連載小説
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下 不尽雪後朝(つきせじやゆきのきぬぎぬ)
「今帰りました。」
「帰ったよー。」
「お帰りなさいまし!」
「お帰りなさいまし!」
「お帰りなさいまし。」
「お帰りなさいまし。」
「お帰りなさいませ。旦那さま、おかみさん。」
「ああ、番頭さん。お世話でした。」
「あー、くたびれた。やれやれだぜ。御城っていつもかたっ苦しいよな。」
ここはジパング第一の大都市エド。ここに今評判の店があった。主の名は新助。内儀はウシオニの桜である。

思いがけず大金を手にした二人は店を持とうとジパング一の大きな町であるエドへとやって来た。繁多な町なら古都であるキョウトや商業都市オオザカなどもあったが、キョウトは古都ならではの厳然たる序列がどんな所にもあって、商売でも数百年の老舗が軒を連ねており、新参が大きく伸びるには相当な苦労が伴うことが予想された。オオザカは刑部狸が株仲間を作ってほぼ全てを取り仕切っていて、こちらも他所から入り込んでの成功は難しいと思われた。結局一番の大都市エドに腰を落ち着けることにしたのだ。
しかしエド広しと言えども、桜の身体の大きさに家を決めるのには苦労した。だが幸い以前はヨシワラ遊郭のオイランだったが、年明けで今は織り子をしているジョロウグモの白糸(しらいと)と知り合い、雇い主の呉服屋の内儀である稲荷の櫟(いちい)を紹介してもらい、彼女の夫の口利きで大きな仕舞た屋を借りることができた。そこで小間物店を始めたが、新助は売り込んでいない店の売り上げが上がらないのを見越して、旅先同様エドの町中を行商して歩いた。桜は最初大勢の人が行き交う街での生活に戸惑っていたが、あれこれに慣れてくると生計を援けるため、なにより新助と共に居る時を増やすためにもと、櫟に自分にも何か稼ぎになる事が出来ないかと相談した。櫟は蜘蛛なのだから白糸のようにしてみては、と機織りを勧めてきた。白糸から手ほどきを受けたが同じ蜘蛛同士、すぐにこつを覚えた桜はあの金襴の着物を真似て、自分の出す糸で見事な織物を作り上げた。その織物は評判を呼び、ついには御上の目に留まって「聞き及ぶショッコウの錦にも劣らぬ作」と賞され、大枚の金子で買い上げられた。たちまち彼女の織った物は極上品として値がうなぎ上りとなり、端切れでさえも『一寸でいくら』という高値で取引された。おかげで新助は店を新しく建て、奉公人を雇う事も出来た。呉服屋の鑑札をも許された店で、共に扱う小間物は夫婦円満のお守りとして売れ行きもどんどん上がっている。評判となった二人は流行り唄の中で「ウシオニも夫婦連れなる御城下の」と歌われ、今やエドの名物夫婦として知らぬ者はいない程だった。
今日は御上から注文の織物の納品から夫婦連れだって帰ってきた所なのだ。

「如何でしたか?御前の首尾は。」
番頭が機嫌の良い新助に訊ねる。
「上々だったよ。『一際の出来』と代金の外にご褒美まで下された。菓子折も頂戴したから、後でみんなにも配ってあげよう。」
「これはこれは、ご馳走様でございます。おい、濯ぎは終わったかい?」
「はい、ではどうぞ。」
桜は素足と言うのも妙だが、そのままで往来を歩き、帰ってくると簀子の上で女中たちに足の泥を洗ってもらう。すっかり足を拭いてもらった桜も上機嫌だ。
「はい、ご苦労さん。留守中変わった事は無かったかい?」
「櫟さんと白糸さんが奥でお待ちで。」
「そうかい。じゃあもう米はとぎに掛っとくれ。あんた。行こう。」
「ああ。」
二人は手を取り合って奥へ向かう。
「ほんとに仲良いねぇ。当てられちゃうねぇ。」
「ご覧よ、あのおかみさんの嬉しそうなこと。恐ろしいウシオニだなんて信じられないよ…」
女中たちの会話を背に客間へ向かう。襖を開けると櫟と白糸が茶を啜っていた。
「やあ、待たせちゃったかい?」
「今座ったばかりよ。今お茶を一口すすっただけ。ほら。」
持った茶碗からは湯気がゆらゆらと立っている。
「お邪魔しておりやんす。」
「お二方、本日は何ぞご用事でございましょうか?」
紋付袴のまま座った新助は問いかけた。
「いや、ちょっと遊びに来ただけなんですけど。」
「これは御上からの拝領物です。どうぞ茶請けにお一つ。」
拝領の菓子折を開けて懐紙に乗せて二人に差し出す。ごく上等の和三盆だ。
「すいやせん。いつも御馳走になってばかりで心苦しいでありんす。」
「なに言ってんだよ。みんなあんたたちがいろいろ教えてくれたからじゃないか。ありがとよ。」
「うちのがどうやら町の暮らしに慣れることが出来ましたのも、このような身代まで築けましたのもまったくお二方のおかげです。改めてお礼申します。」
新助は二人に手を付いた。
「新助さん、止してくださいよ。他人行儀な。」
「どうか、お手を上げておくんなんし。」
「そう言えば白糸さん、ご亭主の具合はどうです?」
「お陰さんで、やっと良くなってきんした。」
キョウトのシマバラ、ナガサキのマルヤマと並んで『三廓』とされる、このエドのヨシワラ遊郭で最上級の遊女『太夫』であったジョロウグモの白糸は、年期奉公が明けてから前述の通り櫟に雇われて織り子となった。白糸の織る布は絹に勝るつややかな肌触りだ。縁あって仕立職人と一緒になり、夫婦で仕立てる着物はこれまた極上品として、桜の織物に負けない高値で取引されている。しかし亭主は腕こそ良いが、酒をあおりながら仕事をする程の呑兵衛で、とうとう体を壊してしまっていたのだ。
「いくらなんでも飲み過ぎとなんども意見致しやしたが、どうにも聞いてもらえず手をこまねいている内臥せりがちになりんして、お医者様には酒毒に当たったのだと言われ、やっぱりと思いやんした。」
「でも少々わずらいも長すぎる気が…まさか、いくらなんでも夜の枕は控えているんでしょうね。」
「・・・」
「そこで黙らないで下さいよ!ご亭主を労わらなくちゃ。」
「で、でも枕が無くては、わちきは夜も日も明けやせん…」
「そーだよ。ご亭主が身体もっと悪くしちまったら、なおさらデキなくなっちまうじゃねーか。」
「…エラそうに言ってるけど、あなたはどうなのよ。ヤり出すと必ず三日はシ続けて。新助さん、終いに腎虚になっちゃうわよ?」
「だいじょぶさ。うちの人はあたしの血に当たってんだから。ものすごいたくましいんだよ?それに誰よりあたしをかわいがってくれてねぇ…」
「…またのろ気…」
「え?なに?」
「いや、なんでもないわ。」
櫟はあわてて首を振り、無理に話題を変えた。
「で、でも本当に凄いわね。今じゃ献上品はあなたが一手に引き受けだもんね。ここもすごい繁盛したわね。」
「いえいえ、櫟さんのお店こそたいへん繁盛の様子で結構です。」
「ええ、お陰さまで桜の織物もこっちに回してもらって、儲けさせてもらってますわ。」
『やっぱりお世話して良かったわ。おかげでうちもほくほくだもんね。』
櫟は、珍しいウシオニの桜と繋がりを持てば必ず旦那の店の為になると踏んで新助夫婦になにくれとなく世話をしたのだが、思惑はまんまと図に当たり『さすがは福の神』と旦那にとても褒められた。稲荷の勘は伊達ではない。
「実は今度さる筋から、到来の異国の着物を手に入れましたが見てみますか?」
「もちろんよ。新しい商売物になるかもしれないしね。」
「是非見せておくんなんし。」
新助は手を叩くと女中に箱を持ってこさせた。
「これは向こうの蜘蛛さんが作った衣服だそうです。なんでもお屋敷の女中さんが着るものだそうで。」
取り出された衣服に櫟と白糸は驚いた。
「…こんなに袖も丈も短くちゃ、まるで尻っぱしょりの若い衆みたいに二の腕も足もまる出し。アソコだってすぐ見えちゃうわね。普段隠してるからこそ、見せると旦那がその気になると思うんだけどなぁ…」
「勤め最中のわちきたちならいざ知らず、ご亭主以外にまで媚び売るような真似は感心できんせん。」
「なんでも本当は丈が長いもんだそうですが、こいつはご亭主を枕に誘う為のものだそうです。」
「うーん。でもやっぱりやりすぎだと思うなぁ…」
「まあ、のぞき代わりにでもいたしやすんでありんしょう。」
この国には腰巻以外に女の下着は無い。異国の下穿きの事はこの場の誰も知らないのだ。
「やっぱり向こうでも蜘蛛さんはご亭主に着物を縫ってあげているんざましょうか。」
「そのように聞いています。でもあちらの蜘蛛さんはきつい性質ばかりで、糸で縛りつけてはご亭主が嫌がるのを見て楽しむそうで。」
「いけねえなぁ。大事な亭主をそんな目にあわせるなんざ感心できねえなぁ。」
黙っていた桜が口をはさんだ。
「…あなたウシオニなのに余所のことが言えるの?」
「あたしは最初にこの人に負けちまったから、もうそんな料簡はないよ。でもあたしだって蜘蛛のはしくれ。うちの人に着物縫ってあげたいんだけど、この手じゃさすがに針は持てなくてねぇ…」
桜は無骨な爪のついた手を眺めた。さんざん苦労して箸で物をつかむ事は出来るようになったが、細い針はどうしても手に合わないのだ。
「その心だけで私は十分だ。おまえにそこまで思われている私は世に二人とない果報者だ。」
「あんた…」
「…あの、わたしたちそろそろお暇を…」
人目を憚らない二人にいたたまれず、櫟は座を立とうとした。
「まあまあ。今日は無事に納品が済んだ祝いに振る舞いをしますからゆっくりしていって下さいな。」
桜は障子越しに台所の方角へ声を掛けた。
「おーい。横町の豆腐屋からあぶらげは届いてるかい?」
「はーい。届いておりまーす。」
「なら料理拵えはじめとくれ。」
「はーい。」
「じゃあ着替えたらあたしも支度に掛かるよ。あんた、手伝っとくれ。」
「ああ。」
桜の着替えを手伝うのは新助の特権となっている。五つ紋の留袖から普段着の木綿物に代えて、前だれに半だすきをした。
「さーて、忙しくなるぞぉ。」
「わたしも手伝うわ。」
「わちきも手伝いやす。」
姉さん被りをしながら、三人で台所に向う。女中たちはもう忙しく立ち働いていた。
「祝いの料理だ。いっぱい作らなくちゃ。櫟の好きな稲荷寿司や赤飯もたくさん拵えなきゃね。」
「いつもいつもありがとう。白状すると、それが目当てで今日来たんだけどね。」
片目をつぶって舌を少し出して櫟は照れた。
山にいる頃は鹿や猪を殴り倒してただ食べる事しか知らなかった桜だったが、道中する中で様ざまな料理を口にして、そのおいしさにいつも驚いていた。
エドに来てから櫟が旦那に手料理を作って喜ばれているのを、お呼ばれで見ていた桜は『料理がしてみたい』と櫟に頼んだ。ならばまず魚を切ってみようと櫟に言われて、まな板に向ったもののどうしていいか分からず、猪を倒した時のように渾身の力で包丁を振り下ろした桜は、魚ではなくまな板を真っ二つにしてしまったのだ。噂に聞いていたウシオニの怪力を目の当たりにして驚いた櫟だったが、ならばと先にお手本を見せると今度は桜も上手く魚を下ろす事ができた。手料理を出すと新助がとても喜んでくれたので、それからは様ざまな料理を櫟から教わった。今ではもう誰に出しても恥ずかしくない味自慢にまでなっている。
「ほんとに、あの時は驚いたわ。包丁まで折っちゃったんだもんね。」
「止せよ!あの時は加減がわかんなくって力任せにやっちまったんだから!」
鯛を焼きながら櫟がからかうと刺身を作っていた桜は緑の顔を赤くした。どんどん料理が出来ていく。
「白糸。後で重箱に料理を詰めておくから、ご亭主へおみやに持ってってあげな。」
「ありがとうござんす。」
すっかり料理が出来上がって膳が広間に並んだ頃、商用で遅くなった櫟の旦那もようやくやって来た。普段着に着替えた新助が出迎える。
「お出でなさいまし。」
「おや、旦那自らのお出迎え、傷み入ります。」
「とんでもない。今の栄華も全て貴方のお陰。これくらいは致しませんと。」
「いえいえ、おかみさんのお陰で私どもも繁盛。御礼はこちらから申さねばなりません。」
「すべては女房のお陰です。まったく『かかあ大明神』ですな。」
「私どもは『稲荷大明神』ですがね。」
亭主たちは笑い合った。祝いの宴席は夜遅くまで続いた。

◆◆◆◆◆◆◆◆

「じゃあ、みんな楽しんできなさい。」
「ゆっくりしてきな。あたしたちも羽根を伸ばすから。」
「ありがとうございます。」
「では、おかみさん。お楽しみに。」
「おいおい。」
今日は正月十六日。やぶ入りの日だ。盆と並んで年に二度の奉公人たちの屋取りの日だが、新助はしばらく店を休みにして桜との逢瀬をゆっくり楽しむのが決めになっている。おかげで奉公人はよそでは一日しかない屋取りが長くなって喜んでいる。
すっかりみんなを送り出した後、新助は門口を固く閉まりをすると桜の手を引いて夫婦の寝間へ向かう。
寝間は蔵座敷である。いったん二人が交わり出すと何日もあえぎ声が続いて近隣が眠れなくなってしまうので、店を建てた時に厳重に作らせた。三方は漆喰壁に厚い床板。次の間を二つ続けて作って、声がしても外には簡単に漏れないようにしてある。
入って蔵の扉に中から錠を掛けて、襖も閉て切る。夫婦はようやく二人きりになった。
いったん始まれば寝食も忘れて睦み合うので、ここには布団以外の物はない。当然燭台も行灯もない。もっとも暗いままでは夜昼も判らなくなってしまうので、普通かまどの煙出しにする引き窓を明り取りに屋根に付けてある。もちろん用心に格子を付け、雨雪が降りこまないよう片側屋根がかけてはあるが。
いや、何も無いというのは誤りだ。床の間には漆塗りの衣桁と帯掛に、あの金襴の着物と帯が飾ってある。新助はどんなに忙しくとも、毎日ここへ来ては感謝を込めて手を合わせている。今日は桜と二人で手を合わせる。
『あのお侍はきっと神様に違いない。あの時下された物のおかげで、この身の今がある。だが何よりもって感謝せねばならぬのは、こんな良い女房を授けて下さった事だ。有難い事だ。』
「ね、あんた…」
「ああ。」
待ち切れないのは桜だけではない。すぐに帯を解いて襦袢だけになる。敷いてある別誂えの大布団は桜が寝ても十分な大きさである。
「まったく。注文の数が多くて、ずーっと機に向いっぱなし。くたびれて寝ちまったり、日に一ぺんこっ切りっかデきなかったりしてヤんなっちまったよ。」
もちろん妖怪の、しかもウシオニの桜に本来疲れなどある訳はないが、今や桜の織物を持つのが世間への自慢となっていて、大名は元よりエドは愚かキョウトやオオザカの富商も金に糸目をつけずに注文してくる。桜は持ち前の体力で仕事をこなしてはいたが、どんなに仕事が詰まっていようと新助と睦み合う事だけは怠らなかった。だが、やはり物足りなかったらしい。
「まあまあ、今日からは存分逢瀬を楽しもう。」
「えへへ。覚悟しろよ?あんたのが空になるまでしぼり取ってやるからね。」
「おまえの身体も堪能させてもらうよ。」
「それに、もう一つあんだよ…」
「なんだい?」
「…早く子ども欲しいんだ。」
妖怪との間に子ができるのには時が要るという。だから『三年添って子無きを去るべし』等という言葉は妖怪の間では言われないで済んでいるが、子供が欲しいのは新助も同じだ。
「そうか!私たちのような夫婦には必ず娘が産まれるらしいが、桜の娘なんだから『小桜』だな。」
「小桜…とってもいい名前だ。早く抱いてみたいよ…」
「ああ…」
二人はお祭りを始めた。
「ん…」
「んんっ…んっ…んんん…」
舌を絡め合い、互いの口中を貪る。もう襦袢の腰紐を解くのももどかしく、桜の肌に舌を這わせる。
「あうっ!ああん!」
模様のように生えた黒い毛の生えた場所は攻め所だ。執拗に指と舌を這わせる。
「ああ…だめ…」
「本当に感じ易いな。今に始まったことではないが、おまえはやっぱり淫らだな。」
「い、いやかい?こんなあたし…」
「いや、大好きだ。」
「あんた…」
襦袢をかなぐり捨てると、新助は桜をあおむけにして乗り掛かる。再び口を吸い合う。
「んんんんっ…」
桜のソコをまさぐると既に濡れそぼっていた。我慢も限界だ。一瞬でも早く桜の中に入りたい。既に新助の物ははち切れんばかりに立ち上がって、桜の腹を押している。
「は、はやくおくれ…あんたの…」
桜が苦しそうにうめく。
言うにや及ぶ。ずぶりと一気に突き立てる。
「ああっ!!」
ふと桜の髪の赤い櫛がちらりと目に入る。あの長い道中でも、そして例えどんなに激しく動こうとも、この櫛は新助か桜が自ら抜かない限り桜の髪から外れなかった。やはり神の力に相違無い…腰を大きく動かしながらもそんなことを考える。
「あっ!!あう!あっ!」
どんなに貪ろうとも毎回新しい快感を与えてくる桜の肢体。汲めども尽きぬ甘露の泉か、ないしは愛欲の淵にどこまでも沈んでいくのか。
「ああぅ!」
新助はなおも腰を打ち付け続けた。
「さくら、さくらっ…」
「あっ!!あう!あっ!あっ!」
そろそろ限界…
「うっ…」
「ああああ…」
どくっ!!どくっ!どくっ!どくっ!どくっ!どくっ!…
最初の精を桜の中に放つ。
「はあ、はあ、はっ…今度は、あたしが上だよ…」
「ああ…、はあ、はぁ…」
快楽を求めて代わる代わる腰を振る。犯し犯されて、何所までが自分の身体か分からなくなる程に絡み合い睦み合う。
昼夜分かたぬまぐ合いも、五日目の深更に双方の気絶でようやく一段落となった。

雀の鳴き声がしている。おそらく明り取りの引き窓にとまって鳴いているのだろう。新助は気だるさから少しづつ浮かび上がった。少し肌寒い。そう言えば春だというのにまた雪が降りそうだと近所が噂していた。
目を開けると前にあるのは愛しい女房の顔。改めてつくづくと見ると本当に美しい。稲荷の櫟もジョロウグモの白糸もとても美しい顔立ちだが、桜には及ばない。伝え聞く昔の美人『ソトオリヒメ』とはこのようでもあったのだろうか…
「…ん?」
「起きたかい?」
「な、なんだよ。あたしの顔になんか付いてんのかい?」
間近からじっと見つめてくる夫の視線に桜の意識は一気に覚醒した。
「いや。こんな美しい女房を持った自分は幸せ者だと思っていたのさ。」
「なっ、何言ってんだよ!こっ恥ずかしい…」
「天下広しと言えど、こんな立派な女房を持った者は誰一人としていないだろう。強くて、やさしくて、仕事も出来る。いつも思うが、おまえは私には過ぎた女房だ。」
「…みんなあんたに気に入られたいからさ。あたしはあんたがいてくれなきゃダメなんだ。なんにも知らないでたった一人山奥にいたころにはもう戻れやしない。もしあんたに何かあったら、あたしだって生きちゃいないよ。」
「心差しは嬉しいが、どんな傷だってすぐに治ってしまうおまえがそんな…」
「なぁに。あんたがいなけりゃ、もう精をくれる相手がいないんだ。生きてなんかいけないよ。いや、きっとあんたがいなくなったというだけで、あたしそのまま死んじまうだろうな。」
新助は桜の頬を両手で包んだ。
「…私にとって天にも地にも代え難いおまえに、そんな思いをさせたくない。何時いつまでも共に仲良く暮らそう。」
「あんた…」
「おまえ…」
どちらからとも無く顔を近付け合う。口を吸い合うと胸がほわっと暖かくなる。
「ねぇ、あんた。」
「なんだい?」
「あたし、すっごい幸せだよ。」
「私もだ。」
二人は差し込む朝日の中、しっかりと抱き合った。
引き窓から牡丹雪がふわりとひとひら舞い込んできた。


桜はこの後も美しい織物を作り続けたが、その値は天井知らずとなり『端切れ三寸金一両、反物一反家一つ』と言われる程にまでになった。やがて念願の子も授かり『小桜』と名付けた二人は、娘共々永く幸せに暮らしたという。
14/06/17 00:47更新 / 平 地貞
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■作者メッセージ
東西ぃー。まず今回はこれ切り〜。

やや手間取りましたが、このように話が落ち着きました。いかがでしたでしょうか。なお途中で皆が見ている洋服はミニのメイド服です。
ここまでご精読下さった方、評価を頂いた方、コメントを下さった方、改めてお礼申し上げます。
ありがとうございます。

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