うよ?」
呟く妻にそう囁き、彼は彼女を抱きしめる。
そんなことより、こっちはこっちでもっと仲良くなろう? と。それを聞いた刑部狸は、狸の名に違わぬ悪い表情をしながら彼にしなだれかかるのであった。
「これは本格的に降ってきたな…」
彼が噂の大樹にたどり着いたときには、天は涙を流す寸前であった。彼が木の枝の下に入り込んだ瞬間、狙ったかのように振りだした雨。まるでタライをぶちまけたような大参事だ。
瞬く間に地面に川をつくる大雨に、間にあってよかったと表情を安堵の溜息を吐きつつ彼は考える。
このまま雨を待つのもいいが、この調子なら明日まで雨は上がらないかもしれないと。
それなら今のうちに野営の準備をしておくのも手かもしれないと思いつつ、彼は周囲を見回す。
これだけの雨でありながら、噂の大樹は一切の雫を通さない。まるで家に居るかのような安心感を覚えつつ、凄い樹だなと感心する。と、彼の視界に黒い物が映り込んだ。
それは黒色の布。何だ? 彼は腰の剣に手を据えて警戒しながら近づいていく。
この御時勢、基本的にこうした場所に居るのは、旅人か魔物に限られる。特に魔物に関してはこちらが未婚の男性であることがバレればヤられるのは確実。ここは警戒に警戒を重ねていても問題は無い筈だ。
彼がじりじりと黒い布に近づいていく。あと十歩、九歩、八、七――そこで黒い布が動いた。
「ん――ふぁ……ん?」
「……人?」
黒い布は果たして、旅人の外套であった。
フードを深く被った旅人は口元くらいしか見えていないが、互いに目が合ったのが分かる。
この目の前の黒いフードは、人間。彼の長年の旅生活と魔物除けの反応が薄い以上、そう考えるのが妥当であった。
彼は急いで柄に伸ばしていた手を離すと黒いフードの旅人に頭を下げる。
「申し訳ない。魔物かと思ってな」
「ん? あ、ああ! いや、気にしないでほしい。ボクもこういうところで無計画に寝てたのが悪いんだし」
こちらこそ、と謝る黒いフード。
「雨が酷いな…」
「う、うん。ここを教えてもらって、本当に助かったよ…」
はて、と首を傾げる。黒いフードの旅人は自分よりも先にここにたどり着いていたはずだ。ならば雨に降られる心配などしなくてもいいだろうに。
「えっと、この樹はドリアードなんだよ」
「なんだと!?」
黒いフードの旅人の言葉を聞いて、彼は慌てて飛び退くと剣を抜き放とうとした。しかし、それは他でもない黒いフードの旅人の手によって抑えられる。
「何をする!!」
「大丈夫!! このドリアードは既婚者だから!! こっちを襲ったりなんか絶対にしないよ!!」
その言葉を聞いて、彼の頭が急速に冴えていく。それは短絡的なことをしてしまった。
「そうか、既婚者だったのか…それは悪いことをしてしまった……」
「…ふふっ」
「なんだ?」
自分の行動に何か面白いところなどあっただろうか? 彼が首を傾げると、黒いフードの旅人は、ごめんごめんと目元を拭うような仕草をしながら言った。
「いや、魔物と聞いて血相変えたと思ったら、既婚者とか言って凄いシュンとしてるからさ…」
「…仕方ないだろう。魔物、得意じゃないんだから」
「別に嫌いってわけじゃないんだね」
「ああ、見た目だけなら下手な魔物でも皆並以上だから。しかし、積極的すぎるから俺はあまり好きじゃないってだけよ」
「ふむふむ、そうなんだ…」
と、何故俺はこんな話をしているのだろうか、と急に恥ずかしくなって彼は話を無理矢理変えようとする。
「あ、そういえば、自己紹介が遅くなってすまない。俺はレオンハルト・ディープス。しがない旅人だ」
「ご丁寧にどうも。ボクはフィール・V・ヴァンプって言うんだ。よろしく、ディープス」
「レオンハルトで良い。家名に良い記憶は無いからな」
「ならボクもフィールで良いよ」
「よろしく、フィール」
黒いフードの旅人――フィールと握手を交わす彼、レオンハルト。
「ところで、なんでフィールはこの樹がドリアードだって知ってるんだ?」
早速彼が質問する。
確かに不思議な雰囲気はあるのだが、パッと見この樹はただの大樹でしかない。それに魔物除けに反応が無かったことから全然気づくことが出来なかった。
そんな疑問を抱く彼に、フィールは唐突に木の裏に向かって歩き出すと、彼を手招きした。
一体何だと言うのだ。近づくとフィールが口元に手を当てて静かにしてとジェスチャー。それに従い息を顰める。
フィールが指で上を指す。一体そこに何があるのか――アヘ顔であった。木の模様ではなく、男性と女性の絶頂顔。思わず表情を引きつらせる。
「先に来た時、偶然二人を見つけちゃって…。休ませてもらっていいですか? って聞いたら、楽しみの邪魔しなかったら好きに使っていいよって」
「…俺の周りの魔物はこんなんばっかかッ!!」
小さく叫ぶ。
彼が魔物を苦手になった理由の一つが、これだ。
なぜか彼が知り合った魔物たちは必ずと言っていいほど彼の目の前であったり、彼が訪問した時に限って夫と共によろしくヤっているのである。その頻度は、一人で旅をして孤独と戦う彼からしてみれば最早呪いレベルであり、どいつもこいつもイチャイチャしやがって、と私怨どころか、よくもこんな運命を与えてくれたなと神を殴りたくなるほどだ。
「あはは…」
「な、何にせよ良かったな。あのドリアードが未婚だったらお前初めて奪われてあそこで合体してたかもしれないし」
「……どういう意味?」
重圧が彼にのしかかる。
その重圧を発している原因は、フィール。彼女の姿気配に思わずじりじりと後ずさりしながら、彼は彼女に、何故低気圧になるのだ、と問いかけた。
「なんでかって? …ふふふ、そんなことも分からないんだね」
「……え、あ、いや…」
怖い! 兎に角怖い!!
目元が全く分からない黒いフードを被っているフィールは、口元だけ晒されている。雪のように白い肌の上、淡い桃色の唇が三日月を描き、ふふふふふ、と低い声で笑っている姿はまるで子供の頃に乳母に聞かされた怪談噺に出てくる化け物のようだ。
思わずヒィッ、と情けなく喉を鳴らしながら彼は必死でフィールの機嫌が急降下した理由を考える。
もしや、ドリアードの話を通してフィールが未婚ということを決めつけてしまったことを怒ったのだろうか、それとも実は既婚者だったのか。
「すまん!! 俺にはお前が何故怒っているのか分からないんだ」
だから彼が選んだのは謝罪であった。理由が分からないからこその謝罪。
勢いよく頭を下げ、己の勉強不足を謝る。ついで、少しだけ顔を挙げて相手の顔を伺い、よければ理由を教えてくれないだろうかと頼むことを忘れない。
「あ、いや、こっちも急に怒ってゴメンなさい。ちょっとムッとしちゃったからさ…」
「いや、怒ることを言ってしまったんなら怒ったのは正当だ。だから、よかったら後学のためにも教えてくれないだろうか」
「…のこだよ」
「ん? 悪い、もうちょっと大きな声で」
「だから、ボクは女の子なんだよ!!」
「…………あっ」
女の子である。それを聞いてようやく彼は彼女が怒っていた理由に気が付いた。
魔物に襲われないから未婚童貞男などと勝手に決めつけられたのだ。女性として怒るのは当然とも言えよう。いや、それよりも声は少し低いが口元の感じや大きな外套の上からでも身体付きが女性的なのは分かっていたのだ。
それなのに何故、彼は彼女のことを男性として扱っていたのか。
「何でレオンハルトはボクのことを男だって思ったのかな?」
「その、前に何度かアルプと出会ったことがあって。それ以来、な…」
「ああ…」
二年ほど前、彼はとある教団のある反魔領の街に居た。
その街では、名物小隊と言われる教団の兵士たちがおり、その内の一人が美少女然とした男性だったのだ。
その事実を知った時の彼の衝撃は計り知れない。その時は本気で枕を涙で濡らしたほどだ。
その兵士は、酒場で日雇いの仕事をしていた彼と仲良くなると、同じ隊の先輩兵士に恋していることを相談してきた。その姿は正しく恋する乙女そのもの。
しかも、そんな兵士と別れて一年後、彼が噂を聞いて再度その街に立ち寄ってみればその街は親魔領化しており、さらに相談を聞いていた友人でもあった兵士は、噂の先輩兵士の恋人――誰もが羨む爆乳幼妻となっていた。
その時のショック以来、彼は見た目が良ければそれは女性、という考えは捨てるようになった。今回の場合、過剰に疑っていたことは否めないものの、おおむねアルプとなった兵士のせいで見た目が女性っぽければ女性、という考えを持てなくなってしまっていた。
魔物が苦手となった諸々の理由を交えながら、どうして彼女を女性と見れなかったのかをフィールに話す彼。と、その話を聞き終えた彼女を見てみれば、彼女は口元に両手を当て、肩を震わせる始末。
――テメェ!?
人が真剣にトラウマを告白しているというのに、聞いている方は必死の様子で笑いを堪えるだけ。それは一体どういう要件なのだろうか。本気で憤慨する彼を見て、肩を震わせながらも彼女は、ドードーと手を挙げる。
「ごめんごめん。あまりにもくだらな――真剣に悩んでるから、ちょっとね…」
「悪かったな、下らない悩みで」
ムスッとして唇を尖らせる姿は、顔立ちに比べて随分と子供っぽい。そんな仕草に思わず吹き出してしまう彼女。
その反応を見て更にむくれてしまう彼を見て、彼女は大慌てで言葉を募らせる。
「でも、凄いと思うよ!」
「…何が」
「魔物って基本的に、狙った男性は絶対に射止めるんだよ。でも、君はそうして何度もアプローチされてるんだよね?」
「…まあな」
「その中には、もちろんサキュバスとかラミアとかも居たんだよね? それって凄いことだと思うんだよ」
確かに彼女の言う通りだ。
魔物は浮気をすることは無い。それこそ愛する男性が死んでしまった場合などは話が別だが、それも一概にどうこう言える話ではない。
彼女たちは欲望に忠実であるが、それ以上に人間に対して誠実である。ある神父曰く『悪魔、魔物は善か悪かと言えば、確かな悪だ。しかし、人は裏切るが、悪魔は決して裏切らない』
実際、彼も多くの魔物と接する機会があった。それこそ、彼女の言うようにサキュバスのような好色な魔物などとも出会ってきた。だが、彼女たちは好色とは言ってもそこには深い愛情があった。
彼女たちの行動は確かに欲に塗れている。自らの肢体を晒し、男の気を引いて精を貪る。しかし、そんな彼女たちは決して男なら誰でも良い淫乱ではない。
確かに肢体を晒すだろう。確かに言葉巧みに男を誘うだろう。だが、それらの行為は全て彼女たちが惚れている男性に向けられているのだ。肢体を晒すのは、己を見てほしいから、嫉妬してほしいから。言葉巧みに男を誘うのは、自分の気持ちに気づいてほしいから。
彼女たちは、男を惑わすことに特化している。しかし、彼女たちの技術は、世界中の男性を魅了して止まないであろうその力は、全て一人の愛しい『あなた』にのみ捧げられるのだ。
彼女たちは淫らで、人を堕落させる。だが、事、愛という言葉に関しては恐らくこの地上の何物よりも高潔で、ストイックな存在。
だから彼は苦手ではあるが、魔物の事を嫌いと言うわけではないのだ。
「俺はまだ誰かと一緒になる気なんて欠片も無いからな…」
「そうなのかい? 君くらいの歳頃の男は皆結婚願望くらいあるだろうに」
確かに彼女の言うように、彼にも綺麗な女性とお近づきになりたい、恋人になりたいという願望が無いかと言えば嘘になる。だがそれでも彼には恋人をつくりたくない理由があった。
「結婚するってことは、腰を落ち着けなきゃいけないだろう?」
「そりゃ結婚すれば子供だってできるだろうしね」
「だからだよ」
俺は世界中を歩いて回りたい。彼は言う。
今こうして話している間にも、世界のどこかでは新たな生物が誕生していて、未知なる世界がどんどん拡がっている。それはきっと人間の一生を全て賭けても見きれないほどのモノだろう。だからこそ彼は見たい。世界の果て、見たことも無い光景、情景、営みを。
彼の夢は、そうした世界を見たいというもの。子供の頃、彼が屋敷を出る原因となったその夢によって、彼は多くの魔物娘に求婚されていながらもその悉くを拒否してこうしてここまで歩いてきたのだ。
「なるほどね…」
彼の語る夢を聞き、彼女は顎に手を当てて黙り込む。
傍から聞いていればこれほど馬鹿げている話は無いだろう。夢の為に、と言っている彼ではあるが、一人焚き火を前にしていると、ふとした拍子にもしあの時に求婚に応えていたら――などと考えてしまうこともある。
「よし! レオンハルト君、ボクと一緒に旅をしないか?」
「随分唐突だな」
一体どのような考えをしたらそんな考えに行きつくのか。訝しげに彼女の顔に視線を投げかけるが、彼女は良いことを思いついたと笑みを浮かべるばかり。
その宝石のように赤く輝く瞳には、ただ純粋に一緒に旅がしたいと言う欲求しか見えてこない。
「ほら、ボクもこの先の街に用があるからさ」
「なるほど、それまでのってことか。良いだろう」
どれだけ旅をしてきたか分からないが、彼女の装備の消耗具合や立ち振る舞いから、彼女が歴戦の旅人であることは容易く想像できる。
互いに目的地が同じであるならば、態々別々に街を目指すよりかは一緒に向かう方が色々融通が利く。ほんの数日の距離とはいえ、出来るだけ楽ができるなら楽したいのは人間の心理だ。
「そういうことだよ。どうだろうか?」
「ああ、それくらいなら構いはしないさ。数日程度だが、よろしく頼むぞ。フィール」
「こちらこそよろしくね、レオンハルト」
手甲を外し、互いにガシッと力強く右腕を握り合う。
彼女の意外な力強さに内心で驚きつつ、同時にその手の感触に思わずドギマギしてしまう。
旅をしている以上、多少の荒事に巻き込まれるのは当然と言える。そうでなくても野営の準備をしていれば自然と身体の至る所が傷つき、皮が厚くなるのは当然と言える。だが、彼女の手はそんなごつごつしたところなどどこにも存在しておらず、いつまでも触っていたくなるような、上質な絹のような手触りであった。
女性とは皆こういうものなのか。女体の神秘を感じるとともに、人の温もりに飢えがちな独り身に彼女の体温と感触が否が応にも反応しそうになり、彼はぎこちなさを取り繕いながら彼女の手を離す。
「…フフッ」
「なんだ」
「何でもないよ。さっ、じゃあまずは晩御飯にするとしよう」
「それもそうだな…今日はもう止みそうにないし」
空模様も上から微かに聞こえる声も相変わらずだ。
やれやれとため息を吐く彼。
こうして、彼に旅の道連れができるのであった。
「んっ、どうや? この外套は……んぁ…中々、お買い得、やと、思うんっやけども…」
「そうそう、今ならこの携帯食料もお付けしてこのお値段、どうだろうか?」
お、おう、としか言いようが無い。彼は、自分の人生に疲れたような顔を更に疲れさせながら、どうしてこうなった、と頭を抱えたくなった。
気づけば顔なじみになってしまっていた刑部狸の夫婦。魔物の夫婦がイチャイチャしていることなんていつものことなので、ソレに関してとやかく言うつもりは欠片も無かった。
だが、これはどうなんだ、と彼はフードの下で思わず表情を引きつらせる。
目の前の夫婦がナニをしているかなんて明らかだった。
魔物の中では小柄な分類に入る刑部狸――妻を胡坐のような姿勢の自分の膝の上に乗せ、後ろから抱きしめている夫。それだけならばよくあるイチャイチャしている夫婦というだけですむのだが、問題は状態であった。
後ろから覆い被さる様にして抱きしめている夫。彼の掌は刑部狸の着物の中に差し込まれており、彼の動きから着物の中の慎ましい胸を揉みしだいているということは安易に想像ができる。
それだけならばまあ百歩譲って許す。だが、問題は下半身だ。
下半身、こちらからは見えないが、恐らく貫通している。ナニがとは言わないが。
何故そう思うのか。それは刑部狸の表情が理由だ。
胸を揉みしだかれているだけでトロトロに蕩けているのに、その表情はもうどうしようもないレベルだ。だらしなく垂れ下がった眉尻に、ゆるみきった口元。顔は熱にうかされたように真っ赤で、身体は常にゆらゆらと揺れ動き、その中に、時々下から突き上げられたような、ビクンッ、という動きが混じる。
仮にも客の前でお前らは何やってるんですかねぇ…。眉をひくつかせながら文句を言いそうになる口を必死に縫い止める彼。
「すまなねえな。ちょぉっとさっき事故でこいつに虜の果実のジュースを飲ませちまってねぇ。大分調整したから問題なく飲めると思ってたんだけどねぇ」
いや、事故って何だよ事故って。あきらかに故意じゃねえか。
ニヤニヤとそれはもうあくどい顔をする夫を見て彼は最早笑うことしか出来ない。幸い、と言っていいのかは分からないが、性行による興奮のせいか夫婦の提示する金額は相場よりも遥かに安い。
夫婦の言葉を信じるのならば、この外套はアラクネの糸を加工した物。アラクネの糸によってつくられる様々な衣類は、人間の作るソレと比べてはるかに頑丈で扱いやすい。そんなものがこの値段で手に入ると言うのならば安いものかもしれない。
「ああ、それとこれも付けますよ」
そう言って夫が外套に加えて、何か奇妙な包み紙を取り出して置いた。
「これは?」
流石に見た目が怪しすぎる物を受け取る趣味はしていない。只の包み紙とはとても思えない代物を見て、彼は眉をひそめて夫に問いかけた。
「ああ、怪しい物じゃないですよ。ちょっとした餞別ってやつですよ」
「餞別ゥ?」
「そう」
彼は言う。
曰く、この包み紙の中には血のように真っ赤なルビーが入っている。このルビーはある街で起こった悲劇――それこそ反魔領も親魔領もないほど昔に起こった、とある悲恋の魔物の夫婦の血によって出来たという逸話が残っているルビーである、と。曰く、この石の持ち主は必ず人生を変えてしまうほどの大きな出会いをしてしまうのだ、と。
それを聞いた彼は思う。
――それ、明らかに危ない物じゃねえか。それにソレ最早呪いの類いぢゃん。
「はっはっは、大丈夫ですよ。この石を持っていた人はみんな死んでませんから。まあ――」
こうして人生の墓場には足を突っ込みますけどね、と腕の中の妻の腰を鷲掴みにして下に叩き落し、全身を震わせながら笑う夫。
刑部狸も我慢できなかったのだろう、目の前の彼のことなど気にせず白目をむいて嬌声を響かせながら身体を弛緩させる。
お前ら本当に見境無しだな…と最近遠慮が全く無くなってきた夫婦を見て、頭が痛いと額に手を当ててため息を吐く彼。
どうしようか、など決まっている。
明らかに怪しい物であるが、アラクネの外套、携帯食料を含めてたったの数ゴールドぽっきり。詐欺すら疑ってしまうくらい格安であるが、この夫婦がそんな商売をするとは考えられない。
そうなれば、もっと何かしらの目的があると見て間違いは無いだろう。だが、それを確かめる術は彼には無い。ならば一々気にする必要など無い。幸いなことに魔物に対する対策は彼も出来るし、何度も魔物の襲撃から逃げのびてきているのだ。
ドラゴンやワームなどのドラゴン種でも来ない限りどうとでもできるさ、などと呟きつつ彼は夫に金を投げる。
「毎度あり!」
さてと、と彼は早速アラクネの糸で出来た外套を身に纏う。
これは好い。今までの外套は何だったのかと言うほど軽く、そして風を通さない。噂通りの代物に思わず破顔しながら彼は礼を言って店を後にしようとする。
「――ああ、ちょっと待ちな」
刑部狸が意識を取り戻したらしく、彼の背中に声をかけた。
どうでも良いことだが、表情がだらけきっているのにその無駄にキリッとした声は何なのだろうか。
「もうすぐ雨が降るからね…。この先に雨風しのげそうな良い大樹があるんだ。だから雨宿りはそこでするといい」
彼女の言葉の通り、空は曇天。遠くの方で雷鳴が響いていることを考えると、このままでは大降りになるのは間違いない。しかしこの近辺に宿は無い。目的の街にはまだまだ時間がかかることを考えると、彼女の情報はとてもありがたいものであった。
「ありがとう、木葉さん」
「良いって良いって。それじゃあ良い旅を」
「ああ」
外套のフードを被り、彼は今度こそ店を後にした。
後に残るのは、売り上げの数ゴールドと濃い雄と雌の臭い。
「これで良いのかねぇ?」
「それはまあ、見てのお楽しみだろう。きっとあの二人なら上手くいくと思うよ?」
呟く妻にそう囁き、彼は彼女を抱きしめる。
そんなことより、こっちはこっちでもっと仲良くなろう? と。それを聞いた刑部狸は、狸の名に違わぬ悪い表情をしながら彼にしなだれかかるのであった。
「これは本格的に降ってきたな…」
彼が噂の大樹にたどり着いたときには、天は涙を流す寸前であった。彼が木の枝の下に入り込んだ瞬間、狙ったかのように振りだした雨。まるでタライをぶちまけたような大参事だ。
瞬く間に地面に川をつくる大雨に、間にあってよかったと表情を安堵の溜息を吐きつつ彼は考える。
このまま雨を待つのもいいが、この調子なら明日まで雨は上がらないかもしれないと。
それなら今のうちに野営の準備をしておくのも手かもしれないと思いつつ、彼は周囲を見回す。
これだけの雨でありながら、噂の大樹は一切の雫を通さない。まるで家に居るかのような安心感を覚えつつ、凄い樹だなと感心する。と、彼の視界に黒い物が映り込んだ。
それは黒色の布。何だ? 彼は腰の剣に手を据えて警戒しながら近づいていく。
この御時勢、基本的にこうした場所に居るのは、旅人か魔物に限られる。特に魔物に関してはこちらが未婚の男性であることがバレればヤられるのは確実。ここは警戒に警戒を重ねていても問題は無い筈だ。
彼がじりじりと黒い布に近づいていく。あと十歩、九歩、八、七――そこで黒い布が動いた。
「ん――ふぁ……ん?」
「……人?」
黒い布は果たして、旅人の外套であった。
フードを深く被った旅人は口元くらいしか見えていないが、互いに目が合ったのが分かる。
この目の前の黒いフードは、人間。彼の長年の旅生活と魔物除けの反応が薄い以上、そう考えるのが妥当であった。
彼は急いで柄に伸ばしていた手を離すと黒いフードの旅人に頭を下げる。
「申し訳ない。魔物かと思ってな」
「ん? あ、ああ! いや、気にしないでほしい。ボクもこういうところで無計画に寝てたのが悪いんだし」
こちらこそ、と謝る黒いフード。
「雨が酷いな…」
「う、うん。ここを教えてもらって、本当に助かったよ…」
はて、と首を傾げる。黒いフードの旅人は自分よりも先にここにたどり着いていたはずだ。ならば雨に降られる心配などしなくてもいいだろうに。
「えっと、この樹はドリアードなんだよ」
「なんだと!?」
黒いフードの旅人の言葉を聞いて、彼は慌てて飛び退くと剣を抜き放とうとした。しかし、それは他でもない黒いフードの旅人の手によって抑えられる。
「何をする!!」
「大丈夫!! このドリアードは既婚者だから!! こっちを襲ったりなんか絶対にしないよ!!」
その言葉を聞いて、彼の頭が急速に冴えていく。それは短絡的なことをしてしまった。
「そうか、既婚者だったのか…それは悪いことをしてしまった……」
「…ふふっ」
「なんだ?」
自分の行動に何か面白いところなどあっただろうか? 彼が首を傾げると、黒いフードの旅人は、ごめんごめんと目元を拭うような仕草をしながら言った。
「いや、魔物と聞いて血相変えたと思ったら、既婚者とか言って凄いシュンとしてるからさ…」
「…仕方ないだろう。魔物、得意じゃないんだから」
「別に嫌いってわけじゃないんだね」
「ああ、見た目だけなら下手な魔物でも皆並以上だから。しかし、積極的すぎるから俺はあまり好きじゃないってだけよ」
「ふむふむ、そうなんだ…」
と、何故俺はこんな話をしているのだろうか、と急に恥ずかしくなって彼は話を無理矢理変えようとする。
「あ、そういえば、自己紹介が遅くなってすまない。俺はレオンハルト・ディープス。しがない旅人だ」
「ご丁寧にどうも。ボクはフィール・V・ヴァンプって言うんだ。よろしく、ディープス」
「レオンハルトで良い。家名に良い記憶は無いからな」
「ならボクもフィールで良いよ」
「よろしく、フィール」
黒いフードの旅人――フィールと握手を交わす彼、レオンハルト。
「ところで、なんでフィールはこの樹がドリアードだって知ってるんだ?」
早速彼が質問する。
確かに不思議な雰囲気はあるのだが、パッと見この樹はただの大樹でしかない。それに魔物除けに反応が無かったことから全然気づくことが出来なかった。
そんな疑問を抱く彼に、フィールは唐突に木の裏に向かって歩き出すと、彼を手招きした。
一体何だと言うのだ。近づくとフィールが口元に手を当てて静かにしてとジェスチャー。それに従い息を顰める。
フィールが指で上を指す。一体そこに何があるのか――アヘ顔であった。木の模様ではなく、男性と女性の絶頂顔。思わず表情を引きつらせる。
「先に来た時、偶然二人を見つけちゃって…。休ませてもらっていいですか? って聞いたら、楽しみの邪魔しなかったら好きに使っていいよって」
「…俺の周りの魔物はこんなんばっかかッ!!」
小さく叫ぶ。
彼が魔物を苦手になった理由の一つが、これだ。
なぜか彼が知り合った魔物たちは必ずと言っていいほど彼の目の前であったり、彼が訪問した時に限って夫と共によろしくヤっているのである。その頻度は、一人で旅をして孤独と戦う彼からしてみれば最早呪いレベルであり、どいつもこいつもイチャイチャしやがって、と私怨どころか、よくもこんな運命を与えてくれたなと神を殴りたくなるほどだ。
「あはは…」
「な、何にせよ良かったな。あのドリアードが未婚だったらお前初めて奪われてあそこで合体してたかもしれないし」
「……どういう意味?」
重圧が彼にのしかかる。
その重圧を発している原因は、フィール。彼女の姿気配に思わずじりじりと後ずさりしながら、彼は彼女に、何故低気圧になるのだ、と問いかけた。
「なんでかって? …ふふふ、そんなことも分からないんだね」
「……え、あ、いや…」
怖い! 兎に角怖い!!
目元が全く分からない黒いフードを被っているフィールは、口元だけ晒されている。雪のように白い肌の上、淡い桃色の唇が三日月を描き、ふふふふふ、と低い声で笑っている姿はまるで子供の頃に乳母に聞かされた怪談噺に出てくる化け物のようだ。
思わずヒィッ、と情けなく喉を鳴らしながら彼は必死でフィールの機嫌が急降下した理由を考える。
もしや、ドリアードの話を通してフィールが未婚ということを決めつけてしまったことを怒ったのだろうか、それとも実は既婚者だったのか。
「すまん!! 俺にはお前が何故怒っているのか分からないんだ」
だから彼が選んだのは謝罪であった。理由が分からないからこその謝罪。
勢いよく頭を下げ、己の勉強不足を謝る。ついで、少しだけ顔を挙げて相手の顔を伺い、よければ理由を教えてくれないだろうかと頼むことを忘れない。
「あ、いや、こっちも急に怒ってゴメンなさい。ちょっとムッとしちゃったからさ…」
「いや、怒ることを言ってしまったんなら怒ったのは正当だ。だから、よかったら後学のためにも教えてくれないだろうか」
「…のこだよ」
「ん? 悪い、もうちょっと大きな声で」
「だから、ボクは女の子なんだよ!!」
「…………あっ」
女の子である。それを聞いてようやく彼は彼女が怒っていた理由に気が付いた。
魔物に襲われないから未婚童貞男などと勝手に決めつけられたのだ。女性として怒るのは当然とも言えよう。いや、それよりも声は少し低いが口元の感じや大きな外套の上からでも身体付きが女性的なのは分かっていたのだ。
それなのに何故、彼は彼女のことを男性として扱っていたのか。
「何でレオンハルトはボクのことを男だって思ったのかな?」
「その、前に何度かアルプと出会ったことがあって。それ以来、な…」
「ああ…」
二年ほど前、彼はとある教団のある反魔領の街に居た。
その街では、名物小隊と言われる教団の兵士たちがおり、その内の一人が美少女然とした男性だったのだ。
その事実を知った時の彼の衝撃は計り知れない。その時は本気で枕を涙で濡らしたほどだ。
その兵士は、酒場で日雇いの仕事をしていた彼と仲良くなると、同じ隊の先輩兵士に恋していることを相談してきた。その姿は正しく恋する乙女そのもの。
しかも、そんな兵士と別れて一年後、彼が噂を聞いて再度その街に立ち寄ってみればその街は親魔領化しており、さらに相談を聞いていた友人でもあった兵士は、噂の先輩兵士の恋人――誰もが羨む爆乳幼妻となっていた。
その時のショック以来、彼は見た目が良ければそれは女性、という考えは捨てるようになった。今回の場合、過剰に疑っていたことは否めないものの、おおむねアルプとなった兵士のせいで見た目が女性っぽければ女性、という考えを持てなくなってしまっていた。
魔物が苦手となった諸々の理由を交えながら、どうして彼女を女性と見れなかったのかをフィールに話す彼。と、その話を聞き終えた彼女を見てみれば、彼女は口元に両手を当て、肩を震わせる始末。
――テメェ!?
人が真剣にトラウマを告白しているというのに、聞いている方は必死の様子で笑いを堪えるだけ。それは一体どういう要件なのだろうか。本気で憤慨する彼を見て、肩を震わせながらも彼女は、ドードーと手を挙げる。
「ごめんごめん。あまりにもくだらな――真剣に悩んでるから、ちょっとね…」
「悪かったな、下らない悩みで」
ムスッとして唇を尖らせる姿は、顔立ちに比べて随分と子供っぽい。そんな仕草に思わず吹き出してしまう彼女。
その反応を見て更にむくれてしまう彼を見て、彼女は大慌てで言葉を募らせる。
「でも、凄いと思うよ!」
「…何が」
「魔物って基本的に、狙った男性は絶対に射止めるんだよ。でも、君はそうして何度もアプローチされてるんだよね?」
「…まあな」
「その中には、もちろんサキュバスとかラミアとかも居たんだよね? それって凄いことだと思うんだよ」
確かに彼女の言う通りだ。
魔物は浮気をすることは無い。それこそ愛する男性が死んでしまった場合などは話が別だが、それも一概にどうこう言える話ではない。
彼女たちは欲望に忠実であるが、それ以上に人間に対して誠実である。ある神父曰く『悪魔、魔物は善か悪かと言えば、確かな悪だ。しかし、人は裏切るが、悪魔は決して裏切らない』
実際、彼も多くの魔物と接する機会があった。それこそ、彼女の言うようにサキュバスのような好色な魔物などとも出会ってきた。だが、彼女たちは好色とは言ってもそこには深い愛情があった。
彼女たちの行動は確かに欲に塗れている。自らの肢体を晒し、男の気を引いて精を貪る。しかし、そんな彼女たちは決して男なら誰でも良い淫乱ではない。
確かに肢体を晒すだろう。確かに言葉巧みに男を誘うだろう。だが、それらの行為は全て彼女たちが惚れている男性に向けられているのだ。肢体を晒すのは、己を見てほしいから、嫉妬してほしいから。言葉巧みに男を誘うのは、自分の気持ちに気づいてほしいから。
彼女たちは、男を惑わすことに特化している。しかし、彼女たちの技術は、世界中の男性を魅了して止まないであろうその力は、全て一人の愛しい『あなた』にのみ捧げられるのだ。
彼女たちは淫らで、人を堕落させる。だが、事、愛という言葉に関しては恐らくこの地上の何物よりも高潔で、ストイックな存在。
だから彼は苦手ではあるが、魔物の事を嫌いと言うわけではないのだ。
「俺はまだ誰かと一緒になる気なんて欠片も無いからな…」
「そうなのかい? 君くらいの歳頃の男は皆結婚願望くらいあるだろうに」
確かに彼女の言うように、彼にも綺麗な女性とお近づきになりたい、恋人になりたいという願望が無いかと言えば嘘になる。だがそれでも彼には恋人をつくりたくない理由があった。
「結婚するってことは、腰を落ち着けなきゃいけないだろう?」
「そりゃ結婚すれば子供だってできるだろうしね」
「だからだよ」
俺は世界中を歩いて回りたい。彼は言う。
今こうして話している間にも、世界のどこかでは新たな生物が誕生していて、未知なる世界がどんどん拡がっている。それはきっと人間の一生を全て賭けても見きれないほどのモノだろう。だからこそ彼は見たい。世界の果て、見たことも無い光景、情景、営みを。
彼の夢は、そうした世界を見たいというもの。子供の頃、彼が屋敷を出る原因となったその夢によって、彼は多くの魔物娘に求婚されていながらもその悉くを拒否してこうしてここまで歩いてきたのだ。
「なるほどね…」
彼の語る夢を聞き、彼女は顎に手を当てて黙り込む。
傍から聞いていればこれほど馬鹿げている話は無いだろう。夢の為に、と言っている彼ではあるが、一人焚き火を前にしていると、ふとした拍子にもしあの時に求婚に応えていたら――などと考えてしまうこともある。
「よし! レオンハルト君、ボクと一緒に旅をしないか?」
「随分唐突だな」
一体どのような考えをしたらそんな考えに行きつくのか。訝しげに彼女の顔に視線を投げかけるが、彼女は良いことを思いついたと笑みを浮かべるばかり。
その宝石のように赤く輝く瞳には、ただ純粋に一緒に旅がしたいと言う欲求しか見えてこない。
「ほら、ボクもこの先の街に用があるからさ」
「なるほど、それまでのってことか。良いだろう」
どれだけ旅をしてきたか分からないが、彼女の装備の消耗具合や立ち振る舞いから、彼女が歴戦の旅人であることは容易く想像できる。
互いに目的地が同じであるならば、態々別々に街を目指すよりかは一緒に向かう方が色々融通が利く。ほんの数日の距離とはいえ、出来るだけ楽ができるなら楽したいのは人間の心理だ。
「そういうことだよ。どうだろうか?」
「ああ、それくらいなら構いはしないさ。数日程度だが、よろしく頼むぞ。フィール」
「こちらこそよろしくね、レオンハルト」
手甲を外し、互いにガシッと力強く右腕を握り合う。
彼女の意外な力強さに内心で驚きつつ、同時にその手の感触に思わずドギマギしてしまう。
旅をしている以上、多少の荒事に巻き込まれるのは当然と言える。そうでなくても野営の準備をしていれば自然と身体の至る所が傷つき、皮が厚くなるのは当然と言える。だが、彼女の手はそんなごつごつしたところなどどこにも存在しておらず、いつまでも触っていたくなるような、上質な絹のような手触りであった。
女性とは皆こういうものなのか。女体の神秘を感じるとともに、人の温もりに飢えがちな独り身に彼女の体温と感触が否が応にも反応しそうになり、彼はぎこちなさを取り繕いながら彼女の手を離す。
「…フフッ」
「なんだ」
「何でもないよ。さっ、じゃあまずは晩御飯にするとしよう」
「それもそうだな…今日はもう止みそうにないし」
空模様も上から微かに聞こえる声も相変わらずだ。
やれやれとため息を吐く彼。
こうして、彼に旅の道連れができるのであった。
16/05/20 19:54更新 / ソルティ
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